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1999-04-27 第145回国会 衆議院 青少年問題に関する特別委員会 第4号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十一年四月二十七日(火曜日)     午前九時十分開議   出席委員    委員長 石田 勝之君    理事 小野 晋也君 理事 河村 建夫君    理事 岸田 文雄君 理事 佐藤 静雄君    理事 田中  甲君 理事 肥田美代子君    理事 池坊 保子君 理事 三沢  淳君       岩下 栄一君    岩永 峯一君       江渡 聡徳君    大野 松茂君       奥谷  通君    奥山 茂彦君       倉成 正和君    小坂 憲次君       小島 敏男君    佐田玄一郎君       佐藤  勉君    実川 幸夫君       下村 博文君    水野 賢一君       目片  信君    石毛えい子君       坂上 富男君    松本 惟子君       山元  勉君    太田 昭宏君       旭道山和泰君    一川 保夫君       松浪健四郎君    石井 郁子君       大森  猛君    保坂 展人君  委員外出席者         参考人         (早稲田大学学         生)      乙武 洋匡君         参考人         (新潟大学助教         授)         (DCI日本支         部事務局長)  世取山洋介君         参考人         (東京都立大学         人文学部助教授         )       宮台 真司君         衆議院調査局青         少年問題に関す         る特別調査室長 大久保 晄君 四月二十七日  青少年健全育成に関する法律の制定に関する陳情書外二件(第一七六号) は本委員会参考送付された。 本日の会議に付した案件  青少年問題に関する件     午前九時十分開議      ――――◇―――――
  2. 石田勝之

    石田委員長 これより会議を開きます。  青少年問題に関する件について調査を進めます。  本日は、参考人といたしまして、早稲田大学学生乙武洋匡君、新潟大学助教授DCI日本支部事務局長世取山洋介君、東京都立大学人文学部助教授宮台真司君に御出席をいただいております。  この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人各位には、青少年問題につきまして、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。  次に、議事の順序について申し上げます。  まず、乙武参考人、世取山参考人宮台参考人の順に、お一人十五分程度で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答えいただきたいと存じます。  念のため申し上げますが、御発言はすべてその都度委員長の許可を得てお願いいたします。また、衆議院規則の規定により、参考人委員に対して質疑ができないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。  それでは、まず、乙武参考人にお願いいたします。
  3. 乙武洋匡

    乙武参考人 おはようございます。  とても場違いなところに来てしまったのではないかなと思っていて、しかも、このメンバーを見たときに、でも大学先生がお二人いらっしゃるから最初に様子を見て参考にしようと思っていたら、何か一番最初にされてしまってどうしようかなと思っています。衆議院話し方マニュアルでもあればいいんですけれども、そんなものも当然あるわけないので、何をお話ししようかなと。もし何かしゃべり方とかで失礼な部分があれば、何分学生なもので、お許しいただければと思います。  僕なりのというか、僕にしかできないお話は何だろうというふうに考えたときに、まずは、やはり障害者立場としてのお話を少しさせていただこうかなというふうに思っております。  まず、障害者一般地域学校へ行くということに関する話なんですが、通常、障害を持つ人は養護学校へ行ったり、それから盲学校聾学校へ行ったり、特殊な教育を受けるわけですね。それが最近ようやく変わりつつあって、障害を持っていても地域学校へという動きが少しずつは見られてきたのですが、それでもまだまだ分離教育という方が多いんですよね。  それのメリットというのも当然ありまして、例えば視覚に障害を持っている方などは、点字教育を受けたりですとか、それから白杖の使い方を覚えなければならなかったり、普通教育では学べないそういった問題というのも多々あるんですね。ただ、だからといって、すべて学校を分けてしまおうというのはちょっと短絡過ぎかなという気がしているんです。統合教育をしながら特殊な教育も受けるといった部分も十分可能なことだと思うんですね。  また、逆に、同じ場で障害を持つ子と持たない子が教室をともにするということのメリットの方がはるかに大きいと僕は感じているんですね。障害を持っている子でも、子供のころは施設などに預けてしまえばそれで済んでしまうのかもしれませんが、やはり当然彼らも社会に出ていくわけですよね。社会というのは障害を持っている人たちだけで成り立っているわけではなく、障害を持っていない人がいて、障害を持っている人がいて、それが社会ですよね。  ということは、学校時代にも、やはり学校というのも一つのコミュニティーですから、障害を持っている子と持っていない子が一緒に学ぶということが必要なのかなという気がするんですね。障害を持っていない子だけが集まってずうっと育っていってしまうと、やはり社会性地域性といったものが身につかなくなってしまうと思うんですね。  皆さん子供のころというのを少し思い返してみていただきたいのですけれども、いろいろないわゆるガキンチョがいましたよね。すごく個性的ないろいろな子がいたと思うんですね。その個性がぶつかり合うからこそ自分がいろいろなものを感じることができると思うんですよ。こいつおもしろいな、この人はこういう考え方をしているんだと。それが、同じような人間ばかりが集まったのでは子供の発育に対しては余りよくないのかな、そういう気がするんです。  もちろん、障害を持った人がいわゆる障害を持っていない皆さんの中に入っていけば、当然、できないこと、御迷惑をおかけしてしまうこと、手伝っていただかなければならないことというのも出てくるわけですね。ただ、それは逆に、皆さんの中でも同じことだと思うんですよ。  障害を持っていない子同士の中でも、例えば勉強のできない子っていますよね。でも、できる子が教えてあげたりしますよね。おしりが重たくて逆上がりがなかなかできない子もいますよね。でも、それは鉄棒の得意な子が休み時間などに教えてあげたりしますよね。それと全く同じように、車いすの子がいたら後ろの子が押してあげればいいし、目の不自由な子がいたら隣の子が耳打ちしてあげてもいいし、かわりにノートをとってあげてもいいと思うんですよね。そういった特別な配慮ではなく自然な助け合い、そういったことで十分僕は対応していけると思うんです。  それから、もちろん、障害を持った子供一般学校に入ると担任先生負担が大きい、そういった声が上がります。もちろん全く負担がかからないというわけにはいかないでしょうが、担任先生の工夫があったり、また補助教員を一人つけたり、そういった対応でも障害児一般学校で受け入れるといったことは十分可能なのかなというふうに僕は考えています。  また、何よりも、障害を持ったその本人よりも、僕は、障害を持った子が周りクラス教師、そして学校に与える影響というのがすごく大きいのではないか、そういうふうに感じているのです。これはもちろん、僕自身も小中高養護学校ではなく一般学校に通っていましたが、自分の例だけでなく、周りに対して与えるよい影響という意味では、ほとんど、十中八九と言っていいほど周りにいい影響を与えているのです。  例えば、自分の例で本当に申しわけないのですが、僕が小学校に入った一年生のとき、六年生の委員たちが、一年生を迎える会ということでマルバツゲームを毎年やっていたのですね。そのときに、いつもは、マルだと思う子は体育館の右側へ移動して、バツだと思う子は体育館の左側に移動してというゲームだったのが、その年だけ、マルだと思う子は首を縦に大きくうなずいて、バツだと思う子は首を大きく横に振ってというふうに変えたのですね。それを先生の方に六年生が報告したときに、先生は、それじゃだれが正解したのだかわからないでしょというふうにおっしゃったらしいんですね。そうしましたら、その六年生のお兄さんは、でも先生、ことしは乙武君がいるんでしょう、だから、そうしないと彼はみんなと一緒には参加できないじゃないというふうに言ったんですね。  小学校六年生、まだ十一歳か十二歳ですよね。その子供が、車いすの子がいるんだから首を縦に振るか横に振るかということでの意思表示をしないと一緒にできないでしょうと。そういう感覚というのは、やはり障害者障害者だけではなくて困っている人、みんなで何かいろいろ考えてあげなければいけない子、そういう子が中に一緒にいるからこそ出てくる発想なのかなというふうに先生はそのときに感じたというふうにおっしゃっているんですね。本当に今のは一例であって、僕も、小学校のときの担任先生に、おまえがいたことですごく思いやりのあるいいクラスになったんだよというふうに言われました。  そういったことで、障害を持つ子が一般学校で学ぶというのは、障害を持つ本人にも、それから周り子供教師学校に対する影響、どちらの意味を考えてもプラスなのかな、ぜひとも、お互いのためにも統合教育というものを進めてほしいな、僕はそういうふうに考えています。というのも、僕は、障害というものを余り特別なものと考えていないんですね。  皆さん、この部屋の中を見回していただいただけでも、いろいろな方がいらっしゃいますよね。全く同じ人間っていないじゃないですか。それはこの部屋だけでなくて、日本じゅう見回してもそうですし、世界じゅう見回してもそうですし、もっと言えば、人類が誕生してから今まで考えても、自分と全く同じ人間っているはずないですよね。  ということは、体格だけ見ても、背の高い人もいれば背の低い人もいて、太っている人もいればやせている人もいて、色の黒い人もいれば色の白い人もいて、まゆ毛の太い人もいれば細い人もいるように、とにかく見た目だけ見てもいろいろな人がいるわけですよね。そうしたら、そんな中に、手足が短くなっちゃったやつもいれば、耳がちょっと遠い人がいても何ら不思議はないと思うんですよね。それを障害を持っている人と持っていない人というふうに分けるのに、僕はちょっと違和感を覚えているんです。  だからそれを、もし皆さんが、うん、全員が違って当たり前なんだよね、じゃ、その全員が違って当たり前なんだから、みんなが一緒の場で学ぶこと、遊ぶこと、給食を食べること、同じで当たり前だよねという感覚をもし持っていただけたのならば、特殊教育というよりも、やはり一緒にともに学んでいく中でどう対処していくのかという発想が生まれていくのかなというふうに感じています。そこは一番僕の訴えたい部分であります。  特に、中学校いじめという問題が注目されていますよね。話に聞くと、いじめ問題のほとんどの原因が、あいつはおれらとここが違うからといったことが原因で起こるいじめが大半だというんですね。もし、みんなが違って当たり前なんだ、障害を持っていてもいなくても、勉強ができようとできまいと、国籍日本だろうと、海外の国籍を持っていようと、みんな違って当たり前なんだ、そういった感覚子供たちが持ってくれれば、今問題になっているいじめの半分ぐらいは解決してしまうのかなと僕は思っています。  ただ、その子供たちに、みんなが違って当たり前、そういった感覚を持ってもらうには何が大切か。やはり僕ら大人の責任が大きいと思うのです。  どういうことか。大分昔に比べれば薄れてきたとはいえ、まだまだ学力偏重主義というのは根強く残っているんではないでしょうか。例えば、皆さんにもお子さんが当然いらっしゃると思うんですが、この中で、保護者会というものに参加されたことある方、いらっしゃいますでしょうか。あっ、質問しちゃいけないんですね、済みません。  保護者会というものに参加するときに、例えば自分お子さんが、クラスで一番勉強はできるけれどもクラスで一番駆けっこは遅い。逆に、クラスで一番勉強はできないけれどもクラスで一番駆けっこは速い。どちらが鼻が高いかというと、多分皆さんクラスで一番勉強ができる子のお父さん、お母さんであった方が胸を張って鼻高々と教室へと足を踏み入れていくと思うんですね。逆に、せっかく自分お子さんクラスで一番駆けっこが速かったとしても、もし、そのお子さんクラスで一番勉強ができなければ、済みません、済みませんと言ってクラスに入っていくと思うんですね。多分、皆さん同じだと思うんです。でも、おかしいですよね。勉強ができるというのも、駆けっこが速いというのも、一つ特徴、その子の持ち味ですよね。やはり大人の方で一つ価値観、物差しというのを子供の方に押しつけてしまっているのかなという気がするんです。  当然、皆さんだけではないと思うんですが、子供勉強しなさいと言う親はいても、おい、ちゃんと筋トレしているか、駆けっこの練習しているか、余りそういう親は聞いたことないと思うんですよね。それもやはり、とりあえず勉強ができてくれればある程度は満足、勉強ができればうちの子はいい子という感覚がどこかにあるのかなという気がしているんです。もっといろいろな価値観子供に持たせてあげてもいいのかなという気がするんです。  もちろん、勉強ができるというのもその子のよさだと思います。駆けっこが速いというのもその子のよさだと思います。ただ、それだけではない。なに、おまえ、クラスで一番あいさつがよくできるんだって、それでもいいと思う。クラスで一番お裁縫が上手なんだってね、家庭科先生が褒めてたよ、それでもいいと思います。もっと言えば、何だ、おまえ、クラスで一番芸能界通なんだってな、そんなことでもいいと思うんです。  子供って、やはりある意味単純なもので、何か一つ自分のことを褒められると、自分自信を持つんですよね。そして、僕ってすごいんだ、じゃ、ほかのことも頑張ってみようかな、そう思えてしまうものなんですよね。それが、何だ、おまえ、勉強できないのか、だめだなあ。ああ、自分はだめなんだ、僕は何をやってもだめ人間なんだ。それが中学生に入ると、どうせおれなんてでき悪いし、となってきてしまうんですよね、やっぱり。  ですから、僕は、障害者の問題を考えるに当たっても、それからいじめの問題を考えるに当たっても、みんなが違って当たり前、この感覚子供のころから持ってもらうことが大切だと思っているんです。  そして、子供にその感覚を持ってもらうためには、僕ら大人が、特に学力という一つ価値観子供に押しつけないこと。その子一人一人のよさは何なんだろう、それを大人が見つけてあげて褒めてあげる、その子に自信を持たせてあげる、子供たち一人一人に自分のよさって何なんだろうということを教えてあげる、見つけてあげる、それが大切なのかな、僕は、今回いただいた十五分間の中で、一番お話ししたかったのはその部分であります。  最後になりましたが、本当にまだ年端もいかぬ学生の身分である私をこのような会に呼んでいただきまして、本当にありがとうございました。(拍手)
  4. 石田勝之

    石田委員長 どうもありがとうございました。  次に、世取山参考人にお願いいたします。
  5. 世取山洋介

    ○世取山参考人 世取山と申します。  きょうは、参考人として意見陳述の機会を与えていただきまして、ありがとうございました。  配付した資料を説明いたします。  DCI日本支部というピンクの封筒に資料が入っていますが、これは話の最後のところで御紹介いたしますので、今は開かなくても結構です。レジュメと、もう一つ外務省から取り寄せた国連子ども権利委員会からの最終所見のコピーを皆様のお手元に配付してあります。最初は、この二つの資料を専ら資料として使ってお話をさせていただきたいと思います。  さて、私は、大学に所属する研究者として、教育法子供権利に関する法、特に一九八九年に国連総会において採択されました子ども権利に関する条約研究専門としております。また、ボランティアベースで、子供権利専門とする国連NGOであるディフェンス・フォー・チルドレン・インターナショナルの日本支部事務局長として、子ども権利条約日本における実現を目的とした運動に参加しております。  DCI本部は、一九七九年の国際児童年に設立されて、子ども権利条約の起草に大きな影響力を与えたNGOです。  DCI日本支部の方は、九四年に設立され、それ以降、この条約日本における定着を目的とした活動を行ってきました。九六年には、DCI事務局団体となって「子ども権利条約 市民NGO報告書をつくる会」が結成され、私もこのつくる会の事務局長を九六年から九八年まで務めてまいりました。このつくる会は、日本政府子ども権利条約実施状況に関する初回報告書国連に提出したことに伴って、この条約実施監視機関である国連子ども権利委員会による初回報告審査を実効的なものとするために結成されたものです。  このつくる会の目的の第一は、政府報告作成への市民NGO参加を実現すること、そして第二には、条約実施監視機関である国連子ども権利に関する委員会代替的情報市民NGOから提供することにありました。つくる会には百三十のNGOと二百人の個人が結集し、九七年六月には、これはそのレポートの日本語訳の出版されたものですが、「豊かな社会日本における「子ども期」の喪失」という題名の報告書国連に提出させていただきました。「子ども期」というのは、子供時代意味です。  きょう意見陳述をさせていただくに当たって、この青少年問題特別委員会が、国会史上初めて子供の問題を専門とする委員会として設置されたということに実は私、大いに注目しているということをまずは正直に白状させていただきたいというふうに思います。  子ども権利条約第三条によりますと、国会も含めて、国の行うあらゆる活動において、子供の最善の利益が原則として第一義的に考慮されなければならないことになっておりますが、しかし残念なことに、子供選挙権を持っておりません。したがって、国政においてその利益を十分に考慮されないグループとなっておりました。したがって、国会の中に子供というグループに十分に光を当てる専門の組織がどうしても必要であるというふうに常日ごろから感じておりました。  この委員会が、子供に関する政策子供権利という観点から包括的に検討する委員会になるのかどうかわかりませんが、そうなるにせよ、あるいはいわゆる青少年問題にその検討対象を限定するにせよ、いずれの場合であったとしても、日本子供が置かれている実態に関する包括的な把握と評価がその前提の作業にならざるを得ないものと私は考えております。  そして、私がきょう強調したいのは、既に同じような作業子ども権利条約実施監視機関である国連子ども権利委員会によって行われている、そういう事実です。国連子ども権利委員会は、昨年、九八年五月に日本政府初回報告審査を行い、六月には、日本子供が直面している困難の特定とその打開に関する提案最終所見という形で明らかにしております。それは、外務省から取り寄せた資料としてお手元に配付してあります。  衆議院のこの委員会が将来どのような範囲でその検討対象を設定するにせよ、国連による最終所見を踏まえた活動条約を批准した国の国会に設置された子供の問題を専門とする委員会に求められるはずで、結論を先に申し上げますが、第一に、最終所見委員会による審査を十分に踏まえて、第二に、NGO及び子供との協力に基づいて、そして第三に、日本子供政策の包括的な見直しをその役割にする必要性がこの委員会にはあるというふうに思います。  そして、その際、乙武君の先ほどの意見陳述とも絡みますけれども、豊かな子供期あるいは豊かな子供時代、つまり、子供子供であるということは、一体どういう状態にあれば豊かだと我々は考えることができるのか、そのことについての認識を、ここにいらっしゃる委員各自が確立する必要がぜひともあるというふうに私は実感しております。  前置きが長くなりましたが、以下、本論に入らせていただきます。  昨年、九八年の五月二十七日と二十八日に国連子ども権利委員会による日本政府初回報告審査が行われ、日本子供の直面している困難は何か、また、日本政府の施策の実効性についての包括的な審査が行われました。そして、この審査を踏まえて、六月には子ども権利委員会によって最終所見が採択されております。お手元には外務省による仮訳、この仮訳では最終見解となっておりますが、それを配付してあります。  この最終所見は、「序論」「肯定的要素」「主な懸念事項」「提案及び勧告」の四つのパートから構成され、全四十九パラグラフから成立しております。そして「主な懸念事項」として、第六パラグラフから第二十七パラグラフまで二十二項目にわたる問題が指摘され、また、それにほぼ対応する形で二十二項目の「提案及び勧告」が第二十八パラグラフから第四十九パラグラフまで示されているという形式をとっております。  この最終所見については、委員皆様にはぜひともこの委員会が終わった後熟読していただきたいのですが、私の方で、この最終所見特徴として、とりあえずここでは次の三点だけを指摘しておきたいと思います。  第一は、この条約を実施する一般的な体制、具体的には実施調整機関実施監視機関条約の広報、研修などが不十分であるという評価国際社会によってなされているということ。  第二は、教育法児童福祉法少年法、そして障害を持つ子供に関する法などの個別の法領域が、この条約基本原理と対立している、これは教育制度の場合ですが、あるいは、それに照らして不十分であるとの実に厳しい評価が下されているということです。  そして第三は、これは最も重要な点で、きょう一番強調したい点なんですけれども、そしてまたこれは私の表現ですけれども、大人子供人間的関係が全体として危機的な状況にあるとでもいうべき評価国際社会からなされているということです。  この最終所見の第十三パラグラフにおいて、次のように書かれております。児童一般が、社会のすべての部分、特に学校制度において、参加する権利を行使する際に経験する困難について委員会は懸念する。第十五パラグラフにおいては、家庭学校児童福祉施設における子供プライバシー保障が不十分であると指摘され、さらに第四十五項においては、学校における体罰が除去されるべきだとされ、さらに、家庭及び養護施設における体罰が法禁されるべきだ、そういう提案がなされております。  実は、条約の十二条に規定されている意見表明権というのは、ありのままに受け入れてくれるような人間的関係保障するためにこそ存在しているというふうに考えるわけですが、日本には、子供をありのままに受け入れてくれる人間的関係がすべての側面において困難に直面している。さらに、自分らしくいられる空間を保障するためにあるプライバシー保障が十分ではない。  では、子供は一体どういう関係に置かれているのかといえば、それは大人による暴力である体罰によって支配されている、実はこういう指摘がなされているわけでして、飢餓があるわけではない、あるいは戦争があるわけではない先進国大人子供との間の関係について、これほどきつい評価というのは存在しないというふうに私は考えておりまして、一体この三つの要素に何を加えればより厳しい評価になるのか、私には全く理解できないほど厳しいものです。  条約の基本原則に照らして不十分あるいはそれと対立する法制度のもとにおいて、大人子供との人間的な関係が危機的な状況にあるというのがこの最終所見を貫く基本的なトーンであると私は理解しておりますが、それが最もよくあらわれたのは、教育に関して委員会が行った審査でした。  最終所見において教育に関連する部分は幾つかありますが、直接教育制度に対する評価を明らかにしているのは第二十二パラグラフです。ここではこう書いてあります。  高度に競争的な教育制度のストレスにより、子供が発達障害にさらされていることを本委員会は懸念する。発達障害、これは原語ではディベロプメンタル・ディスオーダーという言葉が使われておりますが、実は、発達障害というとこれは病気のように感じるわけですけれども、しかし、より適切な訳は発達のゆがみである、もっと広い概念であるというふうに私は理解しております。いずれにせよ、本来であれば人格の全面的な発達の実現を目的とすべき教育が、そうではなくて、高度なプレッシャーによって子供に発達のゆがみを与えている、こういう評価がなされているわけですね。  しかも、二十二パラグラフを読んでみますと、第三条、第六条、第十二条、第二十九条、第三十一条、これはさまざまなものを規定したものですが、これらから全面的に教育制度を見直せというふうに書いてあるわけですね。実は、ある一国の先進国教育制度全体をこれほど厳しく評価したもの、あるいはこれほど基本的な問題点を抱えているものとして評価したのは、国連子ども権利委員会史上初めてのことでして、これは相当深刻に受けとめる必要があるというふうに思うわけです。  時間があれば、子ども権利委員会が、教育にかかわって、審査においてどのような発言をしたのか具体的に紹介したいのですが、時間がありませんのできょうはそれはしません。それでもなお、あえて指摘しておきたいのが、体罰いじめや不登校などの問題の原因が、国による過度で厳格な教育のコントロールにあるということが何度も指摘されていたということ。そして、では、今の教育制度をどうやって変えればいいのかということについては、子供の参加を実現してこそが教育制度是正の方策であるという意見が、何度も何度もジュネーブでなされていたということです。  昨年の審査では、昼休みの時間を使いまして、DCI日本支部子ども委員会国連委員会に対してプレゼンテーションを行ったのですけれども、そこでは、不登校、校則に反対している子供や、あるいは施設に暮らしている子供がみずからの声で発言したわけです。  それを受けてある委員の一人が、いじめ、自殺、登校拒否を解決する一つの方策は、学校においてさまざまなクラブを組織し、学校管理者であろうと親であろうと、大人意味のある形でかかわり合うことについて、若者たち、ザ・ヤング・ピープルと言っているんですけれども、これは昼休みに発言をしたDCI日本支部子供たちなんですけれども、若者たちが示したコメントによって示唆されているという発言を行ったということについては、ここで端的に指摘させていただきたいと思います。  さて、以上のような私の議論のスタイルに対しては、おまえは外圧を利用するつもりなのかといった疑念も当然生じようかと思います。しかし、委員皆様には、今回の審査最終所見は決して外圧などではなくて、国内のNGO国連子ども権利委員会、さらには政府の三者が、その固有の責任を十二分に果たし対話を行った結果生まれたものであるということ、特に、日本の国内のNGOから提出された問題提起に対する国連からの応答という実質を持っているということを理解していただきたいというふうに思っております。  私の意見陳述の冒頭で、国連審査にあわせてつくる会を結成し、九七年に「豊かな社会日本における「子ども期」の喪失」というレポートを提出したことは申し上げました。  さて、この「豊かな社会日本における「子ども期」の喪失」というタイトルのもとに私どもが主張しようとしたことは、第一には、この子ども権利条約は、全世界のすべての子供に、一人一人のすべての子供に豊かな子供時代保障することを目的としているはずだということ。そして第二には、発展途上国においては、貧困、戦争、飢餓あるいは児童労働によって子供から子供時代が奪われているのに対し、日本においては、競争主義的な学校制度のもとにおいて学力競争とよい子競争を子供が強制される結果、子供がありのままに受け入れられる人間的関係、私どもはそれを居場所として表現いたしましたが、それを奪われていることによって子供期を喪失しているのだということです。  子供時代とは、子供人間としての成長、発達を遂げ、それが保障されるべき時代ということになりますが、実はこの子供人間的な成長、発達のためには、自分をありのままに表現しても、それをそのまま受容してくれる大人との文字どおりの人間的関係が不可欠なはずで、十分に大人によって受容されて、これは大人に大切にされてというふうに言いかえても結構なんですが、そうして初めて子供は自由に自分を表現し、あるいはその関係の外で自由に行動することができるようになります。そして、このような受容と、あるいは依存と言ってもいいんですけれども、依存と自由との間のダイナミズムの中で、かけがえのない人間として社会の中にそのポジションを見出すことができるのだというのが私どもつくる会の主張のベースとなっておりました。  かけがえのない人格としての全面的な発達が、この条約の第六条によって子供権利の基本として位置づけられているし、また、意見表明権を規定している条約の第十二条は、ありのままに受け入れられる人間的関係保障するものとして理解されると国連に対して主張いたしました。  そして、既に申し上げましたように、そのような人間関係を奪っているのは、二重の意味で競争主義的な教育制度と、それに同調している親であると言わざるを得ず、自分を押し殺すことに疲れ果てた子供は、そうすることを強制する教育制度から逃げるか、これは登校拒否ですが、さもなくばそれを破壊するか、これは一時問題となったナイフ事件であり、また近年増加を続けている校内暴力ということになりますが、そうするしかないという状況になっていることを端的に国連に対して報告いたしました。  以上の枠組みは、多くの委員の注目を引き、パーソナルトークではありますけれども、これで先進国審査する場合の枠組みがわかったという実に高い評価を受けることができました。そこで、委員皆様には、子供期の喪失、居場所の喪失という観点から、最終所見をぜひとももう一度読んでいただきたいというふうに思っております。  もう時間がありませんので、まとめに入ります。  この青少年問題特別委員会に対してお願いしたいことは、これまで積み上げてきた国内のNGO、政府、そして国連との間の継続的な対話の実績の上にこれからの活動を展開していただきたいということです。  昨年十二月に、DCI日本支部の招請で、日本審査のときの議長であったカープ委員、イスラエルの法務省の副検事総長ですけれども、カープ委員が来日し、十二月七日に議員会館において、国会・政府と市民NGOとの対話集会を、カープ委員というのは女性なんですけれども、彼女の出席のもとに実施いたしました。政府関係者約二十名、超党派の議員、正確な人数はちょっと今忘れてしまったのですけれども、多分二十名弱、そして市民NGOの代表六十名が参加して、勧告の実現の仕方についての議論を行いました。  実は既に、アンオフィシャルな形ではありますけれども、国会議員も国際社会との間の対話に参加しているのですから、このオフィシャルな委員会皆さんもぜひともこの対話の中に参加していただき、それを発展させていただきたいというふうに思います。そして、さきの審査において指摘された、NGOとの緊密な協力関係子供の参加をベースとしながら活動をされることを切に期待しております。  この封筒の中に入れましたものを最後に説明させていただきますが、これは、権利条約DCI最終所見審査についての内容を実にわかりやすくまとめたもので、これはDCIにいらっしゃる普通のお母さんが自分の手でいろいろな資料を見ながらまとめたもので、多分非常にわかりやすくできているというふうに自負しております。そして、この「国連子ども権利委員会による日本政府への最終所見に基づく市民NGOから政府への要請集」というのは、勧告を受けて、草の根で働いているNGOが一体どういうことを政府に実現してもらいたいか、その希望を提出したものをまとめたものです。ぜひともこういったものを参考にされて、これからの委員会活動をしていただきたいというふうに本当に切に願っております。  御清聴ありがとうございました。(拍手)
  6. 石田勝之

    石田委員長 どうもありがとうございました。  次に、宮台参考人にお願いいたします。
  7. 宮台真司

    宮台参考人 おはようございます。宮台真司と申します。  私は、もともと理論社会学、数理社会学が専攻でございましたけれども、自分の興味もありまして、戦後サブカルチャー論、宗教論、そして戦後教育論、あるいは青少年の例えば援助交際、薬、その他ストリートと言われる場所での、あるいはコミケットとか言われる同人誌即売会などの場所でのコミュニケーションをフィールドワークしてきた、そういう者でございます。  きょうの私のテーマは、戦後の日本教育一つのモードになっていた協調性重視型の教育の持っている問題点を指摘することであります。私の前にお話をされたお二方、乙武参考人、世取山参考人お話を聞きまして、「切り口」というふうに書きましたこのレジュメの冒頭にあります話に、もう一つ新しい切り口を加える必要があるというふうに感じましたので、それからまずお話をいたします。  乙武参考人は、なぜ日本で人それぞれが違うのか、子供がそれぞれ違うのかということを子供たちにわかってもらう教育がなかなかうまく進まないのかという問題提起があり、世取山参考人の方からは、何ゆえにこの日本で、国連の、とりわけ先進国では当たり前になっている子ども権利条約の基本精神がなかなか理解されないのかという問題提起がありましたが、そのことに関連する問題であります。  今国会で成立が予定視されている児童買春・児童ポルノ禁止法案(通称)がございます。これについては、昨年九月に原案が出されて以降、私、議員会館でシンポジウムを開かせていただいたり、いろいろなロビー活動をさせていただきまして、原案の持っている問題点をいろいろ指摘させていただきました。  それで、今国会に提出されました修正案を見ますと、私たちが主張していた、最低限四点だけ修正をしていただきたいという部分が基本的に盛り込まれているわけです。この基本的な修正点四点ということをお話しいたします。  まず第一は、法律の文章から健全育成という言葉を削除することです。二番目は、児童ポルノ、チャイルドポルノの定義の中から漫画やアニメーションを含めた絵を排除することです。三番目に、単純所持規制、持っているだけで捕まる、そういう条項があったわけですが、それを削除することです。そして四番目に、地方自治体に存在する、通称淫行条例や淫行規定と呼ばれているものについて、これを効力停止するということであります。この四点は、基本的にある程度入れられたというふうに思っております。  なぜこの四点が修正されなければならないというふうに私が、あるいは私たちが考えたのかということをお話をさせていただきます。  先進各国は、日本以外というふうにお話しする必要がありますが、七〇年代以降、セックス、性に関する規制措置を行う場合の基本理念は、以下のように変わってきました。  すなわち、それまでは、秩序、よき秩序を守るために性を規制する必要があるという観点であったものが、人権を守るために、あるいは人権侵害を抑止するために一定の規制措置を求める必要があるというふうに変わったわけであります。簡単に言えば、秩序重視型から人権重視型ということになります。  したがって、一九七〇年代以降、先進国の大半は、アメリカを除きますけれども、売買春は合法化されてきています。それ以前は、売買春は秩序に反する振る舞いとして禁止されてきたわけですが、七〇年代以降、とりわけ成熟社会になってまいりますと、もちろん人身売買はいけないし、性虐待はいけないし、意思に反した拘束はいけないに決まっているわけですけれども、売買春それ自体が直ちに人権を侵害するわけではないということになりますから、先ほど申し上げたような基本理念の変化があれば、売買春は合法化の方向に向かうわけであります。  本質的な話を申しますと、例えば、青少年の売買春、これをどう考えればいいのか、援助交際をどう考えればいいのかということに関する問題です。  先ほど申し上げました児童買春・児童ポルノ禁止法案、これはもともと、一九八九年の子ども権利条約国連総会採択を機に、子供権利を守るという観点から、幾つかの国で不十分な、子供の性にかかわるさまざまな権利の保護に関する法的な施策を整えてほしい、そういう国連からの要請というか期待に対して、先進国の中で日本だけがそのような趣旨に沿う法整備を行ってこなかったために、一九九六年の通称ストックホルム会議日本が非常に強く批判され、国会議員の方々が大恥をかくという事件があったわけであります。  それを機に、児童買春・児童ポルノを防止する法案をつくらなければいけないということになったのでありますが、そのような法案作成プロセスで、なぜかこれが援助交際禁止法案の趣旨に変わっていってしまうわけです。言いかえれば、子供権利の保護という観点からよき秩序を維持するという観点に、なぜか道徳主義的に変化をしてしまったわけであります。これがつまり本質的な問題であるわけです。  一般に、先進国の常識では、以下の四つの問題は区別されます。  つまり、売買春のよしあし。第二は、青少年――青少年というのは、ここでは性的合意年齢に達した、日本の場合でいえば十三歳以上、法的成人に達していない、例えば児童福祉法上児童とみなされる十八歳未満、十三歳以上十八歳未満というふうにお考えください。青少年がセックスをすることのよしあし。そして三番目が、青少年が売買春にかかわることのよしあし。そして四番目が、性虐待のよしあしです。  ちなみに、十三歳未満の性的合意年齢に達していない少女や少年を相手にした性行為は、これは性虐待に分類されます。基本的に、八九年の子ども権利条約以降、各国で期待されていた性に関する規制措置は、この性虐待に基本的に照準が合っていたというふうにお考えくださるといいわけです。  先ほど申しましたように、先進国では売買春は、七〇年代以降、合法化の流れです。青少年がセックスをすることについては、これは、国連加盟国あるいは先進各国は、基本的には性的合意年齢を下げる方向で、つまり青少年のセックスを認める方向で推移しています。そして性虐待については、日本よりも他の国ははるかに重罰、一般的に重罰であります。  では、青少年が売買春にかかわることはどうか。これは、規制をするべきだというふうに国連子ども権利委員会から各国に勧告が出されています。  青少年が売買春にかかわることが規制されなければいけない理由はなぜでしょうか。これは、売買春がいけないからではありません。青少年がセックスすることがいけないからではありません。性虐待がいけないからではありません。では、なぜこれはいけないんでしょうか、というふうに質問してはいけないらしいんですが、私の方でお答えをいたします。  これはつまり、子供というのがどういう存在なのかということに関する基本理念と関係しているわけです。彼らが、つまり青少年が見習い期間である。簡単に言えば、自分たちの責任でなされた試行錯誤によって自分自身の尊厳や自尊心を獲得していくべき期間だというふうにみなされているからであります。  売買春は、一般的に大変に金銭的な誘因、インセンティブが強いですから自由な試行錯誤を阻害する可能性が高いです。さらに、年齢が下であれば、年長者の年齢による優越的な地位の利用によってさまざまな問題を受けやすい可能性があります。例えば、交渉力が不足しているがゆえに、自由意思に基づく契約といいながら理不尽な条件をのんでしまったり、契約不履行に抗議できなかったりする可能性があります。さらに、問題解決能力の問題があり得て、例えば妊娠や、つまり望まない妊娠や性感染症を自分で解決できないために、周りを巻き込み、そのプロセスで自分自身も傷ついてしまう可能性があるわけです。  そのような自由な試行錯誤が阻害される可能性、言いかえれば、青少年期、試行錯誤期、見習い期にある彼らに自由な試行錯誤をしてもらうために、つまり自由のために、青少年期の売買春は禁止されるべきだという理念になっているというふうにお考えいただきたいと思います。これが第一の切り口です。  第二の切り口で、レジュメにあります「匿名メディア犯罪」と書いてあるところ、このお話をさせていただきます。  いろいろはしょりますけれども、例えば、マスコミ的な扱いでは、現代人は寂しいんですねというふうな言い方がよくなされます。しかしながら、これは的外れと言わざるを得ません。現代人ないし近代人は、一般的に寂しいのです。  それはなぜかといえば、これは社会学の基本常識ですけれども、昔の田舎にいる人間たちとは違って、近代人は、さまざまなメディアあるいは交通、移動を通じて、その想像力や感受性の地平を家族共同体や村共同体の外側に広げています。したがって、一つの家族の中で、一つの共同体の中で一緒に暮らしていても、各人は別々の内面を持っていることが当たり前です。したがって、家族で暮らしているからといってすべてを分かち合う、同じ村にいるからといってすべてを分かち合うということは到底不可能で、その分、孤独があるのは当たり前であります。問題は、寂しいかどうかではなくて、寂しい人間がだれを頼るかです。  日本は、これは余り意識されていないかもしれませんが、アメリカよりもどこの国よりも先駆けて匿名メディアが全国大に一般化した最初の国です。今から十五年前にテレホンクラブと言われる匿名メディアが全国大に一般化したことは、皆さん御存じのとおりです。これは、アメリカでインターネットが一般的に普及する五年以上前に普及しているわけです。日本は匿名メディア先進国です。あるいは、言いかえれば、日本は匿名メディアをとりわけ強く、特に若い世代が要求しているというふうに言うことができます。  つまり、この日本において問題なのは、寂しいかどうかではなくて、寂しい人間たちがいたとして、彼らが、なぜ親しい家族や親族や友人、近隣の人間ではなくて匿名の人間たちを頼るのか、なぜ匿名の相手でなければ心を開けないのか、こういう匿名的な親密さをめぐる問題であります。これを最初に伏線として申し上げておきます。  昨年来、特にことしになって明らかになりましたが、匿名メディア上での毒物配布であるとか、匿名メディアで出会った男性から眠り薬を飲まされて昏睡して死んでしまった女性の事件であるとか、こうしたことが話題になっています。匿名メディアが、あるいは悪い男がいろいろ批判をされています。それはそれでいいでしょうが、本質的な問題が忘れ去られています。  私たちは、例えば、小さな子供に、知らないおじさんについていってはいけませんとか、知らないおじさんからもらったものを食べてはいけませんというふうに言わなければならないことになっていたはずでありますが、これは、実際、子供にではなくて、まず大人に言わなければならない。  言いかえれば、この日本は、成熟社会であるにもかかわらず、この社会は昔の田舎とは違うわけです。どんな人間が、どういう感受性を抱きながら、何を考えて生きているのか必ずしもわからない社会になっています。みんな同じではありません。そうした基本的な感受性を持っていない大人が多過ぎるわけです。したがって、日本ではそのような大人たちによる協調性重視型、みんな仲よし教育学校でも家でも行われています。その結果、例えば匿名メディアで出会う人間がだれであるかわからないという基本的な警戒心というか、そういうものが失われています。  さらに言うならば、例えば伝言ダイヤルで昏睡させて女性を殺してしまったとされる容疑者でありますが、このまま放置したら死ぬかもしれないと供述したというふうに報道されています。これが真実であるといたしますと、死ぬかもしれないと思いながら、しかし放置したわけです。  こういう感受性を以前から私は、仲間以外は皆風景というふうに申し上げております。どういうことかというと、仲間は大事だけれども、仲間以外は人間も電信柱も缶からも全部同じであるというふうな感受性です。このような感受性は、ストリートにいる連中たちをフィールドワークすると、全く普通に当たり前になっているということがわかります。  私がみんな仲よし教育の弊害と言うのは、この問題とかかわるわけです。社会が複雑になれば、仲よくできる範囲には実際のところ限界があります。問題は、みんな仲よしではなくて、必ずしも仲よくできない人間たちとどのように共生するか、つまり侵害し合わないで、あるいは助け合って、相互扶助をしながら生きるかということであるはずです。基本的に、このようなタイプの教育日本でなされるということはありません。  例えば、私は幼児番組を評価する仕事も一方でやっていますが、先進国の幼児番組の中で、みんな仲よしという協調性重視型の番組をつくっているのはただ一国、日本だけであります。あるいはというふうに言うと時間がなくなりますのでやめますが、一般に、日本以外の先進国の幼児教育や幼児番組の理念は、自立と相互扶助と言われるものに基づいています。  ファーストプライオリティー、一番大事なのはインディペンデンシーですね、自立、独立であります。例えば「セサミストリート」などを見ればよくわかります。子供に、君は何がしたいのと聞くわけです。僕はこれがしたいんだと答えます。それがしたいんだったらみんなに言わなきゃ。言わなきゃ周りに伝わらないぞ。つまり、周りが何を言っていてもしていても、自分がしたいことを必ずちゃんと言えること、これが一番重要なことだというふうにどこの国でも教えられます。日本では教えられません。  そしてセカンドステージがあります。そうか、君はそれがしたいのか。でも、ひとりじゃできないぞ。だれかに助けてもらわなきゃ。そのためには友達をつくらなきゃいけないな。友達をつくるには、君、魅力的じゃなきゃだめだぞ。さらに、友達がしてほしいことをしてあげれば、友達は君がしてほしいことをしてくれるぞ。言いかえれば、これが相互扶助であり、貢献、コントリビューションなんですけれども、社会あるいは社会性を媒介しないと本当は自分がしたいことさえできない、自分の幸せさえやってこないということを学んでもらう。つまり、これがセカンドプライオリティーになります。  この一番目と二番目を組み合わせたものが自立と相互扶助と言われる理念でありますが、これが日本の幼児教育や、あるいは青少年教育でも同じでありますが、そこで教えられることは基本的にはありません。みんな仲よしという形であります。  三番目の切り口、学級崩壊の話をさせていただきます。  マスコミ的な扱いでは、子供たちがおかしくなったということになっています。しかし、これは社会科学的な常識からいうと間違った考えです。むしろ近代学校教育が極めて特殊であって、この特殊な近代教育が成り立つ条件が最近怪しくなってきた、そう考えなければいけません。そのような考え方は七〇年代の社会科学において、特に社会学や人文科学の一部においては常識化してきております。  あるいは家庭がおかしいという言い方もあります。もちろん、おかしい家庭はたくさんありますが、成熟社会、つまり近代が成熟期に入れば、先ほど申し上げたような理由で人間の感受性や想像力や行動の半径が非常に広がることによって、一般に、家庭や共同体の教育力は低下せざるを得ません。したがって、特定の共同体や、例えば家庭なら家庭負担をかけ過ぎる、そのようなメカニズムは基本的に必ず無理を生じるような仕組みになっています。  時間がないのですっ飛ばしながら行きますけれども、皆さん御存じかどうか、近代学校教育には二つのモデルがあるとされています。一つは軍隊と監獄です。  例えば準備体操をするときに、整列、気をつけ、前へ倣えとやります。例えばスイミングクラブで同じように準備体操がありますが、こういうことは一切ありません。つまり、これは準備体操にとって必要なのではありません。号令一下、規律正しく集合的に身体を動かしてもらうためにこのような軍隊的な規律が採用されています。現に、体育の実技の科目の九割以上は軍事教練から借り出したものであることは、もはや常識化しているはずでございます。  同じように、学校教育のスタイル、先生が高い壇上に立って、すべての子供を見渡せる場所に立ちながら教育をするようなメカニズム、これもそれ以前の教育のシステムにはなかったものであります。これも、十九世紀のベンサムというイギリスの功利主義者が考えた効率的な監獄監視システム、つまり、いつ見られているかわからないというふうに思うので囚人たちがびしっとするというシステムの基本的な応用編であるというふうに考えられています。  軍隊は、戦いに勝つためにこういう規律が必要です。監獄あるいは刑務所は、社会的更生のためにこういう規律が必要です。  では、なぜ近代学校教育で軍隊と監獄のメカニズムが採用されたのか。それは工場労働者を養成するためです。昔の伝統社会であれば、雨が降ったりあらしになったりすれば、働くか働かないかは個人の自由、その人次第でありますが、そうなってしまっては工場のシステムは回りません。納期は守れません。当然のことながら、工場労働者としての振る舞いは伝統社会のあり方とは全く違っています。そのような振る舞いを子供たちにしてもらうために近代学校教育というのは存在した。日本以外の国でもそうであります。  ところが、一九七〇年代以降、我々の社会は成熟社会と呼ばれる新しいステージに入りました。それまでの近代過渡期とは違いまして、ここで三つの違いが挙げられていますが、例えば社会の流動性は増大します。流動性が増大するというのは、簡単に言えばいろいろな人間と会えるようになる、いろいろな組織に所属できるようになるということであります。そうすると、何かと一体化することよりも、組織から外れようが外れまいが、自分自分であると言えるようなタイプの尊厳が必要になってきます。  さらに、生産時間よりも消費の時間が長くなってきます。生産時間、つまり工場労働者である時間が長ければ教育はそれに言及するだけでよかったのですが、消費の時間の方が生産の時間よりも長くなれば、消費を通じて幸せになってもらうための教育が必要です。それは、規律正しくびしっと振る舞うこととは全く無関係教育であらざるを得ません。  さらに、このような成熟社会になれば、今までの良質で安価な製品を大量につくるという工場労働に対する要請よりも、むしろ高付加価値、つまりイノベーティブなアイデアを上から下まで出してもらうことが重要になってきます。この点でも、協調性よりも個人的な試行錯誤が重視されざるを得ないような状況になります。  きょうはどうも切り口だけで話が終わりそうでありますけれども、最後に、愛国心、日の丸・君が代問題が昨今国会などでも話題になっていますけれども、この問題を最後に言及しながら、現在の日本における子供観あるいは人間観にやや問題があるのだというお話をさせていただきたいと思います。  人間の尊厳については二つの考え方があります。一つは、大いなるものと一体化することが人間の尊厳だという考え方です。あるいは、崇高なるものとの一体化こそが人間の尊厳だという考え方です。もう一つは、個人の責任でなされた試行錯誤の結果積み重なった自尊心、これこそが尊厳であるという考え方です。前者は十九世紀のドイツ国法学において洗練され、後者は十八世紀、十九世紀のイギリスの自由主義哲学において洗練されてきた考え方であります。  愛国心という場合に、実はこの二つの尊厳観に従った分岐があります。前者のドイツ国法学的な考え方では、まさにみずからが一体化するべき崇高なるものが国家であるという考え方です。したがって愛国心とはそういうものになります。後者は違います。後者は、各自が自由に試行錯誤するために、つまり自由に振る舞うために必要な制度、枠組み、これは歴史の中で血によってあがなわれた公共財であるという考え方です。したがって、そのような公共財を守るために命をかけることは崇高なことだ、つまり、個人の尊厳がまずあり、その個人の尊厳が担保されるために、場合によっては自己犠牲も含めた公共財への貢献が必要である、コントリビューションが必要であるという考え方です。  さて、日本で愛国心という場合にどちらを教えるべきなのでありましょうか。あるいは、どちらを教えているのでありましょうか。ちまたの議論を見てみると、日本で言うパブリック、公というと、必ず、国が一丸となったような共同性、つまり公イコール共同性というふうな発想がいまだにまかり通っています。これは、社会科学的な常識からいえば十九世紀以前的な考え方です。  近代社会におけるパブリックとは、共同性ではなくて共生です。いろいろな共同体、家族、地域社会に属する人間が、あるいは異なる感受性や作法を持った人間が、侵害し合わないように共生するために一定の想像力や一定のルールを必要としている、そのような想像力やルールの領域をパブリックというふうに呼ぶ、そういう常識になっています。  日本でパブリックという場合に一体どちらを教えるつもりでありましょうか。もちろん、日本以外の先進国は、愛国教育、愛国心教育をやっています。パブリックというものの重要性を教えています。しかしそれは、日本でいわゆる保守論壇と言われるところで一般に推奨されているような教育とは全く質が違います。実は、そうした問題も、冒頭から申し上げている日本子供観の問題と関係しています。  人間は、この成熟社会においては、以前のように、これさえすればおまえは幸せになる、これに一体化すればおまえは幸せになるという言い方では無責任であります。個人の幸いは個人の試行錯誤の中でつかみ取ってもらうしかない社会、これが成熟社会であります。  したがって、教育というものに求められる態度は、従来の共同体的同調を支援するタイプの教育ではなくて、安全な枠の中で、しかし一定のリスクを伴いながら試行錯誤をする、言いかえれば、失敗から自分自分であるとはどういうことなのかを学んでもらうための自己決定支援型の教育が必要なのであります。  自己決定支援型の教育がパブリックマインドと反するのだというおかしなことを言う人たち日本ではあふれていますが、とんでもありません。日本以外の先進国では、自己決定とパブリックマインドは全く両立しています。子供の自己決定を重視すると親は何も言えませんねなんというふうなばかなことを言う親がいっぱいいますが、大笑いです。  日本以外の国は、子供の自己決定ははるかに重視されていますが、親は子供にがんがん日本以上に言います。それはなぜかといえば、最後はおまえの問題だということがあるからですね。逆に、協調性、和を重視する日本の親子は、のりを壊さないように、子供にちゃんとしたことが言えません。これが、共同体的なメンタリティーが成熟社会で陥らざるを得ない逆説的なわななのであります。  私の話は以上です。(拍手)
  8. 石田勝之

    石田委員長 どうもありがとうございました。  以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     ―――――――――――――
  9. 石田勝之

    石田委員長 これより参考人に対する質疑に入るのでありますが、理事会協議によりまして、最初にあらかじめ申し出のありました委員が順次質疑を行い、その後、自由に質疑を行うことといたします。  なお、発言は、自席から着席のままで結構です。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。岸田文雄君。
  10. 岸田文雄

    ○岸田委員 自由民主党の岸田文雄でございます。  まず、参考人の三名の皆様方、きょうは、大変お忙しい時間当委員会に御出席いただき、貴重な御意見を聞かせていただきますことを心から感謝を申し上げます。  まず、乙武参考人にお伺いさせていただきたいと存じます。  乙武参考人の書かれた「五体不満足」という御本、お聞きいたしますと、もう既に三百二十万冊売れておられるのだそうであります。これだけ多くの方々に魅力的なメッセージを発することができること、大変すばらしいことだと思います。私も、先週おくればせながらこの本を読ませていただきまして、いろいろなことを考えさせられました。  きょうもいろいろなことをお伺いしたいのですが、残念ながら与えられた時間が限られておりますので、一つ乙武さんにお伺いしたいと思いますのは、乙武さん自身が本の中で書いておられるように、障害がなくてもふさぎ込んで元気のない人も随分たくさんいるわけです。生きがいが感じられないとか、あるいは怒りをちょっとしたことで爆発させたり、そんな青少年の姿を世の中で見ることが最近特に多いわけです。  一方、乙武さんのように、障害があっても堂々と、生き生きと生きておられる方もおられる。その乙武さん、本をお読みしますと本当にすばらしいお友達がたくさんおられるようですが、例えば、あなたのお友達の中に一人、障害はないけれどもふさぎ込んで元気がない、こんなお友達がおられた。そのお友達にあなたがアドバイス、何か激励の言葉をかけるとしたら、どんなことをその友達に話すでしょうか。自分だったらこんなことをアドバイスしたい、何かあればお聞かせいただけますか。
  11. 乙武洋匡

    乙武参考人 もし僕の友達が何かでふさぎ込んでいるとしたら、当然それには原因があると思うんですね。その原因というのは、恐らくほとんどの人が見たら、やはり、ああ、それは落ち込むよなと思うような原因だと思うんですね。  例えば自分障害というのは、周りから見たらやはり大変だろうなあとか、気の毒にと最初は思われる要素だとは思うんですが、それを、よく新聞とかは乗り越えてというふうに書かれるのですけれども、僕自身は乗り越えているつもりは全くなくて、それを生かしているつもりでいるんですね。ですから、僕は、僕のその友達が悩んでいる原因を、逆に彼のよさにするためにはどうしたらいいんだろうと考えて、彼もそう思えるような、アドバイスというとちょっと大げさかもしれないですけれども、考え方というのを、こういう考え方もあるんじゃないというふうに示すことができたらなと思います。  具体的に言うと、僕らの年代ですと、例えば両親が離婚してしまったということがあるかもしれない。でもそれは、そのおかげでおまえはもしかしたら人の痛みがすごくほかの子よりもわかるようになるかもしれないじゃない、両親が離婚したおかげで自分に自立心が芽生えるかもしれないじゃないと。もしくは、志望の大学へ行けなくなってしまった。それもすごく本人は落ち込む要素かもしれない。でも、今は不本意かもしれないけれども、その大学ですごく人生を変えるような出会いが待っているかもしれないじゃない、もう一生の師と呼べるようなすごい先生と出会えるかもしれないじゃないと。  落ち込んでいるのをただ慰めるだけじゃなくて、その落ち込んでいる要素を、逆手にとってというと変ですけれども、それをよさに生かせるような考え方というのを示してあげられるような言葉をかけたいなと思います。
  12. 岸田文雄

    ○岸田委員 ありがとうございました。  続きまして、世取山参考人にお伺いをさせていただきたいと存じます。  きょうは、御用意いただいたレジュメの中にも、「「豊かな」子ども期とは何か」というような言葉が入っております。また、国連子ども権利委員会の中でも、子供期の喪失というようなことが議論された、そんなお話も伺わせていただきました。  この子供期という言葉なんですが、これは単なる年齢ではないと思うのです。人生の中で何か意義みたいなものを含意した言葉だと思うのですが、まず、この子供期という言葉の意味を少し御説明いただけますでしょうか。
  13. 世取山洋介

    ○世取山参考人 研究者として非常に形式的に言いますと、人間の人生のある諸相のうちの一つで、生まれてから二十歳ぐらいまでの間の時期で、特にその子供人間的な、人間としての成長、発達が実現されるべき時期だということになります。  ただ、子供期とは何かということについては、これは非常に考えるべき問題点が多くて、僕も乙武さんの本を先週読みまして、きょうは、彼は障害という観点からお話ししたのですけれども、私の読み方からすると、あの本は豊かな子供期一つのいい例を示しているというふうに私は理解しました。  というのは、一つは、彼は生まれた段階から親に全面的に受容されるわけですよね、まあ、かわいいと。その後、学校へ行っても先生に受容され、そういう仲間関係がずうっとあるわけですね。だからこそ彼は自由で、アメリカンフットボールとか、そういう自由な活動ができるわけですね。しかも、進路選択の最後の段階に当たって、彼は自分にしかできないことでありながら、しかし同時に、社会に受け入れられるものを見出していく、そういうポジションをぽっととる。依存と自由と、そして自分がかけがえのない人間であり、かつ社会に認められているというこの三つの要素が実にこの本にはよく出ているというふうに私は理解しております。  この子供期、彼の本はその子供期の一番のいい典型例なんですけれども、実は、子供期をめぐっては、こういう実例に基づいてとか、あるいはリアリティーに基づいた議論というのは極めて重要だというふうに私は理解しております。  僕の場合は、例えばゼミで英語で書かれた絵本の翻訳を、子供期について書かれているものを児童図書館へ行って五十冊ぐらい集めまして、学生一緒に読んだのですね。そこで出てくる子供期のイメージというのは、まさに、まず依存できる、宮台さんに依存するかどうかは別にして、依存できる相手がいる、だからこそ子供は自由でいられる、そういうテーマで描かれているものが物すごく多いんですね。  僕はこれは非常に重要だと思いまして、というのは、例えば、きょうは質問を制限されておりますけれども、しかし、では皆さん、今ここで文章か絵で豊かな子供期を表現してみてください、さあ、三十分与えますといった場合、どうなるでしょうか。これは実際ユニセフから提案されている教育活動のうちの一つなんですけれども、少なくとも僕は、その提案を受けたときに、えっ、おれの子供時代は楽しかったのかとか、みんな、子供時代は楽しいものだとか豊かなものだということについてイメージがあるのかと。つまり、我々全体の頭の中から一番重要なことがすっぽり抜け落ちている可能性がある、そのことに気がついたのですね。  その意味で、ぜひとも皆さんには、もっとリアリティーのある形で、豊かな子供期とは何かということについて議論していただきたいというのが私の希望だということになります。
  14. 岸田文雄

    ○岸田委員 ありがとうございました。  もう残り時間がわずかになってまいりましたので、最後宮台参考人にちょっとお伺いいたします。  宮台参考人社会学者として本当に大変ユニークな、精力的な、そして非常に多分野にわたって活動されておられること、敬意を表し申し上げます。きょうも、時間が短いものですからその思いの本当に一部しか話していただけなかったようでありますが、そのいろいろな御活動の中で、一つちょっとお伺いしたいと思いますのは、青少年問題に大変関係のある問題として家族の問題というのがあるわけですが、その際に、宮台参考人が家族幻想という言葉を使っておられる。これは何か書いたもので見たことがあるんですが、この家族幻想というものの真意をちょっとお話しいただき、そしてそれがどう問題なのか、そしてどうあるべきだとお思いなのか、それについてひとつお聞かせをいただけますか。
  15. 宮台真司

    宮台参考人 まず、僕自身が今この段階で、あるべき家族というのはどういうタイプのものなのかというのをお話しします。その話は、世取山さんが今お話しになったことと非常によく似ています。  まず、この複雑な成熟社会では、これさえすればおまえは幸せとか、他人と同じようにやれば自分が幸せになるということはあり得ません。そのためには、多様な試行錯誤をする力が必要です。多様な試行錯誤をするには、しかし、失敗を恐れない力、あるいは失敗にくじけない力が必要です。失敗を恐れる人間は、怖がりは試行錯誤できません。  そのような、失敗にくじけない、失敗を恐れない力は、実は根源的な自尊心、あるいはベーシックトラスト、基礎的な信頼によって与えられます。つまり世界はオーケーだ、自分はオーケーだという感じです。それを与えるのが、実は発達の初期段階において接する大人、家族ですね。  先進国教育理念の多くは、特に年少者の段階においては、年齢別発達課題であるとか、あるいはカリキュラムに従ってできれば承認するとかいうやり方ではなくて、何ができてもできなくても、どういう顔かたちをしていても、おまえがいるだけでおれは、周りは幸せだ、そういう感覚を伝達すること、つまり、知識や価値観の伝達ではなくて、承認の伝達が課題だというふうに考えられています。家族というのはそういう場であるべきだというのが僕の考えです。  その観点からいえば、具体的な話になりますが、例えばひたすら子供の安全を願う、あるいはその安全に抵触するようなことがあるとヒステリーを起こすような親は、子供にとっては余りいい存在ではありません。むしろ、子供に試行錯誤をしてもらうこと、自分の目と耳で見聞し、頭と心で判断するような子供の発達を願うこと、しかし失敗すればいつでも帰ってこれるホームベースを用意すること、その辺はちょっとレジュメにも書いてありますけれども、囲いをつくる、この中にいなさいと囲いをつくるのじゃなくて、いろいろ試行錯誤してきなさい、しかし失敗しても戻ってこれるよ、いつでもここにと、そういう家族であるべきですね。  そういう観点からいうと、実は日本の家族は非常に幻想的になってしまいました。これも長く話すと切りがありませんが、一つだけわかりやすい例を挙げます。  日本は、一九七五年を境に教育投資が急増し、家庭内に占める教育費割合も、小中学生の塾通いの割合も急増してまいります。私の言う学校化、つまり家や地域社会学校の出店になるという状態が七〇年代後半から進んできます。それが進んできた原因ははっきりしています。それが家族の空洞化なんですね。  七〇年代前半に、日本は物の豊かさが、例えば炊飯器、掃除機、洗濯機、カー、クーラー、カラーテレビみたいなものが、耐久消費財の新規需要が一巡して、つまり成熟社会という段階に達します。そこから先に何が幸いなのかが、人それぞれになる。それまでは、みんなが豊かになること、頑張ってみんなが幸せになることが、アメリカ的な、名犬ラッシー的な生活を送ることが家族の幸せだといったような理念があったものが空洞化します。  その空洞化した部分を、そうだ、子供をいい学校に入れさえすれば親としてちゃんとしていることになるんだという、いわば学校教育がアリバイがわりになってくるわけです。つまり、家族教育が、家庭が空洞化したから、そこに、学校あるいは学校化をする、家族が、家庭学校の出店になるという選択が出てきている。それが子供のために親がちゃんとしていることなんだと思い込むといいますか、そういう非常に幻想的な振る舞いが出てくるわけです。  しかしながら、ちょっと冒頭の方に申しましたように、先進国では成熟社会になって以降、それまでの協調性重視型の教育を自己決定重視型の教育に変えてまいりました。日本は実は社会が豊かであり過ぎたために、経済がうまくいき過ぎていたために、つまり資源不況を克服してしまったために、実は、先進各国が手をつけ始めた教育改革、成熟社会に見合った自己決定型、自己決定支援型の教育に転換することがおくれました。  したがって、実は、そういう社会の変化の中で空洞化した家族が学校に思いを託すということになると、当然のことながら、子供にとって必要なことと、学校社会を通じて子供に与えられることとの間にギャップが出てきます。その結果、子供たちは、あるいは賢明な子供たちの多くは、家や学校地域では承認が与えられないし、自分自分であるという感覚も得られないので、僕の言う第四空間、つまり家でも学校でも地域でもない空間に出かけていって、そこで自分の居場所を見つけるということが起こっているという次第であります。
  16. 岸田文雄

    ○岸田委員 ありがとうございました。  質問を終わります。
  17. 石田勝之

    石田委員長 次に、肥田美代子君。
  18. 肥田美代子

    ○肥田委員 民主党の肥田美代子でございます。よろしくお願いします。  参考人皆様に大変貴重な御意見をいただきました。私は、一問だけ質問させていただきたいと思います。高校入試に関しまして、お三方にお尋ねしたいと思います。  総務庁の青少年対策本部の非行原因に関する総合的研究調査によりますと、授業がつまらないと答えた男子高校生は四三%、女子高校生は四六%なんですね。おおよそ二人に一人が授業がつまらない、そういうふうに答えているわけです。何のために勉強するのか、そういう学習の目標が失われている、いろいろな原因が重なっているとは思います。  その中で私は、高校入試制度は大変大きな影響を与えていると思っているわけです。自分が入りたい高校ではなくて入れる高校に振り分けられますし、授業がおもしろくないというのも理解できることです。高校入試は、その子の個性とか興味でありますとかを再確認したり、それから、その子がどういうことをやりたいか、そういう進路の選択を応援するものであればそれなりの意味があると思うんですけれども、現在そういう性格のものではありません。  私は、子ども権利条約、先ほどからお話がございましたけれども、やはり子供優先の視点から高校入試を見るべきだと思うんですね。そうしますと、現在の高校入試のあり方が、実際は大人による子供の選別でありますとか子供の序列化にすぎないんじゃないか、それが教師子供の信頼関係を損なっている、我が国の学校教育全体にゆがみをもたらすやはり大きな原因にもなっていると思うんです。  私は、子供の最善の利益という立場から、もう少しはっきり申し上げるならば、青少年の非行の遠因にもなっていると考えるわけで、現在の高校入試は廃止すべきと主張しております。参考人の方々は、これについてどうお考えになるか、よろしくお願いいたします。
  19. 乙武洋匡

    乙武参考人 確かに、高校の授業というのはやはりおもしろくないんですよね。というのは、やはりどっちつかずなのかなという気がしていて、学問のおもしろさを伝えようとしているのと、入試のための勉強というのを両方やろうとして、結局どちらもうまくいっていないのかなというのがあるのです。  というのは、僕は一年間浪人しているので予備校の授業というのも受けたのですが、それはそれで話はやはりおもしろいのですね。それは、学問のおもしろさを伝えるためではなく、もう完全に入試のための勉強ですよね。それに偏っているので、それはそれでプロだと思うんですね。高校の授業というのは、やはりどっちつかずで、中途半端で結局おもしろくないのかなという気がしています。ですから、どちらかにしてしまえばいいのかというと、それは、そこでどっちかにしてしまうというのはとてもすごく勇気の要ることで、またいろいろな検討を重ねなければいけないことだと思うんですが。  僕自身は、高校入試をなくしてしまうというのは今初めて聞いた考えだったので、どう思いますかと言われて、こちらがいいと思いますというふうには、今ここの場ではちょっと、多分お答えできないと思うんですが、それはそれですごくおもしろい考え方だなとは思うんですね。  もしくは、なくしてしまうというよりも、制度を思い切り変えてしまって、例えば今は、すごく偏差値の高い高校へ行くためには、比較的均等に成績のいい子でないと行けないわけですよね。それが、例えば一教科だけずば抜けて高い子というのを集める学校があってもおもしろいかもしれない。家庭科が十段階で十ある子、ほかは別に二でも三でも、家庭科ができる子をとるとか、そういう何かユニークな評価の仕方があっても、先ほどおっしゃられていたその子の個性を伸ばすという意味ではとてもいいことだと思う。  そういった、均等に成績のとれている子が勉強のできる子、高校入試で上に行ける子という考え方ではなく、その子の得意なものを伸ばせるような方向性を考えていくというのが重要なことかなというふうに考えております。
  20. 世取山洋介

    ○世取山参考人 結論を先に申し上げますが、小学区制の総合制の高校にし、希望者は全員入学制度にして、高校入試制度は廃止すべきだというふうに私は思っております。  理由は、肥田委員が適切に指摘したように、子供の最善の利益の第一義的な考慮というのがこの権利条約によって求められているわけですけれども、果たして、思春期という実に不安定なある時期に、あれだけのプレッシャーをかけることに一体どれほどの根拠があるのか。つまり、子供の最善の利益を覆すだけの根拠があるのか私にはわからないということが第一点目。  二点目。既に、希望者を全員入学させても十分収容できる定員数が国公立高校にはあるはずだということ。  三番目の理由は、これは地域で暮らしている五歳の娘を持つ父親としての実感ですけれども、早期教育に走る親たちとよく議論をしてみますと、要するに、地域の中で安心して子供を通わせる高校がない、あるいはそのイメージが全く存在していないというのが、早期の段階、つまり小学校段階から早目に学歴を買ってしまおう、そういう保険のような行動に走らせるのですね。  もし、地域の高校の先生たちの顔が見えて、あの高校に行けばこういう先生もいるし、ああいう先生もいるし、こういう先生がいておもしろいんだよと、実にきちんと金をかけて、公費ということになりますけれども、十分な教育をやってくれるのだということになれば、今の早期教育の問題とかは相当に解決するというふうに思います。  なお、国連の議事の様子をお話ししておきますけれども、カープ議長が教育の問題に関連して最初に取り上げたのが、子供の最善の利益の観点から高校入試制度は再考されたのかということです。それを一応読み上げますと、「競争的な高校入試制度が、それと子どもの最善の利益とバランスを取るという観点から、取り扱われてきたのか、議論されてきたのか、あるいは再考されてきたのでしょうか。」つまり、国際的に見ても、相当に疑問のあるものだということだと思います。
  21. 宮台真司

    宮台参考人 世取山参考人と似たような意見を持っていますが、ただ、高校入試の問題は、単独で考えるべきではなくて、ほかの教育制度全般と結びつけて考えるべきだと思います。  高校の序列化と高校入試の問題は結びついていますが、高校の序列化は大学入試と結びついています。したがって、大学審議会の答申どおり、基本的には、入りやすく出にくい大学にしていくということが必要不可欠であると思います。  あと、高校入試廃止という方向になりますと、当然中高一貫校がふえていくことになると思いますが、これについても私は疑問が実は幾つかあります。  中高一貫よりも、むしろ必要なのは小中一貫、ないし中学校を下の方におろしていく。つまり、六・三制ではなくて五・四制とか四・五制にすることの方が重要ではないかというふうなのが僕の考えです。その上で、高校入試は事実上全入に近い状態であるわけですから、それを制度的に正当化していくような施策があれば大変結構なことだと思います。  あと、もう一つは、入試制度よりもさらに重要かもしれないことは、世取山参考人もおっしゃったような、やはり高校のカリキュラムの問題であります。多くの高校が今、単位制、つまり総合科的なタイプの学校になっています。今、肥田理事から御紹介いただいたように、何十%、例えば四割、五割の生徒が授業がつまらないと言っている。その場合、今の一斉カリキュラム的な発想ですと、つまらない理由は学校がいけないからだ、こうなります。教員がいけないからだとなります。  そうではなくて、どういう科目をどういう先生のもとでだれと一緒に聞くのかということを自分で選べるようになれば、つまらなかったのは自分の選び方が悪かったのだ、それは、学校の選び方だけではなくて、もちろん、どの先生のところで何を聞くかという自分の個人カリキュラムの組み立てが間違っていた、したがって、組み立て直せばいいんだ、つまり、自分に引きつけて問題を考えるようになるはずです。それが、まさに冒頭に申し上げた試行錯誤の問題ともかかわるわけですから、そういうタイプの教育を、実は高校だけではなくて中学校小学校にもおろしていっていただきたいというのが私の考えです。
  22. 石田勝之

    石田委員長 次に、池坊保子君。
  23. 池坊保子

    ○池坊委員 池坊保子でございます。  きょうは、お三方の参考人に、お忙しい中お出ましいただきましてありがとうございました。乙武洋匡さんには、私ども公明党・改革クラブの推薦を快諾していただいてありがとうございました。  私、久しぶりに心を動かされた本を読みまして、回し読みをいたしました。そういう意味では印税に余りお役に立たなかったのですけれども。  七歳の子供が熱心に読みまして、そして、乙ちゃんて頑張って偉いな、できないことを工夫してできるようにしているのがいい、みんながスポーツで乙ちゃんルールをつくって、できるようにみんながやっているけれども、できる範囲でできるだけのことをやるのがいいんだなあと言いましたことと、自分学校は楽しいけれども、時には嫌な授業があって、そういうのがある日は面倒くさい、学校に行くのも嫌だなと思うのに、乙ちゃんは通学が本当はできないのにできるようになった、その恩返しとして、それは何かといったら学校生活を楽しむことだ、そこがすごいなあと言ったのです。  子供ですから表現が下手ですけれども、私は、乙武さんが持っている生きる力に子供なりに感動したのではないかと思っているのです。私は、ぜひホームルームでみんなが読んで語り合ってほしいなと思いました。  中教審でも、生きる力の教育というのが今されておりますけれども、生きることのエネルギー、それから工夫というのが今は欠如していると思います。そして、むしろ生きることが苦しいとか不条理だとか、あるいはのろわしいということが、神戸少年事件だとか、先日起きましたコロラド州の高校銃乱射事件を起こしているのだと思いますけれども、乙武さんは、若い世代に生きることのすばらしさをどういう形で伝えたいとお思いですか、あるいは伝えられるとお考えですか。
  24. 乙武洋匡

    乙武参考人 僕が、ああ生きているっていいなとすごく感じるときは、一番最初宮台さんのお話の中にもあったように、僕自身も、皆さんもそうだと思うんですけれども、やはり寂しいという感覚を持つときがありますよね。その寂しいという感覚を持ったときに、当然他人を必要とするわけで、その必要としていた人々と本当にわかり合えたな、助けてもらったなという感覚を持って、本当に他人と結びついたなと感じたときに、すごく僕は何か幸せを感じるんですね。それで生きていてよかったなと思うんですね。  だから、今はやりの言葉を使ってしまうと共生ということになってしまうんですけれども、何か、一人ではなくてみんな人を必要としていて、それに応じられたとき、また自分も逆に必要とされてそれにこたえられたときというのが、自分はすごく生きているなというのを実感する時間です。  ですから、それを伝えていくには、どうしたらいいんでしょうね、例えば、一人一人が何か真剣に取り組む時間というのが減ってきているような気がするんですよね。今、何でも子供たちって割と投げやりな部分がありますよね。それが、もちろん勉強でもいいし、スポーツでもいいし、ほかのことでもいいんですけれども、何かに一生懸命に打ち込むということは、当然挫折とか落ち込むこともつきまとうわけですよね。そういった繰り返しというのがやはり人間関係を強めていったりするのかなという気も、僕の小中高校の体験からすると感じるんですね。ですから、やはり子供たちが必死に打ち込めるものというのを、そういう環境をもっとつくってあげたいなという気がします。
  25. 池坊保子

    ○池坊委員 私も、御本を読んでいて感動したのは、お母様が初めて赤ちゃんの乙武さんと会われるとき、まあ何とかわいいんでしょうとおっしゃったというのが、やはりお母様のすばらしさ、それが、学校先生担任先生もそうなんですけれども、常にプラス志向に物事を考える土台になっていったのではないかと思うんですけれども、それは意識して御自分でそうされたのか、それとも自然の環境の中で培われたのか、あるいはそういうことに対して御両親はむしろ余りおっしゃらなかったのではないか、それがいい影響を与えたのか、その辺の環境をちょっとお話しいただきたいと思います。
  26. 乙武洋匡

    乙武参考人 まず、自分障害ということに関しては、自分障害をマイナスにはとらえずに割と生かす方向で考えているというのは、生まれ持ったものというよりも、やはり両親の影響が大きいと思います。  親の方で、この子はこういう体に産んでしまってかわいそうなことをした、今後生きていくのが大変だろうという思いを抱いてしまうと、やはり子供というのは敏感ですから、それを感じ取って、自分はかわいそうな人間なんだ、これから生きていくのが大変な人間なんだとどんどん後ろ向きになってしまっていたと思うんですけれども、その辺は、やはり両親がへっちゃらでしょうというような感覚を持っていてくれたので、僕自身もそういった形で、皆さんには前向きと言っていただけるような考え方を持っていると思います。  それ以外のことに関しては、僕の場合は割と生まれ持った性格かなというふうに感じています。
  27. 池坊保子

    ○池坊委員 私、ちょっとバリアフリーについて伺いたいんですね。  これから、行政なんかの力によってハードの面はバリアフリーになっていくと思います。でも、大切なことは心のバリアフリーだと思うんです。おっしゃるように、いろいろな価値観を認めるということなんですけれども、日本は同一民族の同一言語の集団ですから、自分と違っているのを認めるというのは認めづらいわけですね。違っているということがいじめの対象になったり不登校の原因にもなったりするわけですけれども、書いていらっしゃるのに、障害も「特長」であり、単なる違いだけを指すのではなくすぐれた部分を指す、「ボクには、人に負けないものがある。それは、手足がないこと」と御本に書いてありましたよね。  教育の中で、互いを尊重すると口で言うのは易しいんですけれども、それをどういうふうに具体的に教えられるかというふうにお思いですか。
  28. 乙武洋匡

    乙武参考人 先ほども少し申しましたように、今、教師にしろ親にしろ、やはり子供の悪いところをたたいて直させていくという方向の方が目につくように思うんですね。ですから、例えば勉強ができなくてもいいじゃないか、何々ができなくてもいいじゃないか、だっておまえはここがすばらしいんだものというのを言葉で、態度で示してあげることが最も重要なのかなというふうに思います。
  29. 池坊保子

    ○池坊委員 私もいつも子供に言っておりますことは、お花でも百本あって同じお花がない、まして人間というのはもっともっと高度なんだから違っていて当たり前だと。だけれども、それが日本ではなかなか、違っているのが当たり前だというのがもっともっと教育の現場に浸透してほしいなというふうに私は思うんですね。  最後に、同じ内容でもだれがどう言うかによって説得力って違ってくると思うんです。私が乙武さんと同じことを言ったって、それは説得力がない。でも、乙武さんでなければできないことってありますので、これから青少年の若い人たちに、弟や妹の気持ちで、生きる力や生きることのすばらしさ、そういうメッセージを送り続けていっていただきたいと思います。ありがとうございました。
  30. 石田勝之

    石田委員長 次に、三沢淳君。
  31. 三沢淳

    ○三沢委員 自由党の三沢淳です。  参考人のお三方、本日は本当に御苦労さまです。  まず最初に、お三方にお伺いしたいのですけれども、私はスポーツマンとして、いろいろな意味でやはり我慢をしたり協力をしたりするということを子供のころから覚えてきました。要するに、一人で勝手な行動をしますと、必ずチームというのは勝てません。そういう意味で、今自由ということで、いろいろな言葉や行動面で、子供たちがその辺のところで責任を負わないで行動しているように見受けられるんですけれども、教育の中で、協調性とか我慢をする、させるということはどういうふうに子供たちに身につけさせたらいいのか、まずはお聞きしたいと思います。
  32. 乙武洋匡

    乙武参考人 先ほど宮台さんのお話の中だと、今は協調性を重視する教育が中心で、それをもっと個というものを重視する方向へというお話があったんですけれども、もちろん協調性というのも決して軽視していいものではないことは確かだと思うんですが、やはり、まず、僕も個があっての協調性だと思うんですね。それが、今はやはり協調性ばかりが重視され過ぎて、どうしても個が軽んじられ過ぎてしまっているのかなという気がするんですね。  もっともっと個というものを重視したときに、やはり、子供にしろ大人にしろ、自分が生きていく上では一人では生きていけないわけで、スポーツにしろ学校教育の場にしろコミュニティーができているわけで、個が重視されれば、個性的な人間がいっぱいいれば、もちろん協力するときもあればぶつかり合うときもあるわけですよね。逆に、そういったぶつかり合っていく中で、自分の主張ばかりしていっては組織、共同体というのはうまくいかないんだということを肌で感じ取っていくものだと僕は思うんですね。ですから、僕は逆に、もっともっと個というものを重要にしていった上で、子供たちにぶつかり合いをさせて、その中で協調性というのを身につけていってほしいなというふうに感じています。
  33. 世取山洋介

    ○世取山参考人 自由と責任ということにも絡んだ質問かと思いますけれども、まず、私の方として強調したいことは、子供自分が大切にされているという感覚を十分に持って初めて相手を大切にしようという感覚を持ち得る、その点だというふうに思っております。したがって、自分が大切にされているという感覚子供に十分感じさせないまま協調性を教えても、それは余り効果がないだろうというふうに思っているわけです。  なお、先ほどの池坊先生乙武さんに対する質問とも絡むんですけれども、なぜ人間が大切にされなきゃいけないのかということを、その大切にする側がどう理解するかというところがやはり非常に大きなポイントでして、私、人権ということを考えていまして、新潟大学に行って一番ショッキングだったのが、上越のあのいじめ自殺事件であったわけですね。一体あれは人権から見るとどういうことになるのだろうということを四カ月ぐらい悩みに悩み抜きまして、得た結論は次のようなものです。  つまり、人権というのは、ある人が存在するだけで価値のあるものだ、大切に扱われなければいけないということを意味するわけですけれども、しかし、人間には能力の差があり、財政力に差があり、いろいろな差があるわけですね、この議員の中にも年配、年少いるわけですけれども、そういう能力差があるにもかかわらず、一体なぜ人間は大切にされなければいけないのかというと、結局、社会的有用性がないにもかかわらず価値のあるものとして世の中に存在している典型的なものは、宝石なんですね、ダイヤモンドとか。  こういう比喩をよく使うのですけれども、人権という眼鏡をかけると、すべての人間が、究極的な意味で、つまり、かけがえのないダイヤモンドだとか宝石のようにきらきらきらっと見える。まさに乙武さんであれ僕であれ宮台先生であれ、つまり、それぞれが人格の取りかえがきかないという希少性に対する、これがだからこそ大切なんだという気持ちを、あなたは大切だというメッセージを与える側がどのぐらい持てるかというところが第二番目のポイントになろうというふうに私としては考えております。  以上です。
  34. 宮台真司

    宮台参考人 一つは自由と責任の問題と、あと協調性と自己決定のどちらが大事なのかという問題と、二つの側面でお話しいたします。  まず第一の問題ですが、社会学の中ではどう考えているかといえば、協調性重視型の、つまり共同体主義的な社会では人は責任をとらないというのが定説であります。せいぜい責任をとるとしても仲間に対して、会社であればせいぜい会社に対して悪いと思うだけです。それは責任とは全く無関係で、責任は実際、仲間ではない、社会に対して負うものであるという発想日本ではありません。  それとの兼ね合いでいえば、むしろ、責任をとることを覚えさせるためには、あるいは覚え学んでもらうためには、自由に振る舞って、自由に振る舞った帰結を自分で、つまり、しりをぬぐうといいますが、自分で処理してもらう、そういう訓練が必要なんですね。例えば個人カリキュラム化というのもそういうことです。自分が不快な状態にあるとすれば、周りが悪いというよりも、まず、自分の選び方が悪かったのじゃないか、自分の試行錯誤に問題があるのじゃないかと自分に引きつけて責任をとる、つまり自分でやり直す、そういう態度が実は責任のある態度に結びついていくわけであります。  そして、そのように振る舞う人間社会の中に大勢いるときに、我がまま、つまりわがままのままでは、自分のやりたいことも実現できないし、環境が不快になる、だから、いろいろな異なる人間たちと共生するためのルールや想像力が必要だと学んでいくわけです。これは、単なる協調性教育とは違います。  そこで、協調性よりも重要なこととして自己決定やインディペンデンシーがあるという、日本以外の先進国がすべてとっている態度があるわけです。協調性が大事じゃないということではないのです。協調性は、仲間と仲よくすることではないのですね、むしろ。そうではなくて、社会に対して責任を負うということです。社会はいかような大きさもとり得ます。家族であっても会社であってもいいのですが、家族や会社でしかあり得ないのだとすれば、それは問題のある人間です、この成熟社会においては。  したがって、冒頭申し上げましたように、まず、個人がかけがえのない個人であること、自分自分のことを決めることができること、それがまずあって、その後に、相互扶助、社会を媒介にしないと君は君であることは本当はできないのだよということを教える、そういう段取りになるというふうに考えております。     〔委員長退席、池坊委員長代理着席〕
  35. 三沢淳

    ○三沢委員 ありがとうございます。  次に、簡単にお話し申しますけれども、我々の子供のころは、先生とか周りの近所の人に、将来何になるのだと聞かれたら、すぐ答えがみんな出てきました。プロ野球の選手になるのだとか弁護士になるのだとか看護婦さんになるのだとか、そういうのがすぐ出てきたのですけれども、今これだけ自由になったりいろいろなことが自分で自由にできるのに、今の子供に何になりたいのだと聞きますと、必ず、首を振りながら、わからないという答えが多く返ってくるようになってきているのです。  今、教育、納税、勤労というのは国民の三大義務ですけれども、この辺のところが今の若い人たちに薄れてきているのじゃないか。ですから、要するに、自分の仕事の夢を持てなくなっているというような子供たちが多くなっていると思うのですよ、将来何になりたいかと言ってもすぐ答えが返ってこないというのは。これだけ自由な、好きなことができる時代なのに、その夢が持てないような時代になっているというのはどういうところだと思われますか。簡単に、お三方。
  36. 乙武洋匡

    乙武参考人 まず、お父さん、お母さんが本当に楽しそうに自分の仕事をしているのかなというのが第一だと思うんですね。子供の最も身近な大人というのは、やはり両親ですよね。その両親が働いている。そのお父さん、お母さんが、はあ疲れた、きょうも嫌だったといって帰ってきたら、何々になりたいとやはり言えないと思うんですよね。だから、お父さん、お母さんが本当に自分の仕事に対して誇りを持って、本当に楽しそうにやっているかというところがまず第一点だと思います。  そして次に、何になりたいかというものの次に、子供たちにどんな人間になりたいのという問いかけをすることがこれからは必要なのかなという気がするのですね。何になる、そのあこがれていた職業になれなくてもなれても、特になれてしまった場合、じゃ、何するのということになると思うんですよ。だったら最初から、あなたは何をするのというところからの問いかけから始めた方がいいのかなと思うんですね。そうすれば、じゃ、そのあなたのやりたいことをするためには、こういう職業もあるしこういう職業もあるね、いろいろなアプローチがあるよねという示し方ができると思うんですね。  ですから、何になりたいのじゃなくて、何をしたいの、どんな人間になりたいのという問いかけを大人の側からしていくことも大切なのかなというふうに思います。
  37. 世取山洋介

    ○世取山参考人 自由になって選択肢がふえたので何になりたいか選択できなくなっているというふうに私は理解しておりませんで、むしろ、大人の姿を見て、働いている姿を見て、そこに人間的な主体性を子供たちが感じ取れなくなっている。つまり、大人というのは世の中をよい方向へ変えていく主体なんだ、そういう仲間入りをするんだという希望が子供たちに見えなくなっているというのが最大のポイントでして、要するにその点、我々の大人社会の側の子供たちに与えられるイメージの貧困さにこそ問題があるというふうに私は理解しております。
  38. 宮台真司

    宮台参考人 一つ教育の問題と、あとやはり大人の問題と二つあると思います。  例えば、インターネット会議のようなものを日本の高校生、アメリカの高校生、あるいは日本の中学生、アメリカの中学生とやったりいたしますね。そうすると、例えば将来何になりたいかと言えば、中学生以上であれば、アメリカ人であれば十人がいれば十人、自分はこれになりたい、あれになりたいというふうに、全員が必ず言えます。日本の場合、十人いると一人ぐらい何になりたいと言う人間はいますが、あとの九人は何になりたいかわからないと言います。ですから、アメリカ人の子供たちは、日本子供たちはばかなんじゃないかというふうに思うわけです。  これは、はっきり言って教育の問題が一つあります。日本子供たちは自由だと言われましたが、とんでもありません。学校では自由に試行錯誤させていません。さらに、自由に試行錯誤をするために必要な基礎的な承認、おまえがいるだけでうれしいんだという感覚を、例えば乙武参考人が家族からもらったかもしれないような全面的な肯定感を与えられていません。ですから、日本子供たちは全く、自由に見えて自由ではありません。したがって、責任はもちろんとれませんし、自分が何がやりたいのかもわかりません。これが日本子供たち状況です。  あと、二番目の状況です。日本子供たちから見ると、日本の大人たちはやはり頼りないのです。先ほど所属型尊厳と言いましたが、こういうふうな例を出すと不謹慎かもしれませんが、例えば、援助交際をしている女の子たちがこういうふうに言います。客の男は十人が十人自慢をする。しかし、何が自慢かというと、大企業に勤めていることであるとか高級官僚であることとか年収であるとかを自慢する。みんな、わあすごいと言ってあげるのですけれども、女の子たちは、ばかじゃん、こいつと思っているわけであります。  つまり、成熟社会ではこういうことが起こるわけですね。つまり、自立的尊厳を持っている人間とは違って、依存型尊厳を持っている人間、例えば、もし自分が高級官僚であることを尊厳のリソースにしている人間がいるとすれば、官僚制度がどんなに不合理なものであっても、その官僚制度の存続に固執することになります。なぜならば、それが彼の尊厳の糧であるからです。しかし、成熟社会では、いろいろな組織、システムは流動的にならざるを得ません。何がいいのかということを絶えず検証しながら新しいシステムに変えていく必要があります。  そのような流れの中で、依存的尊厳を持っている人間は見苦しいわけです、端的に。そのような見苦しい大人たちを、日本子供たちは、マスコミ報道を通じて、つまり、官僚の不祥事や企業のトップの不祥事を通じて学習し続けているわけです。これでは大人になりたくなくなるのは当たり前であり、こんな大人になりたくないというふうに思うのが当たり前であり、夢がなくなるのが当たり前です。  以上です。     〔池坊委員長代理退席、委員長着席〕
  39. 三沢淳

    ○三沢委員 ありがとうございました。
  40. 石田勝之

    石田委員長 次に、大森猛君。
  41. 大森猛

    ○大森委員 日本共産党の大森猛でございます。  きょうは、三人の参考人皆さん、本当にありがとうございます。  最初に、世取山参考人にお伺いしたいのですが、先ほどもう既に、乙武さんの「五体不満足」という本に対する読後感といいますか感想をお話しになりましたけれども、きょう陳述された中心である子ども権利条約の視点で「五体不満足」を読むとどのようになるのか、その辺をまずお聞かせいただけないだろうかと思います。
  42. 世取山洋介

    ○世取山参考人 先ほど言ったことと重なり合いますけれども、子ども権利条約が全世界のすべての子供保障しようとしている豊かな子供期のイメージの一つがよく描かれている。一つは、全面的に受容され、その中で自由に活動し、進路選択として、自分のかけがえのない、自分にしかできないことでありながら、しかし社会的に承認されるものを見つけ出した。これこそが、実は権利条約の第六条が規定する成長、発達の意味であり、あるいはその少なくとも重要な一部であり、あるいは、第十二条に規定された意見表明権が実によくあらわれている本だというふうに私は読みました。
  43. 大森猛

    ○大森委員 世取山参考人の先ほどの陳述の中で、日本政府に対する勧告お話もかなり詳しくあったわけですが、今回、子ども権利条約及び勧告について、日本の政府の中で位置づける場合、その法的な性格といいますか、そういうことも含めてどう位置づけられるべきかというあたりはいかがでしょうか。
  44. 世取山洋介

    ○世取山参考人 質問を展開しますと、この最終所見の性格と、最終所見でこの権利条約をどう位置づけるべきか、どう理解すべきか、多分そういうことだと思うのですけれども、この最終所見は、一般的には法的拘束力がないと言われている文書ですけれども、しかし私は、これは法的拘束力は実はあるという立場をとっております。  権利条約の第四条に、締約国政府は、あらゆる適切な措置をとってこの条約を実施する義務を有しているというふうに言っているわけですけれども、この勧告を尊重して条約を実施することは、条約実施監視機関子ども権利委員会が提出したものである以上、当然そのあらゆる措置のうちの一つに含まれるというふうに理解しておりまして、条約第四条のあらゆる適当な措置をとる義務の一つとして、この勧告を尊重する義務があるというふうに私は理解しております。そういう意味で、国際法上の法的拘束力はあるはずだというのが私の理解です。  質問の二番目についてなんですけれども、二つのことを申し上げなければなりません。この条約というのは二つの意味があるというふうに私は理解しておりまして、一つは、裁判所が、これに基づいてある事件を条約に反するか反しないかを判断するための基準、裁判規範としての性格。法律家の議論では、その性格が強調され過ぎているのですけれども。  しかし、国際的にはもう一つこの条約意味がありまして、それは何かというと、政治の指針、一般的な指針としてこれを十分に用いる義務というのが、あるいはそういった文書として位置づけるということが国際的には常識化しているわけですね。つまり、この条約は、単なる裁判所が用いるものではなくて、国政において十分一般原則として用いられるべきものだ、政治の指針として用いられるべきものだというのが国際的には常識的な考え方であるわけです。  この懸念事項の七項で、前者の裁判規範に関することについては、実は、国内裁判所で権利条約が援用された例というのは一件しかございませんで、その不活発さが国連によって指摘されまして、次の報告までには、どういう判決においてこの条約が使われたのか、その報告をせよということが言われているわけですね。  しかも、その後、政治の指導原理として用いるべきだということになった場合には、実は、この条約実施監視機関とか調整機関といったものをつくる必要があるわけですけれども、それが存在していない、欠落していることについても懸念が表明されておりまして、すなわち、裁判規範としても政治の指導原理としても、この条約は、残念ながら日本においては位置づいていないという評価国連によってなされたというふうに言えるのではないかと思いますし、それについては非常に残念に思っております。
  45. 大森猛

    ○大森委員 世取山参考人にもう一点だけお伺いしたいのですが、先ほど、国内NGOの取り組みについてのお話と、資料等の御紹介もあったのですが、子ども権利条約の国内における活動特徴、そこらあたりを簡潔にお話しいただけないでしょうか。
  46. 世取山洋介

    ○世取山参考人 皆様にはこの最終所見の第十二パラグラフをぜひとも見ていただきたいのですが、そこではこう書いてあるわけです。   児童の権利に関する問題におけるNGOの積極的な参加を評価をもって留意しつつも、委員会は、政府とNGOの現在の協力段階においては、市民社会の知識と専門性が適切に活用されておらず、それが条約の実施の全ての段階におけるNGOの不十分な参加に繋がることを懸念する。 つまり、NGOは非常によくやっているのだけれども、政府はそれに対して余りきちんとNGOの力を使っていないではないか、利用していないではないかということが端的に指摘されたわけでして、余りこういうところでこういう言葉を使うのはいかがかという気もしますが、政府の不活発さに対するNGOの積極さがやけに目立つ、そういう指摘がなされたというふうに理解しております。  その状況はまだ残念ながら改善されていないというふうに理解しておりまして、DCI日本支部としても、できるだけこういう機会もとらえて、この最終所見条約日本社会における普及からまずは入っていきたいと思っています。  それと同時に、意見陳述の中で申しましたように、子供選挙権を持っていないわけで、にもかかわらず国政において子供の最善の利益を第一義的に配慮しなければいけないという非常に矛盾した存在であるわけですね。どうやったら選挙権を持っていない子供権利に最善の利益、最善のものをという光を当てることができるのかというのは、結構これは難しい課題だというふうに私は理解しておりまして、DCI日本支部としては、民主的な政治のプロセスの中にこの条約をまずは埋め込んでいこう、そのためには、国会そして地方議会の議員の方々にこの条約に十分注意を払った活動をしてもらうために頑張っていこうという運動方針を立てておりますし、そのためにこそ今ここにいるということになります。
  47. 大森猛

    ○大森委員 次に、乙武参考人にお伺いしますが、先ほど陳述の中でおっしゃった、違いがあって当たり前とか、それから学力偏重のお話の点、私も大変同感するわけなんですが、先ほど世取山参考人からも陳述がありました子ども権利条約に関してですが、きょうお聞きになったり、あるいはごらんになったその範囲での感想でも結構なんですが、乙武参考人の御意見をお聞かせいただけますか。
  48. 乙武洋匡

    乙武参考人 僕自身はそんなに詳しくないのですが、ただ、今ちょうど大学のゼミの方で僕は障害児教育について勉強していまして、その中で子ども権利条約というのが出てきて、すごく難しいなと考えたのが、当然、幼稚園なり保育園なりを卒園してこれから小学校に入る学齢に達した子供学校選択権というのがあるわけなんですね。それによって、その本人が、一般地域学校へ行くか、それから養護学校へ行くかというのを選択することができると権利上はなっているのですけれども、六、七歳の子供自分で選べる判断基準を持っているかというと必ずしもそうではないし、まして知的障害や精神障害を持っていればそれはなおさらのことで、では、その権利をかわりにだれが代行しているかというと、子ども権利条約には、子供の法定保護者は、やはり発育なり教育なりに関して責任を負うのは親であるというふうに定めてあるから、本当は親が子供にかわってその権利を行使して学校を選べるはずなんですけれども、なかなかその状況が成り立っていないので、すごく残念に思っているという次第です。
  49. 大森猛

    ○大森委員 終わります。ありがとうございました。
  50. 石田勝之

    石田委員長 次に、保坂展人君
  51. 保坂展人

    ○保坂委員 社会民主党の保坂展人です。  乙武さんにまずお聞きしたいと思います。  ちょうど、通われた用賀小学校そして用賀中学校は私の身近なところにありまして、特に、一九九四年に大河内清輝君という少年が亡くなって、いじめの問題がかなり大きく言われるようになってきて、その二年後の九六年に用賀中学校体育館それからいろいろな教室を使って「いじめよ、とまれ」というシンポジウムを主催する側にいたので、この学校に通いながらの本のエピソードを非常に興味深く読ませていただきました。  まず、率直にお聞きしたいのですけれども、若い世代は、政治にもあるいは国の仕組みにも、不信感と同時に低い関心と両方が伴っていると思うのですけれども、その若い世代をちょっときょうは代表していただいて、国会議員がこうして青少年問題ということで今委員会を開いてお呼びしているわけですけれども、その国会というものに対するイメージと、そしてもう一つは、青少年問題と聞いて、乙武さんがその言葉からどういうイメージを酌み取るのか、この二つを聞きたいと思います。
  52. 乙武洋匡

    乙武参考人 まず最初に、すごくびっくりしたというのがやはり最初の印象で、もちろん、議員の方々が青少年問題に関してのこういう委員会を開いていらっしゃるということにびっくりしたのではなく、そういう委員会に僕のような人間を招いてくださるという、当然学生ですし、まだ二十三ですし、そういった柔軟性というか、果たして僕を呼ぶのが本当にいいことかどうかは僕には判断つかないですけれども、すごく画期的なことではあると思うんですね。そういった意味では、もちろんすごくありがたいなと思うと同時に、すばらしい柔軟性を持たれているなというふうに驚きました。  それから、青少年という言葉に関するイメージなんですけれども、余りイメージないですね。やはり僕は、子供というと小学生ぐらいをイメージして、中高生のイメージだと、余り何か青少年という言葉はぴんとこないんですよね。だから、余りイメージ自体はないです。逆に、何か条例の名前についていたり、割とかたいイメージを持ちます。自分小中高校生のころに、自分青少年というイメージを持っていたかというと、全くそんなことはありませんでした。
  53. 保坂展人

    ○保坂委員 ありがとうございました。  次に、世取山さんにお聞きしたいのですけれども、今の乙武参考人の話なんですけれども、青少年問題というふうに言うと、本人たち自分の問題と思わない。つまり、青少年というと、青少年健全育成条例とか役所用語として割と使われてきた経緯もありますよね。  同時に、今の傾向として、青少年問題というと、どうしても犯罪とか薬物、あるいは援助交際も含んだ性非行だとか、多々問題がありまして当役所といたしましては総力を挙げて取り組んでおるところでございますがというような、そういう対策の対象になる。その風潮というか、今おっしゃった、当委員会の設置を評価されるという趣旨は十分わかるのですけれども、しかし、全般として流れるそういう風潮は、まさに政府の国連における数々の非積極的な対応にあらわれていると思うのですが、その辺をどう思われますか。
  54. 世取山洋介

    ○世取山参考人 この委員会を英訳しますと、ユース・プロブレム・コミッティーということになるわけですね。外国人にこの名前を言いますと、ユースはプロブレムではない、ユースはフューチャーだ、しかも明るいフューチャーだ、こういう言い方を必ずして、びっくりされるわけですね。  私自身、青少年問題特別委員会という名称から受ける印象というのは、やはり、子供を問題視している、子供を、よりすぐれた、将来の社会を担う、我々よりはるかにすぐれたものだという謙虚な見方はやはりなかなか感じにくいというのが正直なところです。  本当は意見陳述の中で言いたかったのですが、余り大口たたきだと思われるのも嫌だったので黙っていたのですけれども、実は、単なるいわゆる青少年問題ではなくて、この委員会子供政策を包括的に検討する委員会にぜひともしていただきたい。その際、名称を子供政策委員会にぜひともしていただきたい。つまり、国会が、選挙権を持たない子供たちのために、子供たちの最善の利益のために、何十人かが専門的に子供の問題、子供の問題というよりは子供施策を検討しているんだ、そういう委員会にぜひともしていただきたいというふうに思うのですね。  そのときに、子供という名称がいいのか、子供・青年という名称がいいのか、それはまた、子供たちがどう受け取るかの問題もありまして、適切な名称を考えればいいと思うのですけれども、私としては、やはりもっと子供に向けられた委員会に名称も変更し、内容も変更していただきたい、そういうものにしていただきたいというふうに思っております。
  55. 保坂展人

    ○保坂委員 それでは、我が党から御要請した宮台さんにお聞きしますけれども、かつて、テレクラの取材から始まって、少女たちのサブカルチャーみたいなことをずっとやっていく過程で援助交際みたいなことが大変大きな問題になって、それは、東京都の条例も含めて、数々の規制というものを結果として生んでしまったということがあると思うのですが、今世取山さんに聞いたことと同じことも含めてなんですけれども、どうしても青少年問題というとそういう角度で見よう見ようとする。行政組織というのはとかく、問題として把握して、それに対する、これだけやりましたということを打ち立てようとするものだと思いますけれども。  では、そうなると、世代間不信といいますか、子供たち、若者の側からは、我々国会議員も含めて、権威があるものあるいは権力を持っているものについては非常に強い不信感と距離感がある。そして逆に、今度大人の側からすれば、髪の毛を染めていたりピアスをしていたり、そういう格好からして、今の若者はもうとてもなっとらんということで、何か対策を講じなければいけないというような、そういうことがやはり少年法をめぐる論議の中でも基底にはあると思うのです。  せっかくですから、犯罪ということで、アメリカのコロラド州で起きた先日の事件がありましたよね。ああいうことを見ていくときっと、日本と武器の距離の近さでは違いますけれども、神戸事件のときに、義務教育への復讐であるとか、「透明な存在であるボク」という、そういうキーワードに物すごく中高生の心的な反応があった。あれと似たようなことが今回の事件にひょっとして、日本のみならず世界の若い世代にあるのかなと。そういうところをちょっとくくりながら、言い残されたことをぜひお願いしたいと思います。
  56. 宮台真司

    宮台参考人 ちょっと多岐に質問が及んでいるので端的にまとめてしゃべりますけれども、一般に、日本の大人たちは諸外国の先進国の大人たちに比べて極めて無責任であるという気がいたします。それは、例えば青少年問題というとらえ方に典型的ですが、モグラが出てきたら頭をたたくというやり方で、地下にモグラがどういうふうに穴を掘って、どういうふうな事情でこの時期にモグラが頭を出したのかということを全く検証しようとしない。  とりわけ、検証するべき側面は二つありますね。日本以外の諸外国は、どういう教育上の施策や、青少年――問題じゃないですよ、青少年にかかわる行政を行っているのか、こういうことを見ようとしていません。  だから、例えば、中学校段階で一斉カリキュラムが八割以上を超える国は、先進国では日本しかありません。あるいは、みんな仲よし教育を幼児教育でやっている国は日本しかありません。あるいは、これは日本しかとは言えませんけれども、日本以外の多くの教育先進国では、学校理事会に父母とともに生徒が参加することは当たり前であります。こういうことを知らない人が多いですよね。これは大変問題です。つまり、諸外国でどういうふうに行われているのかをまず知る必要があります。  さらに、今言ったことの中に含まれていますが、一体子供たちがどうなっているのかをやはり子供たちから聞いた方がいいと思います。乙武参考人がここに呼ばれることは大変喜ばしいことだと僕は思います。しかし、それが珍しいことであっては全くならない。乙武参考人は大学生であります。しかし、中学生や高校生はここに来られないのかという問題ももちろんそこにはあります。  つまり、そのようなことを通じて、当事者がどういう理由で何を考えて、感じているのかということを検証する責任が大人にはあります。大人から見て問題行動に見えるとか、大人が不行き届きだと感じるとかという問題は二の次にしていただかないと困るわけですね。それがつまり、モグラが出てきたらたたくのではなくて、モグラが地下でどう生きているのか、動いているのかを観察してほしいということです。  今回のアメリカの事件の背後にはいろいろな要素があります。例えばインターネットを見ますと、ヘイトスピーチと言われるものがたくさんあります。それは、黒人を皆殺しにしろとかそういう人種差別的な、女をみんなレイプしろとか、そういうふうなタイプのインターネットのコミュニケーションというのがたくさんありまして、彼らはそういうヘイトスピーチに参加していたということがわかっています。  こうしたヘイトスピーチというのは日本では余りありません、全くないとは言えませんが。それは、とりわけアメリカあるいはヨーロッパを初めとする国々には、多くの民族、多くの人種、特に移民が大変たくさんいまして、そういうのから成り立っていて、特にこの成熟社会においては、若い人は以前、自分が不幸だった場合には権力者を何とかしようとか社会を変えようとか思ったのが、やはりそれがかなわないのかよくわかりませんが、弱者がより弱者をたたくという形でカタルシスを得るというコミュニケーションがあって、インターネットのヘイトスピーチもそれに利用されているんですね。そういう側面が一方にあります。これはある意味ではアメリカ的な事情であります。  しかし、日本と共通する側面を感じます。それは、ちょっと今言ったこととも絡みますが、何か問題があったときに、社会に働きかけてそれを変えようというふうに思えない。こんな学校は嫌だ、だったら別の学校をつくろう、こんな社会は嫌だ、だったら別の社会をつくろうというふうにならないんですね。別の言葉で言えば、僕の言葉で言うと、社会の中を生きていない。社会が不愉快なので単に社会の外を生きる。別の言い方をすれば、他人は必要ない、自分自分であることにとって他人はノイズでしかないといったような感受性を持った連中が一方に出てきているということはあります。  しかし、アメリカは、九一年から各州に広がった、クリントン政権も後押しするチャータースクール法に従った教育改革のプログラムをかなり成功させていまして、一部の人は、アメリカの凶悪犯罪がふえたふえたと金切り声を上げますが、しかし少年犯罪全体としていうなら半減しています。凶悪犯はふえていますが、少年犯全体は割合がかなり下がっています。これは教育の成功ですね。もちろん経済的に豊かになってきたこともあります。  しかし一方で、アメリカは、さっき言ったように、移民、つまりエスニシティーの問題や階級落差の問題を抱えているので、教育だけではなかなか対処し切れない問題があって、それが例えばヘイトスピーチなんかと結びついているというのが僕の考えであります。  以上です。
  57. 石田勝之

    石田委員長 以上であらかじめ申し出のありました委員質疑は終了いたしました。  これより自由質疑に移ります。  この際、各委員に申し上げます。  質疑のある委員は、挙手の上、委員長の許可を得て発言するようお願いいたします。また、発言の際は、着席のまま所属会派及び氏名を述べた上、お答え願う参考人のお名前を告げていただきたいと存じます。  なお、理事会の協議によりまして、一回の発言時間は三分以内となっておりますので、委員各位の御協力をお願いいたします。  それでは、質疑のある方は挙手をお願いいたします。
  58. 太田昭宏

    ○太田(昭)委員 公明党・改革クラブの太田昭宏と申します。  乙武参考人にお聞きしたいと思います。  私はあの本を読みまして、非常にポジティブで、池坊さんがおっしゃいましたけれども、前向きであるという姿勢を非常に感じたのです。最後の方だったと思いますが、子供たちがさわってきたり、平気でいろいろなことを言うという場面が一カ所だけ出てきました。こういうときにはつらいことが随分あったんじゃないかなという感じを私はしたのです。  宮台参考人の話の中にもあるんですが、大きな時代の変化、豊かな時代の中で、さまざまな意味で人が、子供たちも含めて壊れ始めてきて、大きな、自律的な、あるいは試行錯誤をするという力、そういうものが非常に大事になってくると思うんです。宮台参考人の言葉によれば、失敗にくじけない力、あるいは試行錯誤の中での力、私はそういうものはますます必要になると思うんです。  自己に打ちかつ力とか苦難をはね返す力。私は、力には能動の力というのと受動的な力、宗教などは非常に能動的な力、何かをやろうとして成功したとかいうことの中で生きていく力もあるが、苦難をしっかり受けとめながらはね返す力というのが宗教とか哲学というものでは非常にあると思うんです。そこの受動の力といいますか、苦難をはね返していく力、生きていく力、自分自身に打ちかっていく力、こういうものをどうやって生み出すかということが私は今非常に大事な課題ではないかと思います。  その辺で、乙武さんはどういうふうに考えたり、現実には、先ほどは家族ということはおっしゃいましたが、御自身の中でさまざまな意味で蓄積されてきたものが私はあると思うんですが、その辺をお話しいただきたいということと、短い時間で結構ですが、宮台参考人、同じ質問です。そこが非常に大事な、どうはね返していくかということが焦点なんで、宮台参考人、短くて結構ですからお話しください。
  59. 乙武洋匡

    乙武参考人 やはり人間にもいろいろなタイプがいて、苦難をはね返せる強さを持った人間もいれば、そこでつぶされてしまう、その苦難に打ち負けてしまうタイプの人間もいると思うんですね。僕はどちらかというと多分、分類すれば後者に当たると思うんですね。ですから、僕ははね返しては決していないんです。  だから、どうすればいいのかというと、打ち返すことのできない人間は、それを受け入れて、その苦難を逆に自分のものにしてしまうという発想の方が楽なのかなという気がするんですね。やはり苦難に立ち向かうというのはとても勇気も体力も要ることだと思うんですが、受け入れて自分のものにしてしまうと、逆に力が要らないというか、楽なんですよ。  ですから、僕の場合も、手足がない、車いすに乗っているという状況は、人から見れば多分苦難なのかもしれないんですけれども、僕はそれをはね返しては決していなくて、では、車いすに乗っていて手足がないという状況は、これとあれとそれが大変だけれども、得することは何だろう、逆にこういう体になって生かせる部分は何だろうというふうな形で、それを克服するのではなくて、生かせる形を常に考えているんですね。  ですから、本当にすべての人間が困難に打ちかつ強さを持っているわけではないので、その辺の、苦難とつき合うと言ったら変ですけれども、自分にうまくどう受け入れていくか、受容できるかという部分を考えていくことが重要かなというふうに感じています。
  60. 宮台真司

    宮台参考人 もし一言だけ答えるとすれば、セルフエスティームといいますが、僕は今回尊厳とか自尊心というふうな言い方をさせていただきましたが、やはりそのセルフエスティームのレベルを上げる、尊厳のレベルを上げるということが、失敗を恐れない、失敗にくじけないために必要な条件だと思うんです。  繰り返しになりますが、そこには多分二つのファクターがあって、とりわけ幼少期においては、どういう姿形あるいは能力、すべての問題に関係なく全面的に肯定されているという感覚を獲得すること。二番目に重要なのは、それをもとに試行錯誤を行って、つまり、自分の責任で行った試行錯誤で自分は確実に自分であり続けてきたし、より自分らしくなってきたと思えることですよね。  さまざまな国際比較調査によれば、日本青少年のセルフエスティームのレベルは顕著に低いのです。社会学のさまざまな理論によれば、セルフエスティームの低い人間は、例えば、逸脱、反社会的な行動等に対する敷居が低くなります。もちろん、こういう行動を厳罰主義や法律的な規制によって対処するというモグラたたき的なやり方もありますが、この日本子供たちが圧倒的に低いセルフエスティームの状況に置かれているということの責任を、大人たちがそのような施策でごまかさずにとる必要があるというのが僕の考えです。
  61. 小島敏男

    ○小島委員 自由民主党の小島敏男です。  きょうは参考人皆さん、本当に御苦労さまでございます。いろいろな参考の御意見を聞きまして、大変に勉強になりました。  私ども与えられた時間が短いので、すぐに議題に入りたいと思うのですけれども、今までのお話とちょっと変わった視点から聞きたいのですが、現在世界の中で大きな問題というと、やはりユーゴの問題という形があります。ユーゴ・コソボの問題ですね。  それで、コソボの難民が非常に、百万とも百十万とも言われていますけれども、この間見た新聞によりますと、五十一万人の中の半数が十五歳以下の子供たちだということなんですが、ああいう状態の中で教育も文化も経済も何にも論じられないということであって、これは三人の皆さんにひとつメッセージを送っていただきたいのですが、そういう状態の中で、子供たちは何のためにこの世に生まれてきたのだか、大人社会の中で宗教だとか民族だとかそういうことに巻き込まれている子供たち、この人たちに対してどういうメッセージを持っているかということを一言ずつ、簡単で結構ですからお聞かせいただきたい。  それからもう一つは、私、七人兄弟という、非常に兄弟が多かったものですから、今、宮台先生等からお話があったいわゆる権利義務だとか思いやりだとか、そういうものはやはり兄弟の中で培われてきたのですけれども、今まさに少子化の時代を迎えて、やはり子供たちが少ない、そういう現実があるわけです。  そういう中で、私はいつも問題点がここにあるんじゃないかなと思うんですけれども、それは、子供たちが、考え方がみんなばらばらなわけですよ。いわゆるコンセンサスがとれていない。先ほどのお話のように、何になりたいんだいと言っても、みんな人を気にしながらやるということで、日本子供たちのいわゆる愛国心の問題一つとってもいいと思うんですけれども、子供たちの気持ちがぐっと引き締まる、いわゆる目的がずっと一つになるような、そういうコンセンサスをとる方法というものが何かあるだろうかということを私常々思っています。  一つには、よく、そんなばかなというのですけれども、徴兵という問題がありました。これは、ある一定年齢にいきますとやはり国のために働いたということで、私は徴兵を肯定だとかそういうことをするものではありませんけれども、いずれにしても、そういう一定年齢になったときに、私たちは日本人としての意識を持つために全員一つのトンネルを通る、お金持ちも貧乏人もない、そういう、人を差別したり何かじゃなくて、同じ目的を持った中にみんなが共同で考える、共通で考える、そんな場がないかなということをいつも思っているんですけれども、そのことに対しても、簡単で結構ですからお一人ずつお聞かせをいただければと思います。  以上です。
  62. 乙武洋匡

    乙武参考人 よく言われる言い方ですけれども、子供に罪はないという言い方がされますけれども、確かに、この国に生まれた子供は幸せで、この国に生まれた子供は不幸でというのは本当にあってはならないことだと思うんですね。  ただ、やはり当然、教育を受けられないとかそういったことはすごく考えなければならない問題だと思うんですが、実際に、例えば爆撃で亡くなってしまった、地雷で亡くなってしまった、そういった子供たちのことをどう考えるかということに僕はすごく注目しているんですけれども、やはり僕らがそこから何かを学び取らないといけないと思うんですね。  例えば、三歳で亡くなってしまった。でも、僕は本当にだれもがその人の役割を持っていると思っていますから、そのたった三年間の短い人生でも、彼、彼女、その子供に役割があるんだとすれば、その死から僕らが何を学び取るかといったところにその三年間の人生の役割が生まれてくると思うんですよ。ですから、あ、死んじゃった、かわいそうにではなくて、どうして死んじゃったんだろう、どうしてこんなことになったんだろう、そこで僕らが議論を始める、解決に向かわせる、そこに意味があるのかな、そうしていかなければいけないのかな、そう思っています。  また、二番目の質問なんですけれども、僕はもちろんこの世代を代表するつもりは全くありませんが、今二十三歳という年齢から発言をさせていただければ、日本という国がやはりどうしても、今世界から好かれていないなというのを感じてしまうんですね。根拠はないんですけれども、どうしても、余り日本って好かれていないなというのをいろいろなところから感じてしまうんですよ。その好かれていないと感じている日本に誇りを持てるかというと、やはりそうでない人とそう思える人と出てくるのは当然だと思うんですね。  ですから、いかに、もちろんすべての国に対して八方美人をしろとかそういうことではなくて、もっと日本という国の顔をはっきりさせるというか、もっと何か、子供たち日本人でよかったなと思えるような、そういった部分が必要なのかなと思います。
  63. 世取山洋介

    ○世取山参考人 ユーゴの難民の子供へのメッセージなんですけれども、こういう言い方になります。  アメリカとソマリアを除いて、国際社会はあなたたちのことを忘れていない、なぜならば、その二カ国を除いては子ども権利条約を批准しているからだ、子ども権利条約には難民の子供に関する権利が規定されている、そして今僕は、それに基づいて日本政府が何かの行動をとるように求めるためにここにいる、そして、今訴えている、そういうメッセージになります。ぜひとも彼らに目を向けてやってほしいし、この条約を使って彼らの子供期を守ってほしい、それは切に思います。これがメッセージです。  二番目の質問ですけれども、僕は日本人ですし日本が好きなんですけれども、それは、愛国心というか愛郷心というか何というかは別にして、私としては、そういう自分たちのつくり上げたコミュニティーに対する愛着感というものは、何にも増してやはり自由なかかわり合い、それは大人子供を含めて自由なかかわり合いによってつくっていくべきものだろうというふうに思っているんですね。  ちょっとデリケートな話になりますけれども、例えば所沢高校の問題がありますけれども、ああいう場合だったとしても、上から、日の丸・君が代は国旗・国歌なのだという形で押しつけることなく、じゃ君たちにとって日本は何なのかということで、子供たちと実に率直な議論をしていただきたいんですね。  何かああいう子供たちが怪物かのようなイメージというのがあるんですけれども、一人一人としゃべれば決してそんなことはなくて、普通の子供なんですね。汚い言い方になりますけれども、一人一人が女の子のけつを追っかけて青春を謳歌していて、たまたまそういう問題にかかわっているだけの話なんですね。  そういう子供たちとも、じゃ日本を愛する、何を日本として愛するのか、先生はこういうことを愛している、君たちはどうかという実に丁寧な議論を次の世代としながらコンセンサスをつくっていただきたい。決して強制はしてもらいたくない。それは、彼らに対して大きな傷を与えることだというふうに私は思っております。  以上です。
  64. 宮台真司

    宮台参考人 私は宗教も研究していますが、そういう宗教の観点からも言いたいことはありますが、社会科学者としてという観点に限定するならば、君たちの中で生き残る人たちも大勢いると思うから、その人たちには、なぜ自分たちの親があるいは大人たちが戦っているのかということをよく分析して学んでほしいということです、長じるにつれて。  例えば、セルビア民族と言われます。セルビア人は民族というふうに言われますけれども、民族とは何であるのか。民族というのは実は学問的な概念ではありません。当事者が民族だと思うもの、つまり自意識だということが社会科学的な常識です。  では、どうしてそのような自意識が生まれたのか。自意識の根拠は歴史にあります。ですから、歴史とセルビア人であることとのかかわりを深く学んでほしい。  さらに、ミロシェビッチ政権というのは、皆さん御存じのように、戦争をし続けることによって政権を維持し続けるという、政治学的に言うと典型的な一つのパターンであります。民族が民族であるためには、他民族を排斥し戦い続けなければいけないわけではなくて、そのような振る舞いを必要とするミロシェビッチ政権という、一つの政権の形態があるだけのことであります。民族が民族であることと、ミロシェビッチ氏が大統領であることとの間に関係があるのかどうか、それも彼らが学ぶべきことの一つであります。  二番目の質問でありますが、これは愛国心にかかわる問題であります。  やはりこれは、社会学あるいは社会科学の基本的な定説があります。セルフエスティームの低い人間、自尊心の低い人間が、げたを履くために崇高なものに一体化するというタイプの愛国心があります。これをファシズムというふうに呼びます。これは、フランクフルト学派という、ドイツの、特にユダヤ系の研究者たちが発表した、今では定説となっている研究業績です。そのようなタイプの愛国心は危険です。したがって、私は願い下げです。  つまり、今のセルフエスティームの低い少年たちが直ちに愛国心を持つ場合には、これは極めて危険です。あるいは、先ほどの質問にもあったアメリカのコロラド州の事件もそうなんですけれども、セルフエスティームの低い人間が、例えばかぎ十字に一体化する、あるいはヒットラーもどきに一体化するといった現象がアメリカのサブカルチャーの中に存在しています。これも極めて危険です。  私の望む愛国心は、セルフエスティームの高い人間が、自分の高い自尊心を支えているさまざまな道具立ての基礎にある公共善あるいは公共財を支えるために献身するというタイプの愛国心であります。言いかえれば、セルフエスティームの高い人間が抱く愛国心を私は望みます。それ以外の愛国心は願い下げだということになります。
  65. 石毛えい子

    ○石毛委員 民主党の石毛えい子と申します。  きょうは、大変示唆に富む、そして私にとっては刺激的な出会いをいただきましてありがとうございました。時間もありませんから、端的にお尋ねしたいと思います。  きょう、六・三制とか高校入試とか、あるいはカリキュラムの問題とか、教育制度の話が出ましたけれども、端的にお尋ねしたいと思いますのは、日本教育制度の中で、養護学校義務制実施というのがございます。  先ほど乙武参考人が、ゼミで、子ども権利条約と関連して教育の問題の研究をされているとおっしゃっています。私自身は、子供を、できる子とできない子、あるいは個性、さまざまな違いによって分けるという、要するに、学校入学指定権を教育行政が持っているということに対して、私自身は反対の立場でおります。ですから、養護学校義務制というのは、今、非常にあいまいに運用されるようになってきていますけれども、制度とすればなくすべきものと私は思っております。  自分の見解を簡単に申し上げました上で、三人の参考人皆様に、養護学校の問題点について端的に御指摘いただければというふうに思います。よろしくお願いいたします。
  66. 乙武洋匡

    乙武参考人 僕は、一番いい形としては、やはり当事者とその家族が自分たちの意思で選べる、自由に選択できる状態が最も望ましいと思うんですね。  統合教育地域子供たち一緒にと願う子は地域校へ、また、うちの子は心配なので特殊な教育で学ばせたいと思えば養護学校なり特殊学校へというふうに、自由に選べれば一番いいのかな、そのためには、やはり養護学校も必要ではあるのかなとは思っているのですね。  ただ、今の段階では、行政が、分離教育をさせるために養護学校を用意していて、自由に選ばせるのではなく、無理やりそちらへと連れていってしまうわけですよね。ですから、そういった状況が今後も続くのならいっそのことなくした方がいいと思いますが、やはり、あくまでも理想は、両方が用意されていて、障害を持つ当人とその家族が自由に選べる状況、それが僕は理想だと思っています。
  67. 世取山洋介

    ○世取山参考人 障害児の問題は、権利委員会でも問題になりまして、社会における十分なインクルージョン、包摂というふうに訳していますけれども、十分な包摂を促進するために、締約国でとられている措置は不十分であることを懸念する、そういう指摘がなされております。  インクルージョンという考え方は、別に、障害者の方を引き上げて健常者の方と一緒にするという発想ではなくて、メーンにいる社会が、自分を変えて、障害者を包み込むようにするのだ、そういう発想だと思うのですね。  そういう観点から見た場合に、日本学校教育のメーンをコントロールしている競争主義的な教育制度、競争主義的な教育というのは、やはりインクルージョンを妨げるものとして問題視されざるを得ないというふうに思っていますし、また、競争主義的な教育制度を支えている基準である学習指導要領の法定拘束力についても、端的にそれを見直しの対象にしなければ、恐らく障害者のインクルージョンというものは学校教育制度の中では実現しにくいだろうというふうに私は思っております。  以上です。
  68. 宮台真司

    宮台参考人 養護学校に限らず少し問題を広げさせていただきますが、要するに、子供観、人間観の問題と障害者観の問題がやはり密接に結びついていることをお話しさせていただきたいと思います。  九〇年代に入るころから、日本でも、ようやく障害者と性、セックスの問題が一部で話題になるようになってきています。実際、障害者の介助をされている方の中には、僕もたくさん知り合いがいますが、障害者から、セックスをしてくれ、お願いだからというふうに言われるケースが最近出てきています。一部で、障害者専門の性的サービスを提供するソープランド嬢も、一部のマスコミで話題になったりしています。しかし、そうしたことは、一般にまだ公の場で議論されることはありませんし、もう少し踏み込んで言うならば、障害者障害者にかかわるさまざまなサービスにかかわる人間たちを、どう言ったらいいでしょうか、子供視と同じなんですね、ある種の神聖視をするというふうなところがまだあります。それは非常に僕は問題であろうかと思います。  日本のそのような考え方は、実は、抽象的に言うと、こういう考え方と結びついています。つまり、人間権利、人権は能力に応じて与えられるという発想です。そんなことはないと言いますが、例えば、日本の保守論壇などを見ると、子供たちは自己決定能力が低いから自己決定権があるはずがないという議論がいまだに行われており、それがむしろ大勢であります。  一体、権利は能力に相関するのでしょうか。そんなことはあり得ません。これは人権概念のイロハのイです。もし、自己決定権が能力に関係するという思想を許すならば、それは直ちにナチス的な優生思想に結びつきます。これはナチスだけではなくて、一九七二年までのスウェーデンも同じような考え方を一部でしていました。強制的断種手術が行われてきたことは、皆さん御存じのとおりであります。  その意味でいうと、もう一度繰り返しますが、人権は、権利は能力に関係なく与えられます。先ほど、世取山参考人が、人権という眼鏡をかけて見ると全員が輝いて見えるというふうにおっしゃったのは、そういうことなんですね。そういう人権概念のイロハのイが、まだ日本の大人たちによって大して理解もされず、権利が能力に相関するかのような議論がされているのはいまだに非常に問題であると思います。  そのような考え方が、例えば、一見、健常者に比べると、その部分だけ比べれば能力がないように見える人間子供視する、保護の対象とする、その結果、大人並みの権利がある人間として見えない、感じられないという現象が起こっているのだというふうに思っています。
  69. 下村博文

    ○下村委員 自由民主党の下村です。  貴重な御意見をありがとうございます。時間がないので、宮台参考人にお聞きしたいと思うのですけれども、非常にシャープな分析の仕方で、大変にわかりやすいお話です。  その中で、先進国教育問題というのは、それぞれ、先ほどクリントンの教育改革の問題も発言されましたし、イギリスでも、サッチャー、ブレア等、やはり教育改革ということを目指してやっておりますけれども、それぞれ共通項もあれば、あるいはそれぞれの国によっての違いというのもあると思うのですね。  その中で、我が国におけるほかの国との比較の中で、宮台参考人が考える、制度改革ではなくて、教育における本質的な改革で、この日本においてどこに一番切り込む必要があって、それをどうやっていくことが本質的な教育改革になると思われるのか、感じられていることがあればお話をしていただきたいと思います。
  70. 宮台真司

    宮台参考人 七〇年代に入りまして、成熟社会化を迎えました。つまり、何が幸いなのかは人それぞれだというふうな合意が多くの先進国で生まれて、そこから教育改革に進むわけですが、実はそこから先は、今までの一斉カリキュラムがなくなった後は、非常にさまざまなタイプの教育のプログラムが提案されてきています。  強いて共通性を挙げるならば、簡単に言えば、個人カリキュラム化に代表されるように、子供たちに選ばせる、子供たちが選ぶという、そういう契機をどこかに入れるということです。その結果、例えば、学校で起こることの半分はという言い方は語弊があるかもしれませんが、かなりの部分を、それは君が選んだ結果そうなったんだよというふうに、そういうふうに感じてもらえるような枠組みをつくっているということです。  そこから先、例えば学級担任制を維持するのか廃止するのかとか、あるいは学級を維持するとして人数をどれだけにするのかとか、実際にはやり方はさまざまであります。あるいは、学校評価権を持たないスタッフをどの程度入れるのか、あるいは学校理事会に子供の人数、親の人数をどのくらいの割合で入れるのかということも、それぞれの考え方があって試行錯誤しているという形だと思います。したがって、このプログラムさえあればうまくいくというふうにむしろ考えない方がよく、一斉カリキュラム的な時代の後は、要するに、個人に、子供たちに試行錯誤してもらうためのプログラムは非常に多様であり得ると。  先ほど乙武参考人もおっしゃったように、例えば、僕はよくクラスを廃止しろというふうな言い方をします。これは、わかりやすいからそういうふうに言うんですけれども、全部クラスを廃止しろと言っているわけじゃなくて、クラスを廃止する学校もあってもいい、学級が担任制の学校があってもいい。どれに行くかを選んで、それで失敗すれば自分で別のタイプの学校を選べるようにすればいい、これが基本的な考え方なんですね。つまり、選べるチャンスをふやすというのが、一般的に言うならば、先進国教育改革に共通している部分だろうというふうに思います。それが、先ほど別の先生からの質問がありましたように、責任という概念とまた結びつく生活態度となってあらわれるというふうに思っているわけです。
  71. 石田勝之

    石田委員長 まだ質疑を希望する方がいらっしゃいますが、予定の時間が参りましたので、本日の参考人に対する質疑はこの程度で終了することといたします。  参考人各位におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。  次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。     午前十一時五十三分散会