○千葉景子君 私も前回、
日銀の独立性などを
中心にいたしまして
質問させていただきましたが、それに引き続きまして、少し整理をしながら御
質問をさせていただきたいというふうに思います。
ちょっとこういうことを言わせていただくと、何かこういう審議の場で大変恐縮ですけれ
ども、二人三脚というのを思い浮かべていただきたいんですね、二人三脚。私もお祝いの席などでスピーチをということをいただいた際に、二人三脚というのは力を合わせて二人でお幸せに頑張ってくださいと、こういうよく例えに使われるんですけれ
ども、実は二人三脚というのは下手をすると一緒にこけてしまう。二人でそれぞれ足を踏ん張って歩いていれば、そして心が通じ合っていればというとおかしいですけれ
ども、そうすれば一人がこけたときに一人がまた引き起こすと、こういうこともできるのではないか。そういう
意味では、二人三脚というのは大変結構ではあるけれ
ども、大変危険も大きいと、よくこういう話もさせていただくことがあるんです。
今度の
日銀法の改正についても、私は若干そういう思いをいたしているわけです。これまで確かに
日銀が、実質的には
局長からもいろいろ御答弁をいただいておりますように、でき得る限り独立した自主的な運営ができるようにと、そういう配慮をしてきた、
法律の上ではなかなかそれは明確になっていなかったけれ
ども、そういうことに配慮をしながら実際には運営、運用をしてきたと、こういう
お話もいただいてまいりました。
しかし、この間のいろいろな
政策運営、こういうのを見ておりますと、皆さんからもいろいろ御
指摘がありました
バブルの
発生やあるいはそれをもたらしたいろいろな
金融財政
政策、これらの
背景を見ますと、二人三脚でお互いに足を縛り合って歩いていたものですから、いざとなったら何か一緒にこけてしまった。しかも、こけた理由がどうもひとつ、どっちが足を引っ張ったんだか、どっちが先にこけたのやらよくわからないと、何かそんな感じがしないでもありません。
そういういろいろな
反省も含めてということでありましょう。今回は、これまでの自主的な運用ということも含めて、制度としても明確に
日銀の
金融政策の運営の独立性を規定して、そして責任を持って、これもこけたらやっぱり
日銀がそれだけの大きな責任も感じてもらうんだと、こういうことも含めて独立性というのをきちっと明確にしていこうじゃないかと、こういう大きな理念といいますか考え方が根底にあるだろうというふうに思います。これは、これまでの議論の中でもこの考え方というのはほぼ基本的にはコンセンサスがある内容であろうというふうに思います。
しかし反面、独立てあると言っても、いろいろな御
指摘がありますように、大変公共的な、公共性の強い、そして国民からいろいろな財産を預かるそういう立場にもあるそういう機関でもございます。そして、きょうこの点をもうちょっと詰めてお聞きしたいと思っているんですけれ
ども、確かに国の
経済政策全般ともかかわりを持っている、全くこれは無縁だというわけには確かにいかないだろうというふうに思います。
そういう
意味では、独立だとは言っても、何かたこがぷうっと飛んでいっちゃったようなそういう
意味を言っているのではないだろうと。しかし、その基本的な理念でもある
金融政策の独立した運営、そしてそれのきちっと責任を負っていくと。こういうものに対して、どこまでその運営を阻害しないような形で公共的な側面を担保していくんだろうか、あるいは
局長が常日ごろよくおっしゃるんですけれ
ども、行政という
意味でどこまで
政府などが関与をしていくべきなのか、こういう問題が私はどうもいま一つなかなか整理されていないような感じがしているわけです。
これは私の視点でございますので、そういうところを頭に置きながら、きょうは何点か、少し逐条的になろうかと思いますけれ
ども、お尋ねをします。
法律というのは重いだけではいけないわけでして、やはりできる以上は、それがそれぞれどういう
意味を持って、そして今後どういうそれが使われ方を本当にしていくのか、そういうことをきちっとしておいてこそ初めて誤解もなく、そして安心して独立した運営をしていくことができるんだろうというふうに思いますので、ぜひそんな観点を頭にちょっと置いていただきながら、少し議論をさせていただきたいというふうに思います。
そこで、冒頭なんですけれ
ども、これはこの間久保
委員の方からもございました。私もその独立性ということを考えましたら、確かにこの
法律案でははっきり言われていないんですね。自主性という形では、例えば三条には「
日本銀行の
通貨及び
金融の調節における自主性は、尊重されなければならない。」と、こういう文言が使われておりますし、それから五条でも「
法律の運用に当たっては、
日本銀行の業務運営における自主性は、十分配慮されなければならない。」と、こういうことがございます。確かにこの間の御答弁で、独立性という言葉を使うと法的に一体何からの独立だという議論が起こるのでと、こういう御発言もございました。そう言われるとそうかなという気もするんですけれ
ども、ただ、やっぱり言葉として、独立てあるということと自主性を尊重するということは、どうもそこの
意味というのは違うんじゃないかという気がするんです。
独立というのは、システムとしてもきちっとしたどこからも支配されない、そういう構造を持っているということを
意味するでしょうし、自主性というと一定の枠の中で自分の頭で考えたりすることを尊重するよと、そういう何か一定の枠をはめられた中での自主性というようなニュアンス、こういうものが考えられるわけですけれ
ども、これは余り議論してもなかなか答えの出るというものではないというふうに思いますので、私の感想として述べさせていただきます。
そういうことになりますと、そうすると一体その独立性というのは個々のこの
法律のへあるいはこれから運営されるであろうシステムの一つ一つの構造がどう組み立てられているか。そういうことで本当に、独立性というのが言葉にはないけれ
ども、実質的に担保されていると言えるということを証明することになるんだろうというふうに思うんですね。そういう
意味で、独立性という言葉がきちっと
法律的にも明確になっているということが私は望ましいと思いますけれ
ども、少なくともそれが難しいということであれば、一つ一つのこれから
指摘させていただくような点で本当に独立性というのが十分に担保し得ているのかということを少し検証させていただきたいというふうに思うわけでございます。
さて、そのまず第一点でございますけれ
ども、独立性を持つ、それによって
金融政策を十分に適切に運営をしていくということになるんですが、常々言われていますように、だけれ
ども行政の一部といいますか、大きく見れば全くの民間の一機関というわけではないわけですね。その
意味で、中央
銀行である
日本銀行がいわゆる認可法人として位置づけられている、この
意味というものはどういうことでございましょうか。
行政ということを強調すれば、極端な話ですからこれは私がそう望んでいるというわけじゃなくて、例えば大蔵省の
金融部門と考えてしまえば行政権の執行という
意味では一番極端な、極端なというかわかりやすい構造になるわけですけれ
ども、やっぱりそうはいかない。その独立性と自主的なそういう運営あるいは
経済運営、そういうことを考えたときに、認可法人という性格づけがされているのだろうかというふうに思うんですけれ
ども、この点は今回の
法律の中でどういう
意味を持ってくるのでしょうか。