○
国務大臣(梶山静六君) 交代でといってこちらに振り向けられてしまいましたから、私が便宜お答えをいたしますが、大変
基本的な広範な問題で、この問題を二人で答えますと閣内不一致などということになりまして大変でございますから、余り踏み込んだ話をすることは、特に今
内閣のスポークスマンでありますから、避けたいと思います。
憲法は不磨の大典ではありません。それはだれしも承知おきのことであります。そして、特に私権の制限というか、これだけ高密度社会になると私権に対する
考え方、公共に対する
考え方、こういうものに対する截然とした思いが若干少ないという感じがいたします。しかし、この平和
憲法というのが今日の
日本を形づくってきたことだけは間違いのない事実であります。
憲法解釈にも幾つかの議論がございます。
憲法を見直すという雰囲気のあることは当然でありますが、
内閣は
憲法遵守の建前がありますから、この
憲法に関してとかく申し上げる立場に私はありません。各党各会派が大いに
国民全般的な議論をなしながら、次なる
時代にどんな
日本の
憲法を求めていくか。大変重要な問題であるというふうに考えますので、これを一
政府に責任を着せてみてもそれは問題の解決になりません。ぜひともこれは全
国民的な議論を、そしてそれに基づく結論が出されるべきものだと考えております。
それから二番目に、東京
裁判の問題、確かに私も若かった
時代でありますが、キーナン検事のあの論告を聞きながら歯ぎしりをし、あるいはインドのパレル判事の涙が下るような思い、そして今は亡くなった衆議院の議長であった清瀬さんが主任弁護士として大変な弁論を振るっていたことをあの当時私なりの若い思いを感慨を込めて振り返ったことが何遍もございます。
しかし、ただいま委員御指摘のように、勝者が敗者を裁いたのではないかということを、その是非を私は今ここで申し上げようとは思いません。しかし、
我が国は国と国との
関係では、サンフランシスコ条約第十一条により、極東軍事
裁判所の
裁判、事実である
裁判全体を受諾いたしているわけでありますから、この問題に対して
政府がとかく言うべき立場には残念ながらないわけであります。サンフランシスコ条約を締結したというその前提条件にこの問題の受諾があるということを御
理解願いたいし、それは
国民一人一人がむしろ忘れないであの当時のことを回想する勇気を持つか持たないかが大切なので、東京
裁判がいいか悪いかという議論を今何人かの人だけでやってみても私は大した効果がないという気がいたします。
それから、靖国神社の参拝ですが、もちろん宗教上の
規定、これは
憲法上の
規定もありますから、一宗教に偏ってはいけない、そういう
一つの現実がございます。あるいは靖国神社の改組論もないわけではありません。私は毎朝毎晩あの前を通りながらこうべを垂れてお参りをしてまいっております。公式な参拝があるかないかということよりも、あの靖国の社に頭を下げる
国民がたくさんいるという現実、これが大切でありまして、私は
総理が公式参拝をするかしないかという問題で靖国神社という問題をとらえたくない。いわば国に対する忠誠の結果として亡くなられた方々にお参りをする、その
国民的土壌があれば私は十分である、このように考えます。
謝罪外交と言われますが、それぞれ過去にはいろんな重荷をしょいながらやってきたわけでありますから、生まれ落ちた赤ん坊と同じく
日本が胸を張って歩くというわけにはまいりません。五十年前、いやそれ以前からいろんな問題があったことを現実として私たちは見ながら、なおかつ国の自主性を発揮しながらやっていける外交を強めてまいる、進めてまいる、こういう決意があれば私は
日本の立場は必ず
理解される、こういう思いがいたしますので、御了解を願いたいと思います。