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1999-05-18 第145回国会 参議院 文教・科学委員会 第10号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十一年五月十八日(火曜日)    午後一時開会     ─────────────   出席者は左のとおり。     委員長         南野知惠子君     理 事                 馳   浩君                 江本 孟紀君                 松 あきら君                日下部禧代子君     委 員                 阿南 一成君                 亀井 郁夫君                 北岡 秀二君                 世耕 弘成君                 仲道 俊哉君                 橋本 聖子君                 石田 美栄君                 本岡 昭次君                 山下 栄一君                 畑野 君枝君                 林  紀子君                 扇  千景君    事務局側        常任委員会専門        員        巻端 俊兒君    参考人        国立学校財務セ        ンター研究部長  天野 郁夫君        筑波大学教育学        系教授      門脇 厚司君        九州大学理学部        教授       矢原 徹一君     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○学校教育法等の一部を改正する法律案内閣提  出、衆議院送付)     ─────────────
  2. 南野知惠子

    委員長南野知惠子君) ただいまから文教・科学委員会を開会いたします。  学校教育法等の一部を改正する法律案議題といたします。  本日は、本案の審査のため、参考人として、国立学校財務センター研究部長天野郁夫君、筑波大学教育学系教授門脇厚司君及び九州大学理学部教授矢原徹一君の三名の方々に御出席をいただいております。  この際、参考人方々に一言ごあいさつ申し上げます。  本日は、御多用のところ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。  皆様方には、ただいま議題となっております学校教育法等の一部を改正する法律案につきまして忌憚のない御意見をお述べいただき、今後の審査参考にさせていただきたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。  議事の進め方でございますが、まず天野参考人門脇参考人矢原参考人の順序でそれぞれ十五分程度で御意見をお述べいただいた後、各委員質疑にお答えいただきたいと存じます。  なお、御発言は、意見質疑及び答弁とも着席のままで結構でございます。  それでは、まず天野参考人から御意見をお述べいただきたいと存じます。天野参考人
  3. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) 御紹介いただきました天野でございます。  私は、今、文部省国立学校財務センターというところにおりますが、三年前まで東京大学におりました。その前は名古屋大学におりまして、国立大学でずっと大学教員をしてきた者でございます。  今回の学校教育法改正一つの大きなねらいは、大学管理運営機構の問題、特に国立大学整備の問題だと思います。この問題につきましては、戦後、繰り返し議論がされてまいりましたが、なかなか決着がつかないで現在に至っている問題でありました。それがようやく形を整えるに至ったことを積極的に評価したいというふうに思っております。  ことしは新制度国立大学が発足しましてからちょうど五十年になるわけでありますが、戦後五十年、大学内外変化の非常に大きいことに、改めて変化の大きさを痛感させられる思いでおります。  申し上げるまでもないことかもしれませんが、大学というのは、大学教員という教育研究を職務とします専門的な職業人、つまりプロフェッションの集まりでございます。ヨーロッパの中世に一種のギルドとして生まれて発展してきたわけでありまして、長い間自治権というものを認められた組織体であります。学問をする者の共同体といたしまして、構成員であるところの大学教員大学教授たちは、学問大学という組織二つにいわば帰属感といいますか、忠誠心を持って生活をしてきた存在であります。ある学問領域専門にしている、そしてある大学所属をしているということでございます。  この大学というのは長い間孤独と自由ということをモットーにしてまいりました。孤独というのは、俗世間を離れてそこで学問に打ち込む、自由というのは、そこで学問の自由を認められるということでありました。そのためにさまざまなパトロンをこれまで持ってきたわけでありまして、宗教団体だった時代もありますし、国家になった時代もあります。現在は、学生とか、それからさまざまな資金の提供者パトロンということになるかもしれません。  その大学は、発展を遂げるにつれまして次第に性格を変えてまいりました。特に二十世紀に入ってこの大学は非常に大きく性格を変えたと言っていいと思います。  一つは、学問領域がどんどん専門分化、拡大をいたしまして、大学でいえばいろんな講座、学部、学科というふうなものがつくられるようになってまいりました。  二つ目には、応用的、実践的な学問研究領域教育領域が広がりまして、例えば工学であるとか農学であるというふうな領域大学の中にも入ってまいりました。  三つ目には、大学社会との接点もだんだん広がってまいりまして、交流が必要になってきたということがございます。そして、大学自体教員学生をますますたくさん抱えるようになりまして、非常に大規模組織になってまいりました。かつてのように孤独と自由などということではなくて、大学にとって開放と交流ということが非常に大きな課題になってきたわけであります。  こういう大学性格変化は一番最初アメリカにあらわれましたので、アメリカでは高等教育研究が非常に盛んであります。その中で、クラーク・カーという大変著名なアメリカ大学人でありますが、カリフォルニア大学学長をした方でございます。この人が一九六〇年代に、大学ユニバーシティーではなくなった、マルチバーシティーになったということを申しました。  大学はさまざまな構成部分からできている。学部だけではなくて大学院もある。大学院も、研究者養成大学院もあれば、職業人養成大学院もある。研究所や研究施設もたくさんくっついている。それから学生に対するサービス社会に対するサービスを提供するさまざまなセンターもある。せいぜいこれまで千人や二千人程度であった、あるいは数千人程度であった大学というものが、学生教員を合わせますと数万人、時には十数万人という大きな規模になってきた。したがって、今や大学はユニではなくてマルチバーシティーだと。  彼はまた、大学というのはそうなったために国連のような組織になったというふうに言っております。それぞれを構成しています国に当たるものは大学部局でありますが、それぞれ一票持っている。そして大学運営にこの人たちが平等に参加するということになってきた。  こういう状況になってきますと、これまでのような教授会単位自治だけではやっていけない。そこで、お互いに顔を知らない人たち集まりにどんどんなっていくわけでありますので、大学一つ組織として統合性を保ちながら運営をしていく、自覚的に大学経営をする、管理運営をするということが重要性を増してきた。そのための独自の機構というのがだんだんアメリカ大学でもつくられてきたわけであります。  これは、ほかの国でも同じような問題がありまして、現代のように早い変化時代変化の早い社会になりますと、それは大学にとりましてもさまざまな変革を求める時代ということになるわけでありますが、そうした中で、意思決定管理運営機構をどうするかということが、これはアメリカに限らずどこの国でも大きな問題になってきたわけであります。  ところが、日本大学管理運営機構というのは、法的な未整備のままに戦後五十年近くを過ごしてまいりました。旧制帝国大学の後身であります大学は、戦前期に既に教授会を持っておりまして自治権を持っておりました。ところが、それ以外のいわゆる地方にできました新制国立大学というのは、元専門学校であったところや旧制高等学校師範学校であったところでありますが、こういうところには教授会そのもの存在しなかったわけであります。こういう学校集まりまして大学ができた。したがって、管理運営機構整備する必要があったわけでありますが、これはなかなか意見の一致が見られませんで現在に至った。評議会も、暫定的な規則によって決められたままここまで来たということがあるわけであります。  その間、全く何も改革が行われなかったわけではありませんで、さまざまな試みがそれぞれの大学の中で自主的に行われてまいりました。  私のおりました東京大学について言いますと、教授会評議会学長という組織のほかに、例えば学部長会議あるいは部局長会議というものがございます。また、東大は紛争後、総長室というものを設けました。まずは総長特別補佐というポストも設けたわけであります。現在の副学長に当たるわけでありますが、こういうことをやるようになりました。  また、大きな学部では、例えば主任会議であるとか評議委員会であるとか、そういう組織をつくりまして、教授会だけでは運営できない運営に当たるような組織をつくってきたわけであります。つまり意思決定のさまざまな仕組みを自律的につくってきたということになります。  外部との交流につきましても、大学の中には、最近になってふえてまいりましたが、学長懇談会であるとかアドバイザー会議であるというふうな組織を設けてやってきたわけであります。  こういう自生的につくられてきましたものでありますから、大学間でかなり大きな違いがございますが、今回の法改正は、その共通部分を取り出しまして、積極的に評価し得るもの、こういうものがあったらいいというものを整備するという役割を果たしたと言っていいのではないかというふうに思います。  さきごろ、二十一世紀大学についてという大学審の答申が出されまして、私も審議会委員としてお手伝いをいたしましたが、その中に「競争的環境の中で個性が輝く大学」という副題がつけられているわけであります。これは、これから大学にとってますます厳しい競争時代がやってくる、その中で大学は独自に自分個性というものをつくっていかなければいけないということを言っているわけであります。  こういう時代状況になればなるほど、この時代状況がどのようなものであるかというようなことはもう御承知のとおりだと思いますけれども、そうなればなるほど、大学一つの総合的な組織体として意思決定を速やかに行う、確立されたリーダーシップのもとで運営されなければいけないということも、これまた明らかになりつつあることであります。  私は、今回の学校教育法改正はそのための条件整備基盤整備に当たるものではないかと思います。時代の流れは大学につきましても規制緩和の方向にあるわけでありまして、規制緩和が進めば進むほど、裏返せば、大学にとって自由が大きくなればなるほど、大学の主体的な選択とか意思決定改革必要性が増してくるわけでありますし、重要になってくるわけであります。今、日本大学はまさにそういう主体的な意思決定能力を問われていると言っていいかと思います。  こういう時代は、別の見方をしますと、大学が長い間持ってまいりました自治能力が試される時代がやってきたということでもあります。私は、管理運営機構整備というのは、これまでの大学自治を侵すものではなくて、これまで大学が持ってきました自治のよき伝統を、さらに確立されたものにしていくための手段として位置づけられなければならないのではないかというふうに思います。  その意味で言いますと、教授会自治だけが大学自治ではない。教授会を超えた意思決定の必要な部分というのはどんどんふえているわけでありまして、大学自治を確立していくためにも、教授会を超えたレベル意思決定機構というものを考えざるを得なくなってきているということがあるのだろうと思います。  どんな制度も、それを動かしていくのは人であります。日本大学教員というのは、ほかの国の大学、特にアメリカ大学と比べてみるとよくわかるのですが、大学管理運営に当たるリーダー、学長学部長選挙で選ぶ権利というものを持っております。それが自治の根幹にあるわけであります。また、カリキュラムを自分で編成する権限を持っている。人事を、だれがふさわしい大学教員であるのかということについても判断する権限を持っている。そういう中でその権限を、特権と言ってもいいかもしれませんが、自治権限を生かしていかなければならないということだろうと思います。  私は、ここ数年、いろいろな大学学長先生方にインタビューする仕事というのをやっておりまして、これまでに五十数人の学長さんにインタビューいたしました。その中で印象に残っている学長さんたち発言がいろいろあるんですが、その一つに、東京大学の前総長でいらっしゃった吉川弘之先生が言った言葉大変印象に残っております。学長になるというのはどういうことなのか、それは学問を忘れることだとおっしゃっているわけであります。学問を忘れるとはどういうことかといいますと、それは専門へのこだわりを捨てることだというふうに言っておられます。  大学先生はとかく、先ほど申しましたように、自分学問分野への忠誠心所属している大学への忠誠心二つを求められているわけでありますが、前者の方がどうしても強くなる。自分専門領域の勢力を拡大しようということに多くの先生方は、私も含めてそうでありますが、一つの熱意を持っているわけでありますが、管理職という仕事はそれでは務まらない。これは学部長学長も同じだと思うんですけれども、自分専門へのこだわりを捨てて、大学全体というものを見渡す必要があるということを吉川総長がおっしゃったわけでありまして、これは大変名言であろうかと思います。  教授会構成員からだんだん管理的な仕事につくに従いまして、大学教授の視野というのは広がっていくということを私も経験してまいりました。やはり大学管理運営仕事というのは、教授会レベル議論とはまた違ったレベル議論が必要な職域ではないかと思います。  国によっては、この部分専門的な、プロフェッショナルな管理運営仕事をする人たちで占められている国もございます。日本の場合には、選挙によって選ばれた学長がある日突如、管理運営仕事に当たる。学長さんたちの多くは、自分たちがいかに孤独な存在であるかということを言っておられたことも印象に残っております。  今回の管理運営を中心とした学校教育法改正が、こういう日本大学のこれまでのよき伝統を生かしながら、さらに大学の、この変化時代生き残り発展をしていくための基盤になることを強く期待して、私としてはこの改正を支持したいと思っているわけでございます。  以上でございます。
  4. 南野知惠子

    委員長南野知惠子君) ありがとうございました。  次に、門脇参考人にお願いいたします。門脇参考人
  5. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) 私も簡単に自己紹介をさせていただきますけれども、現在は筑波大学教育学系所属しております。ですけれども、私が大学に赴任した最初の年は、昭和四十九年、筑波大学の前身であります東京教育大学教育学部に講師として赴任をいたしました。  御承知のとおり、筑波大学というのは、ほかの国立大学と違って、新構想大学として昭和四十八年にスタートしているわけです。昭和五十三年四月から東京教育大学は廃校ということになって、私自身も、五十三年四月から筑波大学教育学系所属をして主に人間学類という、教育学系だとか人間学類だとか、ほかの大学では使っていない用語を使ってわかりにくいかと思いますけれども、先ほどの天野参考人言葉をかりれば、筑波大学こそがユニバーシティーではなくてマルチバーシティーなんだろうというふうに思っております。そういう大学最初のものとして、新構想大学としてスタートした筑波大学に、五十三年四月から教育学系というところに、学系というのは研究組織ですけれども、そこに所属しながら、人間学類という教育組織で主に学生と接しながら指導に当たってまいりました。  平成六年から四年間、二期四年ですけれども、人間学類長という、これもまたほかの大学では学部長と言うところでしょうけれども、人間学類長という立場学類教育運営に当たりつつ、学類長というのは自動的に評議会構成員になりますので、評議会メンバーとして全学の運営にも携わってまいりました。私が評議会メンバーであったときには江崎玲於奈さんという日本でも数少ないノーベルプライザーが学長だったわけですけれども、江崎さんをできるだけサポートするような立場評議会の一員としてかかわってまいりました。  そういうような私自身経験を通しながら今回の学校教育法等改正案を拝見させていただきますと、全般的に申せば、学校教育法国立学校設置法あるいは教育公務員特例法改正になるわけですけれども、法律案内容を読ませていただいたときに私自身最初に考えたことは、筑波大学で二十数年間過ごした者にとってはごくごく当たり前のことをようやく法文化するのかというような印象を持ちました。  全体的にはそういうような評価をしておりますけれども、もうちょっと中に立ち入って、具体的に改正案に沿いながら三点ばかりとりあえず申し上げておきたいと思います。  まず一つは、運営諮問会議という聞きなれない言葉ではありますけれども、筑波大学では参与会というような呼び方で既にそういう組織も持っておりますし、評議会ももちろん、教授会、これも筑波大学では教員会議というような特別な言い方をしていますけれども、例えば学類教員会議とか学系教員会議だとか、学群というのもありまして、学群教員会議だとかいろんな呼び方をしていますけれども、教授会とは呼ばずに教員会議と言っていますけれども、教授会に当たるものも当然あるわけであります。  それで、今度の改正案は、すべての大学にこういう運営諮問会議ですとか評議会ですとか教授会を設ける、しかも設けるだけではなくて、それぞれの会議審議事項を明確にする、あるいは権限も明確にする、その審議内容も明確にするというようなことが法律的に定められるということは、これは先ほど天野参考人も申し述べていたようですけれども、これからは社会ニーズに、あるいは学生ニーズに的確に、あるいは迅速にこたえていくというようなことがやっぱり大学にとって欠かせない使命だとしたら、そういうような社会ニーズに的確に、しかも迅速に対応していくためには、こういうような運営組織をきちんと法的に定めるということの意義は、私の二十数年間の経験からしても極めて大事なことではないかというふうに思っております。  二つ目ですけれども、これは先ほど申し上げたこととも関係するわけですけれども、大学意思決定において、評議会議長を務める学長教授会議長を務める学部長権限を明確にして、またその権限を強めるというような内容にもなっているわけですけれども、このこともこれから、先ほど申し上げたような社会的なニーズに対応した迅速な意思決定をして直ちに実行に移すというようなことを考えたときに、やはり極めて大事なことではないだろうかというふうに思います。  日本学長及び学部長、大体管理職者すべてというふうに言っていいと思いますけれども、ほとんどがその構成員選挙によって選ばれている。ここのところも、アメリカの有名なハーバード大学その他、アイビーリーグと言われている大学学長選び方管理職選び方にした方がもっといいんじゃないかというふうに個人的には思っていますけれども、とにかく日本の現状は、構成員選挙によって選ばれるというようなシステムになっておることが、どうしても自分を選んでくれた構成員に対する遠慮が学長にしろ学部長にしろあって、なかなかその審議を踏まえた意思決定がしにくい状況にあるんじゃないだろうかというふうに思っています。  恐らく江崎玲於奈筑波大学長も、アメリカで三十二年過ごして、できるだけアメリカシステムに近い大学運営をしたいというような意欲筑波大学学長に赴任されたわけですけれども、そういうような意欲は十分感じられたわけですけれども、あれだけの力を持った方でもなかなか自分思いどおりのことができなかったというような、そういう悔しさを持ちながら退任されたんじゃないかというふうに思います。これはもう全く私の推測ですけれども、実際にそういうような形になったのではないかと思います。  これが仮に、学長権限はこれこれなのだとか、学部長権限はこれこれなのだとか、あくまでも評議会というのは審議機関であって、最終的な意思決定学長が行うのであるというようなことが今回の改正案のような形で法律的に明記されていれば、リーダーシップのある学長はもっとその腕を十分に発揮し得るのではないかというふうに考えます。  ですから、こういうような学長及び学部長権限を強化するということは、社会的なニーズに対する対応という面でも、あるいはこういう大学であるべきだというふうに学長が考えたそのビジョンをきちんと実現するためにも、やはり必要なことだろうというふうに思います。  やはり大学は、これからは画一的というのか、国立大学すべて同じ顔をしているということでは許されない時代なんだろうというふうに私自身も認識しておりまして、そういう個性を発揮するためにも、こういうような法的な措置はどうしても必要なことではないだろうかというふうに思っております。  あともう一点、これは学校教育法で、国立大学だけではないわけですけれども、三年以上四年未満で卒業できるというような条項もあるわけです。これについても、学力の低下を招くのではないだろうかというような心配もあるやに聞いておりますけれども、私自身は、学生の方も多様な過ごし方ができるような措置というのは好ましいことではないかと。  と申しますのは、これは御承知のとおり、大学進学率が年々高くなって、文部省の予測によれば二〇〇九年だったでしょうか、大学入学定員と十八歳人口というか高校卒業者の数がほぼ同じになるというふうに推測されておるわけで、これからますます学生多様化が進む。要するに、平たく言えばピンからキリまでというような形の大学生が大学で過ごすことになるわけで、その学生に対して一律の過ごし方を強要するという時代ではもうないだろう、すぐれた者はやっぱり早目に卒業できるような措置というのは必要なことだろうと思います。  もう一つは、三年間できちんと卒業すれば海外大学院に進学できるというようなメリットもあるわけで、これは私自身大学構成員として反省するところでもあるわけですけれども、率直に申し上げれば、日本大学人というのは自分研究には熱心であるけれども、なかなか学部教育には熱心にならないという結果として、今の学部での教育の水準というのは外国に比べれば余り好ましい状態じゃない。まして、大学院でもそんなふうに感じておりまして、むしろ早目に卒業して、私自身はできるだけ日本大学院に残らずに海外に出るようにというような指導も個別的にはしておりますけれども、そういうようなことができるというようなことでも好ましい改正ではないだろうかというふうな感想を持っております。  具体的には今申し述べたようなところで、私自身としてもこの改正案については基本的には賛成というふうに思っていますけれども、なお注文を申し述べれば、天野参考人もその委員の一人になっていたわけですけれども、大学審議会の答申にはまだまだ大学改正しないといけないことが多々あるわけでありまして、今回の措置よりも、大学教育に対する評価ですとか第三者による評価というようなことの方がもっともっと日本大学を変えるためには必要なことであろうし、残念ながら、私の見るところ、日本大学には自己改革能力というのがどうも乏しいんじゃないかというふうに厳しい見方をしております。  残念なことでありますけれども、外から、法的な強制という言葉をあえて使いますけれども、そういうようなことをしながら大学に対して改革を求め続けることがいましばらくはやっぱり必要なことではないだろうかというふうに思っております。  以上、時間ですので、私の意見を述べさせていただきました。
  6. 南野知惠子

    委員長南野知惠子君) ありがとうございました。  次に、矢原参考人にお願いいたします。矢原参考人
  7. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) 九州大学矢原でございます。  私は、東京大学で、助手、講師を理学部の方で務めた後、駒場の教養学部で一、二年生相手に四年間教えまして、五年前から九州大学に移りました。九州大学では学科長も務めさせていただきましたし、九大の組合の委員長もさせていただいたので、恐らくその関係できょうはお声がかかったのではないかと思いますけれども、四十五歳の中堅の大学教官の立場から法案に御意見を申し上げたいと思います。  法案は、学校教育法の幾つかの条文を改正するというものですけれども、まず、議論されている現状認識、それから法案が目指している大学院の考え方、そういうものが果たして適切かどうかという点について御意見申し上げたいと思います。  こちらに伺う前に、衆議院での参考人質疑の議事録を全部読ませていただきまして、それからもちろん法案も読ませていただきましたが、率直な感想を申し上げますと、三人の学長方々が御説明されているんですが、そこで説明されている現状認識というものが、私が知っている大学の実情と余りに違うというのが正直なところ驚きでございます。それから、今、門脇先生がおっしゃった認識とも私は違う認識を持っております。  三人の学長の方は、国立大学は国際的に通用しない、社会的要請にもこたえていない、体質が古いなどとおっしゃっているんですけれども、それで、今回の改正学長権限を強化して大胆に改革しない限り大学に未来がないかのような御説明がなされたと思うんですが、どうして学長クラスの方々がこのようにおっしゃるのか、私には非常に不思議である。  どうしてそういう違いが生まれるのだろうということをちょっと考えてみたんですけれども、多分、世代間の認識の違いというものがかなり大きいのではなかろうか。学長クラスの方々は、戦後の非常に困難な時代研究を始められて、日本の科学を国際的に通用するところまで引っ張ってこられた。そのために非常に大きな努力を払われたと思いますし、それから大学紛争というものも経験されて非常に大変だったろうと思います。  私が大学に進んだのは、日本の科学がもう国際的に十分通用し始めているという時代でありまして、大学紛争も終わっておりまして、そういう中でまだいろいろ古い体質というのはございましたけれども、そういうものに我々も多少不満を持ちながら、いろいろ改革にも努力しながらやってきたわけですが、世代の交代とともに、大学は特にこの十年ほどの間に随分大きく変わったと思います。  三人の学長方々がいろいろ御指摘になった問題点の多くというのは、少なくとも若い世代の努力を通じてかなり解決されてきているというふうに思います。もっと若い世代を信じていただきたいというふうに思うものであります。  私たち時代には、もう助手のころには海外にもどんどん出られるようになってまいりまして、日本だけでなく、世界の大学教育研究の現場を目の当たりにして、そういう中で自分学問を育ててきた。したがいまして、私の世代の教官では、国際的に通用するというのはこれはもう前提条件でありまして、通用しないということは研究者としても通用しないということです。国立大学が国際的に通用しないというような評価は到底承服しがたいわけです。  ただ、北米やヨーロッパの大学に比べまして研究条件は確かに非常に悪い、それは事実でありまして、それでも負けないように頑張って活躍しようということでやっております。  それから、社会的な要請にこたえていないという意見もございますけれども、この点もちょっと納得できないんです。というのは、私たちの世代というのは、大学進学率がかなり高くなってから大学に進んでおりますので、同期の友人あるいは先輩、後輩は社会のさまざまな分野で活躍しているわけです。そういう友人から、いろんな分野から相談や要請を受けるということがあります。できる限りの協力をしております。したがいまして、大学が象牙の塔であるというような認識は全くないと申し上げていいと思います。  民間企業や自治体のお仕事も手伝わさせていただいていますし、市民から問い合わせがあればできるだけ答えてもおります。ただ、公務だけでも非常に忙しいので、支援する体制が弱いということのためにすべての依頼にこたえ切れていないというのが実情でございます。教育についても同じことが言えます。私たちの世代は概して非常に教育熱心だと思います。  どうしてかと申しますと、確かに、私たち大学で学んだころには学問自分でするものだというようにおっしゃる先生方もしばしばいらっしゃって、授業が非常に難しいといって申し上げると、そんなに簡単にわかってたまるかというような話が昔よくあったんですけれども、私どもはそれではいかぬだろうと思って、不満も持って育ちましたし、もっといい教育をしようと思っておりますので、卒業研究生とかあるいは大学院生の指導について、いろんな大学の友人同士、どうしたらもっとよくなるだろうということはもう学会で会ったりするたびによく話をしております。  自分の知識だけで教え切れないという事態はしばしばあるわけですけれども、そういうときは、今はもうメールが発達しておりますので、電子メールで聞いて他大学の友人に協力を仰ぐというのはしょっちゅうやっておりますし、場合によっては海外まで問い合わせるということもいたします。  ただ、私は今、大学院生を二十人近く、それから六人の卒業生を抱えているわけです。きのうも夜遅くまで指導をしていたんですが、これだけの学生を相手に緻密な指導をしろというのは、これはかなり厳しい話でありまして、大学院重点化が始まる前は、五年ほど前ですけれども、数人の学生を相手にしていただけです、大学院生という点では。ですから、その当時に比べて教育の質が同じかと言われると、多少落ちたなと率直に思わざるを得ません。そういう重点化を通じて定員増というのは一切ありませんでしたので、教官は非常に忙しくなっている、大学院は確実にマスプロ化している、こういう状態にあります。それでも、少しでもいい教育ができるように一生懸命やっております。  さて、今回の法案改正の主要な点は、大学運営体制を法的に整備する、こういうものですけれども、この点に関しまして三人の学長方々が共通して、意思決定に時間がかかる、こういう問題点を御指摘になっております。例えば、東京外国語大学の中嶋学長が、これまで教授会が、大学の大きな意思決定、新しいことを取り入れるときの足かせになってきた。教授会では一人が反対していて六時間もかかるというような御指摘をなさっています。学長先生方発言なので相当の重みを持って受け取られたんではないかと危惧しておるんですが、このような認識は、私が知っている大学の実情とはかなり違うものであります。  私が経験したのは京大、東大、九大ですけれども、友人は地方大学にもおりますので実情というのは聞いてみているんですが、国立大学の場合、教授会が六時間にも及ぶという事態はまずないです。普通二時間以内に終わりますし、大部分は報告や形式的な承認事項の説明に費やされておりまして、私自身、六時間に及ぶ教授会経験したことがございません。このような事態が一般的であるかのように受け取られると、やっぱり大学に対する認識を過たれるんではないか。この点は有馬大臣もよく御存じのはずです。  大学全体での意思決定が必要な案件に関して、学長が提案をして全学部をリードする、これは必要でもありますし、現に行われております。例えば、九州大学ではアドミッション入試というものを始めることにいたしましたけれども、これは杉岡総長の強いリーダーシップで決まったことです。学内には慎重意見もありまして、一部の学部は参加を見送りましたけれども、それで大学としての決定がおくれるということはございませんでした。  新しいことを取り入れようという提案に関しましても、例えば情報教育がこれからの時代に重要だということは、これはもう皆さん納得されるわけです。そういう部分を充実させようというような提案は多くの大学で容易に合意されて実際に実行に移されております。なかなか合意が成立しなくて意思決定が長引いたというケースがございますけれども、それは東大でも九大でも経験させていただいたんですが、そういうケースは多くの場合、提案そのものにいろいろ問題があって、検討に時間がかかるのはやむを得なかった、こういうケースであろうと思います。  例えば、具体的なことを申し上げるのはなかなか難しいんですけれども、学長が御自分専門分野を非常に重視した機構改革案を出される、これはなかなか学内はまとまらないわけです。やっぱりほかの分野をどう発展させるかというバランスのとれた議論というのが必要だということになりますので、こういう場合に議論がいろいろあって時間がかかるというのは当然であります。このようなケースで、学長が強いリーダーシップで、ある分野にシフトされるというのは必ずしも私は好ましくないと思います。  今回の法改正は、学長権限を強めてトップダウン式の意思決定をやりやすくしよう、こういう提案だと思いますけれども、私は、学長サイドが明確なビジョンを示して説得力のある提案をすれば、今の制度でも大学はきちんと意思決定ができるし、逆に、説得力のある提案ができなければ、幾ら法律で学長権限を明確に規定したところで大学の中はまとまらないわけであります。  二十一世紀大学運営というものを考えてみますと、私は、トップダウンだけでなくて、むしろボトムアップをいかにうまくやるか、こういう点が肝心だろうと思います。学内のいろいろなアイデア、能力、可能性、それらを大学全体の改革にどううまく結びつけていくか、その点に工夫や改革がなければ二十一世紀大学発展していかないだろう。  この点について、多分巨大組織であれば同じ問題はどこでも抱えていると思います。それで、企業のマネジメントに関する本でどういうことが書かれているかちょっと興味を持ちまして探してみました。ここに、アメリカのビジネス大学院でよく使われているテキストがございます。「ゼネラル・マネージャーの役割」という本なんですけれども、これを読むと、これからの企業では、ゼネラルマネージャーの役割として、組織の中にある多様なスキルをいかに上手に生かすか、これが重要だと、こういうふうに書かれているわけです。要するにトップダウンだけではだめで、いかにボトムアップを上手にやるか、これが肝心だということです。  当たり前の結論だと思うのですが、先ほど紹介しました三人の学長のお考えはもっとトップダウンを強めたいというもののようでありまして、法案の内容もこの考えに沿っているように思います。それは私は、言葉は悪いかもしれませんが、多少時代おくれで、二十一世紀に通用する考え方ではないのではないかと思います。  今、企業経営と比べて御意見を申し上げたわけですけれども、国立大学は企業とは違うという点を申し上げておきたいと思います。  「中央公論」に堺屋太一さんが書かれた記事を読ませていただいたんですが、国立大学はこれまで国の保護でやってきたけれども、これからは自由競争をさせる、市場原理を導入して活性化させるんだというお考えを述べられているわけですが、このような御意見というのは大学と企業の違いというのをよく理解されていない、このように思います。  大学と企業はどこが違うかと申しますと、大学の使命というのは、いい研究をして、いい教育をして、それを社会に還元していくということですけれども、教育研究も個人プレーであるということです。基本的に個人プレーである。市場原理や競争がないかというと、そういうことはありませんで、研究費や研究業績をめぐっては、大学教官というのは個人レベルでかなり厳しい競争をやっているわけです。既に市場原理というのは相当入っていると思います。その中で評価されたものがよりよい地位につけるし、よりよい条件を獲得できるわけです。  余り知られていませんけれども、教育に関しても競争がございます。新しい教官を採用するときには必ずと言っていいほど教育に対する抱負や考え方を書いていただきます。研究はよくできるけれども教育熱心でない、こういう方は大学には向かないわけでありまして、研究所でやっていただいた方がいい、このように大学の者は考えております。したがって、大学ではできるだけ熱心な人を採用しようとしておりまして、例えばセミナーをやっていただいて、研究内容をわかりやすくおもしろく話をしていただける方かどうかというチェックは多くの大学で当たり前のようにやっております。  このような個人プレーと個人レベルでの競争というものが大学の活力の源泉でありまして、もちろん共同研究や授業等を通じての協力というのはやるわけでありますから、わがままというわけではないんですが、個性的な実力というのが大学の活力を支えているという点は御理解いただきたいと思います。  したがいまして、上司がいて部下がいるという会社の運営とは、大学運営というのは当然大きく違うべきであろうと。学長が適切なリーダーシップを発揮されるというのは、これは組織ですから当然のことですけれども、今の制度が悪いからリーダーシップが発揮できないというようには私は思わないわけでありまして、例えて言うなら、できるだけ小さな政府にして、分権を進める方がこれからの大学に見合っているのではないかと思います。  最後に、もう時間も限られてまいりましたが、では、大学をよくするために今何が一番大事かということを申し上げて終わりたいと思います。  国立大学をぜひ定員削減の枠から外していただきたい。公務員を減らそうという全体の流れの中で非常にばかげたことを言っていると思われるかもしれませんけれども、今国立大学が抱えている最大の問題は、運営体制でもなければ教育システムでもございません。教育支援体制が崩壊している、これでございます。  既にいろんな点で機能麻痺が生じているんですけれども、一例を挙げますと、私の参考資料に書いておりますけれども、例えば授業に関して私は必ずプリントをつくるようにしておりますが、プリントをつくるのに、図を縮小コピーして切り張りをして原版をつくって人数分コピーをする、あるいはリソグラフで印刷する、こういうのは全部教官がやるわけです。事務定員が少ないので、授業のプリントづくりに割ける人員はございません。これは東大でも京大でもそうです。  それから、科学研究費補助金の申請、こういう時期になると、教官がワープロで作成した文書を、申請書は縦けい、横けいがたくさんありましてワープロでそのまま印刷できないものですから、一回印刷したものをはさみで切ってのりで張って、それを両面コピーで十部ぐらいつくって事務に提出する。事務で何かチェックされて、例えば九州大学と書かなきゃいけないところを九大と書いていると、つくり直してくださいと言われてもう一回つくり直す、こういうことをやります。コピー機の前で順番待ちをするというようなこともよくありまして、駒場では東大の先生がよく締め切りになるとのりとはさみを持って右往左往して、コピー機の周りで順番を待つというのが毎年の恒例行事でした。こういうことのために大学教官が雇われているとは私は思わないわけであります。  これらは氷山の一角でありまして、文教委員先生方はぜひ一度大学を視察していただいて、今いかに深刻な事態が進行しているかという点をよく調べていただきたいと思います。  有馬大臣が東大総長をなさっていたころ、事務定員増なしの重点化というのはあり得ませんとおっしゃって重点化を推進されたわけです。しかし、事務定員は一人もふえないどころか、その後も定員削減でずっと減っているわけです。一方で、重点化で確実に仕事はふえております。事務量もふえております。そういう中で、事務主任が遅くまで残業するというような事態も常態化しております。  こういう中で、教育ももっと頑張ってやりたいと思っておりますし、実力も国際的についてきていて、特に若手は伸びていると思うんですが、それを生かすだけの支援体制が危機的な状況にあるという点を申し上げて、私からの発言を終わらせていただきます。
  8. 南野知惠子

    委員長南野知惠子君) ありがとうございました。  以上で参考人からの意見聴取は終わりました。  これより参考人に対する質疑に入ります。  なお、各参考人にお願い申し上げます。  時間が限られておりますので、御答弁はできるだけ簡潔にお述べいただきますようお願いいたします。  それでは、質疑のある方は順次御発言願います。
  9. 馳浩

    ○馳浩君 きょうはありがとうございます。質問も簡潔にいたしたいと思います。  まず、天野参考人に伺います。  今回の改革が現場におきまして順調に実行されなければ、いよいよ大学の独立行政法人化の議論がされると思います。ことしの中央省庁等改革推進本部の大綱によりますと、「大学の自主性を尊重しつつ、大学改革の一環として検討し、平成十五年までに結論を得る。」というふうになっておりますので、今回の改革ですら現在の大学の実態を改革できないということになるならば現実味を帯びてくる問題だと思います。  この独立行政法人化に関しまして、コメントがありましたらお願いいたします。
  10. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) 独立行政法人化の問題が大きな問題になっておりますことは、国立大学の関係者の間でもよく知られております。  私ども、科学研究費による研究グループで大学と地域との交流の調査をやっておりますが、その一環として、その項目の中に国立大学の設置形態をどう考えるかという項目も加えまして、その結果が出ているわけであります。全国の七つの国立大学の約三千名近い先生方の回答であります。それによりますと、大学によってこの問題の受け取り方は非常に違っている、また、学部によっても違っているというのが実情ではないかと思います。それは、それぞれの大学学問領域の置かれている立場によっての違いだろうと思います。  大きく言えば、設置形態の変更は望ましくない、現在のままでよろしいということと、慎重に検討した方がいいという意見と、一部であれ変えた方がいいという意見がほぼ三分しているというのが現状であります。もちろん、研究機能が強い大学では、行政法人化は望ましいというふうになっておりますし、また、地方の国立大学の場合には現在のままでいいという意見が強い。また、理工系の方に行政法人化が望ましいという考え方を持っている人たちが多くいる。多くといっても過半数を占めるような数ではありませんが、そういう状況にあると思います。  この行政法人化の問題につきまして、なぜ大学先生方がこのように受け取るかといいますと、それは、現在の大学に特に研究の自由が乏しいというふうに感じている先生方が多いということであります。それが意見に反映をされております。  しかし、現在の行革の中で出ております独立行政法人化論というのは、大学の方からしますと、まず国家公務員の定数を削減するという話とかかわって出てきております。つまり、行財政改革の一環として出てきておりまして、大学の活性化のために行政法人化が必要だという議論は、少なくとも当面は余り聞かれないわけであります。これは国立大学にとっては非常に困った問題でありまして、あくまでも重要なのは、大学による教育研究の活性化を図るためにこれが必要なのかどうかという問題だろうと思います。  また、独立行政法人化論を唱える方々の論拠になっておりますのは、私の仄聞しているところでは、イギリスにおけるエージェンシーであると。しかしイギリスでは、大学はエージェンシーではないんです。エージェンシー化が起こる以前から、大学につきましては準国立大学、ほとんどの予算が国から来るわけでありますから国立と言っていいんですけれども、大学運営の自由というものは、日本国立大学に比べればはるかに大きく初めから保障されてきたわけでありまして、ここでエージェンシー化をイギリスの大学がしたという話ではない。  したがいまして、日本の場合にも、国立大学だから活性化されないのか、行政法人化したら活性化されるのか、この問題は非常に慎重な議論が必要だろうと思います。  国立大学は、明治の初めにできましてから現在約九十九校ありますが、そこに蓄積されてきましたさまざまな学問研究や知識というものは、これは国民的な資産であります。これをどのような形で生かすためにどのような設置形態が必要なのか、変える必要があるのかないのか、単に行財政改革だけではなくて、そういう視点から検討していただくことを私としては強く希望しております。  同時に、大学につきましては、今回の管理運営組織整備が自己改革の方向に向けて積極的に働くことを切望しておりますし、これは実際に既に多くの大学が、さまざまな変化の中で、急速に意思決定の速度を高める、あるいは全学的な意思決定改革の問題について速やかにするという傾向が強まっているわけでありまして、決してこの法案が通らなければ大学は変わらないというものではなくて、もう既に変わり始めている、それを追認するものが今回の改革ではないか、私はこんなふうに思っております。
  11. 馳浩

    ○馳浩君 次に、門脇先生にお伺いいたしますが、教授会、私は籍を置いたこともないのでわからないのですが、事実上の意思決定機関であるのか、それとも単なる執行機関あるいは審議機関にすぎないのか、現場の実情も踏まえまして、どういう仕切りをしたらよいのだろうかということをお教えいただきたいと思います。
  12. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) お答えいたします。  私が経験しているのは、筑波大学人間学類教員会議というところが教授会に当たるわけですけれども、筑波大学の場合には既に今度の改正案を先取りしているようなところがありまして、ほかの大学とはやや性格が異なるというふうにまず御理解をいただきたいと思います。  そのことを前提にしながら申し上げますけれども、筑波大学学類教員会議の決定できるマターというのは、特に、学類というのは教育組織というふうに位置づけられておりますから、ほかの大学ですと、学部教員所属の場所でもあり、教育を行う場所でもあり、研究を行う場所でもあるというようなことで全部一緒になっているわけですけれども、筑波大学の場合には、学類教員会議教育組織として位置づけられているということ。ですから、我々が決定できるマターというのは、特に学類のその教育課程ということについてです。  筑波大学は、社会的なニーズに即応できるような形で、進行相談役として、講座制を廃止するというようなことでスタートしているわけで、社会の要請が変わるにつれて、学生の勉強したい要求に沿いながら、その教育課程の中身を変えていくというようなことが要請されているわけですけれども、実際には、教授会で決めるマターであるにもかかわらず、なかなか難しいというのが現状ですね。  ほかに、予算ですとか教育課程以外のものについては、学類教員組織が決定をするというような性格のものではなくなっておりますね、筑波大学の場合には。
  13. 馳浩

    ○馳浩君 非常に微妙な言い回しであったように思います。わかりました。
  14. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) あと、関連して言えば、これも今度の法律改正案を先取りしている、筑波大学はそれを先取りしているところがあるわけですけれども、全学の教育方針というようなものは評議会で基本的な考え方が示されて、それを参考にしながら、それぞれの学類の特色を生かしながら学生の要望にきちんとこたえるような形の教育カリキュラムを組むというようなことでは、学類教員会議が実質的には権限を持っているということになりますね。  質問以外のことになりますので、以上でとりあえずとめておきます。
  15. 馳浩

    ○馳浩君 教授会それから評議会について、私は非常に審議事項が重なる部分があるのではないかなというふうに思っているんですが、基本的な規定等考えれば、教授会教育研究事項について審議をする。評議会というのは大学運営について審議をする。ただし、教授会教育研究内容面については、それは教授会がもちろん専権事項としてあるとは思うんですが、それを実施していく面での手続面あるいは組織面については、どうも評議会審議事項が重なることがあるように思うのです。そういったことについての仕切りで意見が対立するということは、教授会評議会ではあるのでしょうかないのでしょうか。
  16. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) 筑波大学に限っては、教育をどうするかということについては、評議会学類教員会議が重なるということはほとんどありません。
  17. 馳浩

    ○馳浩君 わかりました。  次に、運営諮問会議性格についてちょっと御意見をいただきたいと思うんです。  公共的な機関である大学社会に対する説明責任を果たす意味で、学外の有識者の意見を取り入れつつ、社会ニーズに機敏に対応する大学にするために創設された機関であるということで運営諮問会議の位置づけがあると思うのですが、ただ、学長に対して意見を言うだけ、あるいは助言をするというところなら何となくわかるのですが、勧告までできるとなっているんですね。  この勧告権について、学長に対して勧告した、でも教授会の反対によって、あるいは評議会と対立をして、運営諮問会議がある事項について勧告したにもかかわらず実行できなかったというときに、運営諮問会議意見が十分反映されないということになってしまうのではないか。そういう意味では、この勧告権が法的に、法的にというか、実行力を担保できないような勧告権になってしまうのではないかというふうに思いますが、この点について何か御意見がありましたらお願いいたします。
  18. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) これもまた筑波大学の例ですけれども、もう既に筑波大学には参与会という形で運営諮問会議に相当するものが二十数年間の実績を持っているわけですね。今、参与会構成員は大体十名弱だと思いますけれども、大学では年二回その参与会を開いて、学長評議会でこういうようなことが話し合われましたという報告で終わっているというか、こういうようなことをせよというような勧告を受けたということでは、今の筑波大の参与会の規定ではそういうことはできない形になっているわけです。  それは、評議会構成員の一人として、もっと強く、こういうことをやるべきだというふうに言うような形になってほしいな、内心そういうふうに思いながら私は評議会構成員の一角を占めておりました。  ですから、今度の改正案ではかなりの、もちろん学長の諮問に応じて回答することになるわけですけれども、こういうようなことをした方がよろしい、また、やったかどうかについてもその評価も下すというような内容になっているわけで、そういうような改正の方向というのは、私自身経験からすれば好ましい方向ではないか、むしろそういう形のものを大学自分の判断でよりよく活用していくべきだろうというふうに考えております。
  19. 馳浩

    ○馳浩君 関連しまして、評議会メンバー構成についてお伺いしたいと思います。  実は、この評議会については筑波大学評議会をモデルにしているということでありますが、今回の改正案をよく見てみますと、評議会のコアメンバーといいますか常設の評議員について、筑波の場合は教育公務員特例法二条に定める部局長全員が常設の評議員となっていると、それで結構ですね。  ところが、今回の法案の常設の評議員につきましては、この部局長については文部省令で制限できるというふうになっているんですね。評議会の構成メンバーについて文部省令で制限できるということは、いわゆる省令がどうなるかによって構成メンバー、あるいは評議会のあり方に、影を落とすと言うと言い過ぎかもしれませんが、文部省の意思が働くんじゃないかなというふうな不安も感じないではないんです。構成メンバーのあり方について実質的にもう大学に任せたらいいんじゃないかと私なんかは思ったりするんですが、どうでしょうか。現状の筑波大学においてのメンバー構成のあり方についての実態も踏まえながらコメントいただければありがたいと思います。
  20. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) お答えいたします。  これも筑波大学で私が経験したことから感じていることですけれども、評議会の現在の構成員の決め方については、基本的には大きな問題はないというふうに考えております。  だけれども、最近の大学の事情は、学部から大学院重点化という形で大学院のウエートがどんどん大きくなってきているわけですけれども、筑波大学の場合には、現在は大学院研究科がその部局になっていないということで、部局研究科長が構成員になれない。筑波大の場合には博士課程の課程長と修士課程の課程長のみ、大学院を代表しては二人しか意見を反映できないということは、これは最近、筑波大学評議会の構成を見直そうということでだんだん声が大きくなってきていることです。  これは、文部省どうのこうのじゃなくて、大学の最近の変化に即応した形でやっぱり構成員を決めるべきことで、それは、筑波大学では大研究構想ということを今進めておりまして、もしそれが実現されれば、新しい大研究科になった研究科は部局扱いになるということですから、そこの研究科長は、しかるべき人数が評議会構成員にそのまま自動的になることになるんじゃないかと思います。  あと、御質問にありました文部省令での制限ができるということについての危惧はないかということですけれども、こういうおそれがあるのではないかというようなことは今のところ、私の経験からしたら思いつかないというふうに率直に申し上げておきます。
  21. 馳浩

    ○馳浩君 ちょっと肩の力を抜いて質問したいと思います。  矢原参考人にお伺いしたいんですが、私も実は大学で授業を二校ほどでしておるんですが、教授が、自分が行う授業について、あるいはゼミなどは研究体制についてだれかから評価をされるということになったときに、実際に授業をして、そしてそれを受けている学生からの評価というものが一つ考えられるわけです。  ほかの先生はわざわざ講義を見に来るわけでもないでしょうし、実際、自分の講義を受けている学生が、自分の講義に対してどういう評価をしているのかと。非常によい、あるいは至らぬ点もあるなと、いろんな意見を持っておるとは思うんですが、そういったものを例えばアメリカなどのある大学のように一覧表をつけて、こういったところがよい、こういったところがよくないというふうに評価されるということになったときに、実際に教壇に立っている教授としてはそういった学生からの評価を受け入れられるものなんですか、率直な質問ですけれども。
  22. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) 私は、東大の理学部で講師として初めて授業をした最初のときから学生に授業評価をしていただいております。それは、もう助手のころから外国でそういうことは当たり前のようにやられているというのを知っておりますので、自分もできるだけいい授業をしたいと思いまして、そのようにしております。  初めて授業をしたときは、私はプリントも用意しましたし、それから縮小コピーでプリントするだけじゃなくて拡大コピーをつくりまして、OHPシートというのを御存じかと思いますけれども、プリントの図を全部OHPにつくって、それで照らし出して、黒板の粉が飛ぶのも嫌ですので黒板には余り書かずに、そういうのを使って、スライドとかも使ってやったんですが、授業を受けた学生の感想は、黒板に書く時間というのをとらなかったわけですので、授業が速過ぎてわかりにくかった、だからやっぱり板書もしてほしいというような意見があって、なるほどと思って、板書も少ししながら、もう少しゆとりをもって授業するようにその後心がけているというような経験がございます。  私どもの世代は、そういうことをやっている人間が、少なくとも私が知る限り非常に多いです。それから、ほかの同僚に授業を聞いてもらってという経験もしばしばやっております。それから、いろいろな大学から学生を集めて自主的に学校みたいなものを開くというようなこともしばしばありまして、そういうときには当然いろいろな大学の人の前で話をするわけです。お互い、そんな下手くそな授業をやっていると学生にわからないよというようなことを言い合ったりもいたします。それから、そういう評価をされて直していくということは我々の世代にとっては当たり前でございます。
  23. 馳浩

    ○馳浩君 最後に一つだけ。  自分の授業がいいのかどうかというようなことを話し合うような場というのは正式にあった方がいいと思いますか。矢原参考人にお伺いいたします。
  24. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) あえてなくても構わないと思います。
  25. 馳浩

    ○馳浩君 終わります。
  26. 江本孟紀

    ○江本孟紀君 本日は、三人の先生方、大変御苦労さまでございます。私は民主党の江本でございます。  今回、この法案そのものには私は賛成の立場でお伺いしますけれども、少ない時間ですので事細かにというわけにはいきませんので、全般的な大学改革というような中から少しお聞きをしたいと思います。  まず、天野先生にお尋ねいたします。それから、この質問はお三人の先生にさせていただいてもいいと思うんです。  まず、天野先生が五年前に出された本をちょっと読ませていただいたんですけれども、タイトルが「大学—変革の時代」という本でございます。その中から抜粋させていただきますけれども、「企業と大学の接点は研究面であり、問題は研究費の少なさにある。アメリカに比べて科学研究費や民間財団からの寄付金は百分の一程度しか提供できる資金が無い。」というようなことを書かれております。  今国会の冒頭、この文教・科学委員会で、日本学術振興会法の一部を改正する法律案ということで審議をされまして、平成十一年度予算では科学研究費補助金千三百十四億円ということを決定しました。先生がこの本を書かれたのが五年前ですから、このときのことでいえば七百三十億円程度というふうに書かれておりましたが、それはもう既に倍増されているわけです。大変少ない科研費というものを憂えておられたんですけれども、この伸び率ということについて御感想をお聞きしたいということと、また、こういった科学研究費というのはありとあらゆる分野にということになっておるんですが、その中でこれが有効に活用されるためには大学側が何をすべきか、その点についてお聞きしたいと思います。
  27. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) 今、江本委員の方から御指摘がありましたように、科学研究費はこの五年ほどの間に倍近くに伸びております。これは恐らく、研究活動の活性化のためには従来のように、積算校費と呼んでおりますが、それぞれの大学教授一人当たり幾ら、講座一つ当たり幾らという形で配分するお金よりも、競争的に配分される部分をふやそうという努力を政府がしてこられた結果であろうと思います。これは、ほかの国に比べましてもこの研究費の伸びは非常に著しいわけでありまして、大変慶賀すべきことであると私は思っております。それで、申請者の数が年々ふえてまいりまして、ついに文部省では事務的な処理が難しくなって学術振興会の方に、ある部分が移ったというふうな話も聞いております。そういう意味で、この研究費のさらなる増額が期待されると思います。  ただ、問題がないわけではありませんで、日本の科学研究費というのは、全体の配分でいいますと、やはり自然科学系に非常に集中をしております。人文・社会系の比重が必ずしも高くない。それから、国立大学に偏っていて、私立大学の方に多くないというふうな傾向がございます。  これは、私立大学の方に人文・社会系の研究者が多いということとも関係しているのだろうと思いますが、それだけではなくて、多分、現在の科学研究費の申請の仕方がなかなか人文・社会系の研究者にお金が行くような形になっていないというところもあるのかもしれません。あるいは、私立大学先生方は非常に教育の方に時間をとられていて研究に割く時間が十分でないことが結果としてあらわれているのかと思いますけれども、そういう偏りはあるにしましても、非常に積極的に評価すべきことだろうと思います。  よくアメリカの例が引き合いに出されますが、アメリカ研究費はかなり大きな部分が財団から来ております。江本委員が御指摘になった百分の一というのは多分、私のそのとき書いた記憶によりますと、日本の財団が支出している研究費の額と、それからアメリカの財団が支出している研究費の額かと思います。それはそれくらいの比率になっております。  最近は、低金利政策のために、多くの財団の研究費の支出というのを見てみますと壊滅的な状態でありまして、ほとんど研究費を助成できない財団がふえてきているわけでございます。これは大変深刻な問題でありまして、その面からも、政府が負担する科学研究費の役割はますます大きくなっていくのではないかというふうに思っておりますし、そういうふうにさらに増額が行われることを私としては強く期待いたしております。
  28. 江本孟紀

    ○江本孟紀君 ありがとうございました。  私は、スポーツ関係を割と専門にやっておりますから、この問題のときも、例えばスポーツ医科学だとか、そういった今まで言われていないような分野にもどんどんこういったものを補助すべきじゃないかというような話をこのときもしたんですけれども、先生がおっしゃられるように、まだまだちょっと偏っている面もあるし、それから、特に民間からというのは非常に厳しい状況だという中で、これだけふえていく科研費というのは、文部省関係でももう大変な額なので、だからやっぱり有効に大学の中で使っていただきたいという、その方法といいますか、そういったものが非常に大事になってくると思うんですが、その点をもう少しお願いします。
  29. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) 失礼しました。  これは、先ほど矢原参考人が指摘されたこととも同じなんですが、研究費がふえるということはいわばお金のフローがふえるということでありまして、これは大変喜ばしいことなんですが、問題は、そのお金を使って研究をする側の条件の問題というのがあります。  事務職員の定削の話が先ほど出てまいりましたが、技官と呼ばれております特に自然科学系でこういう研究活動に当たって非常に重要な役割を果たしている人たちの定員も削減をされております。また、研究費がふえましても施設設備というのはそれに伴ってふえることがないわけですね。つまり、人と、研究をする場所であるところの入れ物である建物はほとんどふえない。  日本の場合には、大学院学生研究補助者的な役割をして日本大学研究活動が成り立っている場合が非常に多い。それから、先生方は、そういう院生の指導もしなければなりませんし、大学管理運営にもかかわらなければなりませんし、学部教育も担当しなければならないということで、非常に皮肉な話ですが、優秀な研究者ほど、たくさん研究費をとってくればくるほど研究の時間がなくなるおそれがあるという深刻な問題がございます。  つまり、先生方はどんなに研究費をたくさんとってまいりましても、アメリカ研究者ですと、とってまいりました研究費で自分の給料を払って、授業は一こまぐらいしか持たない。あるいは、そのお金で、研究補助者になります、ポストドクトラル・フェローと呼ばれております、PDと呼ばれる人たちを雇って研究活動をやってもらう。ところが、日本にはそういう仕組みが全くございませんので、研究費をとってくればとってくるほど院生は忙しくなる、先生自身もマネジメントに忙しくなる、しかし管理運営教育仕事は減らないという状況があります。  私はこれは、科研費を増額することも大切ですが、その研究の入れ物と人の問題もぜひ政府の方には関心を払っていただいて、棺おけ化とかいろいろなことを言われておりますけれども、早い話が、十年前に比べまして東京大学の、場所によるでしょうけれども、倍近くに院生はふえても建物は全然ふえないというふうな状況があちこちで起こっているわけでございますので、そういうインフラといいますか、フローだけではなくてインフラの方もぜひお考えをいただければというふうに思っております。
  30. 江本孟紀

    ○江本孟紀君 ありがとうございます。  門脇先生にも同じ質問を。簡単で結構でございますけれども。
  31. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) お答えします。  これも筑波大学の事例の紹介になると思いますが、前半の部分、確かに年々研究費がふえてきているということについては私自身も大変ありがたいというふうに思っておりますけれども、筑波大学の場合には、開学以来、文部省から筑波大学に与えられる研究費の二五%を大学の執行部というか大学が、筑波大学の場合には講座がありませんから講座に金が配分されるというわけじゃなくて、先生の頭数に比例しながら、教授が幾ら助教授が幾らという形で総額が決まるわけですけれども、その総額の二五%を全学でプールをして、科研費と同じような形で一律分配するわけじゃなくて、どうしてもこういう研究を共同でこういうふうにやりたいというふうに申し出れば、そのグループないしは個人に対して研究費を与えるというような制度を開学以来ずっと続けてきておりますけれども、これはもう相当に大きな効果を発揮してきていると思いますね。しかも、若手の研究者に重点的に配分するというようなことも暗黙の、暗黙というのか、かなり明確な基準になっていることもあって、若手は申請さえすればほぼ満額を必ずもらえるようなシステムになっています。  あともう一つ、さらに私が所属している教育学系について言えば、これも文部省からいただくお金は教授が幾ら助教授が幾らと、ステータスが上の方が額が大きい額になっているわけですけれども、それも我々の判断で、失礼ながら教授よりは講師の方が研究には頑張っているんじゃないかという、ここらは我々の常識みたいなところがあって、であれば、研究費の割り振りは、文部省からいただく金をそのまま渡すのじゃなくて、これもまたプールをして、しかも講師であれ教授であれ全く平等に配分する。ですから、これも学系内の申請を特別研究費というような形で申請して、若手でもいい研究をすればそのまま自動的に割り振るというようなことをし続けてきておりまして、これはほかの大学にもやっぱりそういうようなことをぜひ勧めたいことの一つですね。  あと、後半の部分については、年々ふえる研究費をどう有効に使うかということの一つは、天野参考人と全く私自身は同じ考えで、私も日本生命財団から、社会科学にしてはかなり額が大きいと思いますけれども、五千万円の研究費と六千万円の研究費をいただいて研究したことがあります。そのときも痛感したことは、天野参考人がおっしゃったとおり、仮に六千万円のお金をいただくとしたら、私が大学からいただいている給料をそのまま、六千万円から仮に一千万円を大学の方に納めることによって、私が授業をしている分を、もう一人その分で新しく人を雇えるというような形ができれば、あるいはまたいろんな事務の仕事をしてくれる人を雇うようなことができれば、私自身は残りの三千万とか四千万円のお金で研究に没頭できるというか、私の研究をアクセレレートする仲間を採用することができればさらにまた研究の成果を上げることができるというようなシステムが、アメリカでは行われているわけですけれども、日本でそれが許されていないということの歯がゆさというのはずっとやっぱり感じておりましたね。  これからはぜひその辺のところの御考慮をいただきたい。エージェンシー化ということを考えるとしたら、それはもう不可欠なことじゃないだろうかというふうに考えております。
  32. 江本孟紀

    ○江本孟紀君 ありがとうございます。  今度は矢原先生にお伺いしたいんですけれども、先ほど資金面でも実際には大変だということでしたけれども、今のお話を踏まえると、この科研費等についてはどのようなお考えでしょうか。
  33. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) 科研費については助手の任期制のときに一つ御提案を申し上げているんですが、現在、大学を異動しても、異動するための経費というのはほとんど出ないんです。公費で出すことは非常に難しい。年度末に異動することが多いですから、公費ではまず出せない。科研費では出せません。ですから、私は四つの大学を渡り歩いたんですけれども、やっぱり実験機器とかを抱えていって、それでセットアップするというのにかなりの費用がかかるわけです。ですから、異動したときに、その時点でいつでも出せる科研費という制度をつくっていただきたい。そして、新しい実験室をつくってこういう研究をするからということでアプライすれば認められる、そうすると予算がつく、そうすれば、例えば東京大学にいらっしゃった方が地方の条件の悪いところに異動されて、そのたびにその地方の大学がよくなっていくわけです。そういう制度をぜひお考えいただきたい。  もう一つは、門脇先生もおっしゃいましたけれども、科研費でポスドクを雇えるようにしていただきたい。  それから三番目に、一番目とも関係しますが、アメリカでは科研費というのは年に何回も申請できるわけです。日本では一回しかできません。その申請が外れれば一年間研究費が得られないわけです。やはり、年に少なくとも二回申請できるようにしていただきたい。この点をお願いいたしたいと思います。
  34. 江本孟紀

    ○江本孟紀君 ありがとうございました。  大学というのは、我々外部から見ていると、そういった研究をする場所だということで、潤沢な資金があって研究を大いにやっていただけるというような期待感があるので、この科研費の増額等については多くの方が賛成をしておるわけですけれども、大学の特色ということをもっとどんどん出していかなきゃいけないのと、これから先は、少子化によって、大学の経営ということに関しまして非常に厳しくなるんではないか。  そこで、大学によっては個々のいろんな特色とかそういった強みとか、こういう研究をすごくやっているよとかというような、何かはっきりした形というものを出して、例えば弁護士になるとか司法試験に受かるために最近は司法予備校と提携してやって、そして、結果、司法試験に受かるというようなケースが非常に多いみたいですけれども、そういった仕組みもちゃんとこの学校はあるよというような時代に入ってくると思うんです。  これから大学の全入時代、これから先を考えればみんな入ってくると思うんですが、特色のある大学づくりという観点からすると、それについてどのようなお考えかを門脇先生にお聞きしたいと思います。
  35. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) 御質問は、少子化に伴って私立大学の経営が厳しくなるというようなことかなと伺っていたんですけれども、そういうことでしょうか。
  36. 江本孟紀

    ○江本孟紀君 この前実は、ちょっと説明が不足したんですけれども、日本経済新聞の「大学はどこへ」というシリーズで大学のいろんな問題を取り上げていた中で、少子化という問題とこれからの大学の経営ということの中で、今までの仕組みじゃなくて、少し特色を出していかなければいけないんじゃないかというようなことについての、中から見てどのような大学にしたらいいかということなんですけれども。
  37. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) これはもう江本委員がおっしゃるとおりだと思います。実際に、大学生になる人数がどんどん少なくなる。とりわけ私立大学はそのことにどういうふうに対応するかということで、大学の特色をできるだけ出そうというような努力をもう必死になってやっていると思います。そういうようなことが、国立大学にもやっぱり特色を出さないといけないというふうなことで間接的にプレッシャーになっているのではないかというふうに思っております。そういう意味では、厳しい環境になるということが大学の体質を改善する、横並びから変えていくというような意識を我々大学人にもういや応なしに迫るということでは、選んだ状況ではないわけですけれども、好ましい方向ではないだろうかというふうに思っております。
  38. 江本孟紀

    ○江本孟紀君 ありがとうございました。
  39. 山下栄一

    ○山下栄一君 きょうは、参考人の皆さん、本当にお忙しいところありがとうございます。限られた時間ですけれども、聞きたいことが幾つかございますので、よろしくお願いします。  大学の役割の中で、私は、これは軽視されてきたのではないかというふうに思うのが、大学教育するところであるという観点でございます。初等教育、中等教育高等教育と言うけれども、高等教育の機能は本当に果たしてきたのか、そういうことが日本大学の場合に問われるのではないかという認識を持っております。  その認識が正しいかどうかということも含めてお聞きしたいわけでございますけれども、何か大学先生というのは研究の成果によって評価されるという面が余りにも強くて、教育面で一生懸命頑張っても評価されにくい、そのような現状があったのではないかというふうに感じておるんですけれども、この認識についてそれぞれの先生のお考えをまずお聞きしたいというふうに思います。
  40. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) 日本大学教育不熱心だという指摘は非常に人口に膾炙しておりまして、皆さんがおっしゃるわけですが、私は、少しこの点については申し上げたいことがあります。  まず第一に申し上げておきたいのは、日本大学はどこと比べて教育不熱心なのか。それは、アメリカやイギリスのようなアングロサクソン系の大学に比べてであります。ヨーロッパの大学に比べればはるかに教育熱心だと言っていいと思います。これが一点です。  もう一点は、どの大学を見て不熱心だと言うかという問題であります。これは、研究機能の強い大学は押しなべて教育不熱心でありますが、研究の機能がそれほど強くはない、つまり学部教育が中心である大学では現在でも既に極めて教育熱心であらねばならないような状況になってきているわけでありまして、こういう大学教育が不熱心だということを言うことはできないというのが二点目であります。  三点目は、これは矢原参考人の先ほどの御指摘にもありましたが、世代的な問題であります。どういう人たちが不熱心なのか。若い世代になればなるほど上の世代の不熱心に不満足でありますので、自分たちはこれではやっていけない、もっと熱心にならざるを得ないというふうに思っておりますし、また、外国の大学経験も持っておりますから、この世代は相対的に見ればずっと教育熱心であります。ですから、日本大学全体が教育不熱心であって、国際的に見ても大変に低い水準にあるという見方は間違っております。  問題は、トップレベル大学における教育不熱心の問題だというふうに思います。私は、真ん中レベルでありましたら、これはアメリカの普通の大学に匹敵するぐらいかなり教育熱心にやっている大学が多いと思います。しかし、いわゆる研究大学と呼ばれているところの先生方の中には、学生は教師の背中を見て育てばいいんだ、ノーベル賞が何十年かに一人出れば、あとは一将功成って万骨枯るでもいいんだと思っていらっしゃる研究重視の先生方というのは依然としていらっしゃる大学が少なくないということは事実であります。  ある大学では教授法の改善のためのセンターをつくりましたけれども、そこにやってくるのはほかの大学先生方であって、自大学先生方は余り関心をお持ちにならないという非常に残念な現状もございます。  しかし、こういう状況でやっていけるわけではありませんで、むしろ研究重視の大学でも学部段階の教育をきちんとやらないと優秀な研究者が育たないということが少しずつ認識されてきておりますので、私は、早急に数年のうちに大幅に変わるということはないにしましても、じわじわと変化は進行していくのだろうと思います。  そういう中で、教員の評価にしましても、それは研究を重視する大学研究能力の高い教員を雇おうとするのは当然のことでありますが、教育重視の大学では既に教育能力の高い人たちを集めるためのさまざまな努力が行われています。その一つは、例えば新設の、新名称の学部に多いわけでありますが、企業を含めて、大学院からやってくるのではないタイプの教員を採用するところがふえております。これは、学生たちに何を教えることができるのか、研究者としての経歴よりも、それまでの職業経歴や何を教えることができるのかという能力に注目しての採用であるわけでありまして、大学は、したがって、ある部分で非常に大きな変化が起こっているということを認識いたしませんと、一般論として教育不熱心論というのは、私は妥当性がないのではないかというふうに思っております。  もちろん、アメリカと比べますとまだまだ日本大学は押しなべて教育に不熱心だということは言えると思いますが、繰り返しになりますが、例えば、フランスやドイツの大学は入った人たちを半分以上落とす。すばらしい大学じゃないかというのは、あれは教育不熱心だから落第するわけでありまして、日本のように入った学生を八割、九割手とり足とりして送り出すというのは、これは教育不熱心だと言っていいのかどうかという問題も考える必要があるのではないかと思っております。
  41. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) 日本大学全般については、私自身天野参考人と似たような感想を持っております。一律に不熱心であるというようなことは言いにくいんじゃないかと思います。  筑波大学に限って申し上げても、学類によって大分違うし、その先生によっても大分違うんじゃないかというふうに思います。私自身人間学類学類長を四年間務めながらかなり口を酸っぱく言ったのは、教育、もちろん筑波大学学類というのは教育組織ですから教育を充実させるということは最大の使命でありますから、学類長としては何度も何度も繰り返しながら言ってきていたわけですけれども、そういうことを言い続けないといけなかったということは、なかなか私が期待するような水準までは行っていなかったということの裏返しでもあるということです。  私が所属していたところは、教育学ですとか心理学ですとか、心身障害学と言っています特殊教育ですとか、そういう学問を専攻しておる先生方が中心になっていますけれども、そういうようなところは、直接人間を育てるということで教育をそれこそ重視しないといけないところでありながら、なかなかそういうふうな形ではいかなかったというところは残念なことでした。  先ほど矢原参考人が言っておりましたけれども、仮にボトムアップというようなことをすれば問題はないんじゃないかというふうな御発言があったかと思いますけれども、学類長として残念に思ったことは、学類長学類のカリキュラムの編成権を持っているということには筑波大学の場合なっているわけですけれども、ことしこそは学生が好むようなカリキュラムの編成をしたいというふうに私が思っていたとしても、どうしても自分がこれまで研究をしてきたことを教えるというようなことがやっぱり中心になって、学生が知りたいということに対応するような形の授業をするというようなことはなかなかやっぱりできなかったというのが実情です。  というのが実情ですけれども、全体として見れば、教育をおろそかにしてはいけないというような雰囲気は、若手はもちろんですけれども、高齢の先生方もそういうようなことについてはかなり意識して改善に努めるような雰囲気は徐々に出てきているというふうには申し上げてよろしいと思います。
  42. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) 大学教育という場合に、全学共通教育学部教育大学院教育、この三つを分けて考える必要があると思います。  全学共通教育と申しますのは、例えば、私は専門が生物ですけれども、一、二年生の生物学は別に理学部学生だけがとるわけではございませんで、ほかの学部学生もとるわけです。ですから、ほかの分野に進む学生教育をする。それから、学部教育というのは、これは理学部の生物学科に進んだ学生教育ですから、九大であればかなりの人が大学院に進むし、そうでなくても生物学を生かした職につきたいという人に教育をする。大学院になるともっと専門的な教育をするわけです。  教育不熱心と言われる部分は、私はやはり全学共通教育のところにあるんではないかと思います。大学院教育学部教育に中心で携わっているいわゆる学部先生にとっては、自分の分野に進んでこない、例えば理学部先生が文系の学生を教えるということになると、これは大変つらいことなわけであります。例えば、生命倫理というようなことを生物の先生に教えろと言われても、やはりかなり勉強しなきゃいけない。研究時間も限られていて非常に忙しい中でいろいろ勉強して教えなきゃいけないというのは、これは大変なことであります。ですから、気持ちはあってもなかなか熱心になれない、やっぱり研究に目が行ってしまうという面は確かにございます。  一方で、教養学部あるいは旧教養部の先生方、今は大綱化によって大部分大学学部に吸収されて教養部というのはなくなってしまいましたけれども、しかし、ずっとそのいわゆる教養教育に携わってこられた先生方は、やはり一、二年生を教えるということに非常に大きな生きがいを感じていらっしゃる方が多いです。ですから、学部先生方に比べると、自分専門分野以外に進む人にもぜひやっぱり、例えば生物学というのは二十一世紀においてはあらゆる学問に必要になると思って一生懸命教えていらっしゃる方は多いです。  ですから問題は、私は、今、教養部がなくなってしまって、全学共通教育というところに一種の混乱が生じていまして、これをどう学部先生方と旧教養部の先生方と協力してよりよいものにしていくかというところで模索をしているという段階ではないかと思います。そういう過程で、私のように教養も学部も両方経験したという者が学部の方におりますと、やはりうまく橋渡しができて、いろんな議論も今進んでおりまして、そういう中で新しい形がどんどんできていっているんではないかと思っております。
  43. 山下栄一

    ○山下栄一君 ちょっと天野参考人にお聞きしますけれども、この教育機能の面で、特に大学院でなくて学部の方なんですけれども、先生も先ほど触れられました教員採用のあり方なんですけれども、教員を採用する、まず選考するときに、大学院出身、例えば修士課程、博士課程の方であるならばどうしても教育面というのは苦手な面もあるんじゃないかなというように思うんです。そういう意味で、この教員採用のときに、先ほど矢原参考人もおっしゃいましたけれども、教育面に熱心というか、熱意を持っている方というようなものを選考基準の中に入れるかというようなこと、お考えになっている方向というのは広がっているのか、現状をちょっとだけ短時間で教えていただきたい。
  44. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) 先ほど教育不熱心の話をしましたが、最近問題になってきておりますのは、教育不熱心の問題よりも学生の側の学習不熱心の問題だということもちょっとつけ加えておきたいと思います。  そこで、教員採用の問題ですが、教育熱心な教員を採用するという傾向は、これはもう既に一部の私立大学ではずっとこういう傾向は広がってきていると言っていいだろうと思います。しかし、先ほど申しましたように、研究重視の大学ではそういうことは余りやっていない。  私は、これは問題が二つあると思うんですが、大学教員というのは何よりも教育をするために雇われている人間だ、これはアメリカ大学では常識であります。大学院学生を教えますときに、あなた方は研究ではなくて教育をするために仕事をすることになるんだと。ですから、アメリカ大学に広く広がっているティーチングアシスタントという制度がありますが、TAと呼ばれています。このTAは先生教育の助けをするわけですが、それは同時に将来の教員としてのトレーニングにもなっているわけです。ですから、ただTAをやれというだけではなくて、ちゃんとプログラムをつくって、そこで大学院たちがどういうふうに学生を教えるのかということについて、評価をどうするのかというふうなことについて基本的なことを学んだ上で先生のアシスタントになるわけでございます。  日本でも数年前から、これは文部省の御努力でようやくTAの制度が入ってまいりましたが、なかなかこれは単に学生を使ってそれに若干のアルバイト費を払うような形を出ておりませんで、トレーニングの場としてTAを使うという考え方がまだ定着をしておりません。大学先生になってからでは遅いとは言いませんけれども、なる前に大学教員としての自覚を持ってもらうような訓練のシステム大学院レベルで持っておかなければいけない。  なぜならば、大学先生たちが養成されます大学のほとんど全部が研究大学であります。そこに大学院学生が入ってきまして、研究面での成果を競っている場所であります。そういう人たちが将来さまざまな大学先生になっていくわけでありますから、こういう大学でこそ、将来教員として職務を果たすためには何をしなければいけないのかということをあらかじめ教えておかなければいけないということが一つあります。  それから、採用の問題について言えば、これもアメリカ大学は非常にすぐれていると思うのですが、採用を予定しております候補者を多くの大学大学に招いて、そこで大学院生や学部学生を前にして実際に講義をしてもらう。そして、その意見を聞きながら最終的な候補者の選定をするということをやっています。ですから、必ず複数の候補者を選んでその候補者を競わせるというようなことをやっております。  これは、日本のように、教員採用がマーケット化しておりませんで、個人的に、おい来てくれよ、お前どうだというふうな形をやっている限りはなかなか実現されないやり方でありまして、教員の市場そのものがオープンになれば、どういう能力を持っている人を雇うのかということがもっとフェアにオープンに行われるようになるだろうと思います。  現段階では残念ながら非常に個人対個人の関係で行われているわけでありますから、なかなか教育能力の高い人を見分けるというのが難しいわけでありますが、幸か不幸か、大学院の大拡充をやっておりますので、大学がもう発展しなくなる中で大学院生の数だけはどんどんふえていくわけでありますので、やがて教育の能力のない大学院生が採用されないというふうな事態になれば、市場の圧力で変わるのではないかと皮肉な見方をしております。
  45. 山下栄一

    ○山下栄一君 門脇参考人にちょっとお聞きしますけれども、筑波大学方式、もう二十五年たつわけでございますけれども、改革方式が大分普及してきたことが今回の法改正につながったのではないかなというふうに思うのです。  その中で、運営諮問会議ですけれども、この運営諮問会議メンバーの人選基準のあり方ですが、これはどこで決めるんだと。私はそれぞれの大学で決めるべきではないかという考えも持っているわけですけれども、今回の法律でははっきりしておりません。筑波大学の現状と、運営諮問会議の人選基準というのは僕は国がつくるべきではないと思うのですけれども、それぞれの大学でという考え方についてのお考えをお聞きしたい。  それともう一つ先生は附属学校の問題について具体的な大きな課題であるとおっしゃっていますけれども、その内容を教えていただきたい。  以上でございます。
  46. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) 最初の御質問ですけれども、運営諮問会議筑波大学では参与会というふうに言っていたわけですけれども、どういう基準で選考していたかについては、私自身かかわりを持ったことがありませんので、今明確にお答えすることはできません。  私が見るところ、産業界ですとか茨城県の県知事も今現在参与会メンバーになっておりますし、筑波大学で長く教鞭をとられて副学長経験者で私立大学学長になっておられる方とか、あるいは有馬先生もなっておられるのかもしれませんね。私が見る限りではふさわしい人を選んでいるのではないか。  どういう基準で選んでいるかはともかく、こういう人であれば相当に前向きな建設的な助言、提言をしていただける方々であるなというふうに私自身は見ております。妥当な選び方を少なくともこれまではしてこられたのではないかというふうに思っております。  あと、附属学校についての問題ということですけれども、私は多分、筑波大学構成員の中では、現在筑波大学は十の附属学校を持っておりますけれども、附属学校については一番厳しい見方をしているのではないかと思います。ですから、附属学校先生方には、いい意味ではなくて悪い意味で私の名前が一番知られているんじゃないかというふうに思っております。  それは、一部民営化論というのを、これは学類長としての案ではなくて門脇個人としての案を言っている者として一番憎まれ役を買っているのではないかと思います。現在の筑波大学に限らずですけれども、国立大学附属学校というのは多分二百六十校ぐらいあると思いますが、現在のあり方というのは相当に考えるべきことじゃないかというふうに思っています。  附属学校の存立基盤というのは、これは国立学校設置法か何かに、ちょっと今手元に詳しい資料がありませんけれども、そこでなぜ必要かということが二つあると思うんです。一つは、教育実習をするときの実習校として協力するということが一つ。それからもう一つは、教育に関する研究の協力をするというようなことであるわけです。  私は、これから国立学校存在し続けるためには、大学教育そのものに附属学校が相当に協力するというようなことにならないと、その存在意義はないんじゃないか。とりわけ教員の養成をするというようなことを目的にしている大学については、特にそのことは強調されないといけないことだと思いますけれども、仮に教員の養成を目的にしていない大学にしても、現在の大学における教育そのものをサポートできるようなことが国立学校存在意義の中にいわば明確に書かれるべきことだ、規定されないといけないんじゃないかと思っております。  現在、筑波大学の十校が果たしてそういうような役割をしているかというと、これは距離的な問題もあるわけです。筑波大学があるところから現在ある附属学校までは六十キロないし七十キロぐらいあって、相当朝早く弁当を持っていかないとたどり着けないというような距離があるものですから、ここのところを何とかするためには筑波大学のキャンパスのすぐそばにないといけないというようなことも絡めて、私は一部民営化ということを強調していることになるんですけれどもね。  最後にちょっと申し上げれば、繰り返しになりますけれども、大学教育それ自体に附属学校というのは全面的に協力するような形の規定の仕方をぜひ希望したいというふうに思っております。
  47. 山下栄一

    ○山下栄一君 終わります。
  48. 林紀子

    ○林紀子君 まず、大変お忙しい中をおいでくださいました三人の先生に心からお礼申し上げます。  私はまず、国立大学のエージェンシー化問題についてそれぞれ三人の先生にお伺いしたいと思うわけです。  天野参考人に対しましては、先ほど同僚委員から質問がございましたけれども、先生は以前、国立大学管理運営機構については問題点が多く、それが民営化、エージェンシー化論の重要な底流となっていることを考えれば、この新制大学発足以来の問題を未検討のまま先送りすることはもはや許されなくなりつつあると見るべきだろうというふうに書いていらっしゃるのを拝見したわけですけれども、先生国立大学のエージェンシー化について賛成か反対か。先ほどお伺いしましたところでは、公務員の削減とか行財政改革という点から考えるエージェンシー化はどうも賛成しかねるというお話ではないかと伺ったんですが、これでよろしいのかどうかということも含めてお聞かせいただきたいと思います。
  49. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) 先ほど御指摘いただきましたのは、今回の大学審議会の答申が出ます前に私が書いたことかと思います。そういう意味で私は、先ほども申し上げましたように、今回の管理運営機構整備を積極的に評価したいというふうに思っております。  ただ、まだ国立大学についてはさまざまな問題があるかと思います。その一つ文部省国立大学の関係でございます。これはどこの国でも非常に難しい問題でありますが、政府と大学との関係をどうするのか、今のエージェンシー化の問題はその一部として出てきているというふうに今思います。  これまで長い間、国立大学文部省の所管下にありました。非常に厳しく統制をされている、裏返せば庇護されている、そういう存在であったわけであります。少しずつ自由化をしようという方向で、これは、規制緩和の大きな流れの中で国立大学にもその波が及んできている、大学自分意思決定ができる部分を膨らめてきているわけでありますが、さらにもう一歩、将来の問題として考えれば、やはり人と金の問題を大学がどれだけ自由にできるのかという問題が残ってくるわけであります。  先ほど来、運営諮問会議ですか、いろいろの名前が出ておりますけれども、外部評価をいたしましてもいろいろ問題点がある、こういうことをもっと国立大学はやるべきだという御意見をいただきましても、国立大学が現在の状態では自分でできることは非常に限られている。文部省とネゴシエートしまして、予算折衝いたしまして、人をつけてくれるか、お金をつけてくれるかという話をしませんとできないわけであります。外部の資金を導入いたしましても、奨学寄附金というのは一度全部大蔵の国庫に入りましてそれから戻ってくるわけでありまして、なかなか大学が、自分で人と金を動かす、あるいは建物をどんどん自力でつくる、そういうふうなことはできない状態になっているわけでありまして、そういう大学と政府、あるいは大学文部省の関係をどうするのかという問題は、今回の大学審答申や管理運営機構整備でもまだ未解決の問題として私は残っていると思います。  エージェンシー化の問題を考えれば、大学を活性化するために、それでは大学と政府、大学文部省の関係がどうあったらいいのかという視点をぜひ含めて御議論をいただきたい。エージェンシーにするという大前提がありまして、それから議論が出発するというのは私は賛成をしかねるというふうに先ほど来申し上げているわけでありまして、いろいろ議論の末、エージェンシー化しなければだめだということになるのであれば、それは五年という猶予期間を大学は与えられているわけでありますから、大学側も議論をするでしょうし、大学関係団体も議論をするでしょうし、さまざまな議論が行われる必要性があると思います。  繰り返しになりますが、お金と人を減らすためにエージェンシー化しようというふうな議論であれば、これは賛成しかねるということを申し上げたいと思います。
  50. 林紀子

    ○林紀子君 ありがとうございました。  門脇参考人はこのエージェンシー問題についてどのようにお考えになるか、お聞かせください。
  51. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) エージェンシー化するかどうかということを二〇〇三年までペンディングにするというふうなことになっているかと思いますけれども、私は、やっぱりそれは妥当な判断じゃないだろうかというふうに思います。  というのは、もう今の国立大学は、先ほどもかなり厳しく言いましたけれども、自己改革能力というのが乏しいんじゃないかというふうに思っている、あるいは自己活性化能力というのはまだまだついていないんじゃないかというふうに見ている者としては、今すぐにエージェンシー化ということをやったとしたらほぼ壊滅状態になるのじゃないかというふうに恐れております。今回の改正を含めて、大学が、こういう大学でありたいというようなビジョンを掲げて、それを自分の力できちんと実現できるような力をつけるというか、そういうような状態にした上で考えるべきことじゃないだろうかというふうに思っております。  ですから、二〇〇三年でもまだちょっと早いのかもしれないというふうに率直に思っていますけれども、できるだけそういう方向で頑張ってほしいなというふうに個人的には思っています。
  52. 林紀子

    ○林紀子君 ありがとうございました。  矢原参考人も同じ質問でお願いいたします。
  53. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) この件に関しましては天野参考人の御意見とほとんど同じ意見を持っております。  このエージェンシー化という発想自体が、出てきた流れが公務員を減らすあるいは財政支出を減らすというものでありますので、そういう中で大学をエージェンシー化するということになりますと、ますます大学は苦しくなって日本高等教育が立ち行かないという事態になろうかと思います。  ただ、御指摘ございましたように文部省大学の関係をどうするかというのは、これはもう一方で検討しなければいけない問題だとは思います。  現状の大学のあり方で問題点がないかということを、私は科学者ですのでデータに基づいてはっきりさせるということが大事だと思います。そのデータに基づいてここが問題だということになったところにメスを入れていく、そういう考え方で考えないと、エージェンシー化先にありきということでは困るのではないかと思います。
  54. 林紀子

    ○林紀子君 わかりました。  それでは、続けて矢原参考人にお伺いしたいと思うんですけれども、先ほど本法案というのは、学長権限を強めてトップダウン式の意思決定だというお話がありましたけれども、このトップダウンの弊害についてということです。  配付されました資料では九大の移転問題というのを具体例として挙げていらっしゃいましたけれども、差し支えなかったら、そのトップダウンの弊害の実例といいますか、そういうことでどういう問題があったのかというのをお聞かせいただけたらと思うんです。
  55. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) これは、具体的にということになりますと多少批判じみたことになりますので多少はばかられるところはございますが、私が伺っている限り、確かに九州大学の移転の問題というのは総長の非常に強いリーダーシップで決まったと伺っております。バブルの時期の幻想というのもあったんではないかと思いますが。  私は、組合の委員長を仰せつかりましたときにちょうど移転造成計画が出てまいりましてそれを議論するという時期でしたので、移転予定地に行ってみたわけです。その時点までは、実を申しますと私は移転に賛成でありました。新しい敷地、大きな敷地を獲得してそこに一から大学をつくるというのは、これはやっぱり大学としてはやってみたいことであります。  しかし、行ってみて土地を見て、この土地に果たして大学がつくれるのかという危惧を持ったのは事実でございます。相当地形が激しいところでございまして、移転造成計画案というのもその台地をかなり大規模に造成するという案でしたので、環境との共生という理念を掲げている一方で山を壊すというのはいかがなものかという点で具体的な御意見も申し上げまして、造成計画案は、谷を埋める計画とかを大幅に取りやめてかなり環境に配慮した案として最終的に決定されましたけれども、それでもなお幾つかの大きな問題を未解決で抱えて、大学としては相当苦しんでいるという状態にございます。  そういう状態ですので、移転というのが決定される時点で、土地の地形とかそこに大学を移した場合のいろんな問題点というのがもう少し慎重に検討されていれば、あるいは結論は違ったかもしれないと思うところはございます。
  56. 林紀子

    ○林紀子君 そうしますと、トップダウン式の意思決定というのではなくて、ボトムアップというんですか、それと反対のことになると思うんですけれども、そういう意思決定が必要ということでは、具体的にそれをどういうふうに広げていったらいいのか、今後ボトムアップということではどのようなあり方が必要なのか、その辺についてお聞かせいただけたらと思います。
  57. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) 私は分権ということを申し上げましたけれども、学科あるいは学部レベル意思決定、学科あるいは学部というのも組織ですので、そこがいかに考えて意思を決定するかというのも、大学全体と同様に、あるいは多くの場合それ以上に重要ではないかと考えております。ですから、まずそういう末端組織である学科及びその上にある学部というものがしっかりするということが大変重要ではないか。  ある程度規模が小さくなりますと、その中でいろんな議論がしやすくなりますので、例えばカリキュラムの問題について門脇参考人からボトムアップだけでうまくいかないケースがあったという御意見がありましたけれども、これはトップダウンだけでもやっぱりうまくいかないと思うんです。こういうカリキュラムを変えることの必要性ということについて議論して、なるほどそれではやろうというふうに学科なりがならないと、カリキュラムを変えても嫌々やっているという状態になりますので、それに時間をある程度はかける必要がある。  それから、状況はどんどん変わってきておりまして、インターネットというのが発達しております。先ほど大学個性化、多様化が必要じゃないかという御指摘がありましたけれども、この場合、学部の特色、学科の特色、これが受験生や社会に一番見える部分でありまして、総合大学になりますと、大学全体でどういう特色があるかというのはなかなか難しいわけです。ですから、それぞれの学部あるいは学科で、こういう特色ある分野を持っている、あるいはこういう特色あるコースを持っているというのをインターネットで外に向けて発信するというのをどこの大学でも始めております。受験生もそういう学科のホームページとかを見て受験先を選ぶという傾向になってきております。  実は、先週の日曜日、私は河合塾の九大ワンダーランドというところに出演をしておったわけですけれども、河合塾というのは御存じのように進学塾ですが、進学塾でも今の入試のあり方や教育のあり方の欠点にいろいろお気づきでして、ブランドや偏差値だけで大学を選ぶ時代はもう終わるだろう、そうすると、どういう先生がその大学にいるのかをよく知った上で受験生が大学を選択する時代が来る、そういうことをおっしゃるので、これは大変いい考えだということで協力したわけでございます。  そういうときに、やはり学科の単位でいろいろ工夫をして対応するというのがどうしても必要になってまいります。ですから、そういう学部や学科のところでの組織としての議論意思決定を強めていく、その上に立って大学全体が運営されるというのが大学運営の仕方として望ましいのではないか。  もう一つ、具体的な方法として申し上げておくと、やはりインターネットになるんですけれども、大学全体の意思決定の上でインターネットを通じた意思決定というのが今後非常に重要になると思っております。これもボトムアップの一つの有効な方法ではなかろうか。実は、大学意思決定というのは、教授会評議会で行われるというよりも、そこは最終的に承認を得る場で、どうしてもそこで議論しなきゃいけない問題が生じたときはそこで議論しておりますが、いろんな委員会やワーキンググループ、あるいは学科長会議とかそういうところで基本的な審議が行われているのが実情でございます。そういうところの議論というのは、例えば学科長会議議論というのは、教授会のように教授が皆さんいらっしゃるというわけではありませんので一部の学部長しか知らないわけですけれども、その議事録を速やかにインターネットでオープンにして、意見があればそれにいつでも応じられるというような形に持っていくということが大きな組織を動かしていく上で今後非常に有効になろうかと思います。  ただ、そのためには、それを支える事務組織とかいうものがある程度しっかりしていないと実現できないわけでございまして、定員削減がどんどん進んでいる中で、議事録を全部入力してくれというようなことをお願いするだけの事務組織が今はなくなっているという状況にあるのは御理解いただきたいと思います。
  58. 林紀子

    ○林紀子君 今、外との接点といいますか、社会との接点というようなお話もちょっと触れられましたけれども、先ほど矢原参考人運営諮問会議についてはお触れにならなかったと思うんですが、その点についてどういうふうにお考えになっているかお聞きしたいと思います。
  59. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) 私は、外の意見を聞くということに関しては今でも非常にオープンに考えておりますし、大学として大いにやったらいいと思う者であります。それで特にコメントしなかったわけでございますが、審議を伺っておりますと、この運営諮問会議が勧告をする、しかも、委員の決定に当たって場合によっては大学のコントロールがきかないかもしれないという議論を伺うとちょっと心配になってくるわけです。  私は、この運営諮問会議という形にとどまらず、学部レベルあるいは学科レベルでいろんな形で社会からの意見を受け入れて対応していかなきゃいけない、特に学部・学科レベル改革がこれから大事だろうと思うんですけれども、そういうときに運営諮問会議というのはどういうものになるかといいますと、やっぱり非常に偉い先生方をお招きするということになろうかと思います。  実際、幾つかの大学で試みられているものはそういうものだと思うんですが、衆議院の議事録の方でも、例えば梅棹先生を呼んだり堤清二さんを呼んだりというような紹介がありましたけれども、そういう偉い先生方のお知恵というのは、それはそれで確かに大学をこれから変えていく上での非常に大きな示唆を与えてくれるものだと思いますが、一方で、大学の中の実情、今大学をよくしていく上で具体的にこういう問題があって、こういう点を変えなきゃいけないという点についてはそれほど詳しく御存じないわけであります。  ですから、私は科学者として科学の方法というのに信頼を置く者ですけれども、具体的にデータとしてどういう点が今大学は大きな問題で、ここをこう変えればこういう効果が期待できるという点を明らかにしてそこを変えていくということでないと、偉い先生のお知恵を拝借して、なるほどそれはいいですねというふうにして上から変えようとしても、なかなか下がついていかないということになるのではないかというふうに思います。
  60. 林紀子

    ○林紀子君 あとお伺いしたいことは、先生がいかに多忙であるかということは先ほど大変リアルにお話をいただいたのでわかるわけですけれども、教職員の定数削減とか基準的経費の据え置きというのが行われておりまして、それが大学の実情という形で数字的にもそれこそどういうふうになっているのか。それから、大学審の答申は学生の課題探求能力の育成ということを大きく掲げているわけですね。それから大学院生の倍増ということも挙げているわけです。  先ほどお聞きしたような忙しい状況の中で本当にこれが実現できるのかどうか、文部省への御要望なども含めてお聞かせいただけたらというふうに思うわけです。
  61. 南野知惠子

    委員長南野知惠子君) 時間が迫っておりますので、手短にお答えいただきたいと思います。
  62. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) 定員削減ということに関しましては、今進んでおります第九次で、九大だけでも百二十四人これから減らすという計画です。これだけ減らされると学部の事務が成り立ちません。それで、今考えられている改革案では、学部から相当の事務を吸い上げて中央化するということになりつつありますけれども、果たしてそれでやっていけるのかというのを事務の方も教官も心配しているという実情にございます。この点はかなり緊急に対策を講じていただかないと、本当に大学の機能が麻痺するという事態が近づいていると思います。  それから、課題探求能力の育成という理念に関しましては、私はあちこちで賛成の意思を表明しておりまして、これこそ大学がこれから行うべきことだと思うんですが、そのためには、私は研究的なプロセスを通じた教育というのが基本だと思います。特に卒業研究が今の大学のカリキュラムの中では重要だと思いますが、大学になっても、研究的なプロセスに入るために学ばなければいけないものというのはどうしても高校だけの知識では足りないので、ある程度三年間ぐらい積み上げて、四年目になって初めて卒業研究するというのが多くの大学のカリキュラムです。そこで初めて学生は、解かれていない問題、未知の問題というものを前にして、いろいろデータを集めたり資料を調べたりして頭を使って、初めて課題探求能力の育成というものに携わるんだろうと私は思うんですけれども、その場合の教育というのは、これはもう時間がかかります、手間暇かかります。しかも、学生におもしろいと思わせて、ある程度答えが出て、力がつくという教育をしようとすると、やっぱり教える側に研究面での力量というものが大きく要求されます。  ですから、私は研究教育を切り離すという考え方は基本的に反対でありまして、これからの課題探求能力の育成という考え方でカリキュラムを考えるときには、どうしても教える側が未知の問題を見つけて学生にそれを解かせて、ほらこういうことがわかるでしょうということを教えられる、そういう創造的な力量が必要ですので、やはり研究教育というのは一緒にやっていかなきゃいけない、このように思っております。
  63. 林紀子

    ○林紀子君 どうもありがとうございました。
  64. 日下部禧代子

    日下部禧代子君 きょうは、お三人の先生方、大変貴重な御意見を率直にお述べいただきまして、本当にありがとうございます。  今回の法改正大学審議会の答申に基づいたものでございますが、そのサブタイトルにもございますように、その特色の一つ競争原理の導入ということがあろうかと存じます。「競争的環境の中で個性が輝く大学」ということがサブタイトルにつけられております。  そこで、天野先生にお伺いいたしたいのでございますが、競争原理あるいは市場原理の高等教育への導入ということ、これは教育になじまないのかなという御意見もなきにしもあらずでございます。どのような観点から、どのような部分に、こういった今まで余り大きな声では語られなかった競争原理あるいは市場原理、あるいは効率化、合理化といったことが必要とされてきたのかということも含めて御意見をいただければと存じます。
  65. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) 競争原理の問題は、日本大学競争的な環境の中にないということがこれまで繰り返し言われてまいりました。しかしそれは実は誤りでありまして、競争は既にいろいろな形で行われてきたわけであります。ただ、これまで最大の競争学生の獲得競争という形で起こって、この学生の獲得競争は、優秀な学生を獲得したいという競争と、より多くの学生を獲得したいという競争二つあるわけでありまして、この二つがいわゆる受験競争をつくってきたと思います。  十八歳人口がどんどん伸びていた時代はよかったのですが、最近のように十八歳人口が伸びどまりまして下がるというふうになりますと、高等教育につきましても右肩上がりの成長の時代は終わりということになります。そこで学生の獲得競争は非常に激しさを増してまいりまして、今や、優秀な学生をどれだけとるかではなくて、どれだけの数の学生をとるかという方向に競争が来ている。  従来の市場原理が、市場というのは受験生をめぐる一つの市場が存在しているわけでありますが、この市場の構造が非常に大きく変わってきているということがあるわけです。これが日本高等教育の将来にどういう意味を持つのかということは、これは慎重に検討しなければならない問題だろうと思います。このままいきますと、量の確保ばかりに目が行って、質の低下が起こるのではないか。質の高さを目標にするような競争にどのようにして変わっていけるのかというのが今回の答申の一つの目的でもありまして、そこで教育の問題を非常に重視しているということになるわけであります。  もう一つは、これは教員の問題であります。教員につきましても、先ほどもちょっと触れましたが、日本大学教員の市場というのは非常に閉鎖的で、インブリーディングと呼びますが、東大の先生たちの大半は東大出身者、早稲田の出身者は早稲田ばっかりというふうな話がしばしば言われております。これは教員の市場が競争的でないということを意味しているわけでありまして、任期制の導入というのはここに競争的な原理を導入しようという考え方であったわけでありますが、なかなかこれは、競争を起こすためには非常に複雑な条件があるわけであります。  つまり、アメリカやヨーロッパの国で任期制が導入されているところでは、競争は当然のことながらより高い報酬を約束されての競争であるわけであります。例えば、アメリカ大学を移れば給料は倍になる、奥さんの就職口も世話をしてくれる、住居ももらえる、授業負担が減るというふうなことでありますから、先生方は非常に異動に熱心でありますが、日本大学は、幾ら異動しましても給料は上がらない、奥さんは働いていますと失職をする、家ももちろん保障されないというわけでありますので、市場の条件が整っていないんだと思うんです。この問題は、競争原理を導入しようとしましても競争原理が働かない問題として残っていると思います。  それから三つ目の問題は、お金の流れであります。お金の流れにつきましては、これも競争原理の導入が図られているわけでありまして、江本委員の御質問にありました科学研究費の増額というのは、競争的に研究費を配分しようという動きになってきたということであろうかと思います。  また、民間企業が大学研究資金を提供するときには、当然研究レベルの高いところに出しているわけでありますから、ここでも競争原理が働いているということになるわけでありまして、いろいろなところで既に競争原理が働いてきたわけであります。  最後に残っています競争は、これは大学間、大学がそれぞれ受験生や教員や資金を求めて競争するということになっているわけでありますが、特に国立大学につきましてはこれまでほとんど大学間の競争というのは働かない構造になっていたわけです。大学が独自に努力できる部分は限られている。何かをやりたいというアイデアを持って、これから先は文部省と交渉して予算を折衝してやっていかなければならないというふうなことがありまして、予算が来たり来なかったりするというふうなこともありまして、なかなかここの部分には市場原理が働いていない。  今後の問題は、私立大学の間には既にもう言うまでもなく生き残りをかけた市場的な原理が働いてしまっているわけでありますが、国立大学もこのままでいけるかどうかということになりますと、これはもっと教育研究の活性化を図って、お互いに国立大学の場合には個性化するという意味での競争をいい意味でやっていかなければいけない。自分大学個性とは何なのかということを一つ組織体として考えなければならない段階に来ているのだろうと思います。  大学が、私はもっと自由が欲しい、政府がコントロールし過ぎているのではないか、もっと自由が欲しいという要求をするのであれば、それだけ競争のメカニズムの中に主体的に入っていって、そこで自分の得意とするところ、個性というものを鮮明にしていく努力をする必要があるのだろう。国立大学は九十九校ありますが、すべての国立大学が護送船団方式で文部省に守られてやっていくという時代はそろそろ終わりに近づいてきている。そういう中で、管理運営機構というものも、自律的な選択や判断ができるようなものに変えていかなければならないというのが今回の改革のねらいだろうと思います。  ただ、これをやったからといってすぐに国立大学の間に市場原理が働くというふうには私は思っておりません。当面は、先ほど言いました受験生や教員をめぐる市場というのがどれだけオープンになっていくかという問題がありますし、それから、資金の配分についても競争原理が入っていくと思いますが、国立大学同士がお互いに私立大学のように競い合うという状態は、これはエージェンシー化を考えている人たちはそういうふうに想定しておられるのかもしれませんが、今の状態では非常に困難なといいますか、今後に残された問題であります。  したがいまして、国立大学は、限られた市場原理しか働かない競争の場でいかに個性をつくり上げていくかという非常に困難な問題に直面しているというふうに私は思っております。
  66. 日下部禧代子

    日下部禧代子君 今おっしゃいました御意見に沿って、あわせてもう一つお伺いしたいんです。大学個性化ということでございますが、それを具体的にしていきますと、いわゆる大学を種別化していく方向というのも今回打ち出されているように思います。  押しなべて平等主義的な我が日本社会におきまして、この方向がいわゆる個性化という方向に行くのか、多様化という方向に行くのかという懸念も一方ではございます。それがむしろ序列化とか大学のランクづけということになってしまうのではないかという懸念も出てまいりますが、その点、天野先生はどのようにお考えでいらっしゃいますか。
  67. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) おっしゃるような危険性は、市場原理が働きましても起こってくるだろうと思います。  昭和四十六年に中央教育審議会が四六答申という、今そういう名前で呼ばれております答申を出しましたときに種別化構想というのを打ち出しました。大学を幾つかのタイプに分けていこうという考え方であります。  今、種別化というお話がございましたが、今回の答申は種別化をしようというのではなくて、大学が主体的な選択をしていくと次第に幾つかのタイプに分かれていくだろうということを期待しているわけで、種別化の枠をはめようとしているわけではない、私はそのように理解をしております。ですから、多様化個性化と種別化はちょっと違ったものだろうと思います。  こういう問題が出てまいりますと、大学というのは、それぞれの個性を発揮するということだけではなくて、ある種の序列化が起こるのではないか。非常に大学間の競争が激しいアメリカでもこの序列化構造というのは起こっています。ただ、その序列づけが、ランキング等と呼ばれておりますが、複数の物差しで序列化が行われているというところが救いといいますか、特徴だろうと思うんです。日本の場合には長い間非常に固定的な、安定的な序列構造というのがつくられてまいりました。ただ、この序列構造も少しずつ目に見えないところで揺らいできているということもやっぱり認識しておく必要があるのではないかと思っております。  私立大学の間でもいわゆるランキングの変動というのはございますし、このランキングも非常に多元化しております。国立大学の地盤沈下が言われた時代もございます。国立大学の内部でも、非常に発展の著しい大学とそうでない大学というふうなものがございます。もちろん、これは最終的には文部省と大蔵省との予算折衝等でそういう結果になっているわけでありますが、非常に意欲的な大学とそうでない大学という差異もその中に反映されていることは否定できないことだろうと思います。  これから資源の配分の仕方、学生教員、それから資金、最大の問題は資金でありますが、ここのところの流れが変わりますと、日本大学ももう少し序列がこれまでのものとは変わってくるのではないか。これは半ば願望でありますけれども、そういう方向に行ってほしい。従来の受験偏差値による序列化構造というのは相当崩れてまいりました。私たち大学を序列づける見方が変わっていけば、もっとこの問題は変わっていくのではないかというふうに思っております。
  68. 日下部禧代子

    日下部禧代子君 そこで、その個性化というのがかなり成功していらっしゃると思います筑波大学におきまして、いわゆる実験大学としてさまざまな実験に挑戦なさっていらしたというふうに思います。  そういう場合に、文部省、大蔵省を含めましたいろいろな壁があったかなと思うんですが、壁にぶつかったときにそれをどう取り除いていらしたのか。自己改革能力が乏しい多くの大学の中で、自己改革能力が非常に顕著であったというふうに思われる筑波大学におけるそういった挑戦を可能にしたものは何かということを、これは簡単にはおっしゃれないかもわかりませんが、ぜひお知恵をいただきたいと存じます。
  69. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) これは江崎学長に伺うのが一番よろしいのじゃないかと思いますけれども、やはり現在の国立大学を縛っている法律の融通のきかなさをかなり残念に思いながら退任されたのじゃないかというふうに先ほど申し上げました。  その枠の中でも私自身は、とりわけ二期目の二年の任期中に学長に対して盛んに申し上げたのは、今、筑波大も相当大きな大学になっておりますので、全学の意思を統一してから改革するというのは、少なくとも残りの任期二年ではやりにくいのではないかというようなことで、残り二年でもその実験をやめないというような方針を貫くとしたらどういうようなことが可能であるかということを考えたときに、全学のコンセンサスが得られてから始める、また全学一斉に始めるというようなことじゃなしに、先ほど来、矢原参考人もおっしゃっていますけれども、どこかの部局が独自にアイデアを出してこれはぜひやりたいというふうな申し出をすれば、それを学長権限でもってオーソライズして実験させたらどうかというふうなことを盛んに申し上げたところです。  ですから、いいアイデアがあるとか、こういうふうにすればうまくできるとかいうようなアイデアを学長に提供するとか、あるいは評議会で我々はこういうことをやりたいんだということを申し出た場合には、それはおもしろいアイデアだからぜひやるようにというようなことで、かなりおもしろいことをやれたのじゃないかというふうに思っています。  お手元にひょっとしたらあるかもしれませんけれども、中教審の十五期の答申か何かで、私のところでもこういうおもしろいことをやったというふうにお褒めにあずかったところがあるんです。個別後期の入試で課題図書を出して、それをきちんと読み込んだことを前提にしながら面接するというようなことを導入できたのも、その考え方の一つだろうと思うんです。  そういうような、どこかの部局がおもしろいアイデアを出してそれをうまく成功につなげていけば、黙っていてもほかの部局も、そういうことができるんだったら私のところもやりたいというような形の全学の改革につながるということもあると思うんです。  ですから、私自身は、矢原参考人とちょっと違った見方をしているのは、ボトムアップとトップダウンというのは必ずしも対立はしないんだというふうに思っています。ですから、それぞれの部局でいいアイデアを出したものを学長権限ないしは評議会がオーソライズするというような形で、トップの方から小さい部局のところのアイデアをオーソライズするという形で改革あるいは実験なりを推進するということも十分あり得るし、筑波大学はそういう方向でやってこれたのじゃないかというふうに思っています。
  70. 日下部禧代子

    日下部禧代子君 今の門脇先生の御意見に対して、矢原先生はどのようにお考えでいらっしゃいますか。
  71. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) 私は、ボトムアップとトップダウンが対立するものだとは考えておりません。  ただ、一連の議論学長権限を強めることで初めて大学改革ができるというような流れになっておりますので、それは大きな総合大学ではとても無理であって、学部、学科あるいはまた教官のいろんなアイデアをくみ上げるというボトムアップの流れをうまくつくらないと、幾ら学長がいいビジョンを持って一生懸命やろうとしても、それだけではとても、江戸文学から生物学から哲学から数学から、いろいろな分野がある大学を動かしてはいけないわけです。そのことを申し上げているわけでございます。  ボトムアップというのを考えるときに、私は、競争原理という点でもやっぱり個人プレーが基礎になると。これから多様化をするというときにも、個性的な先生が何人かいらっしゃるとその学科というのは光ります。外から見ていても光ります。そういう個人プレーの中で個性を出していくというのが基本であって、大学競争大学個性を出すという考え方は、私は余り賛成じゃないです。  というのは、それをやると、どうしても大学という組織と教官という個人との間のコンフリクトというのが生じます。これは私の専門分野の生物の進化が教えるところでありまして、生物が個体レベル競争しているか、それとも種のレベル競争しているかというと、圧倒的大部分は個体レベル競争しておりまして、進化というのは決して種同士の競争ではなくて、個体同士の競争があるからいろいろな改良が起きるわけであります。種レベル競争というのはむしろそれを邪魔するという面がございます。  もちろん、社会に向かって大学全体としての意思決定が必要な局面というのはいろいろございます。それをきちんとやるということに私は異論は全くございませんが、個人のレベル個性を磨くということの妨げにならないような改革をしないと大学の活力は失われるということを申し上げておるわけでございます。
  72. 日下部禧代子

    日下部禧代子君 ありがとうございました。
  73. 扇千景

    ○扇千景君 自由党の扇千景と申します。  学校教育法等の一部を改正する法律案参考人としてお三方においでいただいたことをお礼申し上げ、私が最後の質問になりますので、あと二十分という枠で御勘弁いただいて、お答えをいただきたいし、また御教示もいただきたいと思います。  るる同僚議員から質問が出ました。先日もこの委員会でこの法案に対する質疑を行いましたけれども、現実的にこの法案の中でうたわれておりますことで、卒業要件としまして大学の定める単位を優秀な成績で修得した者、そして三年以上の在学で卒業を認めるものとするということで、三年で単位を取得し、なおかつその単位が優秀であり、なおかつ社会に出ていっても人格的に優秀な学生は三年生で卒業を認めるということになっております。  先日も文部大臣においでいただいてここで審議をしていたんですけれども、三年以上の在学で卒業が認められる者、それは、今言ったような単位を取得するというのは数字的にはっきりわかります。けれども、それが成績が優秀で、なおかつ社会に出て人格的にもと言われると、この三年卒業は、参考人先生方大学で、今、頭に考えられて、うちの大学ではこれに該当する学生はいるなというふうにお考えなんでしょうか。これは難しいなとお考えなんでしょうか。お三方に簡潔にお願いしたいと思います。天野参考人から。
  74. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) 私は今大学を離れておりますのでちょっとお答えしにくいんですが、もう一つお答えしにくいのは、実は私は大学審議会でこの問題については少数意見で、反対でございました。大変答えにくいのでありますけれども、今御質問のありましたように、文章を読みますと非常にいろいろな条件がついておりまして、例外的に認めようというのが大学審議会の答申になっております。例外的にということを何遍もうたっております。それは、それだけ委員の間でいろいろ意見がありまして、これをやったらば日本大学にとってマイナスの影響もあるのではないかというふうなことがあったからであります。  非常に難しいのは、一つは、成績評価が厳密にできるか。今は余り客観的な評価は行われていません。先生方のかなり主観的な評価がありまして、そういうことをきちんとしなければいけない。単位の履修制も、これは上限を設けるという制度と抱き合わせで考えていただかないといけない。三年までの間に全部必死になって単位を取ってしまうというふうなことが望ましいのかどうかということについても問題があります。したがって、ごく例外的にしかこういうものは出てこないだろうという判断でございます。  ただもう一つ、これは三年以上四年というふうになっておりまして、秋季入学が広がりますと三年半で単位を履修してしまう学生が出てくるということは十分考えられるわけでありまして、そういう人たちのためにもこういう制度を認めるようにしたらいいのではないかという意見もございました。私もこの点は賛成でございます。  ですから、できる大学がやるということで、すべての大学がこれを始めたら大変なことになりますので、あくまでも大学にとって一つの自由な選択肢としてこういうことが考えられるということを審議会は述べたのだというふうに思っております。
  75. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) 簡潔に申し上げたいと思います。  先ほども申し上げましたけれども、これからは大学に入る学生がかなり多様になるというか、学力的にもやっぱり相当開きが出てくる学生になるだろうということで、現在のような形で全員が四年きちんといないと卒業できないというようなことでは、ちょっと扱いが苦しくなるんじゃないかというふうに思っています。  ですから、こういうような改正がなされたとしても、全部の大学が三年で卒業させろということを言っているわけじゃなくて、それにふさわしい優秀な学生がいたら適用してもよろしいということですから、やっぱり例外的なことになるだろうと思いますし、私自身はそういう学生が出てくることを期待もしたいというふうに思っています。
  76. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) 京大、東大、九大を通じてそういう学生は一度も見たことはございません。  理由はございまして、自然科学、特に生物学は非常に実験技術が進歩しておりまして、実験教育に時間がかかる。理論であればあり得るかもしれませんけれども、とても三年間では教え切れない。
  77. 扇千景

    ○扇千景君 大変現実的なお話でございましたので、なお現実的なことをお伺いしたいと思います。  これは、例えば国立大学なら国立大学で、これだけでできるよ、あなたはいいですよという全国基準がないわけです。各大学大学で判断しなければいけないというような今の法律になっておりますので、もしそうしますと、この間も申し上げたんですけれども、あの大学へ行くとどうも成績さえよければ三年で早く出してくれそうだよとかというようなことで、ある意味では、学力低下もさることながら、大学の格差がある程度できるんではないか。  三年で卒業できる大学を目指すというか、早く手を打った大学が、今できないとおっしゃいましたけれども、そういう競争原理が逆に、皆さんの考えとは別に、大学間の競争、早く三年で卒業させる一番乗りをしたというような競争原理が生きるか生きないか。そんなことはないとおっしゃるのならそれで結構ですけれども、お伺いしたいと思います。まず、それでは逆に矢原参考人からお伺いしましょう。
  78. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) あり得るのではないかと危惧いたします。
  79. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) 当然あり得ると思いますけれども、そういう選択をした大学は、多分自滅するんじゃないかというように思います。
  80. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) これは社会がどのような評価を下すかによって決まると思います。
  81. 扇千景

    ○扇千景君 ありがとうございます。  私は、今までにない制度を取り入れるときには、ある混乱が起きるであろうと想像してあえて御質問を申し上げたんです。  それともう一つは、四年間これだけの人数がいるということがわかっていながら、三年で出ていかれると授業料が足りないんです。会計上も計算が合わなくなる。たくさん出してしまうと授業料が足りなくなるから、それじゃ補欠をたくさんとっておくかといってもそうはいかない。  先ほど先生方から、経済的なことも、研究費が減ることも、大学の経営もといういろんな問題がるるある中で、三年で早く卒業するのを認めると自滅するでしょうとおっしゃるんですけれども、経済的にも自滅するんじゃないかということを今後どう解決していくのかというるる総合的な判断がなされなければ、現実的に皆さん方の考え方としては、実行に移すまでには時間がかかるであろうなと思っております。  ただ、一ついいことは、きょう先生方せっかくおいでいただきましたので伺いたいことは、さっきちらっと天野先生がおっしゃいましたけれども、期間という話をなさいました。欧米諸国が九月入学ということをとっている以上、なるべく三年で単位を取っておいて、そして四年生の冒頭に卒業できて九月に外国の大学に行きたいと。先ほども、外国の大学に行くように勧めますなんて、大学院へ行くよりも外国へ行ってくれなんという話があったので私は困ったなと思ったんですけれども、なるべく三年で単位を取って外国の大学の九月入学に合わせたいというようなことを考えれば、学生にとっては大変有利な制度になったのではないかなと思いますけれども、その件に関しては、まずそれでは公平に門脇参考人から御意見を伺いたい。
  82. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) 筑波大学では開学以来、国立大学それから私立を含めてでしょうけれども、九月入学生をかなり受け入れてきている大学です。  おっしゃるとおり、今の法律ですと四年間丸々いないと卒業させることができないということで、その穴埋めというのか、苦慮していることは確かです。もし仮にこういうような改正がなされて、三年以上四年未満で卒業できるというような規定が、アメリカの高校を卒業して筑波大学の九月入学生として入ってきた者があらかじめそういうようなことをわかっていれば、数カ月おくれて入ってくるわけですけれども、卒業を同時にできるということで一生懸命頑張るということをアクセレレートするような制度としてもうまく利用できるし、今我々がその穴埋めのために苦労していることも、いい方向で解消できる手だてを得られることになるんじゃないかというふうに思っています。
  83. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) その点に関しては私も同じ意見でございます。
  84. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) これは評価システムをどうするかという問題抜きには議論できないと思います。アメリカ大学は、日本から来る留学生たちがすばらしい成績を持っていることにびっくりします。オールAなどというのは大学院ではざらにいるわけでありますが、入ってみた後で、どうもそうではないということで評価を移すという例も多いわけであります。三年卒業を認めるのであれば、日本の成績評価をアメリカのように標準化して、グレードポイントで平均点がこれくらいだったらこのくらいの学力があるということをきちんと証明しませんと国際的にみっともない話になると思いますので、インフラが十分整備されない段階で三年卒業生をどんどん出すような大学がふえるということは望ましくないと思っています。
  85. 扇千景

    ○扇千景君 もう一つ、先ほど天野先生がおっしゃったことなんですけれども、今の日本大学というもののあり方、入学さえすれば、あとは高級車を買ってもらって乗り回したり、あるいはガールハントをしたり、渋谷、新宿をうろうろして黙っていても卒業できるという、これは一部ですよ、けれどもそういう感がなきにしもあらず。勉強しなくても入ったら必然的に出られるんだという今の大学制度を、外国のように、門戸を開いても中で勉強しなければ卒業できない、本当に卒業試験というものを厳格にするという方にすべきではないかと思います。  さっき天野参考人からちらっとそれに対してのいろんな話がございましたけれども、今の大学の入学制度、そして学生のあり方等々、教師の反省も含めてかもしれませんけれども、ちょっとお三方に、単純なことですけれども伺いたいと思います。
  86. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) 黙っていても卒業できる大学学部があるということは、これは事実だと思います。しかしこの問題は、大学が、先生方教育熱心になるだけでは解決できない非常に社会構造的な問題だと思います。  例えば、企業が採用する際に大学での学業成績を問題にすることはほとんどない。つまり、三年生が終わった段階で既に就職活動は始まっておりまして、卒論も書かなければ卒業研究もしない段階で採用を決めてしまうということになっているわけです。学生たちは、三年間で早く単位をそろえてあとの一年間は就職活動、こういう状況が続いている限り、しかも何を学んでどういう成績で卒業したのかということをほとんど問題にしないということがある限り、学生たちは学習不熱心にならざるを得ないわけですね。先生方の不熱心ばかりを強調しては一方的だというのは、今申し上げたような理由からです。
  87. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) 私は勉強せずに卒業できる大学があるとは思わないんですが、あり得るとすれば仏の先生の単位を渡り歩くという戦略だろうと思うんですけれども、まず例外的なことではなかろうかと思います。  仏の先生の問題に関して言いますと、マスプロ化している講義では答案の数が、私も七百枚という答案を採点したことがございますけれども、もっとたくさんになることもあります。そういう場合に、なかなかきちんと見切れないような状況の中からそういうことが生まれることはあり得なくはないかと思いますが、そういうケースでも、多くの先生は一生懸命採点されておりますし、そうそう抜け駆けができるとは私は思っておりません。
  88. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) 筑波大学には十五単位未修得学生は除籍になるという厳しいおきてが開学以来ありまして、それがかなり学生には暗黙のプレッシャーになっておりまして、筑波大学の場合には、今のような法改正をしたとしても今御心配の点は多分ないのではないかと思います。  あと、現在の法律でも、いわゆる留年という形で、筑波大学の場合は六年間、ほかの大学では多分、学部の場合に八年間大学に在籍していることができるわけですね。四年に限らず、五年、六年、七年、八年までいられる方が一方にあるとしたら、優秀な者は前倒しで卒業できるというような制度もやっぱりあってしかるべきだというふうに僕は考えています。あとは大学がそういうかなり自由裁量度のある制度をいかにうまく使うかというだけの話じゃないかと思います。
  89. 扇千景

    ○扇千景君 それともう一つ、この間文部大臣が当委員会におきまして、評価ができるようになったことだけでも大変な進歩だと大臣自身がおっしゃったんですけれども、これは当然のことであって、評価制度を評価する、これは画期的なことだなんて大臣が特別おっしゃるほどのことではないな、まだそこまで至っていないなというのが私の実感なんです。  それは悪口でも何でもなくて、それはなぜかといいますと、この間申しましたけれども、広島大学大学教育研究センター文部省が調べてくれと言いまして大学の評価システムの実情についての調査をしたんですね。そのときに、教育のあり方について改善されたという評価もあり、あるいはまた研究のあり方が改善されたと評価制度を大変評価している大学もある反面、問題点として、先ほどもちらっとおっしゃいましたけれども、学内に評価の専門家がいないこと、これが問題であるというのが五六・七%の数字で上がってきたんですね。それからもう一点は、他の大学との比較ができない、これが四四・八%というような数字が出ております。  ですから私は、これから、評価の専門家の育成と他大学との比較、そういうものができる評価制度というものがきちんと育って初めてこれは評価できるというのが、落ちではありませんけれども、育たなければいけないと思っております。  この評価制度について、時間内でお三方に伺って、質問を終わりたいと思います。
  90. 天野郁夫

    参考人天野郁夫君) 大変重要な御指摘で、第三者評価機関というものをつくることになりましたが、それで評価がうまくいくということでは全くありません。日本にはこれまでそういう評価の蓄積というのが全くございませんので、人を育てながら、調査しながら徐々に進めていくのが望ましいと思います。準備が整わないで評価を外側から押しつけるということは大学にとって必ずしもメリットではないというふうに思っております。
  91. 門脇厚司

    参考人門脇厚司君) 私も、人間学類長のときに、自己点検というか自己評価をせよということを文部省あたりからかなり言われたわけです。私は、自己評価というのは何か自己満足に終わってしまうというか、我が大学も、あるいは我が学類もこういう点検をやりましたというようなアリバイ工作で終わってしまうんじゃないかというふうに思って、これはやってもむだだろうということで、私自身がやったことは、いわゆる第三者評価で、お隣にいる天野参考人に外部評価委員会委員長をお願いして冷厳にやっていただきました。これは江崎学長が、筑波大学では率先してこういう外部評価をやりたいということで提案をされましたので、じゃ私のところでも早速やりましょうということで手を挙げてやったわけですけれども、これも私の経験からすれば大変よかったというふうに思っています。ただ、指摘されたことがまだ改善のところまでは行っていませんけれども、これは非常にいい財産をつくってもらったというふうに思っておりまして、どこでもそれはやるべきだろうと思っています。
  92. 矢原徹一

    参考人矢原徹一君) 外部評価に関しましては多くの大学がやるようになっておりますけれども、私も、個人の研究教育力量を高めるだけでなくて、学科とか学部とかをどうしていくかというときに、外部の方に見ていただいていろいろアドバイスしていただくというのは大いに結構だと思います。  ただ、あくまで評価というのは改善するためにやるものですから、私が外部評価機関に関して危惧しておりますのは、日本国立大学をいろんな基準で数値化して、点数をつけて順番をつけるような発想にしても何もよくならないわけでありまして、どういうところにその大学の特色があって、どういうところはちょっと弱いけれども、もっとこういうところを伸ばしなさいというような議論があって初めてよくなるんだというふうに考えております。  その場合にやはり基本になるのは、教官個人個人の個性的な力量、これがないと幾ら大学あるいは学部というレベルで頑張ってみてもなかなかうまくいかないというのが私の基本的な考えでございます。
  93. 扇千景

    ○扇千景君 ありがとうございました。  終わります。
  94. 南野知惠子

    委員長南野知惠子君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、参考人方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、長時間御出席をいただき、貴重な御意見を賜りましてまことにありがとうございました。本委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。  本日はこれにて散会いたします。    午後三時五十一分散会