○伊藤
基隆君 民友連の伊藤でございます。
私は、本通常国会のこの
委員会の中で一貫して
質問し、また解明したいテーマは
日本版
ビッグバンをどのようにとらえていくかということであります。
一つは、社会経済の発展という視点で
政府が諸準備を進めているテンポと
日本の
銀行の
経営体質または
経営体制の改革が同じテンポで進められて諸準備が行われているのかすなわち
日本版
ビッグバンが順調なスタートを切ることができるのかという点であります。
もう
一つは、社会経済の安定または安全という視点から、
ビッグバンがもたらす経済上のひずみ、または社会上のひずみ、これに対してどのように対応していくかということで
質問も準備し、徐々に核心をついていきたいというふうに実は思っておりました。
今回、
不祥事が起こって、その
不祥事については社会的にこれはもう悪ということに規定されているわけでありまして、そのことについて
質問し、追及すれば、当局からは遺憾の意が表明され、責任の問題が出てきて、または
処分というようなことが出てまいります。
質問する方はまさに悪行に対して聞くわけですから絶対優位みたいな立場であって、しかし問題はそれだけで、遺憾の意が表明されたり、責任をとると言ったり、
処分すると言ったりしたことだけで事足りるのかどうかということに実は今回の一連の状況を見ておりまして気がつきました。
したがって、少し非生産的なことになるのかなと思っていたことも
考え方を改めまして、余りこの種のことについては
質問を今までしてきませんでしたけれ
ども、きょうは少し時間をかけてやりたいと思っております。構造的な問題としてやりたい。
日本の
金融危機はまさに複合汚染の中から、
金融システムに複合汚染が食い込んできて起こっているんじゃないかと。後々触れたいと
思いますが、まず第一は隠匿され続けてきた巨大な不良債権の存在であります。このことを許してきた
日本の政治状況なり企業体質というものがあるだろうと。さらには、決済システムという公共財を預かる
銀行家たちに
倫理の喪失が甚だしいものがある。内部のモラル退廃、さらにはやみの
世界とのつながりということがこれだけ出てきて、さらには行政機関と民間
金融機関との間の情報のいわば売り買いがなされているという前代未聞の退廃が起こってきている。さらには、そのために
政府は
ビッグバンを進めようとするんでしょうが、護送船団方式と言われた
日本の
金融行政、そのさまざまな諸事情の中で規制と行政指導、監督ということが
金融のグローバル化という状況の中で全く合わなくなってきている。もう既に以前からそのことが言われて、制度疲労が
指摘されていながらも、そのことに対する改革が放置されてきて、まさに市場経済、民主主義体制の先進国
日本として
考えられないような今日の停滞ということが起こっているんじゃないかと
思います。
金融システムはまさにミクロがシステム全体の安定性を規定しかねないといういわば弱さ、弱点があります。昨年末、十一月以来起こった事象というのがそのことを証明しているかというふうに思っております。だからこそ、
金融情報に関して、マクロ情報だけでなくて、むしろ個別
金融機関に関する最新のミクロ情報をマーケットに公開するということが重要になってきて、そのことが市場における利用者、お客の選択の確かさを証明するということにもつながってきて
金融システムの安定につながってくるというふうに
考えております。
しかしながら、市場は常に客観的に状況が把握されるわけではありませんし、情報機会の格差というものもありますから、そのためにこそ
政府・
大蔵省には
金融行政と
金融検査権限というものがあるし、
日本銀行には決済システムの運営、規制・監督権、特別融資などの最後の貸し手機能などのプルーデンス政策の諸機能が付与されている。単に許認可官庁というような立場ではなくて、
日本の経済の死命を制する立場にあるがゆえにその権限が付与され、行使することを
法律的にも社会全体としても認めているわけであります。
今回の
大蔵省の
不祥事と
日銀の
不祥事というのは、情報と引きかえに組織的にあるいは個人的に
接待を受けるという現象を悪として、その改善を図るという次元の問題ではないのではないか、
日本の
金融行政と
金融システムの構造にかかわっているのではないか、
金融行政を所管する
大蔵省あるいは中央
銀行、その位置そのものが自己否定されているのではないかというふうに
思います。
この点について、この構造的な問題としてのとらえ方はいかがか、
大蔵大臣の見解と
日銀総裁の見解をまずお伺いしたいというふうに
思います。