○戒能
参考人 御
紹介にあずかりました名古屋
大学の戒能と申します。
私、
専門が英米法でございまして、伊藤先生の
ように日本の訴訟手続に必ずしも精通しているわけではございませんので、
委員会の方からは、
司法制度改革審議会設置法案の審議に当たって、私が考えていることを何でもいいから述べてみよという非常にありがたいお話でしたので、きょうの
機会を与えていただくことについて大変光栄に思っている次第でございます。
〔
委員長退席、橘
委員長代理着席〕
したがいまして、私といたしましては、この
司法制度改革審議会設置法案というものが審議されて、そして日本で
司法改革というものが本格的に
動き出すということを何よりもまず歓迎したいというふうに考えているわけでございます。
本日、思っていることを述べてみよということですので、非常に率直に、
先生方に事前に私の
意見を、ファクスで送ったものを配っていただいているかと思いますので、そこに書きましたことは省略して、そのポイントに幾つか補足をしながら申し上げたいというふうに思っております。
私が
先生方にお送りした文書は、極めて率直に、今回の
司法改革が本当に望ましい形で展開するためには、衆議院の審議の中で、
司法制度改革審議会設置法案のこの
資料を、
先生方のお手元にあると思うのですが、経緯というのがございまして、
法律案の提出に至る経緯について極めて簡略に御説明があるわけでして、私は、この点に関して一定の危惧を覚えているわけでございます。
これは端的に申しますと、
司法というのは、必ずしも行政
改革の、今流れの中で展開しております規制緩和によって生じた
社会の事後的な救済という
役割、そういうことが果たして
司法の
役割なのかということに、私は基本的に疑問を持っているわけでございます。そのことを、
先生方のところへお配りしました「はじめに」というところで書いてあるわけでございます。
私は、現在の日本の
司法の最大の問題は、
司法の中心であります
裁判官の職務が、率直に言いますと極めて劣悪な状況にある。何といっても、
事件数が膨大であることに加えまして、転勤が非常に多い。三年に一回は転勤するということもございます。そういう中で、
裁判官は果たして十分に
市民の
権利の
実現、人権の保護、
社会正義の
実現という職務を
実現できるだけの精神的な余裕を与えられているのかどうかということにつきまして、私は極めて危惧を持っているわけでございます。
通常言うところの
司法行政というものが最高裁事務総局によって基本的には握られていて、それぞれの
裁判所ごとの
裁判官会議というのはもう既に今形骸化している。
アメリカの法学者で、ワシントン
大学の日本法
専門家のO・ヘイリー先生が、日本の
司法というのは驚くべき一体性、統一性を持っているということを言っているわけです。これは非常に皮肉な表現でありまして、アメリカの
司法というのは、
裁判官それぞれがそれぞれの
意見を持って、
意見がみんな違う。違憲判決なんかしょっちゅう出るわけでございまして、むしろ
司法は多元的な
意見を持つというところに特徴があるんだけれ
ども、日本の場合には上から下まで同じことを言うということをO・ヘイリー先生は言っていて、あろうことか、O・ヘイリー先生は、それは
裁判官が政治から身を守るためのいわば自己防衛だという
ようなことを言っていました。
私は、その結論には、非常にシニカルでありますし、賛成できないんでありますけれ
ども、少なくとも
外国の日本法の研究者からはその
ように日本の
司法が見られているということは、果たして我々にとって名誉かどうかということであります。
私は、
裁判官はまず何よりも
市民であるべきだと思うのであります。
最近、私の友人の北海道
大学の木佐
教授が「日独
裁判官物語」という映画を自主製作で、大変な努力で、もちろん彼だけではございませんけれ
ども、これが五月三日に全国放映になる
ようでございますけれ
ども、これはぜひ
先生方、見ていただきたい。ドイツの
裁判官は、まず何よりも
市民である。むしろ、
市民運動に積極的にかかわっていくのが
裁判官である。
それから、アメリカの
裁判官は、州の
裁判官というのは、これは基本的に選挙で選出されますので、政治に対して非常にアクティブに発言をされるわけですね。
裁判官が政治的にどういう信条を持っているかということがわからないということは、これは選挙民にとっては極めて不気味なことでございまして、むしろ積極的に政治的な発言をする
裁判官がいい
裁判官であるということになっているわけです。
日本では、先ごろの寺西
裁判官の分限問題にも表現されております
ように、盗聴法のための
市民集会に参加したということのみが、これが
裁判官の
立場を逸脱するものであるということで分限
裁判にかけられる。これは、ドイツの
裁判官は非常にびっくりして、抗議状を送ってこられたことは御存じのとおりだと思うんです。
こういう
ように、
裁判官に
市民的自由がなく、しかも仕事に忙殺されていて十分考える暇がない。その根源にある
司法行政、これを改めることが、私は、
司法改革のまず何よりもなすべきことではないかというふうに考えるわけでございまして、むしろ、規制緩和の後に生じた
社会の事後救済という
ようなことをやるのが
裁判の
役割ではないというふうに思っているわけでございます。
そこで、「
司法「内在的」
司法改革の方向」というところにちょっと移らせていただきます。
我が国の
司法と対極にあると思われますのは恐らくアメリカの
司法ではないか。アメリカでは、そろそろ
弁護士の数が百万に近づこうという大変な
弁護士の国家である。大統領ももちろん
弁護士ですね。そういう国は、
司法改革論議の中でも盛んに言われる、
司法の大きな国ということになりますね。
アメリカの
ように
司法を大きくしたいというのがどうも
改革論議の中で相当支配的な
動きを示している
ように思いますけれ
ども、忘れていけないことは、アメリカの
司法というのは、アメリカは、御存じのとおり三権分立を典型的に
実現した国家だ、憲法上もそうだと言われております。この国家においては、そこに書きました
ように、単線型民主主義、レベリングデモクラシー、要するにこれは、人民が投票所に行って投票する、そこでもう人民の意思は終わるのであって、後は国会が制定する制定法、これによって人民の意思は表現されていくんだ。
果たしてそれでいいのかということで、実はアメリカでは、デュアリストデモクラシー、複線型民主主義、民主主義というのはそういう単線的な形じゃなくて、むしろいろいろな
意見形成の
手法が複線的に存在することが初めてデモクラシーなんだ。これが実はアメリカの違憲立法
審査制の非常に大きな根拠になっておりまして、アメリカにおけるいわゆるリベラルデモクラシー、自由民主主義ということになるわけですが、リベラルデモクラシーの考え方の基本にはそういうものがある。
つまり、投票所によって表明された人民の意思のみが国家の意思ではないのであって、そうではなくて複線的に形成される。
それは、
先生方にこんなことを言うと大変失礼なんですが、政治家というのは、ともすれば自己の利益を追求し、そして人民の利益を忘れることがある。それをチェックする
機能、これが実は
裁判所である。したがって、
裁判所の違憲立法
審査制というのは、アメリカ人民が建国のときに考えた理念というものがもし崩され
ようとするときに、そこに
裁判所が登場し、その過去のコンスティテューションを復活させる、復元させる、そこに違憲立法
審査制の
一つの根拠があるという
ようなことが
論議されているわけでございます。
その
ように、必ずしも国家の意思というのは国会の意思のみによって形成されるのではなくて、
裁判所によっても形成されるんだという考え方は、訴訟手続上もこれは実質的にその過程が担保されております。これが英米におけるエクイティーという法領域の存在でございまして、エクイティーというのは、むしろ事前規制、
裁判所による事前的な、ある事柄が起こる前の規制。それから、現に起こりつつある事態を差しとめる、これはインジャンクションということになるわけですが、例えば公共事業について住民がそれを差しとめるという
ようなこともインジャンクションという形でできるわけでございますけれ
ども、それは極めて広範な
裁判官の裁量を根拠にしているわけでございます。
その
ような
裁判官は、当然のことながらしばしば連邦議会と対立することになる。つまり、連邦議会の意思を踏みにじるということになる。もちろん、アメリカの
裁判官というのは上院の
審査はございますけれ
ども、これは選挙で直接的に選ばれるわけではございませんので、なぜそれでは
裁判官にそういう権限が許されるかということについては、これは先ほどのデュアリストデモクラシーの考え方がなければやはり肯定できないということになるのではないか。
したがって、もしグローバルスタンダードということをおっしゃるのであれば、ぜひこの
ようなアメリカのグローバルスタンダードも、アメリカ
司法のシークレットにある、本質にあるということをぜひ前提にして御
議論いただきたいというふうに強く希望するわけでございます。それが二のところで述べたことであります。
特に、今回の
司法制度改革審議会は、この前の一九六四年の臨時
司法制度調査会の失敗、これは失敗というふうにどうも考えておられる
ようですが、それに学んで、
司法の
当事者、いわゆる
法曹三者を排除して学識経験者十三名によって構成されるということになっている
ようでありますが、これは私からすれば非常に驚くべき
委員会の設置の仕方だと思います。
イギリスで現在民事訴訟の大
改革が行われ
ようとしているわけですが、それは、ロード・ウルフという日本にも来られたマスター・オブ・ザ・ロールス、記録長官というイギリスの
司法のナンバーツーと言われている人物ですが、彼がみずから
委員長を務めながら、
市民団体、議員、さまざまな政党、それから
大学等々の
意見を聞きながら、要するにプロの目でそれを見、その
意見を集約し、そしてそれを
一つの文書にまとめ上げていくわけでございます。
司法の
ような
専門性の高い事柄について、果たして
司法の実質的な担い手を排除して
司法改革の正しい道が検討できるのかどうかということについて、私は疑問を持っているということを二番目の最後に申し上げました。
司法当事者は既得権益者であるというふうに考えておられるのだとすれば、これは非常に問題のある考え方だというふうに私は思います。
三番目に行きます。
法曹一元というのは、今回の
司法改革の中で極めて重要な言葉として、臨時
司法制度調査会のときもそうだったわけですが、これが出ております。今回の
司法制度改革は、この
法曹一元のためにまず
法曹人口をふやそうというところから話が始まっているところに特徴がある
ように私には思えます。これが、
司法試験改革ということで、
司法試験の合格者の数をふやす。
それから、我々にとって極めてショックだったことは、
司法試験科目から
法律科目の選択科目を外す、いわゆる六法だけにしてしまう。これは、
大学の
法学教育からすれば大変な問題なんです。つまり、行政法とか労働法というのは現代
社会のある
意味では中心的な法領域であります。それが
司法試験科目から外されるということは、要するに、それを
大学では少なくとも学んでいない人が、場合によっては
裁判官になったり
弁護士になるということを
意味するわけでありますから、これは、私たちは非常に問題だ。
そういう大
改革をする際に、
大学の
意見が余り聞かれないということも極めて遺憾に思っておりますので、ぜひ今度は
大学の
意見も十分聞いていただきたい。伊藤先生も既にその
ようなことについて、現在の
大学法学教育の実態、そういうものが果たしてその期待にこたえられるかということも含めて、慎重に検討してほしいとおっしゃった。私も全く同感でございます。
それから、
世界的に見ても、
法曹の
不足ということを、要するに、
法曹教育の機関だけではやっていけないので
大学に依拠してやっていこうという傾向が出ていることは、これはイギリスについてもそうなんであります。
ここでぜひ
先生方に考えていただきたいのは、
大学の法学部、これは毎年四万人ぐらいの卒業生を出している
ようでございますけれ
ども、
大学の法学部は確かにいろいろな問題があるけれ
ども、法学部を出た、法学部で
専門教育を受けた方々が
市民として
社会のあらゆるところに進出していくということが、日本のこれからの
社会を支えていく上に極めて重要だ。これからNPO、NGO等々の
市民を主体としたさまざまな活動がますます盛んになっていくかと思いますけれ
ども、そこでは法的な知識は不可欠であります。
イギリスでは、その
ような法的知識を持った人々がボランティアとして広範な層を形成いたしまして、それが法的な問題、
専門的な問題につなぐ
役割として
法曹の位置づけが行われているわけでございます。
私は、その
ようなことを考えますと、日本の
法学教育をいい方法に
改革して、そういうふうに、必ずしも
法曹資格を持たないけれ
ども、法学的な素養のある人をふやしていくということも必要ではないか。ですから、現在性急に出ている一部の
意見の中には、法学部を廃止してロースクールをつくるという
ような発想がある
ようでございますけれ
ども、これはとんでもない
意見だというふうに私は考えているわけでございます。
そもそも
法曹一元という言葉でございますが、これも私いろいろ調べてみたんですが、
法曹一元に相当する英語は存在しないんですね。これは
明治から大正にかけて、日本で
弁護士の地位がまだ非常に低いときに、
弁護士の自治と
弁護士の
資格試験というものを中心にしました
弁護士の
改革という中で、
法曹一元というのは
司法改革総体の表現でもあったということであります。
したがって、
法曹一元というのは、基本的にイギリスの
バリスターをモデルにした、イギリス型
司法というものを理念として掲げた
改革理念でございまして、それは当然のことながら、当時まだ盛んであった
陪審制、そして
裁判官が
弁護士から選ばれていく、そういう実力主義といったものがあり、そして
バリスターの中心的な業務でありますところの
口頭弁論中心主義、
当事者主義といったものがすべて合体して、それを
法曹一元というふうに表現したんではないかというふうに考えるわけでございますので、これは単に
弁護士が
裁判官の供給源になるということだけを
意味するわけではないということでございます。
時間が来ましたので、一応最後に一言だけ。
むしろ、
最初に申し上げました
ように、今回の
司法制度改革をぜひ積極的に進めていただきたいというふうに考えるわけですが、
裁判の、
司法の中心は何といっても
裁判官であります。その
裁判官が現在の
ように
市民的自由を保障されず、憲法に保障されているところの良心のみによってそれぞれ
独立の
判断をするという、
裁判官の
独立の基礎が日本には基本的には存在しないということを率直に申し上げて、これを
改革することからぜひ始めていただきたいということを強く申し上げて、私の発言は一応これで終わらせていただきます。
御清聴ありがとうございました。(拍手)