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参考人(柴宜弘君) 本日は、この
調査会にお招きいただきまして、ありがとうございます。
本日、コソボの問題について、最初概括的な形でプレゼンテーションをして、後の
質疑の
段階で少し補足あるいは具体化できたらというふうに
考えております。
私は、個人的なことになるんですけれども、今からもう二十五年くらい前になりますが、一九七五年から七七年まで、かつてあった旧ユーゴですけれども、旧ユーゴのベオグラードというところ、現在のユーゴの首都でもありますけれども、ベオグラード大学というところに二年間留学しておりまして、この九〇年代になってユーゴは解体して、その後、内戦という形でずっと戦闘が続いているわけで、非常に心を痛める日々なんです。それが私の本当のところなんです。
それで、コソボの問題ということなんですけれども、私が一番初めにコソボに行ったのはその留学が終わった直後の時期で、一九七九年の時期と八〇年代の時期と、二度しかコソボには実際には入っていないんです。
コソボというところは、お手元にあるその地図でごらんになっていただけるとおわかりになりますように、あるいは連日この地図が載っておりますのでおわかりのことと思うんですけれども、現在のユーゴスラビアという連邦のセルビア共和国というところに属する自治州であったわけです。
そのセルビア共和国というところの人口構成から少し大まかな話をしておきたいんですけれども、セルビアという共和国は九三年の統計で九百七十二万の人口があります。それで、セルビアという共和国の中には、セルビア人が六六%、それからアルバニア人が一七%、それからハンガリー人が四%という形の民族構成をとっております。ですから、セルビア共和国という全体においてはセルビア人が圧倒的な多数を占めている。
そのセルビア共和国の中にあるコソボ自治州というのが今問題になっているわけですけれども、コソボ自治州の人口構成を見ると、コソボ自治州自体は百九十六万という人口なんです。その構成は、
政府側が出している公式統計という形で申し上げますけれども、アルバニア人が百六十万であり全体の八二%、そしてセルビア人は十九万でありまして全体の一〇%という人口構成。そのほかにも、このコソボには、ボスニアの内戦のときによく出てきたムスリム人というイスラム教徒が七万、それからいわゆるジプシーと称されるロマの人たちが五万、それからモンテネグロ人が二万、そのほかにトルコ人であるとかエジプト人と称される人だとか、あるいは山岳の少数民族が存在しています。そういう構成であって、コソボにおいてはアルバニア人が八二%、あるいは最近ではもう九〇%を超えていたという
状況があったわけです。
こういう
地域、自治州というところにおいてコソボの問題というのは一体何だったのかというと、現在、このユーゴスラビアという連邦のセルビア共和国に属するコソボ自治州のアルバニア人とセルビア人との民族対立であるというふうに基本的には規定することができると思うんです。
今回のコソボ紛争と称される問題が出てきたきっかけは、昨年の一九九八年の二月から三月にかけて、当時のセルビアの治安部隊が、コソボの独立を求めて武器を持って活動をしていた集団であるコソボ解放軍というグループに対する掃討作戦を始めたというのがそもそものきっかけであったわけです。それがきっかけなんですけれども、その前の
段階を少し追っておかないとこの問題の説明ができないので、そもそもそれはどこまでさかのぼるのかというと、一九八九年、ちょうど十年前までさかのぼってお話しすることができると思うんです。
八九年の三月という
段階で、これは当時、セルビアという共和国とそれからコソボという自治州、これは法的にはセルビア共和国に属する一自治州であったんですけれども、一九七四年から旧ユーゴスラビアの憲法のもとでは、セルビアという共和国も、それからセルビア共和国に属する自治州もほぼ同等の権限を持つ存在であったわけです。つまり、裁判権も警察権も教育権も含め、セルビア共和国とコソボ自治州というのは同等の権利を持っていた。それから、この地図にはちょっと出ていないんですけれども、北の方に最近爆撃でノビサドとかという地名が出てきますけれども、北の方はボイボディナという自治州でありまして、コソボと同等の自治州だと。現在でも自治州になっているわけです。
そのコソボもボイボディナもセルビア共和国も含めて、旧ユーゴは六つの共和国と二つの自治州がほぼ同等の憲法を持つ存在であったということでありまして、コソボもみずからの憲法を持ち、共和国と同じ自治権をちゃんと持っていた。それが八九年の
段階で、それまで持っていた自治権がセルビア共和国に移されていくという経緯があったわけです。そのことによって、コソボのアルバニア人たちが、
自分たちが多数を占めている自治州の権限が共和国というところに移されていく、裁判権、警察権もすべて移されていくということがありまして、それに対してコソボのアルバニア人たちが自治権の回復ということを求めて動きを見せ始めていくことになる。
八九年の三月にその憲法が修正されていくわけですけれども、その後、アルバニア人たちはかつて、かつてというかそれまで与えられていた自治権をもう一度回復するということで、例えば現在も名前は出てくるルゴバという人物、これは穏健派ということで知られていますけれども、そのルゴバなどが
中心になってコソボの自治権の回復ということを訴えかける動きを始めていく。
そして、自治権が奪われた後アルバニア人たちは、これはシャドーステートという言い方で言われているんですけれども、セルビアの側は認めないわけですけれども、みずからは共和国をつくっていく。それが九一年の九月にコソボ共和国ということをみずから宣言し、セルビアの
政治の枠の中ではなく、
自分たちは独自の共和国なんだという宣言を出していきます。そして、その大統領にルゴバという人物が九二年には選出されていき、コソボの自治権の回復という動きを見せ始めていったわけです。
そして、そういう動きがずっと続き、八九年以後は、このコソボにおいてはいわゆるセルビアの
政府側の議会というのもあったわけですけれども、そういうものにはアルバニア人は一切ボイコットするという形でみずからのシャドー
国家の中での活動を続けてきていた。そして、一方ではルゴバを
中心に、ルゴバというのは非暴力ということでセルビアの側と
交渉をする中で、最終的には独立ということを目的にはしていたんですけれども、自治権の回復を求めてずっと活動を続けていくということがありました。
そして、そういう事態が数年続いていき、なかなかしかし自治権の回復という方向に事が運んでいかないという中で、アルバニア人の中に、
交渉ではなくてむしろ武器をとってでも独立の方向を目指すべきだというグループが出てきました。それが先ほど申し上げたコソボ解放軍というグループだったわけで、彼らが九七年あたりから、とりわけ若い青年層の人たちの
支持を得るようになっていく。つまり、既存の
交渉での自治権の回復ではらちが明かないということで、武器を持って戦うというようなそういう方向を持つコソボ解放軍に対する
支持が強まっていったということが九七年にありまして、それが九八年、冒頭に述べました掃討作戦というところにつながっていったということになります。
ですから、セルビアの
政府あるいはミロシェビッチを
中心とするユーゴの
政府側の基本的な
考え方というのは、つまりそういった
武力で独立を達成しようとする集団に対する、これはセルビア側の言い方で言えば
テロリスト集団という言い方をするわけですけれども、そういったグループに対する掃討なんだということが基本的なことでありました。
そして、今回のコソボ紛争を見ていて首をちょっとかしげなければいけない点は何なのかというと、そういったコソボ解放軍という組織を、当初は
アメリカも含めて国際社会も、九八年の二月以前は
テロリスト集団という規定の仕方をしていたわけです。それが九八年の三月から両者の激しい戦闘が展開されていき、ヨーロッパ諸国も仲介の動きを見せるんですけれども、セルビア
政府あるいはユーゴの
政府がコソボの問題はあくまで国内問題であるということで、つまり外国の調停ということを一切拒むという非常にかたくなな
姿勢をしていたわけですね。そのため、九八年の三月以降、なかなか国際的な調停ができないという中で両者の戦闘が激しくなっていき、ちょうど転換点は九八年の六月だと思うんですけれども、それまで
テロリスト集団というふうな規定の仕方をされていたコソボ解放軍というのに対して、
アメリカのホルブルックという当時バルカン担当の特使がこの地に行ったときの発言、つまり両者を何とか休戦に持っていかなければいけないと。そのときの休戦の当事者として、つまりそれまでルゴバというコソボ共和国の大統領がいたんですけれども、そうではなくてコソボ解放軍という人ですね、そのコソボ解放軍の人たちを休戦のための当事者という規定をするようになる。そして、それによってコソボ解放軍というのが国際的な認知を得るということで、国内ではセルビアの治安部隊との戦闘をさらに激しくしていくという事態が続いていったんですね。
そして、最終的にはというか、九八年の秋、それから今回の九九年の二月、それから三月のランブイエとパリの市内での和平
交渉においては、両者の、つまりセルビアの代表団とそれからアルバニア人の代表団が行ったわけですけれども、そのアルバニア人の代表団の主導権を握っていくというふうに、コソボ解放軍というのがアルバニア人の側の
中心的な存在になっていったという
過程があります。ですから、現在というか三月の
段階の和平
交渉においては、それがコソボの解放軍、KLAという組織が主導権を握ってしまっているという
状態ですね。そういう経緯があります。
それで、コソボの今回の問題はそういう経緯があったんですけれども、一番大きな問題は、今回、コソボ紛争という問題をめぐってはこの三月二十四日から空爆が始められていったわけですけれども、その空爆の問題点が一つは指摘できるのではないかと思うんですね。それは、コソボの問題というのはこの
地域の複雑な歴史に伴う
解決の非常に難しい問題であった。ですから、そういう問題に対して、基本的には空爆というような
軍事的な力によって民族問題を
解決することはなかなか難しいということがあったと思うんです。
今回の空爆自体は、要するにコソボにおいてセルビアの治安部隊によるアルバニア人に対する弾圧、あるいは民族浄化というような言葉が使われるわけですけれども、そういう弾圧があって、それに対する人道的な見地から空爆を行うということだったと思うんですね。しかし、その空爆によってアルバニア人たちを保護するという所期の目的が達成できているのかというふうに
考えると、
現時点ではほとんどできていないし、さらに事情を悪くしてしまっている。つまり、あれだけの六十万人という難民が空爆以後出てきてしまっているということが指摘できると思います。そのアルバニア人の大量の難民が出てきている。
ですから、最近では、空爆の目的はユーゴという国の大統領であるミロシェビッチという
政権を倒すことに目的が変わりつつあるように見受けられますけれども、ミロシェビッチという
政権を倒すことが目的であるとしても、空爆をやるということが本当にその目的にかなっているのかというふうに
考えると、これも首をかしげざるを得ない。
つまり、空爆をやっていった中で、ユーゴにおいては、とりわけユーゴというのはセルビアとモンテネグロという二つの共和国から成る連邦なんですけれども、そのセルビアにおいては戦時宣言というのが出されることによって非常に統制的な事態になってきて、ミロシェビッチの連邦としての大統領権限というのも強化され、その中でマスメディアだとか、すべてを統制していくような方向が生み出されてきてしまっている。それによってミロシェビッチの
政権の基盤というのがより一層強まってしまっているという事態があるわけで、そういうことを
考えると、ミロシェビッチを倒すという目的も必ずしも達成できてはいないんではないか、あるいは達成できないんではないかというふうに言うことができると思うんです。
ですから、空爆ということの問題点、さらには地上軍というような話が最近では専ら出てきているわけですけれども、それによってこの民族の問題が
解決できるのかということを
考えると、さらに大きな疑問を持たざるを得ないと思います。
こういうコソボの問題をどういうふうに
解決すべきなのか、あるいは今後何が問題になるのか、あるいは
日本の役割はどうなのかというようなことについては、この後の御
質疑の中でお答えしたいと思います。