○簗瀬進君 結局、今
預金保険機構の
質問をさせていただいたんですけれども、
金融と
財政の分離というようなことが非常に問題になっている。そこで、やっぱり今までの
金融についてのいろんな問題、あるいは
日本全体の現在の
経済不況をつくり出した原因というのは一体どこなのか。いろいろ
考えてみても、私は大蔵省の中に伝統的にある
金融政策と
財政政策の関係、そしてその中でどうしても
金融政策を大胆に動かしはするけれども、
減税等の
財政政策は余り熱心じゃないと、こういうふうな長い間の一つの流れというようなものが現在まで来ているんではないのかな、このような私なりの印象を持つわけでございます。
そこで、これは
大蔵大臣にお聞きしたいと思うんですけれども、この前の本
会議で、
大蔵大臣がバブル発生の問題について非常に率直な反省の言葉を述べられた。私は非常に感じ入ったわけでありますけれども、この辺をひとつテーマにして若干バブルの総括論、非常に時間が短いところであるんですけれども、これを
大蔵大臣のお
考えを聞かせていただきながら、ちょっと進めていきたいと思っております。
私は、簡単に整理をする
意味でちょっとこちらにパネルをつくってまいりましたけれども、いわゆるプラザ合意から始まって現在に至るまでの
日本の
経済というようなものを四つに分けて分析をすべきなんではないのかなと思います。(図表掲示)
一つはプラザ合意があった八五年、それから九〇年、それがバブル発生期。九〇年はなぜ九〇年かというと、ここで例えばゴルフ場の会員権の相場とかあるいは土地の資産価値、それからこの前年の八九年の十二月だったですか、株が最高値の当時は三万八千円台、これを記録したときであったわけであります。
でありますから、バブルの頂点までをバブル発生期。それからその後、急激にバブルを冷やしていった八九年の五月から九一年七月までがバブルの鎮静期。それから、九一年七月から九六年一月までが、これはかなり長いんですけれども、言うならば景気の低迷期、そして
金融不安の顕在期。それから、九六年一月、これは橋本政権誕生で、言うならば膨らみ過ぎてしまった赤字国債を何とかしなきゃならないということで、大蔵省が中心になってしゃかりきに
財政構造改革、こちらの方に行く。
こういうふうに四つに分けてみても、それぞれいずれのときにも、例えばバブルの発生期でも、一番問題になったのは金利
政策で、言うならば当時二・五%というかなり低い金利を二年三カ月にわたってずっと続けてきたことなんではないかなとか、例えばバブルに対してこれを冷やそうとしたときに、総量規制とそれから大変急激な金利のアップをした。本来、例えば正面からやるべき土地の市場の問題あるいは株式市場の問題、そういう正面からの手当てをせずに、どうしても金利
政策に頼ってバブルを消そうとした、そういう無理が来たんじゃないのか。
それから、例えばその後の景気低迷期も、やはりなかなか
減税等の直接的な
財政出動に対しては及び腰、そして赤字国債を出すにしても、それは建設国債とのいろいろ絡みの中でどうしても従来パターンの公共事業の方にお金が行ってしまった。こういう
意味での一つのこれは
財政政策のひずみがやっぱりここに出た。
そして一方で、超低金利
政策の〇・五%をずっと続けた。これは一つには景気対策の
意味もある。だけれども、
二つ目には、これは言うならば超低金利によって
銀行の、
金融機関の収益環境をよくしようと、こういうふうなことをやったわけであります。
それから、このバブルの失速期というふうなことで見てみても、これは結局、現状とかなりずれた景況認識の中で
財政構造改革にしゃにむに突き進んでいった橋本政権の一つの大きなやっぱり誤りだったんではないのか。
このように
考えてみますと、我が国の
経済の一つの大きな問題点をつくったというのは、やっぱり大蔵省の中にある伝統的な
財政優位、そして景気対策等を含めてかなり金利
政策の方に依存をしながら
経済運営をしてきてしまったという問題があるんじゃないのかな。
そして、私もかつては
自民党にいました。だからそんなに偉そうに批判をすることはできないと思っていますけれども、そういう
意味でとにかく大蔵省を初めとするそういう官僚主導の政治に対して政治の側でしっかりと抑え込むことができなかった、こういうふうな問題が現在来たのではないのかな、私はこのような認識を持つんですけれども、
総理あるいは
大蔵大臣、お
考えを聞かせていただければと思います。