○
立花参考人 既にお配りしてあります
資料に沿って、今の
日本の
高等教育というのは、一種の
学力崩壊状況といいますか、そういうことに立ち至っている、
日本の将来を考える上で本当にゆゆしい
事態に今来ているということをちょっと知っていただきたいと思いまして、
資料を
もとにいろいろ話させていただきたいと思います。
高等教育小委員会ですからこの
資料一は
皆さん既に
御存じのことで、これが
ベースにあるわけですね。ここの一番上の、
合格率が七八・八%、ほとんど八割のところへ来ている。
文部省の予測でも、
あと数年以内にほぼだれでも、行きたい
大学とは言わないけれども、どこかの
大学には入れる
大学全入
時代が目の前に来ている、これがすべての
ベースにあるということだと思います。
資料二は
入試の問題ですけれども、これも
皆さん御存じのことだと思うんですが、これでちょっと御注意いただきたいのは、これは
国公立大学の
入試です。この表のポイントは、
推薦入学あるいは
センター試験、
センター試験プラス一
教科で
大学へ入ってくる人が今や
国公立大学でもほとんどである、そういうことになっている、これが
学力崩壊の
一つの
基礎になります。
実は、これは
私立大学を入れますともっと大変なことになっておりまして、今、
大学の
入学者のうち
推薦入学者は大体四割です。十六万人います。
国立の場合には九%、公立の場合には一四%、これでは一一%という
数字になっていますけれども、
私立の場合には三五%です。これはならした話でして、個別の
大学になりますと、
文部省は一応五割
程度にとどめるようにという指導をしているようですけれども、それを超えている
大学が結構ある。
実際に
入学後の
調査をやってみますと、本来、
推薦基準というのはあるはずなのに、どうも
高校の方でそれを恣意的にいろいろ操作しまして、
相当に
レベルが低い人を入れてしまっている。ですから、
入学後の
学力検査をやりますと、
学力の
テストを
大学において実施すると、非常に明確に、普通の
入学者と
推薦入学者と明らかに違うピークが出てくるということがあります。このことが
一つ大きな問題になると思います。
資料三でございますけれども、これは
新聞記事ですが、こういう
記事が最近盛んに出ております。これはつい最近発行された「
分数ができない
大学生」という本でして、ここに「信じられないでしょうが、
大学生の十人のうち二人は
小学生の
算数ができません。」という帯がついています。これが
実態なんですね。
数週間前にあるテレビ局が本当にこの実験をやったのですね。こちら側にできる
小学生を置いて、こちら側にその辺でアトランダムに拾った
大学生を置きまして、同じ
小学校の
算数の問題です、これを
用意ドンでやらせたのです。それで、
小学校が圧勝なんです。
大学生の中には零点というのがいたのです。本当に出たのです。それで、マイクを突きつけられて、あんた、恥ずかしくないのと言われて、恥ずかしくありませんなんて言っていましたけれども、本当に、そういう非常にびっくりするような
実態が出ています。
資料四でございますが、これも
新聞記事からですけれども、要するに、それほど
学力がいろいろな
意味で下がっている、これはこの後順次話しますけれども。そういう
事態を踏まえて、
大学ではもう
補習をやらざるを得ないというところへ追い込まれているわけです。
補習の話は後でまたまとめてしますし、この
資料四の左の隅の「
学力低下が取り上げられ始めた時期」というのがこの後の話に関係しますので、この
資料四はちょっと取りのけておいていただきたいと思います。
資料三の、「
分数ができない
大学生」の話の
オリジナル資料というのが、実はこの次の
資料五、六、七、八はすべてこの関係といいますか、この本をお書きになった
西村先生を初め、これは
京都大学と慶応
大学の
先生の
合同調査を
もとにしているわけですけれども、たしか五千人規模だったと思いますが、実際にいろいろな
大学を取り上げまして、どういう
大学かというのは、
資料五にあるこのa、b1、b2、b3というようなアルファベットで記された
大学で
調査を
現実に行ったわけです。
どういう
調査をしたかというと、
資料六、七の
数学の問題をやらせたわけです。これは全部で二十五題あります。問いは21までですが、
答えは二十五です。この右側のところに小学、中学とありますが、その問題がどういう問題であるかということが記されています。
ごらんになればわかりますように、
分数の問題とか小数点の問題とか、それが
小学校ですね。
中学校にしても
相当、まあ普通の人だったらまずできるに違いない、そういう問題なんです。満点は二十五点です。
資料五を見ていただきたいのですが、
大学入試に
数学で入った
人たち、それとは別枠で、
推薦の
人たちといろいろいるわけです。これを見ますと非常に明らかなのは、
入試で
数学をとらなかった者の中に、二十五題のうちその半分もできない
連中が物すごくいるということですね。
推薦入学は明らかに、ちょっと数点下に下がっている、そういう
感じになるということです。
先ほどの
資料六、七の問題を
ごらんになっていただければ、
小学校の問題が五問です。
中学校の問題が十二問です。どう考えてもこの
点数というのは、
大学に入る
レベルでは全くないということがこの問題を見ればわかると思います。特に、この問15のx2+2x−4=0、これは、いわゆる根の公式、今は解の公式といいますけれども、それを知っていれば、x2+2x+1−5にして、この5をこちら側に置いて、
あとはルートで開けばできるという非常に簡単な問題なんですが、
国立A大学ないし
私立aという非常にランキングが高い、実名を言えばだれでも知っているような
大学、
私立bもそうです、非常にランクが高い有名な
大学なんですけれども、そういうところでも、受験を
数学でとっていない
連中というのは本当にひどい。
私立kに至っては九・七%しかできない。
さらにこの
資料から、ここには出ていませんけれども、非常にゆゆしい問題というのは、実は教員を育てる
教育系の
大学の中で、
分数ができない
学生が、つまり将来の
先生が出てきているわけですね。
教育系の
大学は、カテゴリーとしては文系の
入学ということになりまして、
理科の
科目も少なくていいわけです。
ところが、
小学校の
先生は
理科全
科目、
理科全
科目というか、
教科全
科目を教えなきゃなりませんから、
理科をオールアラウンドに教えなきゃならないわけです。ところが、自分で教える
理科がよくわからない
先生が今
教育系の
大学でも出ているわけです。
これは
教育系の
大学でも非常にゆゆしき問題だということで、その
大学が独自に
理科をとらせるようにしたところ、
文部省が文句をつけて、そういうことはやめろと言って、延々
文部省とその
大学とで争った結果、ついにやめさせられた、そういう
事態があります。
実際に、
理科が教えられない
先生はどうしているかというと、
教科書を、
小学校の国語の時間と同じように、はい、だれだれ君、読んでくださいとやって、読ませてそれで終わりにしちゃうみたいな、ほとんどそういう
授業をやっているわけですね。つまり、
理科の
教育が根底から崩壊している、そういう
実態があるわけです。
時間がありませんのでどんどん話を進めますと、
資料九は、そういう
学力崩壊の
事態というのは、先ほどの
調査をしたいわゆる
私立大学の、
相当レベルがもしかしたらそれは低くてもしようがないんじゃないかと思うような
学校だけの問題ではなくて、
東大なんかでも実は
相当な
学力崩壊の
事態があるということを申し上げたいと思うんです。
これは、
伊東先生という、
東大と電通大と
両方で
授業を持っていらっしゃる、
東大の
教養ですけれども、そこで
物理の
課程を持っている
先生ですが、
クラスは
理Iの
学生です。
東大でも
水準が一応高い、ひときわ高いと言われている
理Iの
学生です。これは全部でたしか十何題か、非常に常識的な問題ですね。
一番は、
地球一周の長さはどれだけか、それから二番は、
東京—札幌間の
直線距離はどれぐらいかという問題なんですね。その
答えが、どういう
答えが何%という
数字が出ていますけれども、これは、正解のところは確かに膨らんでいますけれども、ちょっと注目していただきたいのは、上の方に外れているのと下の方に外れている、その外れの極端さです。こういう極端な間違い、つまり、
地球一周が四千キロメートル以下とか十万キロ以上とか、
地球一周はともかく、例えば
東京—札幌が百キロ以下とか一万キロ以上とか、こんなのは、どう考えても頭が狂っているとしか思えないわけです。
これは何がいけないかというのは、要するに
東大の
入試の仕方が間違いである。つまり、こういうふうな外れ方をする頭の構造を持った
人間が
東大の
入試に受かっちゃうというところの方が問題があると僕は思っているわけです。
これは、実はほかにも驚くような
答えがたくさんありまして、とにかく今の
高等教育におけるこういう
現状というものを非常にゆゆしいと思っている方々が、
日本物理学会の中で「
大学の
物理教育」という
雑誌を随分前から出して、いろいろな
問題点を取り上げています。この中に出てくるものですけれども、こういうことが本当に起きているわけです。
ですから、
東大においても
物理の、
物理だけじゃなくて、
補習教育というのをやっているんです。つまり、事実上の問題として、
教養課程で、この
学生を本郷に送るわけにはいかないという
レベルの
学生が
相当出ているわけです。特に
物理なんかは、
高校で一たんやっていないと全然わからないわけですね。それで、しようがないから、数年前から、
高校で
物理をとった人、とらない人という
クラス分けをした上で
物理の
教育というのはやっているわけですね。
同じことは、本当は
数学でも必要になっていますし、それから、
生物でもやっているんです、やはり既習と未習と分けまして。それで、実際に調べてみますと、
高校でやったかやらないかでその後の
学力の差というのが非常に明確に出るわけです。その点はまた別の
資料で申し上げますけれども、そういうどうしようもない
補習が今どの
程度の
現状にあるかというのは、この
資料四の中にいろいろな形で出ています。
それで、本当にちゃんとした
教育をやろうと思ったらもう
補習をせざるを得ない。しかし、
大学には実はその余力は余りないんです。特に国の
予算がつくような
大学では、
文部省がその点に十分な
予算をつけませんから、そうすると、これは何とかいろいろやりくりするわけですね。
私立大学に至っては、ここにありますように
予備校が
先生ごと派遣する、そういう形で、要するに
大学が実際のところは
予備校派遣の
補習の
授業をやっている、そういう
大学が
現実に出てきているということです。
この問題でいろいろゆゆしき問題が起きている
一つは、そのバックグラウンドといいますか、それは、
日本の小中高生の間で物すごい
科学技術離れというものが出ているということです。しかも、
教育がやはり根本的に間違っているというところにその背景があるということが、
資料十で非常によくわかると思うんです。
つまり、
理科はおもしろいと思う人が
小学校の五年生では非常に高いわけですね。ところが、つるべ落としにどんどんおもしろいと思うのがおっこちてきているわけです。本来、僕は
理科は非常におもしろいと思っているんですけれども、
理科はおもしろいと思えるような教え方をしていないということが基本的にあるわけです。
その結果として、
資料十一にありますように、
日本は
世界で有数の、
理科が好きな
生徒、
科学を使う
仕事をしたいと考えている
生徒の
割合が国際的に
最低レベルに落ち込んでいるわけです。実はほかにも、これは
国連主催の共通の国際的な
教育テストの分析なんですけれども、これと同じような
グラフがたくさん出ています。別の
雑誌で私使ったこともあるんですけれども、これが一番典型的なんですが、これと似た結果が物すごく出ているんです。要するに、
日本は本当に、
理科を使う
仕事、それから
理科が大好き、こういう点において非常に欠けているわけですね。
その結果どういうことになっているかというと、これはまた別のOECDの
調査に基づいたものですけれども、それが
資料十二ですけれども、
一般市民の
割合として、
日本は、
科学技術に対して
関心、
知識を持っているという
レベルが国際的に
最低水準に来ています。そして、
資料十二の一番下の「
科学技術に対する
一般市民の心象」だけは何か
日本の
レベルがほかの国に並んでいるよというふうに見えるかもしれませんけれども、これは要するに、
科学技術に対して不安があるという人が非常に多いということを示しているだけなんですね。
それで、
資料十三の、これがもう
一つゆゆしき問題の別の一面ですけれども、年齢でいうと二十代が本当に劇的にそういう
科学技術から離れている。「
関心がある」
レベルも、「非常に
関心がある」にしても一番下に来ていて、むしろ五十代とかそういう
人たちが、はっきり
科学技術に対して
関心を持っているわけですね。
そういう
事態がそもそも心配かどうかということを調べたのが
資料十四なんですね。こういう
科学技術離れというのは「問題である」は、絶対数としては「問題ではない」よりは多いんですけれども、二十代の
人たち、この層だけが、問題でないと考える
人たちが非常に多いということがこれからわかると思います。
それで、もう
一つ非常に大きな問題は、
資料十五なんですけれども、児童の間で、
科学技術に対する功罪をどう見るかというところが非常にネガティブな方向に来ているということですね。
これは要するに、
科学技術が
世の中を余りにも複雑にしたとか、
科学のために
世界が破壊されるとか、よいことより害をもたらすとか、
世の中の困った問題の多くは
科学技術が
原因となっているとか、こういった
見方の方がそうでないとする
見方よりも多くなっているわけです。こういうことから、先ほどの
資料十一に見ますように、
科学を使う
仕事をしたいと思わない子供の増加になっているわけです。
実は、単純な
知識の
テストをやりますと、
日本は
世界最低ではありません。
世界トップでもないのですけれども、上位のいいところにつけています。しかし、
知識はある
程度あるけれども、根本的に、
科学技術を使う
仕事をしたいと思わない、あるいはそれが好きと思わない
人間が多くなると、いずれその国がどういう運命をたどるかというのは、もう本当に明らかだと思うのですね。
小中
学生の単なる
学力検査的な
国際テストですとある
程度高い
点数をとるのですが、
資料十六に示しますように、成人を対象にした
科学知識テストを見ますと、
日本は本当に低いのです。これは、先ほどの
資料十二の図10とか図11とほとんどパラレルな
数字が出ているわけです。つまり、根底的に
日本の
社会というのは
科学技術離れをしてしまっているということがあるわけです。
そういう
事態をもたらしたものの非常に大きなものとして、
高校における
サイエンスの
履修課程の問題があるわけです。
資料十七ですけれども、
資料十七の図というのは、ずうっと歴史的に、
物理、
化学、
生物、地学を
高等学校でどのように履修してきたか、それが
教育課程の
改定があるたびにどういうふうに変化してきたかを示すものです。
実は、一番最後にお配りしました、もう
一つプラスアルファの
資料として
資料二十三というのがありますけれども、これを照らし合わせて
ごらんになっていただくと非常によくわかる。つまり、これは具体的にどういう
教育課程の変化があったかということを示しているわけです。
この
資料二十三と
資料十七を照らし合わせながら言いますと、要するに、六〇
年代までは
日本の
高等学校の
サイエンスの
水準というのは非常に高かったわけです。実は、ある
意味で、そういう
高等学校における
サイエンスの
水準の高さというものが
日本の
高度成長期を引っ張ってきた、つまり、それを支える
中堅労働者の
サイエンスの
水準というものを
一定水準に保つことができた一番大きな
原因だろうと思うのですが、その後、
教育課程が
改定されるたびにがたがたになってきます。これはもうこの棒
グラフを見ればわかるとおりでして、この後の
数字もありますけれども、どんどん悪くなりまして、さらに、この後はもっとゆゆしくなるという
時代に入ってきます。
つまり、歴史的に大きな
改定としては一九七八年の
改定とかそういうものがあるわけですけれども、今、一応
高等学校を卒業させる要件として八十
単位を要求されていて、うち四十
単位が
必修という仕組みになっているわけですが、これが二〇〇三年からは、卒業に要求される
単位が七十四
単位で、
必修は三十一
単位ということになってきます。これは
理科だけじゃなくて全部の
科目です。
要するに、そういう
感じで
教育の
水準というのがどんどん
レベルが低下されまして、
理科だけをとったものが
資料二十三の、これは
小学校、
中学校ですけれども、そこの時間数の変遷というものを見ていただければ、今の若い世代に伝えられる
理科の
知識がどんどん
レベルが切り下げられているということが
数字で明らかだと思います。一九五〇
年代、六〇
年代に比較すると、
小学校で六百二十八時間が三百五十時間になって、
中学校で四百二十時間が二百九十時間になるというように、劇的に下がっているわけです。これがさらに進行していくわけです。
この結果としてどういうことが起きているかといいますと、例えば
東大の場合でも、
理III、つまり
医学部に行く
学生の四割が実は
高校で
生物をやっていないということがあります。これは、
医学の
世界は、
御存じの方が多いように、実はかなり前から
医学の
分子生物学化ということが起きています。要するに、あらゆる
意味で
分子生物学レベルで見ないと病気の
原因というのは解明できないし、今や薬品がそういう
レベルでつくられています。だから、本当の診断も何もかも
分子生物学が
ベースになるわけですね。だから、
アメリカの
大学なんかでは、
生物を
高校でやらない、
大学入試に
生物が入っていない
医学系の
大学というのは事実上存在しないのです。
それどころか、今の
社会がどんどん
バイオの
知識というものが必要になっていますので、例えば
ハーバードとかMITとか、そういう
アメリカの一流の
大学では、要するに
理科系、あるいはいかなる学部、そういうコースの別にかかわらず、すべての
学生に
細胞生物学、これは事実上
分子生物学による
生物学と言っていいわけですけれども、これを
必修にしています。だから非常に
バイオの
知識の
社会的な
水準が高いのです。
それが、
資料十九にありますように、将来の、これからの
科学技術を考えるときに、
ライフサイエンス分野というのはあらゆる
意味で非常に大きな
意味を持ってくる、これはもう産業的にもそうです。
経済力も、
ライフサイエンス分野の
科学技術がどれだけその
ベースにあるかどうかによって一国の
経済力の
相当部分が支配されるというような時期がもう既に来ているわけですけれども、
日本は、その
ライフサイエンスの
基礎研究の
水準でも
開発応用研究水準でも、この上の欄と下の欄は
基礎と
応用ですけれども、
アメリカと比較したときに、もうとにかく完敗の状態になっている。
これは、私、結構
両方の国の
トップの
人たちにいろいろ会って、
大学なんかも見ていますのでよく知っていますけれども、このままいったら
日本は本当にゆゆしきことになるということが、そういう
サイエンスの先導的な
部分でもあるし、それを支える下の
部分、さらにそれを支える下の
部分、全面的に
日本で今それが進行しつつある。
もう
一つ見ていただきたいのは、
資料十八で、これは
日本の
高等学校の
文部省検定済みの
教科書に記載されている
記載事項がいつの
年代に発見されたものか、そういう
年代別にリストアップした
グラフなんですね。下の
数字は何
世紀というものです。我々は、もうまさに間もなく二十一
世紀に入ろうとしているわけですけれども、
ごらんになればわかりますように、
物理においても
化学においても、教えていることはほとんどが十九
世紀のことです。
生物だけは二十
世紀が
相当トップになっていますけれども、これは
生物学というのがもう事実上
分子生物学が中心になっているから、
分子生物学を無視しない限り二十
世紀の事項がこれだけふえるということなんですね。
では、現在の
分子生物学の
先端分野と比較したときに、どの
程度ちゃんとした
水準のものを教えているかというと、これで想像するような
レベルでは全然ないわけです。それは例えば、
物理、
化学というのが実は
生物の
基礎部分に非常にかんでくるわけですね。今の
分子生物学の先端のところを教えようとすれば、どうしたって
物理の
知識、
化学の
知識が必要なわけです。
ところが、これが
資料十八で見ますように十九
世紀中心で、二十
世紀の
レベルのそういう
ベースになる
知識というものを与えていないから、これはどうしても教えられないということになるわけです。さらに、その履修率がこういうふうにがたがたになっているから、とてもそれがうまくいかないということになります。
資料二十は、では、その学問の分野全体が国際的に、グローバルスタンダードで見てどうかということを見るのは、論文の被引用度、どういう
科学技術論文というものがその国でどれだけ出て、それがどれぐらいほかの学者たちから引用される
レベルであるかという、これがこの
グラフの持つ
意味です。
この右肩の
グラフを見ますと、
アメリカが圧倒的ということがこれに実によくあらわれているわけです。論文数のシェアが高くて、かつ被引用度が高いわけですね。だから、もう
世界じゅうの学者が引用するような論文のほとんどが
アメリカで生産されている。
アメリカ以外の国は、まとめて下でさらに拡大して示してあります。それからもう
一つ、この右肩のさらにその上の方に、
アメリカのそういうリードというのがどういうふうになっているかという、これを
年代別に追ったものが左の上ですけれども、多少変化しているけれども、微々たる変化です。
日本はどうかといいますと、この斜めの線から下の方は、要するに、数は多いけれども引用は余りされない、つまり余り人が読まない、どうでもいい研究の論文ということになるわけです。だから、この斜めの線から上か下かで、そういう国際的に評価の高い論文かどうかという、そういう
レベルの違いが出てくるわけですけれども、そういう
レベルでいうと、イギリスが国際的に非常に
水準が高い研究をやっている。そして、ドイツもそれを追いかけてどんどん行っている。しかし、
日本の方は、この斜めの線のカーブとほとんど平行でして、むしろこの斜めの線から少しさらに下がるような傾向が出ている。だから、数は順調にふえているのだけれども、国際的な評価は低いものが出ている、そういうことになるわけです。
それで、先ほど言いましたように、
大学にはみんな入るのですけれども、どんどん入れるようになってきたのですけれども、実際には、その
大学の
レベルというものがどんどん下がっているために、入ってから不満を持つ
人たちが多いわけですね。実際に、
大学には入ったけれどもやめちゃって、また別の
大学を目指すという
人間が今どんどんふえているということが、この
資料二十一の河合塾のあれから出ていますけれども、その河合塾のデータによると、今春特にそういう
人たちがどんどんふえてきて、今や二〇%も、自分の入った
大学に満足できなくなって、もう一回
予備校に入り直して別の
大学に行く、そういうところがふえている、そういうことを挙げています。
そして、
資料二十二は、これは先ほど言いました「
分数ができない
大学生」の巻末の座談会なんですけれども、今、
大学院化ということがどんどん推し進められて、
日本で
大学院がどんどんふえているわけです。しかし、その
大学院の
実態というものが、実は、
高校全入から
高校の
水準が落ちたと同じように、
大学全入に近い状態になってきたことで
大学の
水準が落ちているわけです。その
水準の低さがさらに今度は
大学院に及ぼうとしていて、
大学院がどうしようもない
事態になっている、そういうことをこの座談会の中で述べています。
資料二十二の二百八十九ページの下の段の左側にありますように、
分数のできない
大学生が、今度は
分数のできない
大学院生になるに決まっていますと。本当にこういう
事態というものが今
日本の
大学にあらわれようとしている。
日本が本当に頼りとなる資源というのは、
人間の頭しか
日本というのは基本的に頼りになる資源がない国で、そのマンパワーを、マンパワーといいますかブレーンパワーを活用することで、
日本は今まで何とかこの国をここまで運営してきたわけですけれども、そういう根底的なところが本当に今崩れようとしている。
しかも、その崩れようとしている
実態が実は
社会ではまだ本当に気づかれていないというのは、先ほど
資料十七で示しましたように、劇的に状況が悪くなるのは一九九四年の
改定からなんですね。これは、
資料四のところで、
学力低下がどこからおかしくなったかというところで、三ないし五年前からというのが圧倒的になっています。これはどういうことかというと、一九九四年の
改定からなんです。ここで劇的に、要求される
サイエンスの
知識が変更になっています。
先ほど
物理と
バイオの問題、
生物の問題が出ましたけれども、これの
一つの
原因をつくっているのは実はあの
大学入試センター試験の日程で、
物理と
生物が同じ日程になっているのです。だから、どちらかを選ばなければならない。つまり、そういうことがあるがために、自然と
高校段階で
学生がどちらかを選択せざるを得ないわけですね。
それで、先ほど言いましたように、
理IIIは本来
生物が好きな
人たちが選択するであろうところであるし、
生物というものが必要に迫られるのはわかっているのだけれども、実は
東大の
理IIIというのは非常に、
日本の
大学の
入試の中でも一番
レベルが、競争が激しいところですけれども、頭がいい子が
点数をとろうと思うと、
物理の方が実は有利なんですね。
生物だと小刻みに
点数を上げるほかないけれども、
物理の問題というのは
数学の問題と非常に近いところがありますから、ぽんと高い
点数がとれる。そうすると、
理IIIに通るような子供たちはどうしても
物理をとっちゃうわけです。そうすると、
医学系に行く
人たちが実は
生物をやらないという
事態を招いているのが、そういうところにもあるわけです。
実はこの問題、本当にいろいろな要素が絡み合っていまして、なかなかこれをどうするかという問題は簡単にいかないのですけれども、ただ、これまで
文部省が、こういう
教育水準の、
学力水準の低下というゆゆしき問題が起きているということに恐らく気がついていないはずはないのですけれども、そこに目をつぶってきたというか、それは、目をつぶってきたことは、ほかにやらなければならないことがいろいろあったからかもしれませんけれども、
日本の将来というものを考えたときに、この
学力水準の低下、
高等教育機関の、しかも
東大にまで至るようなそういう
レベルの低下というのは、これは非常に恐るべきことであるということを知っていただきたいと思います。
以上で私の話を終わります。(拍手)