○深井一郎君 それでは、私から
意見を申し上げます。
私は、召集を受けた兵士として軍隊経験があり、そして、戦後は約四十年、大学教育に携わった経験の
二つから、この問題についての
意見を申し上げたいというふうに思います。
以下、三点にわたって、どこが問題なんだということを申し上げたいというふうに思います。
第一点は、今なぜ
法制化なのかという問題です。
確かに政府は、ことしの初めまでは、現行のままでよろしい、慣習的に定着しているんだからそれでいいというふうに公言していたわけですが、それが突如、
法制化したいというふうに言い出した。その説明の文章の中では、明らかに新世代に向けて踏ん切りをつけたいという言い方を
国会で答弁していますね。それは、新世代に向けて改めてほしいと思っている
国民の願いはいっぱいあるわけですよ。あるいは、そこまでにぜひ変えてほしいと言っていることもたくさんあるわけですね。あるいは、今、即やれという
国民の声もほかにいっぱいあるわけで、なぜ今、
国旗・
国歌の
法制化なのかという、その今の問題であると同時に、それは
法制化ということの問題でもあるわけです。
私は、総理大臣が
国会で答弁している新世紀を迎えてという
理由は
理由ではないと判断するために若干のことを今申し上げたんですが、それよりも、これまで学校現場でずっとあの指導要領によって
国旗・
国歌を、
国民の若い層、つまりこれから大人になっていく層に、指導要領にあるんだからやらなきゃいかぬのだと約十数年間強制してまいりました。そのことが行き詰まってきたという現場を私はよく知っているわけですが、そのことが
一つ。もう
一つは、教育現場だけで
国旗・
国歌を尊重させることではもう足りない、この際、
法制化によって
国民全般にやはり
国旗・
国歌の意識を持たせたいという意図が根底にあったことは当然だろうというふうに私は
考えているわけです。
その二点から
考えると、今、
国会に提出し、早急に成立を図る
趣旨が何となく見えてくるという気がするわけですが、もう
一つ、この中での問題点は、長い年月にわたって慣習的に定着しているという
表現です。
ここで言っている長い年月は、恐らくそれを話をしている今の総理大臣は
明治以降百年という発想なんでしょうね。つまり、百年に満たない年月を長い年月というふうに普通の人間は言いませんから。少なくとも、百年に近い意識が頭の中にあるとすると、
明治以降現在まで、ずっとその
日の丸と
君が代は
日本国民の中で使われてきているという意識だと思うんです。それはその間、例えば儀式があれば
君が代を歌ったし、それから、祝日があれば
国旗を掲揚したということが慣習なのかという問題が残ります。戦争が終わるまでの
国民が掲げた
日の丸と儀式で歌った
君が代は、これは明らかに一種の政治権力、少なくとも軍部、私も何遍も経験させられたんですが、警察、特別警察の圧力というのは大変なものでした。そういうところで、上げない人間は隣組の中で目くじらを立てられるという経験をみんな持っていたはずなんです。そういうところは、それは慣習になったのではなくて、そうさせられていたと見るべきだと僕は思います。
そうしますと、
国民が少なくとも自分の意思で
国旗を掲げ、
君が代を歌ったのは戦後という期間にしかない。では、その間、
国民はその
国旗を自分の意思で掲げただろうかというふうに
考えますと、一時期、当時の政治の流れを敏感に反映して、老人会、町内会を通じて
国旗をずっと売りましたね。その時点では若干
国旗はあちこちで立ちました。ところが、最近は、私は金沢の町で毎日散歩をするんですが、祝日も散歩をします。そのときに、ああ、この町内の中でたった二軒しか立ってないとか、この町会は一本も見なかったという経験を何度も経験しているんです。つまり、祝日が
国民にとっての祝日じゃなくて休日になっているんです。だから、その
日の丸を上げる
意味が全くわからなくなっているんですね。そういう現状は、現在もまだ定着はしてないと私は
考えるわけです。
そういうことの中で、例えば非常に強い圧力の中でそういうことを避けられなかった御時世で、ほかのことを調べているうちにたまたま見つけたんですが、
明治三十七年の大阪朝日の天声人語、これはなかなかおもしろいことをいっぱい書きますので、私もよく調べるんですけれども、その中に、
国歌君が代について、「皇室の歌あり、
国民の歌なき、
国民も亦不自由なる哉」という文言が入っているんです。これはその当時としてはもう最大の抵抗ですね。つまり、
国民の歌が
国歌の中にはない、あるいは国が挙げて歌う歌の中には
国民の歌は入れられてないということを痛烈な批判をした一文だと思うんです。これは別に明確に皇室を批判したわけでもないし、国体を批判したわけではないですから、全くマスコミのプレスコードにはかかってない。ですけれども、それをあえて書いたところに、やはり相当の人たちがそういう意識を持って
考えていたという
一つの証左にはなると思います。
それから、戦後、ごく最近ですけれども、沖縄で出されている川柳をひとつ
紹介しておきますが、「
日の丸のいじめの代償振興策」というのがあります。つまり、「
日の丸のいじめ」というのは
二つ意味があるんですね。本土と一緒になったんだから
日の丸をかけろという割と強いお達しがある。沖縄は、復帰協で運動しているときには
日の丸の旗を振りました。これは、自分たちは
日本本土と一緒になりたいというシンボルなんです。決して
国旗で大事だから振ったんじゃないですね。ところが、復帰した後は
国旗をかけろという圧力が学校を
中心にかかります。だから、これは
二つの「
日の丸のいじめ」という
意味だと僕は理解したんですが、それの「代償」に「振興策」、つまり、沖縄はどんどん振興させるから本土の政府の言うことを聞きなさいという言い方に対する痛烈な皮肉です。
それからもう
一つは、「
君が代は千代に八千代に民泣かせ」というのがあります。つまり、長い長い歴史の中で、
君が代は民を泣かせてきたんだと。つまり、天皇陛下のためという
言葉で戦前は皆泣かされましたよね。では、戦後は何のためかというと、
日の丸を掲げるということに示された政治権力が
国民を泣かせてきたという
意味だと理解できるんですね。こういう状況を見ると、必ずしも定着しているというふうには言いにくいだろうというふうに
考えるものです。
最近になりまして、ことしになってから新聞各紙、私は一週間に一遍、図書館へ行って出ている新聞は全部目を通すんですが、それを見ていますと、投書が随分ふえてまいりまして、その投書の中に
日の丸と
君が代がふえてきているんです。これは賛成もあれば
反対もあります、あるいは慎重論もありますね。それは当然だと思うんです。
つまり、
国民が今やっと
君が代・
日の丸について物を言うという気持ちになっているわけなんです。だから、新聞に投書すれば、それは人が読んでくれる、自分の意向を発表して、その
意見についてまただれかが書くことを期待しているというふうに
考えるわけですが、それがふえていることを今の政治はやはり大事にしなきゃいけない。つまり、
国民はやっとこの課題で自分の
意見を言うようになった。それをどんどん進めるのが今の行政の大事な役割ではないかというふうに
考えているわけです。
ですから、今その
法制化という問題を政府がたまたまうまいぐあいに投げかけてくれましたので、それを受けて
国民は物を言い始めている。この
国民の声を大事にすることこそが民主政治の根幹ではないかというふうに
考えるのが第一点です。
それから第二点は、さまざまな新聞が取り上げておりますが、今の
君が代の
歌詞、歌の
言葉に関して問題の焦点が少し鈍っております。
私は、たまたま専攻が
日本語の
研究でして、今の政府答弁を聞いていて、こういう答弁を総理大臣が
国会でやりますと、
日本人全体が
日本語がおかしくなるというふうに
考えたわけです。つまり、あれは全く
日本語の論理を知らない人がその場逃れで言うならばいいですけれども、その場逃れのできない責任者が、その場逃れのできない場でああいう答弁をしてはいけない。
かつてあの吉田首相が曲学阿世の徒という
言葉を使って総反撃を食いました。つまり、学者ないしは生かじりの人間が当時の政府に対する直言を次々に出しましたときに、曲学阿世の徒という雑言を浴びせました。今度の場合は、だれに対してという雑言は吐いておりませんが、国語学的な
検討をすることが本意ではないという言い方をしました。つまり、
日本語で解釈をすることが本意ではないんだと。では、
日本語で書いてない歌なのかという問題ですね。あれは
日本語で書かれていて、
日本人みんなに歌ってくれと学校を通じて強制してきた歌ですよ。それが
日本語的な解釈に耐えられないということをみずから言ったのと同じなんですね。
具体的に言いますと、その
君が代という
言葉がさまざま紆余曲折を持っておりますけれども、この「君」が象徴天皇だということにどうやら落ちついているみたいです。それは内容的にそう理解しておいたとしても、ただ、
憲法で言っている文章を最近よく使います。ところが、
憲法で言っている「天皇は、
日本国の象徴であり
日本国民統合の象徴であつて、」というところを、総理大臣も政府
委員も口をそろえて、「
日本国及び
日本国民統合の象徴」という言い方をします。この
二つの概念
規定が並んでいるものを
一つにしてしまっているのです。
両方とも「象徴」という
言葉を使っているから括弧に入れてというあの数式と同じですね、省略と。
ところが、内容は、
日本国の象徴というのは国家のシンボルですね。だから、まさに
オリンピックで掲げるものという性格はこれに当たるんでしょうが、「
日本国民統合の象徴」というのは何だということになりますと、
日本国民がみんなそれでまとまるというのが「
日本国民統合」ですね。そのシンボルですから、これは精神的なものなんです。具体的にシンボルを出しようがないですね。つまり、シンボルという
言葉には具象性を持ったものと具象性を持たないものとがあるわけですが、それを一緒にしちゃって、「
日本国及び
日本国民統合の象徴」というふうに、小渕さんもそれから竹島さんも公式答弁しているんです。これは
日本国憲法の理解そのものがまず間違っているということが
一つ。
そして、そういうふうに持ってきた場合に、まとめて簡単に言いますと、象徴天皇だという言い方をしますね。それだけ言っている限りでは大きな間違いだというふうには言えないんですけれども、こういうふうに、「
日本国及び
日本国民統合の象徴」という言い方を公式見解として出されますと、
日本語を知らないんだなという気がするわけです。
それから、特に、
君が代の「代」が、一生懸命に探したんだと思いますよ、国という使い方があるんだというふうに。確かに僕もそれは知っているんです。
ところが、それは、「よを保つ」とか「よを執る」とかという言い方で、竹取だとか源氏の中にあるんです。そのときの「よ」というのは国の
意味です。ところが、それは、その上に何とかの「よ」という使い方は何ぼ探してもないです。極めて抽象概念としての「よ」なんですね。
ですから、
君が代の「代」は、決して「君」の「代」、「君」の国、つまり、象徴天皇の国というふうな使い方は
日本語の中の用例を何ぼ探しても出てこないということをやはり知るべきなんですね、こういう解釈をする以上は。多数の人たちが
調査に参加し得る機会をつくるのが総理大臣でしょう。そういうことは、ひっくるめて言えば、総理大臣は
日本語を尊重してないということを示している
一つの例ではないかというふうに思うんです。
こういう解釈をそのまま受けとめてまいりますと、
君が代とその後に続く歌とを解釈しますと、象徴天皇が統治している国というふうに見るか、あるいは象徴天皇が持っている寿命というふうに見るか、どっちかしかないんですね。そうすると、そのどちらにしても矛盾がいっぱい出てくるわけです。一番大事なのは、主権者である
国民という概念とこの
二つの解釈とはどう
考えても一致しないんです。そこを無理やりつなげたために、「
日本国民の総意に基づき、天皇を
日本国及び
日本国民統合の象徴とする
我が国のこと」だと。これは竹島政府
委員の公式答弁ですね。これがまた危険な
要素を持っているんです。
というのは、頭に「
日本国民の総意に基づき、」点で切っているんですね。そうすると、これは、
日本語の文法からすれば、真っすぐ象徴天皇のところへは入らなくて、その次の「天皇を
日本国及び
日本国民統合の象徴とする」までは
一つの節ですから一貫した
意味があるんですね。その前に点で切っているわけですから、その切った
部分はどこへいくかというと、その後、「
我が国のこと」だというところへ修飾するのが普通の文法なんですね。
そうしますと、置きかえてみますと、天皇を
日本国及び
日本国民統合の象徴とする
我が国に対して、
日本国民の総意に基づいているんだという言い方ですね。これは、今の
憲法が
規定しているあの天皇
規定に対して、これはその次に、千代、八千代に続くんだということを政府が
国民に歌えと。
国民もそれを歌うことは、今の
憲法の天皇
規定を未来永劫続けます、続けたいという意思表示なんですね。明確にそのことは言わないけれども、その観念を続けていきたいという意識なんです。決して国そのものの繁栄を願っているんじゃないということを銘記すべきではないかと思います。
それから、三点目に申し上げたかったのは、指導要領を通じての強制の問題ですが、これは簡単に申します。
指導要領は法的根拠があるかないかということは、平成元年の「指導するものとする。」という強制力を意識した
表現が入って以来、裁判が幾つか続きますね。その中では、学習指導要領は法的根拠があるものに近い、それに類するという判決が幾つか出ておりますけれども、
法律と同じ効力を持つということはだれしも言っていないですね。そのことがどうしても
法制化したいという意図だったんだと思いますが……