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藤村委員 事実はそういうことなんですが。
ただ、この記事全体が、つまり最初の方から、寄附行為を変更してやらなければいけないことを前の専務
理事がやったという流れで書かれているので、非常にこの記事の決定的な
部分なのです。そこを取り違えて言う
ようなあいまいな言い方を、それも国会質問のあったすぐ後、担当者がやるというのは、これはやはりちょっと問題がある。これは、総務庁の広報室を通してやるとか、そういうことをしないといけないんじゃないですかね。国会の中で私が言ったことで私
自身は外で責任は問われませんけれ
ども、
公務員の方は多分そうじゃないと思うのですよね。
だから、こういうあいまいな発言で、そしてそのあいまいな
部分を実は間違って解釈したかどうかは、これはこの雑誌の記者とあとはけんかしてもらったらいいのですが、そういうことがない
ようにしていただきたい。
実は、それにかかわらず、私、その他、誹議中傷の文章とか、あるいは中には、これは右翼の名前をかたった手紙で、一人一殺、殺すと言っている。こんな脅迫まで受ける
ような、これは役所とは
関係ありませんけれ
ども、こんなことまで起こっているわけでございます。だから、この三年来、本当に何が起こっているのだろうかということが非常に心配なわけです。
ただ、これだけ話しますと、ちょっと皆さんに理解がいただけないかと思うので、私、過去の
経緯を非常にかいつまんで、ちょっと申し上げたいと思うのです。
先ほど申しました財団法人交通遺児育英会というのは、交通事故遺児を励ます会というボランティア団体の提唱、活躍で昭和四十四年に設立されました。交通事故遺児を励ます会は、昭和三十六年に、親がわりの姉を酔っぱらいトラックにひき逃げされた当時の高校生岡嶋信治さん、この方は今育英会の
理事でありますが、この方がその怒りを新聞に投稿した結果、全国からの励ましの手紙によって生きる勇気を与えられ、その経験をもとに、岡嶋さんらを
中心に発足したボランティア
組織です。
岡嶋さんらは、昭和四十二年から、交通遺児の高校進学を支える奨学資金の募金運動を始めました。初めての募金は、わずか十人足らずのボランティアが、東京の数寄屋橋と池袋で、朝の十時から夜の八時まで八日間立ち続けたものです。集まった浄財は、一円玉、十円玉などで三十万円。このお金が二年後の財団設立の資金となって、その後、四万四千人の交通遺児が高校、大学へと進学する奨学金三百億円の種ともいうべきお金となりました。
交通遺児のための募金運動には、育英会発足後、全国の大学生が参加しました。私
自身は、当時広島大学の学生でしたが、岡嶋さんや学生募金の先輩たちからの呼びかけで、広島の街頭でも交通遺児
救済を訴えて募金を開始しました。以来、二十七年余りになります。この運動は、あしなが学生募金の名で、今や赤い羽根募金と並ぶ春秋の風物詩ともなって、民間ボランティア活動の元祖とも言える運動となり、今も学生たちに引き継がれています。
最近では、
小里大臣が担当大臣として
御苦労いただきました阪神・淡路大震災の中で、震災遺児、この人たちへの奨学金貸与とか、あるいはさらに、彼らの心の傷をいやすためのケアハウス建設のための募金運動が行われ、土地を購入し、既に来月の一月、震災の十七日にはケアハウスの建設着工の運びとなっております。
財団法人交通遺児育英会は、設立以来、
日本商工
会議所会頭の故永野重雄さんが亡くなるまで会長を引き受けられていました。永野さん御
自身も母子家庭で育ったこともあって、交通遺児への理解が深く、会の発展に多大の尽力をいただきました。
続いて会長になられたのが、新日鉄の社長、会長をされた武田豊さんです。武田さんは、平成元年五月の創立二十周年の記念誌に次の
ように寄稿しています。
初めの十年間は、一人でも多くの交通遺児を高校に進学させることと、意欲のある学生には大学進学の道を開くことを目指してやってきた。次の十年は、奨学金の貸与にとどまるだけでなく、交通遺児一人一人に愛情を持って接し、永野初代会長の、温かい心、広い視野、行動力、その育成に取り組んできたことを振り返って、その上で、こうした歩みの中で、奨学生による自発的な恩返し運動が生み出され、募金や寄附をしてくださるあしながおじさんの無償の愛に感動した奨学生が始めたこの運動は、さわやかなボランティア活動を全国的に広げ、昭和六十三年春には、災害遺児育英
制度の発足へと結実した。多くの方々から受けた恩を、今度は他者の幸福のために生かそうとするこの行為は、自他の幸せ創造の輝かしい実践にほかならず、武田会長として、この子らの活動を誇りに思う、こういうふうに述べていらっしゃいます。
この二代の会長を支えていたのが、発足から平成六年に亡くなるまで四半
世紀の問、育英会の
理事長を務めた元警察庁
長官の
石井栄三さんです。私も
石井理事長をよく存じ上げていますが、週に一回か二回事務局に来られて、その存在感によって、民間から生まれた育英会と、いわゆる官庁である総務庁や文部省との
調和を絶妙に図っていただいておりました。
石井理事長が亡くなって、後任に元総理府総務副
長官の宮崎清文氏が就任。それから今日までの三年半余りの間に、
マスコミでも大きく取り上げられたりするいわゆるお家騒動とも言えるごたごた続きで、学生時代からこの運動の一翼を担ってきた私としては、募金運動のOBとしても、とても心の痛む思いです。
宮崎
理事長の就任以来、財団内部の事情で交通遺児に対する奨学金の送金がおくれ、これが
マスコミで取り上げられて、監督官庁からも注意をされたわけですが、この問題は財団内部の事情そのものであります。
武田会長が誇りと思うと述べた、遺児たち
自身の恩返し運動が災害遺児から病気遺児の
救済にまで拡大していくとき、これをよしとする遺児奨学生OB、支援者のあしながおじさんの側と、あくまで交通遺児だけのことを
考える側との対立が起こりました。
総務庁は、交通安全対策の一環ということで、災害遺児や病気遺児は
関係ないわけです。それが
厚生省にも及ぶ話となって、役所の管理監督
権限が縮小すると
考えたのでしょうか。あるいは単なる縄張りの問題でなしに、この財団の、今や三百五十億もの資産があります。その資金管理
権限につながると
考えたのでしょうか。宮崎
理事長就任以来、職員の総務庁OBを育英会事務局のナンバーツーの役職に異例の昇格をさせ、
権限回復を意図して行動を開始しました。
一方で、交通遺児の発生そのものが事故の減少で少なくなり、かつ自動車賠償責任保険の上限アップや任意保険の充実に相まって、これは幸いなことでありますが、貧困な交通遺児はうんと減少して、奨学金需要は激減しています。まさに民間的発想からすれば、災害遺児や病気遺児の奨学金
制度にも道を開く環境が整う中で、これはまかりならぬと監督官庁が乗り出してきたものではないでしょうか。
具体的には、財団発足以来の
中心メンバーの追い出し、学生募金から参加してプロパー職員になった人たちの締め出しです。これは結果として、職員組合が発足して、労使紛争にもなって、法外な弁護士費用の支出といじめに対する和解金の支払いになりました。あるいは、無給であったはずの
理事長も有給職にし
ようという動きや、実際にハイヤー代あるいは報酬が支払われています。さらに、過去の決算に疑義があるという不当な理屈をこじつけて、
理事会、評議会の過去の決定を無視して、過去十年もさかのぼっての自主監査など、
指摘のとおりであります。
そして、これら問題点を去る六月に文教
委員会で
指摘しますと、私に対して、脅迫文書や誹謗中傷の怪文書攻撃を受けています。また、同僚
議員で元交通遺児育英会事務局長の方や、あるいはこの奨学金を受けた交通遺児OBで、今は自民党代議士として活躍している
議員にもこれら怪文書が送られてきている事態になっています。
いわゆる公益法人は、官庁が主導でつくる下請的な財団、社団と、逆に民間から起こってそれに法人格を与える財団、社団がありますが、この交通遺児育英会は明らかに後者であります。この際、官から民の実践としても、役所の
仕事を減らす
意味でも、二つの官庁による共管というのから、育英事業ですから文部省の単管にするとか、そして総務庁OBが
理事に就任した平成三年度時点に一遍戻って出直しをされたらどうか、こんなことを私は提案したいのです。
こういう過去の運動の流れ、そして今後のこの財団の
運営について、監督官庁でもございますので、
一つは過去の運動の御所感、それから、今後どうしたらいいか、監督官庁としての
立場で
お答えを願えればありがたいと思います。