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参考人(
佐藤幸治君) 京都大学の
佐藤でございます。
司法制度改革審議会設置法案につきまして
意見を述べる機会を与えていただきましたことを大変光栄に存ずる次第です。
私の専門は憲法学でありますけれども、かねて、いろんな
意味において
日本の
社会に
司法のプレゼンスの増大を図る必要があるというように思ってまいりました。それからまた、平成八年十一月より
行政改革会議の
委員として審議に参画する機会がございましたが、
司法改革の必要について一層強く感ずるところがございました。それだけに、今や
司法改革が具体的な政治日程にのってきたことを
本当にうれしく存ずる次第でございます。
まず、何ゆえに
司法改革なのか、
司法改革の目的とは一体何なのかということについて、最初に所感を述べたいと存じます。
第一に、個人の自律的生、オートノマスライフと申しますか、自律的生を支える
社会システムとして
司法、この場合、先ほどの
木佐参考人の御
意見にもありましたけれども、
司法というときには
弁護士も含めて広く理解しておりますが、この
司法が
国民の身近にあって、
国民の生活上の需要に容易にこたえ得るような形になる必要があるということであります。
行政改革会議の最終報告、これは平成九年の十二月に出ておりますけれども、この最終報告でこういうことをうたっているところであります。「われわれの取り組むべき
行政改革は、もはや局部的
改革にとどまり得ず、
日本の
国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う
行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、
国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換することに結び付くものでなければならない。」、こういうように最終報告ではうたっておりますが、まさにこの課題にかかわる
社会システムの整備ということが第一の目的だというように存じます。
第二に、生き生きとした抑制・均衡の
システムを確立する必要がある、チェック・アンド・バランスの
システムを確立する必要があるということであります。同じく最終報告は、「内閣
機能強化に当たっての留意事項」としまして、「
日本国憲法のよって立つ権力分立ないし抑制・均衡の
システムに対する適正な配慮を伴わなければならない。」というように述べまして、「
司法との関係では、「法の支配」の拡充発展を図るための積極的措置を講ずる必要がある。」というように述べているところであります。
第三に、
司法改革の目的として、グローバル化する国際
社会に対応した国家のあり方あるいは
国民の生活の態勢を整える上で
司法がもっと大きな
役割を果たすことができるようにするということが必要であるということであります。国際
社会が実体、サブスタンスを持ち始めまして、国際
社会におけるルールづくりが非常に重要になってまいりました。それからまた、例えばWTOが誕生しましてガット時代に比べて
紛争処理の仕組みがより整備されてきております。つまり、国際
社会においてルールをつくる、あるいはルールを有効に使うということが重要になってきているということであります。
こうした事態への対応は、政府も重要ですけれども、もはや政府だけでなし得るところではなくて、
国民各層における積極的、能動的な生き方が求められているということだろうと思います。そうした
国民の生き方を支える有力な基盤の
一つが
司法あるいは
法曹であるというように思うわけであります。ちなみに人口で六・七%にすぎない英米などのコモン・ロー系先進英語国の
弁護士総数が全世界の
弁護士総数の約七七%を占めているという説があります。
二十一世紀に向けて一体我々はどのような
社会を築き、どのような
社会で生きようとするのかということにつきましては、さまざまな考え方があり得るかと思います。ただ、私の専門の憲法学の立場から
日本国憲法に引き寄せて言えば、憲法十三条を出発点とすべきだというように考えております。十三条は
日本国憲法の理念的基石、土台とも言うべきものだと理解しておりますが、この規定はこういうように定めております。「すべて
国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する
国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、
立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」というように定めております。
私流に言えば、既に示唆しましたように、自律的個人を基礎とする自由で公正な
社会、これが憲法が想定している我々の目指す
社会であるということであります。そして、こうした
社会を具体的に創出し維持していくもの、これが
国民主権、私流の言い方をすると政治のフォーラムということになりますが、そしてまた法の支配、私流の言い方をすると法原理のフォーラムということになりますが、この
国民主権と法の支配であるというように考えるものであります。
ここで、法の支配について一言述べておきたいと思います。
法の支配といいましても、一義的ではありません。広狭さまざまに使われます。また、法治国家と同義的に観念されることも少なくありません。ただ、
社会の秩序形成観という観点から見ますと、ドイツ的な法治国家は
日本が戦前明治憲法下で非常に大きな影響を受けた考え方でありますが、ドイツ的な法治国家は体系的、演繹的な思考傾向、比喩的に言えば上からの発想の産物なのに対して、英米的な法の支配は経験主義的、帰納主義的な思考傾向、比喩的に言えば下からの発想の産物であるように思われます。つまり、法の支配は体系的、演繹的な思考の限界を重視し、
事件、争訟の
当事者が適正な手続のもとで対等な立場で真剣に争う、そういう
司法の場において経験的に形成される法というものへの信頼を内実としているということであります。そういう法が個人の権利、自由の保全にとって重要だという認識であります。自律的個人が主体的に努力して相互の共生を図る、それを議会、政府と並んで
司法が独自の手助けをする、そういう構図であります。
いささか抽象的な話になりましたけれども、
日本国憲法発足当初、法の支配の意義が強調されたものであります。例えば、戦前の
行政裁判所を廃止して
行政事件の
裁判も
司法権に含まれるとされたのは、その結果であります。しかし、やがて法の支配は余り言われなくなり、先ほどの
木佐参考人の御
意見ですが、小さな
司法のままに打ち過ごす一方、
国民の
行政への依存体質は変わらず、あるいはむしろ強まっていきました。そして、
行政の肥大化、硬直化を帰結したというように思われるのであります。ここに
行政改革が必要になった根本的な理由があり、また、
司法改革を推進しなければならない背景があるというように考えます。国家の減量を図り、政府の統治能力の質を高めなければならないと同時に、個人の自律的生を助ける
司法、
国民の身近にあって利用しやすく、かつ頼りがいのある
司法とするために相当思い切った人的、
制度的整備を図る必要があるというように思います。
こうした
司法とするためには、何よりも
司法の容量の拡充、
法曹人口の増大が必要であるということにつきましては、広範な共通の認識が既にあるかと思います。問題は、どのぐらいの規模なのか、どのようなテンポと
方法で増員を図るのかということにあるように思われます。この問題こそ
審議会で検討さるべき重要課題の
一つかというように思いますが、検討に際しては次のような視点を大事にしていただきたいというように思っております。
まず、現在の需要を前提とするのではなくて需要を掘り起こすという視点、それから
法曹は
市民社会でどのような
役割を果たすべきかという視点、次にいわゆる
法曹一元制の実現を視野に入れるとすればそれを可能にするためにはどのような規模かという、その可能にするという視点、それから
法曹養成、とりわけ大学教育と関連づける視点、それから最後に
国内事情だけではなくてグローバル化という国際事情も対象にするという視点等々の視点を大事にしていただきたいというように思っております。ちなみに、WTOの次期ラウンドでプロフェッショナルサービスの貿易
自由化問題が取り上げられるようでありますが、その辺も気になるところであります。
先ほど言及しましたけれども、
司法機能強化のための基盤的
制度設計の問題として、いわゆる
法曹一元制の問題があります。昭和三十七年発足の
臨時司法制度調査会では、御承知のように
法曹一元の問題を審議事項の
一つと掲げましたけれども、結局のところ
法曹一元を
一つの望ましい
制度としながらもいまだその
条件は整っていないと結論しました。今度の
審議会はこの問題をどのように扱うのか、もしその実現を目標とするのであればその
条件整備の具体的プランをどのように描くのかということが非常に重要な事柄であるというように思います。
司法が
国民の身近にあって利用しやすく、しかも頼りがいのあるものにするための
制度的工夫としてはさまざまなものが考えられます。
民事訴訟法は改正されたばかりですが、
訴訟制度は
国民が使いやすく
本当に
国民の
利益になっているのか、あるいは
司法サービスは
ADRを含めれば多様なものが考えられますけれども、どのような選択可能な多様なサービスを用意するのか、また
国民の選択を容易にするためのどのような情報提供の仕組みを考えるのか、あるいは実効的な
救済、
正義の実現という面で
現行法は十分か等々の課題があります。
法律扶助制度の格段の拡充の必要があるということについては既に広く承認されているところであります。
ところで、
正義は所与、ギブンなものではなく、天から降ってくるものではありません。矢口洪一元最高
裁判所長官は、戦前の
陪審制の不振は、「
国民の「お上」依存の体質に起因したのではないか」として、さらに、「西欧人は己を頼み、
訴訟において攻防に全力をつくすが、その上は神の御心にまかせる心情を持つのに対し、
日本人はともすると人頼みで、客観的に存在すると考えている好都合な結果のみを求める心情になりがちである」というように述べられたことがあります。
陪審制あるいは参審制の問題も、こうした観点から検討するに値するように思われます。
先ほど、グローバル化する国際
社会において、ルールをつくる、ルールを有効に使うことが大事で、
日本、
日本国民は積極的、能動的に生きる
姿勢が求められているというように申しました。そうした
姿勢を我々の内にはぐくむ上でも、
陪審制等の問題も検討に値するものというように思う次第であります。
最後に、
法曹養成と大学の問題に触れておきたいと思います。
既に述べましたように、
法曹人口の大幅な増員を考えるとしますと、従来のような
司法研修
制度のあり方では対応できないことは明らかであります。結論的に申せば、
法曹人口の大幅な増員を視野に入れつつ、その養成の主要な担い手はどこになるべきかといえば、やはり大学とならざるを得ないというように思います。
もとより、現在の大学がその担い手となり得るというように考えているのではありません。むしろ、現在の大学における法学教育はリベラルアーツの面でも不徹底、法学専門教育の面でも不徹底、まことに中途半端な危機的状況にあるというように私は思っております。そして、
司法試験を目指す学生は、高校時代の予備校通いの延長のように入学早々
司法試験に予備校通いをする気配があります。
司法試験の
合格率は二%前後、かつては一・五九%でありました。平成十年は二・六六%になっておりますが、そういう状況であり、六回、七回と受けないと通らないということになりますと、受験技術を教える予備校通いをすることを一概に批判できないものがあります。
自然科学者である江崎玲於奈氏は、
日本の大学はクリエーティブインディビジュアルを育てられなかったのではないかとして、その原因の一端をリベラルアーツ軽視に求められております。
法曹養成にとってもリベラルアーツの重要性は幾ら強調しても強調し過ぎるということはありません。それは青年の自己発見の機会として、それからまた現在ある実定法を広く外から見詰める目を養う
意味において、リベラルアーツは極めて重要だと思います。
時間の関係で結論的に申します。
いわゆる法学部は、法学、政治学を中心として広く歴史学や経済学、哲学等を学ばせ、またネーティブスピーカーによる語学教育を重視する、そういう基礎教養教育を行う場としてはどうか。そして、大学院の三年間のコースにおいて法学専門教育を施す。そこでは体系的、理論的知識の習得に加えて、問題発見能力、具体的適用能力、帰納的総合能力、対話的能力を身につけさせるようにするということであります。こうした教育の過程を重視し、
司法試験のあり方もそれにふさわしいものを考えたらどうかというように思っている次第です。
日本は今まで、大学教育の場では、あるいは大学教育の場でもと申すべきかもしれませんが、安上がりの大量生産を追求してきたように思います。それはそれでプラス面もあったと思いますけれども、今日我々が直面している諸困難は、そのマイナス面のツケを払わされている結果であるように思われてなりません。明治維新の時代の指導者が考えたように、今こそ人を育てることに知力、財力を惜しまずに注ぐべきではないかというように思っている次第であります。
以上でとりあえずは私の
意見とさせていただきます。
どうもありがとうございました。