○
伊藤基隆君 民主党・新緑風会の
伊藤でございます。
本
委員会は、総括
質疑から一般
質疑に移ってきておりますが、
財政状況の悪化にどう対応するかということの議論をずっと続けているわけであります。今日、大変な
経済の不況、株価にそれが厳しくあらわれてきておるわけですけれども、
国民生活への影響がこの時期になって厳しくなりつつあるのではないかという気がつくづくいたします。
私は、自分が住んでいるところのそば屋のおやじとこの間話をしておったんですが、昨年と比べてそば屋の売り上げが半分になったと、これはオーバーに言っているのではないわけであります。だからといって、そば屋が急に生活に困って苦しくなるということではないんですけれども、そういう
状況下にじわりと動いてきたのではないかというふうに思っています。
財政の
状況が悪化した、それはとりもなおさず
経済の
状況が悪くなる、
国民の生活が苦しくなってきているということの原因となるところは、バブルの後遺症であり、そのことの克服がなされていないということが総括
質疑における総理の答弁、
大蔵大臣の答弁の中で示されました。
私は、現政権はちょっと
国民から取り過ぎているのではないか、減税を打ち切ったこと、消費税をアップしたこと、医療費の値上げ、超低
金利、これらを見ると少し
国民から取り過ぎているというふうに思われます。そのことにどう政権が思いを寄せているか、
大蔵大臣がどのように考えているかということが、この
財政構造改革をする上で
国民の支持が得られるか得られないかというところにつながっていくんじゃないかというふうに思っております。
私は、このバブルの後遺症といいますと、バブルからバブルの崩壊にかけて少し経過を、多分に來雑物を排して四捨五人的に申し上げてみたいというふうに思っています。
冷戦末期にアメリカは、それまで何もかも抱え込むという覇権体制は
限界に来ていたのではないかというふうに言われております。軍事力の増強、高
金利、ドル高というレーガン戦略は行き詰まっていたのではないでしょうか。私は、この夏、議長のお供をしてレイキャビクの現場を拝見させてもらってきましたが、新デタントは、アメリカにとってはそういった
経済戦略の転換の好機だったのではないかと思います。軍事費を抑制し、
財政赤字の削減、
金利低下、ドル高是正の転換は、国際政治の変化を巧みに取り入れた
経済政策の軌道修正であったろうというふうに思います。
アメリカは、ドル安を進めながら
日本からの
資金導入を求め、これには
日本の
金利がアメリカより低くなければならないということで、公定歩合の引き下げを何度も
日本に求めてきたわけでございます。
日本の不幸は、政策協調という名の円高対策が
金融政策偏重になった、とりわけ八七年二月のルーブル合意に当たって実施した公定歩合二・五%という低
金利の時期を長引かせたことがバブル
経済の素地をつくったのではないかというふうに思います。二・五%、今から考えると夢のような数字でございます。
アメリカの公定歩合引き下げ要求に対して、
日銀は当時抵抗したようでございますが、対米協調と
財政再建を優先する
大蔵省に押し切られて、地価や株価が当時上昇してバブルの危機があったにもかかわらず
大蔵省は
金融緩和の是正に動かなかった。その反動が三重野
日銀総裁時代の急激な
金融引き締めになって、過熱したバブルを急激に冷やしたのだと思います。
住専の
特別委員会でも私は申し上げましたが、そのときの決定打が
大蔵省による不動産融資規制で、
資金を絶たれた開発案件は軒並みつぶれ
不良債権となった。このとき住専と農協系
金融機関の
資金ルートだけがあいたまま残されて、住専問題へと発展したわけでございます。
今プラザ合意から十二年たちました。アメリカ
経済は当時から見ると息を吹き返してきて、マルチメディアなどの先端分野を独走して、
不良債権は荒療治で
処理し、アメリカの
銀行は復活し格付を大幅に上げたわけですが、バブル崩壊後の
日本経済はデフレ泥沼から抜け出せない
状況となって、
銀行不倒神話が崩れ、
拓銀の
状況も本日
報告されておりますけれども、
金融システムの不安、危機というものが起こっているわけでございます。
もう
一つのバブル発生の大きな原因について申し上げてみたいと思います。
戦後は一貫した低
金利政策で来たというふうに私は思っています、預貯金に対する低
金利政策。戦後間もなくのころは産業復興の名のもとに行われてそれなりの意味もあったと思いますが、その思想がずっと貫かれてきたのではないか。この間、特に
銀行は護送船団方式と言われる保護的な色彩が強いぬくぬくとした保護のもとにあって、最も経営
状況の悪い
金融機関の経営が成り立つレベルに利子が設定され、
金利が設定されたために、経営状態のよい
銀行にとっては大きな利益をもたらすという
状況が続いてきたと思います。
物価と公定歩合と預貯金
金利の
状況を申し上げますと、物価は、一九七一年から七八年まで数字をとりますと、七一年が対前年比六・〇%、七二年が五・五%、七三年が一五・六%、七四年が二〇・九%、七五年が一〇・二%、七六年が九・八%、七八年が六・九%という対前年比の急上昇でございます。
特に、七三から七五までの狂乱物価というところを見ますと、七三年は物価が一五・六%アップしたのに、公定歩合は五・〇から九・〇、これは七四年まで続きますが、定額貯金は一年利子で五・五〇、定期
預金が一年物で五・七五、七四年が対前年比物価が二〇・九%アップしたのに、定額貯金は六・七五、定期
預金一年物七・二五、七五年が物価が対前年比一〇・二%アップに対して、定額貯金は六・二五、一年定期が六・七五。まさに狂乱物価によって
預金の目減りがあって、この間大企業の借金は棒引きになったと言われるぐらいの
状況が起こったわけでございます。
銀行は、大企業の
資金ストックが大きくなったため
貸出先がなくなってきて、中小企業、非製造業へ
融資先を図っているわけでございます。第二臨調の
銀行出身
委員が、当時、公的セクターの規制を取り払って民間の融資の幅を広げるべきだとの主張を行っております。
一九八五年、
金融自由化が本格的に始まって、
金利さえ高くすれば
資金は市場から
幾らでも集められるという
状況があらわれてきました。調達手段は大口定期
預金、譲渡性
預金など多様化いたしまして、金余り企業が市場にどんどん
資金を出していった。企業は本業より財テクでもうけるというような話も伝わってきたわけでございます。
一方大企業は、株高で証券市場から大量な
資金を
導入できるようになって、ますます
銀行離れを強めていったんではないでしょうか。
銀行は非製造業、中小企業に融資するしがなくて、やがて不動産融資に走っていったわけでございます。バブル崩壊の大もとになっているわけでございます。
私は、戦後一貫して低
金利の
状況が続いてきた、これは市場メカニズムであろうけれども、政策的な誘導があったからこういうことになってきたのではないかというふうに思います 特に、狂乱物価と言われる時期は貯金の価値が実質的に低下して、ゼンセン同盟が当時、目減り訴訟を起こしたということを記憶しております。この低
金利状況、政策による誘導がバブルの発生の重要な要因となり、またそれがバブル崩壊につながっていって今日的な
状況になってきたというふうに私は考えております。
多分に省略、四捨五人的でございますが、この経過に対して、
大蔵大臣のまず所信をお伺いしたいと思います。