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本岡昭次君 私が財源をどう調達するかという私案的なものは若干後で申し上げます。
しかし、基本は私は財源調達の問題ではないと
考えています。一兆円だからどうだ、五千億円だからどうだ、一千億円だからどうだ、五百億円だからどうだということではない。出してはならないものは一円だって出してはならないということになろうかと思います。出さねばならないものはたとえ一兆円でも出さなければならないというところが私は大事であろう、こう思うのであります。
そういう
意味で、今、私
たちが
自然災害によって
被災した
被災者個人に対して法的
支援をするということが果たしていいのか悪いのかという問題の議論をまずきちっとしなければならないと
考えます。
今までは、それはすべきでないという
一つの立場に立って法制度が組まれていたのであります。それを、私
たちは
支援をすべきであるという立場に立つこの
法律を今提示いたしております。
それでは、今までしてはならない、すべきではないというそういう
考え方をすべきであるというふうに変えていく、一体その理屈はどこにあるのかという問題がございます。それはいろいろあるわけでありますが、私
たちが
生活基盤回復支援金というここのところに着目したのは、すべきでないという今までの論理をすべきであるというところに変えていくという
意味がここに非常に強くございます。
それで、私は、
被災地の復旧・
復興というのはやはり大きな柱が二つあると。
一つは
被災地の公共的なもの、インフラ的なもの、こうしたものをきちっとやっていかなければ地域社会そのものは
復興しないわけであります。もう
一つは、
被災者の
生活は一体だれがどのようにして
復興させていくかと。しかし、今まではそこのところは自助努力、自力
復興、自分のことは自分でやるべきだという立場が貫かれていたのであります。そういうことになれば地域の
復興と個人の問題がばらばらであってうまくいかない、両方がきちっとした手だてが行われて初めて
被災した地域社会の
復興ができるんだ、どちらが欠けてもいけないと、こう私は思うのであります。
だから、そういう立場に立ちますと、公共的なものに国の
税金を使うのは公共の利益、公益に値する、しかし私的なものはそうならないというふうな理屈でいいのかどうか。私は、
被災者個人が自助努力で自力
復興をしていくその基本的な経済的な条件を整えていくということも公共的なものであるとも
考えるし、公益に資するものであるというふうに
考えなければいけないんじゃないかというふうに思います。
とすれば、個人の
被災者に対して、自力
復興あるいは自助努力というもので立ち上がっていくまでの崩壊された
生活基盤を
回復するための経済的な
支援を国がすべきだということになれば、あとは一千億であれ五千億であれ一兆であれ、それは
政府の責任で調達して、そうした公益に資する対応をするのが当然であろうと思います。
そして、今公的
資金という問題は、金融の不安定な状態の中で金融の安定化とか預金者の預金保護とかいうことで三十兆円という公的
資金の出し方も現にあるし、住専では六千八百億という
お金が一般会計の中から出されておりますし、また現に
復興基金だってさまざまな知恵がそこに働かされております。そういうふうに出すべきであるとなればその出し方はいろいろあるし、建設国債あるいは赤字国債というふうな形の国債を発行して財源を得る方法だって、今までもいろんな場合に
考えて
政府は対応してきたと私は思っております。だから、そういう
意味で、やるべきだという立場になれば、それは
政府の責任でおのずからやる方法はある。七十七兆円の国の予算を全部使えというような乱暴な話では絶対ないわけでありまして、可能である、私はこう
考えます。