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参考人(崔
善愛君) 私は、大阪で生まれ、北九州で育ち、現在横浜に住む在日三世です。在日三世というふうに申し上げてもぴんとこないかもしれませんけれ
ども、私の場合は、例えば
自分の崔
善愛というこの名前を正しく韓国語で発音することができません。留学したときに、韓国から来た
留学生に私の名前は崔
善愛というふうに言ったときに、韓国の学生は崔
善愛というふうに、要するに私の名前は通じませんでした。それほどまでに私が
日本人になってしまったということをこれからお話ししたいと思います。
私は、
指紋押捺
拒否を理由に不本意にも協定永住を奪われました。その経過をこの場でお話しすることにより、在日の
永住者の脅かされた
状況を知っていただき、御理解をいただいた上で、外登法、出
入国管理法、再
入国制度そのものの必要性を見直していただきたい。そして、できることなら私の持っていた永住権を行政の力で
原状回復することができればという願いを持って、きょうここに座っています。
私は、十四歳のとき、初めて
外国人登録をするために区役所に行きました。区役所の表の窓口から奥に入り、隠れるように通され、黒いインクを左手人さし指につけ、ゆっくりぐるりと回してと言われながら押しました。そして、わら半紙のようなものを渡され、これでふいて帰ってくださいと言われたとき、今まで朝鮮人という
言葉からくるものが何なのか漠然としていましたが、その正体を見たような気がしたのです。
当時、中学二年だった私は、
拒否するなどという大それたことは思いもしませんでした。ただ、私はこの国でマイナスの存在なんだということを受け入れ、あきらめることが大人になることだと思っていました。ただ私なりに一生懸命まじめに生きていけば、そのことで認めてもらえるに違いないというふうに思うようにしました。そして、地元の中学、高校では生徒会会長や学級
委員長、ボランティア活動を行い、
日本人の友人、
先生方から信頼され、充実した学生生活を送りました。また、四歳のときから始めたピアノの演奏家になるために、希望の芸術
大学に入ることもできました。
二十になったころ、
大学のある友人に部落出身であるということを打ち明けられました。だれにも言えず一人悩む姿を見たとき、どうして部落という何百年も前につくられた
制度で私よりも若いその人が今も悩み苦しんでいるのか、私は強く憤りを覚えました。それと同時に、私
自身、このことについて何もしなかったということが悪い歴史を繰り返すことになっていることに気づき始めました。そのころ、十五歳の妹が初めての
外国人登録を前に
指紋を押さなければならないことを悩んでいるのを見ました。昔、私たちが生まれる前につくられた法によって、これからも生まれてくる幼い
子供たちが傷つき、何世代にもわたってこの苦しみを続けなければならないのでしょうか。
差別されることを受け入れ、あきらめることは、その差別を次の世代に引き継ぐことになり、できないと思い
拒否しました。裁判になることをためらっていたとき、ある
日本人の人に私たちのために闘ってくださいと言われ、踏み切りました。正直言って、私は人権運動といった闘争的なことは苦手でしたし、専門の音楽にもっと打ち込みたいと考えていた
大学時代に
法律違反をし、裁判で人の前で
指紋押捺
拒否の崔
善愛という看板を背負うことはかなり負担でした。
大学時代、ピアノ演奏家としてこれから立つためにどうしても留学したいと思っていました。専門の音楽は自己表現であり、また私は音楽の持つ力に私
自身励まされ、助けられてきました。そして、留学することで私は、
日本という小さな鏡の中で常に相反する者として存在する
自分のアイデンティティーを世界という大きな鏡で見詰め直したかったんだと思います。同じ種類の鳥の集まる鳥かごから出て空を飛んでみたくなったわけです。
しかし、
指紋押捺
拒否が広がる中で、
拒否者には再入国を許可しないという制裁措置がとられ始めました。留学を望む私に、父はこんなむちゃなことがいつまでも続くはずがないと言い、私はそれから数年間、父に会うと、いつになったら、いつまで待てば私は留学ができるのと父に当たりました。
とりあえず
大学院を修了し、
大学でピアノを教え始めましたが、二十五歳が過ぎ、私はこのまま留学を断念すべきか、
指紋を押して留学すべきか悩みました。そうしながら、TOEFLの試験を受け、世界的なピアニストにピアノのオーディションのテープを送りました。そして、米国インディアナ州立
大学アーティストディプロマに入学を許可されました。その通知を受け取ったときの喜びは今も忘れません。
私は、何としても留学したいと思い、
指紋を押そうと決意しました。協定永住を失うなんてそんな大それたこと、絶対にできないと思ったからです。しかし、夜一人ベッドに入り、
指紋を押す
自分の姿を想像すると、私は絶対にできないと思いました。頭ではもう十分にやったと
自分に言ってもやっぱりできないと思ったからです。
そうしている中で、再入国不許可で
アメリカの
ビザが果たしてとれるんだろうか、そしてそれがかなり難しいことに気づき始めました。再入国不許可の人に
ビザを出すのはまずあり得ないことでしょう。私はもう泣きそうでした。
再入国が不許可となり、
海外に行けないということは、この島に閉じ込められるということであり、出口のない部屋に閉じ込められるようなものなのです。
指紋を押すか、永住権をあきらめるかという選択をてんびんにかけさせられ、多くの一世は祖国に住む親兄弟に会うことや墓参りを断念させられました。また、
海外との関係の中で仕事を持つ者は仕事ができなくなり、私だけでなく多くの若者が
自分の人生の可能性を広げるための留学をあきらめ、そして母の死に目に会えないなど、その人たちの人生に与えた大きな影響を私はこの審議の中で見逃してほしくありません。
私は、入学許可書を持ち、再入国許可のないまま福岡の
アメリカ領事館に行きました。そして、領事本人と面接することになりました。領事は、あなたは
日本で生まれ育ち、家族も
日本にいるのですね、それでは
日本に帰れないはずがないと言い、
アメリカの
ビザを出してくれました。私は、この領事の
言葉を心の中で何度も繰り返す中、新幹線に乗り、緑美しい山々を見ながら、涙がとまりませんでした。それは、留学できるかもしれないという喜び以上に、私はもう
日本にどんな形で戻れるかわからないという悲しさでした。そして、友達は、どうしてあなたがそこまで追い詰められるのと言って泣きました。
一九八六年八月、出国する四日前に、福岡の橋本千尋弁護士に再入国不許可処分取り消し訴訟を起こして留学したいと電話すると、驚きと緊張した声で、わかりましたとおっしゃいました。
八月十一日、晴れて手にした
ビザを持ち、箱崎バスターミナル内の出国
手続のところに行くと、再入国不許可なのに
ビザを持つ私の
パスポートを見て、ここでは対応できないと言われました。成田空港に行くバスの中、私は出国することもできるかどうかわからないと思い始めました。
今まで私の前を何歩も先に歩いていた父の足はいつになく重く、私は彼の盾をいつもより必要としていました。
搭乗
手続を済ませ、友人二人と家族四人に別れを告げながらも、出国できないかもしれないと不安の中で出国
手続へのエスカレーターをおりるとき、父が私も行くからと言っておりてきました。
イミグレーションの人は、私の
パスポートを見るなり、中に入ってくださいと言いました。そして、電話帳くらいの分厚いもので私の名前を探していました。それは恐らく
指紋押捺
拒否者を含む犯罪者たちの名簿、ブラックリストのようなものと思われ、私の名前は確かにありました。そして、不許可のまま出国すると永住権がなくなりますが、いいですね。そのことを承諾する書類にサインをしてくださいと言いました。私が答える前に父は、承諾もしないし永住権がなくなることも認めない、訴えを起こして出国すると叫ぶわけでもなく答えていましたが、心中は怒りと悲しみと不安がまざっていたに違いありません。私はそんな場面を父の横に立って見ていました。そして、父に手を振り、別れました。
私は、これから
言葉のよく通じない国で勉強する不安と、帰国できるかどうかもわからない不安とで何も考えられない状態でした。
シカゴに着き、父に国際電話をかけました。父はこのときの私の声がとてもうれしそうで安心したと言っていました。離れていく人には目的があり前向きだけれ
ども、残された者の寂しさはひとしおだったように思います。父や母、家族にしてみれば、帰る保証のない娘を見送るのはつらかっただろうことが、
自分が親になった今ごろよくわかります。あのころは
自分を支えるのが精いっぱいでした。それにしても、一体全体どうしてこんなことになってしまったんでしょう。
留学して間もなく、初めてのお正月のとき、父が心筋梗塞で入院し、バイパスの難しい手術を受けると母から電話で聞きました。私は帰りたいと思いました。そう簡単には帰れないと思えば思うほど悲しくなりました。父はこれまで病気で入院したことなど一度もありませんでした。母は、帰りたい、帰るという私を明るい声で大丈夫だからと慰めてくれました。そのとき私には明かされませんでしたが、事態はかなり深刻でした。父は、遺言書を書き、死を覚悟しながら、夢の中で私の名前を呼び、うなされていたと聞きました。手術は無事終わりました。私はますます里心つきました。
出国のとき弁護士さんにお願いした裁判が福岡地裁で開始され、本人である私が不在のまま、私の送った
意見陳述を父が泣きながら代読しました。その陳述の中で私は、
日本がどんなに私を苦しめても、
日本の自然は私の感受性を育て私を育てた、
日本を愛することは
自分を愛することだと述べました。
日本にいた私は、いつも
日本という鏡に
自分を映し出し、その姿は醜いものでした。鏡がゆがんでいたことに気づきませんでした。だからこそ、
日本ではないところで
自分を見てみたかったのです。そして、
アメリカで見た
自分は、まさに
日本を愛し、
日本的な感受性を持つ
自分でした。
留学して二年たった八八年、帰国のためロサンゼルスからシンガポール・エアラインに搭乗
手続しようとしましたが、再入国不許可のため、搭乗を
拒否されました。そこで、ニューヨークの
日本大使館に行きました。旅行者としてどうぞという大使館の人の
言葉に、旅行者としてではなく居住者として帰国できないかと思案し、成田経由ソウル行きの大韓航空に七十二時間のトランジットで成田空港におりる道を選びました。ロサンゼルスから成田に着き、イミグレーションに行きました。窓口に行くと、崔さんですね、お待ちしていました、私たちはあなたのことで昨夜から一睡もしていませんと言われました。私は、確かにさまざまな人を巻き込んでしまいました。
別室での事情聴取は六時間以上にわたりました。そして、法務大臣から百八十日の特別
在留を許可するという連絡が届きました。私は生まれ育った
日本で
永住者から一転して新規入国者となってしまいました。私が
日本で生まれ育った三十年は消えてしまったのでしょうか。
その後、何度か百八十日から半年、半年から一年の特在を受け、今は三年の特別
在留を更新し続けています。更新のときはいつも申請後六カ月ほど待たされ、その間、私の
在留資格は申請中という判が押してあり、再入国を申請することもできず、
外国に行くこともできない不自由な
立場です。
申請するときには身元保証書が必要だと言われます。きょう、
資料としてお
手元にお配りしました中に、恐らく多くの方が身元保証書というのをごらんになったことがないかなと思い、入れてあります。それと私が以前持っていた永住許可書。それと、百八十日の
在留が出たその認定通知書とそれに対する異議申出書というそのコピーを挟んであります。その身元保証書が必要だと言われ、それには「一、滞在費 二、帰国旅費 三、
日本国法令の遵守」とあります。新規入国として、
日本に滞在する費用や韓国へ帰国する旅費を保証してくれる人がいなければ私は
日本にいることはできないことになり、
日本国法令を遵守しなければ韓国に強制送還されるかもしれないのでしょうか。
よく、そんなに
日本が嫌なら韓国に帰ればと知らない人から手紙をもらいます。私にとって帰る国は韓国ではなく
日本なのです。韓国には小学校のときと
大学のときそれぞれ二週間ほど行きましたが、そこは私のルーツとも言うべきところですが、もはや私の居場所はどこにもないのです。
昨年、国連人権
委員会から、国連人権規約中の自国に戻る
権利の自国は国籍国のみでなく居住国を含むという勧告があったと聞きましたが、勧告されるまでもなく、祖父母が住み、親が生き、
自分が生まれ育ち、私の
子供も暮らしている
日本は私にとって
自分の国ではないのでしょうか。
それでも私は
外国人なのでしょうか。私は、
アメリカでホエア・アー・ユー・フロムと聞かれると、アイム・フロム・ジャパンと答えます。そんな私の気持ちや
状況とは関係なく、
指紋押捺を
拒否すれば
外国に出さない、出れば永住権は失効し、新規入国者として扱われるというこの事態を私はどう納得すればよいのでしょうか。
八八年六月一日、私が留学からの帰国を予定していたその日に、外登
法改正により、十六歳に一回限り
指紋を押すとなり、一度押している者には再入国を許可することになりました。その数日後、私は留学から帰国しましたが、その時点で私は新規入国者扱いで、この
改正案は私には適用されませんでした。
指紋制度がなければ、私は再入国を得て、永住権を失うことはなかったでしょう。これから先、
指紋全廃の
改正がなされたとしても、私はひとり蚊帳の外に取り残されます。
人権というものは手にとって見えるものではなく、感じ取るものだと思います。傷つけた者には、目の前で血が流れるわけではないのでわかりにくいかもしれません。だからこそ、相手の身に
自分を置きかえて考えることが大切なのだと思います。
人が命を与えられ、生まれてみると、
日本人であったり韓国人であったりとさまざまな異なる条件を与えられ生まれてきます。また、その多様性は今日ますます複雑になってきています。だからこそ、人としての基本的な
権利が保障されることがとても大事なのでしょう。
世界じゅう、どこの国にも差別はあると思います。黒人同士、白人同士、そしてアジアの人もお互いに差別し合い、また差別された者も差別しないとは限りません。それが人の弱さでありネーチャーであるからこそ、法は善を行い平等を約束しなければならず、今こそそのことが必要なのだと痛感します。
もし、あるとき韓国が
日本を併合すると言い、あなたの名前が韓国の名前に変えられ韓国語を話すように強要されたとしたら、そして
日本の歌も歌えず韓国の歴史教育を強いられ、それが三十五年間続いたとしたら、生まれたばかりの子
どもが三十五歳になるまでそんな中で成長したらどうなるでしょうか。一九一〇年から四五年まで三十五年間に及んだ日韓併合とは私などの想像を超えるものだったと思います。日韓の二十世紀最悪の歴史の
一つではなかったでしょうか。
私たち戦後生まれの者は、体験していないことを想像することでしかその痛みに気づくことはできません。私もこの歴史の
意味がわからず、幼いころ、
自分の韓国の名前に誇りが持てず、恥ずかしい劣ったものだと思っていました。在日のほとんどの人が本名ではなく
日本名を名乗ろうとするのは、我が子をつらい目に遭わせたくないと思う親心や、
日本名にしないと仕事もなく生きていけないという
社会だからです。それでも、辛うじて韓国籍を維持することによって、何とか失われたプライドを取り戻そうとしているのだと思います。
象がネズミをかんでも、ネズミが象をかんでも、痛いのはネズミだけと言います。かんでもかまれても痛いなら、かまれて
自分を失うより、かんで
自分を取り戻したいと思い、多くの人がその人生と夢をかけ、あるいは夢を断念して
指紋を
拒否したのです。私の父も、
指紋押捺を
拒否したことにより、再入国が不許可になったばかりか
在留期間三年が一年に短縮されました。そして、そのまま四年前に亡くなりました。
私も、きょうここでこのような正直な
意見を述べることで、三年の
在留期間が理由を明らかにされることもなく一年に短縮されるのではないかという恐怖を持ちながら臨んでいます。これらの恐怖は在日すべての人が日常の中で感じているものです。私が
自分の人生をかけ
指紋を
拒否しみずからの夢を実現しようとしたことは間違っていたのでしょうか。
最後に、長くなりましたが、私の永住権の
原状回復と今回の審議が真実に
意味のあるものとなるよう、また過去の歴史を乗り越えられるものになるよう願ってやみません。