○山本正和君 朝から大変いろんな角度からの議論がございました。私は、きょうお見えの
委員の皆さんあるいは政府の
関係の皆さんの中で、
官房長官と
岩崎委員長と私の三人だけが体験している
立場から少し話をしてみたいと思うんです。
それは、昔、
日本の国に、今は
日本国ですが、大
日本帝国に生まれた男子はすべて徴兵検査を受けたんです。すべての男子です。体が弱くても病人であっても、特定の本当に激しい状況でなかったら全部徴兵検査を受けたんです。
日本の国の男子はすべからく兵隊の義務がある、その中で私ども三人は育ったんです。あとの皆さんは、この中で本岡さんがその次に若いらしいけれども、この
人たちには徴兵の義務の
経験がないんです。大臣もそうなんです。徴兵の義務を受けなかった。
そこで、私がここで申し上げたいのは、今、
日の丸・
君が代のことでいろいろ議論があります。しかし、私の実感をまず申し上げたい。
日の丸と
君が代は明瞭に違うんです。
私は実は
戦争が終わって一九四五年から二年間、当時の中国、
満州に留用されました。帰ってくるときに、高等商船の今の
日本丸に迎えに来てもらいまして、引揚者と一緒に留用解除で、兵隊みたいなものですけれども、あの
日本丸の
日の丸を見たら、
日本という
言葉を聞いたら涙が出たんです。あの
日の丸の旗を見てうれしくてうれしくて、こんなにうれしい
思いをしたことはない。そしてまた、
日の丸は
国民大衆の中では本当に広く広がっておった。
日の丸弁当という話もある。親方
日の丸という
言葉もある。もしこの
日の丸が違う
意味で使われておったら、そういうことは出ないんです。本当に大衆の中にあった。
ところが、
君が代は違うんです。これは、
野中さんも
岩崎さんも御存じだと思うけれども、
小学校、中学校の
教育、あるいは女学校の
教育もそうなんです。
君が代を歌うときは、本当に姿勢を正しくして歌わなきゃいけない。そして、それに相当するものは何かといったら菊の御紋章なんです。軍隊における、先ほど話があった連隊旗なんです。これはもう神聖にして侵すべからず。
日の丸はそうじゃないんです。そこのところの違いが混同されておるように私は
思います。
野中先生もそのことは御存じだと思うんです、
日の丸と
君が代との扱いの違い。
日の丸というのは、家でひっくり返しても構わなかった。当時だって、おなかが冷たいものだから
日の丸で温めておるのがあります。こんなことを菊の御紋章の旗でやったら、もう不敬罪でいきなりほうり込まれた。その違いがあるということをまず前提でこの問題を議論しなきゃいけない。しかし、そこが混同されて、
日の丸・
君が代、
日の丸・
君が代と言っている。その辺のことが私は心配でなりません。
一つがこれです。
そして、
委員長並びに理事の皆さんの許可を得て、お手元に海軍兵学校の軍歌と軍人に賜れたる勅諭をお届けいたしました。(資料配付)
海軍兵学校軍歌の一番は何かといったら、
君が代なんです。軍歌として扱った。ただし、これは
国民と一般に歌える歌ですという中であるのがこの兵学校の中の
君が代の扱いなんです。
君が代というのは、当時の
日本の陸海軍の軍人にとって天皇陛下そのものなんです。天皇陛下をたたえるんです。そして、軍人はすべて天皇の本当に大変な恩義の中で
自分たちは生きているんだ、いつでも死ねと。今、北朝鮮のことをよく言われますね。金正日か何かいう人を偉大なる統領様と言って、わあわあわあわあ言って騒ぎます。あれどころじゃないんです。私
たちは天皇陛下のためならいつでも死ねという
教育を受けた。身を鴻毛の軽きに安んぜよと、こうやって受けたんです。そういう中で私
たちの青春
時代があったんです。
私は、正直言って女性と口をきいたのは二十二歳までないんですよ。男女七歳にして席を同じゅうせずです。二年間向こうにおったから。それが、こんな美しい女性が
日本におるということに触れられる今の若い人を見たら本当にうらやましくて仕方ない。そういう
時代の
思い出のある私どもの世代、七十代のこの者が、なぜ
君が代の問題を今まで五十年間本気になって議論しなかったか、これは私の反省であります。
先ほど江本
先生からお話がありました。私は高等学校の教員をしておって、この二期前にやめた大蔵事務次官とか、あの連中は私の教えた子とは東大同級生です。ちょうど今六十前後の連中です、一番私がよく教えた、生活をともにした子
たち。しかし、その子
たちが、スポーツをやった子は全部校歌を覚えておるんです、校歌も応援歌も。ところが、ひょこひょこ東大なんかに行った者はほとんど覚えていないです。そういう中で、校歌にはいろんな高校生にとっては深い
思いがあるんですよ、人間、青春ですからね。
しかし、それと同じような
意味で
君が代を論じてもらったら困ると思うんです。
君が代というのはそんなに軽いものじゃないんですよ。命がけで歌った歌なんです。
私が中国で、死んでいく同僚が、もう息を引き取るんですよ、何を言ったかといったら、本当ならお母さんと言いたいんだ、しかし
戦争が終わった後です、天、天と言うんですよ。何かといったら、天皇陛下万歳と言って死にたいんだ。それぐらいの
思いの中に我々は育てられておったんです。
君が代を歌うときは本気になって歌ったんですよ。
だから、皆さんもテレビで見たことがあると思うけれども、
戦争が終わったときに、宮城の前で女の人もおじいさん、おばあさんも行ってひれ伏したでしょう、天皇陛下、申しわけありませんと言って。何でこんなに
戦争に負けたと、我々の働きが悪いからです。こういう中にあった大
日本帝国のときに、これは今皆さんがいろんな議論をしている、学者の皆さんもいろいろな議論をしているけれども、私にとっては、
君が代というのは天皇陛下に忠誠を誓い、天皇陛下万歳という歌なんですよ、これは。
日本の国が
世界で一番すぐれたというのは、天皇陛下が統治している国だから
世界で一番すばらしい国だというふうに私どもは思っているんです。それを、今さら何か恋人の歌だとかなんとか言われても、私どもの世代はぴんとこないんです。しかし、今や
国民の大多数がそういうふうな解釈になりました、だから
国歌にしましょうという動きがあることを私は否定しません。これは古い
時代の、今のは愚痴みたいなことだからね。だけれども、私が言うのは、そういう
思いを持った者が
日本の国の中にいるということです。
そして、私はもう
一つ非常に残念だったのは、
戦争が終わってから、これは先ほど
官房長官がよく、何か一部の云々という話が出るんだけれども、私もそう思う。
実は、
戦争が終わったときから
昭和二十四年までは
日の丸も掲げられなかった。二十四年から掲げるようになりましたね。そのときは
君が代の話をしなかった。国会でいろんなことも含めて、また文部省も初めてこの問題を正式に取り上げたのは
昭和三十三年なんですよ。空白があるんです、
国歌・
国旗に対して。そして、特にオリンピックの前に慌ててこの
国旗・
国歌の問題が出たんです。そういう中で、初めてあのオリンピックで掲げられた
日の丸を見て、
日本の
国民は、ああ、すばらしい旗だと思ったんですよ。オリンピックから始まったんですよ、間違えたらいけないんです。
戦争中の
日の丸というのはもっと違った
意味があった。そういう中で、
日の丸の問題が復活したのは東京オリンピックです。
しかし、
君が代はまだまだそこへ行かなかった。その中で、やっぱり
君が代を歌わにゃいかぬ、
国歌を歌わにゃいかぬと。当面、歌おうとしても
国歌は
君が代しかないと。では、どうすべきかと。「君」という
意味をもっと温かく広く、みんなというふうに解釈しようじゃないかというような解釈が出たのはそれからなんですよ。
私は語り部として言うつもりじゃないんだけれども、私の言うことはそんなに事実と違っていないと思うんです。
自分なりに勉強もして調べたんです、こうやってね。
そして、皆さん、届いたようですから申し上げますが、軍人に賜れたる勅諭というのは、大
日本帝国においては旧制中学校、中等学校へ入った子供、六年生から入るんですから今の中学校一年生と一緒ですが、その者が全部、その中の相当の者はこれを暗記させられた。変体仮名です、これは。皆さん読めますか。
「我国の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ所にそある。昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ、」、
野中長官はこれを暗記したのを覚えているでしょう。我々は暗記させられた。私は割合暗記が強かったから、旧制中学の五年生のときに表彰を受けたんです。全部覚えたんです。そういう中で、要するに
日本の男の子は、これは男女差別じゃないですよ、男の子は全部兵隊になるんだ、天皇陛下のために命を捨てるんだという中で歌ってきた歌が
君が代なんです。
だれが何と言ってもこれは覆せない。しかし、それを変えようというのならば、
国民の皆さんに本当に話をして、やっぱり憲法にふさわしい
君が代の解釈をしましょうと提案してもらわなきゃいけない。その提案をしていないんですよ、率直に言いますけれども。
そういう中で、恐らくこれは
官房長官も心の中では私が言ったのと同じ気持ちだと思うんです。しかし、政府ですから
国家としての体裁を整えなきゃいかぬ。
国家には
国旗も
国歌も要る。どうすべきかという中で苦しんだに違いないけれども、提案されたと私は思うんです。
そういう私が今言ったような
意味で、まず
君が代というものと
日の丸というものの位置づけが大
日本帝国においては違っておったと。この事実については両大臣はどういうふうに御
認識ですか。