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山下栄一君 公明の
山下でございます。
限られた時間でございますけれども、私は一つだけきょうは御
質問したい、問題提起を行いたいと思っております。
文部大臣、先ほど
萱野委員の御
質問の
関係の中で、戦後五十年過ぎまして
学校教育の制度的疲労という、六三三四制の見直しという観点でお話しされたわけでございますけれども、私は、もちろん戦後の
教育の制度疲労という問題、もっと言えば明治以降の学制、一八七二年以降百二十五年以上過ぎているわけです、百年以上たっているわけですけれども、もう一度、
教育の使命、
教育の役割、人類にとって本当にとうとい仕事である人を育てるということを、
家庭教育、
学校教育、
地域教育、いろいろな観点があると
思いますけれども、
教育そのものの使命、役割というのをやっぱり
国民的な議論の中で知恵を出し合う必要性があるのではないかなと。
学校依存主義、
学校至上主義というのが特に明治以降色濃く来たのではないか、これが今大きく問われている。
学校完全五日制ということもありますけれども、中教審で
家庭教育のことをお考えになるのも結構ですけれども、そういう一部の偉い人で話し合うということじゃなくて、今はもう公務員
教育が問われているということだと思うんですけれども、
現場に根差した、その
悩みの中から知恵を出し合うということがもう今本当に大事だなということを
感じております。
それで、十代の
青少年の凶悪
事件が激増している。別に
ナイフだけじゃございませんで、強盗、殺人、殺傷、そういうことがこの数年言われ続けてきております。薬物汚染の問題、これも一昨年から私何度か取り上げました。教室が
覚せい剤の販売場所になっている。もう異常な事態である。すべての県で小学生も含めて補導され逮捕されている。校内暴力も激増している。不登校、いじめ、先ほども数字があったとおりです。高校中退者も、先日の統計にもあらわれたとおり十一万人を超えたと。
ナイフを使った
事件は、
学校の中で中学一年の男の子が
学校の
先生を殺してしまったということから衝撃的にえらい問題になっていますけれども、実は去年、おととしだけでも、
平成八年、九年の二年間で中学生、高校生がかかわった
ナイフの
事件というのは百三十件以上ある。これは
新聞報道によるものだけでございます。それ以外にもというようなことを考えていくと、別に突然
ナイフの
事件が始まったのではない。
私は、
自分の経験からですけれども、うちにも中学生の
子供がおりますけれども、中学生、高校生になってくると、
大人と中学生、高校生の対話が物すごく成立しにくい。幼稚園、小
学校、そのころは一生懸命親もかかわりますけれども、中学、特に二年ぐらいからになるとかかわれない、対話が成立しない。対話があるときはどんな形で対話するかというと、つじ切り的対話と僕は言うんですけれども、
学校の中でもそういうことがあるかもわかりません。目と目を見詰め合いながら話をするというようなことは本当にやりにくい。すれ違いざまに激しい言葉を親が、
先生が切りつけるがごとく
指摘してがっと言う。それは言葉の暴力として傷を負って
生徒が去っていくというふうな、そういうふうなこともよくあるわけです。
ナイフを使ってはいないけれども、
ナイフと同じように心に傷を与えている。
大人と中学生、高校生の対話が本当に難しい年代、それは別に最近に始まったことではないかもわかりません。ルソーが言っている言葉では、熱病にうなされたライオンというのが十代の心の状況だと。だから、物すごく
大人から見ると扱いにくくなっているけれども、だけれどもそこが勝負である、そのときの接し方いかんによって生涯に残る出会いがあり
教育もできるんだという。だから、おとなしい子とか寄ってくる子を育てることは簡単ですけれども、反抗、敵対意識むき出しで襲いかかってくるような形の、そこに本当は
教育のだいご味があるんだという観点でなかなか
教育がされないというふうな実情がある。問題児こそ
教育の
技術の見せどころであるという、そのような意気込みみたいなものが親も
教師も本当に問われているなというふうに私は思うわけです。
だから、余り実態がわからないままに、
ナイフを持ってくる子がふえていると。持ち物検査というふうな、もちろんそういう緊急対応も必要なわけですけれども、
新聞も書き立てるし
文部省も何かせないかぬというふうなことになってくるんでしょうけれども、私たちはそんなことを要求しているんじゃないよと
子供は必死で訴えているというふうに私には
感じられるんです。
大人と中学生、高校生、十代の
子供たちのずれがどんどん深くなってきているんではないかなということを
感じております。
僕は、
大人が連帯をするということが物すごく必要な時期だなと。先ほど
小野先生もおっしゃっていましたけれども、
先生も悩んでいる、登校拒否になるぐらい悩んでいる。親も悩んでいる、悩んでいるけれども連帯していない。それぞれが
悩みを抱えて、中学生ぐらいになると参観日にも行かなくなってお任せという
感じになってしまって、だけれども家でも対話できていないという状況になっているのではないか。
学校において
先生の前で見せる顔、そして友達の前で見せる顔、
お父さんお母さんの前で見せる顔、全部違う。私自身も
教師をしていましたので、教室に四十人おりますと、
自分と相性が合う
子供というのは四十人もおったら五、六人しかいない。そのほかの
子供たちはなかなか心の中には入り切れない。なつく
子供はおるけれども、全然合わない
子供がいる。
家庭訪問すると、その中学生が近所の小学生に慕われていたり、
学校とは全然違う姿を見せる場合がある。
お父さんお母さんと、弟、妹と話すと今度はまた違うというふうなことから、
学校の中だけで見せる顔で判断すると大変なことになるというようなことを私自身も
感じた経験があるんです。
要するに、余りよく実態がわからないままに手を打つと管理型の対応になってしまう、これが僕は非常にまずいのではないかなという
気持ちを物すごく持っております。
大人の連帯の必要性ということを、先ほど
文部大臣は一橋中学の教員の連帯の話がありました。この教員の連帯も非常に難しい世界だと
思いますけれども、物すごく大事である。だけれども、
お父さんお母さんと
先生方の連帯、これが特に中学生、高校生は大事だけれども、
学校に出かけて
先生と話し合う機会はほとんどない。進路
相談、問題が起きたときに呼び出されて、取り締まり的観点から
先生が警察官の顔に見えて、御
指導賜るというようなことがあるかもわからない。だから、連帯が非常にやりにくい中学、高校生の段階ではないかなと。
先生も
悩み、親も悩んでいるんだから、
悩みの連帯、
悩みを共有する中から知恵が出てくる。それが
現場の知恵だ、そこから解決の糸口が見えてくるのではないかと。もちろんそこに
子供たちも入っていったらいいと
思いますけれども、まず
保護者と
学校の
先生との連帯、それが物すごく大事な年代が中学生、高校生ではないかな、こういうことを
感じておりますけれども、それについての
大臣のお考えをお聞きしたい。