○藤村
委員 民主党の藤村修でございます。
本
委員会は決算
行政監視ということで、
マスコミでも話題になりました
平成の目安箱というものを設けられて、昨年から、行政への苦情や批判、告発を、だれもが手軽に
国会に届けて、内容次第では
国会で
審議してくれるという、そういう非常に開かれた
委員会になっていることと存じます。
委員長ほか
理事の皆様に、こうして忙しい中にも一般質問の
委員会を開いていただいたことに敬意を表したいと存じます。
ただ、何か、ことしに入ってから、この目安箱に送られる投書は若干減っている、こんなことも伺いましたが、昨年の目安箱で、本
委員会でも二回ほど取り上げられましたが、財団法人交通遺児育英会という、これは総務庁がいわゆる主務監督官庁ということで、民間の交通遺児の進学奨学資金を手当てするような、そういう団体の問題につきまして、これは昨年のこの
決算行政監視委員会で、
平成の目安箱の投書から取り上げられたものとして、私は、その後の問題について、きょうはこれに絞って御質問をさせていただきたい、このように存じます。
まず、昨年は三月の二十五日と五月の十三日にこの投書からこの問題について本
委員会で質疑が行われたと、記録を見させていただきました。私はことしに入ってからこの
委員会に参加したものですから、そのときにはおりませんでしたが、実は私自身が、非常に自分の問題として、この財団法人の問題がちょっと人ごとではない、こういうことで、
最初にその点だけちょっと御説明をしたいんです。
私自身は、学生時代からその交通遺児というグループに出会いました。昭和四十五年のことであります。当時、交通戦争と言われて、年間の交通
事故死亡者が、今は一万人を切るとかその辺ですが、二万人を超すような大変な、戦争とまで言われた時代でありました。
私自身は、大学の体育会自動車部、こういうところに所属しておりました。自民党の
理事の
先生の一人にもそういう仲間がおりますし、あるいは総務庁の太田総務庁長官も、今この自動車部の学生のグループの九州の役員もされていると伺っております。この学生の自動車部というのは、自動車競技や自動車のエンジンの整備などに没頭するクラブですが、自動車を使うという
関係から、交通
事故の問題に無関心ではいられなかったわけであります。
そして、交通遺児という、自動車
事故で親を失った人々のことが当時
マスコミで大変取り上げられるようになり、交通遺児の子供たちの作文集はテレビを通して全国のお茶の間に流れて、大変大きな反響を呼びました。
私も、この交通遺児の作文を読みまして、自動車部という学生として、交通遺児の子供たちの高校進学を訴える街頭募金にみずから学生のときから立ち始め、あるいは地元で交通遺児を励ます会というボランティア、今で言うボランティアサークル活動に取り組んだことで、それが、私自身の今の政治の世界に出てきた理由の
一つでもございますし、あるいはその原点とも言えるものだと思います。
この交通遺児の救済という学生が中心の運動が、今は、あしなが学生募金あるいはあしながおじさんの運動ということで非常に社会に定着をしてきております。そして、それは交通遺児だけにとどまらずに、
災害や病気で親を失い、経済的に苦しい高校生、大学生の奨学金をカンパし、さらに、遺児とともに生きるというこの運動全体があしなが運動として社会からも非常に注目視され、あるいは定着をしていると評価をしております。
既に運動自身は、
最初から数えればもう三十三年ぐらい、三分の一世紀に差しかかっております。
最初の募金というのは、昭和四十二年の秋に東京の数寄屋橋と池袋で、朝の十時から夜の八時まで八日間ぶっ通しで、二十歳代の若者が声をからして、交通遺児の救済ということでカンパをお訴えしたところです。訴えの中心は岡嶋さんという方で、当時は二十四歳。この方は、自分の親がわりでもあった、年は大分上のお姉さんがトラックにひき逃げをされた、いわゆる交通
事故被害者の家族であります。この岡嶋さんらの街頭募金をいわゆるモデル、原型として、今でも毎年、これは春と秋に全国の主要な都市で、学生たちがあしなが学生募金を継承して、ことしの春も、この四月で五十八回目の街頭募金が行われました。私も、大阪難波の街頭でことしも立ちました。
私のような大学自動車部の学生がこうして全国的に募金運動をバトンタッチしてと、そういう時期がしばらくあり、あるいは、その募金のおかげで高校、大学にまで進学できた、これは奨学生というか遺児自身ですね、彼らが今度はいわゆる恩返し運動という形で立ち上がって、遺児が運動の担い手になった時期。あるいは今日は、この遺児の学生とともに街頭に立つ九割の若者たちというのは、高校生、大学生あるいは一般のボランティアで、累計で見れば、この街頭に立った
人たちだけで百五十万人ぐらいの若者がこの募金運動に参加してきた、三分の一世紀を経た運動でございます。
そして、この募金の受け皿というのが、今話題にしようとしておりますが、財団法人交通遺児育英会という、これは総務庁が主務官庁の、監督官庁の民間の財団でございます。昭和四十四年に、これは
国会決議という異例の形で、
国会で決議をして、そういう財団をつくるべしということから民間の財団を発足させて、過去に五万五千人ぐらいの交通遺児たちの高校や大学の進学の奨学金を貸与した。
あるいは、この奨学金で育った交通遺児たちが、さらに
災害遺児とか病気遺児にも進学の夢をと奨学
制度づくりの中心になりまして、
平成五年、六年前でありますが、そこからいわば派生をして、任意団体であしなが育英会という形で別な団体が誕生して、交通遺児以外の遺児の進学を面倒を見ている。これは任意団体でございます。今、こういう二つの流れがございます。
私は、交通遺児育英会の発足の時代からずっとこの募金運動にかかわり続けて、いわゆる若者の熱意と行動力、あるいは普通の庶民のあしながおじさん、おばさん、そして、それを
マスコミも大変支援してくれました。そして、成長したこのあしなが運動は、戦後の日本の最大のボランティア活動として、あるいはNPOというのでしょうか、歴史に残る事業であると自負しております。
ところが、この運動が四半世紀を超えたころ、つまり
平成六年から、交通遺児育英会、この財団法人が実は変質をしてまいりました。このことを、過去の歴史を踏まえてきょうは質問に取り上げたいと存じます。
きょうお配りをさせていただきましたのは
新聞のコピーだけでございますが、ちょっと最近の話としては三ページ目の一番下の記事、これが当
委員会とかかわる記事でございます。
これは毎日の五月十四日の記事で、見出しは「交通遺児育英会に総務庁、天下り計画 九一年に内部文書」とあって、冒頭は、「財団法人・交通遺児育英会(宮崎清文
理事長)に、監督官庁の総務庁が官僚を天下りさせる計画が書き込まれた内部文書が十三日、衆院
決算行政監視委員会で取り上げられ、総務庁は文書の存在を認めた。」これは当
委員会で石井
委員が取り上げられて、
マスコミでも問題になった。
さらに、次の四ページ目の頭、上の方には、去年の十月二十一日の産経
新聞の記事がございます。これは、その後に石井
委員の方から質問主意書を出されたようでありますが、それに対して総務庁の方としては、いわゆる要請を受けて元総務副長官の方を推薦した、総務庁から新たに新任
理事を推薦して、これは
平成三年三月ですか、常任
理事に就任した。そして、実はこの方が今、
平成六年四月から
理事長でいるわけです。この政府の「
答弁書では「交通安全行政の経験が豊富な宮崎氏を
理事候補として育英会に推薦」したことを認めている。」こういう記事でございました。
私は、官庁のOBがそういう民間に行って、そして経験を生かしていただくことすべてが悪いとは申しませんが、このケースについては、この
平成六年四月以降、大変な社会的問題にまで広がっている。それは、
マスコミが相当取り上げたこともあります。あるいは、この募金運動に本当にかかわってこられた、いわば庶民、市民、一般の
国民の皆さんが非常に注目をしていた、そういうこともございます。
そんな中で、昨年の十一月に、実は育英会が、評議員会とか
理事会とか、これが二つとも定数割れになってしまっている。つまり、そういう問題がある団体の
理事とか役員はやめたいということがあったのでしょう、相当やめていかれて、とうとう定数割れになってしまった。だから、昨年の十一月に評議員会でまず
理事の補充選任をした、そういうことがございました。
実はこれは、そもそもの今の発端というのは、
平成六年、今から五年前の、総務副長官をされた方が新しい
理事長になってからの問題でございます。それが、このお配りしました
新聞コピーでいいますと一ページ目の、これは朝日
新聞でありますが、大変、こんなでかい記事が当時出たわけです。
平成六年四月十七日、問題の原点であると私は書きましたが。
このときに、実は評議員会というのが、先ほど私が申しました、四半世紀たった財団の
運営をある意味では代がわりということで、それまで財団の活動、特に募金運動を支えた、
一つは学生たちの募金運動の中心的な人物の人。あるいは、あしながおじさんという形でたくさんの市民の皆さんから協力をいただいているのですが、このあしながおじさんの代表的な方。あるいは、遺児みずから、そして
災害遺児や病気遺児に運動を進めた、そういう中心的な、またこれも社会に出た、もちろん大人の人ですが、そういう人。そのそれぞれの代表者三人を
理事に新たに採用して若い
人たちを入れたらどうか、こういう提案がなされたわけであります。これは、評議員であった前衆議院議員の柿澤さんがそのときの評議員会で提案をされた。
実は、そのときの評議員会で、非常にそれはいい話だということで圧倒的な賛同があったのですが、それではその候補者については
理事会で
検討しなさいよということで、それは
平成六年三月三十日の第五十回評議員会の話でございました。そこから実は話がある意味ではもつれ始めたというか、片や総務副長官の方が
理事長になって、そして、民間できょうまで汗を流した
人たちを
理事に入れるなどとんでもないと思われたかどうか知りませんが、それからの話でございます。もう五年来の話でございます。
そこで、私がまず
最初にお聞きしたいのは、この第五十回評議員会、
平成六年三月三十日、これは監督官庁の方にもこの評議員会の議事録は読んでいただいていると思いますので、このときに、私が今言っているようなことであったのかどうか。つまり、そういう民間から、汗を流した募金のOB、あるいは遺児のOB、あるいはあしながおじさんたちのグループの代表者を
理事に入れるべきだ、そういう話があったことを監督官庁としてはどのように受けとめていたか。当時の議事録についての見解をまず
最初に教えていただきたいと存じます。