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1997-06-13 第140回国会 参議院 臓器の移植に関する特別委員会公聴会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成九年六月十三日(金曜日)    午後一時一分開会     —————————————    委員の異動  六月十一日     辞任         補欠選任      尾辻 秀久君     河本 英典君      大島 慶久君     松村 龍二君      塩崎 恭久君     中原  爽君      中島 眞人君     谷川 秀善君      大脇 雅子君     大渕 絹子君  六月十二日     辞任        補欠選任      河本 英典君     尾辻 秀久君      谷川 秀善君     中島 眞人君      中原  爽君     塩崎 恭久君      松村 龍二君     大島 慶久君  六月十三日     辞任        補欠選任      大渕 絹子君     大脇 雅子君     —————————————   出席者は左のとおり。     委員長         竹山  裕君     理 事                 加藤 紀文君                 関根 則之君                 成瀬 守重君                 木庭健太郎君                 和田 洋子君                 照屋 寛徳君                 川橋 幸子君                 西山登紀子君     委員                 阿部 正俊君                 石渡 清元君                 尾辻 秀久君                 大島 慶久君                 小山 孝雄君                 田浦  直君                 田沢 智治君                 中島 眞人君                 長峯  基君                 南野知惠子君                 宮崎 秀樹君                 大森 礼子君                 木暮 山人君                 山崎 順子君                 山本  保君                 渡辺 孝男君                 大脇 雅子君                 菅野  壽君                 千葉 景子君                 中尾 則幸君                 橋本  敦君                 佐藤 道夫君                 末広真樹子君                 栗原 君子君    事務局側        常任委員会専門        員        吉岡 恒男君        常任委員会専門        員        大貫 延朗君    公述人        北海道大学医学        部第一外科教授  藤堂  省君        慶応義塾大学名        誉教授弁護士  中谷 瑾子君        主     婦  渡辺  環君        三菱化学生命科        学研究所主任        研究員      ぬで島次郎君        日本移植コー        ディネイター協        議会会長     玉置  勲君        大正大学教授・        浄土宗僧侶    藤井 正雄君     —————————————    本日の会議に付した案件 ○臓器移植に関する法律案衆議院提出) ○臓器移植に関する法律案猪熊重二君外四名  発議)     —————————————
  2. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ただいまから臓器移植に関する特別委員会公聴会を開会いたします。  本日は、臓器移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)及び臓器移植に関する法律案(参第三号)につきまして、六名の公述人方々から御意見を伺います。  御出席いただいております公述人は、北海道大学医学部第一外科教授藤堂省君、慶應義塾大学名誉教授弁護士中谷瑾子君主婦渡辺環君、三菱化学生命科学研究所主任研究員ぬで島次郎君、日本移植コーディネイター協議会会長玉置勲君、大正大学教授浄土宗僧侶藤井正雄君、以上の方々でございます。  この際、公述人方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は御多忙のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。  皆様方から忌憚のない御意見を拝聴し、今後の審査の参考にいたしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。  本日の議事の進め方でございますが、まず、藤堂公述人中谷公述人渡辺公述人ぬで島公述人玉置公述人藤井公述人の順序で、お一人十五分程度で御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑にお答え願いたいと存じます。  それでは、まず最初藤堂公述人にお願いいたします。藤堂公述人。  お座りになったままで結構でございます。
  3. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 北海道大学医学部第一外科藤堂でございます。  まず、自己紹介と私の経歴を申し述べたいと思います。  私は、昭和二十二年、一九四七年に生まれまして、医者になりましたのが昭和四十七年、一九七二年であります。一九八四年、昭和五十九年からアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグ大学で十三年間、肝臓中心とする移植外科に携わってきておりましたが、本年一月一日に、現在の職務に赴任するために帰国いたしました。  私が肝臓移植を志しましたのには理由がございまして、私が医者になりました年、一九七二年に最初死亡診断書を書いた患者さんが肝硬変、しかも三十二歳の男性で、新婚で奥様のおなかの中に初めてのお子さんが宿っていらっしゃる。その患者さんの死亡診断書を書きましたときに、当時まだ肝臓というものはなかなかメスが入らないいわば未開の分野でございましたので、いつかこういう患者さんを助けられる医者になりたいと決心しまして、その後、肝臓外科、それから肝臓移植の道を歩いてまいりました。  米国では、十三年間にドナー、すなわち脳死患者さんからの臓器摘出を三百例から四百例行いました。それからレシピエント、実際に肝臓移植手術を一九九四年まで、三年前までに一千症例を経験いたしております。さらに、二例のヒヒから人への臓器異種移植、それから約百例の、世界じゅうで四百五十ぐらいしかないんですけれども、正確には九十四例の小腸移植も手がけてきております。  今回、日本に帰りました理由は、二年前に決心したことなんですけれども、旧脳死法案が審議がないままに廃案になるということで、このままでは日本移植を待っていらっしゃる患者さん方の塗炭の苦しみといいますか、お手紙を何度かいただきましたけれども、その苦しみをほうっておくことを外科医としてあるいは医者として容認できませんで、とにかくジュールに入る覚悟で帰ってまいりました。  帰ってきまして、実際に赴任したのがことしの一月なんですけれども、昨年の十二月ごろからこのような中山法案あるいは猪熊法案などのような脳死法案国会で審議されるようになったことを非常に喜んでおります。  私の移植外科医としてのバックグラウンドが米国中心としたものであり、また帰国して間がないこともありますので、私の考え方は多分にアメリカ的な考え方を申し述べるかもしれませんけれども、私のこの法案に対する意見を述べます前に議員の先生方に、日本アメリカ臓器移植、特に肝臓移植の現状がどのように違うかということを御理解いただきたいと思います。  アメリカでは今から三十年ほど以前に、すなわち一九六三年に最初肝臓移植が行われました。技術も未熟でその患者さんは手術中に亡くなったと私の恩師トーマススターズルからそのときの状況を詳しく聞いております。その後二十年にわたって技術や薬剤の改良がなされて、一九八三年、たった今から十五年前にアメリカ肝臓移植患者さんの治療に使える方法論だということが認められておるわけです。  その後の肝臓移植発展普及は目覚ましく、例えばアメリカだけをとりましても、昨年一年間の肝臓移植症例数は四千例を超えております。その発展の主な理由は、スイスの化学者が開発したシクロスポリンという免疫抑制剤、さらに一九九〇年から使用を始めましたけれども、日本化学者が開発したタクロリムスという新しい免疫抑制剤によって移植後の成績が非常によくなったためであります。  例えば、一年生存率で比較してみますと、それ以前の成績は一九七〇年代までは三五%でした。一九八〇年代に入りましてそれが七〇%に上がり、一九九〇年代に入りそれが八〇%以上に向上しております。  米国ではこのような移植成績の向上に伴い、確かに新たな問題が生じております。肝臓移植一般に理解され、移植を受けたいという患者さんがふえてきております。昨年一年間で移植待機をしている患者さんは八千例以上を超えております。ところが、ドナー移植に用いられる臓器、グラフトと言いますが、それを提供してくれる患者さんが徐々にでありますがふえてはおりますけれども、五千四百という数にとどまっておりますので、どうしてもすべての患者さんを救うことはできません。したがって、待機患者の約一〇%は待機中に死亡しておるという状態でございます。  現在、米国連邦政府州政府、それからUNOSといいます臓器の公平な配分を目指す公的機関、あるいは移植に関係するいろんな免疫研究施設などが、さらにドーネーションあるいは移植外科そのもの重要性というものを社会に訴えるべく運動を続けております。  他方、日本では、皆様御承知のように生体移植というものが行われております。これは一九八〇年代の後半にブラジルで始まった方法論ですけれども、一九八九年に日本の島根で第一例が行われました。その後、技術改良に伴って日本では約五百の症例が行われております。それから、世界じゅうでは生体移植は約千例行われております。  欧米では当初、この生体移植については非常に批判的な意見でございました。と申しますのも、二つのファクターがありまして、一つ生体メスを入れるという道義的な問題、それからもう一つは、生体から臓器摘出するということは決してリスクがない、全くないというわけじゃないという事実、例えば今まで世界じゅうに千例ほど生体移植がございますけれども、既に三例の臓器提供した患者さんの死亡が知られております。  それから三番目に、生体移植について倫理的な、これが一番欧米でできるだけ生体移植を避けようという理由でもあったんですけれども、倫理的な問題が言われておりました。すなわち、そういう移植を必要とする患者さんを持つ親御さんあるいは肉親が外から無言のうちに心理的な圧迫を受けるということ、それによって判断をしなきゃならないということが倫理的な問題として挙げられてきております。  実際、私は日本に帰ってまいりまして、現在そういう患者さんが入院していらっしゃるんですけれども、お母さんの苦悩ぶりというのは、そばで見ていても本当に医者としてつらいものです。そのためには、そういう問題を払拭するためにも、脳死移植というものを日本で進めなければならないというふうに考えて帰国したんですけれども、日本の場合は脳死ということと臓器移植ということが同じテーブルで語られているがためにこういう問題が起きたんだと思います。  欧米では、既に脳死というものは医学上の死であるということが一九六〇年の後半から八〇年代の初期において、人工呼吸器あるいは救急医学の発達とともにそういう現象が生じたのでありますけれども、既に医学的な死であるということが定義づけられておりました。そのころ少しずつ症例がふえてきた臓器移植にそういう倫理的な問題があるということがありますので、それでは脳死患者さんから善意臓器提供していただいて移植していただいたらいかがだろうかと、そういう歴史的な変遷がございまして、決して二つの問題が同時に日本のようにできたわけではございません。  もちろん、そういう問題が解決されるためには、これも私の師でありますスターズル教授からその当時のことを日本に帰ってきます前に詳しく聞いたんですけれども、司法界とかマスコミとか行政とかあるいは一般の市民の方々の強い支持があったと聞いております。それが現在の欧米臓器移植を進めてきた源でもあるわけです。  それでは、この脳死法案をどのように考えればいいか。私は中山法案に賛成でございます。  日本には菩薩道という言葉もございますし、欧米のキリスト教の世界では愛という言葉がございます。自分の、脳死になった患者さんの臓器提供するということはまさしくその表現であります。もし患者さんがそのときに死でないとすれば、例えばドナー家族は、私のその善意を生かすためであったにしても、生きた者から臓器提供した、それからレシピエント患者さんは、生きるために生きた人から臓器をいただいた、そういう心理的な問題はいつまでも残ります。それから、救急医療あるいは移植医療現場でも、そういうことがはっきりされていなければスムーズに現場を運営することができないと思います。以上でございます。
  4. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ありがとうございました。  それでは次に、中谷公述人にお願いいたします。中谷公述人
  5. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) 時間の制約がありますので、できるだけ論点を絞って申し上げたいと思います。  まず第一に、脳死は人の死かどうかということでございますが、私自身は、医学的な死であると同時に、やっぱり脳死は人の死だというふうに考えております。その脳死を法定すべきかどうかについては、私は法定の必要はないというふうに考えてまいりました。  ところが、平成四年に私、厚生省科学研究費をいただきまして臓器移植をめぐる法的諸問題という研究班をつくりました。これには、私は刑法が専攻ですけれども、刑法だけではなくて民法のしかるべき有数の先生にも入っていただきましたし、そのほかに、法医学者救急医学者、それからいろんな方に入ってもらったほかに、どうしても検視の問題があるものですから、警察庁と法務省の検察庁の担当の方に入っていただきました。  それで、一年間かかって、脳死者からの臓器提供というときに一番適性があるといいますか、そういうのは事故死、交通事故とかその他の事故死体であるというふうに考えましたものですから、それについての刑事訴訟法で規定されている検視の問題があるもので、その点についていろいろ話し合いをしまして、完全にこの人は死に至るということがはっきりしている場合には、脳死段階でその検視をし、そして臓器摘出を認められないだろうかという話を続けましたけれども、法的な根拠がない限りは絶対にだめだというその壁を崩すことができませんでした。  それで、非常に私は無力感に襲われたわけですけれども、どうしてもこれは臓器移植法という、少なくとも脳死を死と認める何らかの法的な根拠がなければだめなんだなということを感じたわけでございます。脳死については一般の理解が非常に不十分だという感じを持ちます。  第二番目に、移植医療は結局は過渡的な医療であるということの認識が必要ではないかということも考えます。  脳死というのは、全死亡者の一%未満の人が脳死というプロセスを経て死に至ると言われております。ですから、日本では、ごく最近になりますと、ちょっと死亡者の数がふえて大ざっぱに言って九十万人と言われていますから、そうしますと八千人から九千人というのが脳死プロセスを経る方だというふうに考えることができようかと思います。そのうち移植との関係で考えますと、移植臓器提供をしていただきたいという対象者はさらにもっと少ないということをまず国民皆様に知っていただきたいわけです。  脳死がどうしてそこから蘇生不可能かということについての御認識も非常に不十分で、私はかつて大変有数な、日本一と言われる脳神経外科医先生に、先生脳死について国民一般に対する啓蒙をやっていただけませんか、随分誤解がありますよと、私はいろんなところで話をするけれども、正確に脳死というものについて理解している発言というものに今までお目にかかったことがない、だから先生方がそれをやっていただけませんかとお願いしましたら、自分は忙しくてとてもそんなことをやっている暇はないよというふうに断られました。その後も啓蒙といいますか、そういうものが実際にやられているかどうかについて、私は非常に残念な段階にあるのではなかろうかというふうに考えております。  第二番目に、先ほど申し上げましたように、移植医療は過渡的な医療にすぎない。今は欧米では通常の臨床で行われ、通常医療として定着しているわけでございますけれども、もしこれが人工臓器が開発されればそれに当然変わるだろうと思いますし、あるいは人クローニングというのでも、臓器だけのクローニングができればそれは大変いいことではないかとも思いますし、いろんなことが将来は考えられるけれども、しかし現段階では臓器移植をしない限りは延命できないという患者さんがいらっしゃることも確かで、そういう方たち移植医療を受けられないためにみすみす亡くなっているということも現実なわけですから、それに対応するべき何らかの措置がどうしても必要だろうというふうに考えております。  私は、この法案について見ますと、法案の第六条に生前の書面による提供意思表明必要性ということが中山案に修正として入れられました。これはドイツ人たちからいうと反脳死論意見を入れたもので、脳死論とそれから反脳死論妥協であるというような評価があるようです。資料を私お届けしてありますので、それをごらんいただきたいと思いますが、そういうようなことがあるわけでございます。  これが脳死論と反脳死論妥協かどうかはわかりません。しかし、臓器提供について、当事者本人意思が尊重されなければならないということは脳死臨調の報告書でもうたわれているところでありますし、それはそれなりに大変評価できると私は考えます。しかし、これにはまず早急にドナーカードというものの普及を図らなければならないだろうと思います。  ドナーカード普及については後から玉置さんがおっしゃるだろうと思いますけれども、臓器移植学会かなんかで既に今二百万枚の予定をしているというふうに聞いております。そのときのドナーカードに書かれるべき文言についても検討中のようでございますので、そういうものを含めまして至急にそれを始めないと、せっかくの本人意思表明というのが、事故死するような若い方が生前にこれを表明しておくということはほとんど考えられません。  ドイツではこういうことを考える意思表示主義といいますか、コントラクティング・インになるわけですけれども、こういうものを認めることはほとんどの臓器移植を不可能にするものだ、非常に困難にする、今までやってきた九〇%はこれによってできないことになるだろうというふうなことが書かれております。それも資料の中にありますので、ごらんいただきたいと思います。  そういう意味で、本人書面による意思表明ということが原則でも、それに対して補充的な家族意思みたいなものを、前はそんたくという言葉が使われておりましたが、そんたくという言葉がいいか悪いかは別論といたしまして、何か補充的なものを考える必要はないのかというようなことも考えております。  提供者の、ドナーの数が減っている、少ないということは先ほどの藤堂先生のお話にもありましたけれども、アメリカでもそれに対応するために、ユニホーム・アナトミカル・ギフト・アクトという一九六八年にできた法律は全部の州で受容されましたけれども、ドナーをふやそうという形で、初めに病院に担ぎ込まれたときに、もし何かの場合はあなたは臓器提供してくれますかということを聞いて、それによって保険医療にするかどうかを決めるという一九八七年の改正法は評判が余りよくなくてなかなか実施されていないというようなこともありますけれども、そういう問題も考えなければいけないだろうということです。  私は、きょうは皆さんにぜひお考えいただきたいと思ったのは、ニュージャージー州の一九九一年の死亡宣告法でございます。これは、脳死を認めない個人の宗教的な信念を保護するために一定の信仰による免除というものを認めた良心条項といいますか、コンシェンス・クローズといいますか、こういうものを五条で認めているわけですけれども、この場合には脳死判定をあえてしないで、心停止を待って死亡宣告をするという余地を残した法律でございます。これが人によっては脳死判定拒否権というふうに言われておりますが、拒否権と言っていいのかどうか私はよくわかりませんが、死の自己決定権を認めた一つであろうと思います。そういうものを一つ認めている。これは、そういう意味でのアメリカ最初良心条項を持った規定である、法律であるというふうに評価されております。  この法律のもう一ついいことは、ニュージャージー州では、脳死判定基準というものを州の法律あるいは規則で規定しよう、統一的な脳死判定基準に従って脳死判定を行い、それによって死亡宣告をしようということになっております。  我が国では、竹内基準というのが一応みんな認められているわけでございますが、資料の二のBをごらんいただきたいと思います。日本の各医療機関における脳死判定基準竹内基準に大体よっているようではありますけれども、さまざまなんですね。そういう意味で、例えば補助検査にしても聴性脳幹反応を調べるというのは多くの施設で認めよう、これは竹内先生の九一年の補遺でもそれは認めた方がいいような表現がありますが、これを認めようという施設がふえているということ。それよりも何よりも問題なのは、観察時間というものを六時間から二十四時間、あるいはそれ以上というふうに差があることでございます。第一回目の脳死判定のときを死亡、これは死亡時刻をどうするかとも関連がありますけれども、もし死亡時刻を第二回目の脳死判定のときといたしますと、六時間か二十四時間では大変な差になるということがございます。  そういう意味で、今度の法案では、厚生省令によってそういう基準を決めるのだということですから法定することになるだろうと思いますけれども、それは大変いいことではないか。どこの施設でもきちんとした同じ基準脳死判定をしてもらえるということがやはり非常に重要なことではないかというふうに私は考えております。  かつ、ニュージャージー州では、脳死判定基準というのは絶えず見直しをして、そして逐次医療水準に合った変更を加えて改正をしなければならないと言われておりますけれども、それもそのとおりだと思います。  それから、猪熊案には、脳死判定については判定する人の限定を規定しておられます。これは、この臓器移植法で規定するのがいいかどうかということでございますが、あればいいのかもしれませんけれども、既に竹内先生脳死判定基準にも、補遺では判定者限定がありますので、それに従ってそこで決めてもいいのではないかというふうに考えております。  次に、社会的合意の問題ですけれども、これは社会的合意ということになりますと、今まで随分議論されてまいりました。しまいに、東大の元学長の加藤一郎先生は、社会的合意というのはしょせん蜃気楼にすぎないというようなことも言われました。この調査の結果はどういうわけか、脳死は人の死ではない、あるいは強いて言えば消極に解するという人が結構多いわけですが、そういう四割もの人が反対している。  私は、ここで先生方にお願いしたいのは、そういう四割の国民意見というものを切り捨てにするおつもりかということなんです。切り捨てにしない方法というのがあるだろうと私は思います。それは六条の規定にほんのちょっと訂正を加えるだけで済むというふうに私は考えております。  立法というのは、十九世紀の後半から二十世紀の初めにかけてドイツで第一の刑事法学者と言われましたフランツ・フォン・リストが言っていることに、学説理論には妥協はないけれども、立法はしょせん妥協の所産であるという言葉があります。ある意味で第一の案、第二の案がどちらも対峙して譲り合えないということになれば、その中間に第三の案というものを考える必要があるんじゃないか、そのための御議論をこれからも十分尽くしていただきたいというのが私の願いでございます。  どうもありがとうございました。
  6. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ありがとうございました。  次に、渡辺公述人にお願いいたします。渡辺公述人
  7. 渡辺環

    公述人渡辺環君) 私は、二年前の一九九五年八月十六日にドイツ・ベルリンで肝臓移植手術を受けた渡辺環と申します。現在ではこんなに元気になり、今では週五日、月曜から金曜まで十時から三時のパートに出て仕事もしています。ついこの間は結婚二十五周年の旅行で九州に行くなど、第二の人生を楽しんでいます。  私は、たまたま恵まれた環境にあり資金の工面ができたため、ドイツ移植を受け、このように元気になりましたが、日本では私と同じ病気を持つ多くの患者さんたち日本での移植を待ち望みながら帰らぬ人となっています。日本でも、外国と同じようにごく一般的な医療として移植医療が定着するようになることをお願いするために、きょうここにやってきました。  実は、今回参議院議員の皆さんの前で話をすることになり、私にはとてもできないと思いましたが、主人に、話をするのは海外で移植を受け大切な命の贈り物をいただいた私の義務だと言われましたので、こうして原稿を書いてきましたのでこれを読ませてもらうことにします。  最初に、ドイツ移植に行く前の私の状態から話をしたいと思います。  三年前の一九九四年九月、既に肝硬変になっていた肝臓に四つのがんができていることがわかりました。それまでは結構元気で、毎日の家事仕事などもごく普通にこなしていました。外国で移植を受けるためにはがんを治してからでないと受け入れていただけないということで、入院することになりました。それから約一年余り入退院を繰り返す生活が始まりました。  私の家は、主人と男、男、女の子供三人としゅうとめの六人家族です。私が入院したことにより、今まで当たり前に暮らしていた家族みんなの生活の歯車が狂ってきたのです。しゅうとめはパーキンソン氏病の持病を持っていて、体が思うようには動きません。食事の支度はしゅうとめの肩にかかってきました。娘は高校から帰る途中、重いかばんを片手に夕食の買い物を毎日してくれました。学校に出かける前に洗濯物を干し、犬の世話から夕食づくりの手伝いと大変な毎日が始まりました。しかし、家族の皆がだんだん精神的にも肉体的にもいっぱいの状態になり、私がいないこともあって、我が家から笑い声が消えてしまったと聞きました。  特に、年をとったしゅうとめには負担が大きく、精神的な余裕がなくなり、ほんのちょっとしたことがいさかいの原因になりました。私がやっと外泊許可をとって病院から家に帰ってきても、しゅうとめの家族に対する不平不満が噴き出し、つらい気持ちで病院に戻ったことも何回かありました。  私の体調は悪くなる一方で、抗がん剤の副作用で肝機能がどんどん低下し、腹水がたまり、四日で八キロも体重がふえ、いても立ってもいられないほど苦しい思いをしました。熱も毎日三十九度以上まで上がり、一九九五年三月には風邪をこじらせたのがもとでとうとう危篤状態になってしまいました。毎日のように病院に通ってきていた実家の母は、泣きながら、環はもうだめなんだってと父に電話をしたそうです。幸いなことにそのときは何とか持ち直しましたが、もう私の体力は歩いて十分ほどの駅までも歩けない状態で、ほとんど家で寝て暮らしていました。余り同じ格好で寝てばかりいたので、右側の太もものところに床ずれができたりしたこともありました。  主婦が病気になるということは、家族みんなに大きな負担をかけるばかりでなく、家の中が暗い雰囲気になります。このままもし私が死んでしまったら、主人や息子、娘、しゅうとめや私の両親、妹にどんなにつらい思いをさせるだろうと考える毎日でした。  そして、ついに一九九五年七月、ドイツの病院から受け入れオーケーの返事が来ました。五月にオーストラリアの病院を断られていただけに、大喜びでした。ドイツを断られたら病気が治る見込みはなくなります。ただ死を待つだけでした。七月二十七日に日本を出発して八月十六日、くしくも私の四十五歳の誕生日に、ドイツドナーの方から肝臓をいただくことができました。私にとって言葉で言いあらわせないぐらいうれしいお誕生日プレゼントでした。  移植を受けて一番感動したのは、それまで真っ黄色だった私のつめの色が本当に見る見るうちにピンク色に変わっていったことです。黄色かった白目の部分が白くなるのは少し時間がかかりましたが、あれほどだるくて毎日ごろごろしていた体が、傷の痛みはあるものの、起き上がってもだるくなくなったのです。そのときから私とドナーの方の肝臓は同化し、一体となって私の体の中で生き始めました。  手術から約一カ月後、厳しいリハビリも終わり、九月十八日に日本に帰ってきました。それから一週間の帰国後の検査入院も終わって、全く病気する前と同じように買い物から食事の支度、掃除、洗濯、何でもできるようになっていました。家庭の中に笑い声が戻り、落ちつきを取り戻しました。  ドイツドナーの方からいただいた肝臓は、私の命を救っただけでなく、私の家庭が崩壊するのを救ってくれました。そして実家の両親と妹を悲しませずに済んだのです。  私は、臓器移植はまさしく大切な命の贈り物だと思います。いただいた肝臓は私の中で私が死ぬまで一緒に生きていくのです。元気に暮らしていくことが私に肝臓を下さったドナーの方へのお礼だと思っています。  現在、日本では脳死移植ができるようになっていませんが、日本以外ではパキスタンとポーランドを除くほとんどの国が脳死を人の死と認め、移植医療が行われていると聞いています。私が肝臓移植でこんなに元気になった事実を知っている友人、職場の同僚は皆口をそろえて、私ももしものときにはドナーカードを持って人のお役に立ちたいと言っています。現実に生まれ変わった私を見れば皆そんなふうに思うだろうと思います。  もし、皆さん御自身や御家族臓器移植でしか助からない病気になり、海外で移植を受ければ助かる道があるとしたらどうされますか。何としてもお金をつくって助かりたい、助けたいと思うのが人情だと思います。その場合、脳死を人の死としている外国で移植を受けることになります。そうすれば、外国では脳死は人の死としてごく一般的に移植医療が行われていることを素直に信じることができると思います。脳死は人の死であることを認めない日本人が、脳死は人の死としている外国に助けを求めて移植を受けに行くのはとても失礼なことだと思います。外国で移植手術が成功した患者さんの・ニュースが報道されると、皆よかったよかったと喜ぶのに、それを日本で行おうとするとどうしてすんなりと受け入れられないのでしょうか。  ドイツでは寛大にも外国人である私に臓器提供してくださいまじた。その上、とても親切にしてくださいました。肝移植病棟の最高責任者で私の手術のとき執刀してくださったピータ——ノイハウス先生は、待機リストに登録された日、私に安心感を与えるすばらしい笑顔で、すぐに手術をやることになるでしようと言ってくださいました。  ベテランの看護婦さんは、ドイツ日本と食事が違うから大変でしようと気を使ってくれました。看護士さんとは、私が日本語を教えるかわりに彼がドイツ語を教えてくれたりしまじた。また、ある看護婦さんは、私が彼女の担当でない日も朝必ず顔を見せ励ましてくれました。  このように親切にしてくれたドイツの人の命を奪って私が今生きていることになるのでしょうか。決してそんなふうには思いません。ドナーの方は、亡くなってからも、ともに私の中で生きているのですから。  私がドイツで入院しているとき、十四歳の女の子が過って毒キノコを食べ、緊急入院してきました。すぐに臓器が手配され、肝移植手術が行われました。この少女の御家族の方たちドイツのいろいろな病院に割り振られて手術を受けたと聞いています。幸いにも女の子は一命を取りとめ、私が退院するときは元気になっていました。このとき、ドイツでは移植医療がごく当たり前の医療になっていることを実感しました。  また、同室のドイツ人の患者さんに、何で日本は高い医療技術を持っているのに日本移植をやらないのかと聞かれ、答えることができませんでした。この究極の愛の医療を今すぐ日本でもできるよう、そして定着するように参議院議員の皆様方にお願いいたします。  移植医療でしか助かる道のない多くの患者さんとその家族の方たちが、特に小さいお子さんを持つ父母の方々は切実な思いで法案審議を見守っています。報道によりますと、中山案の修正案が出ると聞いています。しかし、法案が成立したとしても、移植医療が定着しにくい内容では何の意味もなくなってしまいます。ぜひ日本でも外国と同じように脳死からの移植が一日も早くできますようにお願いいたします。  最後に一言、法案が成立したら国を挙げてドナーカード普及に取り組んでいただきますようお願いいたします。例えば、健康保険証に臓器提供意思表示をする欄を設けることなどを検討していただくようにお願いいたします。  ありがとうございました。
  8. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ありがとうございました。  それでは次に、ぬで島公述人にお願いいたします。ぬで島公述人
  9. ぬで島次郎

    公述人ぬで島次郎君) ぬで島と申します。  臓器移植を初めとして、先端医療中心に科学技術を世の中でどう進めていくか、どう社会や国が管理していくかという政策を、ほかの外国ではどういうことをやっていて、日本ではどういうことをやっていったらいいかという調査研究に従事している者です。そういう研究者として本日は意見を述べさせていただきたいと思います。三つのポイントについて申し上げたいと思います。  まず第一に、臓器移植の今後の先行きはどうなのかということです。どの国でも移植を始めてから件数がふえて成績もよくなるまでには数年かかっております。それに、一応軌道に乗った後も臓器不足が解消されることは残念ながらないようです。その理由として、一つには、欧米でも日本と同じように、脈の打つ体から臓器を取り出すことにかなりの抵抗感があるからだと聞いております。  アメリカですら、ハーバード大学の小児科救急の医学者が、つい最近、アメリカに権威のある生命倫理の雑誌があるのですが、その雑誌の巻頭論文で、脳死基準は不完全なので、だれもが賛成できる三徴候死、伝統的な死の判定基準に帰るべきであるという、ちょっと私もびっくりしたんですけれども、そういう論文を出しました。これはまだ一人の医学者の意見でしかありませんが、アメリカにもそういう多様な意見があるということだと思います。  藤堂先生アメリカの御様子をおっしゃいましたが、私が調べているヨーロッパでは、例えばフランスでは一九九〇年代になって、脳死になった患者さんの家族臓器提供を断る例が過半数を超えるようになって、移植件数が大きく減ったことがありました。そのため、臓器不足が深刻になって、心臓、肝臓、それぞれ年間百人ほどの患者さんが移植を待つ間に亡くなっていらっしゃいます。イギリスでも年間やはり心臓、肝臓、それぞれ五十人前後の患者さんが待っている間に亡くなっています。法律ができて、移植が定着して、何年たっても移植が受けられずに相当の患者さんが亡くなる状況に、残念ながら劇的な改善は望めないのだと思います。  さらに、単に移植を受けられるか受けられないかだけでなく、臓器移植医療としてどこまで安全で有効なのか、どれだけ患者さんの寿命を延ばすだけでなく生活の質を改善できるかについて、きちんとしたデータに基づいて検証される必要があると考えます。  生存率は大変よくなっていますが、それだけではわからないと思います。例えば、移植を受けた人は一般の人に比べて割と高い割合でがんになるという報告が時々出ています。これは医療を受ける側としては大変気になることですので、移植医の先生方にぜひ正確な現状を明らかにしてお知らせいただきたいと思います。  また、日本では、患者家族の生活を支える看護やソーシャルワークなどのスタッフが不備で、お医者さんの技術だけが突出している感があります。医療のマンパワーのそうした偏りを正すことなく、日常医療の基礎体力が弱いところで臓器移植のような先端医療を行うと、もし不幸にも困難なことが起こってしまったとき、そのしわ寄せば患者家族がかぶらなければならなくなります。  そうした移植のいい面、悪い面を十分知ってトータルに評価を下す、そういう議論が立法府でも必要になるのではないかと思います。それはぜひ参院の先生方にお願いしたいところです。  第二に、中谷先生もおっしゃいましたが、事故死や犯罪死の扱いへの影響について申し上げたいと思います。脳死移植法案によって大きな影響を受けるのが警察などによる事故死や犯罪死などの扱いだと思います。この点が今まで国会でほとんど取り上げられていないことに私は非常に危惧を覚えておりました。  病気や老衰などの内部の原因で亡くなったことがお医者さんによって確実に診断されていない死亡を異状死と言います。お医者さんは、異状死を扱った、診た場合は警察に届け出なければならないと医師法で決められています。届け出を受けた当局は、異状死の原因を明らかにするための検視という作業を行わなくてはなりません。衆議院を通過したいわゆる中山案では、検視が終わるまで臓器摘出はできないとしております。ですが、この規定の仕方では、臓器提供が行われる場合は検視を急いで終わらせてくれという圧力が生じかねないと思います。  脳死後に臓器提供者になれるのは、頭にひどいけがをして急に亡くなる場合が一番多くて、そのほとんどが交通事故を筆頭に検視を必要とするケースになると思います。大阪では過去に、頭を殴られた傷害致死事件の被害者から警察の制止を振り切って腎臓が摘出された事例がありました。  移植のために検視が急がされると、交通事故の加害の認定、どの車が一番悪かったかとかそういう認定を検証するわけですが、そうした加害の認定とか犯罪の証拠採取などに漏れが出て、被害者だけでなく加害者側も大変な不利益をこうむるおそれがあります、後で裁判のとき十分な証拠がないなどの理由で。  この点について、日本移植学会が四月十二日に公表した行動指針は、異状死体から臓器摘出する際は担当の現場捜査官から承諾書を得ることと決められていらっしゃいます。しかし、指針に添付されたその書式を見ると、捜査官は死因だけでなく、自然死か事故死か、他殺か自殺かを判断することを死の種別を判断すると言いますが、その死の種別まで、まだ臓器摘出されていない前の時点でその場で判断して記入しなくてはいけないようになっています。  ですが、本来そうした判断は、ほかのすべての調査が終わってから行うべきもので、現場の一捜査官がその場で決められることではないと思うんです。この移植学会の書式などを見ていると、臓器摘出のために検視が不当に急がされるおそれが如実に示されているのではないかと私は非常に恐れております。  移植先進国のうちアメリカやイギリスなどでは、臓器移植法とは別に、異状死体からの臓器提供の可否を法医学などの専門家が一件ごとに判断する法的な制度があって、提供者側の人権保護が保障される仕組みがあります。参議院で猪熊案と呼ばれているいわゆる対案の方は、こうした点を考慮して、脳死患者からの臓器摘出の際、医師は検察庁、警察庁へ通報するように義務づけ、捜査当局側に臓器摘出拒否権を与えております。こうしたルールは何らかの形でぜひ必要なものになると考えます。  仮に法律脳死になった人を死体と規定したとしても、具体的にどのようなケースで臓器摘出が認められるのか、一定の決まりは別につくる必要があると思います。  日本では、過去に、溺死、自宅内での転落死、傷害致死の被害者といった異状死体から臓器摘出した事例があります。臓器摘出の要請が警察に検視を急がせる圧力になって、犯罪や加害責任が万一にも見逃されることがないように、どういった場合なら臓器摘出を認められるのか、明確な線を検察、警察は示すべきではないでしょうか、例えば明らかな自損事故に限るなど。自損というのは、自分で例えば電信柱に当たってしまったというように、第三者を巻き込まずに明らかに自分だけで事故になったということを自損事故と言うそうですが、そういう例えば明らかな自損事故に当面は限るなど、そういった歯どめを検察、警察は示すべきではないでしょうか。  以上については、私、きょう二枚ほどB5でお手元に配付資料をお配りしておりますので、その一枚目にまとめましたので、どうぞごらんください。  最後に、私の意見を述べさせていただきます。私は、臓器移植は、法律に頼らず医学界が自主管理のもとに自主実施すべきであると考えております。  脳死状態の人を死体とする法案は、臓器移植に道を開くという利益は確かにありますが、その利益よりも、救命医療や先ほど申し上げてきた事故死や犯罪死の扱いに悪影響を与えるマイナス面の方がはるかに大きいと危惧しております。  臓器移植を定着させるためには、今の法案をすべて一たん白紙に戻して、移植学会だけではなく、医学界全体が自主実施の体制、管理の体制と規制のルールを自分たちで固めて、一件一件実績を積んでいただいて、間違いが起こらないということを示し、社会の信頼を得るのが筋道だと私は考えます。それがほかの臓器移植先進国がこれまで歩んできた道です。  現在でこそ臓器移植に関する法律を整えている国は、ほとんどの国でそうなっていますが、その国の中で、主要な先進国で国内で移植をやる前に臓器移植法をつくった国はありません。デンマークだけが唯一の例外です。どの国でも最初法律のないところで移植医の先生方が信念に基づいて臓器移植を、目の前の患者さんを救う手だてとして勇気を持ってやってこられた。その積み重ねの上に現在臓器移植が定着するというこういう状況が実現して、その恩恵をたくさんの方が受けているわけです。  どうして日本のお医者さんはそれができないのか。日本のお医者さんがよその国のお医者さんに劣るとは私は決して考えません。同じ以上にすぐれたお医者さんであるはずです。ですから、そのように、ほかの国が歩んできた道を日本もたどるべきだと思います。法律というのは、社会の信頼の結果であって、社会の信頼を得るための道具であってはならないと考えます。  以上の点につきましては、お手元にお配りした資料の二枚目に私の所見をまとめて述べさせていただいておりますので、どうぞごらんください。  どうもありがとうございました。
  10. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ありがとうございました。  次に、玉置公述人にお願いいたします。玉置公述人
  11. 玉置勲

    公述人玉置勲君) 玉置でございます。  私は日本移植コーディネイター協議会の会長をさせていただいておりまして、この臓器移植にかかわったきっかけは、昭和五十五年に東京農大の大学院を出たときに、豚のリンパ球の研究をやっておりました。その後、豚の心臓弁を使った弁の置換移植手術というところで、豚の弁が二十年前に使われておりまして、そのあたりの、異種の動物との適合性の問題、提供された同種間の、同じ動物同士の、人なら人、豚なら豚ですけれども、人同士の同種間の移植という研究に入りました。その後、その提供された臓器の研究に入っておりまして、平成七年四月に発足しました日本腎臓移植ネットワークという社団法人の方で今は勤務をさせていただいております。  私は、移植コーディネーターと呼ばれる仕事に今ついていることになっておるんですが、当初は移植の研究者というようなプライドがあったんですが、実は、提供がない限り、その研究をしていても臨床的には患者さんを救えないという第三極的な、要するに医師と患者の二極構造の医療から、提供者が発生しないと移植ができないというこの三極構造の中で、どういった提供が求められるかというところで移植のコーディネーターという分野をいろいろ御指導いただきながら発掘したわけです。  近々移植法が成立するやもしれないという情報をいただいておりますが、ここまで長い間の道のりを経てまいったわけです。私も、平成五年に中間報告を出しました臓器移植ネットワークのあり方等に関する検討会と臓器提供に関するワーキンググループに委員として招かれ、前回、臓器移植そんたく家族そんたくによる提供という法律案厚生省のたたき台の委員をもさせていただきました。その中で私が主張させてもらったのは、臓器提供本人意思も重要なんだけれども、残された家族意思というものを尊重していただきたいということは繰り返し発言させていただきました。しかし、家族がその本人意思そんたくしてという、最終的にはそういった法案平成五年の臓器移植法案は衆議院の解散により廃案になってしまったわけです。  今回、またその修正がかかりまして、提供者本人意思がなければいけないというところで臓器提供がかなり狭まってきたというところで大変危惧はしておりますが、先ほどの御発言等々ありますとおり、今の我が国の臓器移植医療の分野におきまして、提供者が発生する可能性の高い救命救急施設、こちらの先生方の要するに告発事件等を考えますと、法で何とか、死体、脳死体を含む死体というような形で法律で定義されていない限り一歩も前へ進まないという現状を見てまいりまして、本日ここで私の腎臓移植の経験とさらに今度の二法案についての意見を述べさせていただきたいと思います。  まず、腎臓移植の現状についてお話しさせていただきます。  腎臓移植一つには親兄弟から提供いただく、これは生体移植と申します。ここで多分に誤解があるんですが、脳死からの提供も、脳死は生きているんだからこれは生体移植だというように誤解されているところが多々あります。これは脳死体ではあっても、死体腎移植ということに含まれております。  そして、腎臓移植ネットワークで勤務する我々が行っている業務は、提供者、要するにこれは私は悲嘆家族と申しますが、脳死判定されたお身内の家族に対して、腎臓提供という選択肢があるというようなことを話をさせていただくようになりました。これはどうしてかといいますと、ドナーカードを持っている方々をずっと待ってはいたんですが、なかなかドナーカードを持っていらっしゃる方がいなかった。臨床的にどうしても移植が必要なときに、家族意思によって提供されることが当時普通でございました。  そこで、厚生省の地方腎移植センターの拝命のもとに、東京医科大学八王子医療センターでは、悲嘆家族に、まず本人がどういう考え方であったか、または御家族がどういう考えであるかというようなことを聞くようなシステムをつくったわけです。  そのときに白羽の矢が当たりまして、私は悲嘆に暮れる家族に接するようになったわけですが、今言われているような移植コーディネーターはブローカーとかそういうものではございません。私自身も相手の悲嘆を十分認識しながら、相手の行動、顔色、反応を見つつ移植の話を進めていくわけでございますが、この中で一から十の話を全部しなきゃいけないということで、その席に着きますと、悲嘆家族、御家族に大変御迷惑、心労を加えるわけです。  そういう意味で、臓器提供の御説明をする上で一番重要なところ、相手の心情を十分酌んでこちらはあくまでも情報提供に徹するというやり方を考え始めたわけです。そうしますと、こちらが積極的に、説得はしませんけれども、説得に近い話で家族を圧迫するよりも、こちらがリラックスしてこういった話があるんですよという話をすることによって、一時期六〇%の提供率をいただきました。これは提供率の競い合いではございませんので、私は余りこういう話はしたくはないんですが、日本国民も腎臓提供、これはあくまでも心停止後の移植ということで限らせていただきますが、心停止後の移植でありましたらかなり御協力いただける。  しかし、その後の家族のフォローというのがこれまた重要でございます。これを救命救急のお医者様方がその家族のところへお伺いして移植後の状況等を説明することは困難でございます。そういった代役をさせていただくのが移植コーディネーターの任務だ、業務だと私は考えております。  そういうことで、臓器提供というのは、臓器提供を受けて健康を取り戻し救命された患者さんのみならず、提供をした家族の中にも、私の書いた論文がお手元にあるかと思いますが、これは悲嘆の軽減、カーブがあるわけですね、臓器提供をした家族、しない家族というところで。そのした家族、しなかった家族のポイントを計算しております。これは心臓停止を十点といたしまして、個々の家族に、病気になったときから臓器提供した後の報告を受けるまで、そういった項目をつけまして点数をつけてもらいました。  そうしますと、病気が発生したり事故が発生したときに病院に駆けつけたときの悲嘆というのは、その心停止のもう十倍から二十倍の数値になります。しかし、心停止を十点にした場合、移植提供した後のポイントを見ますと四点前後に下がっております。これは何かといいますと、やはり提供したことによってある程度だれかの役に立った、または身内のどこかの提供した一部がどこかで生きているということに喜びといいますか、悲嘆の軽減になっていることがわかったわけですね。  そういう意味で、移植コーディネーターはだれかの臓器をとってくるとかそんなことは考えておりません、あくまでも救命されればいいと願っているわけです。そういう感性を持ち合わせております。しかし、それでも、脳死判定をされて脳死となった人から一例たりとも生き返った方はいらっしゃらない、息を吹き返した方はいらっしゃらないという厳然たる事実がある上で臓器提供の説明をさせていただき、あくまでも現行法でやっています心停止の後の摘出ということでお話をさせていただければ、提供する家族は結構多いということをまずお話をさせていただきました。  あと、コーディネーターの役目といいますと、話が前に戻りますが、救命センターなどで家族が腎臓の提供を申し出た場合、本来ならば救命の先生が話をしていただいてその後我々が専門的な話をさせてもらうというのが筋でございますが、中には、呼吸器関係の病状によりほとんどもう助かる見込みがない、そういった方々から提供があったことも過去にございます。これは心停止後の腎臓提供となりますと、脳死を経ない提供もそういった提供したいという人がいた場合に可能になってくるというところで、腎臓の提供の中には脳死を経ない提供者もいるという現実もあるわけでございます。  そのほかに、腎臓提供の説明をするときに、例えばこれは経験から話をさせてもらいますと、悲嘆に暮れてお嬢ちゃまが号泣されておりました。我々の施設、当時の東京医科大学八王子医療センターでは、すべての脳死判定をされた方に腎臓提供意思があったかどうかということを確認しようという一つの方針がございました。私はその号泣されたお嬢ちゃまに、大変申しわけないけれどももう脳死判定をされた、今後のことは皆さんがどうするかと考えなきゃいけません、その中に一つの選択肢として腎臓提供というのがございますという話をしましたら、そのお嬢ちゃまはぱっと泣きやみました。お嬢ちゃまといいますか奥さんなんですけれども、何が提供できるんですかということで、移植ということをお母さまが知っていらっしゃったということもございまして、私に聞かれたんです。私は、心臓停止後でいいから腎臓提供というのがあります、もし提供いただけるんでしたらそのことに対しては我々が協力をさせてもらうということでお話をさせていただきました。その後、心停止を迎えて腎臓提供になりましたが、我々は腎臓移植がどうなったかということを御家族のところに報告に参りました。するとお嬢ちゃまは、手をたたかんばかりに、腎臓の提供をしてよかったというようなお話を我々にされました。  そういうことで、腎臓提供は、あくまでも移植を待っている患者さんのみならず、提供した家族にも、多少ではありますが悲嘆の軽減になっているというところをまず御理解いただきたいと思います。  次に、この法律のもとで行われている腎臓移植のデータでございます。そこにお配りしておりますが、平成七年四月から、当腎臓移植ネットワークにおきまして六百二十件の情報件数、これは提供するしないにかかわらず情報があった件数です。そのうち、ドナーカードを保有していたのが五十四件。結構多いかと思いますが、そのうち提供に至ったのは十五件なんです。といいますのは、ドナーカードを保持されていても、心停止前に連絡がいただけず心停止後の連絡になっているというところに、ドナーカードがまだまだ普及していないという現状が明らかにされていると思います。  そういった意味で、十五件の提供が多いのか少ないのかといいますと、私は十年前に比べますと少しはふえてきたかなということで理解はしておりますが、先ほどの公述人の御意見のとおり、ドナーカード普及というのは今後全国民を挙げて行わなきゃいけないのじゃないか、そういうふうに思うわけでございます。  次に、中山案猪熊案に対する考え方を述べさせていただきます。  私のコーディネーターとしての経験を通じて、今国会で審議されている二つ法案について考えますと、ぜひとも中山案を成立させていただきたいと考えます。  脳死は人の死かについては、これまで十年間に約三百人の脳死体、脳死者を私は見てまいりました。ただの一人として息を吹き返したような症例はありませんでした。もちろん医学的に見て脳死が死でありますからこう言えるのですが、そうした科学的なもの以上に、私の経験の中で脳死は人の死であるということがさらに確信されてきたわけでございます。  本来、臓器移植法律が必要ない状況で始まるべきだと思います。私も、十年前でしたらこういったねじれ現象、要するに救命救急医が訴えられる、検案ができないというようなことで臓器移植法が必要だということは理解しておりますが、そういった法律がない状況でまずは始められるべきだっただろうなと今は思います。しかし、法律がないということで臓器提供ができないという救命側の話を聞きますと、やはり臓器移植法が必要だろうと繰り返し考えるわけでございます。そこで、我が国の移植医療はこの法律なしにはできないものであると私は考えておるわけです。大勢の患者のことを考えるに、中山案の一刻も早い成立を望んでおります。  一方、猪熊案では、脳死を人の死と定めないで臓器移植の道を開こうとしています。亡くなっていない人から臓器提供を受けるということは、患者の救命に命をかけている救命医には受け入れがたいものがあるということです。救急救命医は、患者が生きている限り最善の救命の治療を続けるわけですから、生きている人からの臓器摘出ということは考えられない。この考え方救急医療全般に混乱を招くものと考えます。  さらに、ここ数日、マスコミで臓器移植法案は中山案の修正案がクローズアップされております。臓器提供するときに限って脳死を人の死とするというようなことですが、これでは脳死と心臓死という二つの死を許すことになりはしないでしょうか高じ脳死判定義た人が臓器提供をするかしないかということで一方では死、もう一方では生きているというのでは死の客観性が失われることになると考えます。  医療現場では、脳死あるいは脳死判定臓器移植は切り離すべきであるという考え方があります。これは移植医療と救命医療を切り離すといったことに言いかえてもいいと思います。修正案では、一般的な脳死判定臓器移植のための脳死判定に分かれ、後者、つまり臓器移植のために脳死判定をするのでは、脳死判定臓器移植を切り離せなくなって誤解を生じてしまいます。これも猪熊案と同じように、医療現場に混乱を招き入れるものではないかと考えます。  脳死判定意思書面にしておかなければならないということで、これまで私的ネットワークや患者団体などが配った、脳死後での提供をうたったドナーカードも無効になると聞いております。これでは、いつになったら条件の整った提供者があらわれるのでしょうか。移植患者さんはさらに待たされるということです。  最後に、私は中山案の成立を強く望むと申し上げましたが、私が本当に臓器移植が少しでも可能となる法律としては、三年前に初めて国会に提出された臓器移植法案が一番もっともな法律だと考えております。つまり、家族そんたく臓器摘出ができたらいいなと。これは私個人の考えでございますが、その法律臓器移植を一歩でも二歩でも前進させる法律だろうと、そういうふうに考えておるわけでございます。  臓器移植に道を開く法律を考えていただけるのであれば、昨年修正した前の法案でやるべきだと考えます。少なくとも、二度の修正を加えて臓器移植への道を狭めるような法律にだけはしていただきたくないなと切に望んでおります。  以上、ありがとうございました。
  12. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ありがとうございました。  それでは次に、藤井公述人にお願いいたします。藤井公述人
  13. 藤井正雄

    公述人藤井正雄君) 御紹介いただきました藤井でございます。  私の立場は、このプリントにございますように、大正大学の教授であると同時に、浄土宗教団の一員でもございます。実は私自身も、この場におりますのは日本宗教連盟の推薦を受けてのことでございます。皆さんにお配りしてございますけれども、日宗連は、教派神道それから仏教会とキリスト教会と神社本庁と新宗教の連合体でございます。ほとんどの教団がこの連盟の中に入っているところでございます。  そういったことから、一つ一つ各教団の死生観についてここでお話をいたしますと、かえって混乱をしてしまう。私ども宗教学の上から申しますと、制度宗教あるいは組織宗教というふうに分けておりまして、この組織宗教というのは新宗教でございます。あと、仏教、キリスト教、神道は制度宗教というふうに理解しております。制度宗教も組織宗教も実は日本人の心底にあるそういう宗教観、宗教意識を踏まえた上であるんだと、そういうふうに考えておりますので、各教団の底辺に横たわっている宗教観それから死生観というものを踏まえながらこの臓器移植法案というものを眺めた場合どうなるであろうかといったことを中心にお話し申し上げたいと思うわけです。  私は二点に絞ってお話し申し上げたいと思います。  まず第一点は、先ほどぬで島さんが言われましたように、海外の臓器移植法案に関する制度のプロセスを見てみますと、下から積み重ねて出てきている、それが実はコンセンサスであろうと思うんです。  翻って日本の事例を取り上げてみますと、日本の場合には死の判定というのが明治三十九年、これは一九〇六年ですから今から九十一年前に、旧医師法によって死の判定は医師の専権事項と定められたということになっております。その場合、これは心臓死でございますので、死というものは、一般の人々は医師の言うとおりの判定に従い、しかも確認することができた。そういう意味では医師と患者との間の絶対的な信頼関係で結ばれていた。  ところが、レスピレーターをつけて脳死という事態が出てくると、血潮が流れ、心臓が鼓動し、生きているのに、なぜこれで死んだのか。それを移植のためにというふうに説得するのは非常に無理であるわけです。それには医師に対する絶対信頼がなければ移植というのは成功しない。  そういった点におきまして、四割の反対がいるということは、先ほど中谷先生からもお話がありましたように、それを切り捨てて強行すればかえって移植医療そのものを台なしにしてしまうのではないかということを大変恐れるものなんです。私自身は脳死を人の死とすることに対して非常に危惧を持っておりますが、移植そのものに対して反対はしておりません。まず、その立場を表明しておきたいと思います。  そういった意味におきまして、参議院の先生方にぜひお願いしたいのは、移植医だけのコンセンサスじゃなくて医学界全体のコンセンサスをまず持ってほしい。脳死判定につきましても、我々は医師の専権事項としております関係上、我々が死の判定についてとやかく言うことはできない。お医者さん自身ががたがたしていたのでは、これは死の判定ということに対して承服することはできないんではないだろうか、それが第一点でございます。  それから第二点、なぜ宗教界が脳死を人の死とすることに対して疑義を呈しているかということでございます。  実は、この二つ法案を見てまいりましても、臓器をパーツ、要するに人間の部品、体の部品であると位置づけている、いわゆる物として位置づけているんではないだろうか。そこに実は宗教者の抵抗というのが非常にあるんだというふうに理解していただきたいと思うんです。  そういってもなかなかおわかりにくいと思いますけれども、臓器移植移植そのものというのは、これは善意善意のぶつかり合いであり、先ほど移植を受けられた渡辺さんが、ドイツから命の贈り物をいただいた、そしてその贈り物は私の体の中で今でも生きている、死ぬまで臓器は生きているんだということを言われましたけれども、先ほど玉置公述人は、そうじゃないと、死として認めてもらわなきゃ、生きている人からは救急医療医は賛成できない、救急ということで命を長らえるために力を注いでいるのに、生きている人からは臓器摘出できない、こういうふうに言われた。  ところが、翻って宗教という面から考えると、我々は、臓器は体の一部、パーツではない、部品ではなく、物ではなくて生きているものなんだ。  一番わかりやすい例として挙げますのは、日本では遺骨崇拝というのが非常に根強く残っております。これは厚生省でも海外に、戦地に出かけていって遺骨を収集する。遺骨にも実は力を認めているのが日本の死生観なんですね。  例えば、ごく最近の例を挙げますと、戦争末期におきましてもそうでございますけれども、神田三亀男さんという方が「原爆に夫を奪われて 広島の農婦たちの証言」というのを岩波新書から出しておりますけれども、それをちょっと御紹介申し上げますと、原爆を落とされた広島におきまして、やけどに骨灰を塗ると治るという迷信が広がったということが書かれてあります。  それで、夫の遺体をだびに付して、そして帰ってきて、「かがつ」と申しますからこれはすり鉢でございますけれども、すり鉢ですって、そしてその粉になったものを息子のやけどに塗った。ところが、一向に効き目もなくて死んでしまった。そのときに何と言ったかというと、一向に効きやせなんだ。主人の骨が毒、これは原爆の放射能ですけれども、毒を吸うとるんじゃけえ、効くはずのものでもなかった。後で気づきましたがの。それでもその折は必死でした。親の骨、私の主人の骨をかがつで粉にして、子供につけてやったあの夜のことは悪夢じゃったんでござんしょうよと、こういうふうに書いてあるんですね。  一人生き残っている息子の命を助けたいという一心でそういう迷信に取りすがったということが言えると思いますけれども、それでも骨灰を塗りたくるというその親の心情というのは理解しなければいけないし、また先ほどの移植を受けられた渡辺さんのように、臓器というのはレシピエントの中に生きているという事態は、やはりドナー臓器というのは生きているものと見なければいけない。  そういっても、ここで皆さんにお説教するわけではございませんで、私どもが平生家庭の中で育ってきた中で、何げなしにしている動作というのがあるわけです。それは毎日三度三度の食事をいただきますけれども、そのときに合掌をいたしまして、かただきますという言葉を出し、そして食事が終わった後、ごちそうさまという言葉を発します。tや、何をいただくのか。宗教的な雰囲気のない若い人たちは、自分がお金を払って食べるんだから何もいただきますと言う必要はないじゃないかと。  しかし、宗教的にはそうじゃないんですね。確かに宗教というものが力を失ってきたということについて我々はじくじたるものがあるわけですけれども、いただきますというのは、実は三度三度の食事に供せられる肉だとか魚だとか生きている命をいただく、そういったことで実はいただきますということを我々は食事の前に言うわけですね。  私は、浄土宗の教団の一員でございますので、ここで法然さんの言葉を出しますと、常に仰せられけるお言葉の中に、またいわく、人の命は食事のときむせて死することもあるなりと、食事のときにむせて死んでしまう場合もある。南無阿弥陀仏とかみて南無阿弥陀仏と飲み入るべしという言葉があるんですね。それは、魚や肉が自分のために供せられた、その命を南無阿弥陀仏とかみ、南無阿弥陀仏と飲み入ることによって、そしゃくしてその命を我が命とさせると、そこが実はごちそうさまということで、感謝の念に変わってくるわけです。  我々、命というものはほかの命をいただいて生きているんだと、これを生かされていくという表現を使っております。生かされて生きている我々だからこそ人を生かさなければならないということで、生かされて生き、生かすというのがこの日本宗教の根底に横たわっている死生観である、そういうふうに理解することができると思います。  そういうことで、例えば仏教系の幼稚園なんかに行きますと、幼児が食前の言葉として述べる言葉というのに、一粒のお米も一滴のお水もみんな仏様のお恵みです、仏様ありがとう、お父様、お母様ありがとう、いただきます。こういうふうに食前に申していただくわけです。そういった中で、一本の大木が無数の根によって支えられているように、私たちの命というのは目に見えないさまざまな命によって支えられているという現実を見た場合に、やはりレシピエントドナー臓器をいただくというのは生きているものでなければならない。我々はただ単なる物質であってはならないのであって、そこにこそ、そういう世界観なり死生観というものが浸透しておれば、臓器移植というのは善意のぶつかり合いによってでき得るものだというふうに理解しなければならないのではないでしょうか。  そういう意味におきまして、この二つの案というものを拝見してまいりますと、先ほど中谷先生が言われましたように、立法は妥協の所産であると。そういう意味で、私はさらに中山案猪熊案とを合体させる方が一番よろしいのではないだろうか。私は、中山案に対しまして申し上げますと、五ページの第六条に、「死体(脳死体を含む。以下同じ。)」とありますけれども、これを死体及び脳死体から摘出することができるというふうに変えられないだろうか。もちろん、ここだけじゃなくて、十四ページになりますか、附則の第二条第三項のところに「同条の死体が第六条第二項の脳死体であるときは、」ということで、文言が「脳死体」に変わっております。ここの場合には「脳死体」になっておりますけれども、これはまだ直っていないんだろうと思いますけれども、非常にやわらかい表現を使っていても、詳細に読めば脳死はあくまでも、そのドナーとしての脳死判定ということはよく理解できますけれども、死体であることには変わらない。すなわち、脳死が人の死であるということには変わらない。そうすると、ここに抵抗があるわけです。我々は物ではない。  ただ、現在の移植というものが過渡的医療であり、緊急避難的なものであるとするならば、これは人工臓器ができるまでの間の医療かもしれませんけれども、そういう意味におきまして、私ども宗教者から見た場合には、やはり生きた命をいただくということ、この立場を守っていきたい。一般日本人の考え方も実はそうなんだと。だからこそ、脳死を人の死とすることについては疑義があるけれども、移植に対しては余り反対はないと。  ただ、最後に一言だけ述べておきたいことがございますけれども、一番最初に賛否両論があるということを申し上げました。脳死体から臓器を取り出してレシピエント移植する場合でも、やはり状況によって違ってくる。お金持ちが自分の心臓が悪い、部品をあたかもかえるがごとく臓器移植をしてしまった場合においては、生に執着することを助長するからこれは反対しなければならないという意見が出てまいります。それから、竹内基準におきましては、六歳未満の幼児については判定をしないということになっておりますけれども、幼児であればあるほど助けたいというのが人情でございます。その者にとって命がどういうものであるかということはわからないわけですから、その人が他者の命をもらって今日の命があると知ったならば、必ずや人の命を助ける仕事につく立派な人間に育っていくのではないでしょうか。宗教者はそういった面で援助をしていきたいと、こういうふうに考えております。  どうもありがとうございました。
  14. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ありがとうございました。  以上で六名の公述人意見の陳述は終わりました。  これより公述人に対する質疑を行います。  質疑のある方は順次着席のまま発言願います。
  15. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 自由民主党の成瀬守重でございます。  六人の皆様方から、本当に生と死を見詰めて、それぞれのお立場から真摯な体験なり御意見を承りまして、私も大変感銘深く拝聴いたしました。  最初に、みずから臓器移植を体験された渡辺さんからお伺いしたいと思いますが、本当にお元気になられてよかったと思います。
  16. 渡辺環

    公述人渡辺環君) ありがとうございます。
  17. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 先ほどお言葉の中で、大切な命の贈り物を受けられた私の義務だと御主人から言われたというような、また御自分の体の中に臓器提供してくださった方の命が生きているんだというお話をされましたけれども、そのことにつきましては、先ほど藤井先生からもその言葉を引用されておっしゃいました。  私、渡辺さんにお伺いしたいんですが、おたくに臓器提供されたドナードイツ人の方、恐らくお名前もどういう方かも御存じないと思いますが、御存じないですね。
  18. 渡辺環

    公述人渡辺環君) 教えていただいていません。
  19. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 と思います。  しかし、見たことも聞いたこともないその方に対してどういうお気持ちをお持ちになっていらっしゃるか、そのことをちょっとお伺いしたいと思います。
  20. 渡辺環

    公述人渡辺環君) 今となりましては、もう本当に一緒に生きているという感じで、その人というふうには思うんですけれども、肝臓は私じゃないので、その人というふうには言っても、実際にはもう一緒になって、私の一部分なんだけれども、その肝臓がなければほかの臓器が全部機能しないわけですから、その方は亡くなられたんだけれども、私の中でもうずっと一緒に生きているという気持ちがいつもいつもあるんですね。だから、感謝の気持ちが常にあるという、そういう感じです。
  21. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 また、その方はどういうお気持ちから御自分の体の臓器提供されたか、お考えになったことはありますか。
  22. 渡辺環

    公述人渡辺環君) そういうふうには、ちょっとわからない。多分その方は自分ではわからないうちにそういう状態になられたと思うんですね。だから、その方がだれかの中で生きたいと思っていただとか、そういうふうなことは考えたことはないんですけれども、とにかく一緒に生きているという感じがもうずっとしているんですね。一人なんだけれども一人ではないというふうな、私の中ではいつもそういう気持ちがあります。
  23. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 ありがとうございました。  今度は角度を変えまして、藤堂先生に伺いたいと思うんです。  アメリカにおいての幾つかの体験で、私どもではちょっと想像もつかないぐらい非常に多くの体験を積み重ねられたんですが、アメリカにおいては脳死というものについてはもう医学的に定着したとおっしゃいましたけれども、これに対してアメリカ一般市民の方の意識というものはどうなんでしょうか。
  24. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 全般的な意識というものを推しはかることはできませんけれども、少なくとも、まず医学的には、必ず医学の教育の中に脳死というものの教育がございます。それから、最近のことと伺っておりますけれども、子供といいますか、小学校、中学校ぐらいだと思いますけれども、学校の教育の中に脳死という教育の時間をつくっている国もあると聞いております。
  25. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 相当多くの移植手術をなさったようですけれども、ということはそれだけ多くの臓器提供者がいらっしゃると思うんです。いろんなそれぞれのお立場やら心境やら事情はおありと思いますが、そうやって御自分臓器提供するという、そういった方々の心情ですね、先ほどもちょっと渡辺さんにもお伺いしたんですが、もちろんそういった方々の心情というものをお聞きになったり、あるいはごらんになったりして考えられたようなことはございますでしょうか。
  26. 藤堂省

    公述人藤堂省君) もちろんそういう経験はたくさんございます。  ただ、アメリカの場合は脳死判定されましてもすべての方が臓器提供をなさるわけではありませんで、現在、大体脳死患者の二五%の患者さんが臓器提供しております。その中でも、例えば人種によって脳死提供の比率が違うということも事実でございます。  三つの症例を今の成瀬先生の質問に対してお示ししたいと思います。  一つは、これは日本の高校生です。心臓が悪くて、ピッツバーグに行きまして心臓移植をいたしました。そのドナーは三十数歳の女性で、随分悩まれました。それは私自身はタッチしませんので、コーディネーターから聞きました。それで、まだいたいけな子供さんたちを持っていらっしゃる御主人が、この女性、脳死になられた奥さんの意思を、意思と申しますか生き方を尊重するためにはドネーションをすることが一番彼女を生かす道であるというふうに判断されたと聞いております。  それから、私自身の経験ですけれども、これは五歳の男の子で、当初どうぞ臓器移植に使ってくださいということで手術場に入りまして、そして実際にメスを入れる直前に、やめてくれ、やっぱり忍びないと。それは十年ぐらい前の経験でございます。  それから三番目に、全く脳死についてドネーションは私はしたくないという症例もあります。  ということは、いろんな考え方がございます。ドネーションということについても、それからレシピエントということについてもいろんな考え方がございます。ただ、その中で、ドネーションをしてよろしいという御家族あるいは御本人意思と、その意思をいただいて第二の人生、すなわちギフト・オブ・ライフと呼ぶんですけれども、今の贈り物をもらって第二の人生を生きたいという患者さんのその橋渡しをするのが私たちでありまして、それ以外にいろんな考え方があると思います。そういう橋渡しが自由にオープンに、フリーといいますか、フェアにできるということがその社会の優しさだと思いますし、日本がそういう社会であってほしいと今思っております。
  27. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 ありがとうございました。  藤井先生にお伺いしたいと思います。  先ほど藤井先生は宗教者の立場としていろいろ貴重な御意見をお述べいただきました。私も子供のころから熱心な信仰を持った家庭の中で育ってまいりまして、人間というものは単なる肉体的、物質的なものでなく、肉体的であるとともに、精神的な存在で生き通す命というものは肉体は滅んでも永遠に存在するということを信じ切っております。それだけに、単に人間の体を物質と見てそれを移植するという考え方じゃなくて、先ほども藤堂先生のお話やらまた渡辺さんのお話にもありましたように、そういう相手の人を生かすことにとうとさとか意義というものを私は感ずるわけです。  特に藤井先生に伺いたいのですが、たしか玉虫厨子に、釈迦の前世において、子を産んで腹をすかしたトラに自分の身を与えるために身を投じたお話が出ているのを記憶しているんですが、やはり宗教の一面の中には自分の身を捨てて本当に人を生かし、その中に自分の生の実現を見て喜びを見出すというか、そういったものも一面あるんじゃないかと思うんですが、いかがでしょうか。
  28. 藤井正雄

    公述人藤井正雄君) まさに成瀬先生の言われるように、玉虫厨子の扉に描かれているのは捨身飼虎という図でして、七日間飢えに飢えて、しかも七匹の子供を産んだトラに自分の身を投げて与える。これは捨身といいまして、みずからの体を供養するというので最高の布施の行であるというようにしております。ただ、これは中央アジアにおいて盛んであったんですけれども、残念ながらしばらくたってなくなりました。けれども、菩薩行としては布施行の中で最高の位のものであるというふうになっております。ですから、仏法におきましては、自分の身を犠牲にしてまでも人に尽くす、そういった事柄を、私、実は生かされて生き生かすというふうなことが私自身のモットーであるということをお話ししました。  臓器移植も、まさにそういう意識が徹底すれば、みんながお互いに助け合う、そういうよき日本になるんじゃないだろうか。やはりその意識が根底にないと臓器移植というのはなかなか浸透しない、そういうふうに私は考えます。
  29. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 ありがとうございました。  中谷先生にお伺いしたいんです。  人の死にはいろいろあると思います。先ほどどなたかのお話にもありましたように、現在の医師会では三徴候死と言われる、そういった死が定説のようにされておったんですが、新たに脳死という概念が出てきたわけです。その脳死というものを抜きにして、脳死状態で人間の臓器摘出を行う、これは当然心臓とか肝臓移植をするような場合、そういうことがありましたら私はこれはもう心臓死になると思いますが、法律的に見て、そういったものはいわゆる殺人という行為につながるんじゃないか。それが例えば臓器移植をするからといっても、違法性を阻却するということは非常に難しいんじゃないかと思うんですが、いかがでしょうか。
  30. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) まず、脳死状態という言葉ですけれども、私が関与した生命倫理研究会の「臓器摘出に関する法律(試案)」というものにも脳死状態という言葉が出てまいります。私自身は脳死は人の死だと思いますから、脳死状態という表現に大変疑義を持ちながら、それでもそのときは皆さんがそうだとおっしゃったからそういう形にいたしましたけれども、猪熊案でおっしゃる脳死状態とはどういう意味なんでしょうか。私はそれを伺いたかったんです。  つまり、脳死状態というのは、治療中にもうだめだなと医療関係の方がだんだんあきらめかけできますね、そういう状態から心停止までの間の状態なのか。それとも、今のところ世界的に脳死判定というのは大体二回繰り返してやることになっていますね、その第一回目の脳死判定のときから心停止までのことを言うのか。それとも第二回目の脳死判定、それでもう確定なんですけれども、第二回目の脳死判定もあったけれどもまだ心停止に至らない、レスピレーターを取りつけたままだから心停止に至らない、それを言うのか。それが私はわからないんです。
  31. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 これは医学的にいわゆる生理的な所見の状態はいろいろあると思います。しかし、これを法的に言うと、ポイント・オブ・ノーリターンというか、それを過ぎたら死に至るというか、その点。  これは、脳死というのは竹内基準によって大体ある程度の判定基準が出ておると思いますが、脳死状態はまだ生の状態であると……
  32. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) そういうお考えなんですか。
  33. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 じゃないでしょうか。いかがでしょうか。
  34. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) それは表現はそうでも、とてもおかしいですよね。  そうしますと、結局脳死状態というのは生きていると。生きている間に臓器摘出を認めて、例えば心臓の場合は一遍にそれで亡くなるわけです。そうしますと、結局は移植医を殺人者にするものだというのがドイツのあれに出ています、私の差し上げました資料の一に出てくるところなんですが。そういうことが問題になるんだろうと思います。  私自身は、もし脳死を人の死と認めないとしても、場合によっては違法性が阻却されるのか、責任が阻却されるのかわかりませんけれども、正当化される余地は認めてもいいじゃないかと思います。ドイツではそんなことは絶対にあり得ないというふうな議論、つまり平野説と同じような議論が展開されていて、それに対する異論はないそうでございます。
  35. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 私の場合、脳死脳死状態というのを使い分けて、生と死とを使い分けているつもりなんですが、脳死という場合はやっぱり死であると。そういった意味において、脳死というものは死であって、脳死状態というのはまだ生の中にあって、そういうことをすれば当然そこに違法性阻却の事由は発生し得ないという意識を持っておるわけです。やはりそういった臓器摘出というものがなされる以上は、これはもう当然その脳死という概念を認めざるを得ないと思うんです。  そうすると、日本においては、脳死というものは現時点において国民一般に定着していないという意識は非常にあるんですが……
  36. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) そうです。  それは先ほどから何度も繰り返し申し上げておりますように、皆さん方の啓蒙が足りないということだと思いますけれども、それは国民一般が余り関心を持たない。説明のしようによってはどなたでも納得できるような説明ができると私自身は思っております。ですから、そういうことを積み重ねていかれることが非常に重要ではないかというふうに考えております。  それからもう一つ、先ほどアメリカ臓器提供といいますか、脳死の問題ですけれども、臓器移植については一九八四年の全米臓器移植法というものがありますが、これは臓器移植についての具体的な問題を扱っているのではなくて、州が違った場合にどこでどうするかというような問題なんです。実際の臓器移植法というのは、ユニホーム・アナトミカル・ギフト・アクトというものです。つまり、死体提供法、ギフトなんですね。差し上げるという考え方がそこにはあるということは、先ほどの藤堂先生のお話や渡辺さんのお話なんかともつながってくるのではないかと思います。  それからもう一つドイツについて申しますと、一九六七年十二月三日のクリスチャン・バーナードさんの心臓移植の後、六八年にはもう既にドイツでは脳死は人の死だというふうに代表的な刑法のコンメンタールにおいて出ているんですね。それでびっくりしまして、何でそんなに急にそのようになったんだろうというようなことを調べに行ったことがあります。  その際に、日本ではまだ今のところは脳死を人の死とは認められないのでというような話をいたしました。そうしましたら、知識階級の女性ではあるんですけれども、それじゃ臓器移植はどうするのと聞かれました。私は何の気なしに、例えばそのころ腎臓移植についてはUS腎といいますかアメリカからの提供を受けまして、そして多少そういうものはあるけれども、ほかの臓器移植はできなくて、だからアメリカに行ったりオーストラリアに行ったりいろいろなところに出かけて、そのときはみんなが資金をカンパして、それでそういう手術を受けることがあるのだという話をしましたら、聞いた方が唖然としまして、日本人って何て勝手なんだろうと。自分の国ではそれを認めないで、どこの国でもドナーというのは少なくて困っているのに、そこに割り込んでいってその国の提供を受けて、それを国民がみんなでカンパして支援するというのはどうしても理解できない、日本人は何て勝手な民族、国民なんだろうと言われました。  それ以来私は、臓器移植といいますか、海外へ出かけての移植については口にすることをやめました。そういう経験を持っています。  今は大分違ってきたようで、渡辺さんは本当にお幸せだったと思ってお喜び申し上げます。
  37. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 先生のおっしゃることはよく感じさせていただけるんですが、しかしながら現在の日本社会においては、いわゆる生きている人間から臓器摘出することは、これはもう自殺幇助になるのか嘱託殺人になるのか、いわゆる法的にできないわけですね。移植なさる先生方も恐らくその危険性を前にしては到底そういったことは現実にはできなかったと思います。  先ほどもお話がございまして、過去においていろんなそういったものを積み重ねてヨーロッパでは今日のような移植技術が発達したということのお話を聞きましたけれども、現在の日本において、そういった法的な壁というか、そういうものの前で、それをあえて押してみずから殺人者の告発を受ける、あるいは嘱託殺人の告発を受けることの危険を冒してまでそれをやるというのは、それはお医者さんとしても、医は仁術なりといってもなかなかできないんじゃないかと思います。やはり国としても社会としてもそういったものに対する法的なものをつくる必要があると思うんですが、いかがでしょうか、中谷先生
  38. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) それは再三繰り返し論議されているところでございますけれども、それでは人の生命を奪うということについて正当化は絶対されないかと申しますと、正当防衛とか緊急避難とかいろいろあります。それから、例えば死刑執行人の死刑の執行なんかもそうですね。正当業務行為による正当化事由もあります。  だから、絶対にできないというふうに考えなくてもいいような気がしますし、あるいは少なくとも責任阻却にはなり得ますね。そういうような状況において行ったということにする。ただ、責任阻却になりますと、一応違法性があるというふうに判断されますので、それは移植医の方には耐えられないというような言葉を伺いますけれども、でも犯罪不成立という点では同じでございます。
  39. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 そういった意味で、正当防衛とかあるいは緊急避難の場合は、本人自身の場合はいいですけれども、移植されるというか、移植するためにというのはちょっと難しいんじゃないかなという気はするんですが……
  40. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) 他人のための緊急避難というのはあり得ませんよ。
  41. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 先ほど先生は、立法というものはぎりぎりの妥協だということをおっしゃいましたけれども、我々もやっぱりそういったぎりぎりの苦しい状況というか、現在の日本社会ではまだまだ三徴候死と言われるような、死というものは一般の死として考えられている点が非常に多いわけです。  脳死というのは、新たな概念というのはやはり日本社会にまだ完全には定着していないわけです。しかしながら、現実にはそういった治療を求めて、死の恐怖におびえて、何とか救ってもらいたいという方が日本全国にたくさんいらっしゃるわけです。そういった方々のためにも、何とかぎりぎりの線でというところで脳死という概念も考えられたわけです、脳死というものを死として認めようと。  さらに、それをもう一歩踏み込んで、臓器移植に関する限り脳死を認めて、現在の死の概念というのはおいでおいで、今までのように死の概念は三徴候死による死というものを考え、同時にこの臓器移植を認めてその点に限って脳死を認めようというような、これは立法上のぎりぎりの一つ妥協といいますか、これはもう本当に苦しい選択といいますかこれはそういったものがあるんですが、いかがでしょうか。
  42. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) 成瀬先生のおっしゃるとおりだと私も思っております。  ただ、三徴候説は定説だと言われますけれども、これも法律上の根拠はないんですね。直接的な規定はない。胎児についての埋葬に関する法律の中に一部ありますけれども、それ以外にはないわけなんです。  それと、私が刑法学を始めたのは昭和二十五年ぐらいからでございますけれども、死については三徴候説が出てきたのはもうずっと後です。それで、心停止説とか脈拍停止説とか呼吸停止説とかそういうものがありまして、三徴候説というのは、もう本当に私なんかから言えばずっと後から出てきたものですから、それが古くからの定説であると言われますと、へえ、そうなんでしょうかねというふうに思うくらいでございます。  ですから、そういうので、法的な規定はあってもなくても私は別に構わないと思いますけれども、ただ、この二つ法案を拝見いたしまして、第六条の「死体(脳死体を含む。)」という部分を多少修正することによって、私は脳死のほかに心停止体もあるということが、はっきりもうこの規定そのものが既にそれを予定しているわけですね。脳死体を含むというのは脳死体のほかにほかの死体というものを考えているわけですから。でも、それはもっと明確になさった方がよろしいのではないかというふうに思います。アメリカでも全部の州で全脳死説がとられております。これは、統一死の定義法というものの立法が提案されまして、それについて各州ごとに、脳死法というものをつくった州もあるし、法定はしないで判例でそれを認めているけれども、とにかく全国で全脳死は死だと、心臓死のほかに全脳死も死であると、そういう考え方をしているわけです。  死は一つであっても判定の方法はおのずから二つがあるということを認めるだけですから、それでよろしいのではないかなというふうに考えております。
  43. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 成瀬先生から、こういう法律をつくるのは、脳死を死と規定して臓器摘出を認めるのは、ある意味でいえば外科医をプロテクトする意味であるというお言葉をいただきまして非常に感謝しております。  ただ、きょうのお話の中でも申しましたように、臓器提供していただく脳死ドナーが死であるということを定義していただくことによりまして、決してこれは外科医だけではありませんで、救急医療現場、それからもっと大事なことは臓器提供したドナー家族、それからその臓器を受け取ったレシピエント、すなわち渡辺さんのような方の心理的な問題、それが大きく払拭されるんではないかと思います。  したがって、脳死というものは人の死であるということが非常に重要なファクターになると思います。
  44. 渡辺環

    公述人渡辺環君) 今、藤堂先生がおっしゃられたように、もし脳死は人の死だというふうに言われていなかった場合、とてもじゃないけれども私としてはその方の肝臓をいただくわけにはいかないと思います。志半ばで亡くなられたので初めて私と一緒に生きているという感じになるので、とても、もしそういうふうに言われてなければ、現在私もいないんではないかと思います。
  45. ぬで島次郎

    公述人ぬで島次郎君) お答えします。  私自身の考えは、医者患者の間だけで脳死が人の死だと受け入れられないのであれば、つまり法律の後ろ盾がなければ脳死状態の人を死体だと思えないのであれば、それはおかしいと思います。これは絶対助からない方である、亡くなられる方であるということが、お医者さんと患者さんの間で、臓器提供側も臓器を受ける側もそこで納得できないのであれば、その同じ状態を法律の一片の字句でもって死体だとしたらだれもが安心するというのは、僕はおかしいと思います。それは、医者患者関係の中でそういう納得をつくり上げるべきだと思います。  そういう意味で、私は、先ほどから申し上げていますように、まず最初法律をつくって臓器移植を始めるのはおかしいと考えております。  補足を言わせていただければ、アメリカでもイギリスでも、私が知る限り、脳死状態の患者さんから臓器摘出して実際に裁判所に引きずり出されたお医者さんの中でも、殺人罪の有罪判決を受けた人は一人もいないと思います。日本では九件の告発、殺人罪の告発がありながら、その被告、被告というか被告発人がおしらすの場に引きずり出されたということは、私は寡聞にして聞いておりません。ということは、なぜ先生方がそれほどまでに恐れられているのかというのは、私にはどうしても理解できません。  以上です。
  46. 玉置勲

    公述人玉置勲君) まず、脳死と人の死について先ほど藤井先生の方から御指摘がございました。私は、別に脳死体の人を物と思ったこともありませんし、心停止されて体が白くなってもやはりその御遺体の人権というのはあると思います。  それで、臓器提供をするときにでも、脳死になった患者さんというのは、頭の中は脳の機能が停止しておりますが、首から下は全部生きているわけです。それが心停止されても毛は伸びますし、つめも生えます。そういう意味では、生と死というものを余りにも安易に、生きた臓器を死体から出してきて生きた者に植えるとか、そういった御発言が大変今の国民世論に誤解を生じさせている、そういうふうに考えるわけです。  あと、昔も、百年以上前の医者患者段階でしたら確かに信頼関係のうちでそういった死というものが二極間で決められてもよかった。それから、接点がだんだんこちらの脳死ということが医学上明らかな厳然たる事実として見えてきたときに、この脳死というものについての理解度、先生方は救命救急施設にお行きになりまして脳死の体を見られたと思いますが、十分や二十分見られたところで何か寝ているような気がするというのはもう当然のことでございます。脳死患者さんを持つ家族の方も、ICUという孤立した場所に収容されたときの面会時間というのは限られています。そうしますと、なかなか脳死というのはわかりません。ところが、ICUというのは確かに脳死判定をして診断をつけて、これはもう脳の機能がなくなり、あと何日間で心停止すると思いますと、家族と会わせる意味で病棟を変えます。これは脳外科の病棟等に転送されるわけですけれども、そうしますと家族は二十四時間その体と、御遺体といいますか患者さんと接触するわけですね。そうしますと、ようやく、ああ脳死とはこういうものかというのがわかってくる。  これはなぜかといいますと、全く体が動かない、ただ呼吸されて血液が流れて、ほおが赤く、温かくて体温がある、そういった状況にありながら、体が全く動かずにだんだん目の色とか口の変色が見えてくる、床ずれも出てくる。そういったところで、ああこれは本当に死が近いと死を受容するというところになってきますので、経験度によって脳死というものを一方的に語られても、理解できることはなかなか難しいというところで私の意見とさせていただきます。
  47. 藤井正雄

    公述人藤井正雄君) 私は、先ほども申しましたように、やはり脳死を人の死とすることに非常に抵抗があるわけです。それは、今のやりとりだということで、実際に脳死というものが浸透していないということは事実であります。人間として、脳死状態になったといってその臓器提供してほしいと言われて、そのときに家族がそれを納得できるかどうかというのは、やはり医師との信頼関係がなくてはならないし、またそれには教育が必要だ。  だから、そういった条件が整って初めて人の死なら人の死と認められるべきであって、法律でそれを先取りして決めるのはおかしいのではないか、私はそう考えております。
  48. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 いろいろ先生方の御意見、非常にためになり、私どもも参考にさせていただいて今後の審議に生かさせていただきたいと思っております。  そこで、藤堂先生に再度お伺いしたいと思うんですが、今後日本でそういったような移植手術とか移植医療というものが行われる場合に、日本という国全体としてどういったような面を、これは国民の皆さん方に対してもあるいは医学界に対してもあるいは我々政界に対しても、先生アメリカ社会においていろいろ見聞されたことから教えていただきたい。
  49. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 今から日本移植医療が始まるに際しましては、一番大切なことは情報が常にオープンであることだと思います。それから、常にフェアであるということであります。それから三番目に、常に最善の努力が傾けられなければならないということだと思います。  さらに、脳死について述べますと、移植医療日本に定着するためには、私個人の考えですけれども、恐らく五年、十年、二十年の時間がかかると思います。今一番大事なことは、その一歩を進めることです。そして、私ども医療関係者、それから法律家、政治の方、マスコミの方々、そういう方々が、始まるであろう日本移植医療を支えていただくことです。  そして、次の世代に、例えば私には子供が三人いますけれども、彼らが結婚して子供が生まれてその子供が日本に、またそのときアメリカに帰るでしょうけれども、日本にいて移植ができなかったら同じ問題を次の世代に届けることになるんです。それは私たちの世代は全く責任を果たしていないことになります。そういった考えで、今から私どもは皆と力を合わせて移植医療に邁進していきたいと考えております。
  50. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 先生ははるばるアメリカから、この移植の問題について日本社会に訴えたいという熱意を持ってお見えになったと思います。  先ほどのいろんな質疑の中でお気づきのように、日本ではまだ十分国民の中にそういったものに対する理解やらコンセンサスがないわけですね。ですから、この国会の公聴会という場を通じて、わずかな時間ですけれども、日本国民に、先生アメリカ医療現場の中からっかんだそういったものと、先生のヒューマニズムというか、本当に人間愛の気持ちを込めて、ひとつ皆さん方にこの臓器移植の問題についてPRをお願いしたいと思います。
  51. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 臓器移植は、何度も申しますように、今の贈り物です。その命の贈り物をお互い大切にできる、人をケアする、そういう日本社会であってほしいと思います。
  52. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 以上で終了しました。
  53. 山崎順子

    ○山崎順子君 私は平成会の山崎順子、通称円より子と申します。  私は、家族による脳死の受容過程というものが大変重要だと思っておりまして、家族が納得した時点が患者の死であると考えております。そのため、法律で死を定義することには賛成できない立場で猪熊案の賛成者となっております。  そこで、発議者ではないんですが、先ほど中谷先生が、猪熊案脳死状態というのはどういうことなのかとおっしゃったので、中山案で言うところの脳死、つまり第二の判定を終えた後のものを死体と認めないためにそう言っているわけなんです。でも、それを聞いておりまして、臓器提供を受けた方々が、もし脳死を死と認めていなければ気持ちが悪いとか、脳死状態からの臓器提供はとても受けられないと、私もいろんな方にお会いして、おっしゃっているのを聞いていたら、どうも脳死状態というのが誤解されているのかもしれないということを思いました。  質問時間が制約されておりますので、余りその件については話せないんですが、まずそこの誤解を解いておきたいし、中山案で言うところの脳死体と猪熊案脳死状態というのは客観的には全く同じ事実を死と定義していないということだけなんです。  そこで、私は、ただ猪熊案の賛成者ではありましても、できるだけいい形でまとめたいと思っておりまして、猪熊案に別にこだわるものでもございません。  そこで、現実には、新聞報道されております修正案と言われるものが公式に出されていないところで大変恐縮ではございますけれども、昨日の公聴会でも随分公述人からその話が出まして、これは参考として中谷先生にお聞きしたいんですが、私は、この「死体」の中に、六条の規定で「死体(脳死した者の身体を含む。)」ともし書かれましたならば、これはやはり一部に限定されたのであれ、死の定義が変更されるというふうに思うんです。  そうしますと、昨日の公述人の方で中山研一さんとおっしゃる刑法の学者の方は、脳死一元説に立つ中山案と心臓死一元説に立つ猪熊案の間に立って両者の妥協案をつくる場合、結局この二つの死を認めざるを得ないのかなと思うとおっしゃっておりました。私もその辺が本当に皆さん、国民の方のコンセンサスが得られるというか、皆さんも臓器移植のためにはそのあたりかなと思っていらっしゃるのかもしれないと思います。しかし、この死体に含むという前提を維持させたがために、やはり臓器移植以外の場面における脳死した者の身体の取り扱いというのは依然不明確で、かえって混乱を招くのではないか。そうしますと、そういった二つの死を認めて妥協案をつくる場合に、どういう形であれ、できるだけ矛盾を顕在化させないための努力というものを規定するのが国会の責任かなと私は思うんです。  もし中谷先生の方で、例えば移植以外の場面での取り扱いとの整合性とか、民法上、死が二つとするときに出てくる問題とか、いろいろこれからぜひとも詰めなきゃいけないというような矛盾を少しでも小さくするためにはどういったことがあるか、お気づきの点があったら教えていただきたいんです。
  54. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) 先ほどの話の中にも多少は触れていたと思いますけれども、脳死体を含むということは、既に心臓死体のほかに脳死体を含むということですよね。そういうふうな規定ですけれども、表には出てきていませんけれども、私はそうだと思うんです。  脳死とそれから心臓死といいますか、それを二つ認めるのは、死は一つだからこれはおかしいと中山先生なんかはおっしゃるんですか。  とすれば、私はそうではなくて、死は一つだけれども、その判定といいますか認知の方法が脳死、全脳の機能の消失で死を認める場合と、それから心停止で死を認める場合と二つがあるんだと思います。これはアメリカなんかみんなそうじゃないですか。判定の方法としては二つあるということを認めるわけです。だってレスピレーターを取りつけない限りは、脳死心停止とはほとんど前後して生じますから、脳死が問題になることはないんですよね。レスピレーターという人工蘇生器というものが開発されて、それが多用されるようになった。そうしますと脳の機能を消失しても機械で心臓が動かされ、体は温かくて、ほっぺたはピンクでというような状態になりますので、それでそれが問題になるのだろうというふうに私は考えております。  ですから、その「死体(脳死体を含む。)」というものにどういう条件をつけるかといいますと、単純に言えば、初めから予定されているように、心臓死のほか、あるいは三徴候死体のほか脳死体を含むとするか、あるいはこの法律で規定されたすべての要件を満たした脳死体を含むというふうにするか、あるいは臓器移植についてだけそれが適用されるようなことになるわけですけれども、そういう道をとるか、いずれかの修正を加えれば相互の理解は届くのではないでしょうか。  一般国民の方たち脳死を人の死と認めたくないといいますか、それはやっぱり鼓動していますし、それから体は温かいし、ほっぺたはピンクだし、そういうものを見て、でももうこの方は脳の機能が全く失われて死んでいるんですよと言われても、なかなかそれを認めたくない。  普通の心臓死であれば、死だというふうに判定されたとき、すぐに急速に体が冷えていって、しんしんと冷えて、もう本当に冷たくなりますよね。ああこれじゃとてもだめだというふうに思います。その思いがなかなか伝わらないといいますか、それがないということで、ですから、もし臓器移植日本で始まったら、医師と患者との信頼関係もさることながら、またコーディネーターの方たちの御努力もさることながら、そのグリーフワークをいかにちゃんとやるかということが私は大事なんだろうと。これは臓器移植法が成立して、臓器移植が始まったときの将来の直接的な非常に大きな課題だろうというふうに考えております。
  55. 山崎順子

    ○山崎順子君 ありがとうございました。  死亡時刻の定め方や検視の問題、先生が今おっしゃったようなこと、もしいろいろ第三案が出てきても、慎重に審議しなきゃいけないなと思っております。  ちょっと視点を変えまして、たとえどの案が出てきたにしましても、限定されたとはいえ、脳死を人の死とすることの危険性があると思うんですが、ぬで島さんと藤井さんにお伺いしたいんですけれども、本人意思という形で命の切り捨てが正当化されるような危険性とか、それから終末期医療の中でこの臓器移植法案の位置づけがないまま、臓器移植が目的でどうも審議されてきたというようなこと、尊厳死、安楽死の問題等、いろいろな問題がまだ残されているような気がするんです。  そうしたときに、アメリカでは、例えばリクワイアド・リクエスト法ができた後で、逆に臓器移植の提案を、ドナーカード本人が持っていたにもかかわらず家族が拒否するケースがふえてきたというようなこともあったりします。  やはり日本でも、判定基準が本当にいいのかどうか。妊婦は外すべきではないかという問題、四つの大学しかこれを基準に入れておりませんし、また六歳の子が外れている竹内基準を、なぜ六歳なのか、もっと見直したっていいんじゃないかという人々すら出てきていると。  そういったことも考えますと、本当に脳死判定基準というのがこれでいいのかどうかの問題や、少しドナーの方の命が軽視されるのではないか、いろんな危険を感じるんですが、インフォームド・コンセント、それから医療機関臓器提供施設、その倫理的適格性などについて、もしお二人に御意見がありましたら、ぬで島さん、藤井さん、お願いしたい。
  56. ぬで島次郎

    公述人ぬで島次郎君) 多岐のことを述べられましたが、私は、今最初におっしゃられたことが一番大事なことかと思いました。  この法案の審議、あるいは一番最初からのいわゆる中山案、衆議院を通った案を見ていて私が一番恐れていたのは、臓器移植法律がそれ以外の救急や救命医療に影響を与えるような効果を持ってはいけないと思います。この法案の立法目的として、臓器移植に道を開くということしか出ておりません。救急医療脳死者人工呼吸器を切っていいとは書いてないわけです。  つまり、治療の打ち切りのための基準を定める法律であるとは立法目的に書いてないにもかかわらず、今出ている衆議院を通った法律では、死体というものが一つ言葉で大きく、脳死体を含むという形で死体という範囲が広げられているわけです。これは救急医療を大混乱に陥れ、早目早目に治療を打ち切る方向に医療現場が動いていくおそれがあると思います。これは立法目的にない効果を法律が持つというのは法治国家としての自殺行為であると私は思います。  ですから、現在、衆議院を通過した中山案が成立してしまうことは、私は最悪のシナリオだと考えて、それだけを恐れてまいりました。  おっしゃられたように、限られた医療資源の中で、どこで治療を打ち切った方がいいか、経済的なそろばん勘定だけでなく、倫理的にだれもが納得できる点で、どういうところで治療を打ち切ったらいいかというのは、議員がおっしゃったように、末期医療全体の課題であり、あるいは医療保険改革の問題であり、医療全体、どこにどれだけのお金と人材をつぎ込むべきかという医療の構造改革の問題であり、それは国会が現在扱っておられる問題です。その中で別にきちんと議論されるべきであると思います。
  57. 藤井正雄

    公述人藤井正雄君) 私は、後半の部分で、インフォームド・コンセントという場合に、これからの民主主義の世の中は個人個人の意識というのは大変大事なものですから、アドバンス・ディレクティブといった場合に、自分がこれこれこういう状況に陥ったときにはこれだけの治療をしてほしい、あるいはほかの治療をやめてほしい、それは家族がその意思というのはやっぱり守るべきじゃないでしょうか。しかも、自分が亡くなったならば困っている人に角膜を与えたいという意識が家族の反対のもとにできないということにもなれば、それは故人の意思を無視したことになる。  そういう意味で、私は、極端に言えば、家族の承諾ということも過渡的医療の場合に現在においては必要だけれども、将来においては撤廃されるべきだ。あくまでも故人の意思ということを尊重していくのがこれからのあり方ではないだろうか。ただし、今それだけの教育、啓蒙ができていない。そこにやはり私は危惧を覚えるものだと。将来において理想的には人の死であっても構わないけれども、現状においてそこまで至っていないという意見を私は申し添えたいと思います。
  58. 山崎順子

    ○山崎順子君 ありがとうございます。終わります。
  59. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 きょうは公述人皆様、貴重な意見を本当にありがとうございます。限られた時間ですので、ポイントを絞って何点かお尋ねをしたいと思います。  私どもは、私どもというか、私は少なくともこの参議院の中で猪熊案が出て、修正案が出たというのは、何とか国会議員として、移植のために臓器提供したいという方がいらっしゃる、一方でぜひとも臓器提供を受けたいという方がいらっしゃる、それをつなぐ移植医の方たちがいらっしゃる、その橋渡しの一つが法という形でできるのかどうかは別として、我々として取り組みたいという気持ちの中で審議を続けている、こう思っております。  そこで、一点、まず藤堂公述人にお伺いしたいんですけれども、先ほどぬで島公述人の方からは、まずこういう問題は医療現場が先に取り組んで、その後法ができるんではなかろうかという御意見もございました。それも一つの考えだと思います。ただ、今の日本の現状、日本に帰ってこられてその現状を見たときに、本当に法がなくてできるとお考えになるのかどうか、藤堂公述人にその御意見を伺いたいと思います。
  60. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 周りの状況が許せば、本当に火だるまになるようなことが恐らく起こると思いますけれども、法律がなくてもできると思います。しかし、それはあくまでも例外的な方法であります。私は、移植外科とは申しませんで移植医療と申しますが、移植医療ということは治療法として患者さんに常に還元できるということでございますので、医療ということを考えますとやはり法律があることがベストでございます。
  61. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 この委員会でも、また衆議院でもいつもポイントになってまいりましたのは、脳死というのが人の死かということの国民的合意ができているかどうかということをずっと論議もしてまいりました。公述人の中にはその辺についての見解をきょうもお述べになっていただいた方もございます。コ ーディネーターの玉置公述人に伺いたいんですけれども、本当に今の日本脳死が人の死だという国民的合意ができているというふうにお考えになるのかどうか、これを伺いたいと思います。
  62. 玉置勲

    公述人玉置勲君) その国民的合意が何%とか、数字であらわせることが一番望ましいのでございますけれども、先ほど申しましたとおり、脳死というものがなかなか病院、医療施設の中で見えないというところにまず問題点があろうかと思います。  しかし、脳死というものを見た家族が、やはり脳死は人の死だねという言葉を発せられることを多々聞いております。そういう意味では、限られた中で脳死を目の当たりにした患者さんの家族につきましては、かなりの高い理解度で脳死が理解されているように思います。  その辺が、ほかで脳死という言葉だけがひとり歩きをしまして、脳死というものについての理解がないために、脳死に賛成してみたり、または脳死は怖いものだということで反対してみたりというところにつながっているように思います。
  63. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 藤堂公述人日本に帰られてきて、脳死という問題、日本においては国民的合意になっておるのかなと、どうお感じになっているか、これも藤堂公述人からお伺いしておきたいと思います。
  64. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 毎年、今まで年に二、三回帰って講演をしておりまして、そのたびに、講演の前それから後に会場の方に脳死について理解ができているかをチェックしてまいりました。大体七、八年前までは全体の一〇から一五%でございました。神戸の震災があった二年前は六〇%ぐらいになったと思います。たまたまそれは新聞の意識調査と数が合っておりましたので、半数以上の方は脳死というものについて理解がいっていると私は思っております。
  65. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 渡辺公述人にお伺いしたいと思います。  本当に健康になられておめでとうございます。  これからどういう形で参議院がこの法案を判断していくか、まだまだこれから残っておるわけでございますけれども、これから日本でこういう臓器移植という問題が現実化した場合に、ある意味では周辺のいろんな整備をしなくちゃいけないと思います。そのためにコーディネイター協議会の玉置会長以下いろんな意味で御努力をなさっているんだろうと思います。  先ほどドイツでの経験を少しお話しになりました。移植そのものというより、その周辺を取り巻くことでドイツにおられて感じられたこと、これから日本がそういう問題に取り組んでいくときにこういうことに配慮していただいた方がいいなと、そういった点でもしドイツでお感じになっていることがありましたら教えていただきたい。これを最後の質問にしたいと思います。
  66. 渡辺環

    公述人渡辺環君) さっきも毒キノコを食べた御家族の方のことなんかを例に挙げたんですけれども、私の場合は肝硬変から肝がんになって、もともとC型肝炎というのを持っていたおかげでそういう状態になってしまったんです。  ドイツ脳死移植というのがごく一般的な医療として扱われているなというのは、例えば私の部屋で同じに移植後に暮らした方が、その方はよくはわからないんですけれども、がんができて、それでもう肝臓がだめになってしまって、それで移植された方もいらしたんですね。それから、さっきの毒キノコの方もそうなんですけれども、脳死移植というとすごく普通の医療とは違うものとして日本では考えられているんですが、脳死からの移植というのがドイツではごく当たり前の普通の医療という形で外科手術と同じような感覚でされているように、そんなふうに思いました。
  67. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 終わります。
  68. 照屋寛徳

    ○照屋寛徳君 社会民主党・護憲連合の照屋寛徳でございます。  具体的な質問を申し上げる前に、渡辺公述人にはもっともっとお幸せになっていただきたいということを申し上げておきたいと思います。  ぬで島公述人にお伺いいたしますが、先ほど意見陳述の中で、結論的な部分で、法律社会の信頼の結果であって社会の信頼の準備であってはならないというお話でございました。私もまさにぬで島公述人の結論のとおりだというふうに考えております。  昨日、新潟で地方公聴会がございました。そこで京都大学の名誉教授刑法学の中山公述人から、アメリカでも臓器移植以外の場面では脳死を人の死とする必要があるのかどうかということで議論が起こっている、こういうお話がございました。また、同じ公述人のノンフィクション作家の向井さんからは、脳死を人の死として性急に立法化することには反対であるという基本的な態度表明と同時に、臓器移植というのは最高の倫理的、技術的水準による脳死判定から臓器提供に至るまでの手続を整備し、社会の理解を得ながら進めていくべきであるというお話がございました。向井さんからも、アメリカ臓器移植では脳死から三徴候死に戻ろうとする傾向がある、こういう意見もございました。  ぬで島公述人も、アメリカでの三徴候死に戻るべきだという意見表明があったのでございますが、そのアメリカドイツでも脳死一元説に対する疑問が出始めている、こういう論文などもあるわけでありますが、そこら辺もう少し補足をして御説明いただければありがたいなと思います。
  69. ぬで島次郎

    公述人ぬで島次郎君) まず最初の点、つまり臓器移植とかかわりなく脳死をどうするかという点ですけれども、そもそももう三十年も前に世界で初めてハーバード大学が脳死判定基準をつくったとき、その目的として、脳死判定基準というのをわざわざつくるのは、一つ臓器移植のためだけれども、一つは治療の打ち切りのためであると、もう三十年前からアメリカでははっきりそういうことが言われていました。ですから、脳死を人の死として認めるかどうかというのは、少なくとも欧米ではその時点で治療を打ち切っていい、脳死を人の死と認めるというのはそういうことであるというふうに受け取られていると聞いております。  イギリスやデンマークでは、事実、脳死判定がされればばちばち人工呼吸器のスイッチを切っているということは、衆議院の各党協議会の議員の先生方の調査でそういうことを伺ってきたというお話も聞いております。  日本では臓器移植の方だけの議論で脳死問題を語られているので、その辺は日本社会のこれからの課題かとは思いますが、その点について断片的に聞いている話では、アメリカでは脳死どころかまだはっきり意識のある状態で、例えばもう手おくれで助からないがんなどの患者さんが、例えば腎臓がだめになって透析を受けないともう二日三日で亡くなってしまう、そういう状況を説明されて、完全な意識のある状態でそれをわかりながら、もうがんで助からないなら私はそういうむだな透析のようなことはされたくないという決意のもとに、病院の中から自宅へ帰って、透析を受けずにはっきりした意識を持ちながら亡くなっていくという例があるというふうに聞いております。  それは、アメリカ社会はそういう傾向を持っている社会なのではないか。それが果たしていい医療なのかどうか、日本もそういう医療になっていいのかどうかという点を、まさにここの場で、あるいは国会の中で、一般社会の中で、医学界の中できちんと問題点を明らかにして議論していっていただきたい、そういうふうに考えております。
  70. 照屋寛徳

    ○照屋寛徳君 先日、当委員会日本医科大学の救命救急センターを視察させていただきまして、私ども、脳死判定された患者さん、それから脳死直前というか切迫脳死の状態にあられる患者さんに接する機会がございました。  ぬで島公述人にお伺いいたしますが、ただいま公述人のお話もありましたけれども、日本でも脳死を人の死と定める法律、こういうのができますと、脳死直前、すなわち切迫脳死患者移植臓器の生着率、成功率を高めるために救命治療が放棄される危険性があるのではないか、すなわち脳死による臓器移植を成功させようとすれば、どうしても切迫脳死段階で救命治療を打ち切って臓器移植の準備に入らなければならない、こういう要請が強いわけであります。ところが、一方で切迫脳死が現に救命されているという事実もあるわけであります。そこで、いわば矛盾というか衝突が起こるんではないか、こういうふうな指摘に対しては公述人はどう思っておられますか。
  71. ぬで島次郎

    公述人ぬで島次郎君) 先ほどから申し上げておりますように、私は政策研究者で、医療現場に対して責任を持てる立場にございませんので、申しわけございませんが、ちょっとその質問に答える資格はないかと思います。それはまた別に救急医療先生に御質問いただいた方がいいかと思いますので、私は答えを控えさせていただきたいと思います。
  72. 照屋寛徳

    ○照屋寛徳君 玉置公述人にお伺いをいたします。  公述人は、結論的には中山案を成立させるべきだ、こういうお話でございましたが、マスコミで報道されております修正案にもお触れになりました。修正案ですと、玉置公述人もおっしゃっていましたように、本来客観的、統一的であるべき死の概念というんでしょうか、これが脳死と心臓死ということで二元的になって、法律上も、例えば民法で言うと相続の問題とかそういういろんな権利関係でも不都合が生ずるし、医療現場でも困ってくるんじゃないか、こういうのは私も思っております。  ところが、中山案でもそういう事態は起こるんじゃないんでしょうか。公述人意見を聞きたいと思います。
  73. 玉置勲

    公述人玉置勲君) 私は法律の専門家じゃございませんので正しい答えかどうかわかりませんけれども、唯一「死体(脳死体を含む。)」というふうな中山案原案でようやく救命救急医の医療スタッフが告発を免れるということを考えましたときに、やはり脳死を死体としておかなければ告発の機会が多々出てくるのじゃないか。そういうことの一点で、臓器移植脳死体からの臓器提供でできる意味中山案原案でやっていただきたい、そういうふうに考えているんですけれども。
  74. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 民主党・新緑風会の中尾でございます。本日は六人の公述人皆様の貴重なお話を伺いました。大変ありがとうございました。  私の持ち時間も十分でございまして、本当は六人の皆さんからお話を伺いたいんですが、失礼かと思いますが、何人かの方に絞ってお話をお伺いしたいと思います。  まず最初にでございますが、藤堂公述人にお伺いいたします。  四月八日の衆議院厚生委員会の参考人質疑で、日本大学医学部の林成之先生がこのように述べられております。つまり、脳死判定一つであります無呼吸テストのことでございますが、「無呼吸テストによって脳蘇生の可能性を断ち切っているのではないかという葛藤を生ずることがあります。」と林先生は述べられております。大変侵襲性の高い、危険性の高い無呼吸テストは、日本の場合、医療現場でどのように行われているのか。アメリカの例も参考にもしお聞かせ願えれば、簡単にお答え願いたいと思います。
  75. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 私は移植の方でありまして、実際に脳死判定あるいは脳死患者さんの管理には全くタッチしておりません。  日本では、確かに無呼吸テストが侵襲性があるということについての危惧は、救急医学会だけではなくて、例えば呼吸器学会でも提唱されているようです。ただ、欧米では、この無呼吸テストということで、過去三十年間、脳死判定がなされてきてはおります。
  76. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 藤堂公述人にもう一問お伺いします。  本委員会で審議されている両法案とも、臓器提供本人の文書による意思確認が前提となっております。私もそれは当然のことだと思っております。この委員会でも私は厚生省等に御質問いたしたんですが、その有効性は一体何歳ぐらいだろうかということがあります。当委員会の質疑の中で厚生省は、大体十五歳、民法で規定されている責任能力のある十五歳相当というようなお話がありました。なかなか十五歳以上というふうには決めておりませんけれども、アメリカの場合はどういうふうなことになっておりますでしょうか。
  77. 藤堂省

    公述人藤堂省君) アメリカの場合には、ドナーカードがあるからといってそれがドネーションを必ずしなければならないものではありません。家族がそれに心情的に反対する場合には当然家族意見が尊重されておりますし、されるべきだと思います。  と同時に、小児、特に例えば一歳とか二歳とか、五歳以下のドネーションが全米で大体一〇%を占めておりますけれども、これは全く親の善意と申しますか、子供に対するれんびんの情をしてドネーションをさせたということになっております。
  78. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 この件につきまして、有効性の問題ですが、法律の専門家であります中谷公述人にもお伺いできればありがたいんですが。
  79. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) ドイツでは十六歳以上になっています。お渡しした資料の中に入っていると思います。
  80. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 続いて、同じく中谷公述人にお伺いいたします。  現在はいわゆる中山案とそれから猪熊案で審議をしているんですが、第三案が今検討されております。その第三案といいますのは、御存じだろうと思いますけれども、第三案はその中間といいますか、臓器提供者に限っていわゆる脳死を人の死とすると。それから、それ以外の方は恐らく心臓死という規定になろうかと思うんですが、もしそういった法律ができた場合に、いろいろ法的に問題が起こらないかなと思うんです。  昨日、私は大阪の地方公聴会で弁護士の方からいろいろ伺いました。例えば、臓器提供をして脳死を人の死とする方と、それから提供しない人は心臓死で従来の生きている状態と。例えばその患者さんが、提供表明した人がもし何者かの手によって心臓を刺されて亡くなった場合に、心臓がとまった場合に、それは死体損壊罪だと。それから、例えば臓器提供をしない、つまり生体というふうに、この法律がもし通れば、生体の場合は殺人罪に当たるとか、いろいろ法的に混乱を来すんじゃないかというような指摘もございましたけれども、中谷先生法律家として、そういうふうな限定つきの第三案というものが今検討されておりますけれども、これについてどういうふうにお考えでしょうか。
  81. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) いろいろと問題がありそうな気がしますけれども、もう少し詰めて考えさせていただかないと確答はできないように思います。
  82. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 先ほど中谷先生から、第三の案の議論を尽くしてほしいというお答えがあったものですから、大変失礼しました。  続いて、藤井公述人にお聞きしたいと思います。  人の死をどうとらえるかというのは、私も、ただ医学的な判断だけで人の死を法で規定すべきではないという立場に立っております。いろいろ人生観、宗教観も違う。ですから、医学的に発達して、例えば人工呼吸器が確かに発達して、全脳の不可逆的停止でそれはもう戻らないよといっても、死というのはいろいろ概念があると私は思います。それは藤井公述人から伺いました。  先ほどのお話の中で、しかし私も、臓器提供にどうにか道を開くことはできないかというのも同じ思いでございます。それで、新たな道といいますか、藤井公述人がそういう道をもし考えられているのであれば、脳死そのものを、全部の一般的な死ではなくて、例えば脳死臓器提供者に限って人の死とする、そういう考え方については藤井公述人はどのようにお考えでしょうか。
  83. 藤井正雄

    公述人藤井正雄君) 第三案のうわさは聞いております。  ドナーとなるべき者に限って脳死判定をする、それを死体の中に含めるということですが、ただ、その場合もやはり脳死は人の死であることに変わりはないと思うんですね。ですから、もしドナーカードを持っていて、その故人の意思を尊重して提供するという者がいて、遺族、家族がそれを拒まない場合には、脳死体と言うのはまずいんですけれども、そういう体から移植をすることができるというふうに決めれば、これは死体及びそういう脳死基準に合った者から摘出できる。ただし、脳死体というのはこれこれ、ドナーのあれなんだというふうに限定があれば僕はいいんじゃないかと思います。ただ、その場合に「死体(脳死体を含む。)」ではこれはだめだと、だめだというよりも私自身は納得がいかない、こういうふうにお答えしたいと思います。
  84. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 時間が参りました。ありがとうございました。
  85. 橋本敦

    ○橋本敦君 きょうは公述人の皆さんありがとうございます。  渡辺さんもお元気になられて、大変お喜び申し上げたいと思います。木内さんも心臓手術を無事に成功させられて、衆議院にお越しいただいて御意見を伺いまして、切実なお気持ちなり立場というのをよく私も理解しております。木内さんもおっしゃったんですが、生きている人からはいただくわけにいかないという気持ちは、これはもう本当に強いということをおっしゃいました。渡辺さんも同じような気持ちをお持ちということを先ほども伺いました。  そこで、先端医療の発達によって、医学的所見である脳死を人の死と見るかどうかということが今非常に鋭く両方の側面から問われている重大な問題になっている、こう思うわけですね。  そこで、その問題に関連をして、先ほど中谷先生は、四割の国民がまだ脳死を人の死とするというところには社会的通念、認識としてはいっていないのではないかと。そういう意味では、その四割の国民の反対という認識や気持ちは切り捨てないように、そういう方向で議論をぜひ進めてほしいという御意見がございました。  どういうように具体的に進めたらいいのかという意味で、なかなか難しいんですが、先生の御意見としては、具体的には今後どうこの課題を進めていく議論の道があるとお考えなのか、まずお伺いしたいと思います。
  86. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) 先ほど申し上げましたように、第六条の表現をどうするかにかかっていると思います。  それから、先ほどの中尾先生のお話ですが、レアケースではありますけれども、共同事故か何かで二人とも脳死になった。ところが、一人は臓器提供する意思があった、一人は臓器提供する意思がなかったという場合に、死亡時刻がどうなりましょうか。そういう問題は何かありそうな気がいたします。
  87. 橋本敦

    ○橋本敦君 そういった点は私も議論の中で問題提起をして質問もしてまいったんですが、そういう難しい問題はもちろんありますが、まず法律脳死を人の死と定義すると、そのことについての根本的な問題としてやっぱり考えなくちゃならぬ、こう思うんですね。  そこで、この点についてぬで島公述人にもお伺いしたいんですが、公述人がお書きになりました論文を私も読ませていただきまして、「脳死臓器移植は何が問題なのか」という論文でこうおっしゃっております。  何より問題なのは、法案脳死体を死体に含めるという条文によって死者の対象を広げる内容になっていることであるということで二点御指摘になっております。その第一に、死の定義を法律で決めていいのかどうかという疑問でありますと。第二点として、死者の対象を広げることが、結果的に、本来の立法目的である移植を超えて、ほかの医療社会の秩序に重大な影響を及ぼすおそれがあるのではないかという問題ですという御指摘がございました。  この二点について、もう少しわかりやすくお話がいただけるでしょうか。
  88. ぬで島次郎

    公述人ぬで島次郎君) まず第一点についてですけれども、私が見ている限り、少なくとも主要先進国の脳死あるいは臓器移植に関する法律脳死体という言葉を私は見たことがありません。先ほどからもお話が出ているように、臓器移植を認め脳死者を死者と認めるという法律は、必ず心臓死と脳死二つの死を認めることになるわけです。それを中谷先生のように、死は一つであるけれども判定基準二つあるという解釈をしているわけです。  それで、人間の死は次のいずれかによって判定される。一つは旧来の三徴候死、もう一つは神経学的基準とか医学界で認められている基準という表現が普通です。脳死を人の死とするというふうに完全に法律に書き込んである法律は非常に少ないと思います。つまり、そのように法律というのは一度つくるとなかなか変えにくいもので、特に現代のようにいろいろな物事が速く進み過ぎる世の中では法律はどうしても後追いになると思いますし、また後追いになるのが法律だと私は思っております。  ですから、医学界で認められた神経学的基準という言い方、法律で言えるのはそこまでが最大限ではないかというふうに考え、よその国でもそうしているというふうに見た上で、第一点、脳死法律で死の定義をそこまで書き込んでいいのかというのは、そういうこともあって書かせていただきました。  第二点については先ほども申し上げましたとおりで、死体の範囲を広げるということは、要するに治療の打ち切りのポイントをこの問題に限っていえば前倒しにするということになりかねません。そういうことは救急医療現場では起こってほしくないし起こってはいけないことだと思うという点で、臓器移植に道を開く法律が治療中止の点を変えてはいけないのではないか、そういう趣旨で書かせていただきました。  以上です。
  89. 橋本敦

    ○橋本敦君 また、公述人医療政策について大変造詣が深い研究をなさっていらっしゃるわけですが、公述人の論文を読ませていただきますと、「先進諸国では、総医療費の抑制と配分の適正化が、医療政策の共通の課題となっている。そのなかで高額な先端医療は厳しく見直されてきている。」という記述がございます。そういった問題も、この臓器移植を今後の課題として進めるかどうかという点では十分検討しなきゃならぬ課題ではないかという問題提起を一つはなさっていらっしゃると思うんです。  その点で、先生の「脳死移植問題と日本医療」という別の論文の中では、アメリカ医療の最大の問題は、収入が多くて高い保険に入っていれば世界最先端の医療が受けられる一方で、国民の約一六%、三千七百万人が何の保険にも入っておらず、最も基本的な医療すら受けられないという圧倒的な不平等、非効率にあるということであると。これに対して、日本では基本的には医療給付の公平性は一応達成されているけれども、しかし今後の先端医療の問題について言うならば、チーム医療が十分に機能していないとか、あるいはまたソシアルワーカー、コメディカルスタッフの体制が極度におくれているとか、これらのマイナス要因はすべて脳死移植の導入にとっても致命的な欠陥となるものばかりであるということを指摘なさっていらっしゃるんです。  現状において、この問題について今後の課題としてどんなふうに日本の場合やっていくのがいいか、御意見がございましたらお聞かせいただきたいと思います。
  90. ぬで島次郎

    公述人ぬで島次郎君) それは本当に一般医療全体の問題ということになりまして、そういう中で医療の人材と資源、お金をどこにどれだけ配分するべきかという問題を、先ほど申し上げていますように単なる経済的な効率性ではなく、人間が必要としていることは必要なだけ供給できるという倫理的な基準も必要であるというふうに思っております。  特に、心臓病の治療あるいは肝臓病の治療その他いろいろな治療の中で、やはり臓器移植というのは、それぞれの病気が本当に悪くなって悪くなって内科的治療も普通の外科的治療ももう全然できなくなっちゃった最後の選択肢を一つふやす、そういう位置づけなのではないか、私は諸外国の実情を見ながらそういうふうに思って見ているんです。  そういうふうに、医療全体の中で臓器移植がどれぐらいの比重を占めるべきであるか。人工臓器の開発もありあるいは内科的な治療の開発もありというような選択肢が幾つもある中で、臓器移植というのは将来どれぐらいの見込みがあるからそこにどれぐらいどんどんつぎ込むべきかとか、そういう冷静な位置づけ、評価ということをやるべきではないか。それは政府においても、国会においても、あるいは一般社会においてもそれぞれの立場からやるべきである。これは個別に移植を一人一人の患者さんが受けられる受けられないとは全く別の話ですけれども、つまり政策課題としてそういうことがあるかと思います。これは臓器移植に限らず、ほかの先端医療すべてについて言えることかと考えます。
  91. 橋本敦

    ○橋本敦君 ほかにも伺いたいことがございますが、時間が参りましたので、終わります。ありがとうございました。
  92. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 中谷公述人にお伺いいたします。  深遠な法理論ではなくてごく抹消的な、条文をどういうふうに解釈するか、先生は案外こういうことはお得意じゃないのかもしれませんので大変恐縮ですが、あえて法学者としてのお立場でお答えいただければと思います。  中山案の第六条、先ほどから問題になっておりますけれども「死体(脳死体を含む。)」と、こういう表現でもって、今後脳死は人の死だ、一般原則を表明したんだと、こういうことを提案者がおっしゃっておるわけですけれども、果たしてそういう解釈がこの字句から出てくるんだろうか。  「死体(脳死体を含む。)」、しかもこれは臓器移植に関する特別法でありますから、五十年、百年と刑法、民法、それぞれ死についての解釈が決まっておるわけであります。それをこういう特別法で、これだけの表現で、刑法の解釈も変わる、刑事訴訟法検視の考えも変わる、民法の相続も変わる、そういうことを断言していいのかどうか。  裁判官はそういう解釈はなかなか受け入れかねるんじゃないか、誤解のないようにきちっと表現をしておくべきではないか、こういう気がいたすわけであります。いかがでしょうか。
  93. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) 全く同感でございまして、だからこそこの六条を何とか参議院のこの委員会で十分な御審議をいただいて、そしてきちんとしていただきたいということを最初から申し上げていたわけです。
  94. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 一つ考え方として、私は、臓器移植に限って脳死は人の死とみなすと、みなすんです、するんじゃなくて、というふうなことはどうだろうかと考えておるんです。急な場合で恐縮ですけれども、いかがでございましょうか、こういう考え方は。
  95. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) みなすということになりますと、提案者の中山先生あたりは大分御不満じゃないでしょうか。ですから、その辺の調整が必要かと思います。
  96. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 わかりました。  次は、六条に「遺族」という言葉が使われております。「遺族が当該臓器摘出を拒まないとき」、これは仮定の問題ですけれども、遺族が二人いるといたします。そのうちの一人が賛成、一人が反対という場合、この条文はどうなりますか、解釈して。
  97. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) これは角膜及び腎臓の移植に関する法律でも出てまいりまして、植松先生は盛んにその順位をどうするのかということをおっしゃっていました。  そういう意味では、アメリカのユニホーム・アナトミカル・ギフト・アクトなんかではちゃんと順位が決まっておりまして、第一順位は配偶者、第二順位は成人の子供、それから第三順位は親というふうなあれがありますね。それで、複数いるときはどうするかということも全部決まっております。そういう明確な規定があれば私はいいと思いますけれども、それができないのが日本みたいですね。
  98. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 角膜の場合は、明白に死体から本人意思に従って摘出する。これについて、まくら元に集まった人たちが余りそれは言わないと思うんです、私は賛成、反対ということは。どうぞ故人の意思を生かしてくださいと。ところが、今度は違ってくるわけです。  今までの解釈では半分以上の人がこれは生きている人だ、こういうふうなことで、一体臓器摘出をするかしないかと、こういうせっぱ詰まった問題ですけれども、提案者は極めて気楽でありまして、喪主を中心に話し合えばいいんですよと。その話し合いがつかないときにどうするかということを私は問題にしているわけでありまして、しかもまくら元で、今脳死ですから、まだ呼吸もある、脈も動いている、その人のまくら元でさあ喪主をだれにするかと、そういう家族はまずいないと思うんですね。  ですから、今先生がおっしゃったとおり、きちっと基準なり範囲なりを確定しておかないとこの法律は遺憾ながら使い物にならない。遠くに住んでいる家族が出てきて、遺族が出てきて、私は反対だったと言われたら一体どういうことになるのか、施術した医者は殺人罪になるのかならないのか、解釈上いろんな問題が起きてくるわけですね。  こういう技術解釈上の問題が起こることを承知でこういう法案に私はなかなか賛成できないんですけれども、先生、いかがでしょうか。
  99. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) 往々にして、ふだんは関係がない遠くの怖いおじさんが出てきて反対するとそれでだめになるということは聞いたことがあります。したがって、それについて法律の中に盛り込むのかあるいは規則か何かにするのかは別論として、やっぱり一応考えておかなければならない事態だと思っております。
  100. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 わかりました。  藤堂公述人にちょっとお伺いいたしたいと思います。  脳死判定の客観的な基準をどうして確保するか、こういう問題なのでありまして、これは中山案のよケに一人の医師だけというわけになかなかいかぬだろう。世間はそういうことになると、あれはいいんだろうかどうだろうかということでいろいろ論評するでしょう。あれは医師が功名心にはやってやったのではないかとか、裏で金が動いているんじゃないかとか、そういうことも言われかねないわけですから、この客観性を保つことが私は非常に重要だと思うんです。一件でも失敗例があったらこの臓器移植制度というのは崩壊するだろうと思います。だれも相手にしなくなる。これは大事なことであります。  私が考えているのは、都道府県単位に臓器移植審査会というようなものでもつくりまして、その中に専門医の方を十人か二十人登録しておいて、緊急の場合ですから、その中のだれかに連絡して二、三人の人に集まってもらって診断をしてもらう、そういうことで客観性を保っていくことがどうだろうかと、こう思っておるんですけれども、いかがでしょうか、こういう考え方は。
  101. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 具体的な脳死判定方法論というのは幾らでも変えられることじゃないでしょうか。どういうことかと申しますと、いろんな形で具体的に運用する場合には変わっていくことじゃないでしょうか。
  102. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 趣旨がよくわかっていないようですけれども、私が言っているのは、法律かあるいは政令でそのことをきちっと書いておくべきで、この法律国民に対して知らせるわけですから、これを読んだ国民がなるほどそこまで慎重な配慮がしてあるか、じゃ私も賛成だと、こういう国民だって出てくるわけですからね。これだけ慎重な配慮をして臓器移植手術をやりますよということを告知しておくことが必要であろう、できたら法律段階までそれを高めてほしいなと、こういう気がしておるんです。単に省令、政令だというのもどうかなという気もするものですからね。そういうことなんですが。
  103. 藤堂省

    公述人藤堂省君) わかりました。  そういった意味で、具体的な形をつくっていかれればよろしいんじゃないかと思います。一番オープンに、フェアに運営するにはどうすればいいかということが決まってくると思います。
  104. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) 公述人から手を挙げちゃいけないんでしょうか。
  105. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 私の許可があれば結構でございます。
  106. 中谷瑾子

    公述人中谷瑾子君) それでは、御許可をいただきまして申し述べさせていただきます。  この法案によりますと、とにかくいずれも厚生省か何かで定めるところの基準に従うということになっていますね。それで、竹内基準によりますと、既に判定者というものについての規定があるんです。ですから、おのずからそれになりますから、それでよろしいんじゃないんでしょうか。  猪熊案については、その辺についてもきちっと法令の中に規定していますが、規定がなくても判定基準の中にそれが決まっています。これは前の判定基準にはございませんで、九一年の補遺でその点が明確になりましたので、それでよろしいのではないかと私は考えておりました。
  107. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 最後に、ドナーカードのことについてちょっとお聞きしたいんです。  ドナーカードを発行する団体には何か制限を設けた方がいいのか、だれでもいいのか。そういうと、要するにみんながみんなボランティア精神の、本当の善意からやるとも限らないわけで、手数料でももらってドナーカードを発行すると、そういう商売だってこれから出てこないとは限らない。そういうことがやれるような形の法律というのはやっぱり問題なわけですね。その点いかがでしょうか。
  108. 玉置勲

    公述人玉置勲君) 先生御心配の、だれかがそういったドナーカードを代行、代筆しまして金もうけをすると、確かに御心配はあろうかと思います。  私の知っている限りではあっせんの繰り返しをやってはいけないと。それで、連絡先を明記しておるとまずいけれども、明記していないドナーカードでは本人しか書いておくことができない遺書でございますから、それは構わないのじゃないかという意見がございます。その辺について先生の方かち、それがだれかに代行されては困るということで公的法人から発行されることが一番望ましいという意見だと思いますので、私としては、遺書として一つの文章がその御印鑑、拇印とかそういった本人を明確にし、判別できる、そういったものが一つあってもいいと思う。  と同時に、もう一つは、あるべき姿としては、ドナーカードは公的あっせん機関の方から配付されるもののみがドナーカードになるべきじゃないか。さようにすることが保証の担保といいますか、要するに国民のそういった安心感を得る担保になるんじゃないかと思います。
  109. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 終わります。
  110. 末広まきこ

    末広真樹子君 自由の会の末広真樹子でございます。  きょうは、長時間皆様御苦労さまでございます。とりわけ、ドイツ肝臓移植をお受けになられた渡辺さんのお元気そうなお顔を見させていただきまして、とても喜んでおります。  私は、人の死を法律で規定するというようなことはとてもなじまない。人が生かされる方法、さっき人は生きるんじゃなくて生かされるんだというお話がございましたけれども、私もそう思います。生かされることについて、いろんなことを法律でもってお助けしたいという気持ちはございますけれども、人の死を法律で規定するというのは、それはもう余計なおせっかいじゃないか、死ぬときぐらいは自由にさせてくれよ、こういう御意見があるのはしようがないことだろうと思うんです。  ぬで島公述人が、医学界の自主実施で行っていって社会の信頼を徐々に得ていく、これが一番いいことじゃないか、ほかの国はみんなこうやって下から積み重ねてきた、決して先に脳死を人の死とするといって上からどんと持ってきたものじゃないというような御意見があって、私もそれが一番いいな、つまりお医者さんが医者の名と責任において積み重ねてくださるというのが一番いいんじゃないかと思うのでございます。  そこで、全員の方にお伺いしたいんです。脳死を人の死であるという法律は要らないと思われる方、挙手をお願いしたいんです。
  111. 藤井正雄

    公述人藤井正雄君) 私は、一つは、今まで出ておりませんけれども、たしか五年前だったと思いますけれども、山口大学の附属病院で二十八歳の女性が脳死判定後三十五日を経て赤ちゃんを産み、そして二週間後に死亡したという事実があったと思います。その場合に、人の死とした場合に、その子は死人から生まれてきた子供になってしまう。それは教育上どうかと思う。そういう意味でも、私はこの死というものを法律で規定するのはおかしいのではないか、そういうふうに考えます。
  112. 末広まきこ

    末広真樹子君 今、お手を挙げてくださった方全員にお聞きしたいんですけれども、ちょっと持ち時間の都合で、挙手を願ったということで次に移らせていただきたいと思うんです。  藤堂公述人にお聞きしたいんです。二点ございます。  この法案が通ったとしまして、慢性的ドナー不足というのがつきまとうと思われます。その慢性的ドナー不足というのを解決しないことにはこの法案も生きてこない。そこで変な小細工が行われたのでは、ますますこの法に対する信頼が失われて、臓器移植が先細りになってしまう、こういう心配がございます。  ですから、慢性的ドナー不足を解決するいい方法はあるのかどうかというのが一点。それから、臓器移植というのが本当に愛の医療といいますか、そうやって人々の間に定着していくよりよいシステムづくり、これがないとやはり信頼が損なわれると思いますので、この二点についてお答えいただければと思います。
  113. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 慢性的なドナー不足は当然予想されます。  そういった意味で、先ほど数人の公述人の方から意見が出ましたように、ドナーカードあるいは自分意思表明するチャンス、機会をつくっていただきたい。法律は私は全くわかりませんけれども、政令とかいろいろあるんだと思いますけれども、それをしていただきたい。  それから、それは時間がたてば、五年、十年と申しましたけれども、一つ進んで少しずつ理解を得ていく努力を続けていかなければならないと思います。今すぐにドナー不足が解決されるものではございません。  二番目に、システムですけれども、これが一番私は日本に帰って困りました。まだ二カ月しか実質的には動いていないんですけれども。ただ、私がいたしましたのは、日本に帰ることが決まりましたときに教室員を五十人ほど、二週間置きですけれども、現場に送りました。ピッツバーグの現場に送りまして、現実を見てもらいました。そして、システムを見てもらいました。  その中に含まれている人員としまして、看護婦さんもいます、それから麻酔科、ICU、病理、内科がおります。それから、コーディネーターの人もおります。今、私がしておりますのはそういうシステムづくりでありまして、その中にドナーだけでなくてレシピェントのコーディネーター、それから特にドナー患者さん、家族あるいは移植を受けた患者さん御自身の心理的、精神的ないろんな不安に対応できるように精神科の方と話し合って、今そのケアシステムもつくりつつあります。  トータルで少しずつ加え削りしていかないと、初めからベストのシステムというのは、日本の状態がまだよくわかりませんので、それが私が考えている一番のベストのシステムです。
  114. 末広まきこ

    末広真樹子君 今おっしゃったのは、移植コーディネーターとはまた別個のメンタルケアの方が必要だという御意見ですね。
  115. 藤堂省

    公述人藤堂省君) はいそうです。
  116. 末広まきこ

    末広真樹子君 私もまさにそこのところが一番心配でございまして、もういっそのこと、ドナー提供者の遺族の方の後々のお苦しみを思うと、もう御本人意思だけでやっていただいた方が気が楽かなと思ってみたりもいたします、それぐらいにデリケートな、メンタルなことなので。また、日本医学の水準からすればテクニカル的には何の問題もないだろうと思うんです。ただ、そのメンタルな部分で大いに問題がある。そこのところを両法案がどう解決してくれるのか。今のところ、その解決策が見えてまいりません。  それに対して何か御発言のある方はどうぞ。持ち時間がもう二分ほど残っておりますので、どうぞ。
  117. 玉置勲

    公述人玉置勲君) 先生はかなりある地域の不幸な臓器提供のお話をお知りになっているんじゃないかと思うんです。確かにドナーカードオンリーで提供ができるのであれば、私はそれが一番望ましい方法だと思っております。そのほかに、やはり家族提供したことによって喜びがある、または脳死の方を持った家族が、本来ならばその本人がこういうことを言っていたのに、患者さんのことを思うが余りそういうことが頭から抜けているときがあるんですね。そういうときにちょっと話をしてあげると、ああ本人はそういうことを言っていましたよ、そういうことが出てくる気持ちも大事にしてあげたいなと私は思います。
  118. 末広まきこ

    末広真樹子君 今、少しかみ合わなかったような気がいたします。  私が申し上げたいのは、臓器移植のコーディネーターとは別に、移植のために臓器を差し出した方の御遺族のためのメンタルケアが大変重要になるので、そこのところはきちっとシステム上クリアされていかないと、法案は通っても定着していかないのではないかということなのでございますけれども、ちょっと時間が来てしまいました。ありがとうございました。
  119. 栗原君子

    ○栗原君子君 新社会党の栗原君子でございます。よろしくお願いいたします。  まず、藤堂先生にお伺いをいたします。  実は、これは日本のマスコミでも報道されたことでございますけれども、ほとんど蘇生不可能と思われていた人が、脳死状態の中で低体温療法を行うことによって、七十五人中五十六人が生還をしたといった報告もなされております。これは、日本大学の救命救急センターの林先生も衆議院で参考人としてお述べになっていらっしゃるわけでございます。このことについてはどのようにお考えでいらっしゃるのか、お伺いします。  それともう一点は、臓器移植が大変行き詰まった国があるといった報告も受けているわけでございますけれども、慢性的なこの臓器不足の現状、そこにはやはり富める国、途上国、あるいは富める人、貧しい人、何か区分けができるような気がしてならないわけでございます。先生の場合、アメリカでそうしたケアをしていらっしゃるわけでございますけれども、アメリカではレシピェントとして、例えば黒人の人たちドナーとしてはどの程度いらっしゃるのか、そこらあたりをまずお聞かせいただきたいと思います。
  120. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 低体温療法と脳死の問題ですけれども、これはまさしく日本語が非常にあいまいであることの証拠だと思います。低体温療法というものは、脳死状態、あるいは先ほど切迫脳死という言葉を使われましたけれども、切迫脳死という言葉医学的にはほとんどないはずですし、脳死状態ということも医学的にはございません。  したがって、正確にもしおっしゃるならば、重篤な頭部の外傷に対する低温療法で七十数%の患者がよくなったというふうに表現されるのが正しいかと思います。脳死というものは、そういう状態でも、そういう治療法でも戻ることができない、脳の機能を回復することができない、いわゆるポイント・オブ・ノーリターンを既に超えてしまった患者さんというふうに私自身は理解しております。  それから、慢性的な臓器不足から臓器移植が行き詰まりであるという御指摘でございますけれども、行き詰まりということよりも、私はヨーロッパとアメリカしか知りませんけれども、行き詰まりではありません。行き詰まりというのはどういうことかと申しますと、脳死患者さんからいただいて移植をする数が、提供いただく脳死ドナーの数に規定されますので、例えば肝臓外科肝臓移植の場合は全部の肝臓移植しますと、今の脳死臓器提供者が五千四百人ですから、全部移植できたとしても五千人前後で切れちゃいます。  そこで、それを打開する方法として、例えば日本で進歩しました生体移植アメリカでも少しずつ行われてきております。ちなみに、一九九四年には六十例の症例が行われております。それから、一つ肝臓二つに割って移植する方法論もできてきております。そして、欧米の科学者が今一生懸命研究していますのは、動物の臓器移植に使えないかと。特に移植の世界では問題がいろいろございますけれども、問題が提起されればそれに対して解決する方策を一生懸命やっております。  それから、残念ながら、黒人の方のドナーレシピエントの具体的な数は私は知りません。データが出ていますけれども頭に入っておりませんから申し上げられませんけれども、少なくともレシピエントの適用基準というのが肝臓の場合にはございまして、重症な方を最優先いたします。それには国籍、外国人は今五%以下にアメリカでは制限されておりますけれども、医学的に見て最も重篤な方、その方が移植の最優先になって、決して経済的な状況あるいは社会的な地位等では全く考慮されておりません。
  121. 栗原君子

    ○栗原君子君 もう一点。  どうも私も気になってならないわけでございますけれども、先ほど同僚議員からも質問がございましたけれども、私は、幾ら議員提案といえども一応法律としてつくるからには、国家が人の臓器摘出する、国家の責任において摘出をするということになる、このように考えます。  そこで、脳死を死と定めなくても移植が行われている国、例えばイギリス、ドイツ、フランスなど少なくないことは厚生省資料でも明らかでございます。日本でも既に肝臓とか腎臓とか角膜あるいはまた骨髄も移植ができているわけでございますけれども、そうした中であえてここで法律をつくらなければいけないということはどうも私は理解できないんです。  先ほど藤堂先生は、法律のあることがベストである、こうおつしゃいました。必ずベストでなくてもベターぐらい、よりましというところは、現場の医師の連係プレーによってできるのではなかろうかという気が私はいたしますけれども、いかがでしょうか。
  122. 藤堂省

    公述人藤堂省君) 途中で申しましたように、オープンでフェアでベストというものが私どもの移植を今から日本で定着させるための基本姿勢でございますので、常に将来伸びていくためにベストの形でスタートしたいと思っております。
  123. 栗原君子

    ○栗原君子君 それでは、玉置先生にお伺いをいたします。  よく現場人たちから聞こえできます声の中にインフォームド・コンセント、これは本当にあり得るのだろうかと私も少し疑問を持つようになったわけでございます。医師と患者家族、ここにはやはり強者と弱者といった区分けができるような気がいたします。  患者家族が動転しているような中で、果たして対等なインフォームド・コンセントというのは保障されているのだろうか、こういう気がいたしますけれども、いかがでございましょうか。
  124. 玉置勲

    公述人玉置勲君) 患者医者というところで、移植提供する側の患者なのか、それともまたは移植を受ける方の患者さんなのか、まずそれをお聞かせ願えますか。
  125. 栗原君子

    ○栗原君子君 特に提供する側ですね。
  126. 玉置勲

    公述人玉置勲君) 提供する場合には、やはり先ほど先生の御指摘のとおり、弱者と強者ということになりがちになります。そういった意味で第三者を仲介人としてやっていこうという考え方がございます。  そういう意味で、第三者が説得とか強制しないような形で入るようなシステムをつくらなければと思います。
  127. 栗原君子

    ○栗原君子君 ぬで島先生にお伺いをいたします。  今、日本医学というのは大変進んでいるということを私は理解しているんですけれども、そこで人工臓器とかあるいは内科、外科的な医療技術の開発によりまして、ここ数年のうちにそうしたことができるようになるのではなかろうかと、人工臓器が。無理に人のものをもらわなくても人工臓器の開発ができるんではなかろうかということを思うんですけれども、そうしたことについてはどのようにお考えでいらっしゃいますか。生命科学の立場で研究していらっしゃるようですので。
  128. ぬで島次郎

    公述人ぬで島次郎君) 私は、先ほどから申し上げていますように政策分析をやっている研究者ですので、実験とか理科系の研究者でないものですから、人工臓器一つずつのちゃんとした評価というのは、大変申しわけございませんがそれぞれの御専門の先生に聞いていただいて、私のような者がいいかげんなことを言うのは国会の場ですので差し控えさせていただきたいと思います。
  129. 栗原君子

    ○栗原君子君 それじゃ、玉置先生
  130. 玉置勲

    公述人玉置勲君) 心臓のように、要するにエネルギーがありまして単一動作で血液を排出するようなそういった臓器と、ホルモンを出したり体の酸塩基平衡だとかそういったものを保つ実質臓器というのは全く話のレベルが違うわけですね。ですから、心臓のようなものは確かに人工臓器で代用できるでしょうけれども、肝臓、腎臓のようなものがここ百年二百年で、人の臓器が、実質臓器が開発できるとは考えられません。
  131. 栗原君子

    ○栗原君子君 終わります。
  132. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。  公述人方々に一言お礼を申し上げます。  本日は、御多忙のところを長時間にわたり本委員会に御出席賜りまして、貴重な御意見を多くお述べいただき、まことにありがとうございました。当委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。  これをもって公聴会を散会いたします。    午後四時二十六分散会