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公述人(
升井勝之君)
日本高等学校教職員組合
委員長の
升井です。最初に、こうした
意見を
公述する機会を与えていただきましたことに感謝いたします。
さて、今審議がなされております
日の丸・
君が代法制化問題について、これが
国民的合意が深められることなく
法案が急いで成立させられ
ようとしております。私は、このことに対しまして、明確に
反対の
意見を表明するものであります。
国旗・
国歌というのは、その国のあり方、国のシンボルをあらわすものであると思います。だとするならば、
国民の圧倒的多数が合意し、納得できるものでなければ
意味がないものであります。今、
日の丸・
君が代について
国民の間ではっきりと
意見が分かれております。このことはどの世論調査を見ても明らかなことであります。
反対意見の人が多数いるにもかかわらず、これを無視して
日の丸・
君が代を無理に
法律として決めてしまうというやり方は、国のあり方にかかわる問題であります
国旗・
国歌を決める方法としては根本的に間違っていると言わざるを得ません。
反対意見、少数
意見を尊重する、これは民主主義の原則ではないでしょうか。ましてや、国の
政治の根本問題である
国旗・
国歌を決めるという場合においては、絶対に守らなくてはならない大原則であるという
ように私は思います。もっと
議論を尽くしてほしい、これが
日本国民の圧倒的な声です。
国民多数の
意見にこたえるのが民主
政治の基本であるなら、この声を
日の丸・
君が代法制化問題の
論議に生かすことが今こそ求められているのではないでしょうか。
私は大阪の公立高校の社会科の教師でありました。私は、
日本国憲法と教育基本法の原則を教育のよりどころとして日々の教育活動に専念してまいったところです。社会科の授業の中で
憲法を教える場合でも、
日本国憲法と
大日本帝国憲法、いわゆる
明治憲法との比較の上に立って、平和主義、
国民主権、基本的人権の諸原則が今日に生かされてきたその経過と意義について、その歴史的事実に即して高校生に教えてきました。
こうした教師としての経験から言いましても、
明治憲法下で
天皇を賛美する歌とされてきた
君が代をそのまま解釈を変えて教えることは、真理、真実を求める
立場に立って進めなければならない教育の原則を踏み外すことであるという
ように考えるものです。そして、そのことは結局、子供
たちや父母の教育に対する信頼を失うことになるのではないかと
危惧するものであります。
今月の三日でしょうか、滋賀県下の養護学校を含めた公立・私立高校の社会科の先生
たちが「
日の丸・
君が代の拙速な
法制化に
反対」とする声明を発表しております。七人の先生が呼びかけ人になりまして、県内の社会科の三百八十三人、これは滋賀県のすべての社会科の先生だと思います、三百八十三人の全員の先生に呼びかけました。さまざまな問題、圧力もある中で、実に百八人の先生が勇気を持ってこの声明に賛同を寄せておられます。
声明は、民主主義を教えている社会科教員として、
思想の自由にかかわる問題を十分な
論議を抜きにして決めてはいけないと思う、侵略
戦争への謝罪なしに
日の丸・
君が代を
国旗・
国歌とすることは、授業で教えている歴史に目を閉ざすことになる、この
ように言っております。
日の丸・
君が代にかかわる歴史的事実や真実を教えることなく、それが強制されることを教師が認めていて、どうして子供
たちに真理や民主主義を教えることができるのでしょうか。まさにこのことは教育に携わる教師の存在そのものにかかわる問題ではないでしょうか。
呼びかけ人の一人の先生はこうおっしゃっております。今の
法制化の
論議を見ていると、我々が日々教えていることを全否定されている
ような気がすると。そのとおりだと思います。私
たちは先生
たちのこの声に耳を傾けなければならないのではないでしょうか。
それから、資料として配っていますのは、元校長先生やPTA
会長さんなどの教育関係者の方々の声明です。全国から呼びかけ人の方を含めて、八月七日現在、四百五十人の方々がこれに賛同の名前を寄せていただいております。
学校は自主的に教育活動を営むところです、卒業式、入学式などの学校行事もこうした教育活動の一環です、こうした場に
日の丸・
君が代が押しつけられることによって、子供を
中心とした教育活動が大きく阻害されてきました、こう述べています。
日の丸・
君が代の学校への押しつけがどれほど教育を大きくゆがめてきたか、そのことへの苦しさと悩みがここに示されているのではないでしょうか。
この間の
政府の答弁でも、これは
石川先生もお触れになっておられましたけれども、教師が
思想、
良心の自由を理由に
指導を拒否することは認められない、公務員なら職務執行の義務があるとしまして、校長の職務命令に従わない場合、処分の対象になるという見解が示されています。
一九四五年を境に戦前の教育から戦後の教育はどの
ように変わったのかということで
公述人の先生の
お話もありました。このことにつきまして教師の責務に即して考えてみますと、すべてが国のために尽くすことが
目的とされた戦前の教育では、教師の責務については「訓導ハ学校長ノ命ヲ承ケ児童ノ教育ヲ掌ル」、この
ように定められておりました。教育活動はすべて学校長や国の命令で行われておりました。したがって、教師は全責任を子供に対してではなくて学校長や国に対して負うという教育制度であったという
ように思います。
戦後はこれが根本的に変わりました。戦後では、人格の完成を目指し、人間形成を助けることを
目的とする教育に根本的に変わりました。学校教育法は、「教諭は、児童の教育をつかさどる。」と定められておるわけです。教師が父母、
国民の負託にこたえて直接子供に全責任を負って行うとされているものであるという
ように思います。だからこそ、教師の教育上の自主的権限や教育の自主性が重視されているのでありまして、教師に対する強制や命令は、教育に対する不当な支配として許されるものではないということは明らかではないでしょうか。
日の丸・
君が代の学校への押しつけが教育に何をもたらしているのでしょうか。教師と生徒の信頼関係を深め、生徒の人間形成を助けるという教育の場に、強制や職務命令などがなじまないことはだれの目にも明らかなことではないでしょうか。
政府は、
法制化することによって混乱を収拾するのだと言っておりますけれども、正直言ってとんでもないことだと思います。
教職員は、戦前、教え子を再び戦場に送ってしまったそのつらい経験からも、二度と過ちを繰り返さない、その決心を固めて、教育の自由と教師の
良心に従って教育をしたいと願っているのであります。行政の押しつけや命令によって教育が従属されるなら、本当の教育が死んでしまうことは戦前の歴史が証明していることではないでしょうか。
卒業式や入学式は、運動会や文化祭などと同じく、貴重な学校教育、学校行事の
一つです。学習
指導要領の基調も学校の独自性を強調している
ように、各学校で生徒や
教職員の創意工夫で自主的に実施されるべきだと思います。厳粛で清新な儀式にせよと学校に迫って
日の丸・
君が代を強制してきているわけですけれども、このことによって、本来
教職員の協力と創意によってつくり上げるはずの入学式、卒業式が大変重苦しいものになってきたのではありませんか。こうしたやり方が一日も早く転換されることを心から望むものであります。
最後になりましたけれども、大阪のある公立高校で生徒が発行する校内新聞に寄せられた高校生の
意見を紹介させていただきます。
国旗・
国歌についてさまざまな考え方があり、
日の丸・
君が代は現実に
慣習として受け入れている
日本人が多数存在する中、安易にこれを否定できるものではありません。卒業式のなかで、
国旗掲揚、
国歌斉唱を行なうという考えがあってもそれはそれで尊重すべきものだと思います。しかしどうして私
たちの意思でそれを自由に
選択できないのでしょうか。
国旗・
国歌の強制ともいい得る現
体制に、私
たちが矛盾や反感を覚えるのは当然のことではないでしょうか。
私は、ここに高校生があすの主権者として立派に育っている姿を見る思いであります。
以上で私の
公述を終わります。少し長くて申しわけありませんでした。ありがとうございました。