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宮台参考人 おはようございます。
宮台真司と申します。
私は、もともと理論
社会学、数理
社会学が専攻でございましたけれども、
自分の興味もありまして、戦後サブカルチャー論、宗教論、そして戦後
教育論、あるいは
青少年の例えば援助交際、薬、その他ストリートと言われる場所での、あるいはコミケットとか言われる同人誌即売会などの場所でのコミュニケーションをフィールドワークしてきた、そういう者でございます。
きょうの私のテーマは、戦後の
日本の
教育の
一つのモードになっていた協調性重視型の
教育の持っている問題点を指摘することであります。私の前に
お話をされたお二方、
乙武参考人、世取
山参考人の
お話を聞きまして、「切り口」というふうに書きましたこのレジュメの冒頭にあります話に、もう
一つ新しい切り口を加える必要があるというふうに感じましたので、それからまず
お話をいたします。
乙武参考人は、なぜ
日本で人それぞれが違うのか、
子供がそれぞれ違うのかということを
子供たちにわかってもらう
教育がなかなかうまく進まないのかという問題提起があり、世取
山参考人の方からは、何ゆえにこの
日本で、
国連の、とりわけ
先進国では当たり前になっている
子どもの
権利条約の基本精神がなかなか理解されないのかという問題提起がありましたが、そのことに関連する問題であります。
今
国会で成立が予定視されている児童買春・児童ポルノ禁止法案(通称)がございます。これについては、昨年九月に原案が出されて以降、私、議員会館でシンポジウムを開かせていただいたり、いろいろなロビー
活動をさせていただきまして、原案の持っている問題点をいろいろ指摘させていただきました。
それで、今
国会に提出されました修正案を見ますと、私たちが主張していた、最低限四点だけ修正をしていただきたいという
部分が基本的に盛り込まれているわけです。この基本的な修正点四点ということを
お話しいたします。
まず第一は、法律の文章から
健全育成という言葉を削除することです。二番目は、児童ポルノ、チャイルドポルノの定義の中から漫画やアニメーションを含めた絵を排除することです。三番目に、単純所持規制、持っているだけで捕まる、そういう条項があったわけですが、それを削除することです。そして四番目に、地方自治体に存在する、通称淫行条例や淫行規定と呼ばれているものについて、これを効力停止するということであります。この四点は、基本的にある程度入れられたというふうに思っております。
なぜこの四点が修正されなければならないというふうに私が、あるいは私たちが考えたのかということを
お話をさせていただきます。
先進各国は、
日本以外というふうに
お話しする必要がありますが、七〇年代以降、セックス、性に関する規制措置を行う場合の基本理念は、以下のように変わってきました。
すなわち、それまでは、秩序、よき秩序を守るために性を規制する必要があるという観点であったものが、人権を守るために、あるいは人権侵害を抑止するために一定の規制措置を求める必要があるというふうに変わったわけであります。簡単に言えば、秩序重視型から人権重視型ということになります。
したがって、一九七〇年代以降、
先進国の大半は、アメリカを除きますけれども、売買春は合法化されてきています。それ以前は、売買春は秩序に反する振る舞いとして禁止されてきたわけですが、七〇年代以降、とりわけ成熟
社会になってまいりますと、もちろん人身売買はいけないし、性虐待はいけないし、意思に反した拘束はいけないに決まっているわけですけれども、売買春それ自体が直ちに人権を侵害するわけではないということになりますから、先ほど申し上げたような基本理念の変化があれば、売買春は合法化の方向に向かうわけであります。
本質的な話を申しますと、例えば、
青少年の売買春、これをどう考えればいいのか、援助交際をどう考えればいいのかということに関する問題です。
先ほど申し上げました児童買春・児童ポルノ禁止法案、これはもともと、一九八九年の
子どもの
権利条約の
国連総会採択を機に、
子供の
権利を守るという観点から、幾つかの国で不十分な、
子供の性にかかわるさまざまな
権利の保護に関する法的な施策を整えてほしい、そういう
国連からの要請というか期待に対して、
先進国の中で
日本だけがそのような趣旨に沿う法整備を行ってこなかったために、一九九六年の通称ストックホルム
会議で
日本が非常に強く批判され、
国会議員の方々が大恥をかくという事件があったわけであります。
それを機に、児童買春・児童ポルノを防止する法案をつくらなければいけないということになったのでありますが、そのような法案作成プロセスで、なぜかこれが援助交際禁止法案の趣旨に変わっていってしまうわけです。言いかえれば、
子供の
権利の保護という観点からよき秩序を維持するという観点に、なぜか道徳主義的に変化をしてしまったわけであります。これがつまり本質的な問題であるわけです。
一般に、
先進国の常識では、以下の四つの問題は区別されます。
つまり、売買春のよしあし。第二は、
青少年――
青少年というのは、ここでは性的合意年齢に達した、
日本の場合でいえば十三歳以上、法的成人に達していない、例えば
児童福祉法上児童とみなされる十八歳未満、十三歳以上十八歳未満というふうにお考えください。
青少年がセックスをすることのよしあし。そして三番目が、
青少年が売買春にかかわることのよしあし。そして四番目が、性虐待のよしあしです。
ちなみに、十三歳未満の性的合意年齢に達していない少女や少年を相手にした性行為は、これは性虐待に分類されます。基本的に、八九年の
子ども権利条約以降、各国で期待されていた性に関する規制措置は、この性虐待に基本的に照準が合っていたというふうにお考えくださるといいわけです。
先ほど申しましたように、
先進国では売買春は、七〇年代以降、合法化の流れです。
青少年がセックスをすることについては、これは、
国連加盟国あるいは先進各国は、基本的には性的合意年齢を下げる方向で、つまり
青少年のセックスを認める方向で推移しています。そして性虐待については、
日本よりも他の国ははるかに重罰、
一般的に重罰であります。
では、
青少年が売買春にかかわることはどうか。これは、規制をするべきだというふうに
国連の
子どもの
権利委員会から各国に
勧告が出されています。
青少年が売買春にかかわることが規制されなければいけない理由はなぜでしょうか。これは、売買春がいけないからではありません。
青少年がセックスすることがいけないからではありません。性虐待がいけないからではありません。では、なぜこれはいけないんでしょうか、というふうに質問してはいけないらしいんですが、私の方でお答えをいたします。
これはつまり、
子供というのがどういう存在なのかということに関する基本理念と
関係しているわけです。彼らが、つまり
青少年が見習い期間である。簡単に言えば、
自分たちの責任でなされた試行錯誤によって
自分自身の尊厳や自尊心を獲得していくべき期間だというふうにみなされているからであります。
売買春は、
一般的に大変に金銭的な誘因、インセンティブが強いですから自由な試行錯誤を阻害する可能性が高いです。さらに、年齢が下であれば、年長者の年齢による優越的な地位の利用によってさまざまな問題を受けやすい可能性があります。例えば、交渉力が不足しているがゆえに、自由意思に基づく契約といいながら理不尽な条件をのんでしまったり、契約不履行に抗議できなかったりする可能性があります。さらに、問題解決能力の問題があり得て、例えば妊娠や、つまり望まない妊娠や性感染症を
自分で解決できないために、
周りを巻き込み、そのプロセスで
自分自身も傷ついてしまう可能性があるわけです。
そのような自由な試行錯誤が阻害される可能性、言いかえれば、
青少年期、試行錯誤期、見習い期にある彼らに自由な試行錯誤をしてもらうために、つまり自由のために、
青少年期の売買春は禁止されるべきだという理念になっているというふうにお考えいただきたいと思います。これが第一の切り口です。
第二の切り口で、レジュメにあります「匿名メディア犯罪」と書いてあるところ、この
お話をさせていただきます。
いろいろはしょりますけれども、例えば、マスコミ的な扱いでは、現代人は寂しいんですねというふうな言い方がよくなされます。しかしながら、これは的外れと言わざるを得ません。現代人ないし近代人は、
一般的に寂しいのです。
それはなぜかといえば、これは
社会学の基本常識ですけれども、昔の田舎にいる
人間たちとは違って、近代人は、さまざまなメディアあるいは交通、移動を通じて、その想像力や感受性の地平を家族共同体や村共同体の外側に広げています。したがって、
一つの家族の中で、
一つの共同体の中で
一緒に暮らしていても、各人は別々の内面を持っていることが当たり前です。したがって、家族で暮らしているからといってすべてを分かち合う、同じ村にいるからといってすべてを分かち合うということは到底不可能で、その分、孤独があるのは当たり前であります。問題は、寂しいかどうかではなくて、寂しい
人間がだれを頼るかです。
日本は、これは余り意識されていないかもしれませんが、アメリカよりもどこの国よりも先駆けて匿名メディアが全国大に
一般化した
最初の国です。今から十五年前にテレホンクラブと言われる匿名メディアが全国大に
一般化したことは、
皆さん御存じのとおりです。これは、アメリカでインターネットが
一般的に普及する五年以上前に普及しているわけです。
日本は匿名メディア
先進国です。あるいは、言いかえれば、
日本は匿名メディアをとりわけ強く、特に若い世代が要求しているというふうに言うことができます。
つまり、この
日本において問題なのは、寂しいかどうかではなくて、寂しい
人間たちがいたとして、彼らが、なぜ親しい家族や親族や友人、近隣の
人間ではなくて匿名の
人間たちを頼るのか、なぜ匿名の相手でなければ心を開けないのか、こういう匿名的な親密さをめぐる問題であります。これを
最初に伏線として申し上げておきます。
昨年来、特にことしになって明らかになりましたが、匿名メディア上での毒物配布であるとか、匿名メディアで出会った男性から眠り薬を飲まされて昏睡して死んでしまった女性の事件であるとか、こうしたことが話題になっています。匿名メディアが、あるいは悪い男がいろいろ批判をされています。それはそれでいいでしょうが、本質的な問題が忘れ去られています。
私たちは、例えば、小さな
子供に、知らないおじさんについていってはいけませんとか、知らないおじさんからもらったものを食べてはいけませんというふうに言わなければならないことになっていたはずでありますが、これは、実際、
子供にではなくて、まず
大人に言わなければならない。
言いかえれば、この
日本は、成熟
社会であるにもかかわらず、この
社会は昔の田舎とは違うわけです。どんな
人間が、どういう感受性を抱きながら、何を考えて生きているのか必ずしもわからない
社会になっています。みんな同じではありません。そうした基本的な感受性を持っていない
大人が多過ぎるわけです。したがって、
日本ではそのような大
人たちによる協調性重視型、みんな仲よし
教育が
学校でも家でも行われています。その結果、例えば匿名メディアで出会う
人間がだれであるかわからないという基本的な警戒心というか、そういうものが失われています。
さらに言うならば、例えば伝言ダイヤルで昏睡させて女性を殺してしまったとされる容疑者でありますが、このまま放置したら死ぬかもしれないと供述したというふうに報道されています。これが真実であるといたしますと、死ぬかもしれないと思いながら、しかし放置したわけです。
こういう感受性を以前から私は、仲間以外は皆風景というふうに申し上げております。どういうことかというと、仲間は大事だけれども、仲間以外は
人間も電信柱も缶からも全部同じであるというふうな感受性です。このような感受性は、ストリートにいる連中たちをフィールドワークすると、全く普通に当たり前になっているということがわかります。
私がみんな仲よし
教育の弊害と言うのは、この問題とかかわるわけです。
社会が複雑になれば、仲よくできる範囲には実際のところ限界があります。問題は、みんな仲よしではなくて、必ずしも仲よくできない
人間たちとどのように共生するか、つまり侵害し合わないで、あるいは助け合って、相互扶助をしながら生きるかということであるはずです。基本的に、このようなタイプの
教育が
日本でなされるということはありません。
例えば、私は幼児番組を
評価する仕事も一方でやっていますが、
先進国の幼児番組の中で、みんな仲よしという協調性重視型の番組をつくっているのはただ一国、
日本だけであります。あるいはというふうに言うと時間がなくなりますのでやめますが、
一般に、
日本以外の
先進国の幼児
教育や幼児番組の理念は、自立と相互扶助と言われるものに基づいています。
ファーストプライオリティー、一番大事なのはインディペンデンシーですね、自立、独立であります。例えば「セサミストリート」などを見ればよくわかります。
子供に、君は何がしたいのと聞くわけです。僕はこれがしたいんだと答えます。それがしたいんだったらみんなに言わなきゃ。言わなきゃ
周りに伝わらないぞ。つまり、
周りが何を言っていてもしていても、
自分がしたいことを必ずちゃんと言えること、これが一番重要なことだというふうにどこの国でも教えられます。
日本では教えられません。
そしてセカンドステージがあります。そうか、君はそれがしたいのか。でも、ひとりじゃできないぞ。だれかに助けてもらわなきゃ。そのためには友達をつくらなきゃいけないな。友達をつくるには、君、魅力的じゃなきゃだめだぞ。さらに、友達がしてほしいことをしてあげれば、友達は君がしてほしいことをしてくれるぞ。言いかえれば、これが相互扶助であり、貢献、コントリビューションなんですけれども、
社会あるいは
社会性を媒介しないと本当は
自分がしたいことさえできない、
自分の幸せさえやってこないということを学んでもらう。つまり、これがセカンドプライオリティーになります。
この一番目と二番目を組み合わせたものが自立と相互扶助と言われる理念でありますが、これが
日本の幼児
教育や、あるいは
青少年教育でも同じでありますが、そこで教えられることは基本的にはありません。みんな仲よしという形であります。
三番目の切り口、学級崩壊の話をさせていただきます。
マスコミ的な扱いでは、
子供たちがおかしくなったということになっています。しかし、これは
社会科学的な常識からいうと間違った考えです。むしろ近代
学校教育が極めて特殊であって、この特殊な近代
教育が成り立つ条件が最近怪しくなってきた、そう考えなければいけません。そのような考え方は七〇年代の
社会科学において、特に
社会学や人文科学の一部においては常識化してきております。
あるいは
家庭がおかしいという言い方もあります。もちろん、おかしい
家庭はたくさんありますが、成熟
社会、つまり近代が成熟期に入れば、先ほど申し上げたような理由で
人間の感受性や想像力や行動の半径が非常に広がることによって、
一般に、
家庭や共同体の
教育力は低下せざるを得ません。したがって、特定の共同体や、例えば
家庭なら
家庭に
負担をかけ過ぎる、そのようなメカニズムは基本的に必ず無理を生じるような仕組みになっています。
時間がないのですっ飛ばしながら行きますけれども、
皆さん御存じかどうか、近代
学校教育には二つのモデルがあるとされています。
一つは軍隊と監獄です。
例えば準備体操をするときに、整列、気をつけ、前へ倣えとやります。例えばスイミングクラブで同じように準備体操がありますが、こういうことは一切ありません。つまり、これは準備体操にとって必要なのではありません。号令一下、規律正しく集合的に身体を動かしてもらうためにこのような軍隊的な規律が採用されています。現に、体育の実技の科目の九割以上は軍事教練から借り出したものであることは、もはや常識化しているはずでございます。
同じように、
学校教育のスタイル、
先生が高い壇上に立って、すべての
子供を見渡せる場所に立ちながら
教育をするようなメカニズム、これもそれ以前の
教育のシステムにはなかったものであります。これも、十九世紀のベンサムというイギリスの功利主義者が考えた効率的な監獄監視システム、つまり、いつ見られているかわからないというふうに思うので囚
人たちがびしっとするというシステムの基本的な応用編であるというふうに考えられています。
軍隊は、戦いに勝つためにこういう規律が必要です。監獄あるいは刑務所は、
社会的更生のためにこういう規律が必要です。
では、なぜ近代
学校教育で軍隊と監獄のメカニズムが採用されたのか。それは工場労働者を養成するためです。昔の伝統
社会であれば、雨が降ったりあらしになったりすれば、働くか働かないかは個人の自由、その人次第でありますが、そうなってしまっては工場のシステムは回りません。納期は守れません。当然のことながら、工場労働者としての振る舞いは伝統
社会のあり方とは全く違っています。そのような振る舞いを
子供たちにしてもらうために近代
学校教育というのは存在した。
日本以外の国でもそうであります。
ところが、一九七〇年代以降、我々の
社会は成熟
社会と呼ばれる新しいステージに入りました。それまでの近代過渡期とは違いまして、ここで三つの違いが挙げられていますが、例えば
社会の流動性は増大します。流動性が増大するというのは、簡単に言えばいろいろな
人間と会えるようになる、いろいろな組織に所属できるようになるということであります。そうすると、何かと一体化することよりも、組織から外れようが外れまいが、
自分は
自分であると言えるようなタイプの尊厳が必要になってきます。
さらに、生産時間よりも消費の時間が長くなってきます。生産時間、つまり工場労働者である時間が長ければ
教育はそれに言及するだけでよかったのですが、消費の時間の方が生産の時間よりも長くなれば、消費を通じて幸せになってもらうための
教育が必要です。それは、規律正しくびしっと振る舞うこととは全く無
関係な
教育であらざるを得ません。
さらに、このような成熟
社会になれば、今までの良質で安価な製品を大量につくるという工場労働に対する要請よりも、むしろ高付加価値、つまりイノベーティブなアイデアを上から下まで出してもらうことが重要になってきます。この点でも、協調性よりも個人的な試行錯誤が重視されざるを得ないような
状況になります。
きょうはどうも切り口だけで話が終わりそうでありますけれども、
最後に、愛国心、日の丸・君が代問題が昨今
国会などでも話題になっていますけれども、この問題を
最後に言及しながら、現在の
日本における
子供観あるいは
人間観にやや問題があるのだという
お話をさせていただきたいと思います。
人間の尊厳については二つの考え方があります。
一つは、大いなるものと一体化することが
人間の尊厳だという考え方です。あるいは、崇高なるものとの一体化こそが
人間の尊厳だという考え方です。もう
一つは、個人の責任でなされた試行錯誤の結果積み重なった自尊心、これこそが尊厳であるという考え方です。前者は十九世紀のドイツ国法学において洗練され、後者は十八世紀、十九世紀のイギリスの自由主義哲学において洗練されてきた考え方であります。
愛国心という場合に、実はこの二つの尊厳観に従った分岐があります。前者のドイツ国法学的な考え方では、まさにみずからが一体化するべき崇高なるものが国家であるという考え方です。したがって愛国心とはそういうものになります。後者は違います。後者は、各自が自由に試行錯誤するために、つまり自由に振る舞うために必要な制度、枠組み、これは歴史の中で血によってあがなわれた公共財であるという考え方です。したがって、そのような公共財を守るために命をかけることは崇高なことだ、つまり、個人の尊厳がまずあり、その個人の尊厳が担保されるために、場合によっては自己犠牲も含めた公共財への貢献が必要である、コントリビューションが必要であるという考え方です。
さて、
日本で愛国心という場合にどちらを教えるべきなのでありましょうか。あるいは、どちらを教えているのでありましょうか。ちまたの議論を見てみると、
日本で言うパブリック、公というと、必ず、国が一丸となったような共同性、つまり公イコール共同性というふうな
発想がいまだにまかり通っています。これは、
社会科学的な常識からいえば十九世紀以前的な考え方です。
近代
社会におけるパブリックとは、共同性ではなくて共生です。いろいろな共同体、家族、
地域社会に属する
人間が、あるいは異なる感受性や作法を持った
人間が、侵害し合わないように共生するために一定の想像力や一定のルールを必要としている、そのような想像力やルールの領域をパブリックというふうに呼ぶ、そういう常識になっています。
日本でパブリックという場合に一体どちらを教えるつもりでありましょうか。もちろん、
日本以外の
先進国は、愛国
教育、愛国心
教育をやっています。パブリックというものの重要性を教えています。しかしそれは、
日本でいわゆる保守論壇と言われるところで
一般に推奨されているような
教育とは全く質が違います。実は、そうした問題も、冒頭から申し上げている
日本の
子供観の問題と
関係しています。
人間は、この成熟
社会においては、以前のように、これさえすればおまえは幸せになる、これに一体化すればおまえは幸せになるという言い方では無責任であります。個人の幸いは個人の試行錯誤の中でつかみ取ってもらうしかない
社会、これが成熟
社会であります。
したがって、
教育というものに求められる態度は、従来の共同体的同調を支援するタイプの
教育ではなくて、安全な枠の中で、しかし一定のリスクを伴いながら試行錯誤をする、言いかえれば、失敗から
自分が
自分であるとはどういうことなのかを学んでもらうための自己決定支援型の
教育が必要なのであります。
自己決定支援型の
教育がパブリックマインドと反するのだというおかしなことを言う
人たちが
日本ではあふれていますが、とんでもありません。
日本以外の
先進国では、自己決定とパブリックマインドは全く両立しています。
子供の自己決定を重視すると親は何も言えませんねなんというふうなばかなことを言う親がいっぱいいますが、大笑いです。
日本以外の国は、
子供の自己決定ははるかに重視されていますが、親は
子供にがんがん
日本以上に言います。それはなぜかといえば、
最後はおまえの問題だということがあるからですね。逆に、協調性、和を重視する
日本の親子は、のりを壊さないように、
子供にちゃんとしたことが言えません。これが、共同体的なメンタリティーが成熟
社会で陥らざるを得ない逆説的なわななのであります。
私の話は以上です。(拍手)