○紺谷
参考人 日本証券経済研究所の紺谷でございます。
きょうは、
意見陳述のチャンスを与えてくださって、ありがとうございます。ですけれども、私は専門家でも何でもございませんので、ずっと証券市場で仕事をしてきた
人間としての直観論と申しましょうか、そういう話をさせていただくことになろうかと存じます。
この
総会屋の問題に関しましては、いろいろ議論が混乱してしまっているところがあるかなと思うのですね。ですから、まず問題点の整理が必要なのではないかと存じます。
まず、なぜ
日本でだけ
総会屋がばっこするのかという問題があります。
日本だけ特にアンフェアなのだろうか。そうおっしゃる方、たくさんいらっしゃるのですけれども、私は、どこかの国の国民が特にフェアで、ほかの国の国民が特にアンフェアだというようなことは絶対あり得ないのではないかと思いますので、そういうフェアネスの問題ではないのじゃないのかなと思うのです。
例えば、
日本では最近、野村とか一勧問題なんかがありまして、護送船団の金融・証券業というのが特に問題になりまして、あの場合には行政のやり方というのもかなりかかわっていたのではないかと思うのですけれども、それだけではなくて、結果的に、やはりその後続々と、日立が出、三菱が出ということで、一般
企業全体に蔓延しているというのは、今回の海の家
事件をまたなくてもかなり知れ渡ったことではないかと思うのです。
じゃ、どうしてなのかということなのでございますけれども、
日本では、リスクに挑戦する
企業家精神というのでしょうか、そういうものを持った方たちが
経営者にならないのです。
企業トップにならない。そういう特徴があるのじゃないのかなと思うわけです。
日本で、特に
総会屋という形で、脅迫者というのでしょうか、が出てしまいますのは、
経営者の問題というのがあるのじゃないかと思うのです。でも、それは個々人の
経営者のモラルが低いということではなくて、
日本が高度成長期にリスクの少ない
経営が可能であったということです。もともと農業国家で、仲よしこよししないと、例えば水も分けてもらえないとか、それから、刈り入れとか田植えの時期というのは逃すと大変らしいのですけれども、そういうときに村を挙げて協力してもらわなくてはいけない。だから、村八分が怖いのだという村
社会的な要因というのは太古からあるようなんでございます。
かてて加えて、高度成長期というのは先進国というお手本のあるキャッチアップの時代、追いつき追い越せの時代なんですね。つまり、マニュアルのある時代。目標が見えていて、いかに打って一丸となって早くそこに到達するかという時代でございますから、年功序列とか終身雇用とか、いろいろ言われる
日本の
会社の仕組みというのは、そういうキャッチアップ時代、高度成長期に非常に適合したあり方であったのではないのかなと思うわけです。もともと持っていた、何というのでしょうか、仲よしクラブ体質というのが高度成長期にかなり助長されたということがあったのではないかと思うのです。
ですから、勇猛果敢にリスクにチャレンジして、フロンティアスピリットで前に進んでいくというような方ではなくて、全体をよくおさめていく。特に
日本は昔から
トップダウンではなくてボトムアップの
社会だと言われておりまして、そういう
意味でも、調整能力にたけた方、みんなの
意見をよく聞いて、穏やかにまとめていくという方が
トップに来ている。そのために、
総会屋ともなかなか戦えない。どこの
企業にだってたたけばほこりは出るのではないかと思うのですね。
私、大学で教えておりまして、学生たちが、どうして
日本の
経営者はこんなにだめなんだ、政治家はだめなんだと偉そうに言うので、あなたさっきあそこで赤信号無視していたではないかと。だれだってその場その場で、何かいいかげんにやっている部分というのでしょうか、逃れてしまっている部分というのはあるのでありまして、だから、そういうときに毅然として立ち向かえばいいのだと言うのですけれども、そうしなくてもいい人というのでしょうか、そうできない人というのが
トップに来るような
日本の経済環境が大きかったのではないのかなというふうに思うわけです。
ですから、この問題というのは、ある
意味ではほうっておいても、
日本経済全体がリスクをとらなければ成長が不可能な時代に突入しておりますから、
日本の
経営者もどんどんリスクにチャレンジしていかないと
会社自体が生き残れないというような状況に入ってきておりますので、
会社自体の生き残りを考えましたならば、そういう
経営者も選ばれないし、自然と
企業体質を変えざるを得ない。必要が体質を変えていくというようなことがあるのではないかと思います。
ですから、いわゆるしゃんしゃん
総会に代表されるような
日本的
経営の特質というのはやがてはなくなるのではないのかなと思ってはおりますけれども、ただそれをじっと待っているというのもばかばかしいですから、できるだけ早くそういう仕組みに転換するという必要はあろうかと思うのですね。
ただ、もう
一つここで指摘させていただきたいのは、
株主総会が形骸化しているという議論なんです。それも議論の整理が必要な部分ではないかなと思うのでございます。
どういうことかといいますと、
日本でだけじゃないのですね。
株主総会が形骸化し、儀式化しているというのはほかの国だってそうなんです。アメリカだってそうですし、ヨーロッパだってそうなんですね。それは当然のことでございまして、例えばNTTなんかは
株主が百五十万人もいるのですね。一体、どこに集まったらいいのかということです。
個人株主がやってきて、いろいろな
意見を言って、それに
経営者が丁寧に答えて、そうしたならば
株主総会というのは機能を発揮し得るのか、
会社の
経営というのは効率化されるのかというと、全然そうではないはずであるにもかかわらず、何となく、
個人株主を重視しなくてはいけないとか、それから同じ日に
総会を開くのはけしからぬとか、割合上辺の議論に終始してしまっているところがあるのじゃないのかなと思うわけです。
ですけれども、
日本の
商法は、決算を閉じた後、決算期末から三カ月以内に
株主総会を開きなさいと決めているわけですね。
幾らコンピューターアカウンティングの時代、コンピューターで会計をする時代といっても、やはり
それなりに会計報告をつくる期間というのは必要でございますし、それから会計監査にも数週間必要とするわけですね。それからさらに、
株主総会を開く前に、何週間かとって
株主の皆さんに通知しなくてはいけないとか、質問をしたい方にはその期間も与えなくてはいけないとか、そういうスケジュールを見ますと、かなりぎりぎりなんですね。
ここ十数年ずっと同じ日に集中しているということを、あたかも年中行事のように六月になりますと新聞は書き立てるのでございますけれども、昔から一定期間に集中はしていたのです。それがさらに加速されたというだけでございまして、もし集中するのが悪いというのでしたならば、例えば三カ月以内というのをもっと延ばしてもいいのですね。現に、もっと緩やかな期間でやっている国の方が多いのです。
日本は、
総会を開くまでの期間というのは非常に短い方の国だと聞いております。ですから、
株主総会形骸化論というのも、実は形骸化論自体が形骸化しているという問題があるわけでございます。
資本主義
社会のお手本のように言われるアメリカでも、
株主総会なんというのは言ってみればお祭りみたいなものなんですね。有名な
経営者と一緒に写真を撮るとか、広い庭園に食べ物を出して皆さんで楽しくやるとか、あるいは、従業員
株主というのが
充実しておりますので、従業員のOB会みたいになっているとか、そうするために年々違う場所で、違う州で
株主総会を開く
会社があるとか、ほとんどお祭りと化しているのですね。
というわけで、本来的な各国の
会社法というのは、もっともっと
株主が少ないときの理念的な形で
法律がつくられているのでございますけれども、今みたいに、よその国も
株主が非常に、何十万とか百何十万なんという
会社も出てきている時代には、到底現実に合わない
法律なんだということですね。
ですから、アメリカでさえもヨーロッパでさえも、大
株主だけの
株主総会みたいなものが実はかわりにございまして、そこで大事なことは決めてしまっているのですね。
日本だけじゃないわけです。当然だと思うのですね。
株主総会における決議権というのは、選挙と違って一人一票ではございませんで、持ち株比率に応じているのですね。たくさんの出資をした方はそれだけ
発言権も強い、議決権も大きいという形になっているわけでございます。
ですから、大
株主の意向で全体が決まるということは全然問題じゃないのじゃないのかなと思うわけなんでございます。でも、じゃ一方、
個人株主、小口の
株主は無視していいのかというと、それはまた別の問題でございまして、アメリカとかヨーロッパで
株主総会が1Rの場となっている。つまり、
会社側から投資家に対する説明の場、懇談の場になっている。ですから、例えばビデオなんか使ったりして
会社の内容を宣伝したりとか、こんな新製品ができましたと言って、食品
会社だったら試食してくださいとか、
日本でも一、二そういう
会社が出てまいりましたけれども、そういう会になっているわけです。
ですから、
株主総会が形骸化しているとおっしゃるのだったならば、現実に合わせた形で法
改正をしなくちゃいけないということですね。それを一方的に
経営者が悪いとか、そういう議論、もちろん
経営者は悪いのですけれども、そういう議論ばかりしておりますと、どうも問題の本質を失ってしまうというところがあるのではないかと思うわけです。
ですから、
企業なんというのはそもそもが生産のための仕組みなんですね。
企業にモラルを
要求するというのが私はそもそも間違っていると思っておりまして、モラル高い
企業はあってほしいですし、御努力いただければうれしいですけれども、でも、
企業にモラルを
要求して、それで議論のけりをつけるというのはもういいかげんにした方がいいのじゃないのかな。
企業はモラルを持たない、それでもある
程度うまくいくという仕組みをつくらなくてはいけないのじゃないかと思うわけです。
ですから、マスコミも
企業のモラルをすぐ問題にするのですけれども、では、マスコミというのは一切暴力に屈していないかというと、ちょっと視聴者から電話があったというだけでもう放送禁止語とか、新聞の中の禁止語なんて勝手につくって、自粛してしまっているわけですね。おたくも脅迫に屈しているのではありませんかと言いたくなってしまう状況があるのに、人のことは随分責めるなと思うのでございます。
それだけではなくて、
総会のシーズンが近づきますと、あそこの
企業の
総会は荒れるぞと、何かうれしそうな
感じに読み取れるような観測記事が載ったりするわけでございます。しかも、
総会が終わりますと、スキャンダルが起きた
企業を中心に、ここはやはり長かったというような、そういう記事を書くのですね。だから、
企業側が、長かったと取り上げられたくなかったら短くしたいという気持ちも無理からぬところがあるわけでございまして、マスコミ
自身が加担している部分というのもあるのですね。
でも、別にマスコミを責めたいわけではございませんで、全
日本的な体質なんだということだと思うのです。表面を取り繕う、仲よしクラブでいるというような全
日本的な体質をどこかで変えていかなければいけないのではないのかなと思うのです。
モラルの問題にしてしまうもう
一つの大きな問題点というのは、何か行政の怠慢を許してしまうところがあるのではないかと思うのですね。野村問題にしろ一勧問題にしろ、野村と一勧のモラルだけを問題にしておりますと、では
大蔵省は何をやっていたのかなという問題が消えてしまうわけです。ですから、行政の問題もあわせてきちんと議論しなくてはいけないということがあると思うのですね。
総会屋とか暴力団の問題について言いますと、警察は、重大な殺人
事件とか傷害
事件が起きていますね、
企業の
経営者が脅迫されたりとか、家族の生命が危険にさらされたりとか、現実に殺されてしまった方が何人かいるにもかかわらず、犯人が捕まっていないという状況があるわけですから、そちらの部分もきちんとおやりいただかなくてはいけないと思うわけです。
それから、今、
総会屋と申し上げてきましたけれども、実は、先ほど申し上げたようないわゆる
総会屋と言われるような
人たちというのは、もうかなり払拭されてしまっているわけです、お掃除されてしまっているのですね。それで、残っているのは暴力団に近い
人たち、あるいは暴力団そのものなのですね。だから、暴力団の問題として実はこの問題を解決していかなくてはいけない。そうだとすると、
商法の問題かなという気がしてくるわけでございます。
小物の
総会屋というのは八二年の
商法改正でかなり廃業しておりまして、その後、暴力団のばっこする世界になったと言われているわけなのでございますけれども、暴力団の問題とすれば、やはり刑法とか組織犯罪法とか、それから暴力団対策基本法ですか、そういうようなもので対処していただかなくてはいけないのではないのかなという気がするわけです。
ですから、私は今回の
商法改正は大
賛成でございまして、どうしてかというと、モラルの問題にしないでコストベネフィットの問題にしなくてはだめだと。
企業というのはもともと利益追求主体でございますから、こんなことをやると損だぞと思わせることが本当は大事なわけでございますから、やってしまったときの
罰則が重いということは非常に大事なので、その点では今回の
改正も、ちょっと
金額が低いのではないのかなと思っておりますけれども、そういうコストベネフィットの世界にしていただきたい。
法
改正だけではなくて、法の運用という点も十分御留意いただきたいと思うのですね。
どうしてかと申しますと、一勧問題で、銀行法適用による告発が初めてであったと新聞が書いておりましたけれども、ほとんど問題にならなかったのですね。一勧のこの間の法人としての
罰則というのは五十万円であった。安いんじゃないのといって、金丸さんのときと同じように新聞はそこを騒いだのでございますけれども、でも、五十万円の罰金の低さというのは、
日本の法体系そのものが今まで割合罰金が低いという形でして、そこがいけないというのでしたならば、今回のように法
改正するとか、あるいは司法の哲学そのものを見直していかなければいけない。さっき申し上げたように、アメリカその他のように、本当に重たい罰金で、嫌というほど取ってやる。財政赤字と言われている折から、二重、三重にメリットがあるのではないかと思うのですけれども、そちらに変えるということをしなくてはいけない。
もう
一つ、一勧問題でぜひ注目しなくてはいけなかったのは、さっき申し上げた、五十万円の罰金の小ささよりも、
大蔵省が今回、告発が初めてだったということですね。それから、銀行法の二十七条を用いた業務停止処分も初めてだった。では、これまで全然銀行というのは銀行法違反していないのかといったならば、そんなことはないのでございまして、
大蔵省が告発義務を怠ってきたということだと思うのですね。そういう問題。法
改正だけで済まない問題。
だとしたならば、やはりそれぞれの行政当局あるいは監督当局が任務の過怠があったときには、それもきちっと取り締まっていただくという法
改正もあわせておやりいただかないと、
商法改正だけではちょっと不十分なのではないのかなというふうに思うわけでございます。
その点をどうぞよろしくとお願い申し上げまして、私の陳述、少し長くなりましたが、終わらせていただきます。どうも失礼いたしました。(
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