○脇雅史君 まさに温暖化
防止ということでCO2の削減量ということからエネルギーの量もふやさないということは国際的な約束の中で取り決められた話でありますから、当然そういうことなんですが、CO2排出量を減らさなければいけないから我々はもうエネルギー需要をふやさなくていいんだというところまで国民的合意ができているかどうかは若干怪しいと私は感じるわけです。中には例のよそから買ってくるという手もありますし、ほかのCO2を排出しないエネルギーをどんどんふやしていくという手もありますし、技術的な進歩ということもありますし、もうエネルギー量をふやさなくてもいいんだというところまでなかなか合意がいっていないと思いますので、その辺については今後とも
環境庁を初め
政府としての
取り組みが必要なのではないかなというふうに感じます。
それから、少し話題を変えまして、
開発と
保全という言葉が常にイエスかノーかという格好で話をされるわけであります。霞が関の中で見ていますと、
環境庁という役所はこれ以上自然を悪くする方向への行為はノーである、そのほかのいろいろな
事業目的を持っております
事業官庁はそうはいってもそんなことでは済まないではないかということで、いわゆる
開発という言葉で言われますが、やる。国民の目から見ると、もういいじゃないかということで、
環境庁頑張れというようなそういう対極的な構図で見る傾向が多いわけで、特にマスコミの報道がそういうことをあおっておもしろくしているという部分もあって、若干踊らされている部分が国民の中にもあるんだと思うんですが、実際には
開発と
保全ということ。何もしないことが
保全でやることが
開発で両者は相入れないものだというふうに見なくても、同じことをやるにしても
保全的なことを随分考えてやるのと何も考えないでやるのとではえらい違いがありますし、やはりどこかで折り合える点というのが必ずあるはずですし、どこかにそれを見つけなければいけないわけです。
開発保全という意味では、きのう吉野川の第十堰という堰について話が出ておりましたが、私もこれは皮肉な思いで聞いておったんですが、その第十堰という堰は原始吉野川からすれば大変な自然破壊なんです。何もない川に、川の中に水が流れているところに石を積み上げて流れなくしてよそへ流れるようにするということですから、これは大変な
開発行為だ。それが今になってみると
保全という言葉で、それをそのまま置いておくことが善だと。今、
保全を言われている方は、原始吉野川に返ったときにどういう判断をされるのか、私は若干迷うわけであります。あえて言えば、長良川の河口堰というのは大反対していて、あれが百年後にこれは守ることが大事だ、あれを今度
建設省が改築しようとするとけしからぬと、そのときはもう
建設省ではないかもしれませんが、とんでもない、長良川の河口堰を残すべきだということをやっているようなことに相当することなんです、時代の流れは違いますが。
また、第十堰について言えば、これは江戸時代につくられた堰でありますが、かなり壊れているものですから、オランダの河川技師が明治に来たときに、危ないからどけろということを言われました。河川の技術屋から見れば、当然に川の中にああいうものがあるのは危ないんです。ない方がいいんです。日ごろは当然水を堰上げてとったり流れを変えたりするわけですから何らかの構造物が要るんですが、工事のときにはすべてオープンにして自然に流れる格好がいいに決まっているわけでありますけれども、なかなかそれがわからない。
徳島県も、昔からあれをどけてほしいという大変な陳情が
建設省にあったわけです。三木さんという政治家がおられましたが、徳島県が吉野川の水を分水するに当たって、かわりにといってはなんですけれども、大変危ない第十堰というのがあるからあれを何とか改築してほしいと言っていたわけです。それを県民の皆さんもずっと言ってきたわけですが、十年ぐらい前からか、多分長良川の堰と同じようなものだというふうに誤解をされた
方々が言われたんじゃないかと思うんですけれども、あれは保存しておくべきだ、
保全しておくべきだということにいつの間にか変わってしまったという非常に妙な経緯があった。
その間に、若干
建設行政として反省すべき点がなかったかというと、私は若干はあったように思いますけれども、そんなことは瑣末な話で、本質論からするとまことに奇妙な話で、事ほどさように
保全と
開発という言葉は時々によっては怪しげなものになるのではないかなというふうに感じております。対立軸ととらえる、対立するものととらえることではなくて、両者が、
保全してほしいという人の意見も十分酌みながら、どんなことができるのかという柔軟な議論ができることが望ましいわけで、棒を飲み込んだようにとにかくだめだ、手をつけるのはまかりならぬと、成田
空港の反対運動みたいにあんなことになるとまことに不幸で、日本国じゅうにこれはあるわけです。何らかの
開発をしなければいけない。
そこで、
一つ一番考えなければいけないことは人口の問題なんです。私が小学校のころ、もうかれこれ四十年以上前でしょうか、まだ人口八千万人台だったですね、小学校で習ったのは。今、一億二千六百万人、四千万人ふえているんです。人口四千万人ふえた人間をどうするんだ。住む家をつくらなければいけない。四千万といったら大変立派な国をもう
一つつくるような話です。その人たちが御飯を食べて生活をして寝るところをつくって、今まであった自然を何らかの格好で
開発していかなくてはいけないのは自明の理でありまして、問題はやり方にあったということです。
ですから、今の時点ではまだそれはあるんです。一億二千六百万で静止するかというとそうではない。一億四千万、三千五百万とか、最近なかなかお子さんをお産みになる方が少ないものですからよくわかりませんが、一億三千五百万ぐらいでとまるのかもしれませんが、まだそれでも一千万人という大変な人口がふえる。そのふえた人口をどこへ持っていくか。
それに加えて、過去の日本の歴史は地方から都会への人口移動があったわけです。地方では住める家、広い家があるのに住まずに東京に来てごちゃごちゃ住んでいるという、まことに国の使い方としては変なことをしてしまったという反省はあるんでしょうけれども、そんなことがある。ただ、その一千万という人をこれからいかにして住まわせていかにして生活させていくかというときに、やはり地方の役割というのは非常に大きいと思うんです。
いずれにしても、そういう意味で何らかの手を加えることが必要だ。問題は、対立ではなくてどういう格好でそれをやっていくかという話し合いだというふうに私は思うわけでありますが、
大臣の御意見はいかがなものでございましょうか。