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1999-08-09 第145回国会 参議院 国旗及び国歌に関する特別委員会公聴会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十一年八月九日(月曜日)    午前九時開会     ─────────────    委員の異動  八月六日     辞任         補欠選任      江本 孟紀君     直嶋 正行君  八月九日     辞任         補欠選任      清水 澄子君     山本 正和君     ─────────────   出席者は左のとおり。     委員長         鴻池 祥肇君     理 事                 岩井 國臣君                 溝手 顕正君                 江田 五月君                 森本 晃司君                 笠井  亮君     委 員                 市川 一朗君                 景山俊太郎君                 亀井 郁夫君                 中川 義雄君                 南野知惠子君                 橋本 聖子君                 馳   浩君                 森田 次夫君                 足立 良平君                 石田 美栄君                 竹村 泰子君                 直嶋 正行君                 松 あきら君                 山下 栄一君                 阿部 幸代君                 山本 正和君                 扇  千景君                 山崎  力君    事務局側        常任委員会専門        員        志村 昌俊君        常任委員会専門        員        巻端 俊兒君    公述人        埼玉大学教養学        部教授     長谷川三千子君        新潟国際情報大        学教授      石川 眞澄君        財団法人日本オ        リンピック委員        会副会長     上田 宗良君        日本高等学校教        職員組合中央執        行委員長     升井 勝之君     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○国旗及び国歌に関する法律案内閣提出、衆議  院送付)     ─────────────
  2. 鴻池祥肇

    委員長鴻池祥肇君) ただいまから国旗及び国歌に関する特別委員会公聴会を開会いたします。  国旗及び国歌に関する法律案議題といたします。  本日は、本案の審査のため、公述人として埼玉大学教養学部教授長谷川三千子君、新潟国際情報大学教授石川眞澄君、財団法人日本オリンピック委員会会長上田宗良君及び日本高等学校教職員組合中央執行委員長升井勝之君に御出席いただいております。  この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多忙のところ本委員会公聴会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。  皆様方には、ただいま議題となっております国旗及び国歌に関する法律案につきまして忌憚のない御意見をお述べいただき、今後の審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。  次に、議事の進め方について申し上げます。  まず、長谷川公述人石川公述人上田公述人升井公述人の順序でそれぞれ十分程度御意見をお述べいただいた後、各委員の質疑にお答えいただきたいと存じます。  なお、御発言は着席のままで結構でございます。  それでは、まず長谷川公述人から御意見をお述べいただきたいと存じます。長谷川公述人
  3. 長谷川三千子

    公述人長谷川三千子君) 長谷川でございます。  本日は、恐らくこの法案に関する論議最後のチャンスになると存じますので、私は、この法案に対する賛成の立場から、これまでの論議の全体を振り返って、決着をつけるような形でのお話を申し上げたいと思います。  実はこの法案は、派手に報道されました割には、中身を見てみますと、本当にはっきりとした反対意見というものは余りございませんでした。むしろ消極的意見とも言うべきものが見られただけでして、その消極的意見というのは二つに大きく分けますと、何で今さら法制化をという消極的意見と、それからもう少し論議をという意見、その二つでございました。  どちらももっともらしく聞こえるんですが、実は中をよく見てみますと、二つとも非常に違う意見だということをはっきり心得ていただきたいと思います。  まず第一の、何を今さら法制化をという意見の方なんですが、実はこれは非常にもっともなことなんです。もうこの一世紀半もの間、国旗といえば日の丸だし、国歌といえば君が代だし、それ以外に何を思いつく人があるわけでもないのに何を今さら法制化をするんだ、やぼったいじゃないか、一言で言えばそういう意見なんです。これはまことにいわばもっともな感覚だと思うんです。  ところが、このもっともな感覚というものがなぜそのままで通用しないのか、なぜやぼを承知法制化をしなければならないか、これが問題だと思うんです。  実は、現代の日本にはごく少数ながら非常にはっきりと反国旗国歌イデオロギーとも言うべきものがありまして、そういうイデオロギーを持った人たちが、もう少し自分たちイデオロギーにも耳をかしてくれという、これが実はもう一つ消極意見である、もっと論議をということの中身なんです。  実は先ほどの、つまり何を今さら法制化をという大多数の意見にとっては、国旗国歌に関する議論と言っても今さら議論のしようがないんです。日の丸がいいのか赤旗がいいのか、日本じゅう意見を真っ二つに割ってかんかんがくがくという状態であったらば、それはもちろん、もっと論議の時間をということに意味があるんですけれども、実は、何を今さら法制化をという意見は、言いかえれば何を今さら論議をということでもあるわけです。  要するに、振り返ってみますと、この国旗国歌法案というものは、一世紀半の間、大方の日本人が既に国旗国歌と心得ていたもの、我々の国のシンボルであると心得ていたものを、やぼを承知で改めて法律で確認するという、それ以上でもそれ以下でもないわけなんです。私は、こういうふうな感覚というもの、これは実に真っ当な感覚だと思います。日本の大多数の人たち意見というのは、おおむねそういう真っ当な感覚に基づいているんではないかという気がするんです。  ただし、私自身としましては、こういう法案をきっかけに、そもそも我々の国家というものはいかにあるべきかという論議をするということ、それ自体は個人的には大歓迎でございます。後半にはちょっとそういうイデオロギー論議をさせていただきたいと思うんですが、これはあくまでもこの法案にとってはおまけようなものであると。この法案それ自体は、今申し上げたとおり、あくまでも我々が一般常識として心得ていたこと、これをやぼを承知で改めてそれに対する確固たる反イデオロギーというもの、反国旗国歌イデオロギーというものの存在を前提として法制化せざるを得なくなった、それだけのことだというふうに私はとらえております。  私は今、一口に反国旗国歌イデオロギーと申しましたが、それはどんなふうな内容のものなのか、それは本当にまじめに論議するに値するものなのか、それについてはどんなふうな論議が可能なのかということを後半ちょっとおまけとして申し述べてみたいと思います。  一つは、これは非常に一番ラジカルな意見と言っていいかと思うんですが、そもそも国家国家権力というものは悪であって、そしてこれは否定しなければいけない、国旗国歌も国というまとまりを支え、まとめるのに役に立つものであるから、だから国旗国歌というものは、それがどんなデザインであれ、どんな歌詞であれ反対なんだという一番極端な意見というものがございます。  ただし、ここではこれについては触れません。というのは、そもそも国会議員になられた限りにおいて、国家権力というものそれ自体国家それ自体を否定していらっしゃるという方はいらっしゃらないと思うからです。与党にしろ野党にしろ、国家権力を善用するという目的のために皆さんは選ばれていらした方のはずですので、もし本当に国家そのものが悪だと考えていらっしゃる方がいらしたら、今ここで議員バッジを外して返事をなすっていただきたいと思っております。  ただ、二番目に、これはかなり多い意見なんですが、半世紀前の大戦争日本は敗れたんだ、降伏をしたのであると。敗れたということは大変なことであって、それまで日本が国として掲げてきた国旗国歌というものをもう一度本当はそこで返上して、何か敗戦国にふさわしいものにすべきであった、現にドイツイタリアも、大戦争に負けた国はみんな国旗国歌を変えているではないか、日本も本当は半世紀前にそうすべきであったのがそれをしていなかったので、今からでもいい、おくればせながら敗戦国らしく態度を改めよと、一口で言うとこういう意見がございます。  私は、これは非常に危険な意見だと思うんです。つまり、負けてしまえばおしまいだという戦後の日本人の一般的な態度というものは、これはどういうことかと裏返してみると、この今の日本人のはいつくばった姿勢を正すためには、もう一回戦争をして勝たなければいけないということになるわけです。負けても毅然としていようという態度がとれないと、これはどうしても勝ってもう一度勝者になるという道を目指すほかなくなってしまうわけです。  ですから、私は、むしろ負けたからこそあえて、負けた前と同じ旗と歌を掲げ続けるという気概があって初めて平和国家日本だという気がしております。  最後の第三番目というのが、これが恐らく君が代という国歌についての一番の焦点になると思うんですが、この君が代という国歌歌詞は、だれがどう見ても、少なくとも国歌としての限りでは天皇陛下を賛美する歌であると。この歌の出発点はどうであれ、明治二年にこれが国歌歌詞として選ばれた時点で、これは天皇陛下をことほぐ歌である。果たしていわゆる天皇制というものが本当にいい制度であるのかどうか、そこから抜本的な議論をしなければいけないのではないか。  私は、多分、反国旗国歌を掲げる方たち意見の中ではこれが一番イデオロギー論議としては中心になるべき話題だろうと思うんです。これに関しては、これまで戦後の日本の中では非常にいわば論議の少なかった部分でもあります。私は、ここで今さら憲法論議あるいは国家イデオロギー論議歴史論議を展開しようとは存じませんで、あくまでも君が代というこの歌に即して、そこに明治出発点における我々の先人が何を込めたのか、どんな思想を込めたのか、それを振り返ってみたいと思うんです。  お手元に資料としてお配りしてございますのが五箇条の御誓文という、明治維新に当たって明治天皇が神々にお誓いになるという、そういう形で出されたものなんですが、この五箇条の中に、明治出発点における近代日本天皇中心とする政治思想というものがどういうものであるかがはっきりとうたわれていると見ていいんではないかと思うんです。  これを逐条的に説明するということは今いたしたしませんけれども、全体を眺めて、ここからどういう国家像がつかみ取れるか。皆さん見ていただければ一目瞭然なんですが、一つには、国民の一人一人が生き生きと生きがいを持って豊かな生活ができる国家、そして国民が積極的に国政に参加して、国際的にも協調しつつ日本の国柄を発展させていこうという、そういう思想なわけです。これがちょうどこの君が代歌詞が選ばれた前年に発せられたということ、これは決して無関係な話ではないと思うんです。  ただし、これをごらんになると、ここに少しも「千代八千代に」というよう言葉はないじゃないかとおっしゃるかもしれません。実際、これは天皇陛下自身のお誓いになった言葉なんで、天皇陛下自身が御自分を「千代八千代に」なんということはおっしゃらないわけでして、ではそれはどういうふうにつながっていくのかというところが、これがその少し前、幕末のいわば明治維新の精神的な支えになった思想一つなんですが、弘道館記述義といういわゆる後期水戸学の主著がございます。その中に「千代八千代に」ということが一体何を意味するのかということが非常に簡潔に出ておりますので、ちょっと御紹介したいと思います。  「蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服す。四者循環して一の如く各々相須つて美を済す。」と。一言で言えば、これは要するに、国の政治の大目的国民安寧である、人民の安寧であるという、そういう思想なんです。ここでははっきりと、そういう大目的のゆえにこそ皇室の無窮ということがあるし、国体尊厳ということがあるという、こういうことなんです。  つまり、一口天皇制と言い、天皇賛美と言う、これは一体どういう思想なのかというと、実は蒼生安寧国民安寧ということが政治の大目的なんだというその思想をあらわしているのがいわゆる天皇制普通一般に呼ばれているものだと申し上げていいかと思うんです。それが君が代という形であらわれているというそこのところを見ていただくと、君が代をめぐるイデオロギー論議というものについても大分これまでと違った考え方が可能になるのではないかと思います。  長々とお話しいたしましたが、失礼いたしました。
  4. 鴻池祥肇

    委員長鴻池祥肇君) ありがとうございました。  次に、石川公述人にお願いいたします。石川公述人
  5. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) 石川と申します。本日は、公述の機会を与えていただいて大変感謝しております。  ただ、最初に若干のことを申し上げれば、この後すぐに採決というふうな日程が決まっているように仄聞しております。どうもここへ出てきても、公聴会そのものが単に消化すべき儀礼的日程にすぎないということが示されているのではないかと思いまして、その意味では若干の屈辱感に近いものを感じておりますけれども、しかしながら、この場合、どうやら会議録に私の意見が残るということをもって、もって瞑すべしというふうに思っております。  本論に入ります。  国旗国歌法、この法案について、国旗国歌というふうなものを国が法律で決めること自体をおかしいと言うわけにはまいらないと存じております。要は、決めてもいいし決めなくてもいいというふうな問題であろうというふうに思っています。しかし、その国旗国歌を、日の丸国旗君が代国歌であるというふうに決めることについては、私は非常に大きな疑問を持っていることを申し上げたいと思います。  本来、私は、国家継続断絶かということをここで考える必要があろうかと思っています。  大日本帝国憲法のもとにおける大日本帝国、すなわち天皇主権植民膨張国家と言うべき国家が一九四五年に、正確に言うと一九四七年に変わりまして、日本国憲法下日本国、すなわち国民主権平和国家というものになった。この二つ国家の間には、私は断絶があるというふうに思っております。  先ほど長谷川公述人は、戦争に負けたということをもって変わり目のように認識するような御発言がございましたけれども、私の場合には、国家体制というものの選択が、天皇主権から国民主権国家というふうなものに変わったということを認識すべきであろうというふうに思っています。  近代国民国家というものがもちろん、体制が変わっても地理的あるいは構成民族というふうな問題において、その点に関する同一性というものからくる継続要素というものは否定しがたい、もちろん否定できるものではございません。しかしながら、そのような地理的、民族構成的な継続性のみに目をつけて体制的断絶というものを考慮しないならば、ここで体制が変わったということの意義さえも忘却させるようなことになるのではないかというふうに私は思っています。  すなわち、この問題の争点の中には、この国の政治体制における一九四五年以前からの要素を重く見るか、以後の要素を重く見るかが深くかかわっているというふうに私は考えております。  私のように、断絶側面、すなわち一九四五年以降の体制というものに非常に重い意味を見ている者にとりましては、第二次大戦後、戦時枢軸国中心であった日独伊日本ドイツイタリア三カ国のうち、先ほど長谷川公述人も御指摘になりましたが、ドイツイタリア国旗国歌も改めたというのが正しい選択であったというふうに私は思っております。それによっても国家継続性自体は変わっていないということもまた重要な要素でございます。  しかしながら、ドイツイタリアと違いまして、日本はうやむやのうちに一九四五年以前からの国旗国歌慣習として保持し続けました。国民の間に定着したという論議がございますけれども、特にその論議君が代の場合に大いに疑問があると私は思っています。しかしながら、その論議に深入りはいたしません。  仮に定着していないというふうなことがあったとしても、そうであっても、別のものにかえるということはもう既に時を失っているということ、これはもう覆うべくもありません。私は、これはもうかえるという時期は失っているんじゃないかというふうに思います。将来のことはわかりませんが、今この法案が出てきたことに触発されて、かえようではないかという議論がそのよう有効性を持つとはやはり私には思えません。  しかしながら、ここで法制化するということは、つまり慣習でこのように持ってきた、一種スポーツ大会ようなところで掲げられる国旗、あるいは相撲の終わりに歌われる君が代というふうな意味での慣習化した国旗国歌というふうなものについては、そのままこれで、それをやめろとかあるいは続けろというふうな議論は実体論的にできないというふうに思っています。実効がある手段とは思えません。  しかしながら、ここで改めて、今日ただいま法制化する、きょう成立するというふうなことになりますと、これは国家というふうな立場から見ますと、この我々の国家大日本帝国時代からの継続性重視立場から再確認しようという行為というふうに映るわけであります。その場合に、しかしながら、日の丸君が代にかわるものがない以上、両者の国旗国歌としての機能を、ここで慣習として持たせることに反対はできません。すなわち、現状の慣習的使用を続けるほかないというのが私の意見でございます。  もう一度繰り返しますけれども、ここで法制化することは、大日本帝国時代からの日本国家継続性を重視する立場を改めて再確認しようという行為であるというふうに私は認識するものであります。  以上が主要な私の論点でございますけれども、法制化に伴う危惧には、既にあちこちから言われていますもう一つ側面からくる危惧がございます。  これは、もう多くの論者が言われたとおりのことを繰り返すことになりますけれども、それは一つには、この国の官僚というものが牽引する政治というものを持っている、それ自体が、戦前以来継続する日本政治文化に由来する私の危惧、おそれでございます。  例えば、ほかならぬ当委員会で先ごろ、八月二日の委員会というふうに記録されていますけれども、文部省政府委員から次のような御発言があったという報道に接しました。このようなことであります。例えばこの問題に関して、教職員国旗国歌指導に矛盾を感じ、思想良心の自由を理由に指導を拒否することまでは保障されていない、公務員の身分を持つ以上、適切に執行する必要があるというふうに文部省政府委員がおっしゃったということの報道に接しました。  ここには憲法に対する重大なべっ視があるというふうに思います。憲法二十一条はまさに、このよう国家権力というふうなものが思想良心の自由を侵してくることはまかりならぬということをきちんと書いたものだというふうに私は認識しておりますので、このよう官僚の主導するよう政治が続いていくということの、そのことがなければ、私は国旗国歌法制化というものに対してさほどのおそれを持ちませんけれども、この場合にはやはり相当なおそれを感じます。  特にそのおそれというものは、もう一つ日本政治文化の特色であるところの、お上の言うことは常に正しいというふうに認識した上で、これにまつらわぬ者を排除しようというふうな、そういう社会的権力が発生しやすいという政治文化を我々の国は持っているということをやはり思い出さざるを得ません。すなわち、これによって、君が代斉唱の際に起立をしないというふうな者を非国民呼ばわりして、出ていけというふうな恫喝をするというふうな事件などが容易に今後頻発するようなことになるであろう。これは、法律自体の責任というよりは、このよう日本政治文化の中における法律のありようというふうなものの中で、私は大変そのことに関する危惧を持つ者であります。そのよう国家忠誠心や愛国心を持てない者が逆にふえるような、そういう社会的権力のばっこというふうなものが出てくることを私は憂えております。  以上のような観点から、私は、この国旗国歌法案反対いたします。  以上でございます。
  6. 鴻池祥肇

    委員長鴻池祥肇君) ありがとうございました。  次に、上田公述人にお願いいたします。上田公述人
  7. 上田宗良

    公述人上田宗良君) 上田でございます。  私は、本日、国旗国歌法律案に対しまして公述人としての意見を述べさせていただくということでございますが、長い間スポーツ界にかかわってまいりました者といたしまして、国旗国歌スポーツ界全体で一般的にどう受けとめられているか、どのように使用されているかということについて、現実に即し、かつ私自身の体験にのっとりましてお話をさせていただきたいと考えております。  私がスポーツ界と申し上げましたので、まずはちょっとお時間をいただきまして、オリンピック委員会の位置づけということに言及させていただきたいと思います。諸外国におけるオリンピック委員会の位置づけ、これは、国が当該国内スポーツ総括団体として法人格を与えている、あるいは政府外郭団体となっているもの、また政府部内に取り込んでしまって一部政府の機関として扱われているというふうに、いずれもございますが、こういうものがすべて国際オリンピック委員会傘下、あるいはアジアの場合で申し上げますとアジアオリンピック評議会傘下で、当該国内スポーツ団体を統轄するということに相なっているわけでございます。  それで、日本スポーツ界はと申しますと、オリンピック委員会日本体育協会両輪でございます。オリンピック委員会国際競技力の水準のことを取り扱っておりますし、日本体育協会スポーツ・フォー・オール、学校体育というものでございます。これを両輪にしてスポーツ界が運営されているということに相なるわけでございますので、そういうスポーツ界意見の反映というふうにお受け取りをいただきたいと考えております。  現在、オリンピックのケースで申し上げますと、御承知ように、優勝者あるいは入賞者は壇上に立って表彰されるという、オリンピック憲章というものがございます。この場合に優勝者の旗が中央掲揚台に掲げられるわけでございます。その間に優勝者派遣団の旗が掲げられ、歌が演奏されるということになっております。このIOC憲章の文言は、派遣団の旗、歌、こういう表現になっております。  派遣団、すなわち英語で申しますとフラッグとアンセム・オブ・デレゲーションということになっておりますが、これは、オリンピックの場合は各国にNOC、国内オリンピック委員会がございます。ナショナル・オリンピック・コミッティーと申しております。ところが、各国すべてが独立国ではございませんで、その中には、いわゆるテリトリーと申しますが、プエルトリコとかマカオ、香港、台湾のようなケースがございます。したがいまして、そういうところを国家と言うわけにはまいりませんので、その場合はデレゲーションということで全部を包含するよう意味合いになっているわけでございます。  デレゲーションと言う場合、申し上げましたように、それぞれの国においての派遣団ということになるわけですが、いずれの場合にいたしましても、それぞれ国ないし地域が派遣団として認めたチームということになります。独立国家の場合には、国によって法人格を与えられた国内のスポーツ界の団体を統括するオリンピック委員会が派遣する代表団というふうに言うわけでございます。  そのデレゲーションの旗はその国が認めている国旗と、また歌はその国が国歌として認めているものが使われるということが国際オリンピック委員会あるいはアジアオリンピック評議会におけるある種の通念でありますし、国際スポーツ界における一般的な常識というふうに判断してまず間違いないところではないかと思います。  こういう表彰式から始まりまして、あらゆる国際スポーツ総合大会では、いろいろな国の表示がいろいろなところでいろいろな格好で用いられているわけでございます。  例えば、選手村で国名表示を使わずに旗だけを使いますとか、あるいはそれぞれ代表して出場するチームには国旗を胸にデザインしたもの、ユニホームを着てプレーをいたしますとか、そういうぐあいにすべてが国旗とつながっているというふうに解されるものでございます。  スポーツ界では、ナショナルチームに選ばれるということを、一般的に日の丸をつけると言うぐらいの表現があるほどでございます。さらに、選手村の入村式、国旗掲揚あるいは国歌吹奏、そういったものもごく一般的なプロトコールとして行われておりますし、現在、日本オリンピック委員会では、国旗の下に五輪の輪をあしらいましたものを第一エンブレムと言っております。  これは言ってみれば、私どもオリンピック委員会の表札、名刺みたいなものでございますが、各国ともこういったものをそれぞれ各国の表示に使っておりまして、IOC、国際オリンピック委員会としても、これをほぼ公認したという格好になっております。  しかも、オリンピック委員会では、旗を使ったこのエンブレムを商業目的には使用しないというような通達を出すくらい、ある種の敬意と尊厳性を持たせておるということにもなるかと思います。  そこで、ここから立場を変えまして、今度はオリンピック大会、アジア大会など国際的なスポーツ総合大会を組織する場合に国旗国歌がどう扱われているかということでございます。  私自身、広島のアジア大会、福岡のユニバーシアード等の式典委員長を仰せつかっておりまして、その場合各国に対してどういうふうな対応をしているかということを御説明いたしますと、各国に参加を要請いたしました後、おおむねの出場国が決まりますと、各国の外務省を通じ、あるいは各国の駐日大使館関係者を通じまして国旗国歌を取り寄せることになっております。  この場合、各国から詳細な取り扱いの注意、例えば旗の上下とかカラーについての注意の要請はございますが、歌、旗等についての必要性、あるいはそのことについての本質的な議論というものは全くなく、一般的にそういう大会においての表彰に国歌国旗が使われるということは、まずは国際的にも通念として考えられているということがよくわかる次第でございます。  私が今まで述べてまいりました状況にかんがみまして、ここで国としてのアイデンティティーを明らかにするということで国旗国歌が必要なことは言うまでもございませんけれども、私ども振り返って歴史を考えてみますと、一九〇〇年以降国家的におおむね認知された、あるいは認知されたに近い取り扱いを受けてきた君が代を正式に国歌とし、一八七〇年以降国旗としてみなされてきた日の丸を正式に国旗として取り扱うことは、国内的にも極めて受け入れやすいのではないかと思いますし、諸外国の国旗国歌が制定される過程を追って考えてまいりますと、初めから法律によって律するというケースもございますが、自然発生的に形成されて次第にでき上がってくるというようなケースがより多いのではないかと考えております。  したがいまして、今までこういう格好で自然発生的に形成され、長い歴史の中で徐々に醸成されてまいりました、そして国民大衆の中に浸透してある種の国民感情として定着しているというふうに受けとめられる現在の国旗国歌でございますと、今世紀の終わりに当たってこれが法制化されるということにつきましては、まことに当を得た進め方だというふうに私は考えております。  最後になりますけれども、君が代についての意見を申させていただきますと、象徴天皇、これは国民の総意に基づくものであるというふうに考えておりますが、君が代という表現、君すなわち天皇ということになるわけでございますが、その背後には国民の総意ということがあるわけでございますので、天皇国民を含んだこの代というふうに私は解釈をさせていただいております。  以上でございます。
  8. 鴻池祥肇

    委員長鴻池祥肇君) ありがとうございました。  次に、升井公述人にお願いいたします。升井公述人
  9. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 日本高等学校教職員組合委員長升井です。最初に、こうした意見公述する機会を与えていただきましたことに感謝いたします。  さて、今審議がなされております日の丸君が代法制化問題について、これが国民的合意が深められることなく法案が急いで成立させられようとしております。私は、このことに対しまして、明確に反対意見を表明するものであります。  国旗国歌というのは、その国のあり方、国のシンボルをあらわすものであると思います。だとするならば、国民の圧倒的多数が合意し、納得できるものでなければ意味がないものであります。今、日の丸君が代について国民の間ではっきりと意見が分かれております。このことはどの世論調査を見ても明らかなことであります。反対意見の人が多数いるにもかかわらず、これを無視して日の丸君が代を無理に法律として決めてしまうというやり方は、国のあり方にかかわる問題であります国旗国歌を決める方法としては根本的に間違っていると言わざるを得ません。  反対意見、少数意見を尊重する、これは民主主義の原則ではないでしょうか。ましてや、国の政治の根本問題である国旗国歌を決めるという場合においては、絶対に守らなくてはならない大原則であるというように私は思います。もっと議論を尽くしてほしい、これが日本国民の圧倒的な声です。国民多数の意見にこたえるのが民主政治の基本であるなら、この声を日の丸君が代法制化問題の論議に生かすことが今こそ求められているのではないでしょうか。  私は大阪の公立高校の社会科の教師でありました。私は、日本国憲法と教育基本法の原則を教育のよりどころとして日々の教育活動に専念してまいったところです。社会科の授業の中で憲法を教える場合でも、日本国憲法大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法との比較の上に立って、平和主義、国民主権、基本的人権の諸原則が今日に生かされてきたその経過と意義について、その歴史的事実に即して高校生に教えてきました。  こうした教師としての経験から言いましても、明治憲法下で天皇を賛美する歌とされてきた君が代をそのまま解釈を変えて教えることは、真理、真実を求める立場に立って進めなければならない教育の原則を踏み外すことであるというように考えるものです。そして、そのことは結局、子供たちや父母の教育に対する信頼を失うことになるのではないかと危惧するものであります。  今月の三日でしょうか、滋賀県下の養護学校を含めた公立・私立高校の社会科の先生たちが「日の丸君が代の拙速な法制化反対」とする声明を発表しております。七人の先生が呼びかけ人になりまして、県内の社会科の三百八十三人、これは滋賀県のすべての社会科の先生だと思います、三百八十三人の全員の先生に呼びかけました。さまざまな問題、圧力もある中で、実に百八人の先生が勇気を持ってこの声明に賛同を寄せておられます。  声明は、民主主義を教えている社会科教員として、思想の自由にかかわる問題を十分な論議を抜きにして決めてはいけないと思う、侵略戦争への謝罪なしに日の丸君が代国旗国歌とすることは、授業で教えている歴史に目を閉ざすことになる、このように言っております。  日の丸君が代にかかわる歴史的事実や真実を教えることなく、それが強制されることを教師が認めていて、どうして子供たちに真理や民主主義を教えることができるのでしょうか。まさにこのことは教育に携わる教師の存在そのものにかかわる問題ではないでしょうか。  呼びかけ人の一人の先生はこうおっしゃっております。今の法制化論議を見ていると、我々が日々教えていることを全否定されているような気がすると。そのとおりだと思います。私たちは先生たちのこの声に耳を傾けなければならないのではないでしょうか。  それから、資料として配っていますのは、元校長先生やPTA会長さんなどの教育関係者の方々の声明です。全国から呼びかけ人の方を含めて、八月七日現在、四百五十人の方々がこれに賛同の名前を寄せていただいております。  学校は自主的に教育活動を営むところです、卒業式、入学式などの学校行事もこうした教育活動の一環です、こうした場に日の丸君が代が押しつけられることによって、子供を中心とした教育活動が大きく阻害されてきました、こう述べています。  日の丸君が代の学校への押しつけがどれほど教育を大きくゆがめてきたか、そのことへの苦しさと悩みがここに示されているのではないでしょうか。  この間の政府の答弁でも、これは石川先生もお触れになっておられましたけれども、教師が思想良心の自由を理由に指導を拒否することは認められない、公務員なら職務執行の義務があるとしまして、校長の職務命令に従わない場合、処分の対象になるという見解が示されています。  一九四五年を境に戦前の教育から戦後の教育はどのように変わったのかということで公述人の先生のお話もありました。このことにつきまして教師の責務に即して考えてみますと、すべてが国のために尽くすことが目的とされた戦前の教育では、教師の責務については「訓導ハ学校長ノ命ヲ承ケ児童ノ教育ヲ掌ル」、このように定められておりました。教育活動はすべて学校長や国の命令で行われておりました。したがって、教師は全責任を子供に対してではなくて学校長や国に対して負うという教育制度であったというように思います。  戦後はこれが根本的に変わりました。戦後では、人格の完成を目指し、人間形成を助けることを目的とする教育に根本的に変わりました。学校教育法は、「教諭は、児童の教育をつかさどる。」と定められておるわけです。教師が父母、国民の負託にこたえて直接子供に全責任を負って行うとされているものであるというように思います。だからこそ、教師の教育上の自主的権限や教育の自主性が重視されているのでありまして、教師に対する強制や命令は、教育に対する不当な支配として許されるものではないということは明らかではないでしょうか。  日の丸君が代の学校への押しつけが教育に何をもたらしているのでしょうか。教師と生徒の信頼関係を深め、生徒の人間形成を助けるという教育の場に、強制や職務命令などがなじまないことはだれの目にも明らかなことではないでしょうか。  政府は、法制化することによって混乱を収拾するのだと言っておりますけれども、正直言ってとんでもないことだと思います。教職員は、戦前、教え子を再び戦場に送ってしまったそのつらい経験からも、二度と過ちを繰り返さない、その決心を固めて、教育の自由と教師の良心に従って教育をしたいと願っているのであります。行政の押しつけや命令によって教育が従属されるなら、本当の教育が死んでしまうことは戦前の歴史が証明していることではないでしょうか。  卒業式や入学式は、運動会や文化祭などと同じく、貴重な学校教育、学校行事の一つです。学習指導要領の基調も学校の独自性を強調しているように、各学校で生徒や教職員の創意工夫で自主的に実施されるべきだと思います。厳粛で清新な儀式にせよと学校に迫って日の丸君が代を強制してきているわけですけれども、このことによって、本来教職員の協力と創意によってつくり上げるはずの入学式、卒業式が大変重苦しいものになってきたのではありませんか。こうしたやり方が一日も早く転換されることを心から望むものであります。  最後になりましたけれども、大阪のある公立高校で生徒が発行する校内新聞に寄せられた高校生の意見を紹介させていただきます。  国旗国歌についてさまざまな考え方があり、日の丸君が代は現実に慣習として受け入れている日本人が多数存在する中、安易にこれを否定できるものではありません。卒業式のなかで、国旗掲揚、国歌斉唱を行なうという考えがあってもそれはそれで尊重すべきものだと思います。しかしどうして私たちの意思でそれを自由に選択できないのでしょうか。国旗国歌の強制ともいい得る現体制に、私たちが矛盾や反感を覚えるのは当然のことではないでしょうか。 私は、ここに高校生があすの主権者として立派に育っている姿を見る思いであります。  以上で私の公述を終わります。少し長くて申しわけありませんでした。ありがとうございました。
  10. 鴻池祥肇

    委員長鴻池祥肇君) ありがとうございました。  以上で公述人意見陳述は終わりました。  これより公述人に対する質疑に入ります。  なお、各公述人にお願い申し上げます。  時間が限られておりますので、御答弁はできるだけ簡潔にお述べいただきますようお願いいたします。  それでは、質疑のある方は順次御発言願います。
  11. 市川一朗

    ○市川一朗君 自由民主党の市川一朗でございます。  公述人の皆さんには、お忙しいところ大変ありがとうございました。また、ただいま大変貴重な御意見をいろいろお述べいただきまして、参考になりました。ありがとうございました。  時間もございませんので、幾つか質問をさせていただきたいと思いますが、私どもは、この今回の法案に関しまして基本的に思っております大前提としては、この日の丸君が代、これが我が国においては長年の慣行によりまして日本国旗国歌であるといったようなことが広く定着しているという前提の中で、先ほど長谷川先生はやぼな法制化というお話、表現をなさいましたけれども、やはり必要性を感じまして法制化に踏み切りました。  そのことは、政府の提案理由説明にもそういうふうに書いているわけでございますが、ただいまお話をお伺いしておりますと、石川先生、升井先生に関しまして、特にその点につきまして若干私としてははっきり確認させていただく必要があるのではないかという感想を持ちましたので、まことに恐縮でございますが、先ほどのお話の中で触れていないわけではございませんけれども、もう一度改めて升井さん、石川さんという順で。  要するに、日の丸君が代は、我が国においてはやはり日本国旗国歌としてかなり広く定着しているのではないか。そして、そのことは国際社会において、オリンピックお話が出ましたが、国際会議の場でも日本を象徴するものとして必要な場合には日の丸君が代が使われているわけでございまして、これも否定できない事実だと思います。  そういう事実関係、あるいはそういったような状況についてお認めになっておられるのか、あるいはほかの考え方があるのかどうか、その辺をお伺いしたいと思います。
  12. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 私は、日の丸君が代の問題が、日本国民の中で、これが国旗だ、これは国歌だという方が一定数いらっしゃるということについては認めます。  しかしそれは、日本国民の圧倒的多数の方がそのように思っているというようには、いろんな世論調査、いろんな考え方、今新聞等でも意見が寄せられていますが、また学校の中でこのことについて論議が深まっておりますけれども、そういうような中からでも、この日の丸君が代日本国民の中に定着したというようには思っておりません。
  13. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) 私の手元にございますのはたまたま朝日新聞の世論調査でございまして、これは九九年六月二十七、二十八の両日にわたった世論調査でございますが、それによりますと、日の丸法制化が必要あるという方が五九%、ないという人が三五%。君が代法制化に関して必要がある、必要がないでいいますと、君が代に関しては、必要があるが四七%で、必要がないが四五%というふうな数字が国民世論の形として出ております。  この結果から見て、私は先ほど申し上げましたように、特に君が代に関しては国民の間で定着したとは言いがたいのではないかというふうに意見を申し上げたつもりでございます。まだ半々というような感じがいたします。  もちろん、これに関して、法制化することによってなお定着を図るのだというふうな御議論があることも承知しております。しかしながら、私の議論は、仮にこのような数字をもって定着していると言いがたいという部分があるにせよ、これにかわるものが今現在、例えば国民投票にするというふうな御意見があるのも承知しておりますが、国民投票するに当たってオプション、選択肢として幾つかの、例えば君が代にかわる国歌として「青い山脈」とかそういうものが三つも四つも出てきて、その中でどれがいいかというふうな選択に移るような、そのような代案がないという状況もまた認めざるを得ないという意味でありまして、このように定着していない部分があるにせよ、なおこれが慣習として国旗国歌という機能を果たしてきたことを重視すべきだというのが私の意見でございます。  ただしそれは、法制化をそれゆえに妥当とする意見とは全く違います。  以上でございます。
  14. 市川一朗

    ○市川一朗君 今の石川先生のお話の中で、法制化の前提としてこの日の丸君が代日本国旗国歌であるということが広く国民の間で定着しているのではないかといったようなことをお聞きしたわけでございますが、若干すれ違いがございますので、もし次の機会にそれを修正していただくのでしたらまたそのときにお願いしたいと思いまして、質問を次に変えさせていただきたいと思います。  ただいまの石川先生の話にも直接関係する面でございますが、やはり日の丸君が代明治からずっと続いておったものでございますから、先ほど来のお話で、一九四五年を境とする国家としての継続性の問題との議論がいろいろあると思いますが、私もちょうど安保騒動のころの学生でございましたので、そういったいろんな議論というものはいろいろな形で耳にしたこともありますし読んだこともあるわけです。  あの中で、かなり進歩的な学者グループの中にも、今や日本は新しい憲法のもとで民主主義と平和を目指す新生日本として生まれ変わったんだと。そういう意味においては、日の丸君が代もそういう新しい生まれ変わった新生日本のシンボルとして新しい意味が加えられたという意味において、日本国旗国歌としてはっきりと認めてもいいのではないかという意見がかなりあったように思いますが、一方でまた、いや絶対にそれは変えるべきであるということでいろいろな試みもあったと思います。君が代にかわる歌を何とか定着させようという運動もあったように思います。  しかし、あれから、あれからといいますと、戦争が終わりましてからもう五十年以上を経過いたしまして、今日ただいま、日の丸君が代国旗国歌として法制化するという観点ではいろいろ議論になっておりますが、新しい国旗国歌をつくろうということは到底考えられないような状況がずっと続いてきたと思うんです。  その点に関しまして、端的で結構でございます、石川先生、升井先生、どういうふうに考えておられるか、改めてお伺いしたいと思います。
  15. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) 先ほど申し上げましたとおり、私は、これにかわるものをつくるべきであったという、大変過去形で考えています。  そのことを前提にいたしまして、にもかかわらず五十数年、五十年余りにわたってこれにかわるものを我々はつくることはできなかったという意味において、慣習として日の丸国旗であり君が代国歌であるという状態、そのような機能を二つのシンボルが持っているということを否定すべくもないし、また、既に時は失われたというふうに感じております。  したがって、この先は余計なことでありますが、慣習としてのこの国旗国歌を続けるほかないのではないかというふうに思っています。
  16. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 私は、戦後のあの時期も、そして六〇年の、先生がおっしゃいましたあの時期においても、論議が今から考えてももう少し広く十分に行われるべきだったなというように思っております。  戦後のこの国旗国歌をめぐっての論議にしましても、そしてあの六〇年代のときに起こったことにしましても、もっと深く、そして何らかの形で、それが例えば国民投票というような形も考えられるかもわかりません、そういうようなことも含めまして、もっともっとあのときに徹底して論議を行えば、日本の新しい国旗、新しい国歌国民の合意に基づいてでき上がったのではないかなというように思っているところです。  私は思っているんですけれども、今この期間に、こういうようにして日の丸君が代問題について大きな国民的な討論が広がっております。私、これは本当にいいことだというように思っているんですね。それがどうして、きょうですか、決まるというようなスケジュールになっているんですね。これ、戦後三回目というんですが、こういう本格的な論議が起こったのは戦後これが初めてだというように思うんですけれどもね。もっと本当にこれが続けば、日本の国にふさわしい、日本国旗国歌にふさわしいものがつくれるのではないかなというように思っているんですけれどもね。
  17. 市川一朗

    ○市川一朗君 終わります。
  18. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 公述人の皆様には、大変短い時間で、お暑い中おいでいただきまして本当にありがとうございます。  私は、敗戦後五十四年、今お話がありましたように幾度か試みられましたけれども、国会でこの日の丸君が代国旗国歌としようという審議が行われたのは、しかも国民的な議論が今巻き起こりつつありますのは初めてであると思います。しかし、国会を延長して急遽この法案を上程し、しかも衆議院では十三時間、参議院でも、地方公聴会、参考人、そしてきょうの中央公聴会を入れましても二十四時間、二十時間余りという短い審議の中でこの国旗国歌法制化を決めてしまおうという、まことにこういうどたばたの審議ということに関しましては強い反対を覚えるものでございます。  まず最初に私は御質問申し上げたいと思いますけれども、アジアに、アジアといいますか日本に七十万人余りおられます在日の朝鮮・韓国の方たち、それから日本が侵略をしていったアジアの国々、植民地支配をした朝鮮半島、そして唯一戦場となり日本軍の手によって住民が殺された沖縄、こういうところの方々がこの問題をどういうふうに受けとめておられるか。非常に痛みを覚えますと同時に、この方たちへの当然何らかの情報発信が必要なのではないかと。そうでなければ、私たちが、あの侵略戦争の旗印であり、そして天皇制の賛歌であった日の丸君が代を、何の変化もなくそのまま受け入れて国旗国歌とする、しかもそれを法制化するということが許されるのであろうかというふうに思います。  石川先生、いかがでしょうか。
  19. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) 今の竹村委員のお考えに全く賛成であります。  特に私が危惧いたしますのは、例えば朝鮮民主主義人民共和国におけるつまらない動きがありますと、朝鮮学校に通っているような子供たちがチマチョゴリを切られてしまうというふうな、そういう愚行が起こるような雰囲気のもとで、おまえたちはこの日本国に住んでいる、親の代から、あるいは祖父祖母の代から住んでいる者として日本国日の丸に対して敬意を覚えないのか、あるいは君が代をどうして歌えないのだというふうな形でもって迫る者が、恐らく政府とかあるいは学校当局とか教育委員会はさすがにそこまではなさらないだろうというふうに信用はしておりますけれども、一般的に社会的権力としてはそういう傾向があるということを覆いがたいというふうに思っています。  そのような場合に、今おっしゃった七十万のいわゆる日本国籍を有しない人々に対する仕打ちというふうなものまで考えていったときに、あるいはそれ以前において、この植民地時代に日本国日の丸に敬礼を強要されたあの、今現に朝鮮半島に住んでいる方々がどのようにお思いになるかということに想像力というものが必要であろうと思いますし、また、先ほど私が申し上げましたとおり、ここであえて法制化するという行為によって、国家として戦前の日本からの継続性を重視した、そのよう選択をあえて行った、国家の意思としてその意思を示したということによる彼らの思いというふうなものを思うときに、私はやはり素直にここにもろ手を挙げて賛成というわけにはまいらないと申し上げているわけでございます。
  20. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 ありがとうございます。  先ほど長谷川先生から、国旗国歌を否定する、国家を否定するのかというかなり厳しい御指摘がございましたが、私たちは、現在この形で国旗国歌法制化することに対して、それはこの方たちの許しが得られているのか、これでいいのかと思っているわけでございまして、決して国家を否定する、そんなことができると思いませんし、国家を否定するというような形で考えているわけではございませんので、一言申し上げさせていただきます。  次に、強制に伴うさまざまな事態が特に教育現場で心配されております。きょうは四人の方それぞれに教育の場にかかわっておられる方々でいらっしゃいますが、この委員会の審議でも、数々強制があるのではないだろうかと。  現在、法律ではなく、法制化されていない間にさまざまなことを私たちは情報としてお聞きをしております。教育現場でどのようなことがあるか、そして先生方がどんな御苦労をしておられるか、またそれは校長先生も当然大変なプレッシャー、そして心的な圧迫の中にいらっしゃると思いますけれども、そのようなさまざまな心配される事態が、現場の混乱あるいは強制が、もし法制化されたら起こらないとお思いでしょうか。  長谷川先生、石川先生にお伺いしたいと思います。
  21. 長谷川三千子

    公述人長谷川三千子君) 強制という問題と今回の法制化という問題とをまず非常にはっきりと区別しておくという必要があると思います。つまり、法制化ということは、日本国旗国歌はこれですよということを確認するということで、強制するというのはまた別な話だと。これはまず大前提として区別しておく必要があると思います。  その上で、現実に学校教育の場においてそれがどう扱われるかということなんですけれども、どうもお話を伺っておりますと、学校教育というものが完全に強制なしで行われ得るという幻想を抱いていらっしゃるんではないかという非常に不安な気持ちがしてまいります。学校教育というのは、例えば五十分教室の中に生徒を置いておく、そういうことでまず成り立っております。これが強制でなくて何でしょうか。そこから出発して考えていただきたいと思うんです。  本当に教育というのは難しいもので、そういう基本的な強制と、それから子供たちの自主性を引き出してやる、そういうことのバランスの上に成り立っているんですね。ですから、その両方のバランスをとりながら行うのが教育なんだということを忘れると本当に教育崩壊ということになると思うんです。  この国歌を式次第の中で歌うということ、これは私は、教育という全体にある一つの強制というものの上で……
  22. 鴻池祥肇

    委員長鴻池祥肇君) 御発言中ですが、長谷川公述人に申し上げます。おまとめをいただきますようにお願いいたします。
  23. 長谷川三千子

    公述人長谷川三千子君) ですから、そういう意味で強制ということが教育にとって不可欠であるということを考えれば、国旗国歌が強制であるという非難の仕方というのはちょっと見当外れではないかと。それを申し上げたかったんです。
  24. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) 十年前から教育現場において大変苦労なさっているのは、文部省の学習指導要領の内容として、国旗国歌に関して望ましいから、これをいわば完全に教え込むというふうな態度に変わったことから教育現場の混乱が起きているというふうに私は認識しております。  その点から考えまして、学習指導要領というふうなものが国会を通過した法律でないのにもかかわらず、法規というふうな概念のもとで、これは法規としての性格を有することによってという理由で非常に強く学習指導要領に従うことが学校現場では義務づけられてきているという状態から考えまして、今これを法制化することによって恐らくはそのような非常に強い指示が伝わるであろうことは、私は政治の動態として非常に起こり得ることだというふうに思っております。  その点で、恐らくは、先ほど申し上げました思想良心の自由というふうな問題との関係において、少なくとも一義的にこれを一刀両断にするわけにいかないとしても、そのゆえにむしろかえって葛藤は続くに違いない、そのことを私は心配しております。
  25. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 時間が参りましたので。ありがとうございました。
  26. 鴻池祥肇

    委員長鴻池祥肇君) 先ほどもお願い申し上げましたが、公述人の各位にお願いを申し上げます。  時間が限られておりますので、簡潔に御答弁をお願い申し上げます。
  27. 松あきら

    ○松あきら君 きょうは、公述人の皆様、お忙しい中お出ましいただきまして、心から感謝を申し上げます。先ほど来いろいろお話を伺わせていただきました。  ずっと私どもも審議を重ねているところでございますけれども、私は、真実というものを直視して過去を反省することは、新しく未来を築くためにも非常に大切なことである、これはよくわかっております。そしてまた、日の丸君が代というものが一時期軍国主義に利用されていた、これも事実であるというふうに思います。そして、そのためにさまざまな思いの方が今でもたくさんいらっしゃる、これも事実であるというふうに思います。しかし私は、いつまでもこの日の丸君が代が軍国主義のシンボルであると言い続けるのはいかがなものかなという思いでございます。  私は先週、参考人質疑のときに、私の小学校からの学校がカトリック系の学校だったもので、国旗国歌も実は入学式や卒業式に触れていなかった、宝塚に入って初めて日の丸を掲揚し、君が代を歌ったということを申し上げました。しかし、自然の発露で、私は国旗に対して敬意をあらわし、また国歌も自然な誇りを持って歌えたということでございます。  これは私は、刷り込みという話も出てまいりましたけれども、例えば小学校や中学校の幼い子供たちがこれを歌いたくない、あるいは国旗掲揚したくないという思いも、親やあるいは教師の何か刷り込みがない限りは真っ白な心で臨むのではないかなというふうに思うわけでございます。ですから、これは両方の意味にとれるというふうに思うわけでございます。  私は、きょうはオリンピック委員会の副会長でもいらっしゃいます上田公述人もいらっしゃっておりますので、外国の国旗国歌に対する考え方の違い、また日本人国旗国歌に対する態度、その両方の感想をまず上田公述人にお伺いしたいというふうに思います。
  28. 上田宗良

    公述人上田宗良君) 私自身、外国で教育を受けたことがございます。子供たちも外国で教育を受けたことがございます。その経験を申し上げますと、いずれもアメリカでございましたけれども、学校でのいろいろな行事の前に国旗を掲揚して国歌を歌うというのは多々ありました。そのことによって学生間の心の高揚とか団結を図るという意図があると思うのでございますが、大変教育上有意義ではないかというふうに私は考えております。
  29. 松あきら

    ○松あきら君 オリンピックの場における日本人国旗国歌に対する態度、その御感想もちょっと伺えれば。
  30. 上田宗良

    公述人上田宗良君) これは申し上げるまでもなく、皆様がオリンピックの中継をごらんになれば、国旗国歌が入賞した場合に出てまいります。それから受ける感動、感激は、ごく最近では長野の例もございますけれども、こちらに御出席の先生方もそれなりの感慨、感想、感動をお持ちだったと思いますし、先生方の中にはスポーツ界の方も何人かおいででいらっしゃいまして、特に外国において翻る日の丸、演奏される国歌を聞くときの感動というのはまたひとしおのものでございますが、これを否定するということはまず皆様どなたもなさらぬのだと思います。  以上でございます。
  31. 松あきら

    ○松あきら君 私は、やはり自国の国旗国歌を大切にする、そういう心がなくてどうして外国の国旗国歌を尊重する態度ができるのかなという気持ちがいたしているわけでございます。君が代につきましても、その発生は古今和歌集あるいは和漢朗詠集と言われておりまして、一千年の昔から歌い継がれている歌であるということ、そしてまた日の丸につきましては、江戸時代、島津公が船に掲げたのが最初と、いろいろいわれがあるようでございますけれども、言われている。  私自身は、日の丸に対しましては八〇%以上の人が賛成と言い、あるいは君が代に対してもほぼ六〇%ないし七〇%の人が認めているというふうに思っているわけで、やはり圧倒的多数の国民に定着をしているのではないかという思いがまずございます。  そこで、教育についてでございますけれども、きょうは先生方いらっしゃっておりまして、教育の目的について、教育基本法第一条には「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」というふうにあるわけでございます。どこの国の教育も、子供の内在価値を開発し、社会生活に適応するための知識や技能を習得させるとともに、その国の文化、伝統継承を目指している、こういうふうにも言われているわけでございます。  しかしまた、今出ております学校行事と国旗国歌について、学校行事は国家行事と無縁であるから、習慣、形式にとらわれず児童を中心に考えるべきであり、学校行事に日の丸君が代は必要ない、こういう批判もあるわけでございます。  この点につきまして、升井公述人から順次感想をお述べいただきたいというふうに思います。
  32. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 私は、日本の教育、先生おっしゃいましたように、どういう立場で教育を進めるか、その根本原則を示しているのが教育基本法だと思います。私たちはあくまでも教育基本法に則して教育を進めねばならないということを改めて思っているところです。  それから、先生がおっしゃった学校行事の問題、これは学校教育の中でも非常に重要な教育活動の一環であります。例えば入学式、卒業式というのは、教育活動の中でも、年間の中でも重要な節目に当たっているわけで、その式に生徒、子供が出る中で、学校生活、そして教育を受けてきたことの意味を考えて、学校教育の意義ということを改めて皆で確認し合う、そういう重要な行事だというように思うんです。そういうことであるならば、そういう学校行事というのは……
  33. 鴻池祥肇

    委員長鴻池祥肇君) 御発言中ですが、時間が限られておりますので、御答弁はできるだけ簡潔にお願いいたします。
  34. 升井勝之

    公述人升井勝之君) わかりました。  生徒と教職員がよく協議して、自主的に教職員と生徒がよく話し合ってその行事をつくり上げる、そのことが一番学校教育の中で重要ではないか。そのことを無視して一律の画一的な行事を押しつけてきているというのが今の現状ではないかというように思っているところです。
  35. 上田宗良

    公述人上田宗良君) 私は、学校教育と学校行事を一つのものと考えての教育活動の上で、国歌国旗に関するしかるべき方法での教えは必要であるというふうに考えております。
  36. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) 今の松委員の御質問の趣旨の一部は、教育基本法による文化、伝統の継承という部分をどう考えるかという意味に受け取ってよろしゅうございましょうか。  だといたしますと、私は、この文化、伝統の継承ということにおいて、君が代を斉唱し、これを国歌として取り扱うことに関しては若干の疑義がございます。日の丸に関しては、単なる藩閥政府ができるときの西南雄藩の採用していた船のしるしというものに国旗の役割を果たさせたという歴史を無視するわけにはいきませんし、君が代に関して申すならば、古今集以来歌われ続けた意味を、明治になって我が君というふうな意味、すなわち一般に愛する者というものから天皇というところに転化させて国歌として定着させていった歴史等考えますと、真の意味の文化、伝統の継承というのに当たるかどうかについては疑問を感じております。  しかしながら、私は、大学教育に携わっている者といたしましては、それらの意味を超越して、すべての物事に関して疑うという精神を教えることが大学教育の非常に主要な目的だというふうに思っております。疑うことによってあらゆるものを、いわば定説を疑うところから真理に到達するというのが我々の立場でありまして、そういうふうな観点からいいますと、義務教育課程におけるもの、あるいは高等学校教育におけるものとは、私は扱いは違っているというふうに考えております。
  37. 長谷川三千子

    公述人長谷川三千子君) 一言でお答えいたします。  人格の形成ということの中から日本人であることを抜き取ってはできないだろうと存じます。
  38. 松あきら

    ○松あきら君 終わります。時間でございますから。
  39. 阿部幸代

    ○阿部幸代君 日本共産党の阿部幸代でございます。升井公述人に伺いたいと思います。  本法案の審議の中で、私は指導の名による強制というものがあってはならないんだろうということを強く考えました。国旗国歌について教育的な指導はどのように行われているのでしょうか。また、どのように行われるべきなのでしょうか。升井公述人にお聞きします。
  40. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 指導というのは、言葉意味はまさに教え導くことであります。私たちは、いわゆる指導し、教え学ぶという立場、これに立っているわけです。何か指導を拒否するかのように言われているわけですけれども、そうではなくて、私たち指導し、教え学ぶ立場に立っているからこそ、日の丸君が代の歴史的事実やその意味、内容を正確にきちんと教えねばならない、このように思っているところであります。    〔委員長退席、理事溝手顕正君着席〕  今私たちが問題にしているのは、この指導という名の強制が行われているという問題です。その強制の中身というのは命令であって、教育とは最も無縁なものだというように思っているところです。
  41. 阿部幸代

    ○阿部幸代君 卒業式、入学式の扱い方で、日の丸を掲揚し君が代を斉唱するということがほかの選択肢がないまま押しつけられてくるということが問題だと私は思うんです。そもそも、そういう教育内容にかかわることを職務命令で画一化してきてよいのかという根本問題が本法案の審議の中で投げかけられているような気がするんですが、そうした問題をどのように考えておられるでしょうか、升井公述人
  42. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 学校での日の丸君が代問題というのは、教職員が公務員として職務に服するという、こういう校長と教育委員会との関係、いわゆる服務問題、この問題ではなくて、日の丸君が代をどう教えるか、どのように、どんな意味を理解させるのか、この問題、いわゆる教育内容上の問題であるというように私は考えているところであります。だとするならば、教育の場にこの問題での職務命令や処分というのは全くそぐわないものだというように思っているところでございます。  しかし、これは同時に教職員の教育力量が問われている問題だというように思っております。憲法の原則にのっとって、それぞれこの日の丸君が代そのものについて公正に正しく教えるということがやはり問題になってきているんじゃないかなというように思います。  いずれにしましても、これは教育内容にかかわる問題だと思います。そうならば、教育内容に強制はなじまないというのは、七六年のあの学テ最高裁判決にも明らかなように、教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制であることが要請されると、このように言われていることからも、教育内容にかかわる強制、職務命令というものは全くなじまないものではないかというように思っているところであります。
  43. 阿部幸代

    ○阿部幸代君 升井公述人、それから石川公述人にお伺いします。  法制化に伴い、君が代歌詞政府見解というのが出されました。しかし、その中身は国語文法やあるいは主権在民の憲法の原則にそぐわない、いわば御都合主義的なものです。教育現場でこれを指導しなければならない教員の苦労と、指導を受ける子供たちの混乱が私には今から想像できるんです。  私の地元、埼玉県に所沢高校というのがあります。昨年、卒業式、入学式をめぐって大変話題になりました。この学校の生徒会は、十分な学習と議論を経て、日の丸君が代に関する決議、反対する決議ではありません、というのを上げてその強制に反対して、生徒が主体となった卒業記念祭と入学を祝う会というのを大成功させています。本当に心温まるすばらしい卒業記念祭と入学を祝う会です。その子供たちのさわやかさ、それから自分言葉で語るたくましさ、私も間近に見て大変感動したんですが、知的な理解を深めた子供たちに強制というのは通用しないと思うんですけれども、どのようにお考えでしょうか。升井公述人から。
  44. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 私は、この所沢高校の問題で何が問われているのかということで皆さんにぜひ訴えたいことがあります。それは、この所沢高校問題で、教育の本質にかかわる問題が非常に明らかな形で出てきているのではないかなと思います。  それは何かといいますと、学校というのは、本来ならば、学校の中で高校生の生徒がどのような形で人格の完成を目指して成長していくのかと。このことにかかわって自主自立を追求して、責任ある自由を求めて行動していく、そういう人間をつくっていく、そのために教職員や父母がそれを支え、援助して育てていく、こういうことが一つ問題であると同時に、それとまた一方の極としまして、生徒は本来は指導の対象であって、権利主体者ではないんだと、こういう考え方、この二つの考え方の対立だったんじゃないかなと。本来ならば、教育の本質というのは、教育の目的は何なのかということがあの所沢高校問題の中で出てきたのではないかなと思います。  一つだけ。所沢高校の生徒が自分のニュースにお父さんとお母さん向けに出した言葉があるんですね。これを少しちょっと読ませていただきたいと思うんです。  二年前の話ですけれども、今回校長先生がやろうとしている卒業式は、校長先生一人の独断でしかありません。どこの承認も得られていないものです。生徒と職員全体の決定よりも校長先生の最終決定権の方が強い、強力だなんて、そんなことを認められるわけはありません。学校という場は、これから社会に出ていく私たち生徒があらゆる知識を得る場であると同時に、自分の力でやり遂げることの大切さを学ぶ場であると思います。自主自立を育てる場所。しかし、校長先生のやっていることは明らかに私たち生徒の自主自立を妨げることにつながりませんかと、このように生徒自身が問いかけをしているわけですが、私はここに見事に教育の本質が出てきているというように思っているわけであります。  私どもは、日の丸君が代についても公正な立場で教えていかねばならないというふうに思っています。歴史的な事実に即して教える。そうすれば、必ず高校生にはこれについて賛成の人あるいは反対の人も出てきます。当たり前のことです。このことが大変重要だと思っております。賛成の意見反対意見それぞれを大切にして尊重する、これが本来の教育の姿であるというように私は思っているところであります。
  45. 阿部幸代

    ○阿部幸代君 石川公述人にお願いします。
  46. 溝手顕正

    ○理事(溝手顕正君) 石川公述人、もう時間が過ぎていますので手短にお願いいたします。
  47. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) 今の阿部委員の御質問の形での御意見に私は全く賛成であります。強制というものは通用しないという意見に賛成であります。  なお、つけ加えれば、私は大学の教員でございまして、義務教育、高等学校の教師であった場合にこの問題をどうするだろうなというふうに考えることがございます。その場合に、恐らく私は面従腹背を教えることになるだろうと思っています。儀式その他について起立をしたり歌ったりあるいは口をぱくぱくするだけで済ませて、しかしながら、日の丸君が代の背負っている歴史というふうなものについての認識を、ちょうど教科書によって教えるように、日の丸君が代によって教えるというふうな立場を教員はとることができるであろう。そのことにまで弾圧が及ぶとするならば、それこそが学問の自由、良心の自由というものを損なう国家権力の行き過ぎであろうというふうに私は思っております。  以上でございます。
  48. 阿部幸代

    ○阿部幸代君 どうもありがとうございました。
  49. 山本正和

    山本正和君 長谷川公述人にお伺いします。  日本の国が大日本帝国憲法下で行った教育、これはすばらしいとあなたはお考えですか。
  50. 長谷川三千子

    公述人長谷川三千子君) 私が今申し上げたのは、実は明治維新出発点をなしている思想を申し上げたんです。  実際の明治時代の歴史というものが本当にこれに従ってでき上がったかどうか、これはまた全く別のことだと思います。
  51. 山本正和

    山本正和君 ちょっと、質問にだけ答えてくださいね。  私は先ほどのお話を聞いておりまして、反国歌国旗イデオロギーというよう言葉を使われた。確かに昭和二十年代の段階で、戦争に負けて混乱する時代にありました。国家契約論もあった。そのことが今、日本国民の中にたくさん残っていると私は思わないんですよ、あなたのように。何かちょっと昔の本を引いたような気がするんだけれども。  そこで、あなたの時代でどういうふうにお育ちになったかわからないけれども、私がお聞きしたいのは、日本の私どもの世代は天皇陛下万歳と言って育ったんですよ。そして、一たん緩急あらば義勇公に奉じて命をささげなさい、天皇陛下のために、こういう教育を受けた。そのときの一番根っこが君が代だったんです。そういう事実をあなたは御承知ですか。
  52. 長谷川三千子

    公述人長谷川三千子君) 存じております。
  53. 山本正和

    山本正和君 だとすると、国民の間で君が代の問題を議論するときに、君が代はかつてこう使われたという歴史を含めて議論すべきであるということについてはどうお考えですか。
  54. 長谷川三千子

    公述人長谷川三千子君) それは大変必要なことだと存じます。  そこで、もう一つお答えをさせていただきます。  戦前、今御質問の山本さんが教わった天皇賛美の形というものは、実は非常にへんぱな形で半分しか伝わっていなかったんです。本当の出発点において、今お目にかけたような、蒼生安寧ということが一番の基本であったという思想が見失われてきたというのが実は近代日本の歴史でもあったわけです。  ですから、ここで国旗国歌法制の新しい意義ということが問題になっておりますけれども、ある意味ではもう一度五カ条の御誓文、これは板垣退助らの民権思想の……
  55. 山本正和

    山本正和君 もういいですから、質問にだけ答えてください。
  56. 長谷川三千子

    公述人長谷川三千子君) 非常に大事な答えなんです。そこまでを含めた形で……
  57. 山本正和

    山本正和君 委員長、聞いていないことだから、答えてもらわないでいいです。
  58. 長谷川三千子

    公述人長谷川三千子君) そこまでを含めた形で私はその思想を理解しておりますというのがお答えでございます。
  59. 山本正和

    山本正和君 五カ条の御誓文を私らは暗唱して覚えて育ったのです。その中には皇基ということがある。ここに説明が書いてあるけれども、要するに、天皇が治める御代はいいことなんですよ、いいことを世界じゅうに広めなさい、すべて天皇のおかげで日本の国があって私どもの生活がありますよ、だから天皇陛下は神様なんですよと。この中で我々はずっと明治以来教わってきているのですよ。あなたはもうちょっと学者として勉強してほしいと私は思う、実際の話が。  だから、その中で今私が言うのは、そういう歴史的なことについての評価じゃないんですよ。そういう歴史をきちっと含めて君が代の問題を論争すべきであるにもかかわらず、私は率直に言いますけれども、国民の圧倒的多数はみんな国歌と思っている、君が代は。私もそう思いますよ、現実問題として思っている。しかし、それはなぜ思っているかといったら、東京オリンピックと大相撲なんですよ。先ほどスポーツの話で、スポーツ日の丸が上がるから、君が代を斉唱するからああ国旗だなと思っている。しかし、このことを国民議論したことがない、戦後五十年間。本気になって、日の丸とは何なの、君が代とは何なの、本当に国旗国歌は何なのということを議論していないんですよ。あなたのように、少なくとも国立大学の先生が先ほどのような非常に皮相なことを言われて、私は本当にがっくりしまして、これではもう大学教育が心配になってきた。  私がお聞きしたいのは、だから、日の丸君が代という問題が国民の間で本当に十分に論議されている、その中で国旗国歌として定着しているというふうにあなたは考えているの、考えていないの、どっちですか。
  60. 長谷川三千子

    公述人長谷川三千子君) 先ほど全般にお答えしたことがそれの答えになっているかと思います。つまり、これはもう本当に慣習として空気のように身につけているもの、そういう形で定着しているものであって、定着している場合にはむしろかえって思想について云々するという論議の形はあらわれないものだろうと存じます。
  61. 山本正和

    山本正和君 それで大分安心いたしました。その意味がその辺ならよくわかる。  そこで、石川公述人にお伺いしたいんですけれども、私の時間があともうちょっとしかありません、四十二分までですので、その範囲内で最後にお答えいただきたいと思うんです。  本来、私も含めまして、戦争に負けて兵隊で帰ってきた連中が国旗国歌も要らぬという気持ちになったんです、事実として。その中で昭和二十年代、三十年代のさまざまな日本政治の遍歴があった。一番サボったのは、私は国会が国旗国歌の問題を取り上げて議論しなかったことだと思うんですけれども、大学の世界でも、いわゆる思想界の世界でもほとんど国旗国歌問題に触れなかった、昭和二十年代、三十年代。その間にオリンピックと相撲で、そしてもう一つは、文部省がしゃにむに歌え歌えとやって、日の丸掲げよとやっていく中で定着したと私は思うんです。  その辺のことで、なぜそういうふうな昭和二十年代、三十年代に国旗国歌論争が起こらなかったかということについての御見解があればお伺いしておきたいと思うんです。
  62. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) 大変難しい御質問だと思います。なぜ大学教育ないしは思想界においてこの議論がなかったかというのにはさまざまな要素があると思います。  ただ、今、山本委員は御自身の経験をおっしゃいましたが、私自身の経験からいっても、私は敗戦の年に中学一年生でございましたので全くの戦後派教育を受けてきた者でありますけれども、その間、日章旗と君が代を歌ったり見たり敬礼したことは一度もございません。そのような環境に恐らくならされたというのが一番の要因だろうと思われます。  また一方において、大変申し上げにくいことでありますけれども、当時非常に強かったいわゆる進歩思想の中に非常に力を強く持っていた社会主義思想のもとで、いずれ日本が社会主義革命のもとの社会主義国家というふうなものになったときには、このよう日の丸君が代、少なくとも君が代というふうなものは当然に消えていくものであろうというふうな、それでほうっておけばいいというふうな観念も若干そういうことに力を加えていたんじゃないかという気がいたします。    〔理事溝手顕正君退席、委員長着席〕  いずれにしても、そのようなことに関して言うならば、先ほど言ったドイツイタリア等に比べまして、これは国家権力がというよりも、我々のような知的世界に住む者の若干の怠慢というものを指摘せざるを得ないということは確かだろうと思っております。
  63. 山本正和

    山本正和君 あとまだ二分ほどありますので、私は升井公述人一言だけお答え願いたいんですけれども、確かにいわゆる社会党や共産党という革新勢力と自称しておった、また新聞もそう書いていましたね。その舞台の中に私も含めて混乱があったことは事実だと思うんです。例えば、当時の日教組の中で、昭和二十年代の前半で国歌がやっぱり必要だと、平和国家の歌が必要だということで運動が起こった、かつて。しかしそれを、当時の十分勉強していない社会主義思想を持った人たちが、そんなものはいい歌を国歌にしたらいいんだよ、何言っているんだといってやられた。そういう歴史もあるんです。  そういう意味で、二十年代の時期じゃなしに、今本当に考えて国旗国歌はやっぱり必要だ、この日本国憲法下国民が誇れる国旗国歌は必要だということについての御見解を、一分しかありませんけれども、一言だけ。
  64. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 民主主義の原則に基づいて形づけられるこの近代国家としての日本には、国旗国歌は必要であるというように思います。
  65. 扇千景

    ○扇千景君 わずかな時間に公述人においでいただいて、まず御礼を申し上げておきます。  わずかな時間ですけれども、貴重な御意見であるだけに貴重な記録として残せられればという、先ほど石川公述人がむなしいというお話ございましたけれども、それはそれで私は皆さんの御意見が生きればいいと思っていますし、また今後の参考にするには貴重な時間であろうと思います。  まず伺いたいことは、升井公述人にお伺いしたいんですけれども、「アピール」というのをお配りになりました。その中で、「学校は、本来地域の状況や子どもの実態を踏まえて、自主的に教育活動を営むところです。」と書いてあります。しかも、これが先ほどおっしゃったように堂々と百何十人の先生の経験者が署名して参加していますとおっしゃったんですけれども、まず私は、学校は「地域の状況や子どもの実態を踏まえて、自主的に教育活動を営むところです。」というこのことに関して少し伺いたいと思うんです。  御存じのとおり、昨年の教育審議会の中間答申がございました。御存じだろうと思います。その答申では、二十一世紀からの日本の小中高校の教育は個々の教師や学校が自主的に計画して実施する分野の拡大がされると、そういう答申が出ておりますね。もうこの「アピール」でおっしゃったとおりなんです。そうしますと、例えばそれによって、地域の学校や生徒の生活環境等々によって個々の教育を行うということになりますと、現実的には学校や教師の自由裁量によってその分野がふえるということに、逆に学校の差異が出てくるのではないかということに関して、この「アピール」との関連性はどうお思いでしょうか。短くて結構です。
  66. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 教師というのは、先ほど私が申し上げましたように、子供の教育に全責任を負うというこの責務上の問題から自主的な権限が必要だというように思っているところです。ただ、その自主的権限というのは、先生のおっしゃるように、何か自由勝手にそれだけ独立させてやっていくというような問題ではありません。  学校の先生が教育をやる場合には、その地域の父母の要求にこたえて自主的に教育を行う、この原則をきちっと踏まえるべきだと思うんです。
  67. 扇千景

    ○扇千景君 生徒の自主性によって、あるいは父兄のとおっしゃいましたけれども、それでは学校の独自性というものはどこにあるのかということになるんです。  例えば、生徒の自主性によって卒業式や入学式を行う、授業も生徒の自主性だということになったら、それは一番困るのは教師ではないか、私はそういう思いがするんですけれども、そもそも義務教育というものにどういう概念をお持ちなのか、升井公述人にお伺いします。
  68. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 何度も申し上げていますように、授業をどのように進めるかという問題は、教師の自主的権限、いわゆる教師の職務権限に属する問題でありまして、そのことは、何か子供が自由勝手に好きなまま行うんだということを意味するものではありません。
  69. 扇千景

    ○扇千景君 それでは升井公述人にお伺いしますけれども、日本の刑法第九十二条には外国国章の損壊等という項目がございまして、外国に対し侮辱を加うる目的を持ってその国の国旗その他の国章を損壊、除去または汚穢したる者は二年以下の懲役または二十万円以下の罰金に処すという項目がございます。  もしも皆さん方がそれを拒否されるのであれば、そういう刑法にかかわる、そういう刑法を知らない子供を育てていいのでしょうかという質問にはどうお答えになりますか。
  70. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 私どもが強調しているのは、日の丸という旗、君が代という歌そのものを物理的にどうしろこうしろと、こういうようなことについて問題を提起しているのではありません。  日の丸君が代に込められたその意味、またその歴史的な経過、そのことが今の学校教育にどんな影響を与えているのか、どんな意味を持っているのか、そのことが今問われている、このことを問題にしているわけであって、だからこそ、教育内容にかかわる問題であるゆえに、日の丸君が代を学校に強制的に掲揚し、一律に起立させて斉唱させるというような物理的なことはやめていただきたい、こういうことを申し上げているわけであります。
  71. 扇千景

    ○扇千景君 それでは、重ねて申し上げます。  例えばオリンピック等々、これからサッカーも二〇〇二年ワールドカップが参ります。皆さんが教えた子供たちに対して、国旗掲揚、国歌斉唱、日本の国でなくて、世界じゅうの皆さん方のオリンピックでの子供たちへの姿勢というものはどうあるべきだとお考えでしょうか。
  72. 升井勝之

    公述人升井勝之君) そのとき実際にどのような行動をとるか、それは国民のまさに内心の自由にかかわって、その良心に従って国民行為をするということについて保障すべきだというように思います。
  73. 扇千景

    ○扇千景君 世界じゅうには、国旗というものを憲法で定めているフランス、ドイツイタリア等、中国もそうでございます。あるいは法律で定めている国がアメリカもオーストラリアもございます。あるいは文書によって明記している国もございます。  少なくとも、先ほど上田公述人がおっしゃいましたけれども、まさにオリンピック等々で、他国の優勝が決まって国旗国歌が上がって起立しない参加の選手はありません。皆さん、他国でも優勝した人に一律に賛同を覚え、感動を覚えて拍手をし、立って賛意を表します。けれども、我が国の学校の先生、生徒で韓国でのオリンピックのときに立たなかった人がいて、私は韓国の国会議員に大変笑われました。そういうことに関して上田公述人は、日本の生徒がどこの国のオリンピックに参加しようと、少なくとも立つべきであるとお考えでしょうか、いかがでしょうか。
  74. 上田宗良

    公述人上田宗良君) そうしていただきたいと思います。一般的な礼儀に従いまして、起立して敬意を表していただきたいと思います。
  75. 扇千景

    ○扇千景君 終わります。
  76. 山崎力

    ○山崎力君 まず、升井公述人の方からお伺いしたいと思います。  御意見の中で、今回の場合、国民の圧倒的多数の支持がなければ意味がないというふうにおっしゃいました。そういったこともあるのかもしれませんが、日本国憲法においては、一番の国民的合意を必要とする憲法改正ですら国会の三分の二、国民投票で過半数で変えてよろしいと、これは非常にかたい、変えにくい硬性憲法だというふうになっているんですが、そのところと先ほどの国民的合意、圧倒的多数というものとの結びつきはどのようにお考えですか。
  77. 升井勝之

    公述人升井勝之君) 圧倒的多数の数字的な意味についてはいろんなケースがあると思います。圧倒的多数というのが一〇〇%というようには私も解しておりません。  ただ、この日の丸君が代法制化問題について、これは事実として言えることは、国民意見が分かれていると。今この瞬間に法制化をせよという意見国民的な圧倒的多数になっているとは、どんな指標をとってもそれはそういうようには判断できないという、そういう考えに立っているわけです。
  78. 山崎力

    ○山崎力君 それでは、続いて石川公述人にお伺いしたいと思います。  今までの中で、公述人意見がユニークといいますか、ほかの方とちょっと変わっているなと私が思ったのは、この国旗国歌慣習法的な成立を認めつつ、今回の法案成立には反対であるというお考えでございます。なかなかこういった御意見というのは、私が聞いたり見た範囲では少ないということがございます。そういった中で、ちょっと集中的にと言っては問題があるんですが、質問させていただきたいんです。  まず、その考え方で、これは長谷川公述人のやぼなというところと同感するところともつながるんですが、今回のこの法律が否定されたときの影響というものをお考えになったかということです。  ということは、もしこれが否決されれば、いわゆる慣習法としての従来の日の丸君が代を法的に葬り去ることになります。ということは、我が国は少なくとも新憲法下、あるいはサンフランシスコ条約成立後でも結構ですが、その辺のところの法理的な議論は置いておいて、長い間国民統合のシンボルである国旗国歌を持たない国であったということを世界に宣言することになるんではないか。そういう国家であることを国民が自認した上で反対と、そういうふうな意識で反対されるんだろうということを私は非常に懸念しているんですが、先生の考え方はいかがでしょうか。
  79. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) 国会議員、参議院議員の皆さん方を前に大変生意気なことを言うのをお許しいただきたいんですが、私は、法案の取り扱いに関して、可決ないしは否決のみが表明の仕方ではないと思っています。  もし、今の御質問のようなことの憂慮があるとするならば、審議未了というふうな形で成立せざる場合においては、私は今御質問にあったようなダメージはないというふうに思っております。
  80. 山崎力

    ○山崎力君 ということは、石川公述人の思うところ、これが可能かどうかは別として、反対と。もしこの問題が、いわゆる賛否を問うということの問題点があるとすれば、審議未了のまま葬り去るのが一番適当ではないかというのが石川公述人の考え方に近い、こう理解してよろしゅうございますでしょうか。
  81. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) はい、結構です。
  82. 山崎力

    ○山崎力君 それからもう一つ石川公述人の考え方でわかりづらいといいますか少し説明していただきたいのは、先ほど同僚議員からのほかの公述人に対する質問にもありましたけれども、国旗国歌というものを慣習法的であれ認めるとするならば、国民として国旗国歌に対する対応、これは一日の丸君が代ではなくてどんな国旗国歌でもよろしいわけですけれども、そういった対応というものは、近代国家の、民主的国家の市民としてある一定の態度というものはとる必要があるのではないかというのが一つの共通認識になっているんではないかというふうに私は思うわけです、これは諸外国を通じて。  そういった教育というものが、慣習というものであるならば国民に十分伝わっていなかったんではないかという気がするんですが、その辺についての公述人の御感想はいかがでしょうか。
  83. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) 私は、今の国旗国歌の扱いということについての御質問の意味を取り違えているかもしれませんが、どのよう国旗であろうとどのような歌であろうと、あるいは自国のものであろうが他国のものであろうが、十分に敬意を払い、それ相応の儀礼を持って遇するべきであるというふうなことをどうやって伝えるかという意味で受け取ってよろしゅうございましょうか。だとするならば、にもかかわらずアメリカの連邦国旗保護法が違憲であると、一九九〇年の連邦最高裁でそのように決められたということを、私はやはり表現の自由との関連において非常に重く見る必要があると思います。  恐らく連邦国旗保護法というふうなものの観念はアメリカ合衆国の国民にとっては至極当然の、当然国旗に対する敬意というものはあるべきであるし損なってはならない、先ほど扇委員がおっしゃったような事例があるということがむしろ国民的常識であろうと思われます。にもかかわらず、これは日本法律体系が違うのでありますが、合衆国憲法修正一条によって、表現の自由というものを制限する立法をしてはならないというものに当たるというふうなことがあの国においてできるということを非常に私は尊敬するものであります。私は、願わくば日本憲法においても、二十一条で表現の自由がそのような地位を得るべきであろうというふうには思っております。  そういう点で、もちろん一般的に礼を持ってどのよう国旗であろうが国歌であろうがこれに接するべきであるけれども、しかしながら、たくさんの人々でつくられている社会においてそのよう態度をとらない者があらわれた場合に国家権力はどのようにこれに対応するかということに関しては、アメリカの事例が私はやはり相当立派な手本になっているんじゃないかというふうに思っております。
  84. 山崎力

    ○山崎力君 そうした石川公述人のお考えの背景にあるのは、どうしても私には、これは失礼な言い方になるかもしれませんが、日本のいわば非民主的といいますか、おくれた国民性のもとでという丸括弧つきの言葉が見え隠れするような気を私は受け取るわけでございます。そういった点で、確かにおっしゃるとおりの考え方、立派な考え方です。しかしその前提としては、国旗国歌はかくあるべしという社会通念、そういったものを持つということあるいは教えるということ、そういったものを否定する考え方では私はないと思う。そういった中の前提においても、少数の意見をいかに尊重していくかという考え方から出たのがあの判決であろうと私は思うわけです。  そういった中で、今の日本国旗国歌の取り扱いの、社会の私はごく一部の人だろうと思いますけれども、そういった人の少数のために多数の者が、非常に気に入った言葉ですが、やぼを承知で法定化するということの意味を、そういった方々に、もし先生の立場公述人立場からいえば、どのようにして説得するのかということのあれがありましたら、お答え願いたいんです。
  85. 鴻池祥肇

    委員長鴻池祥肇君) 予定の時間が参っておりますので、簡潔にお答えをいただきたいと思います。恐れ入ります。
  86. 石川眞澄

    公述人石川眞澄君) 今の論点から、山崎委員のお考えに沿っていけばそのようなお考えになるということは、大変論理的な経過だろうと思っております。  私の場合には、そのような御質問、あるいはそのよう立場、あるいはその論点から対応する答えとしてはいろいろと申し上げてまいったつもりでありますが、何よりも私は法制化の問題点として最初に申し上げたとおり、これはやはり、国家継続性に重点を置いた観念からここに再確立するということを内外に宣明するものとしての立法措置というふうに受け取っている点が一番賛同しがたいところであって、国旗国歌の取り扱い一般に関してさまざまな儀礼的な部分あるいは当然のモラルというふうなものをどのように取り扱うかということとは論点が若干ずれているというふうに思っております。
  87. 山崎力

    ○山崎力君 ありがとうございました。
  88. 鴻池祥肇

    委員長鴻池祥肇君) 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。  この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、長時間御出席をいただき、貴重な御意見を賜りましてまことにありがとうございました。本委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)  以上をもちまして公聴会を散会いたします。    午前十一時二分散会