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浜林参考人 浜林です。
今まで全部
学長さんがお話しになりましたけれ
ども、私は、平
教員の
立場から申し上げたいと思います。
一昨日、この
委員会の
審議も傍聴させていただきました。それについての感想も含めて
意見を申したいのですが、時間が十五分しかありませんので十分にお話しすることができないかと思いまして、あらかじめ要旨をお配りしてございます。申し足りない点は、それに基づいて御質問いただければ補足をしたいと思います。
まず、今までの
先生方もおっしゃいましたけれ
ども、
大学が今どうなっているのかということをやはり御認識をいただきたい、その上に立っての
改革でなければいけないというふうに思います。
私も五十年
大学の教師をやってまいりましたけれ
ども、今
大学は大変な混乱状態にある、率直に言って私はそういうふうに思います。最近十年ほどの間、特に
大学設置基準の大綱化ということが行われましてからさまざまな
改革が行われています。一々は申し上げません。
大学審
答申の附属資料についておりますのでごらんをいただければと思いますが、シラバスを作成するとかセメスター制だとか自己
評価だとかカリキュラム
改革だとかということで、それに追い回されているというのが率直なところです。
私は、レジュメでは「
改革疲れ」というふうに書きましたけれ
ども、
改革というのは本来、
研究や
教育を充実するためのものでなければならないと思うのですが、何のためにこの
改革をやるのか、どこに問題があって何を直そうとしているのかということが必ずしも明確でないままに、とにかくセメスター制を、セメスター制というのは、一年
単位ではなしに、半年
単位で
単位を出していくというシステムですが、それをやれということで一斉にそれに切りかえますと、前半と後半をどう組み合わせるのだとか大変なことで、その
議論で二年、三年はかかってしまうということになってしまいます。それでどれだけ効果が出ているのかというと、率直に言って余り効果は上がっていないというふうに私は考えます。
それから、
学生の学力の問題ですが、これはもう話をすれば長くなってしまうのですけれ
ども、今お話もございましたけれ
ども、
学生の学力の低下というのは、これはちょっと想像を絶するものがございまして、一々それも申し上げかねますけれ
ども、例えば補習をやっている
大学がかなりございます。ところが、その補習を担当するのに、
大学の
先生は担当できないのですね。
学生のレベルが余りにも低いものですから、元中学校の
先生を非常勤で頼んできて補習をやってもらっているということがございます。しかも、その補習と
大学の正規の
授業とを
学生は同時に受けていますので、正規の
授業の方は全然わからないまま進んでいく、こういう、奇妙なといいますか、矛盾した現象が進んでいる。それのもとは、これは
責任を転嫁するようですけれ
ども、
大学ではございませんで、むしろ高校以下の
教育がやはり正常ではないというふうに私は思っております。
この間も、ある知り合いの子供を預けられまして、
英語の
成績が悪いのでちょっと面倒を見てくれと言われて、教科書を全部持ってこいと言って見たのですが、これもまあはっきり申し上げて、この教科書では
英語の力はつかないというふうに私は思いました。塾へ行くと、教科書を無視して教えますので、そこで力がつく、こういう現象が起こっている。これは
英語の話ですが、数学についても多分同じことだというふうに聞いております。
それから、
大学院の
重点化ですが、これは結構なことではあるんですけれ
ども、
重点化をやった
大学に聞きますと、
予算がふえた、しかし人間がふえないで
大学院生がふえたというふうに言っていまして、
予算もふえたけれ
ども負担もふえたということであります。
例えば京都
大学の
経済学部、よその
大学の話で恐縮ですけれ
ども、マスターが十五名ほどの定員であったものが八十四名になった。教官の方はさっぱりふえていないという。したがって、
大学院生というのは手がかかるのでありますが、なかなか十分な指導ができない、そういう悩みを抱えているようでありまして、京都
大学ではありませんけれ
ども、別な
大学ですが、
大学院生は
大学に行っても座るいすもない、
研究する机もないというような
状況が生まれてきてしまっています。
私はレジュメに書きましたけれ
ども、
大学審議会が発足するときに、当時の塩川文部大臣の諮問では、
我が国の
大学院は質、量ともに水準が低いので、その向上に努めてくれ、こういう諮問でございましたが、量は確かにふえましたけれ
ども、質的には、私は理科系のことはよくわかりませんが、文科系について言えばむしろ下がっているのではないかというふうに思っております。
大学関係法案について一々細かくは申し上げられませんが、そこにございますように、
一つは、三年で卒業できるようにするということについて、私は
反対であります。それは、理由は大きく言えば二つございます。
一つは、俗に新幹線コースと言いますが、現在、高校の二年を終えたところで
大学へ入るというコースがございますし、
大学を三年で出られる、さらに
大学院も、マスター一年、ドクター二年で卒業することが可能だということになりますと、全部合わせますと四年ぐらい。それはちょっと極端なケースかもしれませんけれ
ども、そういう形で
高等教育を終わっていくと、これは特別の秀才は別としまして、非常に偏ったエキスパートといいますか、知識、もっとはっきり言えば頭でっかちのようなそういう
学生がつくられていくのではないかというふうに思います。
それと、これは特別の例外措置というふうに言われておりますけれ
ども、三年で卒業できますということを売り物にする私立
大学が出てくるのではないかといううわさが専らございまして、私立
大学の中には手ぐすね引いて待っているという話も聞こえてまいります。
そういう点で、戦前は
高等教育というのは六年あったのです。旧制高校三年、旧制
大学三年。それが現在の
大学は、四年になりますともう就職でひっかき回されまして、実質三年しかない。昔に比べれば半分だというふうに私は思いますので、私はむしろ
大学は五年ぐらいあってもいいのではないかというふうに考えております。
それから、国立学校設置法の問題でありますが、
運営諮問会議について、今御賛成の御
意見がございましたけれ
ども、私はやはり
反対でありまして、そういう常設の機関を置いて、しかも
メンバーが特定をされてくるということになりますと、
大学に対する
意見が必ずしも
社会全体の
意見を反映することにはならないだろうというふうに思っています。
私は、もしこういうものをつくるのであれば、労働組合の代表を入れるとか、あるいはいわゆる
社会的弱者の代表を入れるとか、あるいは
学生を入れるとかというふうな、それこそ幅の広いシステムというものを考えませんと、
大学に対する希望が偏った希望になってしまうのではないかというふうに思います。
それから、
評議会の構成が変わりました点については、これまで各
学部から
学部長のほかに二名という評議員が出ておりましたが、それが改められました。
学長が
評議会の議に基づいて指名する
教員というのを加えることになりまして、これがどういうことになりますかわかりませんけれ
ども、
学部の
意見が必ずしも反映されにくくなるのではないかという点を心配しております。
もっと大きな点は、国立学校設置法の中に
教授会についての規定が細かく入ることになりましたけれ
ども、
学校教育法に既に
教授会についての規定があるわけでありまして、その規定でずっとやってまいりました。私はそれで十分だというふうに思います。特に、これからも私立
大学や公立
大学は
学校教育法の規定でやってまいりますので、
国立大学の
教授会だけがなぜこういうふうに細かい規定を設けなければいけないのかという点については、私は理解しかねるところであります。
それから、国立学校設置法の第七条の七に、
大学は一体的な
運営を図るべきだ、こういう条文が新しくつきましたけれ
ども、これはいわば精神的な規定でありまして、こういうものを
法律上明記する必要はないと思います。
それから、
教育公務員特例法の一部
改正は、これは現在あります読みかえ規定を本文に移しただけのことでありますから、そういう
意味では条文整理ですけれ
ども、しかし
一つは、
学長の選考を
評議会が行うということになりました。
評議会は、先ほど申しましたように、
学長の指名する
教員を入れることができます。そうしますと、
学長は、
学長が指名した
教員を含む
評議会によって選考されるということになりますと、これはお手盛りの選考になるのではないかという点。
それからもう
一つは、
教員の不
利益処分を
評議会が行う、これは現行法も読みかえ規定でそうなってはいるんですが、
大学の
慣行としては、どこの
大学においても
教員の採用は
教授会、その採用したところが不
利益処分も行うというのが私は筋道も通っていますし、
慣行もそういうふうになっていると思います。
私は、
一橋大学へ参ります前に東京
教育大学というところに、現在の筑波
大学の前身でありますが、おりましたが、そのときに、
評議会から家永三郎
教授ほか二名に対する辞職勧告というものが出ました。私は文
学部におりましたけれ
ども、文
学部教授会は、
教授会が発議をしない限り辞職はできない、させられないんだということで頑張りまして、
評議会もそのことを認めて、結局辞職勧告は実行をされませんでした。
ほかにもいろいろなケースがございますけれ
ども、それが現在までの
慣行で、それをこういう形で改めていくということになると、これは大きな問題が生ずると思います。
まとめ的にでありますが、
大学審議会の中間まとめが昨年の六月に出ておりますけれ
ども、それに対して八月に
国立大学協会が
意見を述べていますが、その中に、「
組織運営の
改革については、すべての面で画一的な制度とするような形ではなく、特に
学問の自由とそれぞれの
大学の持つ特徴を尊重しながら、」ちょっと途中飛ばしますが、「多様な取組を行いうるような
改革提言が行われることを強く要望する。」という文章がございまして、
国立大学協会もこういった画一的な
組織運営の改善には賛成ではないだろうというふうに私は思っています。
大学の
教育があるいは
研究が現在必ずしも十分ではないというのは私
どもも認めておるところですけれ
ども、それを改善していくに当たっては、
一つは、
国立大学については私は特に申し上げたいのですが、定員削減というものが大きく響いておりまして、なかなか手が回らない。先ほど京都
大学のことを申しましたけれ
ども、
大学院重点化を行うと多少定員増があるんですけれ
ども、ほかのところで削られてつじつま合わせをやっておりますので、助手とか職員がしわ寄せを受けるわけでありますが、この定員削減をやめていただきたい。やはり十分なスタッフを保障してもらいたいというのが
大学側の率直な希望だろうというふうに思います。
それから
予算の面では、これは一昨日の
審議でも出まして、文部大臣からも努力をするという御答弁がございましたけれ
ども、科学
研究費や重点的な配分ではなくて、積算校費と言っておりますけれ
ども、
大学一律に認められるような基準的経費の増額を図っていただきたいというふうに
お願いをしておきたいと思います。
先進諸国中で
日本は、
高等教育に対する公的
予算の支出がGDPに対する
比率にして約半分というのは御承知のとおりであります。これを先進諸国並みにいたしますのには、二兆五千億ぐらいをふやすということで間に合うと思います。私はレジュメに「わずか二・五兆円」と書きましたけれ
ども、その程度のお金、
教育に対する投資は、これは国の将来のためには一番大事な投資だというふうに思います。
アメリカではクリントン大統領が、十八歳以上の青年にはすべて
高等教育を受けさせるということで、そのために
教員の十万人増を
要求する、そういう時期に、
日本のこの
改革はそれに逆行するものではないかというふうに私は考えております。
以上で終わります。