○東(順)
委員 そこで、この
最初の国策移民という政策をとった
状況でございますけれども、むしろドミニカ側は今受け入れるのは無理であるという
状況であったにもかかわらず、とにかく受け入れてくれということでかなり強引にこの移民政策というものを押し込んだ、こういう経緯があるようでございます。
それは、公文書という形で私の手元にございます。
これをちょっと読んでみますと、昭和三十一年七月から昭和三十四年までに、この期間十二次にわたって移住がされたわけでございますけれども、この直前に、昭和三十一年二月のときの公文書で、ドミニカの大規模移民推進
委員会委員長でヘスス・マリア・トロンコソさん、こういう人がドミニカの
外務大臣にあてた書簡の中でこういうものがございます。
「ドミニカ共和国
政府が現実に負う責務を見ると入植者問題に関して、
日本人移民のいかなる計画も、今は見合わせるべきである。」受けるべきではない、こう述べておるわけでございます。
そしてまた、その一カ月後の、やはりこれも移民が始まる前、その直前ですけれども、ドミニカの農務
大臣ルイス・R・メルカードという
大臣がやはり
外務大臣にあてた書簡でこのように述べています。
「二月二十四日午前十時、私の事務室を」、私というのは農務
大臣です。「私の事務室を
日本国公使が秘書を同行して訪問。
日本国公使は、
日本政府ができるだけ短期間に計画の開始について、ドミニカ共和国
政府の決定を知りたいといった。
日本政府はその
予算を決定する必要があるため。」とにかく早く移民を出したいのでということでこの
日本国公使が言ってきた。
「公使は加えて以下のように述べた。ドミニカ共和国
政府が受け入れを表明し次第、適当な入植地を決めるため代表者を送る。
日本国公使にたいしていった見解によれば、」これは今度は農務
大臣が
日本国公使に対して言った見解によれば「水不足のためファン・カルボ用水路によって、その土地を早急に潅漑するのは不可能である。同様に、前述の土地の
洪水を避けるための防波堤の
建設も不可能である。」要するに、
状況としては受け入れ
体制にないということをこうやって重ねて言っているわけでございます。
しかし、「このことに関し
日本国公使は、そのような状態であっても計画を実行していく上で問題はないと述べた。また、
日本人技術者は前述のもっとも低い土地で、選ばれた
日本人農民は乾燥地域耕作を経験しているので、容易に開拓していくことができることを示した。」
日本人の技術は高いのだから、そんな厳しい
状況だって容易に耕作できるよ、こう言っているのですね。そして、「つけ加えくおそらくドミニカ共和国
政府は、風車のついた井戸をいくつか
建設できるだろうと述べた。」こう言っているわけでございます。
要するに、ドミニカとしては今受け入れる
状況ではないからと一生懸命に断っているのですけれども、いや入れたいのだということで必死になって押し込もうとしているさまが目に浮かんでくるようでございます。当時の所管である
外務省、それと国内的には農林省、これが必死になってこの国策移民であるドミニカ移住ということを押し込んだわけでございます。これは、こういう
状況の中で移民として送り込まれた
人たちは大変なわけです。こういう大変な
状況があるにもかかわらず強行したということでございます。
ここに写真がございます。この写真は、ちょっと遠くて、
大臣なかなか見にくいと思うのですが、それぞれ一枚ずつになっております。すぐお持ちします。
ここにドベルエ、塩の浜ですね。この土地一面にもう塩が吹き上げてきて、とても農耕にかなうような土地ではない。あるいはネイバ、石の山。至るところ石だらけです。こういうところに現実は移民が送り込まれている。
そして、私は、カリブの楽園ということで、行け行けといってどんどん過大に宣伝をして移民の
皆さん方を送り込む、その当時にあらわされた書籍というものを見てみました。これは著者が二人いらっしゃって、どちらも農水省の人なんですね。この
人たちが、あたかも現地をルポしてというような形で、今私が言いましたドベルエあるいはネイバのことをこう書いている。
例えばネイバ、この石の山のところでございます。ちょっとこれを
大臣に。
この本によりますとこう書いてあります。「
政府の手によって一切の開拓開墾がなされ、住宅や水道設備が施され、かんがいの必要なところはその施設が出来て、入植翌日からでも播付けが可能な状態にしてから入植させるのであって、入植者は極めて好条件に恵まれている。」「ネイバの地区もそのとおりで、私が行った時には耕作用地三五〇〇タレア住宅用地一五〇〇タレアがきれいに開墾整地され農業開発機械公団の数台のブルドーザーが残った木の根などを寄せ焼きしているところであった。」こう書いてあるのですね。
ところが、現実に、
最初に第一次の移民として行かれた、このネイバにまさに入られた小市仁司さんという方がおられる。私は、この方から直接お話を聞いた。この方はもう既に、絶望して、現地では生きていけずに
日本に帰国されておられる方ですけれども、三十二年十月にこのネイバに入植をされた。まさに石の山ですね。そのときに三十二タレア分譲された。しかし、その中で実際に耕すことのできた、農耕地として使えたのはたった三タレアであった。これが現実なんですね。ところが、当時のこの本によりますと、宣伝のためにつくられたのでしょう、今のような美辞麗句が並んでいる。
そしてまた、ドベルエも同じようなことでございまして、ドベルエ地区についてはこのように書かれています。
大臣、その手元にございます、今度は塩の浜のところですね。「すでに三〇〇万ドルを投じて二十数万タレアをかんがいするに足る水路が完成し、住宅設備も着々完成している。土壌は幾分塩分を含む外は組成よく、従って塩分を洗い流す期間一−二年は作物の不出来を予想して
政府は生活補給金を出す予定であり、その後の生産力は相当大きいと思われる。」こういうことが書かれている。
しかし、現実は、その後の生産力どころか、全く死の土地である。したがって、もうその土地を離れざるを得なかった、生活できないということで、この方は、ドミニカの中を転々とされたのでしょう、やがて
日本に帰ってこられた。こういう事実があったわけでございます。
したがって、移住者を募集する際に移住者に募集要項というものが示されておりますけれども、これは
日本政府が作成したものであるかどうか、この辺についてもお伺いします。