○佐々木(秀)
委員 そうはおっしゃるけれども、私どもは、一体どこまでやっていただけるのかな、ちょっと心配なのですね。そう期待しないと言ったらこれは大変失礼になるので、まだ審議会も構成されていないわけですから。恐らく有能な
方々が
委員に任命をされて、審議が始まれば相当な成果が上がることを期待はしますけれども、さて、二年でどうかなというような不安感が非常にあるのですね。
それで、恐らくこの司法制度の問題というのは、総論、各論を入れると本当にいろいろな問題があるし幅が広いと思うのですよ。何しろ、扱う
事件だって多岐にわたっているわけですから。民事、刑事、行政、破産から身分
関係から、言ってみれば社会の縮図。社会の隅々というか全般で起こる各種の問題が紛争となり、あるいは権利の侵害となって、最後は司法救済を求めてくるということになるわけですから、本当に幅広い。
例えば自民党の司法制度特別
調査会の
報告の中でも、検討すべき
事項として挙げられている項目というのは極めて多岐にわたっているわけでしょう。さっきから
お話のあるように、規制緩和などを前提にして、社会の変化に応じ、しかも国民に利用しやすいという観点からどうするんだというようなことでお考えになるにしても、具体的には
事件の処理の問題、これは、実はこの
委員会の議を経て民事訴訟法の大改革も行われたわけですけれども、裁判所も今、裁判のスピードアップあるいは的確な処理ということに非常に苦労されておられる。
そういうようなこともあるわけですけれども、そのほかに今度、法曹の質と量の強化、これは先ほどの総理
大臣の御答弁の中にもあったわけだけれども、法曹をどうやっていくのか。法曹一元の問題、これも大きいですね。各論まで含めると大変だと思うのですよ、大学教育のことにまで触れているわけですから。本当に、これは二年でどれだけ十三人の
委員の
方々に検討していただけるのかなと、心配でなりません、率直に言って。
それから、いろいろなところが出しております。日弁連からももちろんこの制度改革についての意見書が出ておりますし、それから経済団体からも出ているわけですね。それぞれの主眼の置き方が少し違うわけですけれどもね。
例えばこの自民党の
報告の中で指摘されているのでは、最高裁判所裁判官の国民審査のあり方についてもというような項目がある。これは、私も何度かここでも取り上げたことがあるし、予算の分科会などでも取り上げたことがあるのですけれども、この最高裁判所の国民審査の方法などというのは、〇×式になっていないわけですからまことにわかりにくいし、大体、最高裁判所の裁判官そのものだって全く国民の皆さんにはわかりにくい。何を基準に審査をしたらいいかというのは、あの一片の公報だけだけれども、あんなものを見る有権者なんていないわけですね。衆議院の選挙と
一緒に行われる。衆議院の選挙の方にばかり
関心があるわけですから、全く形骸化しているわけです。
そんなことのあり方についてももっと検討する必要があると思うし、同時に、やめさせる方ではなくて、任命についても国民の参加ということがあっていいのではないだろうか。これは全く内閣の恣意と言ったら申しわけないけれども、恣意的な任命ということになっている。
しかし、戦後の一時期、片山内閣時代に、最高裁判所の任命諮問
委員会というのがあって、これにある
程度国民各層からの、それこそ有識者が入り、それから衆参の議長さんなどもメンバーになって任命の予備的な審査というかそういうことをやって、最高裁判所の裁判官の任命に資したということがあったわけですけれども、それも現在全然行われていない。こんなことでいいのか。
だから、最高裁判所の国民審査の前に、任命のあり方自体にももう少し国民の意見が加わるようなやり方というのを考えていく必要があるのではないかということなども、私はやはり今度のこの審議会でぜひ検討してもらいたい、そんなふうにも思っているわけです。
したがって、各方面からいろいろな御注文を出すと、それを整理するのも大変かもしれませんけれども、やはり整理していただいて、ぜひこういうことを審議会で審議してもらいたいというようなことを要望する何か手段も考えていただけないものかな、そんなことを思っているわけです。そうでないと、
委員そのものは確かに各方面から選ばれることにはなるだろうけれども、しかし実際には、また国民との距離がこの審議会に置かれることになってしまうのではないだろうか、こういう心配があります。
それからまたもう一つ、これはオリックスの社長の宮内さんなどが言っておられることですけれども、裁判官のあり方というか裁判官に対する不服などということが、たまたまいろいろなところで指摘をされておられますね。例えば、裁判官は経済を知らな過ぎるとか、あるいは
余りにも裁判官が不自由に過ぎる。これは去年の二月段階で、ある
新聞での
インタビューに答えられたものですけれども、
最近、若手の裁判官と自由に話をする機会があったのですが、これほど身分保障をされた人はいないはずなのに、休みの日にテニスをするぐらいの時間がほしいという話をするのにさえ、「
発言は匿名でお願いします」と言うのです。それほど、あの裁判官はこんなことを言っているということが明らかになっては困る世界なのです。
ということを言っておられる。
これは寺西裁判官の例の政治的な言動といいますか、それは政治的かどうかというのは大変問題があるのだけれども、この
委員会でもしばしば取り上げられて問題になった。事ほどさように、私は、裁判官は非常に不自由だというのはだれしも考えるところだろうと思うんですね。こんなことについても、裁判官の市民的自由と
職務のあり方などということについての議論だって私はあってもいいと思うんです。
かつて、
昭和四十年代に私が青年
法律家協会の議長をやっているときに、裁判官の政治的な中立公平ということが盛んに言われる中で、裁判官は自分で中立公平であるだけではなくて、公正らしさを疑われてはならないということを当時の事務
総長あるいは最高裁の長官が言った。そのことについても、非常に物議を醸して、いろいろな国民的な論議があったことは御承知のとおりだろうと思いますが、そういうことについても私はこの審議会などで議論があってもいいのじゃないか。
ちなみに、最近、この間もちょっと申し上げましたけれども、「日独裁判官物語」という映画ができました。五月一日から一般公開されるそうですので、ぜひこれは
法務大臣にも、最高裁長官初め皆さんにも見ていただきたいと思います。
聞くところによると、最高裁は、これの取材の要請に当たっては非常に非協力的だったと聞いております。ドイツの裁判所は非常に協力的で、それこそ向こうの最高裁の長官から何からが、お酒を飲んで
一緒に話すようなことまでやってくれた。非常にフランクだったということを言っていますね。それからまた、市民的な活動の自由などについても、向こうは全く問題にならなかった。寺西裁判官の例を向こうで話したら、もう噴飯物だということになったということです。そのぐらい違う。
そんなことを含めて、私は、裁判官の人間性というか、あり方というか、自由というか、そういうことの議論だってあってもいいと思うのです。仕事と人間的な自由とはやはり区別されるべきだと思いますけれども、どうも見ていると、裁判官は不自由だというのはもう一般的なことであります。
そんなことを含めての、もっと幅広い論議が審議会で行われることを私としても期待しているし、それについて裁判所、法務省、どうか協力体制をぜひ整えていただいて、場合によったら、現場の裁判官の話を聞きたいなどというときには、あらかじめ準備をしたというようなことでなくて、現場の裁判官がぱっと審議会に行って自由に話す、そのことについてとやかく言わないというような保障もきちんとしていただいて、やっていただきたいということをお願いしたいと思います。
以上申し上げて、質問を終わりたいと思います。ありがとうございました。
〔橘
委員長代理退席、
委員長着席〕