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参考人(
矢原徹一君) 九州
大学の
矢原でございます。
私は、
東京大学で、助手、講師を理
学部の方で務めた後、駒場の教養
学部で一、二年生相手に四年間教えまして、五年前から九州
大学に移りました。九州
大学では学科長も務めさせていただきましたし、九大の組合の
委員長もさせていただいたので、恐らくその関係できょうはお声がかかったのではないかと
思いますけれども、四十五歳の中堅の
大学教官の
立場から法案に御
意見を申し上げたいと
思います。
法案は、
学校教育法の幾つかの条文を
改正するというものですけれども、まず、
議論されている現状認識、それから法案が目指している
大学院の考え方、そういうものが果たして適切かどうかという点について御
意見申し上げたいと
思います。
こちらに伺う前に、衆議院での
参考人質疑の議事録を全部読ませていただきまして、それからもちろん法案も読ませていただきましたが、率直な感想を申し上げますと、三人の
学長の
方々が御説明されているんですが、そこで説明されている現状認識というものが、私が知っている
大学の実情と余りに違うというのが正直なところ驚きでございます。それから、今、
門脇先生がおっしゃった認識とも私は違う認識を持っております。
三人の
学長の方は、
国立大学は国際的に通用しない、
社会的要請にもこたえていない、体質が古いなどとおっしゃっているんですけれども、それで、今回の
改正で
学長の
権限を強化して大胆に
改革しない限り
大学に未来がないかのような御説明がなされたと思うんですが、どうして
学長クラスの
方々がこのようにおっしゃるのか、私には非常に不思議である。
どうしてそういう違いが生まれるのだろうということをちょっと考えてみたんですけれども、多分、世代間の認識の違いというものがかなり大きいのではなかろうか。
学長クラスの
方々は、戦後の非常に困難な
時代に
研究を始められて、
日本の科学を国際的に通用するところまで引っ張ってこられた。そのために非常に大きな努力を払われたと
思いますし、それから
大学紛争というものも
経験されて非常に大変だったろうと
思います。
私が
大学に進んだのは、
日本の科学がもう国際的に十分通用し始めているという
時代でありまして、
大学紛争も終わっておりまして、そういう中でまだいろいろ古い体質というのはございましたけれども、そういうものに我々も多少不満を持ちながら、いろいろ
改革にも努力しながらやってきたわけですが、世代の交代とともに、
大学は特にこの十年ほどの間に随分大きく変わったと
思います。
三人の
学長の
方々がいろいろ御指摘になった問題点の多くというのは、少なくとも若い世代の努力を通じてかなり解決されてきているというふうに
思います。もっと若い世代を信じていただきたいというふうに思うものであります。
私
たちの
時代には、もう助手のころには
海外にもどんどん出られるようになってまいりまして、
日本だけでなく、世界の
大学の
教育や
研究の現場を目の当たりにして、そういう中で
自分の
学問を育ててきた。したがいまして、私の世代の教官では、国際的に通用するというのはこれはもう前提条件でありまして、通用しないということは
研究者としても通用しないということです。
国立大学が国際的に通用しないというような評価は到底承服しがたいわけです。
ただ、北米やヨーロッパの
大学に比べまして
研究条件は確かに非常に悪い、それは事実でありまして、それでも負けないように頑張って活躍しようということでやっております。
それから、
社会的な要請にこたえていないという
意見もございますけれども、この点もちょっと納得できないんです。というのは、私
たちの世代というのは、
大学の
進学率がかなり高くなってから
大学に進んでおりますので、同期の友人あるいは先輩、後輩は
社会のさまざまな分野で活躍しているわけです。そういう友人から、いろんな分野から相談や要請を受けるということがあります。できる限りの協力をしております。したがいまして、
大学が象牙の塔であるというような認識は全くないと申し上げていいと
思います。
民間企業や
自治体のお
仕事も手伝わさせていただいていますし、市民から問い合わせがあればできるだけ答えてもおります。ただ、公務だけでも非常に忙しいので、支援する体制が弱いということのためにすべての依頼にこたえ切れていないというのが実情でございます。
教育についても同じことが言えます。私
たちの世代は概して非常に
教育熱心だと
思います。
どうしてかと申しますと、確かに、私
たちが
大学で学んだころには
学問は
自分でするものだというようにおっしゃる
先生方もしばしばいらっしゃって、授業が非常に難しいといって申し上げると、そんなに簡単にわかってたまるかというような話が昔よくあったんですけれども、私どもはそれではいかぬだろうと思って、不満も持って育ちましたし、もっといい
教育をしようと思っておりますので、卒業
研究生とかあるいは
大学院生の
指導について、いろんな
大学の友人同士、どうしたらもっとよくなるだろうということはもう学会で会ったりするたびによく話をしております。
自分の知識だけで教え切れないという事態はしばしばあるわけですけれども、そういうときは、今はもうメールが発達しておりますので、電子メールで聞いて他
大学の友人に協力を仰ぐというのはしょっちゅうやっておりますし、場合によっては
海外まで問い合わせるということもいたします。
ただ、私は今、
大学院生を二十人近く、それから六人の卒業生を抱えているわけです。きのうも夜遅くまで
指導をしていたんですが、これだけの
学生を相手に緻密な
指導をしろというのは、これはかなり厳しい話でありまして、
大学院重点化が始まる前は、五年ほど前ですけれども、数人の
学生を相手にしていただけです、
大学院生という点では。ですから、その当時に比べて
教育の質が同じかと言われると、多少落ちたなと率直に思わざるを得ません。そういう重点化を通じて定員増というのは一切ありませんでしたので、教官は非常に忙しくなっている、
大学院は確実にマスプロ化している、こういう状態にあります。それでも、少しでもいい
教育ができるように一生懸命やっております。
さて、今回の法案
改正の主要な点は、
大学の
運営体制を法的に
整備する、こういうものですけれども、この点に関しまして三人の
学長の
方々が共通して、
意思決定に時間がかかる、こういう問題点を御指摘になっております。例えば、東京外国語
大学の中嶋
学長が、これまで
教授会が、
大学の大きな
意思決定、新しいことを取り入れるときの足かせになってきた。
教授会では一人が反対していて六時間もかかるというような御指摘をなさっています。
学長の
先生方の
発言なので相当の重みを持って受け取られたんではないかと危惧しておるんですが、このような認識は、私が知っている
大学の実情とはかなり違うものであります。
私が
経験したのは京大、東大、九大ですけれども、友人は地方
大学にもおりますので実情というのは聞いてみているんですが、
国立大学の場合、
教授会が六時間にも及ぶという事態はまずないです。普通二時間以内に終わりますし、大
部分は報告や形式的な承認事項の説明に費やされておりまして、私
自身、六時間に及ぶ
教授会は
経験したことがございません。このような事態が一般的であるかのように受け取られると、やっぱり
大学に対する認識を過たれるんではないか。この点は有馬大臣もよく御存じのはずです。
大学全体での
意思決定が必要な案件に関して、
学長が提案をして全
学部をリードする、これは必要でもありますし、現に行われております。例えば、九州
大学ではアドミッション入試というものを始めることにいたしましたけれども、これは杉岡
総長の強い
リーダーシップで決まったことです。学内には慎重
意見もありまして、一部の
学部は参加を見送りましたけれども、それで
大学としての決定がおくれるということはございませんでした。
新しいことを取り入れようという提案に関しましても、例えば情報
教育がこれからの
時代に重要だということは、これはもう皆さん納得されるわけです。そういう
部分を充実させようというような提案は多くの
大学で容易に合意されて実際に実行に移されております。なかなか合意が成立しなくて
意思決定が長引いたというケースがございますけれども、それは東大でも九大でも
経験させていただいたんですが、そういうケースは多くの場合、提案そのものにいろいろ問題があって、検討に時間がかかるのはやむを得なかった、こういうケースであろうと
思います。
例えば、具体的なことを申し上げるのはなかなか難しいんですけれども、
学長が御
自分の
専門分野を非常に重視した
機構改革案を出される、これはなかなか学内はまとまらないわけです。やっぱりほかの分野をどう
発展させるかというバランスのとれた
議論というのが必要だということになりますので、こういう場合に
議論がいろいろあって時間がかかるというのは当然であります。このようなケースで、
学長が強い
リーダーシップで、ある分野にシフトされるというのは必ずしも私は好ましくないと
思います。
今回の
法改正は、
学長の
権限を強めてトップダウン式の
意思決定をやりやすくしよう、こういう提案だと
思いますけれども、私は、
学長サイドが明確なビジョンを示して説得力のある提案をすれば、今の
制度でも
大学はきちんと
意思決定ができるし、逆に、説得力のある提案ができなければ、幾ら法律で
学長の
権限を明確に規定したところで
大学の中はまとまらないわけであります。
二十一
世紀の
大学運営というものを考えてみますと、私は、トップダウンだけでなくて、むしろボトムアップをいかにうまくやるか、こういう点が肝心だろうと
思います。学内のいろいろなアイデア、能力、可能性、それらを
大学全体の
改革にどううまく結びつけていくか、その点に工夫や
改革がなければ二十一
世紀に
大学は
発展していかないだろう。
この点について、多分巨大
組織であれば同じ問題はどこでも抱えていると
思います。それで、企業のマネジメントに関する本でどういうことが書かれているかちょっと興味を持ちまして探してみました。ここに、
アメリカのビジネス
大学院でよく使われているテキストがございます。「ゼネラル・マネージャーの役割」という本なんですけれども、これを読むと、これからの企業では、ゼネラルマネージャーの役割として、
組織の中にある多様なスキルをいかに上手に生かすか、これが重要だと、こういうふうに書かれているわけです。要するにトップダウンだけではだめで、いかにボトムアップを上手にやるか、これが肝心だということです。
当たり前の結論だと思うのですが、先ほど紹介しました三人の
学長のお考えはもっとトップダウンを強めたいというもののようでありまして、法案の
内容もこの考えに沿っているように
思います。それは私は、
言葉は悪いかもしれませんが、多少
時代おくれで、二十一
世紀に通用する考え方ではないのではないかと
思います。
今、企業経営と比べて御
意見を申し上げたわけですけれども、
国立大学は企業とは違うという点を申し上げておきたいと
思います。
「中央公論」に堺屋太一さんが書かれた記事を読ませていただいたんですが、
国立大学はこれまで国の保護でやってきたけれども、これからは自由
競争をさせる、市場原理を導入して活性化させるんだというお考えを述べられているわけですが、このような御
意見というのは
大学と企業の違いというのをよく理解されていない、このように
思います。
大学と企業はどこが違うかと申しますと、
大学の使命というのは、いい
研究をして、いい
教育をして、それを
社会に還元していくということですけれども、
教育も
研究も個人プレーであるということです。基本的に個人プレーである。市場原理や
競争がないかというと、そういうことはありませんで、
研究費や
研究業績をめぐっては、
大学教官というのは個人
レベルでかなり厳しい
競争をやっているわけです。既に市場原理というのは相当入っていると
思います。その中で評価されたものがよりよい地位につけるし、よりよい条件を獲得できるわけです。
余り知られていませんけれども、
教育に関しても
競争がございます。新しい教官を採用するときには必ずと言っていいほど
教育に対する抱負や考え方を書いていただきます。
研究はよくできるけれども
教育熱心でない、こういう方は
大学には向かないわけでありまして、
研究所でやっていただいた方がいい、このように
大学の者は考えております。したがって、
大学ではできるだけ熱心な人を採用しようとしておりまして、例えばセミナーをやっていただいて、
研究の
内容をわかりやすくおもしろく話をしていただける方かどうかというチェックは多くの
大学で当たり前のようにやっております。
このような個人プレーと個人
レベルでの
競争というものが
大学の活力の源泉でありまして、もちろん共同
研究や授業等を通じての協力というのはやるわけでありますから、わがままというわけではないんですが、
個性的な実力というのが
大学の活力を支えているという点は御理解いただきたいと
思います。
したがいまして、上司がいて部下がいるという会社の
運営とは、
大学の
運営というのは当然大きく違うべきであろうと。
学長が適切な
リーダーシップを発揮されるというのは、これは
組織ですから当然のことですけれども、今の
制度が悪いから
リーダーシップが発揮できないというようには私は思わないわけでありまして、例えて言うなら、できるだけ小さな政府にして、分権を進める方がこれからの
大学に見合っているのではないかと
思います。
最後に、もう時間も限られてまいりましたが、では、
大学をよくするために今何が一番大事かということを申し上げて終わりたいと
思います。
国立大学をぜひ定員削減の枠から外していただきたい。公務員を減らそうという全体の流れの中で非常にばかげたことを言っていると思われるかもしれませんけれども、今
国立大学が抱えている最大の問題は、
運営体制でもなければ
教育システムでもございません。
教育支援体制が崩壊している、これでございます。
既にいろんな点で機能麻痺が生じているんですけれども、一例を挙げますと、私の
参考資料に書いておりますけれども、例えば授業に関して私は必ずプリントをつくるようにしておりますが、プリントをつくるのに、図を縮小コピーして切り張りをして原版をつくって人数分コピーをする、あるいはリソグラフで印刷する、こういうのは全部教官がやるわけです。事務定員が少ないので、授業のプリントづくりに割ける人員はございません。これは東大でも京大でもそうです。
それから、科学
研究費補助金の申請、こういう時期になると、教官がワープロで作成した文書を、申請書は縦けい、横けいがたくさんありましてワープロでそのまま印刷できないものですから、一回印刷したものをはさみで切ってのりで張って、それを両面コピーで十部ぐらいつくって事務に提出する。事務で何かチェックされて、例えば九州
大学と書かなきゃいけないところを九大と書いていると、つくり直してくださいと言われてもう一回つくり直す、こういうことをやります。コピー機の前で順番待ちをするというようなこともよくありまして、駒場では東大の
先生がよく締め切りになるとのりとはさみを持って右往左往して、コピー機の周りで順番を待つというのが毎年の恒例行事でした。こういうことのために
大学教官が雇われているとは私は思わないわけであります。
これらは氷山の一角でありまして、文教
委員の
先生方はぜひ一度
大学を視察していただいて、今いかに深刻な事態が進行しているかという点をよく調べていただきたいと
思います。
有馬大臣が東大
総長をなさっていたころ、事務定員増なしの重点化というのはあり得ませんとおっしゃって重点化を推進されたわけです。しかし、事務定員は一人もふえないどころか、その後も定員削減でずっと減っているわけです。一方で、重点化で確実に
仕事はふえております。事務量もふえております。そういう中で、事務主任が遅くまで残業するというような事態も常態化しております。
こういう中で、
教育ももっと頑張ってやりたいと思っておりますし、実力も国際的についてきていて、特に若手は伸びていると思うんですが、それを生かすだけの支援体制が危機的な
状況にあるという点を申し上げて、私からの
発言を終わらせていただきます。