○筆坂秀世君 私は、
日本共産党を代表して、
日の丸・
君が代を
国旗・
国歌とする
法案について、
総理に
質問いたします。
まず、ただしたいことは、
政府が言う
国民的定着論についてであります。
言うまでもなく、今問われているのは
日の丸・
君が代を
国旗・
国歌として今
国会で
法制化すべきか否かです。この点で、
法案が
国会に
提出されて以降どうでしょう。
法制化に反対する声は日増しに高まり、先日も学者、
文化人、宗教者等々、広範な人々の呼びかけによる
日の丸・
君が代法制化反対の一点での共同による大集会が行われました。
今
国会での
法制化について、国論が二分していることは
世論調査でも明瞭であります。中でも特徴的なことの第一は、
論議すればするほど反対の声が広がっていることであります。JNNの調査では、この四カ月間に反対と賛成が逆転し、反対が賛成を約一〇ポイントも上回りました。
第二に、今
国会での成立を急がず
議論を尽くせというのが、朝日新聞の六六%を筆頭にほとんどの調査で多数を占めています。衆議院の公聴会、参考人質疑では、賛成十七人、反対十三人、慎重
意見二人と賛否は完全に分かれました。政党を見ても、党として賛成したのは自
自公三党だけであります。
総理、これでも今
国会での
法制化について国論は二分していないと言うのですか。
日の丸・
君が代には、いずれも一
世紀前後の長きにわたって
国民に
国旗・
国歌だとして押しつけてきた
歴史があります。それでもなお国論が二分しているのは、これが
憲法の
主権在民とは相入れないこと、また、侵略戦争の旗印とされてきたという独特の負の
歴史と
意味を持っているからであります。
日の丸・
君が代が戦争したわけではないなどという
議論がありますが、旗や歌が直接戦争をするわけがないのは当然です。問題の核心は、
日の丸・
君が代が侵略戦争に
国民を動員するために使われ、敵の城に
日の丸の旗が高く翻りましたと戦時中の
教科書に書かれたように、侵略の旗印になっただけにとどまらず、
君が代を
国歌にするような国だったというところにこそあります。
総理も
答弁したように、
君が代は大
日本帝国
憲法の精神でつくられたものであり、
天皇を絶対の統治者とする体制に最もふさわしい歌として
意味づけられました。実際、
天皇主権の体制とは、戦争権限から立法、行政、司法に至るまであらゆる権力を
天皇が一身に握る体制であり、
国民を無権利状態に置くことと一対のものでありました。だからこそ、
天皇の決定だけで侵略戦争という
歴史的誤りを犯したのであります。
ところが、
政府の新
解釈でも、「君」は
天皇、「代」は国だというのですから、
日本は
天皇の国ということになり、
天皇主権や大
日本帝国
憲法にこそふさわしい歌としての本質に変わりはないということになるではありませんか。
戦後、
日本国憲法はこの体制を厳しく退け、その前文で「
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやう」「
主権が
国民に存する」ことを明記しました。
主権在民の原則は戦争放棄など恒久平和の原則と強固に結びついた
憲法の骨格であり、
天皇の国や
天皇主権とは対極に位置するものではありませんか。
また、
政府は、
国旗・
国歌は
外国からも敬意を表されるものと言ってきました。しかし、
日の丸を掲げて侵略され、
君が代を無理やり歌わされたアジア諸国の人たちはどう受けとめるでしょう。現に、アジア各国のマスコミは厳しい批判の声を上げ、ある有力紙は、
日の丸・
君が代は国内的には絶対君主制のシンボルであり、対外的には侵略と戦争の
象徴であると書きました。それでも
総理はアジア諸
国民が
日の丸・
君が代に心底敬意を表すると思うのですか。明確な
答弁を求めます。
政府は、
教育現場での反対論に
法的根拠がないという
議論があることを取り上げ、
法制化によって
法的根拠ができ、問題は解決すると言います。しかし、
議論抜きの
法制化によって、
日の丸・
君が代は
国旗・
国歌にふさわしくないという
意見も、押しつけ、強制はやめるべきだという抵抗も決して押しつぶすことはできません。それとも、異論や押しつけ、強制に反対する声を一切問答無用で封殺するつもりですか。そうでないというなら、
法制化が
教育現場で起きている問題の前向きの解決にどう役立つというのですか。
日本国憲法第十九条は、思想、良心の自由、いわゆる内心の自由を厳格に保障しています。
政府は、
学習指導要領に基づく
指導は
教育上の
指導であり、内心の自由の侵害に当たらないと答えてきました。しかし、問題になるのは、
国旗・
国歌の一般的
意味合いを教えることではありません。
卒業式や
入学式で
国旗掲揚、
国歌斉唱という形で一律に義務づけるというやり方であります。
その人が何を
考えているか、その
考えを表明するか否かは、これは全くの自由です。「註解
日本国憲法」は、「自己がいかなる思想を抱懐するかにつき、これを口外し又は沈黙する自由が認められる」として、内心の自由には沈黙の自由があることを明快に指摘し、
政府もこれを認めました。
日本国憲法が内心の自由を厳しく保障したのはゆえなきことではありません。本来侵すことが不可能な思想、良心の自由を侵してきた
歴史が
天皇主権のもとでの
日本にはあったからであります。それが思想まで厳罰に付した治安維持法でした。ところが、
国旗掲揚、
国歌斉唱を一律に義務づける
指導は、起立しない、斉唱したくない等々、その人の思想や
考えをその行動によって表明させることになり、事実上の踏み絵を踏ませることになるのです。これが沈黙の自由とどう両立するというのですか。
しかも、看過できないことは、一部の
議員らから、
日の丸・
君が代に異論を唱える人を異端者と呼んだり、敬意を払うのは
日本人なら当然などという、およそ
歴史の進歩を見ようとしない
時代錯誤の
発言が公然となされていることであります。
ここには内心の自由を保障しようという立場はみじんもありません。
総理も同様の立場に立つのですか。そうでないのなら、
教育現場への義務づけ、強制は直ちにやめるべきであります。
総理の
答弁を求めます。
国旗への敬礼強制は、良心の自由に対する侵犯だとして、アメリカのバーネット事件判決は、強制的に反対を除去しようとする人々は、やがて反対者を絶滅させようとしていることに気づくであろう、
意見の強制的な統一は墓場への統一をもたらすにすぎないと指摘し、
国旗への敬礼強制が自由と民主主義の原理と相入れないことを断罪しました。
政府のやり方はまさに強制的統一であり、こうしたやり方は
君が代・
日の丸に、
主権在民に反すること、侵略戦争と重なり合うことというだけでなく、数の暴力で強制的統一を図ろうとしたという三つ目の汚点をつけ加えることになるでしょう。
日本共産党は、この問題で二つの提案を行ってきました。第一は、十分な
国民的討論と合意の上で、今の
日本にふさわしい
国旗と
国歌を
法制化しよう。第二は、仮に
法制化しても、
国民にも、ましてや
学校教育での押しつけ、強制は絶対に行わないというものであります。この提案の
最大の眼目は、押しつけ、強制とそれへの抵抗という閉塞的な対立状態を解消し、
国民的解決を図ろうという点にあります。幸い、今活発な
国民的討論が始まっています。
国旗・
国歌をどうするか、
日本の
歴史上初めての
主権者
国民による討論であります。
国旗・
国歌の問題をまじめに
考える政党であれば、この討論は本来歓迎し、喜ぶべきことであります。
これを忌避しようという
政府は、
国民的討論にさらされることに何か不都合でもあるというのでしょうか。しかし、たとえ数の力で
日の丸・
君が代の
法制化を強行しても、この
国民的討論の
流れを押しとどめることはできないでしょう。
日本共産党は、本
法案の廃案を目指すとともに、この
国民的討論に積極的に加わり、今の
日本にふさわしい
国旗・
国歌を
国民合意でつくり上げるため全力を尽くす
決意を述べ、
質問を終わります。(
拍手)
〔
国務大臣小渕恵三君
登壇、
拍手〕