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1997-06-16 第140回国会 参議院 臓器の移植に関する特別委員会 第7号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成九年六月十六日(月曜日)    午前九時十一分開会     —————————————    委員の異動  六月十六日     辞任         補欠選任      千葉 景子君     今井  澄君     —————————————   出席者は左のとおり。     委員長         竹山  裕君     理 事                 加藤 紀文君                 関根 則之君                 成瀬 守重君                 木庭健太郎君                 和田 洋子君                 照屋 寛徳君                 川橋 幸子君                 西山登紀子君     委 員                 阿部 正俊君                 石渡 清元君                 尾辻 秀久君                 大島 慶久君                 小山 孝雄君                 塩崎 恭久君                 田浦  直君                 田沢 智治君                 中島 眞人君                 長峯  基君                 南野知惠子君                 宮崎 秀樹君                 大森 礼子君                 木暮 山人君                 水島  裕君                 山崎 順子君                 山本  保君                 渡辺 孝男君                 大脇 雅子君                 菅野  壽君                 今井  澄君                 千葉 景子君                 中尾 則幸君                 橋本  敦君                 佐藤 道夫君                 末広真樹子君                 栗原 君子君        発  議  者  大脇 雅子君    委員以外の議員        発  議  者  猪熊 重二君        発  議  者  竹村 泰子君        発  議  者  朝日 俊弘君        発  議  者  堂本 暁子君    衆議院議員        発  議  者  中山 太郎君        発  議  者  自見庄三郎君        発  議  者  能勢 和子君        発  議  者  山口 俊一君        発  議  者  福島  豊君        発  議  者  矢上 雅義君        発  議  者  五島 正規君    国務大臣        厚 生 大 臣  小泉純一郎君    政府委員        厚生省保健医療        局長       小林 秀資君    事務局側        常任委員会専門        員        吉岡 恒男君        常任委員会専門        員        大貫 延朗君    法制局側        法 制 主 幹  大島 稔彦君    衆議院法制局側        第 五 部 長  福田 孝雄君    説明員        法務省刑事局刑        事課長      藤田 昇三君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○派遣委員報告臓器移植に関する法律案衆議院提出) ○臓器移植に関する法律案猪熊重二君外四名発議) ○臓器移植法案の廃案に関する請願(第一八七二号外三件) ○臓器移植法案継続審議に関する請願(第二六五五号)     —————————————
  2. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ただいまから臓器移植に関する特別委員会を開会いたします。  臓器移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)及び臓器移植に関する法律案(参第三号)、以上両案を一括して議題といたします。  去る十二日、当委員会が行いました委員派遣につきまして、派遣委員報告を聴取いたします。  まず、大阪班の御報告を願います。木庭健太郎君。
  3. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 第一班につきまして御報告いたします。  派遣委員は、竹山委員長河本委員小山委員谷川委員大森委員大渕委員中尾委員橋本委員及び私、木庭の九名で、去る十二日、大阪市において地方公聴会を開催し、六人の公述人から意見を聴取した後、委員から質疑が行われました。  まず、公述要旨を簡単に御報告申し上げます。  最初に、移植医である京都大学移植免疫医学教授田中紘一君からは、脳死者からの臓器提供ができない中、生体移植治療法として確立されたが、対象者小児中心に限定され、臓器提供者の安全に問題があること、我が国でも脳死についての考え方を決め、外国のように脳死者から善意臓器提供を受ける道を開いてほしいこと等の意見が述べられました。  次に、法律家である弁護士日本弁護士連合会刑事法制委員会事務局次長岩田研二郎君からは、ドナー臓器提供の客体ではなく、権利行使主体としてとらえ、その自己決定に最大の根拠を置くべきこと、脳死を一律に人の死とする中山案には問題があり、脳死を人の死としない猪熊案が多数の国民の意向に沿うものであること等の意見が述べられました。  なお、臓器移植のために脳死判定された者についてのみ死とする修正を行う場合、中山案基本的立場は変更されるのか、同じ脳死状態患者家族の主観により生体死体となるのは法的安定性を損なうのではないか等の問題が指摘されました。  次に、医事法専門金沢医科大学教授金川琢雄君からは、移植の場合だけ脳死を死とすると死の概念二つでき、法的安定性を欠くこと、脳死についての社会的合意がない現状では脳死判定実施家族拒否権を認めるべきこと、臓器提供本人意思表示のみで認められるべきこと、脳死体と心臓死体では臓器摘出要件に違いがあるが、三年後に見直されるのであればやむを得ないこと等の意見が述べられました。  次に、医師であり、民間での臓器移植法案作成作業にかかわってきた神戸生命倫理研究会代表額田勲君からは、法律を制定しなくとも臓器移植は可能であるとの立場から、医学界内部合意のための対話が行われていない状況のもとで、立法をもって合意不在を代替させることは政治の過剰介入になるおそれがあること、社会的合意の形成は、法廷での論議を尽くして国民反応を積み上げ、慣習法的に完成されていくべきであること、修正については、独自の解釈の余地を残し、法の権威を失墜させるおそれがあること等の意見が述べられました。  次に、拡張型心筋症のため移植を受けた心臓移植者都倉邦明君からは、移植手術前には五年間入退院の繰り返しだったが、昨年二月にアメリカ移植を受け、現在は拒絶反応もなく元気な体に回復していること、臓器移植については、立法により、手術を待つ人の期待、希望にこたえるべきこと、移植を受けた者としては、せっかくもらった命をいかに社会に貢献できるかを考えていること等の意見が述べられました。  最後に、宗教者である大谷大学教授真宗大谷派住職小川一乘君からは、仏教の根本的立場から、人間の都合によって生と死を決定し、法で規定することは重大な問題をはらんでおり、人間同士の命のやりとりはやめるべきこと、脳死による臓器移植はだれかの死を待つ医療であり、正当な医療とは言えず、命の尊厳という制約の範囲内で行われるべきこと、修正については、基本的には臓器有効利用に変わりがないので賛成できないこと、提供者善意が強制された善意となる可能性があること等の意見が述べられました。  公述人意見に対し、各委員より、死の判定と思想の自由、人の死を法律で規定することの当否、脳死状態植物状態との区別、脳死を人の死とする社会的合意有無臓器移植を橋渡しする法的整備必要性、世界的に臓器提供者が減少している理由、医師として脳死判定が必要な場合、脳死判定における家族同意任意性とその範囲臓器提供意思表示有効性脳死判定基準見直し必要性、死の自己決定の問題、国会審議あり方臓器移植に限って脳死を認める修正についての考え、修正した場合の中山案との基本的同一性など多岐にわたる質疑が行われました。  会議内容速記により記録いたしましたので、詳細はこれにより御承知願いたいと存じます。  以上で第一班の報告を終わります。
  4. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 次に、新潟班の御報告を願います。関根則之君。
  5. 関根則之

    関根則之君 第二班につきまして御報告いたします。  派遣委員は、照屋理事川橋理事石渡委員中原委員松村委員山崎委員渡辺委員栗原委員及び私、関根の九名で、去る十二日、新潟市において地方公聴会を開催し、六名の公述人から意見を聴取した後、委員から質疑が行われました。なお、現地において、真島議員が参加されました。  まず、公述要旨を御報告申し上げます。  最初に、新潟大学医学部泌尿器科教授高橋公太君からは、臓器移植法案早期成立を要望すること、献腎移植により完全社会復帰が可能であるが、腎移植希望者に比べて献腎が極めて少ないこと、脳死下での腎臓の提供があれば腎移植成功率が高まること、我が国では脳死による臓器移植ができないため、一部の恵まれた患者だけが多額の費用を負担して海外移植を受けていること等の意見が述べられました。  次に、刑事法学者北陸大学法学部教授中山研一君からは、修正案では臓器移植以外の場面における脳死した者の身体の取り扱いが不明確であり、したがって、脳死判定臓器移植が必要な場合に限るという明文を加えるべきであること、臓器移植場面では脳死判定をして死の宣告をし、臓器移植以外の場面では脳死判定による死の宣告をしないことを合理的に説明する必要があること、アメリカでも臓器移植以外の場面では脳死を人の死とする必要があるのかが議論されていること等の意見が述べられました。  次に、金沢大学法学部教授深谷松男君からは、人の死の概念は一元的に定めるべきであること、死体ではない脳死状態の者からの臓器摘出は、人の存在価値に格差を認めるもので受容できないこと、三徴候説も脳の死の判定方法の一つであること、脳死判定に対する拒否権を認めると人の死を個人の意思に従わせ、法的に不安定な状態を生じたり、相続等における法的紛争発生の危険があること、脳死を人の死と認める中山案は基本的に支持できること等の意見が述べられました。  次に、ノンフィクション作家向井承子君からは、脳死を人の死として性急に立法化することには反対であること、臓器移植は、最高の倫理的・技術的水準による脳死判定から臓器提供に至るまでの手続を整備し、社会の理解を得ながら進めていくべきであること、新聞報道だけを論拠とする修正案についての議論は理解できないこと、アメリカ臓器移植では脳死から三徴候死に戻ろうとする傾向があること等の意見が述べられました。  次に、臓器移植者黒田珠美君からは、オーストラリア肝臓移植手術を受けた後、人生が変わり、明るく積極的になれたこと、肝臓移植のためにオーストラリアを訪れる患者の七〇%が日本人だとされており、いつまでも外国に頼り続けることには疑問があること、海外での移植は経済的に大きな負担がかかること、肝臓移植者として国内で初めて男の子を出産し、子供は免疫抑制剤の影響もなく元気に成長しており、移植を受けてよかったと感じていること等の意見が述べられました。  最後に、牧師岸本和世君からは、臓器移植そのものには反対ではないが、臓器移植法案には基本的に反対であること、脳死を人の死とするか否かを法律で規定することに疑義を持っていること、死の判定臓器提供意思有無で左右されることは好ましくないこと、竹内基準見直しが不可欠であること、インフォームド・コンセントの確立していない我が国医療現状では、法案の「医師の責務」の規定程度では不十分であること等の意見が述べられました。  公述人意見に対し、委員より、臓器移植法案刑法三十五条の正当行為との関係臓器移植等について同意を要する家族範囲臓器移植限り脳死判定をする場合の法的問題点海外における臓器移植に依存している日本医療現状に対する諸外国評価臓器提供者の年齢の下限、修正案によって死の概念二つ生じることへの法的評価医師医療に対する不信解消のための条件、参議院における審議あり方臓器売買その他臓器商品化可能性など多岐にわたる質疑が行われました。  会議内容速記により記録いたしましたので、詳細はこれにより御承知願いたいと存じます。  以上で第二班の報告を終わります。
  6. 竹山裕

    委員長竹山裕君) これをもって派遣委員報告は終了いたしました。     —————————————
  7. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 臓器移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)及び臓器移植に関する法律案(参第三号)について、前回に引き続き質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  8. 田沢智治

    田沢智治君 私は、自由民主党を代表して質問をいたしたいと存じます。  本日、臓器移植に関する法案審議日程が終局をすると聞いておりますが、人間の生死に関する重要法案である以上、もっと慎重に対応すべきであると思いますが、衆議院から送付されました日程が会期終了間近であったため十分な審議ができなかったことに対し、心から遺憾の意を表したいと存じます。  今、臓器移植法案総括質疑をするに当たりまして、中山案提案者そして猪熊案提案者方々に対し心から敬意を表したいと存じます。  申すまでもなく、政府平成元年にいわゆる脳死臨調を設置し、およそ二年間の慎重な審議を経て、平成四年に脳死臨調答申を提出されたのであります。その後、今日に至る間、移植を必要とする患者の約八千人が亡くなっていることも事実であり、患者家族の悲痛な訴えとともに悩み苦しんだことも私たちの心情の中におさめておるのでございます。  私たち生命議連は、中山会長中心にこの現実を直視いたしまして、国会では、この脳死臨調答申を踏まえ、脳死及び臓器移植に関する各党協議会を設けて、その場で国民各界各層国会議員の間で幅広い議論を積み重ねて、立法に向けて努力をしてきたのでございます。長期にわたる検討した経過を踏まえて成案をまとめ国会に提出したという経緯がございます。  他方、いわゆる猪熊案は、中山案がまとめられた経過で積み重ねられたような国民各界各層議論の集積をいつどのような過程の中で検討されてこの法案を提出したか、まずもってお伺いしたいと存じます。
  9. 猪熊重二

    委員以外の議員猪熊重二君) 私たちがいわゆる対案を提出しましたのは、中山案の抱えている矛盾というか非合理性というか、そういうことを考えた結果として対案を提出したわけです。  要するに、中山案は、脳死は人の死であるということを一般化して、その上での臓器移植法法案として作成されたわけです。しかし今、田沢先生おっしゃいました脳死臨調も、脳死を死とする社会的合意は存在するということをいろいろ述べておられるわけですけれども、その場合にしても、必ずしも世論調査の数字が正しいわけじゃありませんが、脳死イコール死と認める者が四四・六%、これを否定する者が二四・五%という状況のもとにおいて、脳死を死とする社会的合意はあるという結論を出された。その結論に乗っての中山案ということになりますと、私たち立場からすれば前提において間違っているんじゃなかろうかということからこの対案の検討を始めたわけです。  脳死を死とする社会的合意があるかないかという問題は、ただいまも申し上げましたように、単に多数決の問題ではないとはわかっておりますけれども、しかしその脳死臨調調査の後から今日までの世論の動向を見た場合にも、脳死を一般的に人の死とする国民皆さんの数は五〇%から一番多いときで六〇%、つい最近だと四〇%台に落ち込んでいると、また脳死を人の死と認めないという国民皆さんの数もやはり三〇%、四〇%というふうに動いております。  結局、脳死を人の死としていいのかということに対する国民の確定的な見解はない。要するに、国民の心は揺れ動いているということを前提にして、脳死を一般的に人の死とすることなしに、しかし社会的な法律的な事実として臓器移植を求める人と臓器提供してもよろしいという人との、この国民の中に存在する二つ方々のために、その両方のかけ橋というか橋渡しというか、それに資するだけの法律をつくったらどうだろうということで対案を提出した次第です。  以上です。
  10. 田沢智治

    田沢智治君 ただいまお話を承りましたけれども、当特別委員会公聴会においても、当事者である患者さんや医師会医学界にはほとんど賛成される方がいないように思われておるのでございます。  それは、猪熊案の第七条に脳死状態の人を死でないとした上で心臓などの臓器摘出を認めることに法文上なっており、脳死状態を生きている人とし、心臓などの臓器摘出した瞬間患者が死亡することになります。猪熊案では、臓器摘出する医師はみずから手を下して患者を死に至らしめることになるので、そのような行為は医の倫理に反すると考える医師は数多くあります。  また、猪熊案では、心臓などの臓器提供を受けようとすると、臓器提供者生命を絶たなければなりません。多くのレシピエントは、みずからの延命のために他の患者を死に至らしめること、このような行為を受容することはできないということを申しております。  衆議院における参考人意見陳述及び参議院公聴会での意見陳述においても、移植を受ける方々意見を拝聴しますと、移植を受ける側の患者としては、他人の生命を絶つことは非常に強い抵抗感があって、とても生きている人から移植を受ける気持ちにはなれないと陳述をしております。  猪熊案においては、法律の目的は、移植を受けなければ助からない患者さんを救うことにあるとしております。しかし、移植を受ける患者さんがちゅうちょするような、あるいは倫理的に苦しい思いをするような、基本的な部分でこの法案には大きな問題点があるのではないかと私は思うのでございますが、猪熊案提案者に御見解を伺いたいと存じます。
  11. 大脇雅子

    大脇雅子君 私どもは、一律に法律脳死を死と定めるべきではないという基本的な考え方に立っております。したがいまして、そうすることによって人権の享有主体としての脳死状態にある人という考え方をとることになります。その結果、他の法律との整合性の問題もそこで解決をされるというふうに考えております。  死体からしか臓器を受け取るという気持ちになれないというお言葉がありますが、その方たちも愛と命を受け取っているんだというふうに述べておられますから、臓器提供するという本人意思を尊重し、その臓器提供するという自己決定権、命の終えんに対する人間尊厳に立脚したその思いというものをもとにいたしまして、臓器提供する意思がある場合には違法性を阻却するという考え方を持っているわけであります。そういう意味で、抑制的になることはございますが、まさにそれが法案の命であると考えております。
  12. 田沢智治

    田沢智治君 ただいまの説明では私は理解しがたいのでございます。猪熊案では、脳死状態を特別な状態として、本人意思があれば臓器摘出することも許されるとおっしゃっておりますが、そうなると、同じく生きている者でありながら脳死状態にある者と脳死状態にない者との間に生命価値の差を設けることになり、結果として人間の生を二つに分けることになると思うのであります。  このような考え方は、等しくあるべき生命軽重をつける考え方であり、一歩間違えば、ある一定状態にある特定の生命を軽視することにつながりかねないと懸念されるのであります。  私は、そういう意味でこの点についてどうお考えになられるか、猪熊案提案者にお伺いをいたします。
  13. 猪熊重二

    委員以外の議員猪熊重二君) 今、先生がおっしゃられたような批判が、いわゆる違法阻却説に対していろいろ言われていることは私も知っております。しかし、私たちが出した法案は、ドナーの命が軽くてレシピエントの命が重いというふうなこととは全く無関係であります。  それはどういうことかというと、例えば正当防衛の場合に、加害者がいて、ここに加害者の攻撃によって今危機に瀕している人がいるというときに、第三者である私がこの加害者を射殺した場合に、私は他の要件があれば正当防衛として別に犯罪にも何にもなりません。なぜか。それは、加害者の命が軽いから殺していいんじゃないんです。また、被害者になる可能性のあるこの被害者立場にある人の命が重いから、だから加害者の命を殺して被害者の命を助けた、この命は軽重があるというふうなことは正当防衛論において全く論じられていません。当然のことなんです。加害者の命も被害者たるべき者の命も、命に差があるから、だから加害者を殺していいんではないということ。加害者行為社会的に許されないから射殺されてもやむを得ないという社会的評価があるはずです。これと同じように、例えばドナーレシピエントの命の差があるから、だからドナーの命を終わらせてもいいというふうなことは私たちは全然考えておりません。  どういうことかというと、ドナー自己決定に基づいて、脳死状態に陥ったら、その正当な要件のもとの脳死判定を受けて回復の見込みがないということをみずから納得したときには、私にもし世の中に役に立つことがあればということの本人自己決定を尊重し、またレシピエント臓器をいただいてもっと生きたいという、両方の命を、特にドナー自己生命尊厳に対する自己決定を尊重しようということでこういうことを考えましたので、ドナーレシピエント両方の命の差というのは全く私はそういうふうなことは考えてもおりませんし、この法案がそういうことを意図しているとか結果しているというふうな御意見は、まことに申しわけありませんけれども田沢先生見解を異にしますので、よろしくお願いします。
  14. 田沢智治

    田沢智治君 法務省にお伺いしますが、臓器移植に関して、脳死状態に陥った患者被害者として医師殺人罪で告発された事件が数あると思うんですが、現在どのくらいあるかお教えください。
  15. 藤田昇三

    説明員藤田昇三君) 御説明いたします。  法務当局において把握しておる事件といたしましては合計九件の事件がございます。  内容的に大別いたしますと、臓器移植摘出行為自体によって患者心停止に至らしめたものとして告発をされたものが五件、人工呼吸器の取り外しなどの臓器摘出のための準備行為によって患者心停止に至らしめたとして告発されたものが四件でございます。
  16. 田沢智治

    田沢智治君 もう一問お伺いします。  ある人の生命を救うために他の者の生命を犠牲にすることが刑法上許される場合があるのか。現在審議されている法案についての問題とは別に、一般論としてお答えいただきたいと存じます。
  17. 藤田昇三

    説明員藤田昇三君) 刑法上、一定緊急状態において行われた行為につきましては、刑法三十六条に定めております正当防衛、あるいは刑法三十七条に定められております緊急避難として違法性が阻却されることがございます。  ちなみに、この正当防衛あるいは緊急避難として違法性が阻却されるかどうかということにつきましては、急迫不正の侵害であるかどうか、あるいは緊急性があるかどうか、行為必要性相当性有無等につきまして個別具体的な事実関係に基づいて総合的に判断されるものでございまして、かつその判断につきましては保護法益が人の生命にかかわる重大な問題でございますから、慎重な検討が必要とされるものと考えております。
  18. 田沢智治

    田沢智治君 ただいま法務省から御答弁がありましたが、人の生命にかかわる問題であるから慎重に検討されなければならないとの答弁であります。  私は、猪熊案の中の脳死状態の人が加害者としての位置づけというのはおかしいのであって、動けない人間がなぜ加害者になるのか。そういうようなことを思うとき、やはり刑事上許されるものと考える視点に立った立法化については大変疑問が残ると私は思います。  脳死が人の死であるかどうかについては、国民のほぼ半数が脳死を人の死として受け入れるとする反面、約半数が脳死をもって人の死とすることに疑問を感じているというのは間違いなく実態であろうかと思うのです。理屈では割り切れない国民感情があることはやはり認めなければならないと私も思っております。  猪熊案患者自己決定権の尊重を徹底して主張されておりますが、そうであるならば、本人脳死をもって人の死と考え、自己立場においても脳死は人の死とする意思を明確にしている場合にまであえて脳死状態を生きている人とする必要があるのかどうか。これはやはり疑問が残るのではないかと存じますが、いかがですか。
  19. 猪熊重二

    委員以外の議員猪熊重二君) 今、先生がおっしゃられた意見は、私もある意味においてそういうことも考えなければならぬなとは思っております。  それから、先ほど私が正当防衛の場合を申し上げたのは、今のような場合と同じという意味ではなくして、命の軽重を認めているということではないですということの例として申し上げましたので、正当防衛の場合と今回のドナーレシピエントの問題が同じ位置づけであるということを申し上げたのではございませんので、よろしく御理解いただきたいと思います。  それで、今、田沢先生からおっしゃられたことは非常に難しいことで、もし自己生命に対する自己決定権を尊重するということをもっと推し進めれば、脳死判定されて脳死状態に陥ったときは、私は脳死者として死者としてもらってよろしいという意思表示があればそこまで認めてもよろしいのではないか、こういう御意見で、確かに本人自己決定というものを究極に推し進めていけばそういう考え方も当然あり得る。  ただ、そこで問題なのは、そうすると人の死の類型に二つの類型を認めることとなるというところが非常に問題だろうと思うんです。私たちの案は人の死は心臓死というか自然死というか三徴候死というか、その一つであるというふうな立場に立っております。いわゆる中山案は一般類型としての死の類型を二つに認めております。  今、田沢先生がおっしゃったように、本人自己決定に基づいて私は脳死を死でいいという人には死にしたらどうかといった場合に、その場合にも死の類型を二つ認めることになるということの妥当性等についてなお検討する必要があると思いますが、確かに、先生がおっしゃられたように、自己決定を究極にさらに一歩進めれば脳死状態をその人の死としてもよろしいんじゃないかという御意見はなるほどということでいろいろ検討させてもらいたいと思います。
  20. 田沢智治

    田沢智治君 時間がなくなりましたが、中山案においては、第三条に「国及び地方公共団体は、移植医療について国民の理解を深めるために必要な措置を講ずるよう努めなければならない。」とされております。この規定を修正することはないと聞いておりますが、もしそうであるとするならば、国民臓器移植については実際公正公平に行われるのであろうか、医療技術の高度化、移植医療の高度化等を含めてやはり進捗状況等に強い関心を持っていろいろの意見を提言してきておるのが実態でございましょう。  そこで、国民立場から私は提案を申し上げたいと思うのでございますが、移植医療の進捗状況政府の施策を明らかにした年次報告、これは国会に毎年報告すべきであろうと私は思うのです。移植医療の学術的な報告移植関係の学会で報告されておりますが、研究論文や学会の発表などでは移植医療についての国民の理解を深めることはできません。ぜひ政府の責任において、国民への理解を深めようとするならば、移植医療の進捗状況というような資料をやはり情報開示の方向で国民に公開することが私は大切であろうと思うのであります。  人工臓器等の開発も国民は望んでおるように思うのでございます。また、臓器配分機構のあり方について透明で公正公平に運営されている実態等について、国がそういう意味において関与すべきところがあるとするならば関与すべきであるし、現在国がどういうような状況でこういうものに対処しておられるのか、まずもってお聞かせをいただきたいと存じます。
  21. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 田沢委員御指摘の、移植法案が通った後、移植でどのような人たちドナーになり、どのような数が行われた、どのような種類の移植が行われたということを、公平公正に行われることを確保するために国会報告しようという先生の御提案には賛成でございます。  次に、移植医療に関する臓器の配分の公正公平という問題で、臓器配分のネットワークをいかにすべきかという御議論はほとんどなされておりません。これは非常に重要な意味を持っておりまして、各国におきましてもこの臓器配分の機構というものはどうあるべきかと。例えば、アメリカのUNOSのような場合には、臓器提供を受けられる方々が二百ドルの登録料を払ってレシピエントとして登録される、そういったようなこと。それから、これを管理する管理機構の問題。それから、配分する人の感情というもの、人間関係を一切入れない科学的なフィッティングを行う、こういうことが原則でございます。  この法案が成立をいたしました後は、この問題につきましては所管官庁である厚生省の現在の腎移植ネットワークでは私は十分ではないと考えております。これにつきまして、今後さらに法律の実施までに私どもは国民が見て納得のできるような臓器配分のシステムを我が国に確立しなければならない、また国会は絶えず臓器配分のシステムについて監視をするべきであろうと思います。
  22. 田沢智治

    田沢智治君 厚生大臣。
  23. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) 移植医療については、国民の理解、そして信頼を確保していくということは大変重要だと思っておりますので、今後移植分野における情報についてはできるだけ公開していくという方向で努力をしていきたい。御趣旨については賛成であります。
  24. 竹村泰子

    委員以外の議員(竹村泰子君) 田沢先生のおっしゃるとおり、まことに重大なことでございますし、私どもがお聞きしている限りにおいても現況といたしまして憂うべき事例も幾つかございます。ですから私どもは、政府の施策についてということで厚生大臣今お答えになりましたけれども、本当に厚生省、厚生大臣の責任は非常に大であるというふうに思っております。当然国会への年次報告はあってしかるべき、ぜひそうあってほしいというふうに考えております。
  25. 田沢智治

    田沢智治君 厚生省。
  26. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) 田沢先生の御質問の中にありました臓器の公平公正な配分というお話でございますが、中山先生からも今お答えがありましたように、私どもとしても国民の貴重な臓器を本当に公平適正に分けることが大変大切ということで、同様に考えております。  そして、現在は腎臓につきましては腎臓移植ネットワークというものを平成七年の四月からオープンさせまして、ここにおいて全国統一的に白血球の血液のタイプ別だとか、そういうことをきちっと見て、そして分けておるところでございます。  心臓、肝臓についてはこういうネットワークがまだできていないわけでございます。中山先生はここについて大変御心配をいただいたわけでございますが、我々としてはここを何とかきちっと整備して、そして国民の期待にこたえる、国民が安心して臓器提供いただけるようなシステムづくりをやらなくちゃいけないと思っております。現在、腎臓移植ネットワークというものがありますので、それを活用し、それを基盤として多臓器ネットワークの整備に向けて全力を挙げてまいりたい、このように思っております。
  27. 山崎順子

    山崎順子君 平成会の円より子こと山崎順子でございます。  私は、脳死を人の死と定義していいのかということに大変疑問を持っておりまして、またそれをこういう立法府で決めなければいけないことにかなり危機感を持っております。  そうした立場からきょうまた御質問させていただきたいんですけれども、まず、なぜ脳死を人の死と定義してはならないと思っているかと申しますと、私たちは、脳機能の全体がまだ完全には知られていないし、完全な測定もできていないと思っているからでございます。脳の機能というものは解明し尽くされていませんし、基本的な諸感覚までを脳死状態である人が完全に失っているかどうか、これも解明できていないと思います。また、脳死者には意識がないと決めつけることもできませんし、人の生命を脳の機能の問題に還元してしまうことも誤りではないかと考えております。  そしてまた、近親者により生きている人として認識されているときには、たとえ医者がその人は脳死だと言っても、そこには社会的コンテクストにおける個人が存在しておりまして、やはり脳死を人の死とは認めてはいけないのではないか。また、死んでいるかどうか疑わしい場合、そうした者は生きているとして保護するのが原則ではないかと考えております。  そういった意味で、中山案と同じ脳死した人ということであるとしても、脳死状態という形でその人は生きているとして考えるという猪熊案に賛成して今まで何度も質問をさせていただきました。そして、きょう総括質疑ということになりまして、いずれの法案が通るにしましても詰め切れていない部分がかなりあるのではないかということを心配いたしまして、きょう幾つか質問をさせていただきます。  まず、中山案の提出者にお伺いしたいのですけれども、もし脳死判定をしますとその時点で死亡宣告がなされるのか。その場合に、臓器提供者臓器提供してもいいという善意意思のある方、またその意思のない方の場合では違ってくるのか、そのあたりについてお伺いしたいと思います。
  28. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) 山崎議員の質問にお答えいたします。  まず、脳死判定臓器提供を予定しない場合についても家族同意が得られれば行われるものでありますので、臓器提供とは関係のない一般的な脳死判定につきましては、一般的に認められている医学的知見であるいわゆる竹内基準により判定されると思います。その場合、死亡宣告の時刻は、第二回目の判定を行い判定項目のすべてを満たしたことを確認したときになるものと承知いたしております。
  29. 山崎順子

    山崎順子君 ちょっとわからないんですが、臓器提供者家族同意があればそこで脳死判定をして死亡宣告が出ますね。そうすると、意思のない方の場合は死亡宣告はいつになりますか。もう一度そこだけお答えください。
  30. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) 医療の現場におきまして治療行為、診療行為の一環としてお医者様から家族説明がなされまして、そこでインフォームド・コンセントをなされまして、きちんとした上で判定が行われますとすると、第一回目が済みまして第二回目の判定後、すべての項目を満たした状態、満たした時刻に死亡宣告がなされると思います。
  31. 山崎順子

    山崎順子君 まだちょっと御説明がわからないんです、はっきりどの時点とどの時点という。臓器提供者提供者じゃない人、提供者家族同意ができている場合とできていない場合、こう三つあるとしたら、それぞれの死亡宣告時は一緒なのか違うのかだけ答えてください。
  32. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) それぞれの死亡宣告がなされる時期は、基準といいますか、一つだと、一緒だと思います。
  33. 山崎順子

    山崎順子君 死亡宣告脳死判定された時点で同じだと解釈してよろしいわけですね。わかりました。  そして、もう一つは、脳死判定というのは全国のどの病院でもできるものなんでしょうか。
  34. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) 基本的には脳死判定は救急医療の現場で行い得ると考えますが、脳死判定につきまして、特に、例えば脳血管障害や頭部外傷などの患者が搬送される大学病院、救命救急センターなどにおいて行われております。  また、法案成立後の運用事項を取りまとめた臓器提供手続に関するワーキング・グループによる指針骨子案におきましては、臓器提供につながる脳死判定を行う施設として、当面、大学附属病院、救命救急センターなどの施設に特定する考え方が示されております。
  35. 山崎順子

    山崎順子君 そうしますと、できない場合もあり得ると考えてよろしいわけですね。そうすると、できないときの死亡宣告はいつになりますか。
  36. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) できないケースになりますと、脳死判定をしないということになりますので、心臓死、いわゆる三徴候死によるものと考えられます。
  37. 山崎順子

    山崎順子君 つまり、死亡宣告時が変わってくるということがあり得るわけですね。今の確認です。
  38. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) 医療現場でお医者様の判断によりまして脳死判定ができる場所では脳死判定、確かにできない場所では三徴候死による判定でございますが、どちらも死亡宣告を行います基準としては妥当であると考えますので、死亡宣告としては妥当だと思います。
  39. 山崎順子

    山崎順子君 つまり、人の死に三徴候死で死亡時刻が決まる人と脳死判定で決まる人と二つあるようになるわけですけれども、こうした場合、法的紛争発生の危険性があると何度も中央公聴会地方公聴会でも指摘されておりますけれども、これはどのようになさるんでしょうか。
  40. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) 確認のためにあえて申しますが、まず本法案は一般的に人の死の判定について規定しておるものではないということを……
  41. 山崎順子

    山崎順子君 そこだけで結構です。時間がなくなりますので、どうなのか、決めていらっしゃるかどうか。
  42. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) 人の死につきましては個体としての有機的統合性が失われた状態とするのが主流の考え方でありますので、従来の心臓死と脳死はこの統合性が失われたことの判定がどのような基準によって行われるかという問題であって、人の死が二つあるというものではございません。  また、脳死判定臓器提供が行われるか否かにかかわらず医師が客観的に医学的見地から行うものと理解しており、いわゆる竹内基準に従って適切に判定が行われる限り法的紛争発生の危険があるということにはならないものと考えております。
  43. 山崎順子

    山崎順子君 先ほどのお答えで二つ、三徴候死の場合とそれから脳死判定の場合とで別になるというふうにおっしゃっていますし、実際そういった危険性はあると思いますので、このあたりの法的紛争発生の危険も出てきます。ですから、ここは詰めなければいけないところだと思います。  それで、この点は何度御質問してもいつも同じ、ちょっとずらしたお答えしかいただけていませんので、ぜひともこの辺は、いずれの法案が通るにしてもきちんと第一に詰めておかなければいけない点ではないかと指摘しておきます。  次に、猪熊案提案者にお伺いしたいのですけれども、脳死を人の死とすると治療はすべて打ち切るということになります。脳死状態の人の治療はどうあるべきか。これは先ほど、打ち切るというのはもちろん医療機関によって違うかもしれませんけれども、原則そうなるということで、そうしますと脳死状態の人の治療はどうあるべきか、それを考えて脳死を人の死としない案を猪熊案の提出者は出されたと思うんですけれども、これまでの国会審議で、治療打ち切りのために脳死判定をすることの是非というものがどうも十分議論されてこなかったのではないか。そのあたりがまだあいまいで、ここら辺も詰めなきゃいけない部分ではないかと思うんですが、いかがでしょうか。
  44. 大脇雅子

    大脇雅子君 おっしゃるとおりであると思います。脳死というのは、医学上、治療打ち切りをするかどうかという問題としてむしろ議論をされてきたという欧米の経過がございまして、臓器移植との関連で議論をするよりも前に、脳死と治療打ち切りの問題というのが重要な論点だと私も考えております。  死というのは、本人意思とそれを受容する家族の態度ということがありまして、治療はすべて脳死判定のときに打ち切るかどうかという問題は、医療機関とそうした家族の問題、それから尊厳死の問題にかかわってくることだと思っております。そういう意味で、その議論というのはまだ尽くされていないというふうに考えます。
  45. 山崎順子

    山崎順子君 これは六月十四日の新聞記事で、土、日だったものですから、私まだ病院の方に確認のお電話等ができていないんですけれども、東京都小平市の公立昭和病院のお話、皆さんも多分御存じだと思います。  これは三十代の男性の患者さんで、ぜんそくの発作から心臓停止に陥ったそうなんですが、さまざま蘇生の医療を尽くしたけれども、脳死に残念ながら陥られて、竹内基準に沿って脳死判定を実施なさった。その結果、人工呼吸器をとめて自発的な呼吸をしていないことを確かめる無呼吸テストを初め、すべての項目で基準を満たしたので脳死判定された患者さんがいらっしゃるんです。その後も人工呼吸器などの医療を続け、三日後に呼吸促進剤を注射してから再度呼吸器を停止する無呼吸テストを実施しましたところ、ごく弱いながら自発的な呼吸が見られた。それで、テストを中止し、再び人工呼吸器を装着された患者さんは二回目のテストの六日後に死亡なさったという記事なんですね。  そこで、ここの救命救急センターの長である坂本さんというお医者様はこういうふうにおっしゃっているんです。竹内基準が不十分だとは思わないが、慢性の呼吸不全の患者判定の対象から外すべきだろうと。  私、先ほど最初に、脳死状態の人が完全にすべての感覚もなくなっているかどうかとか、それから本当に脳機能がすべて解明されているわけではないとかということも申しましたけれども、こういったケースがやはり今後もどんどん出てくる可能性もありますし、また低体温療法などでも、今のところはもちろん脳死の人が生き返る見込みはないと林先生もおっしゃってはいますけれども、脳の解明というのがこれからどういうふうになっていくか本当にわからない状況の中で脳死を人の死とすることは大変危険ではないかという気がするんですね。  そこで、ドイツではエルランゲン事件というのがございました。これは、脳死判定された女性から臓器摘出しようとしたところ妊婦であることがわかりまして、慌てて出産させようとしたんですが、結局残念ながら死産に終わってしまったという事件で、これはドイツの一般の人々に大変ショックを与えて、最近では臓器摘出が激減している、また移植側のお医者様たちも大変慎重になったという事情があるらしいんです。  先ほどのぜんそくの患者さんの事件にしろ妊婦にしろ、竹内基準判定の対象から外すということも、いろいろこれからほかにも考えなきゃいけない点があるのではないか。もしいずれかの法案が通ってしまいますと、この辺何も考えないでやってしまうということは大変危険だなという気がしまして、先日視察に行きました日本医科大の救命救急センターでも、その大学を含めてほかにも我が国では三大学、つまり合計四つの大学で妊婦は判定基準の対象から外しているというふうにお聞きしました。  そういった点も含めて、基準を見直すということ、また対象から外すということ、もう一度きちんと精査した方がいいと思うんですが、いかがでしょうか。
  46. 堂本暁子

    委員以外の議員(堂本暁子君) 妊婦の場合に出産をしたケースもあったようですし、そしてエルランゲン事件の場合は逆に死産になったということで、女性の体というのは産む性でございますから、いやが上にも非常に慎重でなければいけないというふうに思います。しかし、妊娠している女性だけなのでしょうか。ドイツで激減したという事実は、やはり脳死判定そして臓器移植の抱えている矛盾が吹き出したことではないかというふうに思います。  先日、柳田邦男さんが脳死狩りという言葉をお使いになったのに私は大変ショックを受けました。そういったことにならないように、先ほど田沢先生の質問のときに、ドクターたち生体からは移植ができない、なぜならば訴訟が起きるからというふうにおっしゃいましたけれども、それはドクターの立場だけではなくて、ドナーレシピエント、それからやはり第三者の立場もございます。胎児もその一人だと思うんですけれども、そういった中でいやが上にも慎重でなければいけない。したがって、妊産婦については当然外すべきだ、しかし妊産婦だけではなくて妊産婦と同じだけの慎重さがすべての人に必要だろうというふうに思います。
  47. 山崎順子

    山崎順子君 今のお答えの中で、臓器移植はさまざまな矛盾をはらんでいるというふうにおっしゃいました。多分その最大の矛盾は、医療というものは臓器提供を迫られるような状態になる人の範囲を小さくすることを目指しているんだと思いますけれども、移植医療は臓器提供者が出現することを求めているわけです。前者は死に行く人がなるべく少なくなることを目指し、そして後者は逆に死に行く人が少しでも多く出現することを要請するという本当に矛盾した医療になるんだと思います。  そうすると、こういったような傾向が進めば、なるべく死と判定することを要求されるばかりか、さらに実験目的での臓器移植臓器売買などを大規模に引き起こす危険性もあります。もちろん私は医療関係者や多くの人々の善意を信じたいし、良識を信じたいと思いますけれども、法律できちんとこういったことを決めるからには細部まで詰めておかないとどういう危険があるかわからないという気がするんですね。  それから、猪熊案提出者とまた厚生大臣にもお伺いしたいんですけれども、尊厳死や安楽死、今そういった終末期医療については、私たち日本では十分な議論もされず満足な体制づくりもまだないと思いますので、そういった中で治療打ち切りが早まるかもしれないこの法案が通ることは大変重要な問題を含んでいると思うんです。  そうしたときに、いずれかの法案がもしきょうなりあしたなり成立してしまうとすれば、今後施行までの間に外部の人も入れて第三者機関みたいなものをつくって、先ほどの民法上の紛争が起きないようにするためであるとか、また末期医療の中でどういうふうに人の治療はあるべきかとか、治療の打ち切りについてはどうあるべきか、またドナーカードについて、それからインフォームド・コンセントとか、ドナー家族のケアについてもきちんとしっかり詰めていかなきゃいけないのじゃないかと思うんですね。  先週の金曜日にシンポジウムがあって私も出席させていただいたんですが、そこで大変ショッキングな話を伺いました。アメリカで息子さんが突然脳死判定をされ臓器等を提供した方のお父様でいらっしゃいましたけれども、心臓、肺臓、肝臓、腎臓、そういったものだけじゃなくて、手足の骨六十何本も提供なさったということで、それは臓器摘出の後で知ったとおっしゃったんですね。それで、アメリカではきちんと書面にもして、インフォームド・コンセントもドナー家族にきちんと説得をして、説得というよりも説明もして行われたはずなのにどうしてだろうと思って私は質問させていただきました。そうしましたら、ちゃんと書面にトータルボディーと、それを全部提供すると書いてあって、そこでオーケーしたにもかかわらず、やはりパニックになっていたからそのことに気づかなかったとおっしゃったんですね。  脳死になる方というのは、本当にその二、三日前まで大体お元気な方で、そして事故とかで脳死判定されざるを得ない状況に陥られるわけですから、普通の死の場合でも家族がパニックになるのは当たり前ですが、ますますそのパニック状態はひどいと思うんです。そういったときに臓器提供ということはやはり相当なショックで、善意で息子がオーケーしていたんだからということであっても後にさまざまな思いが残るだろうと思います。  その方は、六十何本の手足の骨がほかの方の中で生きたんだから息子の死はむだでなかったと、もちろん家族はそう思わざるを得ませんね。そう思って言っていらっしゃいましたけれども、私はその晩夢でうなされてしまいました。  そういうような思い皆さんにあるとしたら、これはドナー家族にも、またこれからドナーカードをつくろうとか臓器提供善意でしようという方にも、脳死の問題、臓器移植の問題をきちんとお話をし、説明をこれからどんどんしていかなきゃいけないでしょうし、そういった点も含めて今後どういう機関をつくり、どういう詰めをしていかなければいけないか、またどういった人がそういった機関の中に入った方がいいのか、そのあたりを猪熊案提案者と厚生大臣にお聞きしたいんです。  それから、私はできればもう少し審議をしたらよかったと思うんですが、でもこの問題は多分どんなに審議し尽くしてもなかなか難しい問題かもしれませんから、もしこの法案が成立したとしましても、施行までに三カ月というのは少し早過ぎるかなという気がいたしまして、この期間も含めてもう少し延ばすことがいいのではないか。もし御意見がありましたら、大臣と猪熊案提出者と両方にお答えいただければ幸いです。よろしくお願いします。
  48. 竹村泰子

    委員以外の議員(竹村泰子君) お答えいたします。  法案の成立後、第三者機関をつくり厚生省と協力して施行がスムーズにいくようにすべきだと、まことにそのとおりでございまして、私どもも第三者機関をつくり、そしてコーディネーターあるいはインフォームド・コンセントの問題など、本当にしっかりと充実したものをつくっていかなければならないというふうに考えております。  それから、三カ月で施行というのは、確かに果たして三カ月で充実したものがつくれるのだろうかという一抹の不安もございますが、私どもも移植を待つ患者さんとの関係では早期施行の必要があるということ、それからまた本法を実施するために必要な政省令、通知等を準備するための期間として、また周知させるための期間として少なくとも三カ月は必要と考えたからでございまして、一応の期間としております。  私どもはこれまでに厚生委員会その他でインフォームド・コンセントあるいは患者の権利の問題を追求してまいりましたが、そういった法律の上でも施行の上でもまだまだそこに至っていないという感がございますので、これはよほどしっかりと厚生省に頑張ってもらわなければならないというふうに考えます。
  49. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) ことしの三月に公衆衛生審議会の中に臓器移植専門委員会を設置しておりまして、この専門委員会には移植医、救急医、法律家、ジャーナリスト等の幅広い分野から委員が選任されております。  法案成立後三カ月ということでありますが、この法案が成立しましたら、広く各界各層の意見を集約していくことも大変重要だと思っておりますし、臓器移植が円滑に実施されるように、その環境整備に厚生省としても全力を尽くしていきたいと思っております。
  50. 山崎順子

    山崎順子君 私は、厚生省には本当に仕事に一生懸命なまじめで優秀な方たちもいらっしゃると知っておりますけれども、残念ながら薬害エイズや岡光問題を起こした厚生省に国民の不信感というのはかなり強いものがございます。ですから、その委員会でも情報公開をし、透明で公正な審議を詰めて、国民方々が納得いくような形にぜひしていただきたいと思います。  そして、その委員会には宗教関係者とかそういった方たちはいらっしゃるんでしょうか。それと、三カ月でとおっしゃった、ぜひもう少し施行時期を延ばしていただきたいと思うんですが、その辺は多分国会の方の範囲の話だと思いますが、厚生大臣は三カ月で十分だと思われますでしょうか。
  51. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) 国会委員会で決められたことに従って、最大限の努力をしていきたいと思います。
  52. 山崎順子

    山崎順子君 終わります。ありがとうございました。
  53. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 社会民主党・護憲連合の照屋寛徳でございます。  当委員会における私の質疑も、地方公聴会、中央公聴会を含めまして今回で五回目でございます。臓器移植に関する法律案中山案、また猪熊案、いずれも大変重要な法案でございまして、もっともっと十二分な審議を尽くすべきであるという思いは今でも持っておるわけであります。いよいよ総括質疑になりましたが、私は最初に、猪熊案の発議者の皆さんにお伺いをさせていただきたいと思います。  地方公聴会、中央公聴会を通して、刑法学者あるいは民法学者、いわゆる法律専門家の間から、本来人間の死は統一的であるべきだという考えのもとに、どうしても中山案や、あるいはまたこれから審議が予定されております中山案に対する修正案では、二元説というか、死の統一的な定義という点では、死にかかわるたくさんの法律との関係で法的な不安定あるいは法的公平を欠くのではないか、こういう強い批判がございました。私もそういうふうに考えるわけであります。  一方で、地方公聴会、これは新潟でございますが、金沢大学法学部教授の民法の御専門の深谷公述人から、猪熊案に対して次のような疑問が提起をされました。すなわち、人の死は法的主体性あるいは権利能力、基本的人権の主体性としての権利能力の終えんであると。猪熊案によると、死体ではなく脳死状態にある者からの臓器移植を認めるということが前提でありますが、そうすると、すべての人間にひとしく法的主体性を認める近代社会の法原理に反するのではないか、こういう御批判がございました。そのことについて猪熊案の発議者はどのように考えておられるのか。  なお、深谷先生も、中山案あるいは中山案に対する修正案によると、例えば子供のいない夫婦双方が脳死状態になった場合に、相続その他の面で法的な不安定、矛盾が生ずる、こういう指摘もしておられました。そのことも踏まえた上で、先ほど申し上げた法的主体性を認める近代社会の法原理に反するのではないかという公述人の批判について、猪熊案の発議者はどのように考えておられるか、お聞かせください。
  54. 大脇雅子

    大脇雅子君 当然、憲法の保障する基本的人権の享有主体であるというふうに脳死状態にある者を考えるというのが私どもの法案の根底であります。法的主体性を認める近代社会の法原理という意味では、脳死状態にある者もまさに法的主体性を持つ者というふうに考えているわけであります。  ただ、本人自己決定といいますか、みずからの死に対する本人意思ということを人間尊厳として尊重する立場から、そういう場合には違法性を阻却するというふうに考えるということでありまして、法的主体性を認める近代社会の法原理に脳死死体とみなさなければ反するということは論理的につながらないのではないかというふうに考えました。
  55. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 全国交通事故遺族の会という方々から私ども特別委員会委員のところにも要請書が届いておりました。  主要な臓器の供給源というんでしょうか、これは交通事故による被害者の方が六割とも七割とも言われておるわけでありますが、これら被害者遺族をもって組織する全国交通事故遺族の会が、この法案が通れば救命医療の整備にブレーキをかけ、脳挫傷などの治療法の開発を放棄することにつながるのではないか、こういうふうな指摘をしておるわけであります。  これは恐らく中山案猪熊案両案、すなわち臓器移植に関する法律そのものに対する強い批判ではないかな、こういうふうに思うわけでありますが、通告をいたしました関係で、まずこの御指摘に猪熊案の発議者はどのようにお考えか、お聞かせください。
  56. 大脇雅子

    大脇雅子君 確かに、御指摘のとおりの懸念というものは存在すると思います。私どもでは、本人意思家族意思というものをすべての関係者が確認、調査するという義務を設定いたしまして、こうした場合の治療の放棄というものに対して、その手だてを講じようとしておるものであります。
  57. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 中山案の発議者の方にお伺いをさせていただきたいと思います。  これまた地方公聴会で、刑法の御専門であられます中山研一公述人から御指摘があった点でありますが、最近、アメリカやドイツでも脳死一元説に対する疑問が出始めており、決して不動の前提ではないことが認識されつつある、こういう御指摘がございました。同様な指摘は、中央公聴会でも公述人からございました。またドイツで、脳死状態の女性の死産をめぐって脳死一元説に対する国民的な世論が起こっている。こういうことについては、先ほども同僚議員の御質問がございましたが、この中山公述人の指摘を中山案の発議者の方々はどのように考えておられるのでしょうか。
  58. 五島正規

    衆議院議員(五島正規君) お答えいたします。  脳死に至るまでのいわゆる蘇生限界点については、救急救命医療の大きな成果の中で非常に大きく拡大している、そのことによって非常に大きな恩恵を国民が受けているというふうに考えております。しかしながら、死というものが循環機能、呼吸機能の不可逆的な停止、通常の場合は、それに引き続きまして脳幹を含む全脳の機能の不可逆的な停止ということによって死が成立するわけでございますが、脳死という形で、人工呼吸器の開発等々によりまして呼吸機能あるいは循環機能の停止が人工的に維持されている段階において脳死が先行する、この二つの基準によって死が決定されるというのは、やはり医学界においては確たるものだろうというふうに思っています。  しかしながら、先生今御指摘のように、例えば循環系が維持され一定の条件がそろっている場合、生存可能な胎齢に達している妊産婦の場合、その子供に対して考えた場合、無呼吸テスト等々を行うことは胎児の生命に危険を来します。したがいまして、私個人といたしましても、やはり生存可能な二十二、三週間に達している胎児があると診断された段階においては、無呼吸テストをする前に、その胎児の生存に対する措置を最大限優先すべきことは言うまでもないことだというふうに考えております。
  59. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 厚生大臣がお見えでございますので、一、二点質疑をさせていただきたいと思います。  これは前回、厚生省の方からは考え方を聞きましたけれども、直接大臣のお考えをと思って質問させていただくわけであります。臓器移植というのはあくまでも過渡期の医療なんだ、だから国は人工臓器の開発あるいは内科的、外科的な医療技術の発展向上に力を尽くすべきである、こういう意見がございます。  そこで、そのことについてまず大臣の御所見をお伺いしたいことと、加えて我が国の人工臓器開発の現状と将来の展望というか、そのことについて大臣のお考えをお示し願いたいと思います。
  60. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) 人工臓器の開発の現状は、厚生省の方では国立病院特別会計の中で循環機能研究費というのをとっておりまして、そこで研究を進めておるところでございます。現に人工臓器などでは一時補完といいまして、永久的に使えるような心臓ではございませんけれども、一時的に緊急避難でつけられるような心臓までは開発が進んでおるところでございます。ただ、まだ長くずっと、人間移植されるべき心臓と比較するとまだ長期使用というところまで行けないような状況でございます。なお、今後とも人工臓器の開発については一生懸命努力してまいりたいと思っております。
  61. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 さて、中山案それから猪熊案、あるいはまたこれから審議をする修正案、いずれかの法案が成立をした後、これらの法案がゆだねております厚生省令の作成に当たっては、私はやはり広く各界各層の専門家の英知を結集すべきだというふうに考えております。  本当に脳死を人の死とするかどうか、あるいはまた現に臓器移植を待ち望んでおられる多くの方々思いをどう医療の現場で実現していくのか、たくさんの問題をはらんでおるわけであります。  私は、繰り返しになりますけれども、いずれの案が通りましても、この厚生省令の作成に当たっては、本当に国民が信頼を置ける、そういうふうな内容にしていただきたいということを強く要望申し上げまして、質問を終わります。
  62. 千葉景子

    千葉景子君 前回に続きまして、限られた時間でございますので、総括的な観点から何点か御質問させていただきたいと思います。  臓器移植に関する問題、この委員会全体としても、それから中山案提案者皆さん、そして猪熊案提案者皆さん、今それぞれ医療技術の進歩によって臓器移植が日常の医療の中にも定着してきている、そしてその技術を何とか生かして臓器提供を受けたいと待ち望んでいらっしゃる、そういう皆さんもたくさんおいででございます。そして、それにこたえたい、みずからもいざというときには臓器提供を進んでしたい、こう考える方もおいででございます。  そういう状況の中で、本当に私たちはどういう形でそれぞれの一人一人の自己決定なりあるいは本当に心からの願いを受けとめていくか、そしてそれにこたえていくか、これが今回のこの審議の本当に根底であろうというふうに思っているところでございます。  ただ、私は、それの一番今重要な問題点というのは、医療が本当に信頼を得、そしてそれぞれが本当に心から自分の意思を決定できる、そういう条件がなければ、やっぱりこれは法律ができても制度ができても本当の意味での信頼ある臓器移植というものが進んでいかないだろう、こういうふうに考えているところでございます。  そういう意味で、改めて基本的なことではありますけれども、中山案提案者の方にお尋ねをしておきたいというふうに思います。  今申し上げたように、臓器移植を考えるに当たって最も基本となるというのは、決して皆さんがそうとは言いませんけれども、やはり改めて医師倫理の確立、そしてインフォームド・コンセントをきちんと徹底していく、こういうことではないだろうか。それが今まず第一に求められているような気がいたします。  そういう意味で、提案者の方にとって、これについてどうお考えなのか、そして、それを今回の法案の中ではどのように配慮あるいは考慮されているのか、また、医療現場でもこれらの問題点を決定していく上でどのような方策が必要だとお考えであるのか、その点について総括的に御見解をお聞きしたいと思います。
  63. 五島正規

    衆議院議員(五島正規君) 先生御指摘のように、臓器移植を行う上におきましては、医師倫理の確立とインフォームド・コンセントの徹底ということは非常に重要であるというふうに私どもも考えております。その上に立ちまして、さらにこの医師倫理という問題につきまして、当然個々の医師倫理観の向上という問題とあわせまして、やはりシステムの問題というものがあるだろうというふうに思っています。  今回、私どもはこの臓器移植につきましても、一つは、一つの同一医療機関の中において臓器提供移植が同時に行われる等々の、そういう不透明感がないように、いわゆるネットワーク組織を通じて緊急性の高いレシピエントの方に臓器を配分していく。そして、配分を受ける医療機関については、さまざまな法的あるいは倫理的な問題についてそれがクリアしているところでないとだめだという形で規制をしているところでございます。  さらには、今回の法律に基づきまして臓器移植を行うにつきましては、脳死及び臓器移植に関する記録の保存義務を医師に課しているとともに、その記録については、ドナーレシピエント相互のプライバシーに配慮しつつも、閲覧が可能であるというふうにしているところでございます。  また、医者の責務として、レシピエントまたその家族に対して十分なインフォームド・コンセント、説明同意を得た上でそれをやらなければならないとしているところでございます。一方、このドナー方々に対しては、説明同意の以前として、御本人の自発的な意思としてこの臓器提供ということが存在するということが前提でございます。  さらにその上に加えまして、脳死判定に当たりましては、御家族の方に対し、その一定脳死判定そのものが、まだ脳死の判断がついていない極めて重篤な状態にあると推定される患者さんに対して、一定の侵襲性が存在することを含めて十分な説明と、その上の合意前提として脳死判定を行うということになっております。そして、その結果に基づいて御家族説明をするということになっておりまして、さらにその上で、脳死判定された御遺族の方の同意によって臓器摘出ができるということになっていることについては御案内のとおりでございます。  そうした一連の措置によって、先生御指摘のこの医の倫理の確立とそれからインフォームド・コンセントという問題については十分に担保できるものというふうに考えております。
  64. 千葉景子

    千葉景子君 今御説明をいただきましたが、それは当然のことであろうというふうに私も思います。そして、やはり基本的な理念として、私たちは改めてこの医の倫理、そしてインフォームド・コンセント、これがこの審議の基本にあるべきだということをそれぞれまず認識しておかなければいけない、こう考えます。  さて、この法案がもし成立をするということになりましたときに、私は、これが本当に臓器移植の進展あるいは脳死状態からの移植というものを少しでもふやしていく、そういう効果というものが本当にあるのだろうか、そこは非常に疑問を感じているところでございます。もしこれが、臓器移植をあるいは脳死状態からの心臓移植などをふやしていこうということに急な余り、今お話があったような本当に自発的な意思やあるいはそういうものを無視して死を急がせてしまうというようなことになっては困るわけです。しかし反面、やはり法案に基づいて、でき得る限りその自己決定に基づくそういう善意を本当に生かしていく、こういうことも考えなければならないだろうというふうに思っています。  しかし、これが適用できるということになりますと、突然の死であったりあるいは本当に不慮の事故であったりする。そうすると、本当にそういう皆さんがこの法律ができたから事前にどんどん登録をなさるだろうか、こういうことも疑問でございます。そういう意味では、この法案ということとは別に、真の善意やあるいはそれから医療の進展に寄与できるようなそういう社会合意みたいなものが形成される、これが逆に言えば一番重要なのではないかというふうに思います。  ですから、この法案によってそんなに急に臓器移植が進むなぞということはとても考えられない、大変時間がかかる問題であろうかというふうに思うんですけれども、中山案提案者皆さんはその点についてはどんな認識のもとにこの法案を御提案になられたのか、その点改めて確認をさせていただきたいと思います。
  65. 五島正規

    衆議院議員(五島正規君) まさに先生の御指摘される状況が存在するのではないかという心配は私どもも持っております。  この問題につきましては、脳死というものが医学的、科学的には死の世界に入った存在であるということを理解していたとしても、やはり先ほどから御指摘もございますように、肉親の死というものに直面した御遺族の方のそういう心の乱れのようなものは当然存在するわけでございます。  そういう状況の中におきまして、このドナー方々がふえていただくためには、やはりドナーカードという形を含めまして、御本人自身の積極的なそういう意思の表明というものが事前に存在しない限りは非常に難しい問題があるだろうというふうに思っています。そういう意味では、一例でも多く臓器提供が行えるようドナーカードの普及あるいは啓蒙というものが一層進められる必要があるだろうというふうに思っています。  加えまして、臓器移植が行われる場合に、その手術そのものがどのように成功し、そして社会的にそのことによって助かる患者さんの存在というものを見ることによって、やはり国民の中にこの問題というのは広がっていくということがあるんだろうと思います。そのことを期待しているところでございます。  そして、その過程の中で、先生御指摘のように、一例でも倫理の問題やそうした問題に欠けるような状況が万一医学界に起こるとするならば、我が国におけるこうした分野における医療というのは非常に悲劇的な結果になるだろう。そういうことが絶対起こらないように、医療界においても細心の注意をして実際に動くというふうに確信している次第でございます。
  66. 千葉景子

    千葉景子君 余り時間がございませんので、まだ何点かお聞きしたいんですけれども、一点お聞かせいただきたいと思います。  先ほどから指摘がございますように、この臓器移植という問題は、その提供する御本人自己意思、これが一番重要な点ではございますけれども、やはり人間というのはその最期を迎えるに当たって、家族あるいは近親の者あるいは本当に一番心を通じ合った友人というんでしょうか、そういう者との関係、こういうものを抜きにしては語れないだろうというふうに思います。  この臓器移植に関しても、その家族や近親者についてお触れをいただいているわけでございますけれども、一体その家族や近親者あるいはそれにかかわりを持つ人たちについてはどういう位置づけといいましょうか、どんなふうに考えておられるのか。  それは、例えば家族と言ったときの範囲もございます。あるいは家族以外でも非常にその死というものについて一番深く心にとめている、そういう親族という範疇では語れない者もあるかもしれない。あるいは、家族と言っても、法律的に家族ではないけれども、事実上本当に共同の生活などをして、事実上は家族であるというような者もいるかもしれない。また、それらの意思の確認というのも、非常にこういう急なときに、あるいはまた混乱をした中で、先ほども指摘がありましたように、非常に難しい部分もあるだろうというふうに思います。  これらの点について、この法案の中で記載はございますけれども、今幾つか指摘させていただいたような点についてはどんなふうにお考えでしょうか、お聞かせをいただきたいと思います。
  67. 五島正規

    衆議院議員(五島正規君) その御遺族あるいは家族、近親者という範囲の中においては非常にさまざまな状態があると思います。通常は、先生も御指摘になりましたように、喪主ないし祭祀主宰者という方がそうした御遺族の総意を取りまとめていただくということになるかと思います。  ただ、現実問題といたしまして、例えば御本人の生前の意思のない病理解剖の場合には、確かに先生御指摘のような問題の混乱がその現場において起こることが存在する。一方、御本人のあらかじめの承諾がある遺体の献体に関しては、そういうふうな混乱がその方の御葬儀の際に起こるということは余り経験しないという点からも、やはり御本人自身のそういう意思というものを生前の段階でできるだけ身近な方々にお知らせになっておられるということが、こうした問題がスムーズにいく範囲であり、そのことの範囲法律で云々ということはなじまないものだろうというふうに考えております。
  68. 千葉景子

    千葉景子君 まだそのほかにも、先ほどの御議論でも私もなかなかわからない法的な適用の問題などございますけれども、時間が参りましたので、同僚議員の質問にゆだねることにして、私は終わらせていただきます。  ありがとうございました。
  69. 橋本敦

    橋本敦君 私は、基本的な問題は、脳死を人の死とするということについて社会的合意があるかどうか、とりわけそれを法律で規定するということについて国民考え方にはいろいろ多様な意見があるという、こういう問題をあえて国会の多数で決めて、これをいわば一般的規範を持つ法として国民に押しつけることが許されるかどうか、こういう依然として重大な問題があると思います。その点で、まだまだ多くの課題も含めて、こういった問題について議論を尽くさねばならぬと考えているのでありますが、残念ながらきょうは総括的な質疑ということになってしまいました。  国民脳死を人の死であると、こう認識しているかどうか、これを知る一つの方法としては、マスメディアの発達した今日、世論調査の方法というのが重要な指標であります。この点について言えば、多くの議論がなされましたが、衆議院法案が成立をした直後の朝日新聞の世論調査では、御存じのとおり、脳死を人の死と認める者が四〇%ということで、従来より低下をする傾向があります。  もう一つ大事なのは、高度に専門的な医学的所見にかかわるこの問題で、我が国医学界が全体として意思統一ができているのか、見解が統一できているのか、こういう問題であります。  こういった諸条件がそろって、そして必要ならば法を制定するということに進むのであれば、それは法の持つ一般的規範性を保つ社会的条件がつくられるのでありますが、そこに大きな問題があるわけですね。  例えば、公述人の中でも、移植を進めようという立場に立って公述をなさった移植学会等にかかわりのある公述人は、これは当然肯定的な意見を述べられました。しかし、救命救急医療というその先端で努力していらっしゃる立場医師からは、それには疑問が呈せられております。  例えば、低体温療法を進めておられる林教授は、「法によって医学的死の限界を決めることは、我々患者を助ける医療人にとっては、非常になじみにくい、疑問が残る方法でもあると思っています。」、「患者を治すという医療の原点を守ることこそ次の世代に対する我々の任務ではないかというふうに考えています。」、こういう御指摘があります。だから、そういう意味では医学界の中でも意思が統一されていない状況であります。  厚生省の方に伺いたいのでありますが、脳死臨調以来今日まで医学界の動向を見ますと、移植学会は、これは推進する立場でありますが、精神神経学会はこれに対して、脳死判定をすることにより移植を進めることについては重大な疑問があるという見解を、早くも一九八八年六月に出している事実があります。  現在の日本医学界、特に脳死医療に関連をする関連医学界総体として、脳死を人の死とするということを法律で決めるということについて、果たして医学界としての統一的な見解があると見れるのかどうか、この点は厚生省はどうお考えでしょうか、端的に。
  70. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) 今、先生医学界に対する意見をおただしでございますが、日本救急医学会におかれましては脳死を死と認めるというふうに公式の見解が出ております。それから、先生がその次におっしゃられました精神神経学会では、先生のおっしゃられるとおり、脳死を死として認めることについては疑問を呈していらっしゃいます。それから、その他の関係医学会ではおおむね脳死を死と認めていらっしゃいます。  それから、一番大もとになります日本医師会でございますが、日本医師会では生命倫理懇談会を開いておりまして、昭和六十三年一月の段階で大脳及び脳幹を含む脳全体の機能の完全な喪失をもって個体の死とすることを提言したいと、このように述べられているところでございます。
  71. 橋本敦

    橋本敦君 それぞれの学会の意見がそういうことであることはいいんですが、日本医学界の総体として、この問題について完全な統一的合意があるのかということになれば、それは統一的な意見として責任ある意見が表明されたという経過、プロセスというものはないんですね。いかがですか。
  72. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) 日本の場合、各医学会すべてをまとめた日本全体の医学会というものはございません。あるのは、日本医師会の中に日本医学会というのがありまして、したがいまして日本医師会で学術関係者を全部集めてまとめられた、先ほど御説明しました生命倫理懇談会の御判断が日本医学界の判断と考えて私はよかろうかと思っています。
  73. 橋本敦

    橋本敦君 それは、あなたがそういう組織的な状況から解釈しているわけで、重要な異論があることはあなたもおっしゃったように精神神経学会を中心にあるわけですよ。  そこで、厚生大臣の御見解もお伺いしたいんですが、まさに国民の中にさまざまな議論がある、社会的合意があるということを前提として提案をなさった提案者中山先生も、国民の中にいろいろな議論があるのはそれは当然のことだということも率直におっしゃっているわけですね。  橋本首相は衆議院での採決に当たって、熟慮に熟慮を重ねた上、行政の最高の長としては、両案に対して総理としての立場である橋本首相が判断をするということについては棄権という態度をとるのが、これがやむを得ない措置だというように判断をされて棄権という態度をとられました。行政の長という立場で考えるということは、国民合意があるかどうかも含めて、今日の移植医療をどう進めるかということについてまだまだ検討を要するそういう問題が、行政の長として考慮すべき問題があるということをお考えになったと私は思うんですね。  そういう点から考えますと、私は、厚生省として責任を持ってこの問題について、果たして国民社会的合意があると、そういうふうに判断できる状況なのか、なお慎重に考慮しなきゃならぬ状況なのか、国会審議やあるいは国民各層の意見を考えた上で、現在、厚生大臣としてはどのようにお考えになっていらっしゃるか、伺いたいと思います。
  74. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) この臓器移植について、特に脳死を人の死とするかどうかについてはいろいろな議論があるからこそ本国会で慎重な審議が行われているんだと思います。  しかし、私としては、脳死臨調答申において、「脳死をもって「人の死」とすることについては概ね社会的に受容され合意されているといってよい」とされておりますし、関係学会、専門家の中でもこの考えが多数派を形成していると思います。世界各国でもおおむね受け入れられているということでありますし、臓器提供したいという方がいる、受け入れたいという方もいる、であるならば、私はその環境整備に厚生省としても力を尽くしてもいいのではないか、また沿うべきだと思いまして、私は中山案に賛成いたしました。  しかし、今後臓器移植についていかなる立法を行うのかについては、国会における議論を見守っていきたいと思います。
  75. 橋本敦

    橋本敦君 厚生大臣が中山案に賛成なさったということは私も知っておりますから、その理由を聞いたのではなく、厚生大臣として今の現状で、国会論議あるいは国民の動向を見きわめた上で、一体社会的合意があると自信を持って言えるのかどうか。まだまだ慎重に検討しなきゃならぬ、審議を深めなきゃならぬ、そういう問題があるというふうに私どもは言っているんです。そこの点について厚生省として、責任を持って大臣として物が言えるのかどうか、そこのところの認識を聞いたのです。その点については一番最後に、なお国会審議を見守って慎重に検討するというお話がありましたから、これで終わりたいと思います。  最後に、衆議院の法制局、お越しいただいていると思うんですが、確認です。  この前の答弁で衆議院法制局は、中山案については、これは脳死を人の死とするという社会的合意があることの確認的な規定の法律だということをおっしゃいました。されば、金田案はどうか。社会的合意がないということを前提としている法律でしょう。だから、衆議院の法制局がそのように答弁されたことは中山案の解釈としてであって、法制局自体は、社会的合意があるとかないとかを現在判断する、そういう条件もなければ資格もない、法解釈の問題ですから。そのおっしゃった答弁というのは、社会的合意があるという事実を認めたものではないということだけ確認したいと思いますが、どうですか。結論だけで結構です、趣旨をわかってもらったら。
  76. 福田孝雄

    衆議院法制局参事(福田孝雄君) 今のお尋ねでございますけれども、いわゆる中山案につきましては、脳死をもって人の死とすることについては社会的合意があるというお立場から提出されたものというふうに理解をしております。私どもといたしましては、合意があるかどうかということにつきましては、判断する立場にはございません。
  77. 橋本敦

    橋本敦君 金田案について。
  78. 福田孝雄

    衆議院法制局参事(福田孝雄君) なお、金田案につきましては、脳死を人の死とすることにつきましては社会的合意はないという前提に立って提出されたものというふうに理解をしております。
  79. 橋本敦

    橋本敦君 はい、それで結構です。終わります。
  80. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 私は、この中山案脳死を人の死とする脳死一元説に立ってつくられましたと説明されまして、たびたびの質問にもそういうふうに答えてこられた、こういう前提でおりまして、実は前回質問をいたしましたるところ、そうではないような答えがあったものですから、ちょっと驚いておるわけでございます。  前回の答弁の中で、この法律というのは臓器移植の手続を考え規定しているだけでありまして、ほかの法律刑法や民法で人の死をどう扱うかはそれぞれの法律で考えるべきことではないかと思う、こういう答弁であったように思います。先ほども山崎委員の質問に対してそういうお答えがやっぱりあったように思います。一体どうなのか、私としても大変迷わざるを得ない。脳死は人の死なのかどうか、これだけのことでございますけれども。  わかりやすい例を挙げますと、この前、日本医科大学に我々が視察に参りまして、これは脳死患者ですといって、ある婦人が生命維持装置をつけられてベッドに横たわっておる。医者はもうこれは絶対脳死ですということで脳波もほとんど変化がない、しかし呼吸をし、胸が動き、血が流れておる、顔色もいい、こういう患者を我々は目にいたしまして、今あの患者さんを例えばナイフか何かで刺し殺したとすれば立派に刑法上の殺人罪でございます。  この法律ができるとそういうケースはどういう扱いになるのか。死体損壊なのか殺人なのか、そこだけでも結構でございます、お教え願えればと思います。
  81. 山口俊一

    衆議院議員(山口俊一君) お答えをさせていただきます。  例を挙げての御質問でございましたが、その場合は、脳死判定を行っておりますと死体損壊、行っておりませんと殺人というふうなことに相なろうかと思います。
  82. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 私は、ああいうケースですから当然脳死判定を行っていると。お医者さんたちもそういうことを我々にきちっと説明してくれたように思うのであります。いずれにしろ、そういう技術的なことがあったかなかったかで人の死が左右されまして、それを刺し殺して、片や殺人、片や死体損壊。社会通念、社会常識に大変反するような気もするわけであります。  それから、人の死というのは死亡時刻が大変意味を持ちまして、例えばあの婦人が大変な財産家でありまして、彼女がいつ死んだかということによって相続人たちの権利関係が大変重大な影響を受けるということになりますと、いつ死んだか、これは裁判官が判定することになるわけでありますけれども、そういう場合の判定基準といたしましても、やっぱり脳死判定を行ったかどうか、そういうことだけで左右されてしまうんでしょうか。私は大変問題だと思うんですが、いかがでしょうか。
  83. 山口俊一

    衆議院議員(山口俊一君) 先生、技術的というふうなお話がございましたが、まさにポイント・オブ・ノーリターン、決してよみがえらない、いわゆる死の確認をするかどうかという大変大事な判定でありますので、単に技術的な問題ではなくして、これなくしては死と断定もできませんし、恐らく裁判になり係争になった場合にもそうした点が非常に大事なポイントになってくるんではなかろうかなと思っております。
  84. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 前回も私は申し上げましたけれども、この案によりますると「死体脳死体を含む。)」ということが、ただ二、三文字書いてあるだけでございます。これだけでもって、この臓器移植という特別法の分野に施行される法律にこれだけのことしか書いてないことによって、従来の伝統的な刑法や民法の死に関する解釈まで変わるんだろうか。これはだれでもそういう疑問を持つだろうと思います。  法律というのは国民に対して、行政に対して指針を示すものでありますから、その法律を読みましてもどこにも、脳死判定を行った場合にはこちらだ、行わなかった場合はこちらだとか何も書いてないわけでありますから、裁判官も弁護士さんも、それから国民自体も迷うことだろうと思います。なぜ迷わないようにきちっと法律の上で手当てをしておかないのか。  私は何回も同じことを聞いておるようで恐縮なんですけれども、大変大事なことですから、国民が迷わず、法律を読めばああなるほどこうだなというふうに思い至るようなきちっとした書き方をなぜしないのか。言えば、死に関する基本法をなぜつくらないのかという問いかけに直してみてもよろしいと思います。こんな技術的な「死体脳死体を含む。)」で刑法の解釈も変わりますよと。ただ、変わるについては条件があるらしいんですね、脳死判定を行ったときだけだと。  警察だって大変だと思いますよ、こういう場合。きちっとした検視を行うのか、ああまだあれは生きているからほっておけや、こういうことになるのか。やっぱり警察に対しても迷いのないようなきちっとした指針を示す必要があろうかと思いますけれども、その点はいかがなんでしょうか。
  85. 山口俊一

    衆議院議員(山口俊一君) 先生お話しの、いわゆる死の統一法的なものをというお考えもよくわかるわけでありますが、ただこの法律は、これも何度となく申し上げておりますように、いわゆる臓器移植法案であります。いわゆる死を一律的にあるいは一元的に規定をした、先生のお言葉をかりますと脳死一元法ですか、では決してないというふうなことであります。  例えば、アメリカの統一法では、人の死は心臓及び呼吸の停止または脳の機能停止のいずれかによるというふうな両論を書いております。実は、私どもそこら辺に関しましていわゆる確認規定とさせていただきましたのは、一つは、三徴候死というのはもう既に社会的にもあるいは医学的にも認められております。脳死についてまだそこら辺の判断が余りなされておらないというふうなところで確認的に入れさせていただいたというふうなことであります。
  86. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 「死体脳死体を含む。)」という括弧の中、こういう表現は実は余り好ましいことではないんです、解釈が極めてあいまいになるわけですから。  適切な例かどうかわかりませんけれども、在日朝鮮人に日本人並みの福祉関係の処遇をしてやろうということになりまして、「日本人(在日朝鮮人を含む。)」という書き方をすれば、これはあらゆる法律について日本人と書いておれば朝鮮人が含まれる、そんなことにはならないわけですから、この法律の分野だけでそういうものだとすぐわかるわけでございます。  ところが、もう一方の法律で、日本人「(アイヌ民族を含む。)」とやったといたします。これは解釈に多少争いがあるので確認的にそうしたんですよと言うけれども、必ずしもそれだけではわからないわけです。今まではアイヌ民族は日本人でなかったんだ、この法律で創設的にいわば日本人とされたのかと考える人も多い。むしろそっちの方が多いんじゃないかと私は思うわけであります。  法律というのは、何度も申し上げますけれども、これからの指針を決めるわけですから、そういう解釈が起こらないように、この法律臓器移植の分野だけに限って脳死は人の死とするとか、そういう言い方をどうしてなされないのか。括弧だけでごまかしてしまおうとしか思えないわけです。何か後々にいろんな争いが起こることを今のうちから楽しんでおこうかなと、そんなおつもりでもあるのかどうかわかりませんけれども、私は大変問題だと思うんです。  どっちがいい、こっちがいいということを私は申しておるんじゃなくて、法律をつくるからには、やっぱり後々の争いをできるだけ少なくしておくというのが立法の根本でありまするから、これは一体刑法にまで解釈が及んでいくのかいかないのか。及ぶにしても何か脳死判定を行った場合だけ及ぶんだとか、そう言われてみても検事や裁判官は困ると思います。どっちかはっきりさせてくれと言うに違いありません。それがはっきりしていないと、何回もいろんな事件で裁判をやって、最後は最高裁まで行きまして、これはしょせんこういうふうに解釈すべきだと最高裁が示すことによって何となく十年、二十年の争いに結論が出される。  しかし、今からそのときはそうだ、最高裁にお願いしようやというような考えはちょっと立法府として無責任過ぎることではないのかという思いがするものですから、くどいほどこういうことを取り上げておるわけでございます。  中山先生、この問題について御所見を伺えればと思います。
  87. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 私どもは、先生法律専門家としての考え方についてもそれなりに貴重な御意見だと思いますが、人の死という問題は、先ほどアメリカの例を山口委員からもお話がございましたけれども、世界的な医学の合意事項、これがやっぱり日本医学界もそれに合意をしているといったことで、死の診断権を持っている医師がその診断行為を行うということについて法律的に認められているわけでございますから、ここでの判断をだれがするのか、法律学者がするのか、あるいは死の診断権を持っている医師が人の死を診断するのか。  その診断の方法として、脳死の場合に竹内基準というもので判定を行うということがありましょうし、心臓死の場合は心電図を使って心臓の機能が停止したということをはかるわけでございますから、そこいらに医学の領域というものと法律の領域というものをどのようにちゃんと整合させるかというのが先生の御指摘の点ではないかと私は理解をいたしております。
  88. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 人の死について判定をするのはそれぞれの要所要所でそれぞれの立場の人が判定するわけでありまして、医学的な判定もありましょうし、法律的な判定は最終的には裁判所が判定することになるわけでありまして、この裁判所の判定に対して手がかりを与えるのが立法府の責任だろうということを私は申し上げておるわけでありまして、勝手にそっちはそっちでやってくれ、こういうわけにはいかないのであります。  裁判官になってみれば、原則的にはまず「死体脳死体を含む。)」、これはもうこの分野だけの話だ、一般的に相続や刑法にまでこの法律の力が及ぼしてくることはない、こういうふうにまず普通の裁判官は考えますけれども、まじめな裁判官は、この国会審議録を取り寄せて読んでみますると、どうもあいまいだ、はっきりしない、こういう立法が一体許されるんだろうかなと、まじめな裁判官であればあるほど考えざるを得ないわけですから、それでこういう議事録を取り寄せてその間の意見内容なんかも踏まえていろいろ考えるんですけれども、やっぱりこれは結論が出ないんじゃないかと思うんですね、相続の場合はどうするか。  それから、竹内基準も絶対とは言えません。法律家というのはいろんな考え方をする人が多いわけですから、竹内基準は絶対か、いや、私が聞いた限りではこっちの基準もあるようだということにもなりますしね。そういう基準に当てはめなくても、鑑定をすれば脳死状態になったのはいつだ、これは科学的に可能なんでしょう、カルテを見たりいたしましてね。それによると自分はこちらの説をとるということにもなっていくわけでありまして、世の中に何か混乱が起きてくることを私は実は大変恐れておるわけであります。  そんな混乱は起きないだろうというのは非常に楽観的な見方でありまして、法律というのは、この前も申し上げましたけれども、紛争を解決するのが法律の機能ですから、目的ですから、そういう紛争をなるべく少なくするように。私はどうしても理解できないんです。なぜはっきりとした規定の仕方をしないのか。この法律に限って脳死は人の死とするとか、いろんな技術的なやり方があるわけですから、まだ時間はないとは思いませんので、大いに検討していただきたいということを要望いたしまして、話は終わりたいと思います。
  89. 末広真樹子

    末広真樹子君 自由の会の末広真樹子でございます。  私は、二つの点でこの法案に疑問を感じております。まず、良識の府参議院がこんなにも大急ぎで審議してよいのか。二点目は、脳死臓器移植を同じテーブルで論ずることへの不可解、つまり臓器移植のために日本人の死の文化を覆す法律はとてもなじみにくいと考えております。  それで、まず厚生省にお尋ねします。  もし現法案が成立して臓器移植が行われるとしまして、臓器提供者がいなければ困ってしまうわけでございます。臓器提供者はどれくらいいらっしゃると見込んでいらっしゃるのでしょうか。
  90. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) 臓器提供者は、今出ている法律案から見ますと、本人がみずから自分で提供しますということがまず前提になります。それが一つ。それから、亡くなる方の大体一%が脳死という状態を通られるということがございます。そういうことからいきまして、現在の段階ではっきりどの程度の提供者があるのかという見通しを示すことは大変難しいわけでございます。少なくとも、当初は余り多くの臓器提供は望めないものと思っております。  従来はドナーカードも登録制というのをやっておりましたが、今は自由記載制で、カードを配って本人がサインをして持っていていただくという形態に変えてもっと普及するようにしてあるわけでございますけれども、このドナーカードの普及をさらに進める。それから、臓器移植に対する国民の理解が一層深まるように行政当局としては努力をしてまいりたい、このように思っております。
  91. 末広真樹子

    末広真樹子君 臓器移植が実行されるようになっても、臓器提供者が慢性的に不足するというふうに言われております。そうなれば、法律ができたはいいけれども臓器移植は一向に行われない、一体何のためにわざわざ脳死は人の死であるということを決めたのか、国民は不可解に感じると思うんです。世界的にも臓器提供者が減少しているということが公聴会でも指摘されております。世界的に伸びているのであれば、三十年も前からやっている国がどんどんと普及しておりますよという状況であるならば我々もいささか楽観できるんですが、三十年も前からやっていて、だんだん疑うような人が出てきて、減ってきている状況ですということでございますから、大変心配です。  そこでお尋ねしますが、厚生省としては慢性的なドナー不足に対してどう対応していくおつもりでしょうか。これは厚生大臣にお伺いしたいのです。通告してあります。
  92. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) 私は、臓器移植医療というのは極めて特殊な、例外的なものだと思っております。ふやせばいいというものでもない。しかし、臓器提供したいという方の意思と受け入れたいという方がある限り、その環境整備に努めるのが厚生省の役目だと。  私は、臓器移植がどんどんふえると思っていません、極めて例外的なんですから。本来、人間の体は、人の体のものを受け入れるという発想は今まで我々になかったものですから、それが医学の進歩でこういうものが出てきた。であるならば、その恩恵を受ける者、そういう恩恵に貢献したいという者の意思を尊重して厚生省としては整備を図っていきたいと思います。
  93. 末広真樹子

    末広真樹子君 ということは、ふえることがイコール好ましいことではないということですね。
  94. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) 私は、好ましいとか好ましくないとかと言っておりません。我々は、今、人類の考えないような医学技術の進歩でこういう環境が出てきた。それだったならば、両者の意思が合致する場合にはその環境整備に努めたいということであります。好ましい、好ましくないという点は触れておりません。
  95. 末広真樹子

    末広真樹子君 アメリカでは臓器を運搬するジェットヘリが二十四時間体制で待機しているなど、臓器移植に関する国内ネットワークが整備されていると聞いております。日本でも同様のネットワークというのは存在するようでございますが、それが果たして十分な体制と言えるのでしょうか。これをまず一点お伺いしたい。  また、ヨーロッパでは、EC加盟国で臓器移植のネットワークが完備しているというふうにも聞いております。これはイギリスであった具体的な例なんですけれども、イギリス国内で臓器提供者が出たのに受け入れ者がなかった。それで、このネットワークを活用した実例が過去にあるそうでございます。  そういう意味では、貴重なタイミングを逃さないような国際的なネットワークを日本は今後つくっていく考えがあるのでしょうか。まず一点、日本の今あるネットワークで十分なのか。それから、今後臓器移植のための国際ネットワークをつくっていくお考えがあるのかどうか。この二点についてお答えいただきたいと思います。
  96. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 今、委員からの御指摘は非常に大事な点だと思います。スカンジナビアの国々はスカンジナビア・トランスプラントのネットワークができておりますし、ユーロ・トランスプラント・ネットワークというもののセンターがオランダのライデン大学にございます。またUK・トランスプラントのネットワークがロンドンにございます。アメリカはUNOSという制度がアメリカとカナダをカバーしております。  どこで出ても、生物学的な検査の結果、いろんなリンパとか血液型と合わないというような場合には、合う患者の登録してある人たちを探して、自国にない場合は隣国でも登録してある人のところへ臓器移植のために提供する。これがヨーロッパ、アメリカのシステムでございますから、日本の場合に、例えば隣国の韓国とか、あるいは中国とか台湾とか、シベリアの沿海州の方とか、いろんなアジア地域というものをこれからどういうふうにやっていくのか。  御存じのように韓国では既に臓器移植が行われていますし、台湾でも行われている。シンガポールでも行われている。こういったよその国はもう始まっているわけですが、日本がこれからどうするかということは、一つ問題点としてあると思います。  それから、今までは日本での法律がなかったために外国へ随分と臓器提供を受けに行かれた方がいらっしゃいます。それから、外国の方が、この法律がもし成立した暁には日本移植を受けたいという患者が出た場合の対応を政府はどのようにこれから考えていくべきか。ここらの点が非常に重大なポイントだと思います。  アメリカの場合は、先生も御指摘のようにドナーが減少し始めましたから、アメリカのいわゆる納税者、国民中心に優先性を高めております。こういうことをこの国際化する社会の中でどのようにこれから日本人は考えるべきか、これは一にかかってこれからの法律制定後のいわゆる受け入れ体制、これが全部その方向性を出しておかなければならないと考えております。
  97. 末広真樹子

    末広真樹子君 本当にそこは超デリケートな問題で、そこでえこひいきがあったとか、何かお金持ちだけが優遇されたとか、貧しい者は全然そんな恩恵にはあずかれなかったんだよというようなことがあっては、何のための法律かということになりかねない。そこら辺はぜひ御留意願いたいと思います。  私、国民の声を聞きたいと思って、地元へ飛んで帰ってどのように考えているのかと聞いてまいりましたら、移植臓器が必要だからあの法律はできるのでしょうと、こういうふうに言われました。脳死と植物人間がどう違うのか知っている人は少ないよと、これが圧倒的な国民の声でございましたので、ここで御報告させていただきまして、私の質問を終わらせていただきます。
  98. 栗原君子

    栗原君子君 新社会党の栗原君子でございます。  私も、同僚の末広委員と同じように、この問題には時間がもっとかかるという考えを持っております。と申しますのは、今参議院に参りまして、連日のようにマスコミでも報道していただくせいもございまして、大変国民皆さんが賛否両論、そしてまた慎重者も含めまして、委員のところを回る、何とか参議院でこれを継続にしてほしいとか、つぶしてほしいとか、通してほしいとか、そういう議論が高まりつつあるところだと思います。参議院に参りまして一カ月ちょっとの間でこれを上げてしまうことに大変危機感を持っている者の一人でございます。  そのような中で、まず中山案に対して質問をさせていただきたいと思います。  中山案にありましては、移植法案の中に「死体脳死体を含む。)」という規定を設けたために、結果的に言いまして、先ほどからもさまざま議論が出ておりますように、脳死を死とする脳死立法となっているように思います。先ほどの中山先生の御答弁では、もう既にこれは世界的な医学の合意事項である、このようにおっしゃっておられるわけでございます。このような形で移植立法の中に脳死立法が組み込まれた法案は、私は他国には余り例はないと思うわけでございます。  法のあり方として適切なのかどうか、また「死体脳死体を含む。)」と、こういう書き方をしております国はどういった国があるのかお教えいただきたいと思いますけれども、いかがでしょうか。
  99. 福島豊

    衆議院議員(福島豊君) お答えいたします。  先生の御指摘は、移植立法の中に脳死立法というものを組み込んでいるんじゃないか、そういうつくり方はどうなのかという御指摘でございますが、私どもの提案はあくまで移植に関することを定めた法律を提出したのでありまして、脳死立法を提出したということではないと考えております。  脳死は人の死であるという社会的合意前提として、脳死を含む死体からの臓器摘出についてそれが適切に行われるようにその要件を定めていると、一般的に人の死を定義するような性格のものではありません。そして、その場合に摘出の対象となる死体脳死体が含まれることを解釈に誤解が生じないよう確認的に規定しているにすぎない、そのように考えております。
  100. 栗原君子

    栗原君子君 他国でこのような書き方をしている国があればお教えいただきたいんです。
  101. 福島豊

    衆議院議員(福島豊君) デンマークがあるようでございます。
  102. 栗原君子

    栗原君子君 一国だけですか。ほかにはわかりませんか。
  103. 福島豊

    衆議院議員(福島豊君) わかっている範囲でこれだけです。
  104. 栗原君子

    栗原君子君 今わかっている範囲ではデンマークがあるということを聞きましたけれども、そういう書き方をしたところは余りないというように伺っております。この書き方というのは将来大変さまざまな問題が起きてくる可能性を秘めている、このように思います。  それでは、時間の関係がございまして、まず猪熊案の提出者にお伺いをいたします。  猪熊案の骨子は、脳死を人の死とせず、かつ他人の命を救うために臓器提供するという自己決定医師が助けることを合法化しようとするものでありますけれども、これが安楽死とか尊厳死に及ぼす影響はどのように考えていらっしゃいますか、さらに脳死者を減らすことへの対策はどのように考えていらっしゃるのか、お聞かせいただきたいと思います。
  105. 大脇雅子

    大脇雅子君 安楽死につきましては、東海大学安楽死事件というのが平成七年三月二十八日に判決がなされております。  それによりますと、安楽死が許容される要件というのは、苦痛が著しいということ、それから死が不可避であるということ、明示の意思表示が事前にあること、それから他に代替手段のないこと、家族同意があること、それが医師の手で行われることなどとなっていると思います。  本件につきましてはその要件が満たされていないということで有罪となっておりますが、刑法のさまざまな学説におきましても、安楽死というものが刑法上、違法性阻却事由に当たるという学説は通説となっていると考えております。  私どもは、そうした中で、臓器移植というのは、本人の人格的な生存を全うするための唯一の手段が、本人意思に基づく他人の命を救うために行う臓器提供として、それが個人の命、生命尊厳と同等以上の価値がある行為として違法性を阻却するということになっております。したがって、問題は単純には比較できないというふうに考えますが、将来的にはそうした安楽死や尊厳死の問題に影響を与えずにはおかないかと思います。  現在、アメリカ・オレゴン州におきましては一九九四年に尊厳死法ができておりますし、またオーストラリア北部準州の議会では安楽死法案が多数で可決されたという報道もありますので、こうした死の終末に関しての問題というのはそうした形でさまざまな議論をこれから呼ぶことになると思っております。
  106. 栗原君子

    栗原君子君 引き続き、猪熊案の提出者にお伺いいたしますけれども、欧米では、脳死臓器移植に関する法律の制定以前に、患者の知る権利とかあるいはカルテの開示とか治療の選択権などが保障されております。また、努力もなされております。この点について、日本現状をどのように考えていらっしゃいますでしょうか。
  107. 竹村泰子

    委員以外の議員(竹村泰子君) 欧米ではというお尋ねでございます。  私どもも全部調査ができているわけではありませんけれども、国によって多少の違いがあると思いますが、カルテの開示、インフォームド・コンセント、さらにペーシェントアドボカシーなど、患者さんの権利を守るために法制度上実効性が上がるようにかなりの実践がされているというふうに聞いております。  私どもの法案の第四条、医師の責務というところにも、やはり医療に対する国民の不信感には深刻なものがあるということから、インフォームド・コンセントの考え方医師の責務としてあるいは医の倫理として必須のものであるということを考えまして、まず移植術に使用されるための臓器提供する遺族や家族に対して承諾を得るに当たり、必要な説明を十分に行い、その理解を得る旨を特に医師の義務として規定したものでございます。
  108. 栗原君子

    栗原君子君 ありがとうございました。  先ほどから伺っておりまして、脳死者というのは、まさに私も先般、脳死者というのはこういう人たちのことかという現場に行かせていただきまして、生きてもいらっしゃらない、死んでもいらっしゃらない、そして死んでもいらっしゃらないけれども生きてもいらっしゃらない、こういう人たちから臓器摘出するのかと思いますと、何かなかなか気持ちの整理がつかないような状況でございました。  ぜひ慎重なさらなる御審議を願いたいと思います。ありがとうございました。
  109. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 他に御発言もないようですから、臓器移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)に対する質疑は終局したものと認めます。  速記をとめてください。    〔速記中止〕
  110. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 速記を起こしてください。  臓器移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)の修正について関根君から発言を求められておりますので、この際、これを許します。関根君。
  111. 関根則之

    関根則之君 私は、ただいま議題となりました衆議院提出臓器移植に関する法律案、いわゆる中山案に対し修正の動議を提出し、その提案理由と内容の概要を御説明申し上げます。  本法律案は、人道的見地に立って、臓器移植臓器提供意思を生かしつつ移植術を必要とする者に対して適切に行われるようにするため、臓器移植の法的な環境を整備し、移植医療の適正な実施に資することを目的としております。  本案に対する本特別委員会での審議を踏まえ、特に脳死に関して国民の間にさまざまな意見や懸念があることにかんがみ、臓器移植に際して、脳死が認められる場合を限定し、かつ脳死判定手続をより慎重なものにしてその厳格な運用を図ることができるようにするため、本修正案を提出するものであります。  修正内容はお手元に配付されております案文のとおりでございますが、その要旨は、第一に脳死が認められる場合を限定することであります。  脳死した者の身体を死体に含めて臓器摘出ができるのは、臓器提供意思に基づいて臓器摘出されることとなる者が脳死に至ったと判定された場合のその身体に限定することとし、あわせて臓器提供者尊厳家族の感情とに配慮して、その身体を「脳死した者の身体」と表現することにいたしております。さらに、臓器摘出のための脳死判定は、本人臓器提供意思の表示にあわせて脳死判定に従う意思を書面で表示している場合であって、かつその家族がこれを拒まないときに限り行うことができることとすることであります。  第二に、脳死判定手続の一層の厳格化を図ることであります。  脳死判定は、摘出医及び移植医以外の二人以上の医師合意によって行うこととするとともに、判定医は判定の証明書を作成し、臓器摘出には事前にこの証明書の交付を受けていなければならないとすることであります。  第三に、罰則の整備と強化であります。  脳死判定の証明書の作成とその交付について違反行為に対する罰則を設けるとともに、臓器処理違反などに対する罰金額の上限を三十万円から五十万円に引き上げることであります。  以上であります。  何とぞ委員各位の御賛同をお願い申し上げます。
  112. 竹山裕

    委員長竹山裕君) それでは、ただいまの修正案に対し、質疑のある方は順次御発言願います。
  113. 宮崎秀樹

    ○宮崎秀樹君 自由民主党の宮崎秀樹であります。    〔委員長退席、理事成瀬守重君着席〕  先般来、この特別委員会また公聴会、そして土曜日の午後に参議院の有志の先生方が主催されましたニューオータニで開かれましたシンポジウム、さまざまな御意見を伺っておりまして、それぞれのお立場から冷静に御意見を申し上げておられる方もおりますし、それからやや感情的な御意見もございました。さらに、自己主張の強い御意見もございまして、押しつけるというような感を受けたこともございました。  このように、この問題は考えれば考えるほど大変難しいと申しましょうか、人それぞれ死生観が違うわけでありますから、そんな中でこの修正案が出てきたのではないかというふうに私は受けとめておるわけであります。  そこで、修正案の第一点の質問を提案者にしたいと思います。  この法案は、私なりに解釈しますと、臓器移植に限定した法案と理解しております。確認のためにお伺いするわけでありますが、この法案によりまして医療の現場が混乱すると、かえってこの法案の目的が阻害されるようなことがあると困るわけでありまして、医師は通常、診断と治療をしている中で、やはり裁量権を持って脳死判定を実はするわけであります。  私もたまたま医師でありまして、昭和三十年の初めごろは、脳死患者という方は即御臨終でございました。しかし、当時、気管内チューブができまして、気管内に挿管しまして、そしてそこに人工呼吸器をつけまして、当時はバッグで手でもって自発呼吸のなくなった方に酸素を送ったわけです。大体受け持ちの医師がそれをやらされるわけであります。手でやっておりますと、受け持ちの医師が付き添って、片時もこのバッグから手を離すことができません。    〔理事成瀬守重君退席、委員長着席〕 しかし、小用もしなければならない、飯も食わなければならない。そのときには御家族の方に、かわってひとつ一分間に大体十回前後酸素を送ってくださいと言っていますと、大体二日ぐらい徹夜してやってますと、御家族の方が、先生、これいつまでやるんですかと。これはもうとにかく一週間か十日ぐらいには必ず心臓とまります、これはもう脳死状態ですと言いますと、もうやめてくださいと、こうおっしゃるんですね。御家族の方からそういう御意見が出るから、それじゃ会いたい方は全部お会わせしてくださいと言って、そこでやめて抜管するわけです。それが心臓死になる。こういう順序。それが医学が発達していろいろ機械ができまして、今それを電気的に機械で動かしている、そしてこれが臓器移植というものにつながってきた、こういう歴史的な経過がございます。  そこで、とにかくもう大分前からこの脳死判定というのは現場では行われていたわけであります。ですから、この法案によって、そういうところまで法を広げて解釈しているというようなことまではこの法案ではおっしゃっていないのか、そういうものを妨げないということなのか、そこだけはきちっと確認しておきたいと思います。
  114. 関根則之

    関根則之君 御質問のとおり、修正案臓器移植に関する立法でございますので、臓器移植に関して規定を定めているものでございます。したがって、臓器移植にかかわらない、臓器移植以外の医療の中身について全く規定をしているものではないわけでございます。  したがいまして、現在、救急医療の現場など医療の場におきまして行われる診断のための脳死判定を行うことにつきましては、本法案によって何ら妨げられるものではないと考えております。したがって、医療現場で混乱が起こるといったようなことはないものと考えております。
  115. 宮崎秀樹

    ○宮崎秀樹君 それではもう一つ。  臓器移植を事前に本人意思で確認しておる、にもかかわらず脳死判定をきちっとそこで書面で書く。臓器移植前提とすれば、必ず本人意思があれば脳死判定をやるのは当たり前のことで、それをなぜわざわざ書面で事前に書かなきゃいけないのか、これはどういうふうに解釈したらいいでしょうか。
  116. 関根則之

    関根則之君 医療の現場で実際どういうふうにやっているかということもございますけれども、法律上の整理と申しますか、規定のしぶりとして、脳死判定を受ける本人意思というのはきちっとその表示を明らかにしておいた方がいい、そういうふうに判断いたしましてこの規定を設けたものでございます。  なぜかと申しますと、臓器提供意思があればいいではないかと、こういうことですけれども、単なる臓器提供意思というのは、心臓死後に提供しますよというそれを認めている意思なのか、あるいは心臓死には至っていないけれども脳死の段階、その段階でも提供いたしますよということを認めている意思なのか、法文上といいますか、法律で整理する場合に必ずしも明らかでないわけでございます。したがって、単なる臓器提供しますよという意思だけじゃなくて、脳死段階でも臓器提供意思を明確にいたしておきますためには、脳死判定に従いますよと、そういう意思臓器提供意思とは別に明確に定めておく必要があるのではないか、そう考えてこの手続を法定したわけでございます。
  117. 宮崎秀樹

    ○宮崎秀樹君 腎臓と角膜は死後やるというので、この臓器移植については当然脳死という判定の中でやるというふうに我々は認識しているんですけれども、そこまで老婆心でお書きになるということは、医学的な現場の人たちは理解できないですけれども、一般の国民としてはそれが一つの歯どめになろうというお考えかと理解いたします。  さて、厚生大臣、実は私、この間のシンポジウムで、千葉大玄さんという方の子供さんがアメリカ脳死になりまして、そして臓器提供した。しかも、それもトータルボディーという、全身をとにかくお出しになったという話でございました。特に、骨の移植に関しては六十数人の方に移植した、子供も大変喜んでいるだろうと、こういう大変感激したお話がございました。それで最後に、アメリカでよかったと言ったんですね。日本だったらできなかったよ、アメリカでよかったと。それは、アメリカでよかったというのはもう一つあるんです。臓器移植の周辺整備が、ケアとかあらゆるものがきちっとできている、そういうことでございました。  この法案がもし通ったとしますと、これはやはり周辺整備、すなわち国民への広報活動とか手術室の整備、それから臓器の配分が公平公正に行われなくちゃいけない、ネットワークの問題ですね。さらにコーディネーターの養成、それから患者さんや家族へのケア、レシピエントのケア、そういうことについて国としても最大の努力をしていただきたいと思うんです。  特にまた、ドナーカードの普及等もやはり国が関与しなければできない話でありますので、どうかそういう面において大臣の御決意を伺いたいと思います。
  118. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) 法案が成立しましたら、本委員会国会での審議を踏まえまして、移植医療というものが公平に、公正に、そして円滑に実施されるような環境整備に全力を尽くしていきたいと思っております。
  119. 宮崎秀樹

    ○宮崎秀樹君 終わります。
  120. 大森礼子

    大森礼子君 平成会の大森礼子です。  修正案がたった今提出されました。  この臓器移植法案をめぐりましては、衆議院の方でも二十七時間の厚生委員会審議のみで本会議に上程ということで、国会審議に対する国民の不信感を招く結果となったと思います。そこで、さあ参議院頑張ろうと思ってスタートしたわけなんですけれども、五月十九日に趣旨説明がなされて、それからその後三時間の特別委員会審議を二回終えただけの六月十日に修正案提出、そして会期中に採決という報道がなされました。この委員会も本日の委員会採決に向けて予定どおりに進んでいるのかもしれません。  修正案内容そのものについては、私自身も何かいい落ちつかせどころはないかということを常に考えておりましたので、その私が考えるところと非常に近いものであります。それから、法的安定性とか移植関係ない人を混乱に陥れないか、こういう点を考えますと、中山案よりもはるかにすぐれた法案であると私は思っております。ですから、このような法案を出してくださったことについては、そういう議員の方に心から敬意を表するものなんです。しかし、十分な審議を経ずして修正案が一番よいという結論ももちろん下すことはできません。修正案審議に入る前からもしゴールが決められているのであれば、それはとても残念なことだと私は思います。  それから、急ぐ理由としまして、もしかしたら臓器移植を待っている方に早くこたえなくてはいけない、人の命がかかっているということがあるのかもしれませんけれども、しかしそういう人を救うためにはまずドナーの方にふえていただく必要があると思います。法案審議で大事なことは、医師の免責をどう保証するかとか会期中の成立を急ぐとか、そういうことではなくて、ドナーになってくれる人をどうふやすかということも十分考慮しなくてはいけないと思います。何人の移植を待つ患者さんを救えるかは、ドナーの人が何人あらわれるかで決まってくると思うからです。  拙速な審議とか本会議採決がもし国民の目に余りにも不自然に映りましたら、そのときは臓器移植そのものに対する不信感を増大させないだろうか、ドナーになることを拒むような人をふやさないだろうかと、そのことを私は危惧するものであります。もし善意臓器提供をというのであれば、臓器移植そのもの反対する人たち意見をも十分考慮しながら、国民の理解、納得が得られるような審議であるべきだと私は思います。  私はきょう質問させていただくわけですけれども、非常にきょうの質問、こんなに難しい質問は初めてです。と申しますのは、修正案のよって立つ理論構成と申しますか、これがあらかじめわからないまま、ぶっつけ本番で質問することになるからであります。そして、改めての質問の機会は予定されていないということになるんでしょうか。その理論構成、中山案と言いながら中山案でないようだし、よくわからないところがありますので、これを一つずつ確認させていただきたいと思います。通告質問以外はここで考えて質問しますので発問がスムーズにいかないかもしれませんが、その点は御了承願います。  まず、修正案提案者の方にお尋ねをします。  これは中山案修正案として出されておりますけれども、普通、修正案といいますと、ある原案というものがありまして、それとの基本的な同一性を保ちながら一部が変わるという、基本的な同一性を保っているものが修正案だろうと思います。その基本的同一性が崩れてしまったらもはや修正案とは言えず、別の独立案なんだろうと思うんですね。  そこでお尋ねしますが、この修正案中山案とどの部分で基本的に同一性があるのか、これを簡単に教えていただけませんか。
  121. 渡辺孝男

    渡辺孝男君 お答えいたします。  修正案臓器移植の場合という、部分的にせよ中山案と同じく法律上「脳死した者の身体」を死体に含めているということであります。中山案修正案、いずれも臓器移植を適正に進めようとするものであるという意味では共通点があると思います。
  122. 大森礼子

    大森礼子君 臓器移植を適正に進めるという点では猪熊案だって一緒なんです。そうしますと、要するに臓器移植をする前提となるドナーの方を死体とするかしないか、この一点で基本的同一性があるというお答えでよろしいんですね、確認いたします。イエス、ノーだけで結構です。
  123. 関根則之

    関根則之君 おっしゃるとおりでございまして、中山案はいわゆる脳死体というものを死体としております。こちらは、表現はちょっと変わっておりますけれども、死体の中に「脳死した者の身体を含む。」ということになっておりますので、基本的にそこのところが同じでございますので、中山案修正案としてよろしいと思います。
  124. 大森礼子

    大森礼子君 これまで中山案猪熊案がどういうふうに国民皆さんにお知らせされてきたかといいますと、脳死を人の死とする法案、それから脳死を人の死としない法案というふうに分かれて理解されてきたわけです。これが大きな対立点であったわけです。  参議院特別委員会審議、三時間、三時間、七時間費やされました。その大半がこの両見解をめぐって、それがいいかどうかで議論されています。総論部分の議論なんですね。なかなか各論に入れなかった。総論部分というのは法律上のこれからの解釈をめぐってどういうふうに解釈していくかということで非常に基本的な部分だと思うんです。  だから、今死体に含めるという点で基本的同一性だとおっしゃるんですが、それならば、中山案が、要するに脳死が人の死であることは社会的な合意を得ている、そして中山案六条の「脳死体」というものは確認した規定なんだと説明しているわけですね。この点について修正案立場は一緒なんでしょうか、異なるんでしょうか。
  125. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 私どもは、その御質問でいきますと、脳死が人の死であるという社会的合意の問題の御指摘をされておりますので、その問題につきましてはいまだ十分な社会的な合意というものが形成されているとはなかなか言いにくい。この現状を踏まえまして、この修正案では、臓器移植の場合であって、かつ脳死判定につきこれに従う旨の意思表示があるときに、脳死した者の身体が死体に含まれると法律上規定をしているのでございます。  その意味でいきますと、さらにもう一つ、社会的合意という考え方の中で私たちがどういう整理をしているかといえば、この二つの条件を満たして、かつ家族もそれらを拒否しない場合には、法律脳死した者の身体を死体に含むこととすることにつき社会的合意はあるものと私ども提案者は考えております。
  126. 大森礼子

    大森礼子君 そうしますと、今までずっと、わずかな時間でしたけれども、参議院特別委員会中山案、何回も何回も提案者の方が嫌というほど繰り返されましたね。脳死が人の死であるということはおおむね社会的合意ができており、そして合意があってそれを確認した規定であると、この臓器移植法案というものは人の死を規定したものではないと何回も何回も繰り返されました。  そうしたら、ここの部分が違うのであれば、もう前提自体が中山案と違うということは修正案提案者の方はお認めになるんでしょうか。
  127. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 質問の趣旨がちょっととりにくいんですが、お答えするとするならば、私どもがこの社会的合意ということでいうならば、委員おっしゃるように、社会的に十分な合意をということにはなかなか至っていない。提案理由でも申し上げましたけれども、脳死に関してこの委員会も含めて国民の間にさまざまな意見や懸念があることにかんがみてこの修正案を提出した。  この修正案ですが、どういうことを言っておるかというと、先ほど言いましたように、条件が限定された場合のものに関してはある意味では社会的合意はあると、そのとらえ方をしております。
  128. 大森礼子

    大森礼子君 よろしいです。  社会的合意というのも、中身がわからないままこれまで議論されておりまして、今提案者がおっしゃっている範囲での社会的合意があるというのもいいと思うんです。だから、きっとそれは猪熊案違法性阻却するというのも、例えば、もうもとへ戻らない、後は死ぬだけの脳死状態になったときに、自分が自分の臓器レシピエントの人に上げたい、何か差し上げたい、それでレシピエントの方も、ぜひいただけるものならいただいて一生懸命生きてみたい、その間をつなぐのが実はお医者さんの行為になるんですね。  そのお医者さんの行為をも要するに刑罰で処罰する必要があるかどうか。間をつなぐ医者の摘出行為が、これはけしからぬから刑罰で処罰しようと国民が思うかどうか、これが問題だと思うんです。そういった意味で、これを処罰しないでいいんじゃないかという国民社会的合意はできているんじゃないかというのが実は猪熊案の理論の裏づけではないかなということなんです。よろしいです、うなずいておられるから、そうだと思うんです。  ただ、今までの中山案というのは、社会的合意というのはあたかも社会通念であるかのようにおっしゃいましたよね。それで、確認規定、これもいいかげんに使っていると思うんです。確認規定、法制局の説明ですと、明文があろうがなかろうが一緒なんだ、だけれども念のために入れたんだと、これが確認規定でしょう。そうしますと、社会の中で脳死を人の死と扱う一つの社会規範、行動規範ができていないと私はおかしいと思うんです。社会の中に明文はないけれども規範があるということですね。  先ほどシンポジウムの話が出ましたけれども、息子さんが脳死となって多臓器提供された千葉さんという方がこうおっしゃるんです。脳死宣告というのは治療を打ち切りますという宣告なんです、脳死の後に、死亡宣告の後に治療なんかあるはずありませんと。脳死後の治療は、アメリカでは医師のモラルに反する、イギリスやドイツは法律はないけれども医師アメリカと同様に行動しておりますと。こういう考えが社会の中で受け入れられるようになっていたら、そこで初めて一つの社会規範になっておるわけですから、これを明文で規定しようがしまいが、確認規定と言おうが言うまいが一緒だと思うんです。ただ、日本ではそういう社会的事実はないだろうということを私は申し上げたいんです。もし、中山案提案者のおっしゃることが事実でありましたら、明文があってもなくても一緒なんですから、人々が脳死を死として行動している、そういう事実が必要だと思うんです。  私は、いつか小泉厚生大臣が、脳死とわかったのに後は心臓死まで治療してくださいと言う人がいらっしゃるとは思いませんというふうにおっしゃいましたね。そのときには随分冷たいことを言う人だなと思ったんですけれども、でも、それは我々が脳死イコール人の死とまだ割り切れないからそうなるんであって、脳死イコール人の死ということが社会の中で本当に受け入れられているのであれば、明文を必要としなくても脳死イコール人の死と受け入れているのであれば、やっぱり厚生大臣のような考え方になるんだろうと思うんです。  何を質問したかわからなくなりましたけれども、今まであなた方が説明された社会的合意、だからそれを確認したものだということは、もう前提自体が違っているということを申し上げたいと思います。ですから、提案者の方がそこまでの社会的合意はできていないということは、それはそれで私はよろしいと思うんです。  ただ、そうしますと、中山案修正案といいますと、これまで社会的合意があるんだ、確認規定だという前提のもとに積み重ねられてきたわけです。それで、答弁なんかもそれを前提とされているわけですね。ところが、修正案ですと、その前提が崩れるのであれば、死とすることは同じであっても、その前提を取れば似て非なるものになりますから、全く独立の法案としてとらえるべきではないかと思うんですが、修正案提案者の方、いかがでしょうか。
  129. 関根則之

    関根則之君 私どもは、一般的に社会的な合意がどこまで成り立っているかということを突き詰めて議論して、それを前提にして法案を作成しているわけではありません。ただ問題は、審議の過程でいろいろ意見が出てまいりましたように、今の状態の中で脳死は人の死であるという大前提で法文を書くということについてはまだ必ずしも十分な合意は得られていないんじゃないかという意見がいっぱい出てまいりました。そういうものについての疑問も提出されました。  そういう状況の中で、少なくとも臓器提供の場で臓器提供を目的として、本人脳死判定に従います、どうぞ私の心臓脳死判定が下された後はお使いください、こう言っている、しかも家族が拒絶をしない、そういう状況のもとで脳死判定がなされる、脳死判定の結果臓器提供がなされる。そのことについて、それを認める程度の社会的な合意といいますか容認といいますか、そういうものはあるというふうに考えて、いろいろ議論が出ている、そこまで我々が修正案の中で手を広げるというのはやっぱり問題が多少あるかもしれない。必要最小限度の臓器に関する法律なんですから、必要最小限度の臓器提供に関する、臓器移植に関する場面において法律規定を整備すればそれでよろしいんではないかと、こう考えてこのような限定された規定の仕方をしたのであって、したがって基本のところについて必ずしも私どもとしてどこまでの合意があるんだということを断定的に書いているものではありません。  そういう意味におきまして、中山案とほぼ同じような物の考え方といいますか、それはそういうものを前提として必要最小限度、しかも明らかな分野についてだけ法律の規定を変えた、こういうことでございますので、必ずしも中山案と完全に違うという必要はないものというふうに考えます。
  130. 大森礼子

    大森礼子君 今の御説明ですと、むしろ生体とするか死体とするかというあれでは、猪熊案の方の考え方に非常に近いのではないかなと思うんですね。猪熊案は要するにグレーゾーンというのを認めました。脳死状態、これをどちらに振るか、やっぱり人権とか考えたら生の領域にとどめようということ。修正案の方は、いや死の方でもいいんだと、少しはメーターを動かすような、そのぐらいの違いではないかなと思うんですが、ともかく私は中山案とは全然違うのではないかなと思います。  そして、修正案の手続にするか独立した法案にするかということで委員会審議も全然違ってくると思いますので、ただ単に早く採決を急ぐためにもし修正というふうなものをとったんだったら、それは適正な立法手続といいますか、立法作業の潜脱になるんではないか、こういうふうな考えを持っております。  そうだとしますと、次の質問にいきますと、じゃ修正案の六条一項で、「脳死した者の身体」とありますが、これは死体ということは今わかりました。そうすると、これまでの中山案脳死体とは範囲が違ってくるわけですね。その点、いかがでしょうか。
  131. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 御指摘のとおりでございまして、私どもこの修正案では「脳死した者の身体」という表現をしておりますけれども、これは臓器移植の場合であって、かつ脳死判定につきこれに従う旨の意思表示があるときに脳死した者の身体が死体に含まれると、これを法律上規定したと、こういうことになります。
  132. 大森礼子

    大森礼子君 そうしますと、中山案修正案と言われていたのだし、もうどう考えるのかきょうが初めてですからわからなかったんです。それで、範囲を見ますと、中山案の方ですと、一般の脳死が先に来る人のうち、全体死の一%のうち、脳死判定を受けた人が脳死体なんだというんですが、修正案ですと、例えばその範囲から臓器提供意思表示をしない人は除かれる、それから脳死判定に従う書面のない人は除かれる、家族脳死判定を拒んだ場合も除かれるということで、中山案脳死体よりも範囲が狭くなってしまいます。  そこで、中山案修正案だとおっしゃるからあえてお聞きするんですけれども、「脳死した者の身体」、これは修正案六条二、三、四項の要件を満たすものになるわけですが、それ以外の者というのですか方というのですか、これは死体にならない、生体、生きているということでよろしいんですか。
  133. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 死体生体という言い方がどうなのかということになりますと、私どもの修正案ではそのことについては規定をしておりません。
  134. 大森礼子

    大森礼子君 じゃ、どうなるんですか。実際に、例えば中山案の場合でも実はおかしかったんです。脳死は人の死と言いながら脳死判定を受けた人だけが脳死体になるという言い方をするんです。そうしたら、先ほど山崎委員がおっしゃいましたけれども、じゃ脳死が先に来る人なのに、運ばれた施設とかそれからお医者さんが心臓死しか認めない人だったら、そういう偶然によってあるときは脳死にもなるし心臓死にもなってこれはおかしいわけです。それから、脳死判定を受ける場合でも家族拒否権とかとすると、やっぱりややこしい問題になるんだろうと思うんです。  そうすると、今の修正案のお考えですと、脳死判定を受けた者、これは死亡になるんですかどうなんですか。脳死は人の死という前提は立つのですか。それとも、三徴候説に従ってこの要件を満たす場合に限り例外的に死と認めるという立場なのか、その基本的立場を明らかにしていただけないでしょうか。
  135. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 御指摘の点で言うと、私どもは先ほどから申し上げているとおり、二項、三項、条件をつけています。こういうものに限って脳死した者の身体の場合法律上の死体であるというとらえ方をしております。そして、それ以外のという御指摘になるんですけれども、これにつきましては、ある意味では無理して言えば従来どおり、今と何も変わらない形だと思います。  ですから、例えば先ほど救急現場での問題を関根委員の方からおっしゃっておりましたけれども、これまで救急現場で通例行われております診断のための脳死判定、こういうものを行うことは本法律案によって何も妨げられるものではないですし、どこで判定をするかという問題については、私どもは臓器提供の場合に限ってのみ申し上げておるんですから、それ以外についてはある意味では従来どおりになるという考え方になると思います。
  136. 大森礼子

    大森礼子君 その従来どおりというのは何なんですか。そこで争いがあるわけでしょう。  猪熊案は三徴候だと言い、そして中山案の方は、いやいや脳死は人の死としてもう既に合意されているんだと、だから脳死判定はどうしても二回目が死亡時刻になるんだとか、そういう議論をこれまでしてきたわけなんです。それと全く違うお考えでしたら、これはまた第三案として改めて審議しなきゃいけないと思うんですよ。  従来どおりというのはどういうことなんですか、明確に言ってください、従来どおりというのは。
  137. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 あえておっしゃるならば、従来どおりですから、それ以外のものは、この言い方をすると生体という言い方をされていますけれども、従来どおりの三徴候死ということでのものになるんだろうと思われます。
  138. 大森礼子

    大森礼子君 そうしますと、いろんな現場で脳死判定自体は治療行為の一環としてされていると。そうしますと、この修正案要件を満たさない脳死判定がされた場合、それは脳死判定がされてもその時点で人の死とはならないということを前提としておるんですね。その場合も心臓死によると、こういうお立場ですか。
  139. 関根則之

    関根則之君 この修正案は、少なくも臓器提供の場で臓器移植するという目的といいますか、それに同意をしている、しかもその前提として脳死段階からの摘出は結構ですよという本人脳死判定に従う意思、そういうものをずっと限定してきまして、そういう限定があった状況の中での脳死判定された人の身体というものは死体の中に含めるということ、そこを決めているだけであって、その程度の少なくも社会的な合意はあるものというふうな前提として、そういう状態脳死した者の身体は死体に含めるということなんです。それを法律で定めた。  それになおかつ異論を挟む人がいるかもしれないけれども、法律の規範として、そういう条件を十分満たしたものについては少なくとも死体に含まれるということを法律で書いたということだけであって、そのことを法律できちっと書いている。そのほかのことについては言及をしていないわけでございますから、そのほかの問題については医療の現場において、人の死亡について、医療権という言葉があるのかどうかその辺私は定かではございませんが、お医者さんがこれは死亡したもの、これはまだ生存しておりますと、そういう判定をするのは医療の現場でお医者さんが仕分けしているわけですから、その仕分けは医療の現場でお医者さんにやってもらうという従来のやり方と同じことである、そういうふうに考えております。
  140. 大森礼子

    大森礼子君 言及していないというのは、これが独立案で出てきたらそれはそういうこともあるのかなと思いますよ。しかし、これまでさんざん中山案猪熊案でしてきまして、その上に中山案修正案だといってお出しになるわけでしょう。そうしましたら、中山案のベーシックな考え方と何か関連性があるのかなと推測するじゃありませんか。これまで修正案審議というのはそういう推測が成り立つから独立案の審議に比べて時間が短くてもいいという論拠にもなったわけですね。  言及しないと言うんですけれども、そうしたら今までしてきた議論というのは、社会的合意があるないも含めまして脳死判定、そこで死になるとかいろいろなことされましたけれども、これはもう全然抜きで考えてよろしいということなんですか、修正案のお立場は。もう頭から外してよろしいのか、私たち
  141. 関根則之

    関根則之君 先生十分おわかりだと思いますけれども、法律というのはそれぞれの守備範囲というのがありまして、その守備範囲の中で必要な規定をきちっとしていくという性格のものであろうというふうに私どもは考えております。  したがって、この修正案臓器移植というものを前提とした、そのための脳死判定について規定をしているんですから、そこのところだけ簡潔的にきちっとしてあればそれでいいんであって、そのほかの法の領域については、それはそれで今までの法律で十分なのか十分でないのか、十分でなければ立法の必要があるのかどうか、それは立法者の意思で必要があれば立法したらよかろうと、こういうことになるんだと思います。現行法の中でそれが支障なく処理ができるというんであれば、それは何もそこの部分について新しく法律をつくる必要はないかもしれない、そういうふうに私どもは理解をいたしまして、臓器移植に関して必要な限りにおいてこの法文をつくっていると、こういうふうに御理解をいただきたいと思います。
  142. 大森礼子

    大森礼子君 おっしゃることはすごくわかるんです。本当にそうなんです。だから、佐藤委員もずっと質問されているけれども、ちゃんと明快な答えがないんです。普通、立法目的とかありまして、その目的達成のための規定だと理解しておったんですが、実は中山案はそうじゃない、もう社会の一般死まで広げてしまったのでこれは大ごとだなというふうに思ったわけなんです。しかし、そうでありましたら、守備範囲内でありましたら、例えば死体解剖保存法にも死体が出てきますね、一定の場合には家族同意は要りません。それから、献体法にも死亡した者というのが出てきます。それから、細かい例ですけれども、墓地、埋葬等に関する法律でも死亡してから二十四時間たたないと埋葬ができないと、いろいろ死亡とか死とか規定したのがありますけれども、これにはもう直接は影響を及ぼさないと、従来どおりでよろしいということですね。簡単にイエス、ノーだけです。
  143. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 そのとおりイエスなんですけれども、ただ臓器移植の場合において脳死判定に従う意思を表示したときは、脳死した者の身体も死体に含まれると、このことは法律上規定しておりますので、臓器移植意思があって、本人意思があってという方については、脳死した者の身体も死体に含まれるとしていますから、これは法律死体ということに私たちはしているわけです。そうすると、他の法令においてもいわゆる脳死した者の身体というのは死体、死亡ということで扱われると思います。
  144. 大森礼子

    大森礼子君 ちょっとよくわかりませんね。どういうことですか。そうすると、この第六条二、三、四項の要件を満たしたもの、これはこの規定において特別法ですね、脳死した者の身体がこれが死体になると。そうしたら、この特別法の規定で脳死した者の身体になった者はほかの法律との関係でも死体、死亡として扱われるということですか、確認します。
  145. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 そのとおりです。
  146. 大森礼子

    大森礼子君 そうしますと、民法の相続とか、それでもこの要件を満たした人だけになるわけでしょうか。
  147. 関根則之

    関根則之君 民法八百八十二条の、相続の開始は死亡によって行われます。その死亡には、脳死した者の身体、これが括弧して死体に含まれますから、そういう状態になったときには相続は開始される、八百八十二条の相続開始の死亡があったものと解釈をされるというふうに考えておりますし、また例の検視ですね、刑訴法の二百二十九条、あそこの検視が行い得るようなそういう状態になったと、死体であるというふうに法律が宣言するわけですから、そういうことで検視可能な状態死体になったと、そういうことで検視可能になると思います。  そういう意味で、現在、相当数の死ないしは死亡、そういうものについて法律がありますけれども、この要件を満たしまして死体と判断された脳死した者の身体というものは、それらの法律の上で死亡したものあるいは死亡があったものというふうに取り扱われると考えます。
  148. 大森礼子

    大森礼子君 それはおかしいじゃありませんか。民法の「相続は、死亡によつて開始する。」、それもこの規定の結果そうなるとしたら、この特別法の規定、これは効果を及ぼすことになる。ところが、民法一条ノ三、「私権ノ享有ハ出生ニ始マル」、生まれたときから私権の享有主体となると、これは生まれれば人間平等にそのときから享有主体になりますよと、これは全部露出説で、この要件を満たせばひとしく平等に私権の享有主体になりますよというんです、生の、主体の。つまり平等に扱われなくてはいけない。そうだとすると、死の扱いについても平等でなくてはいけないと思うんです。このことは決して心臓死のほかに脳死を定めてはいけないというものではないんです。つまり、その脳死範囲内では平等な扱いがされなくてはいけないということだと思うんですね。  ところが、今のおっしゃりようですと、結局この規定によってこの要件を満たした場合だけ、相続の時期において、ほかの脳死者と言っていいのかどうか、この要件を満たさない、それは脳死状態になるのと明らかに差別を設けていることになりますね。そうでしょう、享有主体期間を短くするわけですから。これを合理的にどのように説明なさるんでしょうか。
  149. 関根則之

    関根則之君 先ほどから繰り返し申し上げておりますように、この修正案臓器移植を行う場面についてだけ規定をいたしておりますので、そのほかの問題については言及いたしておりませんから、臓器移植に関して死体というふうに整理をしておりますので、その臓器移植の場で死体に含まれてしまった人はほかの法律の上でも死亡したものとして扱われるであろう。私はほかの法律についての有権解釈を持っていませんから、有権解釈権は。考え方としてはそういうことだと、そういうふうに整理をして規定をいたしております。
  150. 大森礼子

    大森礼子君 だから、この法律の規定の範囲内でと、ほかの場合には言及していないとおっしゃるから、じゃほかの法令については影響はないんですねと、これはやっぱり確認しないといけませんもの。どういう立法効果があるのか。そうしたら、何かそうじゃないような言い方をされませんでしたか。私の聞き違いですか。ほかの法令についても同じようにこれが死体なんだと、かかるようにも扱われるっておっしゃいませんでしたか。何ですか、この議論の食い違いというのは。  もう一度確認します。これが死体となることによってほかの法令にも及ぶのですか。特に大事なのは民法の規定です。とりあえずは民法で結構です。どうなるんですか、相続規定、死亡、ここの要件を満たした人に含まれるんでしょうか。
  151. 関根則之

    関根則之君 この修正案が通りますと、この修正案によって一つの法律ができるわけです。日本法律ができるわけです。それで、日本法律に明文をもって、脳死判定を受けて、もちろんいろんな手続はありますけれども、そういう手続をすべて踏んで、脳死判定を受けて、そういう人は六条の一項で脳死した者の身体は死体に含まれる、こう明文をもって書くわけでございますから、少なくともその身体はこれは死体でありますので、特別法とはいえ日本国内の成文法としての一つの法律がこれは死体ですよといってきちっと明文をもって定めている以上、ほかの法律で生きているのか死んでいるのか、死亡したのか生存しているのか、そういう区分けをしているときには、ほかの法律でもこれは死体なんだから死亡したものと読まれるであろうというふうに私どもは考えております。
  152. 大森礼子

    大森礼子君 いや、読まれるであろうといいましても、特別法が一般法を変えるのかという問題もありまして、読まれるであろうと、じゃ先どうなるのかということをちょっと教えていただかないと、この法律ができることでどうなるのかわかりません。  ちょっと聞き方を変えてみます。  この修正案六条二、三、四項の要件を満たして脳死した者の身体になったらこれはこの臓器移植法案範囲内で死体なんだと、これはわかりました。死体とするこの理論構成なんですけれども、これは新たな死、そこを死と認定する規定なんでしょうか、それともこの法案に関する限りこの要件を満たしたら死体とみなすというお考えなのか、こういう聞き方をします。どちらですか。
  153. 今井澄

    今井澄君 みなすのではありませんでして、そこに括弧で書いてありますように、「脳死した者の身体」ということで、これは死体であります。イコールであって、みなすものではありません。
  154. 大森礼子

    大森礼子君 そうしますと、従来の三徴候説があります。それから、この法案によりまして一定要件を満たした、非常に制限された形になりますけれども、脳死した者の身体に該当すれば、それを新たなもう一つの三徴候以外の死として特別に規定しようということなんだと思うんですね。  そうしますと、これまでの社会的合意説も前提としないそうですから、新たな死を一つつくることになりますね。この根拠といいますか理論構成といいますか、これはどうなるのか。やっぱり自己決定権に求められるんでしょうか。
  155. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 臓器移植の場合については、脳死判定を受け入れる意思を表示している人に限って脳死した者の身体が死体に含まれるとしたものであって、そのようなドナー意思を尊重しようというものであります。  さらに、先ほど申し上げましたけれども、こういう条件に基づいた中での脳死を人の死とするという、脳死した者の身体を死体とするという程度の社会的合意はできているということを根拠にするんだろうと思います。
  156. 大森礼子

    大森礼子君 自己決定権ですか。
  157. 関根則之

    関根則之君 これは自己決定権によって死体になったり生体になったりする、そういう考え方はとっておりません。法律にきちんと明文をもって脳死判定を経たものについては死体の中に含めるということを書くことによって、一つの法律の制度として死体としての取り扱いがなされるということを決めたものでございます。  それじゃ、なぜそんな法律ができるのかという問題については、先ほどから申し上げておりますように、少なくとも臓器移植の場で本人脳死判定に従いますと、そういう意思表示を明確に示している場合に、その脳死判定された者の身体を死体と見る、死体に含めるということを認める社会的な合意というものは十分にあるものというふうに私どもは考えてこういう条文をつくったということでございます。
  158. 大森礼子

    大森礼子君 そうすると、またその死とする範囲中山案から比べるとはるかに狭くなりましたけれども、社会的合意があるのかどうかは何か確認する作業が要るのかなというふうに思います。  自己決定権で、例えば東海大学安楽死事件の下級審判決ですけれども、ここにもちょっと患者の死の迎え方を選ぶ権利、積極的安楽死の要件ということでその中に入れているとか、だからそういうものは社会の中に少しずつ出てきているのかなと思うんですが、それではないということで、わかりました。  それで、またさっきの問題に戻るんですけれども、要するに脳死した者の身体となって死亡した場合、その人の死亡時刻というのは二回目の脳死判定時でよろしいわけですか。それから、だから心停止時の時間というのは死亡診断書には記載しないものなのか、いかがでしょうか。
  159. 渡辺孝男

    渡辺孝男君 今回規定した死亡時刻に関しましては、脳死判定、第一回目の判定が行われます、その後に六時間以上の経過観察が行われまして、それで第二回目の脳死判定が行われます。その第二回目の判定時が死亡時刻となるというふうに考えております。
  160. 大森礼子

    大森礼子君 なぜこんなことを言うかといいますと、もともとの中山案の方には脳死脳死判定、それをもう死とするわけだから、そこが死亡時刻となっているんです。ところが、今回のこの修正案の場合は、さっきからよくわからないんですが、この法律の規定の範囲内に限って規定したものでほかの点については言及していないと言いながら、ほかの法令の死亡とか死体の中身を変えるような言い方もしますし、そうでないような言い方もして、よくわからないんです。  そこのところをはっきりしないと、例えばこの場合でも、もしこの特別法たる規定ですべてのほかの死とか死体とかその中身も変わっちゃうというのでなければ、やはり猪熊案の言う死亡時刻、臓器摘出による、三徴候でいくんですか、心臓摘出したら心停止にはなりませんけれども、要するに、その死亡時刻もあわせてはっきりしておきませんと、この第二回目の脳死判定が死亡時刻とここでばんと決めてしまうと、ほかの法令との間の整合性が問題になると思うんですよ。それで、もしほかの法律も全部この死亡で統一されるんだというのでなければ、やはりもう一つ念のためにしておきませんと変なことに、脳死判定の時刻とそれから心停止ですか、その時刻としておかないとおかしくなるんじゃないかなと思うんですが、いかがでしょうか。
  161. 今井澄

    今井澄君 そこのところなんですけれども、これが修正案か独立案かということで先ほどから御意見がございまして、括弧して書いてありますように、それは一定の条件のもとで脳死判定がされた場合は死体であるということで、基本的には中山案を踏襲するものであります。しかし、その背景になる認識として、脳死一般に関しての社会的合意がないというところから、臓器移植を目的とし、しかも二つの条件を満たすという本人意思、それがあった場合にのみ脳死判定をし、臓器摘出から臓器移植に至るということについてはおおむね社会的合意ができているだろうということで私どもはこの修正案を提出したわけでありますから、修正案という考え方に立っております。  そこで、今の他の法令との関係でありますが、これは表現は変えておりますが、死体の中に含まれる身体でありますので、これが例えば臓器摘出が行われた、あるいは場合によって何らかの事情があって行われなかった場合、その後、死体解剖保存法とか墓地、埋葬等に関する法律とかに関しては死体、死亡として扱われるという意味で、時刻は脳死判定の第二回目ということで中山案を基本的には踏襲しております。
  162. 大森礼子

    大森礼子君 今言った限定的な社会的合意といいますか、これはわかるんですよ、だってそれは猪熊案がずっと言っていたことですから。それからアンケートをとりましても、NHKのアンケートもそうですし、それから脳死臨調の提出した国民の方の意識調査の方でも、脳死を人の死としないで臓器移植を認めるという御意見が一番多かったわけですから、この範囲内で合意があるとおっしゃることは特に私も否定いたしません。  ただ、やっぱりほかの法案との関係が気になるんですね。死体解剖保存法七条二項で遺族の承諾なくして死体解剖できる場合を定めるわけです。今の御説明ですと、要するに、この死体には脳死した者の身体も含むことになるわけです。うなずいておられるから、そうだと思います。  何でこんなことを言いますかというと、中山案を悪くばっかり言っているみたいであれですが、要するに生体実験とかに利用されるんじゃないか、こういうことを心配された方もいらっしゃるんですね。現に、何か教えていただいたことによると、「ブレインサイエンス」の一九九〇年四月—十月号に、ある大学の法医学の教授が、「脳死体の活用」ということで「移植臓器摘出にとどまらず、血行のある状態での医学生の解剖実習、若手医師手術法の習得、抗体の作成、脱血による輸血用血液の採取など様々な活用が考えられる」と、こういうことを意見に出されたから、そういう心配があったんだろうと思うんです。  そうしますと、今の解釈ですと、死体解剖保存法との関係での死体には含まれるということでよろしいんですか。確認させてください。  何でこんなことを言うかといいますと、一度厚生省にレクチャーを受けましたら、レスピレーターをつけたままでこんなことはできませんよとか、血が噴き出るような解剖なんかありませんよと、余り合理的な理由でないと思われることでちょっと言われたものですから、確認させてください。
  163. 今井澄

    今井澄君 先ほどから繰り返しておりますように、一般的に、本人同意があるとかないとかにかかわらず脳死というものが存在するというふうなことについては一切言及しておりませんので、本人意思脳死判定を受け、臓器提供するという者についてのみ、そこで脳死判定が行われるわけですから、その判定が行われた二回目の時刻が死亡時刻ということになりますので、それ以降は相続の問題でも死体解剖保存法でも死体として扱われるということについては、そのとおりでございます。
  164. 大森礼子

    大森礼子君 言及しないと言いながら何か影響を与える、そこら辺が私は今聞いていて整理できません。  ただ、例えば相続の例を一つとりましても、少なくとも相続開始にはなるということですね。そうしますと、特定の臓器移植を実現するためだけの人についてそこで相続開始を認めるという、ほかの人と同じような亡くなり方を、脳死が先に来られる方もあるわけですから、その中でもこの人だけよきにつけあしきにつけ特別扱いするということにはやっぱりもう少しきちっとした理由づけが要るんだろうと思います。  それから、もう時間がありませんのでお聞きしますが、少なくともこの修正案、この臓器移植に限ってのみ死体とするというのは、脳死臨調答申ではやっぱり否定されておりますね。もしかしたら猪熊案よりもっと強い調子で否定されているのかもしれません。このことについて、臨調の答申に反する案であることについて、修正案の方はどうお考えになるんでしょうか。  それから、これにつきましては厚生省の御見解もお聞きしたいと思います。
  165. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 脳死臨調におきましても多数意見とか少数意見がありました。その総まとめの最終的な結論としては「「人の死」についてはいろいろな考えが世の中に存在していることに十分な配慮を示しつつ、良識に裏打ちされた臓器移植が推進され、それによって一人でも多くの患者が救われることを希望するものである。」と述べております。  その意味で、私どもは脳死臨調の最終結論に沿った形での修正案になっている、こういう認識を持っております。
  166. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) お答え申し上げます。  今の御議論脳死をもって死とするか、または心臓死によるかの選択権を認めることについて、脳死臨調におきましては次のように書かれております。
  167. 大森礼子

    大森礼子君 そこじゃなくて、その説は、それもあるんですが、多分そこはほかの方がお聞きになると思いますし、要するにいろんな説があるなと。個別脳死説は否定されておりますね。  いいです。この質問は取りやめます、後の方が聞かれると思いますので。  いずれにしましても、もう時間ですから終わらなくてはいけないんですけれども、これまで中山案はずっと脳死臨調のことをベースとして言ってこられました。猪熊案を否定する場合にもそうです。だから、そこで中山案修正案としてきたものがまた臨調答申と外れると、本当に何回も繰り返しますが、中山案修正案というのかなという問題があると思います。  いずれにしても、きょう本当にこれは審議が終わるんでしょうか。あした、参議院の本会議で記名採決というふうに言われているんですけれども、本当なんでしょうか。党議拘束を外すところが多いので、議員一人一人が自分で判断して投票することになるわけです。修正案内容についての議員に対するインフォームド・コンセントは本当にきちっとされているだろうかなという疑問を呈しながら、質問を終わらせていただきます。
  168. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 修正案についての質問を行います。  大森委員修正案の発議者との問答を聞いておりまして、私も率直によくわからなくなったなという感想を持っております。  単刀直入にお伺いいたしますが、修正案六条で言う「脳死した者の身体」、これは法律的には死体なんですよね。
  169. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 結論からいいますとおっしゃるとおりでございまして、したがって中山案のいわゆる「脳死体」と、それから私どもが提案しております「脳死した者の身体」というのは、法律上の概念としては人の死体であるというふうな点については同じである、法律上同じであるというふうに御理解いただいて結構ではないか、こんなふうに思います。
  170. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 中山案で言う「脳死体」、それから修正案六条の「脳死した者の身体」、これは言葉の上でのというか、表現は違うけれども法律的な概念としては死体だということでは同一である、こういう御説明でございました。  ところで、今、中山案それから猪熊案、大きな論議になっておりますのは、脳死を人の死とすることについて我が国においていわゆる社会的な合意があるのかないのか。中山案猪熊案の大前提になる脳死を人の死とすることについての社会的合意の存否について大きな争いがあって、これまでさまざま論ぜられてきたわけであります。  そこで、この修正案は、脳死を一般的に人の死とするということについては社会的な合意までは認められないけれども、修正案六条で言う、本人臓器提供意思表示をあらかじめやっておった、それから脳死判定にも従うという書面による同意もある、それから家族もそれを拒んでいない、この限りにおいては脳死を人の死とすることについて社会的な合意を認めようというお考えだという説明でございました。  ところで、そのことについて、そういう限定的な場合には社会的な合意があるとする根拠について、先ほども大森委員からも聞いておりましたが、説明を聞いてもその根拠が十分わからないんです、そこをもう一度、私にも国民にもわかりやすいように説明していただきたい。
  171. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 十分お答えになるかどうかあれですけれども、私どもとして、こうやって衆議院から含めれば、本当にことしの国会の大きなテーマの一つとして臓器移植に関する法律についてさまざまな論議を交わしてきたということではないかと思いますし、この委員会そのものの新しい設置も、まさに臓器移植というものにつきまして何とか法律的な筋道をつけていく手はないだろうかというのが願いではなかったかな、こんなふうに思います。  そういう意味では、何とかそこのところをつなぐ手はないかということについての国民的な許容というのがあるからこそ、こうした形での審議が進められているのじゃないのかな、こんなふうに思うわけです。  ただ、脳死について一般的な死だということまで含めて国民的な合意というものがあるかどうかということになりますと、この審議あるいは数回行われました公聴会等々を通じましてさまざまな御意見がございますので、今の段階におきまして、法律的に一般的な死として脳死を扱うということについては、国民的な合意あるいは社会的な了承、受け入れていくということについてはまだちょっと幅があるのではないか。  こんなふうなことを考えまして、少なくとも法律的な目的でございます臓器提供ということを目的とする限りにおいて、一定の条件下においてそれを死として扱い、その脳死した者の身体を死体の中に含めるということについては、社会的な合意というものが形成されておるのではないか、こんなふうな判断に立って修正案を提案させていただいた、こんなふうに理解しておるところでございます。
  172. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 一定要件のもとで、要するに修正案で言う要件のもとで脳死を人の死とする、あるいは脳死した者の身体は死体だ、死んだものだと、こういうふうにすることについて社会的な合意があるものと考えるというのはよくわかる。皆さんのその言い分はわかるんですよ。しかし、それは修正案の発議者がそう思い込んでいるのであって、修正案の発議者の皆さんがその限りにおいては社会的な合意があるという、その理由がわからないんです。  修正案六条で言う要件を満たす限りにおいては、脳死一般は人の死とすることについて社会的な合意はないけれども、修正案要件を満たす限りにおいては国民も受容するだろう、社会的な合意があるだろうと。その具体的な理由がわからないんです。その修正案を考えていらっしゃる方々がおっしゃる理由が。そこをもうちょっと。
  173. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 Aであれば必ずBであるというふうな意味での根拠といいましょうか、必然性というふうな機械的な、必ずそうなるというふうなことでの根拠というのはなかなか容易ではないし、まさにこれこそ立法府における判断というものではないか。  ここで、例えば臓器移植、肝移植を受けた方、受けてこられた方の御発言だとか、そういうふうにいろんな例があるわけでございますので、そういった社会的なさまざまな方々の御意見あるいは諸状況、客観的な状況ですね、諸外国では移植がたくさん行われておるというような状況の上に立って私どもが判断せざるを得ない点の一つではないか、こんなふうに思います。  あと、社会的な受け入れの度合いというようなことも勘案して私どもがどう判断するかという問題なのではないか、こんなふうに思います。何か根拠が、化学式みたいに必ずこうなるからこうであるということとはちょっと違ったような、まさに立法府としての一つの判断というものがそこに加わってこざるを得ないのではないかな、こんなふうに思えてなりません。
  174. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 そうすると、修正案六条で言う「脳死した者の身体」という新しい法概念というんでしょうか、それは従来にない人の死の定義ということについてこの修正案でもって新しく死の定義にかかわる法律概念をつくったと、こういうふうに理解していいんでしょうか。
  175. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 まだまだ不勉強かもしれませんけれども、死体ということにつきまして、どういうものを死体と言うかということを積極的に定義した日本における法律というのがないというふうに考えざるを得ない状況じゃないかなと思います。  そういう意味からしますと、死体というものの中に脳死した者の身体を含めるというふうな意味で積極的な一つの考え方を示したという意味では、今までの日本の中における法体系の中ではいわば新しい考え方の一つだというふうに言えるのかな、こんなふうには思います。
  176. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 例えば夫婦あるいは親子でも結構だと思いますが、同時に脳死になったというふうな場合に、修正案の六条の要件を満たす、すなわち臓器提供意思表明があり、それから脳死判定に従う旨の意思表明もあり、そして家族も拒まないと、こういう要件を満たした者と、それからそうでない者が同時に発生をする場合だってあり得ると思うんです。その場合には、結局、臓器移植以外の場合の脳死した者の身体というんでしょうか、これはこの法案によっても生きている、こういうふうに考えていいんですよね。そうなんですか。
  177. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 そこは、積極的な規定の仕方は、私どもの修正案では特段の規定はしてございません。  先ほどの答弁にございましたように、私どもの修正案は、臓器移植ということの場合においてのみといいましょうか、において一定の条件が合った場合に死体に含まれるものだというふうなことを規定しているにとどまるものでございます。その他の法律あるいは他の法律関係について積極的にこの法文上、何かそれに積極的に影響を与えるものを新たに規定したというふうなものではないというふうに思います。ただいまのような設例についてもさまざまなケースがあり得るのかと思いますけれども、特段この法律によって積極的にそこに介入してどうこうというふうなつもりは私どもとしては持っていないというふうに理解しております。
  178. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 そうすると、修正案に対しては、やっぱり統一的であるべき死の定義が二元的になるんじゃないかとか、あるいは今さっき指摘申し上げましたように、民法の相続開始の原因になると、脳死した者の身体が。そういうことになれば、やはりよく指摘されております子のない夫婦が同時に脳死状態になった場合に、一方は修正案六条の要件を満たす、一方は満たしていない、こういう場合に相続問題でやっかいな問題が生ずるんではないか、要するに法的安定性を欠くのではないかと。このような民法学者の懸念というか指摘、このことについては修正案の発議者はどのように考えておりますか。
  179. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 繰り返しになりますけれども、法律上の構成としては、他の法律関係について一定要件だけでございまして、範囲でございまして、その他の点については積極的に法文上関与したものではないということは繰り返させていただきますけれども、かといって、それによって従来の法律体系なり関係というものが阻害され、あるいは混乱するというような事態には立ち至ることはないというふうに思っております。
  180. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 修正案法律として国会を通過した場合に、六条で言う「脳死した者の身体」というのは、どうも他の法律との関係でどういう扱いをするのかということについては、修正案の発議者の考え方が私は混乱しているんじゃないかというふうに思うんです、率直に。他の法律には関係ないみたいなことをおっしゃったり、あるいは民法で言う相続原因になるんだというふうにおっしゃったり、どうもよくわからない。  ともあれ、そういう限りにおいても修正案というのは私は大いに問題がある。これは他の法律との関係でも、実定法との関係でも混乱や紛争を持ち込むものになるという私の考えを申し述べておきまして、あと大脇先生も私どもに与えられた時間の範囲で質問することになっておりますので、お譲りをしたいと思います。
  181. 大脇雅子

    大脇雅子君 これまでの審議によりますと、中山案臓器移植が許される法的な根拠は、脳死は死であるという医学上あるいは社会的なコンセンサスが形成されている、したがって脳死は確認的な死であると、そういうふうに言われていて、猪熊案におきましては、本来人権の享有主体として生者であるけれども、死の終末の自己決定権に基づく個人の尊厳ということにおいて初めて違法性の阻却ができるんだというところで対立をしていたわけです。  修正案としては、臓器移植に関してのみ限定的に脳死を死とするということでありますけれども、そういう限定的に脳死を死と認めるその根拠は、この中山案猪熊案の根底のどちらに依拠されているわけですか。
  182. 今井澄

    今井澄君 どちらにと言われると、どちらにという二つしか選択肢がないのは大変困るわけですが、先ほどから申し上げておりますように、基本的にこの第六条の一で規定いたしましたように、「脳死した者の身体」ということで、これは死体、死であるというふうに考えております。  しかし、そのことが、これまでの審議の中でも明らかなように、実は大分前に脳死臨調で大方の社会的合意を得られているということが言われたにもかかわらず、この間の審議を踏まえてもなかなか合意が得られないとなると、これが一般の脳死ということに拡張されるのを避けなければならない。  しかし一方、現に臓器移植というものが行われているわけですね、例えば生体移植とか行われている。また、日本人外国に行って脳死からの心臓移植等を受けている。こういう事実について環境を整備するという意味からいうと、本人意思がはっきりしている場合には脳死判定を行ってよろしいというふうに考えることが大方の社会的な合意を得ているんではないかという意味で、中山案の基本的な考え方を狭めたと。臓器提供前提とする本人意思がはっきりし、脳死判定をしてもいいということがはっきりしているものに限定をしたと、そういう意味でお受け取りいただきたいと思います。
  183. 大脇雅子

    大脇雅子君 そうしますと、大森議員照屋議員も何回も確認をしているわけですが、この臓器移植に際して本人同意があって脳死が認められる場合以外は生者であって、これは今までの三徴候死によって死を認定するということには間違いないですか。
  184. 今井澄

    今井澄君 それは、ここでは臓器移植前提としてのみ脳死判定というものを規定しているわけでありますから、それ以外のことは規定していないということになると、この修正案からいうとその他のものは死ではないわけです。
  185. 大脇雅子

    大脇雅子君 そうすると、六条の二項、六条は創設的規定と解釈されると思うんですが、これは間違いありませんか。
  186. 今井澄

    今井澄君 済みません、もう一度ちょっと質問の趣旨を。
  187. 大脇雅子

    大脇雅子君 脳死を死と認めるのがいわゆる創設的な考え方なのか確認的な考え方かということで、今までは確認的な考え方という説明中山案については受けてきたわけです。猪熊案違法性の阻却ということであるわけですが、どう考えても修正案は確認的な条項とは思えない。そのほかは今までどおりということになれば、これは死を創設した規定だというふうに認定せざるを得ないと思うわけですが、その点を確認させてください。
  188. 関根則之

    関根則之君 法律の解釈をする上で、この規定は創設的なものか確認的なものかという区別をしていることは私もよく承知をいたしております。  しかし、これはいわゆる講学上の言葉でございまして、私ども法律をつくる立場の者、立法作業に携わる者としては、一つの法律をつくるということは、そこで社会的な規範、法律上の規範をきちっと措定するということですから、大体社会一般に合意がなされているような事項でもちょっと合意が足りないかなというようなところを補って引き上げていく、そういうことはあると思うんです。完全に社会的合意をそのまま写すのであればもともと法律は要らない。社会的合意でやってもらったらいいわけです。  そこのところを法律の明文の規定をもって措定してしまう、規定してしまう、その作業を今私どもはやっているわけでございまして、これが純粋な意味で確認的な規定であるのか創設的な規定であるのかということについては、私どもはそこのところはむしろどちらとも言えない、あえて言えば中間的なものだ。完全にあるものをただ写しただけのものではない。かといって全く社会的な合意というものからかけ離れてしまって全然別な遊離したものを法律で書こうとしているものでもない、そういうものでございます。
  189. 大脇雅子

    大脇雅子君 それは立法者としては無責任になるのではないでしょうか。ということは、どっちかというのではなくて、これは立法上非常に重要なモメントでありまして、もし創設的な規定であるとすれば、新たにそれを合法化し適法化する根拠というものは一体何かということをきちっと法律上の根拠に求めなきゃいけないので、ただ社会的に合意があるからふわっと立法するというのではこれは立法としてはおかしいわけであります。中山案はそういう脳死は死という点を医学的にも社会的にもあるということから確認できたと今まで言われたわけですから、そのふわっとした修正案というのはおかしいと思います。
  190. 今井澄

    今井澄君 そういう法論理的なお話というのは私にはちょっと理解しかねる話なんですが、例えば現在なぜ我々が立法府として法律をつくろうとしているかということは、理解しかねるというのは私が不勉強だからということなんですけれども、そういう意味でとってください。  それで、先ほども申し上げましたように、臓器移植という行為は現実に行われているわけです。ただ、心臓とか肝臓については、これは脳死状態あるいは脳死体といろいろ表現されるそういうところから摘出しないと行われないわけで、日本人でそれを望む者が外国に行ってやっているという事実があるわけです。  それで、一方において生体移植とかそういう臓器移植が認められており、もう一方、提供してもいいという人がいれば脳死からの臓器摘出等、臓器移植もいいのではないかというある意味では共通の方向に向かって、それではどのような法の整備をすればいいのか、どういうふうに環境を整備すればいいのかということで、この間、脳死臨調以来、立法府においても衆議院そして今参議院議論が行われてきているんだと思うんです。  そこで、中山案では脳死は一般的に人の死であるということで社会的合意も得られている、医学的にも生物学的にもそうだということについて、これではなかなか納得が得られないということがこの間の審議でわかってきたんだと思うんです、脳死臨調の多数意見にもかかわらず。  そうなってくると、そういうところが意見が一致しないからこのまま放置するということが果たして許されるのかという問題意識から、私どもとしては中山案考え方を限定する形で、本人意思の表示に従ってということで修正案を出したわけです。根拠としてはそこのところを、先ほど申し上げましたように、一般的に社会的な合意ができているとは言いにくい状況にあるけれども、臓器移植前提とし、しかも本人意思が明示されている場合、この六条の二項、三項に書いてある場合には脳死判定をすることについては社会的な合意が得られるのではないかというふうな認識を根拠としております。
  191. 大脇雅子

    大脇雅子君 そうしますと修正案では、脳死判定をして死体と認定された人の死と、いわゆる三徴候死の自然死と、法律的にも二つの死を認める、そういうことになりますか。
  192. 今井澄

    今井澄君 これは、一人の人間についてはどちらか一つしかないわけですから、二つを認めているわけではありません。
  193. 大脇雅子

    大脇雅子君 私は、同一人で二つの死というのではなくて、ある人は脳死の死、ある人は心臓死の死、そしてその死がそれぞれ別個に法体系の中で二つあるというふうなことを認められるのかと。
  194. 今井澄

    今井澄君 それは、先ほどから繰り返し申し上げておりますように、臓器移植前提として本人意思脳死判定を受ける、臓器提供するという者についてのみ脳死判定をするわけですから、そういうことについては二つとかそういうことではない、一つしかないと思います。
  195. 大脇雅子

    大脇雅子君 いや、だけどそれは結果的に二つを認めることで、ある一方は知らないよと、臓器移植に関するものだけ脳死は死と認めるということは、それは法体系上おかしいのではありませんか。特に、社会的な合意があるからすべて合法化し適法化するという法理論は全くないのであって、憲法に基づけば、修正案は法のもとの平等に反しないかどうか、個人の尊厳というところからはどういう意味を持つのか、こういうことはやはり厳密に検証されなければならないと思うんですが、いかがでしょう。
  196. 関根則之

    関根則之君 死の定義というのは法律上どこにも書いてないんです、今までの法律を見ても。厚生省令で死産児といいますか、死産の場合の判定を書いていますよ。呼吸をしていないとか心臓が動いていないとか、あるいは筋反応というか筋力が全然出てこないとか、そういうことを書いていますが、あれは別に死の定義を書いているんじゃなくて、死の判定基準を書いているんです。こういうときには死と判定してよろしいよという判定基準なんです。それから、脳死という概念そのものは、判定を受けた人はそこで死になりますけれども、判定を受けない人は同じような身体的状況であってもそれは死体とはされない。  そういう意味で、死の概念そのものは一つなんです。二つあったり三つあったりするものじゃない。それを判定する方法がいろいろありますよと。心臓がとまることによって、ああこの人は亡くなったんだなといって判定する方法と、それから今のように脳死によって死んだんだなというふうに判定をする方法とある。  その中で私どもは、法律の上できちっと、脳死になったときに死体として分類をし、これこれこういう条件を持っているときにだけ死体に含めて考えますよということを規定したのであって、そこのところの判定の仕方を法律できちっと書いている、そういうものでございまして、死の概念そのもの、それを二つも三つも前提としているものではありません。
  197. 今井澄

    今井澄君 ちょっと補足。  死が二つあるとか一つだとかということについて、私は、死というのは一つの過程だと思うんです。人によって違うんです。最初心臓がとまる人もいるし、呼吸がとまる人もいるし、脳死になる人もいるし、いろんな過程を通ります。それから、例えば三徴候死心臓死といいますけれども、先ほど宮崎先生のお話にもありましたけれども、昔は脈を診て死と判定したわけですよね。ところが、今は脈が振れなくなっても、心電図でこれ動いている間は心臓死とは判定しないわけですから、今、関根先生からも申し上げたとおり、これはその時々の科学的な水準や社会的な状況合意、そういうものの中でその手順、手続が決められており、それに基づいて死亡時刻が決まるというものであって、別に一つあるとか二つあるとかというものではないというふうに考えております。
  198. 大脇雅子

    大脇雅子君 いや、それはやはり二つになるわけです。あるいは三つになるかもしれない。それはないと言われたって、それはそういう修正案見解に立たれれば法体系上は二つの死ということを認めて、その二つの死に対して相続や民法とか刑法がさまざまな死との関連条項を置いているときに、それによってそれが動くということになるわけだと思います。  時間がありませんから、特に私が最後に申し上げたいのは、修正案というのは、臓器移植というのはいいもの、いいものと言うとおかしいんですが、なぜいいのか、今なぜ許されるのかという法的根拠をもう少し厳密に検討されなければ、合法性と適法性というのは認められないのではないか。だから、自己決定なら自己決定権とおっしゃるべきであろうと思いますし、脳死の死が医学的にそういう既に死として確定しているなら確定しているで、そこを中山案猪熊案はぎりぎりと法的に詰めて、あいまいなことを許さない理論的な構成をしているということに対して、非常にその点についてはあいまいではないかというのが私からのコメントであります。  終わります。
  199. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 午前の質疑はこの程度にとどめ、午後四時に再開することとし、休憩いたします。    午後一時六分休憩      —————・—————    午後四時一分開会
  200. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ただいまから臓器移植に関する特別委員会を再開いたします。  休憩前に引き続き、臓器移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)を議題とし、本案の修正案に対し質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  201. 中尾則幸

    中尾則幸君 民主党・新緑風会の中尾でございます。  今回、脳死は人の死か、あるいは臓器移植あり方について、大変国民が注目する中で私ども論議を続けてまいりました。そして、今回、さまざまな国民世論あるいは委員会等の質疑を受けて修正案が先ほど提出されました。この修正案を提出された関根先生を初め皆さんの御努力には深く敬意を払いたいと思います。  しかしながら、国民注視の重要法案について、マスコミのみならず世論、そして私は先日大阪地方公聴会にも行ってまいりましたが、その公述人方々の中にも参議院審議を十分尽くしてほしいという意見が多数ございました。  これについて、参議院あり方、二院制のあり方が今大変問われているときではないかと私も期待を持ってこの質疑に臨んでおるわけでございますが、こうした世論にどうこたえていくのか。これは私どもの立法の問題でもございますから、質問ということにならないかもしれませんけれども、国民の皆様あるいはそうした意見について、旧中山案と申し上げてよろしいんでしょうか、中山案あるいは猪熊案の、前回提出されたその法案提出者の方にもし許されれば御意見をお聞かせ願えればと思います。
  202. 五島正規

    衆議院議員(五島正規君) この問題に関しまして国会における審議が十分尽くされているかというお尋ねであるかと思いますが、本委員会における審議あり方につきましては、基本的に本委員会において判断されるべきものと考えます。  中山案提案者といたしましては、平成六年四月に最初に本法を国会に提出して以来既に三年余りが経過しており、移植以外では助かる道のない多くの患者さんたちの期待に一日も早く応じるべきではないかと考え、審議を進めてまいりました。  事実、衆議院の本会議、厚生委員会における審議においても、また本院の本会議特別委員会における審議を見せていただきましても、さまざまな角度から幅広い議論が熱心にされており、この問題の重要性に照らしてみても十分な審議が行われているものではないかというふうに考えております。
  203. 堂本暁子

    委員以外の議員(堂本暁子君) 日程のことについては委員会の理事会で決めるわけですけれども、私は、けさの審議でも出ましたように、中山案と今回出されました修正案は本質的に大変大きな違いがあると思っております。  と申しますのは、今まですべての死に波及するような形で、普遍化した形で脳死を人の死にするという形から、それを非常に限定的に狭めたという御説明がけさございました。その段階で、特に法律的な問題で、検視の問題とかそれから検察の問題、いろいろ出てまいります。例えば交通事故があったときに、ドナーカードを持っていたら脳死判定が直ちに行われて事故死になる、それが逆にその方がドナーカードを持っておられなければ三日、四日お生きになるということもあるわけでございまして、そのときにドライバーさんの罪が違ってくる、量刑が違うというようなこともあるかもしれません。  そういうようなことがまだ何にも詰められていないという段階で申しますと、私はまだまだ国民が納得するまで私どもの委員会議論が尽くされるべきだと考えております。
  204. 中尾則幸

    中尾則幸君 今、堂本先生のお答えにもありましたけれども、これはどう見ても修正案が単なる字句の一部の修正でなくて基本的に大きな問題が修正されたと私も認識しております。  時間もございませんので、修正案問題点について端的にお伺いします。  まず第一点でございますが、先ほどからの御答弁を聞いていてもどうもわからない。つまり、臓器移植以外の目的、例えば治療方針の変更等で脳死判定された人は生体なのか死体なのか、これは明らかであると思いますけれども、この際はっきりさせていただきたいと思います。
  205. 今井澄

    今井澄君 本修正案では臓器移植の場合以外のことについては言及しておりません。
  206. 中尾則幸

    中尾則幸君 確かに先ほどから臓器移植以外については言及していないと言いますが、これが例えば臓器移植を目的として、本人同意家族同意もありますけれども、それでいわゆる死体脳死イコール人の死と決めても、影響はあるわけです。先ほどからの御議論にありますけれども、じゃこの法律だけで済む問題なのかどうか、刑法あるいは民法に及ぶかどうかということをもう一度確認させてください。
  207. 今井澄

    今井澄君 先ほどから申し上げておりますように、臓器移植を目的として本人が書面によって臓器提供及びそれに先立つ脳死判定を申し出ている場合については判定を行い、そこでその判定基準に合った場合にはもちろん死体あるいは死亡として他の法律関係でも扱われることは当然だと考えております。
  208. 中尾則幸

    中尾則幸君 確認したいんですが、刑法並びに民法等にも及ぶというふうに理解してよろしいですね。
  209. 今井澄

    今井澄君 そのとおりです。
  210. 中尾則幸

    中尾則幸君 続いて伺います。  臓器移植以外の一般の患者脳死判定は一体どうなるのか、家族同意拒否権はあるのか。  当委員会では、中山案について何度か私はこれは確認させていただきました。例えば、侵襲性の高い無呼吸テストを行う、これは家族へのインフォームド・コンセントが必要だ、つまり同意が必要なんだから拒否権が生ずるという考え方を確認いたしました。ただ、今度修正案が出ましたので、恐らくその考え方には違いはないのかなと思いますが、これを確認させてください。
  211. 今井澄

    今井澄君 先ほどから申し上げておりますように、本法案臓器移植の適正な実施に必要な事項について定めているものでありまして、臓器移植以外の場合の脳死判定については規定していないところであります。もちろん現場においてはいろいろな状況があり得ると思いますが、臓器移植以外の一般の場合に脳死判定が問題になる場合につきましては、判定に当たっては家族に対して脳死に関して十分な理解が得られるような説明を行い、その理解、同意を得て判定を行うことが重要だと考えております。  したがって、本修正案考え方によりますと、家族が拒否した場合、賛同が得られない場合には、結果として脳死判定は行われないというふうに推測しております。
  212. 中尾則幸

    中尾則幸君 なぜ私がこういうことを聞くかといいますと、今まで中山案猪熊案審議を尽くしてきたわけです。今度新たに修正案が出ましたので、私はそれを確認しておく要があるかと思うんです。  それからもう一点、一般患者脳死判定をどうするかというのは大事な問題でございまして、例えば医療現場で治療の打ち切りなど、今大変心配する声が出ているということでございます。その懸念がありましたので確認させていただきました。  次に、附則第十一条、脳死判定後の処置費用についてお伺いします。  治療方針変更のため、臓器移植以外の目的で脳死判定を受けた者についての特別の規定はございません、今回は。公的医療保険の適用を受けるのかどうか、端的にお答えください。
  213. 今井澄

    今井澄君 主として第六条の関係修正案を提出させていただいたわけですが、附則第十一条の関係につきましては、現在も脳死判定後も心停止に至るまで医療保険の適用を受けているわけでありますから、私どもの修正案を提出した段階でもこの事態に変更が起こるとは思いません。
  214. 中尾則幸

    中尾則幸君 厚生省にも伺います。
  215. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) 医療現場におきましては、脳死判定後においても家族医師との話し合いにより人工呼吸器の装着等、必要な処置が継続して行われていると承知をしており、医療保険上、心停止まで医療給付がなされておる現状にございます。  この点につきましては、脳死臨調答申におきましても、脳死判定後一律に人工呼吸器のスイッチを切らねばならぬとすることは、人々の感情や医療現場の実情からかけ離れている可能性があり、十分な配慮が必要であるとされていることも踏まえ、中山案の附則第十一条が設けられたものと理解をいたしております。こうしたことから、修正案が成立してもこの扱いに変更を加える必要はないものと考えております。
  216. 中尾則幸

    中尾則幸君 ただいまのお話、御説明を聞きまして安心いたしました。  続いてでございます。臓器提供本人臓器提供意思表示をした場合、書面にて提供意思を確認する、あるいは脳死判定も今度は確認する、これは大変結構なことでございます。それに家族が加わるということでございますが、さて、その提供する臓器、例えば心臓、肝臓、肺とかいうことで規定されておりますけれども、この種類についても、これはドナーカード等に事前に本人の了解といいますか、これは必要なことだと思いますけれども、それをドナーカードに書き込んでいくのか、そこら辺についてはどういうふうなことになりましょうか。
  217. 今井澄

    今井澄君 ただいま各種のドナーカードが試行的に使われたりしておりますが、現在ほとんど常識的には自分が提供する臓器について丸をつけるとか記入するとかいうことが主流になっていると思いますので、当然そういうことになると思います。
  218. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) 中尾先生の御指摘のとおりに、個別の臓器ごとに提供する意思有無が書面で確認できるようになっていることが好ましいと考えておりますし、また家族の承諾についてもドナーカードに記載することの方がより好ましいのではないかと考えております。
  219. 中尾則幸

    中尾則幸君 大変ありがとうございました。家族同意もと、次に聞こうと思ったんですが、結構でございます。  次に、臓器提供意思の有効年齢について、下限、これは何度も私は質問申し上げました。当初、中山案では十五歳相当、民法で言う十五歳相当が一応の目安というふうなお答えをいただきました。厚生省も民法の遺言可能年齢が十五歳ということでお答えをいただいております。それで、仮に十五歳ということで決まれば、原則的に臓器摘出は困難というふうに厚生省はお答えいただいています。そうしたら、仮に十五歳ということで決まればという、ちょっと私ひっかかるんですが、どこでどう決めるんですか。例えば、これが成立しますと三カ月後に施行されると、こういう大事な問題をどこでどう決めるのか。
  220. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) お答えいたします。  この十五歳をどう決めるのかという話でございますけれども、公衆衛生審議会に御意見を伺いまして、その後ガイドラインを出したいと、このように思っているところでございます。
  221. 中尾則幸

    中尾則幸君 前にも厚生省からお答えいただいたように、十五歳が一つの目安ということに変わりはありませんか。
  222. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) 変わりありません。
  223. 中尾則幸

    中尾則幸君 ありがとうございます。  相続の問題について一言お伺いします。  先ほどもお話が出ていましたけれども、例えば御夫婦が交通事故で、夫の方が臓器提供の生前御意思を確認しておる、奥さんの方が臓器提供については書面を出すなどの用意をしていなかったという場合に、片一方は脳死イコール人の死でありまして、片一方は心臓死ということで、いろいろ相続の問題が出てくると思うんですよ、時差が出てきますので。  これについて、大臣にも一言聞きますから、簡単にお答え願います。
  224. 今井澄

    今井澄君 御質問のような場合には、御夫婦それぞれの意思を尊重して、その意思に従って処理されるわけでありますから、死亡時刻は脳死心臓死それぞれの基準に従って厳密に確定するわけであります。
  225. 中尾則幸

    中尾則幸君 残り時間がなくなりました。最後に大臣、一言。  いわゆる今の医療、救急医療の日大の林先生の言われている脳の低体温療法で蘇生限界点が少しずつ動いているんじゃないかという指摘もございます。  それで、今後、脳死判定基準の柔軟な見直し、それから脳死判定の厳しい第三者機関のチェック等が私は必要になってくるのではないかと思うんですが、本法律案が成立するかどうかは別として、こうした動きについて大臣の御所見を伺って、私の質問といたします。
  226. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) 脳死について先ほども御意見がありましたけれども、一般国民からすれば、植物状態脳死の違いというのがよくわからないというのがまだ結構いるということから、脳死になってもまだ生き返るんじゃないかという危惧というか期待といいますか、両方、不安だという面もあると思うんです。  しかし、現在の医学水準、また医学の学会関係者等、脳死判定というのは、もう絶対生き返らないという、この脳死判定に誤りがあってはならないと思います。そのためのしっかりとした信頼されるような体制をどうやってとっていくか。そして、脳死というのは、あらゆる治療をやってももう生き返ることはないという、これが脳死判定なんだということを国民にわかってもらう。そして、今後、医学の水準、進歩によっては、この基準も絶対変わらないとは限らない。今後、その医学の進歩、水準に合わせて見直しというのは必要だろうと思っております。
  227. 川橋幸子

    川橋幸子君 修正案が提案されましてから第六条をめぐりまして大変な激論があったところでございます。確認的な規定なのか、それとも創設的な規定なのか、それによってこの修正案というものが、中山案修正案にとどまらず、第三の案の性格を有するのではないかと思われるところがたくさんございます。私も拝見したところでは、二つ中山案猪熊案の両者の妥協点を探る努力は大変多といたしますけれども、このあたりの、これは法律上の解釈になるのでしょうか、統一的な意思を固めていただく必要があるのではないかと思います。  これは感想だけでございまして、さて質問に入らせていただきます。  この六条は、中尾委員からも今質問がございまして、大変重要な条文でございまして、脳死判定あり方を厚生省令に譲るというようなことが書かれているわけでございます。国民の信頼性の確保が重要だと大臣が今おっしゃいまして、国民の信頼性が得られるような脳死判定ということになりますと、やはりこの国会の場で、省令に譲るところは譲るにしても、ある程度その中身を立法府から委任することが必要ではないかと思います。  そこで、脳死判定そのものは修正案とは関係ないかと思いますので、中山猪熊両案の方々に、時間が短いですのでお返答の方は短くしていただけるとありがたいという大変厚かましいお願いでございますが、どのような事項を想定しておられて、どのような事項について統一的にやっていかなければいけないかというところをお示しいただきたいと思います。
  228. 福島豊

    衆議院議員(福島豊君) お答えいたします。  厚生省令におきましては、いわゆる竹内基準に準拠して脳死判定基準が策定される、そのように考えております。具体的には、厚生省令におきまして、検査項目、何を検査するか、観察期間、何時間観察期間を置くのか、そして判定上の留意点、除外する疾患等でありますとか、そしてまた判定対象、これは年齢の問題、そしてまた原疾患の問題、これの規定が設けられることを念頭に置いております。  また、現在、一部の施設では採用している基準に微妙な違いが生じていることも事実でございますけれども、いずれも竹内基準に規定された項目を基本としておりますから、竹内基準に準拠して厚生省令を定めるということで問題はないのだというふうに考えております。
  229. 堂本暁子

    委員以外の議員(堂本暁子君) 私どもは、やはり脳死判定の基準は厚生省令で決めることになっておりますが、竹内基準に準拠するとしても、厳格に行われること、そして今、中尾さんの質問にも出ましたけれども、対象者を決して広げない、そして広げる場合には国会意思を再度確認する必要があるというふうに思っております。  次に、書面の問題ですけれども、私どもは、脳死状態について書面に署名、それから作成年月日をきちっと規定する、それが自己決定権の最低の基礎となると思っております。変更のあった場合には直ちに届け出ることが望ましいと思っております。  次に、謄写についてですけれども、やはり謄写、コピーをするということは、それから事後的にも十分に検証をするためにはこれだけ重大な決定については当然担保されなければならないということで決めております。
  230. 川橋幸子

    川橋幸子君 特に、二回にわたる観察時間の長さというのは非常に重要な要素です。どこで死亡という事態になるのか、どこで権利関係が変わってくるのかということでございます。そのあたりの基準、統一的にどの施設でも同じ基準で判定される必要があるということでございますので、今かなり施設によってその時間帯の長さが幅広くあるように見受けられますので、これはやはり厚生省にお願いすることなんでしょうけれども、十分な審査をお願いしたいと思います。  さて、この六条は派生する疑問点がたくさんございます。一つ一つお返事いただいておりますと時間がたってしまいますので、とりあえずは、一委員としてでございますけれども、審議の結果をこれから脳死判定に当たっての留意点として御検討いただければと思うことを幾つか申し上げたいと思います。  家族については厚生省令云々は書いてないのでございますが、当然その家族範囲、順位というものを明記する必要があるのではないかと思います。  それから、ただいま堂本先生の方から書面の話が出ました。本人意思を書面でもって表示するということになるわけでございますけれども、それではドナーカードというのはどのように作成してどのような文言を入れなければいけないかとか、発行機関はやはり公的機関が望ましいのではないかと私などは思います。  それから告知の問題は、中山案猪熊案ともに、前は臓器提供の諾否についての告知という条文の書きぶりになっておりますけれども、修正案の方は、臓器提供についての告知だけではなくてより厳密に規定されたということでございましょうが、脳死判定に従う意思本人が書面によって表示している、これの告知というのも入ります。ということは、これは脳死判定作業の開始についての承諾を求めるものなのか、脳死判定そのものの結果についての応諾を求めるものなのか、ぱっと見たところわからないということもございまして、この六条についてはさまざまな条件整備をお願いしたいということを希望として申し上げさせていただきます。  それから、猪熊案中山案、両案を比べますと、私は、やはり猪熊案の方がより個人の意思決定を中心にするということでございましょうか、あるいは個人の意思決定を家族の側でも尊重するという意味家族に対する配慮というのが入っておるわけでございます。インフォームド・コンセントというのは非常に重要なポイントとされているのですが、猪熊案ですら第四条で「医師の責務」としてしか掲げられていない。ただ、中山案よりは丁寧にドナー家族への説明と理解の努力というのを掲げているわけでございます。  それから、情報公開に関しては、先ほど謄写を重要な要件としているとおっしゃいましたけれども、そのほか書面における本人意思表示がされているといいますけれども、それをちゃんと確認する作業というのもこれまた重要なことになってくるのではないかと思います。  以上、六条に関連いたしまして、時間がなかったものですからお答えいただきませんで、当方の一方的なお願いを申し上げました。本来ならば、時間があれば、臓器移植に関する法律というのは、こういう部分を大事にする法律ではないかと思います。公述人方々からの御意見によりますと、ギフト・アクト、提供する法律という名前、贈り物をする法律という名前がある、あるいはリクワイアド・アンド・リクエスト・アクト、ドナーレシピエントを橋渡しする法律、そういうところに重点を置く法律の名前をとっている国もあるようでございますが、ぜひ六条の問題、よろしくお願い申し上げたいと思います。  ところで、最後に厚生大臣にお願いしたいと思います。  中山案猪熊案、両案ともかなり大幅に厚生省令に委任している部分がございます。それから、省令と言わずに行政の措置に委任している部分も、大変重要な部分が委任されているわけでございます。例えば、ドナーカードの普及及び臓器移植ネットワークの整備のための方策についての検討、必要な措置、これは残念なことに中山案猪熊案ともに附則の第二条でしか規定していない、厚生省に丸投げをしているという感じでございます。私は、ちょっと先ほど申し上げましたギフト・アクト、あるいはリクワイアド・リクエスト・アクト、こういう精神に立っていくことが臓器移植を円滑にする方法ではないかと思うわけでございます。  ぜひ、厚生大臣にこのあたりの条件整備について、大臣としての所信をお伺いさせていただきたいと思います。
  231. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) いかに丸投げされたといいましても、厚生省が勝手にやるわけじゃありませんので、この移植医療が円滑に実施されるためにはいろいろな環境整備が必要だと思います。  本年三月には公衆衛生審議会の中に各界各層の専門家から成る臓器移植専門委員会を設置しておりまして、この中で検討していただくわけですが、その際には本委員会、今国会で行われた議論も踏まえまして、どうしたら公正公平で円滑な実施ができるか、その環境整備に全力を尽くしていきたいと思っております。
  232. 川橋幸子

    川橋幸子君 特に、ドナーが早急に出るとは思えない、ドナー提供者は当面は無理して出すことがむしろ臓器移植にとって弊害になることがあるのではないかと私も思いますが、そうした場合、少ない臓器の公平な提供ということが大きな問題になっております。両案とも基本的理念でしかうたっていない。このあたりはぜひ具体策を厚生省の中で御検討いただいて、医療への信頼というものを担保していただきたいと思います。  そこで、最後にもう一問、厚生大臣に要望させていただきます。  やはり医療関係者だけの審議会ですと、どうも内輪の方々の話し合いという面が国民の目には映りやすいのではないか。広くいろんな方の意見を聞く、第三者の意見を聞く、あるいは利害当事者の意見を聞くという意味では、患者患者家族というものが実感を込めた体験談を持っているはずでございます。こういうふうにたくさんの、内部にとどまらない意見を広く聞いていただけますように、厚生大臣に要望させていただいて、一言お返事いただければありがたいと思います。
  233. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) 公衆衛生審議会の中にも医療関係者のみならず、いわゆる有識者にも専門委員になっていただいています。同時に、本委員会審議、これはもうまさに各界各層から出てきた意見だと私は思います。この本委員会国民を代表する意見というものを踏まえて政省令を考えていかなければならない、そう考えております。
  234. 橋本敦

    橋本敦君 私からも修正案について質問させていただきます。  先ほどからいろいろ議論がなされましたが、議論を進める前提として、まず修正案の提案の背景的事情を確認しておきたいと思います。  関根先生のお話しいただきました提案理由説明でも、「特に脳死に関して国民の間にさまざまな意見や懸念があることにかんがみ、」ということをはっきりとおっしゃっていただいております。これはまさに今日の国民のこの問題に対する意識や考え方現状をあらわしておりますが、一口に言って、法律によって一般的に脳死を死とするということについてはまだ社会的合意がないということを端的にやはりこの修正案の背景的状況としてはお考えいただいての上のことだ、こう理解しておりますが、間違いございませんか。
  235. 関根則之

    関根則之君 社会的合意も着々と進みつつあるとは考えておりますけれども、今の時点で、脳死したらもうその人は死亡したものですよというようなことを法律でぴしっと書くことが大方の人々に受けとめられるといいますか、書いていいなと思われるほどにはちょっと残念ながらまだ行っていないんじゃないか、そういうふうに私どもは考えております。決して社会的合意が全然ないとか、そういうことではございません。
  236. 橋本敦

    橋本敦君 わかりました。私も全然ないとは、そこまで申し上げるという趣旨ではございません。  中山案については、その点については社会的合意が存在しているという前提であることは言うまでもないと思いますが、これは法制局の方も中山案のその趣旨については社会的合意があることの確認的規定だというように言っております。もっとも私は、法制局が社会的合意があるかどうかを判断する、そんな権限があるわけじゃありませんから、その点はそういう趣旨でないことは確かめておきました。  そういたしますと、中山案と基本的にこの点が違うわけですね。だから、中山案でいえば社会的合意が存在する、その社会的合意が存在する脳死は人の死であるというそのことの確認的規定としてこの法案がつくられているという趣旨で一貫をしてこられたはずであります。その点の違いがあることは中山案提案者もお認めいただけますか。
  237. 五島正規

    衆議院議員(五島正規君) 御指摘のとおりだというふうに考えております。
  238. 橋本敦

    橋本敦君 そういたしますと、大森委員からも指摘があったことは私も問題意識を持っていたんですが、社会的合意がある事実あるいは社会通念として公知の事実を法律で確認するということは、これは確認規定としてあります。ところが、社会的合意がまだ十分できていない、関根先生のお言葉によってもまだ十分ではない、それを今度は法律で、たとえ本人脳死判定を受ける意思表示をされたとしても、法律によってその受けた脳死判定による死を法律上も死と扱うということは、これは社会的公知の事実の確認じゃなくて、やっぱり法律による創設的規定だという性格は私は免れないと思うんです。  その点についてもう一度御意見をいただきたいと思います。
  239. 関根則之

    関根則之君 一律に脳死は人の死だという社会的合意ができていないときに法律で書くと、それはちょっと行き過ぎというよりは、まさに創設的な分野が非常に多い法律だと思います。ところが、法律というのは、つくるときには社会的合意というものがあって、それが明文の形で存在して、それをただ法律に写すだけだったらこれは余り意味がないことなので、何のために法律をつくるかわからないんです。ただ、社会的合意というのは割かし漠としたものですから、それを法律の形にきちっとした文章で固めていくのが立法作業じゃないかなと、そういうふうに思っております。  それで、今回我々が修正案で何をやろうとしているのかというのは、一般的に社会的な合意ができ上がっています、脳死を人の死とするという社会的合意ができ上がっていますという、そこまでは行かないけれども、少なくとも本人臓器提供意思があって、しかも脳死判定を受けます、脳死判定の結果に従いますということを意思表示している、家族反対していない、そういう条件があるときに、その人の意思に従って、意思を尊重してと申しますか、それを法律できちっと書いて、そういう場合に脳死判定の結果脳死判定されたら、その人は死体として扱いますということを書く程度の社会的合意はあるものというふうに私どもは考えて、この修正案をつくったわけです。
  240. 橋本敦

    橋本敦君 その程度の社会的合意があるかどうかということの検証も議論もまだ我々としてはできていませんし、積極的な議論はまさにこの修正案が出されてからの問題でしょう。ですから、そういう意味では今御提案の趣旨でも言われた、そういう状況さえこれから審議しなきゃならぬ問題だと私は思うんです。  それで、中山案提案者に聞きたいんです。  前提が違うこともわかりました。そして、特定の条件の場合に法律脳死を死とする、特定の範囲に限られるという性質のものであることも今説明がありました。そこの点は中山案とは非常に大きな違いがあるんですが、中山案提案者はこの修正案にも御賛成だというように新聞で見たんですが、御意見はいかがなものでしょうか。
  241. 五島正規

    衆議院議員(五島正規君) 私どもは、修正案におきましても、少なくともこの法律に規定する脳死判定を受けた場合には死体として臓器摘出の対象になっているという点において、脳死は人の死であるという立場に立つ私どもの案と同一の認識に立っているのではないかというふうに考えているところでございます。  したがいまして、その修正案におきまして、臓器移植とは無関係に、既に救急医療の現場等で一般的に行われている脳死判定については全く触れておられないわけでございますが、それに対してこの修正案が影響を与えるものではないという意味において、我々の考えとも一致するものだというふうに考えております。
  242. 橋本敦

    橋本敦君 法律上、脳死を死とする範囲が特定の条件の中で限定されても、それは構わない、その他は影響ない、こういうお話でしたね。  私は、この問題は、中山案という法案あるいは猪熊案という法案、その法案の条文の技術的な要件の変更とかあるいは訂正とかそういった程度のものではなくて、修正案と言うけれども、基本的には、脳死を一般的に死とするかどうか、その社会的合意がない、あるいはこの範囲である、そういう背景的事情があり、限定されてもその範囲法律脳死を死とするということを確認していくわけですから、そういう意味で私はむしろ第三案と言ってもいい一つの考え方だというように受け取らざるを得ないんです。  だから、したがって私は、法律的手続としては修正案ではなくて関根第三案としてお出しいただいて、その手続によって参議院として十分審議をするのが妥当であったのではないかという考えを捨て切れないのでありますが、これは意見の相違でありますからおくとして、次の質問に入っていきたいと思います。  そこで、修正案について言いますと、限定された条件のもとでの脳死判定、これはその結果を死と認定するわけです。しかし、同じような脳死状態であっても脳死判定をすることを承諾しないという状況の場合には、これは今と変わりがないということですから、脳死状態であっても法律的に死とはされないんです。死というようには認定されない。これははっきりしていますね。これは確認です。
  243. 関根則之

    関根則之君 脳死判定というのは、常に判定によって死が左右されるといいますか、ある人は、同じような身体的状況にあっても、判定をした人は脳死判定で死なんです。それから、判定をしない人はもう脳死判定のしようがないんですから、していないんですから、それはもう心臓死までいってしまうわけです。
  244. 橋本敦

    橋本敦君 ちょっと質問の趣旨が違うんです。
  245. 関根則之

    関根則之君 そういう意味で、判定を承諾するとかしないとかにかかわらず判定の手続によって結果が変わってくる、そういうものですから、臓器提供の場合に、ずっと手続を経て、その判定の結果死体となるというものはそれで一つの死が完結しますよ、死が。それから、そのほかのものはそのほかのもので臨床の場で医師の権限においていろいろな判定がなされる。そのことはこの法律とは直接関係がない、関係がないというのか、この法律でそのことについては全然触れていないというふうに私どもは理解しているんです。
  246. 橋本敦

    橋本敦君 ですから関根先生、その触れていない部分で、中山案提案者も今おっしゃいましたけれども、医学上の必要、治療上の必要から現場で脳死判定が行われることがあるわけですよ。しかし、そういう脳死判定が行われて、その脳死判定の結果医者が脳死と、こう考える医学的所見が仮にあったとしても、この責任、先生の案の要件でなければ法律上死とはならないわけですよ。脳死状態ではあっても、あるいは脳死、死と判定できるような医学的所見があっても、この条件に合わなければ法律上死とならないわけですよ、またできないわけですから。だからそういう意味で、片方は同じような条件でも死とされ、片方は生きている、死ではない、触れていないということは死んだということじゃないんですから。  そういう状況がありますから、そういう意味では死の概念や基準について、これは二重の基準をつくるあるいは二重の概念が出てくる、そういうおそれが私はあると見ているんですが、その点についてはいかがお考えですか。
  247. 関根則之

    関根則之君 死について二重の考え方とか概念とか、そういうものを導入するものではありません。
  248. 橋本敦

    橋本敦君 わかりました。結果として……
  249. 関根則之

    関根則之君 いやいやそうじゃなくて、判定の問題なんですよ。だから、この手続に従って脳死判定され、この修正案のとおり臓器の場であり本人判定に従いますと言っている場合の判定を受けて、判定の結果脳死だと判定された場合には、法律に基づいて死になるんです。一般の場合、一般の場合というか、この手続によらない場合はそれはどうなるかというのは通常の医療の場で判断されることであって、少なくもこの法律がかかわり知らないところなんですよ。だから、それは一般法に基づいていろいろ判断したらよろしい。  人が生きているか死んでいるかということはお医者さんが判断することができるということであるとすれば、そういう場では一般法に従ってお医者さんが判断をして、お医者さんがこの人はもう臨終になったんだ、死んだ人だと思って臨終の宣告をすれば、多分その人は死んだ人になるんではないかというふうに私は思います。  しかし、少なくも修正案提案者である我々は、そういう通常の医療の場における判定なり判定権なりそういうものについて今ここで公権的にお答えを申し上げる立場にないということでございます。
  250. 橋本敦

    橋本敦君 それは先ほどから繰り返しおっしゃっているとおりです。ですから、そのほかにはこの法案は介入もしなければ関係もしないというんです、そうですね。  だから、そこの部分で同じように脳死状態という状況が起こり、脳死ということの判定が医学的に行われるということもあり得るということなんですよ、関知されないだけで。したがって、そっちの方は法律上死にならないということ。そういう意味では、死亡診断は心拍停止を含む三徴候死かあるいはその他医学的所見で出てくるでしょうが、脳死判定による死という死亡診断は出てこないわけですよ。だから、そういう意味二つの問題が二重の構造として出てくるという問題はどうしても避けられない、私はこう思うんです。  それで、もう一つの問題として、この法案によりますと、脳死判定を受けるということの承諾の意思というのが一体どの範囲まで含むのかということであります。脳死判定に従う意思ということが臓器提供してもよいという意思と別に、追加要件としてこれが必要だとお考えになった具体的、合理的理由はどこにあるんでしょうか。
  251. 関根則之

    関根則之君 ただ単に、私は臓器提供しますという意思が書いてあった場合に、その意思は何なのか。ある人は、私は心臓がとまってから私の臓器を差し上げます、そういう意味で私の臓器提供いたしますと臓器提供意思を書面できちっと書いてあったとします。その人は、脳死段階でまだ心臓が動いているうちにとってもらっては困ると言っているわけです。にもかかわらず、脳死段階でとったらこれは大変なことになります。  だから、脳死段階においても摘出をして結構ですという人は、ただ単に臓器提供しますという意思のほかに、はっきりと脳死判定に従って、判定の結果おまえは死んだ人間だと言われたら、私は死んだ人間として取り扱われて結構ですと。そういうことを意味する脳死判定に従いますという意思表示が必要だというふうに私どもは考えまして、そこのところを念には念を入れてきちっと書いたということでございます。
  252. 橋本敦

    橋本敦君 そうすると、中山案というのは大変なことだったということですか。中山案臓器提供をする意思があるということを前提としてできているでしょう。それだけだったら、関根先生が今おっしゃるように、脳死判定を受けてもいいという意思まで含んでいない、死んでから臓器提供するのだという意思だと、こう解釈される。それが脳死判定されれば大変な生命侵害、人権侵害になるおそれがあるじゃないかということになりますと、この中山案というのは一体そういうものだったのかということで、これは今までそんなことは一つも言われていないので一つの問題だと思うんです。  中山案はそういう趣旨だったんですか。
  253. 自見庄三郎

    衆議院議員(自見庄三郎君) さっきの質問に関連してでございますが、臓器移植と全然関係がない、例えば救急医療立場で現在も脳死判定が行われております。  今、臓器移植修正案立場はそういう立場でございますが、一般的に死というのは、法律上、死とはどういうものかという規定がございません。現実的には医者の診断権の中にあるわけでございまして、お医者さんがこれは死んだと言えば法律上は死になるわけでございまして、その判断はいろいろあるわけでございます。例えば臓器移植と全然関係がない立場、救急医療立場脳死判定をしたと、そうすれば、医師がきちっと死亡診断書を書けばそれは死になるというふうに我々は考えております。
  254. 橋本敦

    橋本敦君 ちょっと質問の趣旨と答弁がかみ合わなかったですね。私はそういうことを聞いたんじゃないんです。関根先生の答弁が中山案に対して重大な問題を提起されたんじゃないかというふうに聞いたんです。  それで、脳死判定に従う意思というのはどこまで含んで意思と解釈するかという問題なんです。脳死判定を受けてもよろしいと、自分が脳死状態に陥ったら脳死を死であると認識してその死を受け入れるというところまでの認識ということを含んでいるのか。脳死判定を受けても構いませんということの中には、脳死が死であるということの認識をはっきり持って、そして自分が脳死状態になったら自然死に至るまでに判定を受けて臓器摘出され、そのことによって死に至る、そのことは承知ですよ、そういう明確な意思まで含むのか、どうお考えですか。
  255. 関根則之

    関根則之君 脳死判定の結果を自己の死として受け入れますというところまで含んだ意思表示であるというふうに私どもは考えています。
  256. 橋本敦

    橋本敦君 したがって、この意思の表示というものは自分の生命にかかわる極めて重大な問題ですね。だから、軽々にこのことが行われるということは、これは本当にあってはならないし、またあり得てはならない問題です。しかも、このことを受け入れることによって、ある意味でいえば、心臓死に至るまでの死のプロセスのうちで自分の死を早めることも承諾するということになるわけですね、死期が早まることも。そうでしょう。違いますか。そうじゃありませんか。  脳死判定を受けることの承諾をしない人は心停止を含む自然死までいく可能性が高いじゃありませんか。それとの違いがありますよね。それはもう客観的事実としてあるわけです。  そこで、参議院法制局に来ていただいていると思うんですが、私が聞きたいのは、同じようなそういう脳死状態ということをベースに考えた場合に、自分の意思脳死判定を受ける意思を表示した人は、そこで法律上死と判定される。その意思表示を拒否するあるいはしなかった人は脳死判定による死と、こういう認定はできなくて、その人の死は脳死状態から自然死に至るかあるいはどうなるか、ともかく脳死判定でないという状況でいくわけでしょう。そこに何の違いがあるかといいますと、脳死判定によって死と認定されたその時点で、人間としての人格権もあるいは法律上の権限も全部失うわけです。ところが、判定されない部分の人は、これは人格主体として、権利主体として続くわけでしょう。  だから、私は参議院法制局に聞きたいのは、そういう意味で法のもとの平等という憲法理念からこの修正案がどういうことなのかということは検討したのかどうか、これを聞きたいんですが、法制局、どうですか。
  257. 大島稔彦

    ○法制局参事(大島稔彦君) お答えいたします。  憲法上の法のもとの平等ということだと思いますけれども、この修正案考え方が合理性を持つということで、それは憲法上許されるものではないかというふうに考えております。  突然のお尋ねなのでまことに言葉が足りないかと思いますけれども、この修正案が、脳死を一般的に人の死であるということについて社会的な合意がないという認識に立って、まず個人の価値観や死生観の多様性を尊重して、臓器移植の場合において一定の条件のもとで脳死判定に基づいて脳死した者の身体を死体に含むとするということ、そういう前提に立つならば一定の合理性があるのではないかということでございます。
  258. 橋本敦

    橋本敦君 合理性が果たしてあるかどうか、これも大問題なんです、実は。どういう合理性があるかということは、臓器移植をする、それを進めるという合目的、そしてそれにドナーとして提供するという意思があるということ。そういうことから合理性があると、こういうことなんですが、それだけで合理性があるかというと、本人脳死判定に従う意思を書面により表示しているという要件を追加したということは、本人自身の意思自己決定、このことを尊重する、あるいは自己決定があるからということが合理的理由の一つになるのじゃありませんか。そこはどうなんですか。
  259. 関根則之

    関根則之君 私どもは、自己決定だけで脳死を認めるとかそういう物の考え方をしているわけではありません。  社会的合意がどの辺まであるのかということを測定するときに、本人脳死というものを受け入れて、脳死判定があったときには自己の死と考えて取り扱ってもらって結構です、そういう意思を表明しているとき、しかもそれは自分の趣味でそういう意思表明しているのじゃなくて、まさに臓器提供を待っている人たちのために臓器提供をしてやろうではないかと、そういう意思に基づいてやっている。そういう状態の中できちっとした脳死判定をやって、二回やって二回とも、六時間後も脳死だと、そういうふうに判定されたような場合には、それは法律上も死体として扱ってよろしい、そういう社会的な合意は、少なくともその程度の社会的な合意はあるものというふうに私どもは判断をして、それをベースにして法律立法過程におきまして国会議員意思によってそれを法律に仕組んでいこう、法律にしていこう、こういう修正案を今出しているということでございます。
  260. 橋本敦

    橋本敦君 その点の核心は何かというと、本人自身が脳死判定を受けてもいいという意思を表示するという、その要件でしょう。これが大事。これはやっぱり本人意思による自己決定だと、私はこう思うんですよ。自分で決めるんです。自分で意思を表示するんです。だからそのことが、そういう自己の決定する本人意思ということが書面によって表示され、それが尊重される要件があって初めてできるわけですからね。  そこで、本人がその意思を決定するということについて、先ほど私が言ったように、その意思を表示しない自由もあるわけです。ところが、意思を表示することもできると、そういう本人自己決定ができるわけです。そういうことを意思表示として決定した場合には、先ほど私が言ったように、脳死判定は私は受けないよという人は自然死に至るまで生体として扱われる可能性がある。この意思表示をしたときには脳死によって死亡と診断されることを承認するということになりますから、ある意味でいくとその自己決定というのは自分の生命の処分にかかわる決定なんですよ、自分の生命の処分にかかわる。そういう非常に重要な法律的構造を持っている。  そういう意味で、この脳死判定の根本問題として、本当にこの脳死判定が人の死として今日の発達した医学の所見の中で厳格に正しく判断されるということでなければ、本人自己決定意思で死を早める、まさに自殺に近いことを手助けするようなことになってはならぬわけですよ。だから私は、この脳死判定基準ということが、中山案猪熊案もそうです、そのすべての根本問題として大事な問題がある、こう思っています。  修正案としては、その脳死判定基準についてそこまで手直しをするという必要は特にお考えありませんでしたか。
  261. 関根則之

    関根則之君 脳死判定そのものが人の死と生との分かれ目になる基準になってきますから、これは極めて重大なものと思っております。しかし、具体的な脳死判定基準をどうするかということは、中山案におきましても厚生省令にゆだねられているわけでございまして、しっかりした厚生省令をつくってもらわなければいけませんけれども、厚生省令にゆだねるという点は法制上は中山案をそのまま私どもは踏襲しているわけでございます。
  262. 橋本敦

    橋本敦君 私どもは今の医療の発達の目覚ましい今日の進歩のもとで、それの見直しということがこれはぜひとも早急に必要だという立場議論をしてまいりましたが、残念ながら修正案はそこまで触れていないということであります。  もう時間がなくなりましたけれども、私は厚生大臣に伺っておきたいんです。この先端医療移植というのは医療全体から見ればごく一部でありますけれども、極めて人命にかかわる重大な問題です。この問題について本当にこれからどのように発展をしていくかは大事な課題ですが、私が特に大臣に求めたい質問は、資金が十分ある、お金のある人だけしか受けられないという状況はこれは許せないんじゃないか。  例えばアメリカでは、医療の最大の問題として、収入が多くて高い保険に入っていれば世界の最先端の医療が受けられる。一方、国民の約一六%、三千七百万人が何の保険にも入っていないという現状があるということであります。移植手術ということになればそれはもう本当に大変高額なお金がかかるわけですから、国民がひとしく自分の命を守れるという体制をこの問題に対してもつくっていくためには、保険適用も含めて医療体制の整備ということで相当国が力を入れて考えていかなければ国民の期待に沿い得ないと思いますね。  この問題について、保険の適用という問題は一体どうなるのか、すべての国民が貧しくても適用が受けられるという体制が国として責任を持ってつくれるのか、大臣の所見を最後に伺って、時間が来ましたので終わりたいと思います。
  263. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) 提供された臓器に一番適している移植希望者を選択するための医学的かつ客観的な基準の作成、そして公平公正な臓器の配分のためのネットワークを構築するということがこの移植医療を信頼あるものにするために不可欠だと考えております。  それで、脳死体からの心臓、肝臓等の移植については、実施状況を見ながら、中央社会保険医療協議会において医療保険の適用についての検討を行っていきたいと考えております。
  264. 橋本敦

    橋本敦君 行っていきたいと。
  265. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) 行っていきたいと考えております。
  266. 橋本敦

    橋本敦君 終わります。
  267. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 私は、例によりまして法律解釈上の技術的な問題について幾つかお尋ねいたしたいと思います。  実は、法律ができ上がりますと、法律というのはひとり歩きを始めるものです。一番問題になるのは、解釈上のいろんな諸点でございます。深遠な理論というのはどこかへ行ってしまいまして、行政関係者、医師あるいはまた裁判所も含めて、この条文、この字句をどう解釈するのか、その辺が一番問題になってくるわけであります。そこで、この際はっきりさせておきたい。  大体三案に共通の問題もありますけれども、どうやら修正案が一番有力なようでありますから、修正案の方に代表してお答えいただければと思います。  そこで、最初の問題は遺族または家族範囲なんですが、これまた抽象的な議論をしても始まりませんので、具体的に一つのケースについて伺いたいと思います。結論は簡単に、理由を付してお答えいただければと思います。  提供者に二人の子供がいるといたしまして、このうちの一人が臓器移植に賛成、一人が反対といたします。お医者さんは反対の人に連絡するとややこしいものですから、賛成の子供だけを呼んでどうかと、結構ですよということで臓器移植が行われたとします。これは違法か適法か、こういう問題であります。
  268. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 佐藤先生、法理論の上では全く私ども勝負にならない話なので、素人論議かもしれませんけれども、今のようなことについて常識論的な範囲のお答えしかできませんけれども、お二人のお子さんがあり、しかもお医者さんがお二人の子供があるとわかっておって、片や賛成、片や反対ということであるならば、一般論として言えば、やはり脳死判定なり臓器摘出というのは適当ではないという判断をされるのが一般的ではないかな、こんなふうに思っております。
  269. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 行った場合にどうなるかという質問なのでございまして、行うべきではないという道徳論を聞いておるんじゃないんです。  しかし、どうやら行うべきではない、行ったら違法だと、こういうことになるようで、しからば殺人罪でありまするか。こういうケースで殺人罪になりますか、この医者の臓器摘出行為というものは。いかがでしょうか。
  270. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 私どもの提出しております修正案の上では、手続上いわば瑕疵のある結果になっておるというふうに言わざるを得ないのではないかな、こんなふうに思っております。
  271. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 ですから、刑法上の犯罪を構成するのか。これは実は大変大事な問題で、必ず起こると思います。その場合に、警察が一体これはどうなるんだと頭をひねって考えてみてもわからないというんじゃ困るわけなんです。  それから、臓器摘出をした医者の立場、私が医者の弁護人だとしますと、この法律は遺族または家族としか書いてない。全員とは書いてないわけです。じゃ、いいんじゃないか、賛成者が一人でもいればいいんじゃないかと、盗人たけだけしいというのかどうか知りませんけれども、そういう弁論は必ず出てくるわけですが、その場合はどういうふうに理解したらよろしいのか、そういうことであります。
  272. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 家族範囲をどう定めるのかということにつながるわけでございますけれども、私どもの法案としては、法律の段階では特段の規定は置いておりません。  したがって、繰り返しになりますけれども、個別に慣習や家族構成に応じて定まるというふうに言わざるを得ませんし、先生のお尋ねになったようなケースについては、先ほど言ったような、手続上瑕疵のある行為であるというふうに判断せざるを得ないのではないかなと思います。  ただ一面、現在でも、何も今回のケースだけではなくて、さまざまな臓器移植が行われているわけでございまして、その中でもあるいは遺族と書いたり家族と書いたりしておるようでございますけれども、現在の段階でも特段の問題が生じていないというようなことも考え合わせた上で、私どもの法律としては家族範囲について特段の積極的な規定は置いていないというふうに御理解願いたいと思っております。
  273. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 実は、これを私は三回ぐらい言ったと思うんですが、角膜の例などは先例にならないということなんです。  角膜の場合にはもう死体ということがはっきりしておりまして、個人の意思をそんたくして、その場にいる人が、どうですかと言えば、大体もういいでしょうと。それが死体損壊になるとか、そういうことを議論する人はいないと思うんです。もう社会的合意ができていると、角膜あるいは腎臓ですか、ああいうケースにつきましては。  今回のケースは、今まで生きていたと我々が考えていた脳死者につきまして臓器摘出を行う。社会的合意があるかと言えば、先ほどからそんなものはないと。賛成者も反対者も大体五対五ぐらいの割合だと、こういうふうな状況下においての問題でありますから、できるだけシビアにこういうことは考えまして、それは殺人罪になる、いやこれはならないと、こういうことを今のうちから明確にしておく必要があるんだろう。お医者さんに対する警告にもなるわけであります。法律は何も書いてない、遺族としか書いてないから、一人の同意で私はやったんだと言われた場合に、おまえけしからぬということはなかなか言いにくいんじゃないか、こういう気もいたすわけであります。  もう一つの例を挙げますけれども、夫婦と子供がいるとしまして、夫婦間に溝が、いさかいができまして、うちを出て、夫なら夫の方が実家に帰って親兄弟と生活を始めた。そして、夫婦関係をどうするかということで一年も二年もお互い考え、余り会いもせずに冷却期間を置いて考えている。こういう状態下で実家に帰った配偶者の方に脳死状態が起きて、この問題が起きたら、この場合の家族というのはどこまで含むのか。実家に帰って親兄弟と一緒に生活をしているので、そっちの方が家族、遺族なんだというふうに見るのか、いや、やっぱり戸籍上はちゃんと配偶者であるからして、妻だ、いや子供だ、あっちの方だと言うのか、はっきりさせておく必要がある。こんなケースは幾らでもあろうかと思います。  具体的な例に君島一郎ケースがございまして、本妻とめかけがおって、それぞれに子供がおって、めかけの方の子供さんは有名なタレントと結婚している。それから、君島一郎の奥さんはまだ存命。この場合に一体遺族というのはだれを言うのか、こういうことが問題になった場合に、話し合いで決めてくれということを中山先生かなんかがこの前言っておりましたけれども、あの家族の場合には話し合いする余地は全然なかったんじゃないんでしょうか、何しろ葬式が全然別なんですからね。ああいうことだって我々はやっぱり考えておく必要があるわけですよ。いかがでしょうか。こういう問題が現に起きたとすると、そして提案者が裁判官になったとすると、どういう判定を下されるのか。
  274. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 大変難しい問題で、具体的なケースで軽々に、言葉を選びながら申し上げなきゃいかぬかなとまた改めて思うわけでございますけれども、私どもといたしましては、改めて家族が当該判定を拒まないとかあるいは家族がないときというふうに書いた趣旨といいますのは、あくまでも慎重に慎重にという趣旨だというふうに受け取っていただいていいのではないかと思います。どこまでがどうでというと、これはなかなか率直に申し上げまして答え切れませんけれども、積極的な家族という範疇に入ると社会通念上思われる方の拒否というふうな意思が明確になった場合には、この要件上、何らかの問題があるというふうに判断せざるを得ないのかな、こんなふうに思っております。
  275. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 実際問題として、臓器摘出をするお医者さんは、本人の戸籍謄本から何から全部取り寄せまして、そして私立探偵を頼んで家族関係を一切調べ上げて同意反対かということを聞かないと、安心してやれないことになるんじゃないか。それは知らなかった、自分は反対だったという家族が必ず一人、二人出てくるわけですよ。その場合に、はてどうするか、そのときに首をかしげてもらっても実は困るわけであります。  この問題をどうしてはっきり法律の上で書こうとなさらないのか、それが実は私はわからないんですよ。本人が指定する家族とか、相続権を有する者の範囲の中からとか、そういう制限、明確化することは幾らでも技術的に可能なわけです。どうしてあいまいなままに遺族だ、家族だという言葉だけでほうり投げてしまわれたのか、それがわからないんです。どうしてなんでしょうか。
  276. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 御説明にはなかなか十分お答えにならないかもしれませんし、今までの繰り返しになるかもしれませんけれども、家族の扱いということにつきまして、一律に事を決めておくというのは、なかなか言うべくして容易なことではないんじゃないかなというふうな気がしております。ありきたりの言葉ではございますけれども、社会通念上の家族といいましょうか、個々具体的にその人その人においてかなり状況が違うと思いますので、臓器提供意思を尊重し、かつ家族の拒否ができるだけないというのを確認できる範囲内で最大の御努力をいただいてやっていただくということしか、ちょっと今のところ私どもは考えはございませんで、そういう範囲でうまく成文化をしたというふうに御理解を願いたいと思います。
  277. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 何か現場にいたずらな混乱をもたらすだけの法律かと言われても仕方がないような気がいたしますので、そのことを指摘しておきたいと思います。  それからもう一つ、ほかにたくさんあるんですけれども、時間の関係もありまして、六条二項中の脳死体とは「脳死した者の身体」、こういう言葉を用いておりますが、この日本語の問題です。身体というのは普通生きている人に使う言葉でありまして、身体検査、身体の自由、身体障害者とか。死者の体と言うことはありますが、それを省略して死体と言う。体というのは、一字の体、身体の体の方ですね。死者の身体というふうな言葉が使われている例があるのかどうか、私はよく知らないんですけれども、いかがでしょうか。
  278. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 例があるのかということになりますと、法令検索システムか何かでもう一度あれしないといかぬと思いましたけれども、私どもがやはりあえてこうしたふうな表現をさせていただいた趣旨は、いわば脳死イコール死体というふうなことの社会的な合意というのは、先ほどから申し上げているような状況の上に立って……
  279. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 なるべく簡単で結構だから。
  280. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 はい。御本人人間尊厳とか、あるいは御家族の感情とかということを配慮して、こうした「脳死した者の身体を含む。」というふうな表現の方が社会的に受け入れやすいのではないかなというふうなことから、こういう表現にさせていただきました。
  281. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 この法律が成立したとしまして、日本の普通の知識を持つ人がこの条文を読むと、「脳死した者の身体」となりますから、身体というのは生きている人に使われる言葉だなという知識のある人は、おやおや、これは一体何だ、やっぱり生きている人なのか、こういう誤解を生ずる人が多いのではないか、むしろそれが常識的ではないか、こういう気がいたすわけであります。何かまさしく理解に苦しむような表現なものですから、その点ちょっと指摘しておきたいと思うわけであります。  いかがでしょうか。これをさらに修正するようなお考えはないわけでありましょうか。
  282. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 私どもとしては、中山案の表現の仕方に対する一つの国民的な合意をより御理解を持っていただくための一つの表現の方法として選んだものでございますので、どうかこのままの表現で御理解を賜ればというふうに願っております。
  283. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 法律は、法律にとどまらずして、最高の文化なんですね。別に悪いことをした人だけが見るんじゃなくて、作家も見れば芸術家も見るし、学者も見るし、それが一つの参考になるわけです。最高の道徳だと言ってもいいんです。こういう使い方、なるほどな、自分の小説にもこういう使い方を生かしていこうかな、こういうふうにいわば文化の指導をするものが法律だと、こういうわけでありまして、「脳死した者の身体」という言葉がこれから大手を振って歩くことになるのかどうかわかりませんけれども、日本文化を誤った方向に導かないように、私としても頑張りたい、こういう気がいたします。  最後になりましたが、この手続についてちょっとお尋ねしておきたいわけです。  結論的に申し上げますと、なぜこんなにお急ぎになるのか、こういうことであります。衆議院は三年間これをやった。私は、遊んでいたのかと聞きましたら、自民党の理事さんの方から、そんなことはない、三年間勉強をし研究をし、また調査をし討論をし、その結果が最近の衆議院の二十何時間の質疑に集約されたんだと。  それじゃ、我が方はどうかといいますと、提案されて二十日から一カ月足らず。猪熊案、それから中山案はまだわからぬわけでもない、勉強をいたす時間が若干ありましたから。ところがこの修正案なるもの、先ほどの意見でもこれは全然別物ではないかと、こういう指摘もあるくらいであります。提案理由をきょう初めて聞いたわけでございますから、やっぱり改めて、これを持ち帰ってお互い研究をする、党内でも議論をする、その結果をこういう席でぶつけ合うということが私は絶対必要だろうと思うんです。  この法案というのは政策の法案ではございません、極端な言い方をしますと。党利党略でやっているような法案ではございません。日本の文化そのものが問われているような法案だろうと思いますから、衆議院よりはむしろ参議院議員の方が真剣に取り組む法案ではないのか、こういう気がして仕方がないわけであります。一体これでいいんだろうか。  なぜこんなにお急ぎになるのかということを実は理事会の席でお尋ねしたんですけれども、はかばかしい御回答はなかったので、今改めてお尋ねいたすわけでございます。審議が尽きたからということは絶対理由にならないと思います、始まってまだ四時間もたっていないわけでありますから。しかし、待ち望む大勢の人がいると。これもしかし三年間待っていただいたわけでありますから、あと一月、二月待てないわけはないんだろうという気もいたします。  一体なぜお急ぎになるのか、ちょっと申し訳ないんですが、その理由をこの議員一同にわかるように説明していただければと。私もやみくもに反対だと言っているわけじゃないので、その理由が合理的なもので私が納得できるものであればもちろんもろ手を挙げて採決には賛成したいと思います。
  284. 阿部正俊

    ○阿部正俊君 まさに審議を尽くすということになりますと、幾らかけても不思議ではないという考え方もございましょうけれども、私どもとしては、やはり国会全体として考えますと、衆議院に提案されてからもう既に数年たっておるという状況、その間に、この参議院に参ってからまだそう時間はたっていないことも確かでございますけれども、専門委員会をつくり、かつそれぞれの法案公聴会までお開きいただきましてかなり真剣に審議してまいりました。  そういう中で、やはりさまざまな社会的な状況、例えば臓器提供を受けている方のお声とかということもございましたし、両者の中山案なり猪熊案なりに対するさまざまな御意見が、どうも脳死を死とするかしないかということでがっぷり四つに組んだような状況でなかなか結論が出ないという中で、やはり私どもの法案の名前にもございますように、臓器移植に関する法律案ということで早目に結論を出していく道は何かないだろうかということを考えまして、有志で相はかり一つの提案になったということでございます。  何とか早く当面臓器移植という道を切り開くことのみをもって一つの道筋を開いていくのが国会としての一つの役目ではないのかなというふうな考えに立ってこの修正案を提案させていただき、できるだけ早期に結論を出していただければと願っている次第でございます。よろしくお願いします。
  285. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 この法案衆議院に提案されて三年もたっておる、こう言われても我々は責任ないわけであります。そのことは衆議院に投げ返していただかないといかぬわけでありまして、自分たちが三年握っておいて、さあおまえたちは早くやれと言われても明らかに困るわけです。どうしてもっと落ちついてこういうことを議論しようとしないのか。  私自身も、我が会派というのはたった四人でいかなる勢力もありませんけれども、皆さん十分重大な関心をこの法案には持っておられまして、研究もしておられる。それが急に修正案が出てきた。これを説明してくださいよと言われましても、私は説明するいかなる知識もないわけでありまして、きょう行ってよく提案理由を聞いてまいりましょうと。それから、できたら自分たちにもこういう場で質疑する機会を与えてほしいと。これは議員としてのある意味では人生観、哲学そのものが問われているんだ、人任せで済むそんなものではないんだと。これも私はよくわかります。恐らく各会派でも皆そうだろうと思います。  やる以上はせめて半年ぐらいはじっくりと研究をして、そして議論をして、委員会審議に臨んで最後に採決、こういうことが筋道であろうと思うんです。何か知りませんけれども、三年もたっている、もういいかげん議論も出尽くしたろうとか、いや大変待ち望んでおる人がいるとか、そんなことはもうわかり切った話で、それ以外の何かあるんじゃないかなと、こういうふうにまた思いたくもなるわけであります。  以下は新聞報道ですから何とも言えませんけれども、ある新聞を見ますると、参議院自民党のある偉い方が、この法案は通す、とにかく衆議院よりも一時間でも二時間でも審議時間を上積みしろ、こうおっしゃられたと。それは時間の問題じゃないんです。衆議院は何しろ三年間の準備期間を置いたそうですから、よほど実のある審議がされたと思います。我が方はゼロですからね。思いつきでこんなことを私は言っているだけでありまして、全然自信はないのであります。  もしそういうことを偉い人がおっしゃられたら、なぜそういうことなんでしょうか、もっときちっとした理由を示してほしい、自分たちはそれを委員たちに示す責務があるんですということでもう少しきちっと議論をしていただきたい。この審議あり方まで、委員会あり方まで私どもは実力者に左右される覚えは全然ないと思うんです、我々で決めていくことでありまするから。当たり前のことを私は言っているつもりであります。  そこで、委員長に対してお願いがあるんです。こういうことをこの場で言ってもなかなかはかばかしくないと思いますので、あと二人でこの質疑は終わるわけでありますから、終わりましたら若干休憩を置いていただいて、委員長から修正案提案者の方に、なぜこんなに急ぐことになるのか、佐藤委員のようにきちっともう少し議論をしたいと言う人もいるんだから、今国会が絶対だというふうには自分は考えられないように思うけれども、ひとつ説明してくれないかと聴取していただきまして、その説明結果を委員長が納得できるものであれば我々にまた教示していただければ大変ありがたい、こういう気がいたすわけであります。これはひとつ動議というふうに考えていただいても結構であります。
  286. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ただいまの佐藤君の申し出については、理事会に諮って、後ほどまた御返事をいたします。
  287. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 終わります。
  288. 末広真樹子

    末広真樹子君 自由の会の末広真樹子でございます。  午前中まで中山案猪熊案、両案に対する審議をしてまいりました。そして、ただいま修正案というのが出てまいりまして、どの方の修正案なのか大変わかりにくい。というよりは、修正案というよりはこれは第三案ではないのかなと、そういう趣なのでございます。  それで、採決の方はといいますと、修正案中山案だけを採決するというように理事会で決まったところでございますが、じゃさっきまで一生懸命言っていた猪熊案は一体どこへ行っちゃったんでしょうか。急に消えてなくなるわけでございまして、変なことです。そこで、私はこう考えることにいたしました。戸籍は中山案で、そこへ猪熊案臓器移植をされたんだと、そういうことでよろしいんでしょうか。  それはともかくといたしまして、修正案によりますと、脳死判定臓器提供意思表示をしている者があわせて脳死判定に従う意思を明らかにしている場合に限って行うと、こうあります。しかし、現状では、どういった患者であれ、脳死状態に陥った可能性があるときは脳死状態かどうかの判定が行われています。そうなりますと、一方の脳死患者は死亡である、一方の脳死患者は死亡でないということになります。これは素人目から見てもおかしいことではないんでしょうか。その見解をお願いしたいと思います。厚生大臣と修正案の発議者、両方にお願いします。
  289. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) お答えをいたします。  臓器移植をする場合に限って脳死を人の死としようとする考えにつきましては、脳死臨調答申において、「本来客観的事実であるべき「人の死」の概念には馴染みにくく、法律関係を複雑かつ不安定にするものであり、社会規範としての死の概念としては不適当」であるとされておると承知をいたしております。修正案臓器提供する人だけに部分的に脳死を人の死とする解釈を認めるのか否かについて議論があると考えておりますが、仮に認めるとすれば、脳死臨調の趣旨をどう解釈するかという難しい問題を抱えるのではないかと思っております。  いずれにいたしましても、臓器移植についていかなる立法を行うかについては国会における御議論を見守りたい、このように思っております。
  290. 渡辺孝男

    渡辺孝男君 修正案の場合には臓器移植にかかわる場合の脳死判定を規定しているものでありまして、臓器移植にかかわっていない脳死判定につきましては本修正案では規定しておりませんので、それはこれまでの医療現場で行われたものが踏襲されてくるのかなというふうに考えております。あくまでもこの修正案臓器移植希望されている方に対しての脳死判定であるというふうに理解していただきたいと思います。
  291. 末広真樹子

    末広真樹子君 厚生大臣、今の厚生省の答弁で、そのとおりでよろしいんですね。
  292. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) はい、いいです。
  293. 末広真樹子

    末広真樹子君 私は先日、心臓移植をお受けになった二十五歳の青年にお会いいたしました。その方は、あと二年の命だと診断されたにもかかわらず、アメリカ心臓移植手術を受けまして大変元気になられました。その方がこういうふうにおっしゃったのです。上げてもよいという人からいただける幸せに感謝していると。とてもセンスのよい感想だな、お心があるなと感じました。先日もお元気そうにしていらっしゃる姿にお目にかかって喜ばしく思いました。  でも、私は、臓器移植が適切に実行されるためには、国民の間で相当十分な理解が得られることが不可欠であると思います。つまり、臓器移植が始まることと定着することは違う、全く違うと思います。しかし、現状では理解が得られているとは言えません。国民の理解が得られなければ、臓器移植の将来は先細りになっていくのではないかと心配するわけでございます。  日本の医学はテクニカル的には大丈夫であると思いますが、医師倫理やシステムには不安な面が正直申しまして多々ございます。とりわけ、脳死患者の遺族のカウンセリングをどうするのかといったようなメンタル面でのサポートを行うシステムを整備しなければ絶対いけないと思います。  先日の中央公聴会公述人の方も、移植コーディネーター以外の立場で、精神科医やカウンセラーなど遺族を後々までもケアするシステムが必要であるとおっしゃっておられました。私も全く同感なんです。移植コーディネーターというのは、移植を待ち望んでいらっしゃるところから立ち上がっていく機能なんです。ドナーの遺族に対するメンタルケアには適さないと私は思います。ここは厚生大臣、ぜひ御所見をお願いします。
  294. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) この移植医療が成功するかどうかというのは、医療関係者に対する信頼が確立されるかどうかに大きくかかっていると思います。  そこで、臓器提供したいという方と受け入れたいという方の間に立つ方が、受け入れたいという側の意向ばかり聞いて提供者立場を配慮しないということはあってはならないことでありまして、その点の信頼ある者をどのように選任するか、これは大変大事であり、同時に個々の患者立場によって心理的な状況も違うと思います。それは病院関係者、医療関係者がその患者さんなり患者さんの家族、遺族に対する十分な対応をしていくべきだと、個々の対応によって非常に違ってくるのではないか、そう考えております。
  295. 末広真樹子

    末広真樹子君 その点で、移植コーディネーターが兼ねるのだという御答弁がずっと続いているんですよ。私はそれは明らかに違う、こう思います。そこをはっきりしておかないと、せっかく臓器移植というのがスタートしていって恩恵を受ける人がふえる一方、泣く人もふえていくというところが心配なんでございますよ。おわかりいただけますか。じゃ、もう一度御答弁を。
  296. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) そこまで疑うと切りがないんですね。その間に立つ人は、受けたい人ばかりの意向を尊重しちゃいかぬ、提供したいという人と公正中立にやってくれと。それで、そうでないんだと決めつけられますと信頼が成り立たない。  ですから、コーディネーターといいますか、その間に立つ方は公正な人になる、それが大事であるだろう。両方、疑っている立場判定されるというのは、提供したい人から見れば嫌でしょうし、受けたいという人も無理やり脳死でもない人の臓器脳死判定されて自分が受けるというのはこれまた心外でありましょう。私は、そのような偏見のない公正な人、第三者といいますかお互いのコーディネーターといいますか、仲介者には調整役に当たってもらいたい、そのような環境を整備するのがこれから大事だと思っております。
  297. 末広真樹子

    末広真樹子君 私、決して疑い深い人間じゃありません、割合人を信ずる方でございます。ただ、そのドナーとなられる方の遺族というのは、余りにも突然の出来事でございましょう、あららあららといっている間に何か言いくるめられてうんと言ってしまったんじゃないかというようなことも発生してくるんじゃないかなと心配しているのでございます。  移植を持続可能な法律として、国民に積極的な臓器提供の申し出が継続していくためには、どんなシステムづくりがそれでは必要であると考えていらっしゃるのか。これは厚生省の方にはもう何度も聞いていますから、ここはぜひ修正案の発議者にお答えいただきたいと思います。
  298. 渡辺孝男

    渡辺孝男君 これから移植医療が実際行われることになりますと、システムというのはもちろん充実させていくことになると思いますけれども、移植ネットワークの具体的なあり方としましては、臓器移植ネットワークのあり方等に関する検討会というものがありまして、公平性の確保のため全国をカバーするネットワークを整備し、ドナー情報の経路の一本化あるいはレシピエントの基準の全国統一化を図る、それから公正性の保障のため臓器移植評価・審査体制の必要性等を提案、提言されておりますけれども、そのような提言にのっとってこれからさらに充実したシステムをつくっていくことになると思います。
  299. 末広真樹子

    末広真樹子君 脳死をどうとらえるかという問題は非常に難しいですね。さらに、そこに医療産業としての臓器移植という視点がつけ加わりますと、話はもっとややこしくなってくるのでございます。臓器移植は名目としては人命救助ですが、実際はもうかる産業としてとらえられるおそれがあるんです。アメリカでは人体のあらゆるものが商品として扱われるという話を聞きます。日本でもそうならないとは限らないのではないでしょうか。そのための防止策というものを当然考えていてくださると思いますので、その点、御答弁お願いします。
  300. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) お答え申し上げます。  遺体の一部であります臓器を単なる物あるいは資源扱いをいたしまして経済取引の対象とすることは人々の感情に著しく反するものでございまして、あってはならないものと考えております。  現在御審議が行われております法律案におきましても、臓器売買等の禁止とこれに違反した場合の罰則につきましては規定が盛り込まれているところでございまして、法律制定後は臓器売買等が決して行われることのないよう法律の厳正な施行を図ってまいりいたいと思います。  現在、腎臓移植ということが行われておりますが、腎臓移植でも日本では売買という話は私は一度も聞いたことがございません。
  301. 末広真樹子

    末広真樹子君 これからスタートするのにああいう不安がある、こういう不安があると言うのもなんでございますが、でもやっぱりそこを考えておかないと。  イギリスでは臓器移植が行われております。しかし、今日に至るまで三十年間にわたって国民の間には、脳死患者からの臓器摘出死体を冒涜しているのではないのか、こういう御意見がございました。その拒否反応が出たりへこんだり、出たりへこんだりしていると聞いております。そのために、移植医移植当日大変な思いをするわけでございます。ヒューマンリバーと大きく書かれた、人体肝臓ですね、こう書かれたアイスボックスをコートの下に隠しまして病院の裏口からこっそり入る、こういうきめ細かな神経を配っているということでございます。これが臓器移植を始めて三十年たった国の現状なんですね。それくらいデリケートなことであると私は思います。  さて、最後の質問を厚生大臣にお伺いしたいと思います。  私は脳死の問題と臓器移植の問題は全く別の問題であると思います。それをセットにして法律をつくろうとしていることにとても無理があるのではないかと思います。いっそ脳死を死と定めることなどやめていただきたい。そして、願わくは臓器移植のスタートは現状の法制度のもとで医師の責任において行っていってもらいたい、スタートは。そのようにして臓器移植についての実績とそれに伴う国民の信頼を一つ一つ積み重ねていった上で初めて脳死は人の死というのが自然と肯定されていくのではないか。つまり、自分の命の源を死を待つ人に与えて、愛という名の誇らしい命をささげた、こういう崇高なところに高められていくのではないでしょうか。厚生大臣の御見解をお伺いします。
  302. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) 死者の体にメスを入れるということに対して非常に抵抗感を持っている国民はいまだに多いと思います。死者にむち打つなという言葉があるぐらい、むち打つだけでも非常に死者を冒涜するという言葉があるぐらい、死者を丁重に葬るということに対しては非常に強い感情を持った国民だと思います、日本人は。  そういう中で臓器提供する新しい医学が出現したということでありますが、脳死を人の死とするか、そして臓器提供するかは全く別の問題であると言われましたけれども、現にアメリカでは脳死を人の死と法律で規定しないで臓器移植が二十年以上前から発展してきたわけですね。ところが、その中に、人の死と定義しない限りは殺人ではないかという問題が起こってきたから、やはり脳死を人の死と決めようという意見が出てきた。  そういう過去の臓器移植といいますか移植医療に対する先進国の状況を見ながら、日本でも移植医療を進めるためには、脳死を人の死としないで移植医療をすると、今議論されたような議論が出てくるんじゃないか。やはり臓器移植するためには、よりする人の立場に立って環境整備したいということで、今国会でいろいろ議論されていると思うのであります。  でありますから、私は、どういう法律がなされるかというのは、これからの国会審議を見なきゃなりませんし、なぜ厚生省が政府案として出せなかったという問題も、いろいろ難しい例があったからこそ国会議員が英知を尽くして議員立法しようということでようやく出てきたんだと。私は厚生大臣といたしまして、国会結論が出ましたら、その結論に従って円滑な移植医療ができるような環境整備に全力をもって取り組みたい、そういうふうに考えております。
  303. 末広真樹子

    末広真樹子君 雰囲気を見ておりますと、修正案が可決されるというような雰囲気でございますけれども、私はこれはまだ継続審議であるべきだと思っております。ですから賛成はできませんが、可決された折には、その臓器移植の始まりよりも定着をこそ移植を待っておられる患者は願っておられるし、現場の医師も願っておられるんじゃないのかなということを言わせていただいて、私の質問を終わらせていただきます。  ありがとうございました。
  304. 栗原君子

    栗原君子君 栗原君子でございます。  臓器移植ドナーとなる場合は、脳死判定時の死亡時刻と、そしてまたそれ以外の死亡では通常の三徴候死が死亡時刻となることがこのように今議論をされているわけでございます。  要するに、次にどういう行為を行うかによりまして死の判定が異なるということが、ただいまよりさまざま議論がなされているところでございます。どうも法的な整合性というものが私には十分理解ができないわけでございます。  先ほど厚生省の方からの答弁がございましたように、脳死臨調の解釈を難しくすると、こういうことを御答弁なさっていらっしゃいます。  修正案提案者、このことは難しくするとお考えでございますか、いや難しくしない、大したことはないと考えていらっしゃいますか、お伺いします。
  305. 菅野壽

    ○菅野壽君 臓器移植の場合以外では、この法案は何ら規制するものではありません。臓器移植ドナーとなられる場合におきましても、脳死した者の身体も死体に含まれるので、この法令によっても死体、死亡として取り扱われることになり、法的整合性に問題はないと思います。
  306. 栗原君子

    栗原君子君 ただいま提案者の方から法的整合性は心配しなくてもいいと、このような御答弁でございましたけれども、厚生省、どうなのでございますか。先ほど御答弁なさったこととは少し食い違うように思いますけれども、局長、お願いします。  別にこれは準備をなさるほどの問題ではないと思いますけれども。先ほど答弁なさったじゃありませんか。
  307. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) 済みません。質問の意味がよくつかめなかったものですから、申しわけございません。  臓器移植をする場合に限って脳死を人の死としようとする考えについては、脳死臨調答申におきまして、「本来客観的事実であるべき「人の死」の概念には馴染みにくく、法律関係を複雑かつ不安定にするものであり、社会規範としての死の概念としては不適当なものと考えられる。」というふうに承知をいたしております。  この修正案臓器提供する人だけについて部分的に脳死を人の死とする解釈を認めているか否かについては議論があると考えておりますが、仮に認めているとすれば、脳死臨調の指摘をどう解釈するかという難しい問題を抱えるのではないか、このように思っておるところでございます。
  308. 栗原君子

    栗原君子君 よくわかりました。脳死臨調のおっしゃっていることと、それから提案者がおっしゃっていることには大きな矛盾があるということがつかめたわけでございます。  さて次に、我が国における脳死患者発生の現状と、とりわけ若年でドナー予備軍とされる交通事故を初めとする事故死の現状についてどのように把握をしていらっしゃるのか、お答えいただきたいと思います。  提案者、お願いします。
  309. 菅野壽

    ○菅野壽君 我が国においては、脳死患者の発生状況については全死亡者の一%未満でございます。年間約三千人から八千人と推定されております。また、脳死患者の原因疾患は、事故等におけるケースよりも脳血管障害によるものが多く、全体の約六割を占めております。交通事故などを含めた頭部外傷は全体の二割強であると承知しております。  なお、交通事故による死亡者数においても総数及び若年層においても減少傾向にあると承知しております。
  310. 栗原君子

    栗原君子君 事故が減少傾向にあるということは、脳死患者が発生しにくいという状況が広まっている、このように解釈していいのではなかろうかと思います。  先般、全国交通事故遺族の会の人たちが声明を出していらっしゃいます。そして、四千五百人の法案反対の署名も集めておいででございます。この中には五点にわたって出していらっしゃいますけれども、一つは「脳死にならないように治療を求めています」、二つ目に「交通事故の発生を減らす施策を求めています」、三つ目に「交通事故の被害者の人権が守られることを求めています」、四つ目に「だから脳死者からの臓器移植には反対します」、五つ目に「臓器移植は皆に関係のある問題だと思います」、こういったことを含めた声明を出していらっしゃるわけでございます。  とりわけ、事故発生の予防対策の不備とか、あるいは治療の貧困についてどのように把握をしていらっしゃいますでしょうか、もう一度お答えいただきたいと思います。
  311. 菅野壽

    ○菅野壽君 御指摘の交通事故遺族の会の反対声明は、一つ、交通事故被害者の人権尊重、二つ、救急医療体制の整備、三つ、脳挫傷の治療法確立、四つ、臓器移植について本人意思表示及び家族同意必要性という臓器移植を実施するための諸条件が満たされるまで反対であるという声明と承知しております。  交通事故の防止対策、脳挫傷の治療法の研究、救急医療体制の整備については、それぞれの分野で精力的に取り組みがなされていると承知しております。  法案提出者としても、国民の間にあるさまざまな不安や懸念を真剣に受けとめ、臓器移植国民の間に定着するよう、法案の成立後の法律の適正な運用や臓器移植を取り巻く環境整備に向け関係者が努力していくことが重要だと考えております。
  312. 栗原君子

    栗原君子君 ここで、厚生大臣にお伺いをいたします。  本法案では、臓器移植ドナーとなる場合に、脳死判定並びに臓器提供への本人の書面による同意が挙げられております。この書面による同意とは具体的にどのようなことなのか。また、現在我が国で行われている死後の腎臓移植についてのドナーカード保有率は著しく低いわけでございます。今後このドナーカードの登録数の見通しはどのようにお考えでいらっしゃるのか、そういったことをお伺いいたします。
  313. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) 御指摘の腎移植の中でドナーカードを所持していた方の数は一割にも満たない、このように承知をいたしております。今後のドナーカードの保有者につきましてははっきり見通しを示すことは難しいのでありますが、平成八年度から、従来の登録制から自由配布制に切りかえるなどいたしまして、その普及のためにさまざまな努力をしているところでございます。  それから、もう一点御質問がありましたのが同意の件でございますけれども、修正案では、脳死した者の身体からの臓器摘出は、本人臓器提供意思表示にあわせて脳死判定に従う意思表示が書面により行われていることが前提となっていることを承知いたしております。具体的には、臓器提供脳死判定に従う意思があるか否かの表示できる提供者本人ドナーカードの記載から意思を確認するものだと考えておるところでございます。
  314. 栗原君子

    栗原君子君 いずれにせよ、先ほどから議論になっておりますように、ドナーカードの登録の大キャンペーンをしなければ、私はこの法律ができましても意味をなさない、このように思うんです。  そこで、先般参りました日本医科大学の附属病院でドクターが、事前に承諾の人は皆無だと思うと、このように発言をしていらっしゃいました。私もメモをしっかりとりました。そうなんです。事前に登録する人は恐らく皆無であろう、よほどの人でないとしないと思うんです。  そうすれば、この大キャンペーンをどう張っていくんでしょうか。例えば、今日、献血のカードを持っていらっしゃる方が国民の中でかなりいらっしゃるわけでございます。血液のように再生できるものであればまだ登録しやすいわけでございますけれども、臓器については大変難しい面が出てくるように思いますが、提案者はどのようなキャンペーンをお張りになろうとされるんでしょうか。
  315. 関根則之

    関根則之君 私どもは修正案提案者でございますので、全体の枠組みをどうするかということについて責任のある答弁ができる立場にあるのかなという感じはいたします。しかし、いずれにしろこの臓器移植に関する法律をこしらえ上げて、日本でも臓器移植ができるようにしていこう、こういう意欲を持っているわけでございますから、できた法律が空振りみたいになったのでは意味がありませんので、そのために厚生省ももちろん頑張っていただくというようなこともありますし、民間の団体等も、こういった関係の団体もございますし、もちろん医療関係の団体もありますので、そういったところでできるだけの御努力をいただくように働きかけもしていきたいというふうに考えております。
  316. 栗原君子

    栗原君子君 ちょっと私は行けなかったんですけれども、五月十三日のシンポジウムの席で、ドナーカードのことが話として出たそうでございまして、三年間で一人ぐらいしか現在いないといったようなことを聞いて帰った人がいるわけでございますけれども、そこで、私もどうすれば臓器を集めることになるのかと。そして、くたびれた臓器ではだめなわけでございます。新鮮な臓器でなければいけません。  それで、関根先生、ちょっと聞いてください、お答えいただきたいと思うんですけれども、例えばこの法律ができた暁には、自衛隊、警察、消防署、厚生省の職員を初めとする国家公務員、地方公務員、企業にもお願いをする、あるいは労働組合にもお願いをすることがあるかもしれません。こういったようなキャンペーンが張られる可能性は大いにございますよね。関根先生、お願いします。
  317. 関根則之

    関根則之君 私は、日本のいろんな社会の分野におきまして、どうも戦後長い間の教育が、自分のことさえよければいいじゃないかというような感じになってきております。これからはやっぱり全体のこととか国のこととか社会のことを考えながら、人のことを考えないと自分の幸せも得られない、そういうことを強調していかなきゃならない時代になってくると思うんです。そういう動きの一つのきっかけとしてこの臓器移植というものが何とかうまく動くようにする、そういうキャンペーンも、運動もできないかと、そんな期待を持っております。  今お話のありました国家公務員の関係、そういうところには、私は特に消防の関係が深いものですから、消防団員なんかにどんどんドナー登録をするような働きかけを私自身も個人的にはしていきたいと思いますし、関係団体、関係各省、力を合わせてドナー登録ができるような運動もしていきたいと思います。
  318. 栗原君子

    栗原君子君 そこで、それはある程度強制的になるという可能性はございませんか。職場とか地域とか、そういうところでドナー登録をいたしましょうというキャンペーンが起きますと、ちょっと待ってくれということは言いにくいような状況も起きる、こういうことはお考えになりませんか。
  319. 関根則之

    関根則之君 これはもう本当に個人の崇高な意思に基づいて臓器提供というのは行われる、まさにギフトですから、そういう精神を忘れないで、かりそめにも強制にわたるようなことになってしまってはいけない、注意をしながら、本当に注意をしながら進めなければいけないと思っております。
  320. 竹村泰子

    委員以外の議員(竹村泰子君) 今の答弁、そして御議論を聞いておりまして、やはりこれはあくまでも善意の発露ということでありまして、仮にも強制的な要素があってはいけないと思いますし、もしそういうふうなことが進んでいきますと、臓器提供をしない人は悪い人というふうな価値観も出てくるわけでして、決してそういう強制的な考え方は許されないものというふうに私どもは考えます。
  321. 栗原君子

    栗原君子君 決して強制的なことにならないようにということをまずお願いするものでございます。  続きまして、厚生省に組織バンクの実態について若干お伺いをしたいと思います。  まず、先般もこの場で質問をさせていただきましたけれども、近畿スキンバンクの実態は御存じでいらっしゃいますね。
  322. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) お答えいたします。  近畿スキンバンクについては、民間レベルの活動として近畿地区の十一の医療機関で構成されておりまして、提供を受けました皮膚を重症の熱傷患者の救命治療に使用するため凍結保存をしていると承知をいたしております。その運営につきましては、近畿スキンバンクマニュアルが作成されておりまして、適正な運営のためのさまざまな工夫がなされていると聞いております。
  323. 栗原君子

    栗原君子君 組織の摘出、骨とか皮膚とか血管に関する法律は現在あるんでしょうか、ないんでしょうか。
  324. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) 組織の摘出につきましては、現在各地域の研究者のつながりの中で研究として行われておりまして、特段これに関する法律はございません。
  325. 栗原君子

    栗原君子君 ございませんですね。  それでは続きまして、家族本人同意なく摘出されれば死体損壊罪となるわけでございますけれども、このことについてはどう認識していらっしゃいますか。
  326. 小林秀資

    政府委員(小林秀資君) 御遺体から組織をいただくにしても家族の御了解をなしにとるということはあってはならないことと、このように思っております。  そのこと自体が、とられた組織自体が患者さんの治療に使われるとかということもありますから、すぐそれがどういう罪になるかということについてはよくわかりませんけれども、死体損壊との関係は出てくるだろうと思っております。
  327. 栗原君子

    栗原君子君 もう時間が参りましたのでそろそろ締めたいと思いますけれども、最後に厚生大臣にお尋ねをいたします。  脳死臓器移植を待っている患者のためにと、それは思うことは大変結構なことでございますけれども、もっと代替医療の開発こそ急務ではなかろうかと思うんです。このことを含めて厚生大臣の所見をお伺いできればと思います。
  328. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) できれば人の臓器移植することなしに人工の臓器が開発されればこれにまさることはないわけです。今後、この移植医療の環境整備に全力を尽くしますが、あわせて人工臓器の研究開発にも積極的に取り組んでいきたいと思います。
  329. 栗原君子

    栗原君子君 終わります。
  330. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 速記をとめてください。    〔午後五時五十九分速記中止〕    〔午後六時二十六分速記開始〕
  331. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 速記を起こしてください。  他に御発言もなければ、修正案に対する質疑は終局したものと認めて御異議ございませんか。    〔「異議なし」「異議あり」と呼ぶ者あり〕
  332. 西山登紀子

  333. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 西山君。
  334. 西山登紀子

    西山登紀子君 日本共産党の西山登紀子でございます。  修正案質疑は極めて不十分であり、質疑の打ち切り反対の動議を提出いたします。
  335. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ただいまの西山君提出の動議を議題とし、採決いたします。  本動議に賛成の方の起立を願います。    〔賛成者起立〕
  336. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 少数と認めます。よって、本動議は否決されました。  よって、修正案に対する質疑は終局したものと認めます。  これより原案並びに修正案について討論に入ります。  御意見のある方は賛否を明らかにしてお述べ願います。
  337. 川橋幸子

    川橋幸子君 私は、中山案及び修正案反対する立場から討論を行います。  なお、私は、猪熊案提出の賛同者の一人であり、猪熊案に賛成する立場であることを申し添えます。  私個人としては、猪熊案中山案及び修正案の三案が、いずれも臓器移植に新たな道を適切に切り開いていきたいとじていることを評価し、それぞれの関係者の方々の貴重な努力を多といたします。  とりわけ参議院段階の審議に入ってからは、人の死や死の時期をめぐる二つの死の間の妥協点を探る修正案が提案され、臓器提供する側の本人意思家族への配慮が盛り込まれたことについても評価するものであります。  しかしながら、まだ現在のところの審議は、解明しなければならない疑問点が明らかになったという段階にすぎません。二つの死の間の矛盾が顕在化することのないよう、立法上の論点整理が必要であります。また、国民の信頼が得られるようなインフォームド・コンセントのあり方脳死判定あり方移植医療の公平・透明性の確保、家族に対する精神的ケアの充実など、臓器提供する人、提供を受ける人及びそれらの人々の家族の側に立った人の生命倫理にかかわる問題についての審議は、これからという状況にあります。これらの審議は、全国各地の幅広い層の人々の貴重な意見国会議員自身が聞き、みずからの価値観を厳しく問い直すことでもあります。  なぜ今、会期末という政治の側の都合によって採決を急がなければならないのでしょうか。このような審議の進め方は、ことし五十周年を迎え、その役割を問われている参議院の存在をみずからおとしめるものであると考えます。また、それ以上に、本法案の成立後の円滑な実施の妨げとなることを危惧するものでもあります。  以上の理由によりまして、現時点での採決であれば、私は、医療の側の事情だけではなく、個人の自己決定権を重視し、家族への配慮を重視する視点に立つ猪熊案に対して、他の二案に比べてより深い共感を抱くものであります。このため、中山案及び修正案には反対いたします。
  338. 石渡清元

    石渡清元君 私は、中山案に対する修正案及び修正部分を除く中山案に対して賛成の討論を行います。  この世に生をうけた者である以上、死というものはだれしも避けることのできない問題であり、まさに厳粛でかつ重く難しい課題であります。しかし、一日千秋の思い臓器移植を待ち望んでいる患者家族方々のことを思えば、この大きな問題の対立点を乗り越えて、何としても臓器移植の法制定及び整備を行わなければならないと思うのであります。  臓器移植の問題で最も大きな対立点となったのは、脳死は人の死か否かということであります。脳死状態にある人は生きているのだという考えに立った場合、仮に脳死状態にある人から心臓等を摘出すればその人の生命を絶つこととなり、幾ら違法性阻却の論理をもってしても、これは立法にはなじまないと考えます。よって、私はこの考えには賛同しかねるのであります。  しかし、脳死を人の死とする中山案原案においても、臓器移植関係のない人まで法律脳死を人の死と一律に決められてしまうのではないかとの懸念が出されております。中山案に対する修正案は、これらの指摘に応じて中山案を補うとともに、国民の懸念に配慮したものとして評価できるものと存じます。  以下、修正議決された中山案に対し、順次賛成の理由を申し述べたいと存じます。  賛成の第一の理由は、脳死を人の死としながらも、法律で一律に脳死体を死体とすることに慎重な意見があることに配慮して脳死を広く死として一般化せず、脳死判定臓器移植のため臓器摘出される者の身体に限定していることであります。  賛成の第二の理由は、臓器移植のため脳死判定を行う場合を限定していることであります。これにより、結果的に脳死判定拒否権が受け入れられ、かつ、人を救うために臓器提供を行いたいという本人家族の崇高な意思をも尊重できるものとなりました。  賛成の第三の理由は、脳死判定手続の厳格化及び罰則の整備と強化を図っていることであります。  以上が中山案に対する修正案及び修正部分を除く中山案に対する私の賛成の理由であります。  最後に、臓器移植が一日も早く我が国に定着するためにも、さらなる医の倫理の確立とディスクロージャーに努められることを切に願いまして、私の討論を終わります。
  339. 西山登紀子

    西山登紀子君 私は、日本共産党を代表して、中山太郎議員外十三名提出による臓器移植に関する法律案及び修正案について、反対の討論を行います。  脳死をもって人の死と扱うか否かという問題は、医学上の問題であると同時に、国民的な合意を不可欠とする、すぐれて人道的、社会的な問題であります。ところが、今日の日本では、この問題についてはさまざまな意見や疑問があり、国民的な合意が成立しているとは言えません。  良識の府と言われる参議院で、人の生死にかかわる重要法案が実質十九時間の質疑しかされず、しかも修正案審議がわずか四時間で採決されるというのでは、国民参議院に対する信頼は大きく揺らぐと言わざるを得ません。  国民の信頼や合意を形成する上で避けて通れない脳死判定の問題は、衆議院厚生委員会参考人聴取では、「医学の進歩とともに脳死も細胞レベルの点まで含めて考える時代に入ってきた」との指摘がされ、脳の機能停止に加えて細胞死についてもあわせて検討することが求められました。また、無呼吸テストは患者の蘇生の可能性を奪いかねないという重大な指摘もされ、両案が前提としている竹内基準に重大な疑問が投げかけられています。参議院質疑で厚生省も、医学の進歩に即して見直されることは当然として竹内基準の再度の検証を約束しました。  このように、この間の国会の論議を通じて、現在の医学、医療の急速な進歩のもとで、脳死状態に陥っても蘇生限界ゾーンが広がっていることが明らかになりました。そのため、脳死をどこまで正確に判定できるか十分な保障がないもとで、脳死を人の死として性急な立法化はするべきではありません。  中山案修正は、同じ脳死状態にある患者でありながら、臓器提供者では死とし、それ以外は生きているとされ、死の基準が臓器提供するかしないかの意思にゆだねられることになり、死の基準を二重化するという新たな矛盾を生み出すものです。  人間尊厳とその生と死にかかわる極めて重大な問題にもかかわらず、国民の抱える疑問や不安にこたえるための十分で深い審議を尽くさずに、ただ採決を急ぐことは、立法府としての責任放棄に等しく、強く抗議を表明し、反対討論といたします。
  340. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 他に御意見もないようですから、討論は終局したものと認めます。  これより臓器移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)について採決に入ります。  まず、関根君提出の修正案の採決を行います。  本修正案に賛成の方の起立を願います。    〔賛成者起立〕
  341. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 多数と認めます。よって、関根君提出の修正案は可決されました。  次に、ただいま可決されました修正部分を除いた原案全部の採決を行います。  修正部分を除いた原案に賛成の方の起立を願います。    〔賛成者起立〕
  342. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 多数と認めます。よって、修正部分を除いた原案は可決されました。  以上の結果、本案は多数をもって修正議決すべきものと決定いたしました。  加藤紀文君から発言を求められておりますので、これを許します。加藤君。
  343. 加藤紀文

    ○加藤紀文君 私は、ただいま可決されました臓器移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)に対し、関根則之君、成瀬守重君、木庭健太郎君、和田洋子君、照屋寛徳君、川橋幸子君及び私、加藤紀文の共同提案による附帯決議案を提出いたします。  案文を朗読いたします。     臓器移植に関する法律案に対する附帯決議(案)   政府は、次の事項について、適切な措置を講ずべきである。  一、客観的かつ医学的な基準による公正・公平なレシピエント選定が行われる適正な基準の設定、臓器移植ネットワークの体制整備等この法律の施行に当たって必要な移植に係る環境整備及び事前の準備に万全を期し、いやしくも準備不足のもとに安易な移植が行われたとの批判を招くことのないようにすること。準備期間を十分なものとするため、公布の日までに一月を置くものとすること。  二、移植実施施設を厳選するため、従前の検討結果の再検討を行うこと。  三、家族及び遺族の範囲についてのガイドラインの作成について、早急に検討を行うこと。  四、臓器提供する適正な意思表示ができる者の年齢等の範囲について、関係方面の意見を踏まえ、早急に検討を行うこと。  五、ドナーカード(意思表示カード)の普及に努めるとともに、脳死及び臓器移植について国民への普及啓発を図ること。また、コーディネーターの資質の向上と養成に努めること。  六、臓器摘出に係る法第六条第四項の厚生省令で定める判定基準については、臓器移植の実施状況を踏まえ、医学の進歩に応じて、常時検討を行うこと。  七、臓器摘出に係る法第六条第二項の判定については、脳低体温療法を含めあらゆる医療を施した後に行われるものであって、判定臓器確保のために安易に行われるとの不信を生じないよう、医療不信の解消及び医療倫理の確立に努めること。  八、移植医療について国民の理解を深めるため、臓器移植の実施状況移植結果等(臓器配分の公平性の状況を把握するための調査の結果を含む。)について、毎年、国会報告書を提出すること。   右決議する。  以上でございます。  何とぞ委員各位の御賛同をお願い申し上げます。
  344. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ただいま加藤君から提出されました附帯決議案を議題とし、採決を行います。  本附帯決議案に賛成の方の起立を願います。    〔賛成者起立〕
  345. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 多数と認めます。よって、加藤君提出の附帯決議案は多数をもって本委員会の決議とすることに決定いたしました。  ただいまの決議に対し、小泉厚生大臣から発言を求められておりますので、これを許します。小泉厚生大臣。
  346. 小泉純一郎

    ○国務大臣(小泉純一郎君) ただいまの附帯決議につきましては、その御趣旨を十分尊重いたしまして、努力をいたします。
  347. 竹山裕

    委員長竹山裕君) なお、審査報告書の作成につきましては、これを委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  348. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。     —————————————
  349. 竹山裕

    委員長竹山裕君) これより請願の審査を行います。  第一八七二号臓器移植法案の廃案に関する請願外四件を議題といたします。  これらの請願につきましては、理事会において協議の結果、いずれも保留とすることに意見が一致いたしました。  以上のとおり決定することに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  350. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 御異議ないと認めます。よって、さよう決定いたしました。  本日はこれにて散会いたします。    午後六時四十三分散会      —————・—————    〔本号(その一)参照〕     —————————————    大阪地方公聴会速記録  期日 平成九年六月十二日(木曜日)  場所 大阪市 ホテルニューオータニ大阪    派遣委員     団 長 委員長     竹山  裕君        理 事      木庭健太郎君                 河本 英典君                 小山 孝雄君                 谷川 秀善君                 大森 礼子君                 大渕 絹子君                 中尾 則幸君                 橋本  敦君    公述人        京都大学移植免        疫医学教授    田中 紘一君        弁護士日本弁        護士連合会刑事        法制委員会事務        局次長      岩田研二郎君        金沢医科大学教        授        金川 琢雄君        神戸生命倫理研        究会代表     額田  勲君        心臓移植者    都倉 邦明君        大谷大学教授・        真宗大谷派住職  小川 一乘君     —————————————    〔午後一時一分開会〕
  351. 竹山裕

    ○団長(竹山裕君) ただいまから参議院臓器移植に関する特別委員会大阪地方公聴会を開会いたします。  私は、本日の会議を主宰いたします臓器移植に関する特別委員会委員長竹山裕でございます。よろしくお願いいたします。  まず、私どもの派遣委員を御紹介いたします。  平成会所属の木庭健太郎君でございます。  自由民主党所属の河本英典君でございます。  同じく自由民主党所属の小山孝雄君でございます。  同じく自由民主党所属の谷川秀善君でございます。  平成会所属の大森礼子君でございます。  社会民主党・護憲連合所属の大渕絹子君でございます。  民主党・新緑風会所属の中尾則幸君でございます。  日本共産党所属の橋本敦君でございます。  次に、公述人方々を御紹介申し上げます。  京都大学移植免疫医学教授田中紘一君。  弁護士日本弁護士連合会刑事法制委員会事務局次長岩田研二郎君。  金沢医科大学教授金川琢雄君。  神戸生命倫理研究会代表額田勲君。  心臓移植者都倉邦明君。  大谷大学教授真宗大谷派住職小川一乘君。  以上の六名の方々でございます。  さて、臓器移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)及び臓器移植に関する法律案(参第三号)につきましては、目下、本委員会で審査中でございますが、本委員会といたしましては、両法案の重要性にかんがみ、国民の皆様方から忌憚のない御意見を賜るために、本日、当大阪市及び新潟市において同時に地方公聴会を開会することにいたしました次第でございます。何とぞ特段の御協力をお願い申し上げます。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  田中公述人、岩田公述人、金川公述人、額田公述人、都倉公述人及び小川公述人におかれましては、御多忙中のところ、本日は貴重な時間を割いていただき本委員会のために御出席を賜りまして、まことにありがとうございます。派遣委員一同を代表いたしまして心から厚く御礼を申し上げます。  次に、会議の進め方について申し上げます。  まず、お一人十五分程度で御意見をお述べいただきまして、その後、委員の質問にお答えをいただきたいと思います。  なお、この会議におきましては、私どもに対しての質疑は御遠慮願うことになっておりますので、御承知願います。  それから、傍聴の方々にも、傍聴人心得をお守りいただきまして、会議の円滑な進行に御協力くださいますようお願いいたします。  それでは、これより公述人方々から順次御意見を承ります。  お座りになったままで御発言をお願いいたします。  まず、京都大学移植免疫医学教授田中紘一君、よろしくお願いいたします。
  352. 田中紘一

    公述人(田中紘一君) ただいま御指名いただきました田中でございます。  私は、昭和四十一年に大学を卒業しまして、卒業後は消化器外科と小児外科を中心に臨床を歩んでまいりました。昭和五十九年より肝臓移植を推進するような取り組みに参加いたしまして、その後、京都大学で生体移植の実績を積み重ねて、一昨年、京都大学に大学院重点化の一つとして移植免疫医学講座ができまして、そこで今担当しています。現在は週一、二例、健常人から肝臓の一部の提供を受けまして移植する生体移植を実施しています。  私は、移植医として、日本でも脳死者からの臓器提供が必要とされる臓器移植が行われるべきであるとの立場から、意見を述べさせていただきます。  我が国では、脳死者からの臓器提供が受けられない状況下で、健常人の命の贈り物を受けて生体移植が実施されて、年々その希望者もふえて、資料一—一にお示ししますように、五月十日現在で症例総数が四百五十九例、実施施設が十七施設で、うち十例以上が六大学という状況下で進んでいます。  一方、脳死者からの臓器提供は、資料の一—二の上の段でお示ししますように、種々の事情で脳死者臓器提供を受けねばならない移植患者海外へ出かけていって移植を受けている現状で、現在もその状況には変わりがないと思います。  日本人移植を受けた患者の年齢分布は、その下段に示しますように、主に小児を中心とする患者層でありまして、これを見ておわかりいただけますように成人の肝移植はいまだ数も少なく、したがって生体移植で肝臓疾患の末期状態の救命的治療をするのには限界のある状況でございます。  ちなみに、資料一—三にどのような疾患で肝移植を受けたかという疾患名を示していますが、この疾患名で見てもおわかりのように、やはり小児を中心とする肝移植で、多くの、つまりマジョリティーの成人に対する移植は現在も数が少ない現状でございます。  生体ドナーを右側に書いていますが、やはり健常人の命の贈り物、意思ということから、生体肝のドナーは母親、父親が中心で、姉妹、兄弟、それから息子から父へ、そのほか夫と、このような範囲で現在の我が国における肝移植は進められています。  移植患者の成績は、その下段に示しますように、生体移植で八〇%の生存率、死体移植海外に出かけた人の成績はこれより劣るという状況でございます。  こういう状況下で、今、我が国においても脳死者からの臓器提供を受ける道が開かれようという状況になっているわけですが、移植医療そのものは、免疫抑制剤の開発、それから手術手技の進歩、それから臓器移植・保存法の進歩等によりまして一九七〇年代から次々にトライアルがされてきました。  七〇年代は、主として患者移植後の生活の質が悪い、新たな病気をつくり出すと、つまり入退院をしたりあるいは免疫抑制剤のために新たな病気をつくるという状況で、評価されない時代でありました。  一九八〇年代になりまして、このような手技あるいは免疫抑制剤が十分進歩いたしまして、この移植後のQOL、つまり生活の質がいい状況が招来する時代になりました。これを受けて、一九八三年にNIHで、この肝臓移植に対して賛成派、反対派が問題点を浮き彫りにしまして、肝臓移植が肝疾患の末期状態の救命的治療となり得るのか、なり得るとしたらどのような患者さんを選ぶべきか、移植の時期はどうか、このようなことを大々的に論議されて、欧米では肝臓移植が治療学として確立されていった経緯がございます。  その後、一九八〇年代の後半には症例数もふえて、今では欧米あるいはアジアの国々でも移植脳死者からの臓器提供を受けて実施されている状況でございます。  私たちも、小児外科を私自身担当していますので、小児の外科的ハンディキャップの一つの代表的疾患で難病であります胆道閉鎖症の子供を受け持ちまして、その家族がどうしても移植を受けたいということで欧米に送ったことがあるんです。一つの家族のことを紹介いたしますと、ドイツで移植を受けました。家族は、ビーパーという呼び出しベルを持って買い物をしたり、言葉のわからない中で非常に苦労して、最終的に希望である臓器移植を受けたんですが、多くの合併症に見舞われまして、最終的には四十カ所ほど腸に穴があいて死亡して、残念ながら移植成功に至らなかった。その家族を含めて、日本から送った人は、オーストラリアでもアメリカでもドイツでもいろんな苦労をされて、そして向こうでの移植を受けている現状でございます。  そういう中で、やはり我が国においてもこういう肝疾患の末期状態患者さんの福音となる臓器移植ということで、海外での臓器移植の現場を見たり、そして実際にその移植に従事したりして、いかに日本に取り入れるかということを研さんしてまいりました。しかしながら、欧米の肝移植は、コーディネーターのシステムあるいはその臓器移植を取り巻く種々の部門の絶大なサポート、それからボランティア、そういうような状況日本と著しく違いまして、なかんずく脳死に対する考え方が大変違っています。したがって、そこで考えましたことは、やはり我が国には我が国独自のスタイルの移植を広めないと子供たちにとって生への道が開けないということで、生体移植の道へと進んだわけでございます。  しかし、生体移植は、ドナーの安全性ということが大変大きな問題になる。健常人にとっては、我が子、同胞あるいは親の病気に対して何とか助けたいということで肝臓の切除という臓器提供手術を受けるんですが、やはり多くのあらゆる悩みに直面いたします。傷も大変大きくなります。移植を受けた後にまだまだ高額医療にも悩まされます。しかも仕事。しかしながら、やはり命の贈り物ということから考えまして、臓器提供を受ける人は現在着実にふえているんですが、最近でもアメリカの健常なドナーが一人死亡いたしました。したがって、やはりこの生体移植ではドナーの安全性ということについて、受ける方も移植する方も大きな課題に直面するわけでございます。  そういう中で、ドナーになり得ない家族、つまり適当なドナーがいない、あるいは成人。もし生体を考えるならば、成人ですとお父さん、お母さんは七十歳、八十歳となっているわけでございますから、ドナーになり得ない。あるいは兄弟、あるいは夫婦、そういうところでドナーになり得ない人たちが私たちのところにもたくさん来て適応外ということで拒否されて、移植の道を開けないまま残念ながら亡くなっている現状でございます。  移植医は、そのように臓器移植希望している人へいい医療提供するという立場でございます。やはり移植というのは、社会性、倫理性、そういうものが大変重要視される医療でございますし、私たちの施設でも、資料三に示しますように、移植チームというのはコーディネーターを中心にあらゆる分野の支援体制がなければ移植ができない状況でございます。まして、倫理性ということから考えますと、生体移植では、現在二百九十六例が終わっているんですが、そういう中で一例一例倫理委員会に提出して指針を受けて移植を実施している状態です。  したがって、こういう状況下で日本移植学会は、オープン、フェアそれからベストという体制で、社会の人から十分容認される移植、あるいは患者さんにとっても満足がいく移植、納得ができる医療、そういうものができるようにあらゆる大学間を乗り越えて支援体制をとりながら移植を実施しようという体制にあります。  以上のように、どうぞ我が国においても脳死者から善意臓器提供が受けられる道を開いていただいて、そしていい知恵を出していただいて、我が国における臓器移植が進むことを切に希望いたします。  どうもありがとうございました。
  353. 竹山裕

    ○団長(竹山裕君) ありがとうございました。  それでは次に、弁護士日本弁護士連合会刑事法制委員会事務局次長の岩田研二郎君、お願いいたします。
  354. 岩田研二郎

    公述人(岩田研二郎君) 岩田でございます。  私、大阪弁護士会に所属をしておりまして、日弁連の刑事法制委員会でこの問題に携わってまいりました。  お手元に私の意見要旨を文書でお配りしておりますので、これを読み上げさせていただいて、私の意見としたいと思います。少し早口になりますことを御容赦ください。  私は、日本弁護士連合会の刑事法制委員会で、脳死臨調が開始された平成二年から、脳死臓器移植の問題について弁護士会の意見を集約する作業に携わってまいりました。私は、この問題に対する日弁連の考え方を述べるとともに、この間、参議院において検討されている修正案についても私の考えを述べたいと思います。  日弁連は、脳死を人の死とする社会的合意はないという立場に立っています。しかし、人が脳死状態に陥り蘇生限界点を超えたと判定されたときに、その患者脳死状態からの臓器提供意思を書面で表示していた場合に限り、その意思に従い医師臓器摘出することを法で認めることは許されるという意見を表明しています。日弁連は、それを法律で明確に規定することが必要と考え、死体からの移植脳死状態にある者の身体からの移植を書き分けた、脳死を人の死としない臓器移植法案を提案してきました。このたび国会二つ移植法案が提案されていますが、猪熊議員らの提出に係る法案は日弁連と同じ立場のものです。  衆議院における審議を見て残念に思うことは、二つ法案国民に提示され、その注視のもとでやっと実質的な審議が開始された途端に、慌ただしく採決に付されてしまったことです。特に、脳死を人の死としない臓器移植法案、金田案についてはほとんど審議がなされず、この法案の持つ意義や位置づけについて論議が深められないまま終わりました。  脳死臨調が最終答申を出した直後にNHKが行った世論調査では、答申で出された意見のうち、脳死を人の死として移植を積極的に進めるとの意見を支持する人が一五%であるのに対し、脳死は限りなく死に近いが人の死とは認めない、しかし移植は厳しい条件つきで認めるとの意見を支持する人は六二%に上っていました。脳死を人の死としない移植法案は、この多数の国民意思に沿うものと言えます。  問題は、脳死を人の死としないで臓器提供法律で認めることが憲法秩序のもとで許されるかという点であります。  この法律案に対して、生きている者から心臓を切り取るのかという言い方がされたり、生命価値軽重をつけるものとの批判もされています。いずれの考え方も、この法律案の本質が自己決定に基づく臓器提供の権利を保障することにある点を見ていないものと思われます。  従来、臓器移植本人意思に根拠を置くのではなく、遺体の管理権者たる遺族の承諾を根拠に行われてきたため、ドナー意思は軽視され、ドナー臓器摘出の客体とされてきました。つまり、ドナー移植医療における主体とは位置づけられてこなかったのです。中山案の前に提案されていた森井議員らの提出の法案でも、遺族のみの承諾で脳死状態からの臓器摘出を認める条項が盛り込まれていたのはその考え方です。その前提のもとで、移植医療の主体摘出をして移植術を行う医師であり、ドナー摘出の客体であるという枠組みの中で論じられてきた嫌いがあります。  脳死を人の死としない移植法案は、そうではなく、ドナー移植医療の主体臓器提供の権利を行使する主体としてとらえ、その自己決定に最大の根拠を置いた法案です。  この自己決定権の行使という点においては、死の差し迫った患者が病気による苦痛から解放されるため、自発的意思医師の処置により積極的に安楽死することを認めるかどうかという問題と共通する点があります。死の差し迫った患者が、一定の目的のために、医師の処置によりその死期を早めることが許されるかという共通問題であります。  しかし、積極的な安楽死は、いまだ蘇生限界点を超えていない段階で死に至らしめること、自己決定の時期が病気の苦痛に苦しむ段階に入ってからであり真意に出たものか判断がつきにくいこと、目的が本人の苦痛の除去にあるという特徴を持っています。それに対し、脳死状態からの臓器提供による死は、蘇生限界点を超えた段階に入っていること、臓器提供は自由な意思が決定できる健常時になされていること、目的は他人の生命や健康を救い移植医療に貢献する自己意思を実現するとの特徴があり、これらの点で両者には相違があります。  積極的安楽死については、東海大学事件の横浜地裁判決でも一定の厳しい要件のもとに容認されるという判断が示されており、およそ生体について患者自己決定により死期を早める医師の処置を日本の憲法秩序が一切許さないというものではないというふうに考えます。  安楽死についてはいまだ解決すべき事柄は多いと思われますが、少なくとも脳死状態臓器提供については、法律で厳格な要件を課して制限的にそれを容認するという道は、国会国民合意をすれば法的には可能なことだと思います。その説明として、多くの刑法学者が、違法阻却説に立って医師行為を合法化することは法理論としても可能であると主張しておられます。  次に、脳死を人の死とする中山案問題点について述べたいと思います。  中山案のように脳死を一律に人の死とした場合の法的問題点については、遺産相続や刑法的保護の問題など多くの観点から指摘がなされておりますが、法律実務にかかわる弁護士として幾つか指摘をしたいと思います。  それは、脳死判定後の治療費の負担の問題です。現在では脳死判定後も、人工呼吸器を初め、心停止に至るまで治療が行われています。脳死を人の死とした場合には公的医療保険の被保険者資格が喪失することから、中山案では、附則十一条で公的医療保険の給付とみなす規定をあえて入れて、従来どおり脳死判定後の患者の治療費が患者家族の負担とならないようにしています。  しかし、交通事故などにより脳死になった患者の多くは、その治療費は、公的医療保険ではなく、加害者または加害車両の加入する民間の自動車保険から損害賠償金として支払われています。損害賠償は、相当因果関係にある損害、つまり通常生ずべき損害について加害者が支払い義務を負うものであります。  現在は、脳死判定をしても、生体に対する治療費としてその後の心停止までの費用も加害者の負担となっています。しかし、脳死を人の死とする法律ができた場合、死体に対する治療費または処置費というのは通常の損害になるのでしょうか。小泉厚生大臣は、政府答弁の中で、脳死だけれども心臓死まで治療してくださいと家族が言うとは思いませんと答弁されました。そうすると、脳死判定後の治療費は遺族の特別の希望による特別な損害で加害者には支払い義務がないという抗弁が出てくることが十分に予想され、臓器移植にかかわらないすべての脳死患者家族までが脳死判定後の治療を望むことが困難にならないかを危惧します。  他の法規との整合性の問題では、医療現場にかかわる問題でありながら余り指摘されていない問題として、医師法二十一条の異状死体を検案した医師の二十四時間以内の警察署への届け出義務の問題があります。脳死を人の死とする法律ができた場合、この法律の適用でこの届け出義務の起算時がいつになるかという問題です。  現在は、救急病院などで脳死判定をしても心停止を待って死を確認してから警察署に届けられています。しかし、脳死判定により死体となるのであれば、脳死判定をした医師は、いまだ人工呼吸器をつけて心臓が動き、家族がベッドサイドでみとっている間でも、二十四時間以内に警察署に届け出なければなりません。この届け出義務は罰則つきですから、罪刑法定主義の観点からもこの起算時は明確にしておく必要があります。このような措置の変更についても、医療現場の実情とのギャップがあると思われますし、捜査機関としても、脳死判定後の検視などをどの時期に行うことになるのかが国会などでも明らかにされなければなりません。  中山案のように脳死を人の死とすれば、すべての脳死患者からすべての人権を失わせることになり、それが脳死患者家族にとっていかに厳しい事態を招くかということを国民に知らせた上で、脳死を人の死としていいのかを冷静に判断する機会を持つべきだと思います。  参議院における修正案について一言申し上げたいと思います。  このたび、参議院臓器移植のために脳死判定された者の身体についてのみ死とみなすとの修正案が検討され、早ければ来週中にも参議院で可決する見込みと報道されています。  この修正案はいわゆる二元説、つまり臓器移植の目的で脳死判定された者のみを死とみなすが、臓器移植以外の目的で脳死判定された者は、それをもって死とせず、心臓死をもって死とする考え方に立ったものと考えられます。脳死を一律に人の死とすることの問題点国民の不安にこたえて、臓器移植の問題に限定した解決を図る立場関係者の方々が苦心され検討されていることについては敬意を表する次第です。  しかし、この修正案には法的に見ても多くの問題点や疑問点があります。  第一に、修正の対象となる中山案は、脳死は人の死とする社会的合意はあり、これを法律で確認したものにすぎず、この移植法により人の死を創設したものではないとの基本的立場でした。修正案は、この基本的立場について変更されたのでしょうか。臓器移植以外の目的で脳死判定された者を生きているとする以上、中山案の右の脳死一元説の立場には立たないものと判断するほかありません。  第二に、臓器移植以外の目的で脳死判定された者は生きていると認めることが修正案の条文には明記されていません。あれほど脳死を人の死と一律にする法律案として位置づけられた中山案修正するというのであれば、この点については、治療方針の変更など臓器移植以外の目的で脳死判定された者は従来どおり生きていると扱われ、他の法令などの解釈にも影響を与えないことが条文の上でも明記されるべきです。  確かに、附則十一条の公的医療保険の給付とみなす対象から臓器移植以外の目的で脳死判定された者は除外されているところを見ると、その人たちはいまだ生きているものとして被保険者資格があることを前提としていると読めそうです。しかし、この点はあいまいにすることなく条文や審議で明らかにしないと、この法律で一体何が決まって何が決まっていないのかがわからなくなり、混乱が起こります。  第三に、同じ脳死状態にありながら、臓器提供に関する患者家族の主観的意思有無により生体であったり死体になったりすることは、法的安定性を損なうことになります。例えば、脳死判定を受けた患者を第三者が刺して心臓停止に至らしめた場合、その患者臓器提供者であれば死体損壊罪、臓器提供者でなければ殺人罪となり、臓器提供者脳死判定後は刑法的保護の対象としてもその個人の尊厳を保護されないことになります。  第四に、臓器移植の目的で脳死判定を受けた者のみを死んだものとみなす合理的根拠はどこにあるのかという点です。  臓器移植以外の目的で脳死判定された者は生きているとしながら、臓器提供の場合のみ人の死となる根拠は、本人自己決定による脳死の選択か法律によるみなし規定に求める以外にはありません。  しかし、脳死状態からの臓器提供意思表示には、脳死状態からの臓器摘出により死に至ることの同意はあると思われますが、摘出前でも脳死判定を受けたときから直ちに全面的に死体と扱われ、すべての人権を失ってもいいという同意まで含まれていると考えることは困難です。修正案でも、脳死判定に従う意思表示要件とするものの、それをもって死とされることについての意思表示までは求めておらず、死の自己決定と言えるかどうか疑問であります。  そうすると、法律によるみなし規定を根拠とできるでしょうか。それは、臓器移植を目的とする法律臓器提供者死体として提供者のすべての人権を奪うことを容認することを意味します。しかし、憲法で保障されたその人の持つすべての人権を本人意思を超えて下位の規範である法律で奪ってしまうことは許されないと思われます。  こう考えると、臓器移植を目的として脳死判定を受けた者を死体とする根拠は、死としないと生体からの移植になり困るからという説明のため以外になく、これでは余りに便宜的で、到底合理的な説明にはならないと思われます。  したがって、臓器移植の目的で脳死判定された者だけを死とみなすという修正案は、法理論的には以上の基本的な問題点が解決されたとは言えないと考えます。しかしながら、この修正案脳死を人の死と一律に決めることによるさまざまな問題を解決する役割を果たすことにはなるでしょう。そして、その立場に立っても国会審議するべき事項は多いと思われます。  少なくとも、次のようなことが明らかにされなければなりません。  第一に、臓器移植以外の目的で脳死判定を受けた者が生きていると扱われ、この法律脳死移植場面以外には人の死について何ら変更をもたらさないことが、法律の条文や審議でどの程度明らかにされるかという点です。先ほど述べたように、臓器移植以外の目的で脳死判定をされた者は従来どおり生きているとされ、他の法令の解釈に影響を与えないことを明らかにすべきです。  第二に、脳死は人の死とすることを明確にして提案された中山案修正案立場の相違点を明らかにしておかないと、衆議院参議院審議された中山案についての答弁のうち、どれが修正案立場でも意味がありどれが意味がないのかが混乱するおそれがあります。  例えば、臓器移植の目的以外で脳死判定された後の治療費については、従来どおり患者は被保険者資格を喪失せず公的医療保険の対象となること、先ほど指摘をしました医師法二十一条の異状死体を検案した医師の二十四時間以内の届け出義務の起算時も従来と変わりなく、脳死判定時ではなく心臓死のときとなること、刑事訴訟法二百二十九条の検視は、臓器移植のための脳死判定がなされたときはそのときから行うが、それ以外のときは従来どおり心臓死後に行うことなど、少なくとも医療現場をめぐる問題について、どのようなことが変わりまた変わらないかを明らかにしておくべきです。  政府答弁についても、例えば衆議院において厚生省は、患者脳死心臓死かの選択を認めることになり、家族脳死判定拒否権はないと答弁していますが、修正案のように人の死と直結する脳死判定拒否権とそうでない脳死判定がある場合にどう違ってくるのかを含めて、どの政府答弁が修正案立場でも意味があるのかをきちんと整理されるべきことは当然です。  第三に、臓器移植のための脳死判定の条件として、脳死判定家族が拒まないことの確認を追加するのですから、その判定についての家族意思確認には臓器提供についての意思確認も含まれることになります。したがって、今までは脳死判定後に行うとされていた家族臓器提供意思確認を脳死判定前に実施することになり、説明に当たる移植コーディネーターの登場時期も早くなる点で、脳死判定後に臓器移植説明をすることを前提としている日本移植学会の行動指針とも相違することになり、この点も十分に論議されるべき事項です。  このように、審議により明らかにしておかなければならない点は多く、会期内成立を急ぐ余り、審議が十分に行われないまま採決に付されることについては賛成できません。  二つ移植法案に加えて、この修正案についても十分な審議を行っていただくようお願いして、私の意見といたします。
  355. 竹山裕

    ○団長(竹山裕君) ありがとうございました。  続いて、金沢医科大学教授金川琢雄君、お願いいたします。
  356. 金川琢雄

    公述人(金川琢雄君) ただいま御紹介いただきました金川でございます。  私は、医事法学を専攻する者で、インフォームド・コンセントの問題とか病院の法的規制の問題といったことをかなり幅広く研究しておる者でございまして、脳死臓器移植に関する論稿も若干発表したことがあります。机の上に若干のものを配付いたしましたが、それは一部でございます。  そこで、まず最初に、私は脳死及び臓器移植についての基本的な考え方を申し上げたいと思います。  私は、脳の死は人の死であると、かなり以前からそのように考えております。その根拠は、いわゆる脳死臨調答申に示されておりますように、脳の統合作用が欠如した場合には有機的組織体としての個体は個々の臓器が仮に生きておったとしても死であると解されるからであります。この考え方は別にここで初めてとられたものではなくて、一九八三年のいわゆるアメリカ大統領委員会報告や一九八八年の日本医師会生命倫理懇談会の報告などでもとられておりまして、ほぼ通説的な考え方であろうと考えております。  脳死状態は蘇生医学の発達の結果生じてきたものでありまして、脳死は従来の三徴候死による死の判定と並んで、新たな死の判定をつけ加えたものにすぎないというふうに考えております。  しかしながら、脳死状態そのものは、脳死状態では人工呼吸器によって呼吸しておるわけでございますけれども、心臓も動いており循環も保たれておるわけで、これを人の死と認めない者がいることは事実であります。このことは、つまり脳死に対する社会的合意が形成されていないということのあらわれであるとも考えられます。  そこで、こうした脳死を一律に法によってそれは人の死だとして強制することは無理があるように思われます。現在はいわば過渡的な段階であり、いずれすべての人たちが脳の死は人の死であると認めるようになるというふうに私は思っておりますけれども、現段階ではこれを認めない人もおるわけでございますから、そういった人たち立場を考慮に入れる必要があるというふうに考えます。と同時に、脳死に対する社会的合意が形成されるよう、あらゆる機会を利用して世論を形成すべきであるとも思っております。  ただ、ここで法律問題として申し上げたいことは、原理的に重要なことは、人の死は一義的、客観的に判定されるべきことでありまして、例えば患者側の意思によって左右されたり、脳死心臓死という二つの異なった死を認めるような事態は極力避けるよう努力すべきであると考えております。しかしながら、問題がそう簡単でないことは、今から申し上げるところでございます。  医療現場では、患者脳死状態またはこれに近い状態になった場合には、これらのことを十分に患者家族説明し、同意を得て脳死判定に入るのが普通の過程であります。そのように医療現場では行われておるわけであります。そして、患者側がこの脳死判定についてどうしても納得しないという場合には、脳死判定を現実には行っていないというのも事実であります。つまり、私が考えるには、この現実をそのまま認めまして、患者側に脳死判定を行うこと自体についての拒否権を認めることが一つの妥協的な方法ではなかろうかと考えております。  医師がこの脳死判定を行ってしまって、後になって云々ということはいささか問題があるわけで、医師脳死判定を行うことは一つの診断行為でありますから、その診断内容について患者側が異議を申し立てて脳死を認めないというのでは、医師専門的判断を否定することになりまして、妥当ではないと思っております。  私は、脳死判定という一つの診断方法を行使することについて、患者側の拒否権を認める方がよりベターなのではないかと今考えておるところであります。そして、この患者側の拒否権は、法の条文の上ではなくて、脳死判定手続だとか取扱指針といったマニュアルの中で明示して妥協を図った方が妥当ではなかろうかと思っております。  このような方法で脳死状態患者に対応すると、脳死を認めない者に対しては事実上脳死という事態が発生しないことになってくるわけで、そうするとこれは真実の病態と診断とが事実上一致しないという矛盾が生じてきますけれども、次善の策としてやむを得ない措置ではなかろうかと考えております。  以上のことは臓器移植関係なしに言い得ることと考えております。  しかし、私は、基本的な考え方として、繰り返しますけれども、医学的、生物学的に見た場合には脳の死が個体死であるということは間違いないと信じておりまして、このことに対する社会的合意が形成されていないのは、いささか我々を初めとする一般的な努力が足らなかったということも痛感しておる次第でございまして、あらゆる機会を利用して国民世論の形成に努めるべきであると考えておるところであります。  次に、臓器提供意思表示について述べます。  人は生きておるときには自分の身体に対して全面的、排他的な支配権を持っておることは説明するまでもないと思います。また、自分の死後においても、その支配権の効果として、自己の身体、臓器を公序良俗に反しない限り自由に処分することを生前において決めることもできます。  臓器提供に関して、生体からであっても死体からであっても、ドナー、つまり提供者本人意思が最優先されるべきことは言うまでもないところであります。しかし、一方、我が国の裁判所や我々国民一般は、死体や遺骨に関し、その遺族に一定の権利を認めていることも事実であります。  死体や遺骨に関する細かな法律論はここでは述べません。  結論としまして、本人臓器提供意思表示が書面で表示されることが最も望ましいわけでありますが、口頭その他の方法で本人意思が確認することができればそれによるのが妥当であると考え、本人意思が不明の場合に限って遺族の意思を問題にすべきであると考えます。  したがって、現行のいわゆる角腎移植法の第三条第三項ただし書きや、いわゆる献体法第四条に規定するように、提供者が生存中に書面により意思表示をし、かつ、遺族がこれを拒まないときという条文は必ずしも妥当ではなくて、本人が書面による意思表示をしておれば、遺族の拒否権を認めることなく、本人意思表示のみで角膜や腎臓の提供または献体を認めるべきであると考えております。  献体法第三条では、「献体の意思は、尊重されなければならない。」としておりますが、第四条で、死者が生前に書面による献体の意思表示をしても、後に遺族がこれを拒否することになりますと、献体の意思は尊重されるどころか無視される結果になることは明らかなわけであります。このことは、今審議されておる臓器移植法案の第二条や第六条などにも見られるところでありまして、妥当でないように私は考えております。  さて、本論に戻りまして、以上述べましたことを今度のこの臓器移植法案についてさらに敷衍して述べたいと思います。  私は、参議院案とそれから衆議院を通過しました法第一二号案が提示されておりましたが、けさの新聞を見たり、あるいはただいま配付されました臓器移植に関する法律案修正案要綱を見まして、これについて若干申し上げたいと思います。  今回提示されました修正案要綱によりますと、要点は、一番目に、脳死移植前提としてのみ認められる。私は移植関係なしに脳死が認められると思っておりますけれども、この修正案要綱では、脳死移植前提としてのみ認める。それから二番目には、その脳死については本人の事前の同意のある場合にのみ脳死を人の死とする。三番目に、脳死体からの臓器摘出については本人の事前の書面による同意のある場合に限って認めるというものであります。  そこで、これらの三つの問題点について私の見解を述べたいと思います。  第一の点は、私は移植前提としなくとも脳死は人の死と考えておりまして、移植前提としてのみ脳死を認めるというのは狭過ぎるように思いますけれども、この点については、法案早期成立、あるいは国会の皆様の多くの方々の賛同によりまして移植の場合についてだけ脳死を認めるということであれば、これはある意味ではやむを得ないことで、私は譲歩し得ることだと思っております。  しかしながら、第二点の、脳死が人の死であることを本人が事前に同意しなければ脳死は人の死とは認めないというような法案につきましては、私はいささか問題だと考えております。脳死を人の死と認めることについてその本人家族意思にかからしめるということになりますと、脳死を認めた者には脳死は人の死、そうでない者は心臓死ということになりまして、二つの死を認めることになり、法律としていささか安定性を欠く、あるいは矛盾を生ずるということで、これはいかにも法律としては認めがたいものと考えられます。  私の提案する拒否権方式によれば、ある意味ではまたこの心臓死というものも出てくるではないかという議論がありますけれども、しかしながらそれは私は違うと考えております。私のこの拒否権方式でまいりますれば、脳死判定に入らない拒否でありますから脳死状態が表面化することがないわけでありますので、私はこの拒否権方式を貫く限り法律上の矛盾は出てこないものだと考えております。  したがいまして、私は、この脳死は人の死であるという原則をあくまでも貫いて、そして脳死について本人だとか家族意思にかからしめるということはは避けなければならないというふうに思っております。  次に、第三点でございますが、脳死体から臓器摘出する場合に限って本人の事前の同意を必要とするという部分についてでございます。  この部分につきましては、附則第四条を見ますと、いわゆる心臓死体から角膜や腎臓を摘出する場合には、当分の間、本人意思が不明なときには遺族の書面による同意摘出することが可能であるというふうにしておるわけです。つまり、心臓死の死体から臓器摘出する場合には従来と同様の取り扱いにするけれども、脳死体から臓器摘出する場合に限って生前の本人意思表示がある場合に限るというふうなやり方につきましては、脳死体からの臓器摘出の場合と心臓死体からの臓器摘出の場合とではいささか摘出要件が異なってきておりまして、その整合性の面で非常に問題があると思っております。  しかしながら、本法が実施されてから三年間の後に再度検討するということでありますれば、私は、この法案早期成立を目指す立場から、やむを得ない一時的な現象として認めざるを得ないのではなかろうかと考えております。したがいまして、その点については私は特に反対はしないということでございます。  以上、私の見解を述べましたが、私は、この法律案が十分に審議されないまま国会を通過することを非常に残念と申しますか、もう少し十分な検討を経た上で、そして国民の多くの賛同を得た上で脳死臓器移植法案国会を通過することを願っております。  以上でございます。
  357. 竹山裕

    ○団長(竹山裕君) ありがとうございました。  次に、神戸生命倫理研究会代表の額田勲君、よろしくお願いいたします。
  358. 額田勲

    公述人(額田勲君) 神戸生命倫理研究会の額田でございます。  私は、過日、竹山先生初め参議院議員の諸先生方全員に「本質(人間の死)と目的(臓器移植)を見誤らないよう、脳死問題は慎重な審議をお願いいたします。」という意見をお手元に提出しておりますので、それに従って意見を述べさせていただきたいと思います。  まず最初に、この問題にかかわる私どもの姿勢といいますか立場を明確にしておきたいと思います。  私どもの生命倫理研究会は、この十何年来、脳死臓器移植問題にかかわってきたわけですけれども、例えば十年ほど前の一九八九年には研究会の医師二名をアメリカに派遣しまして、約四十日間にわたって全米の心臓移植の実態調査を十数カ所にわたってやってまいりました。また、脳死臨調のさなかには臨調の委員先生五名をお招きしてかなり大規模なシンポジウムをやるなど、諸活動を通じてこの問題の社会的合意に寄与することを願ってまいりました。その都度、よくマスメディアの方々から、あなた方の立場脳死に賛成なのか反対なのかというような御質問を受けることしばしばでありますけれども、私どもの立場というのは以下のようなことになるかと思います。  お手元の資料の最終のページ、五ページ目をちょっと読み上げさせていただきたいんですけれども、「本質と目的を見誤らないために—参議院の良識を」というところですけれども、   結論的に、十年をこえて営々と積み上げられてきた脳死論争の膨大なエネルギーを思えば、論争の受益は単に少数の移植希望者にとどまらず、広く国民各層におよぶものでなければならないはずです。   その意味で、まず第一に万人に普遍の死について、脳死に限らず安楽死・尊厳死など時代をめぐる生と死の論議が、多くの国民に納得のいく形で合意、受容されねばなりません。   第二に国民生命と健康の保証である医学・医療国民的な論議を通じて大きく変革されたということであれば、それをもって脳死論争の大きな成果とみなすことが可能です。   その点で、三年棚上げの果てに短時間の審議で、問題の核心が臓器移植推進の一点に集中された立法によって、なにほどの成果がもたらされるというのでしょうか。   さらに、臓器移植とはあくまでも一つの目的で、一時代の過渡期的な技術に過ぎず、他方、人間の死というのは人類永遠の本質です。   臓器移植という目的を達する手段、方法が他に十分保証される現在、限られた社会生活を調整する手段に過ぎない法律に、永久の真理を委ねる愚行はなんとしても回避すべきと考えます。 云々ですけれども、一言で言って、私はこの脳死論議の受益、利益と申しますか、それが広く国民各層に及ぶことを願っております。  そういう立場から申し上げますと、確かに脳死状態というのは確実に死が約束された状態ではありますけれども、現在の社会状況にかんがみると、死が約束された状態ではあるけれども脳死を人の死とすることはできない、脳死を人の死としてはいけないと、かように考えております。  それは、脳死を認める意見が多々ある中で、たった一つの反論でこれを可能にすると思います。  といいますのは、妊婦、妊娠された女性が一カ月も二カ月も脳死という状態を持続させた上で新しい生命を誕生させます。これは日本でも報告されておりますし、諸外国ではかなり報告例があります。そのために諸外国でもいろんな反響を呼ぶわけです。もしその脳死状態死体と言うなら、死体が新しい生命を生み出すという生命医学のコペルニクス的転回といいますか、もう考えられないようなそういう論理をどう説明するのか。その一事を申し上げただけで現状では脳死を人の死と認めることができないということを申し上げたいと思います。  ただし、私は、医療の現場におりまして、いたずらに、無原則的に延命至上主義を事とするものではありません。  私の病院でも年間百人近い人が亡くなります。その人間の終末、末期、死というのは、この高齢社会、すなわち高度技術社会では安楽死という考え方が本当に物すごい勢いで大きな反響を呼ぶように、一言で言うと大変惨めといいますか非人間的といいますか、そういう終末の像にしばしば出くわします。私がこの十何年来、およそ一千例を超える死者に立ち会ってきて、私は安楽死という言葉は是としませんが、ひたすら人間の安らかな死を追求してきたという立場から申しますと、脳死を含めて重症植物状態などのそういう人間の終末の像に関して、この人たちにもし安らかな豊かな死があるとするならば、それはこういう結論になろうかと思います。  それは、言うまでもなく、平凡な結論でありますけれども、患者さん本人家族そしてその場に関与する医療者といいますか、そういう三者の豊かな共同の営み以外はあり得ない、こういう終末の像に法とかマニュアルとかが介在する余地はもうほとんどないということが私の一つの到達点であります。  それで、殊に今、脳死問題に絡めて問題になります医療者のかかわる終末の問題について意見を申し上げたいと思うんですけれども、その場合、最近、医療社会の中で医の倫理というような言葉がほとんどもう死語に近いというような状況になってきた中で、個人のヒューマニズムとかそういうものが通用する状況ではありません。すなわち、医学・医療社会は構造的に、制度的に、ある大変な危機的な状況を迎えているというふうに僕は認識しております。  例えば、直近の薬害エイズの問題をお考えいただきたいのですけれども、あの薬害エイズの問題を一言で言って、あれがある特定の医師個人の偶発的な出来事とは決して見ていないはずです。あれは厚生省なり製薬資本なり、そして医学界が関与した構造的な犯罪、癒着構造に根差す構造的な犯罪だということは、メディアも多く指摘するし、多くの国民がそう考えているし、私自身もそう思っております。  しかし、私がその際に大変不思議に思うことは、薬害エイズのああいう問題がありますと、医師のように社会的に特別の倫理が求められる団体がああいう問題について医学界としての対応なり責任を一切明らかにしない。  例えばこれがもし、よくアナロジーされる、先ほど意見陳述されました岩田先生が所属される日弁連、日本弁護士連合会であれば、直ちに組織としての対応、そしてそういう社会的に指弾される行為の所属構成員に対してどういうような対応をとるかということについて明らかにして、責任を明らかにするのが社会的常識だと思います。しかし、医学界に何らそういう対応がない。これが、薬害エイズの問題に限らず過去のすべての薬害問題、医学界のかかわった反社会的なそういう破廉恥な行為に対する対応であります。  ここでいたずらに私の所属します医学界の非を鳴らすというのでは決してなくて、こういうことを申し上げたいわけです。そういう医学界の体質、構造こそが、この脳死移植の問題にそのまま反映されているということを申し上げたいのです。  それは、例えばこの臓器移植を本当に患者さんのために実現したいというのであれば、私であれば進んで反対の、例えば医学界内部では本当に最大の学会と言っていいような日本精神神経学会というのがありますね。構成員は本当に膨大な数です。その日本精神神経学会は慎重論を提起していたわけですけれども、もし日本移植学会が本当に移植を望むなら、なぜ日本精神神経学会と公式の対話をして意見をすり合わせないのか。私はそのことにずっと疑問を持ち、私たちの研究会では及ばずながら、日本精神神経学会の理事レベルと日本移植学会のトップの理事レベルとの公式のシンポジウムを二回呼びかけて開催させていただきました。同様のことは、私は、日弁連レベルと移植学会の意見のすり合わせにもシンポジウムを開催させていただきました。  しかし、私が最もこのことで残念に思うのは、この移植にかかわる移植学会、それから救急学会であれ法医学会であれ、こういう移植を推進しようとする先生方が一堂に会して、そして公式に国民に対して包括報告、総まとめの報告をもし提起しておれば、こういう国会先生に御苦労願うような局面は多分なかったであろうと私は考えております。しかし、そういう当事者能力といいますか、責任主体としての方法論を一切放棄して、そのボタンのかけ違いがきょうのこういう困惑といいますか紛糾する状況をもたらしているのはもう間違いないと思います。  さて、社会的合意という問題のときに、時間がないので詳しく申し上げられませんが、三つの水準があります。特殊な意思としての個人、全体意思としての社会、そして特別の位置にある医学界のような当事者能力を発揮する、その三つの分野。医学界のとってきたこの脳死問題のかかわり方はメディアのレベルでいろいろ報道されますが、今まで本質的にはどういうことがあったかということをよくお考えいただきたいと思います。そういう医学界が私に言わせれば責任主体としての任務放棄をしているような現状で、政治のレベルでこれを解決することが本当に妥当なのかということをきょうは問題提起させていただきたいんです。  すなわち、私は、大変失礼なことを申し上げるようですけれども、医学界のほんの任意の一団体にすぎない移植学会の護送船団のような役割を政治が果たすということ、医学界現状をそのまま認めて救済措置をするということは、私が考えますに、やはり政治が医療に過剰に介入しているというそしりは率直に言って免れないと思っております。  中山先生も、新聞紙上によりますと、殺人罪による告訴告発、そういう弊を避けるのだということを言われておりますけれども、大胆に申し上げますと、告訴告発を避けるというその論理は本当に正しいか、よくお考えいただきたいと思います。  つまり、例えば諸外国なんかの例を見ますと、社会的合意形成はどういう形で進んだかと申しますと、やっぱり勇気のある移植医が、倫理性の高い移植医が決然としてその状況における諸条件を集約して移植に踏み切る、これに対して当然告訴告発はあり得ましょう。しかし、その法廷の場を通じて、脳死の本質であるとか生と死の問題であるとか、医学界の構造や体質の問題、インフォームド・コンセント、その他自己決定権云々かんぬん、膨大な法廷の論議が社会的に報道されて、その一つ一つが、これはいいこれが悪いという国民反応が慣習法になって合意が形成されていくというのが欧米先進諸外国の歴史です。日本でなぜそういう方法の一端が見えないのか、私は大変不思議に思っています。  一つだけ事例を申し上げますと、一九七六年の有名な重症植物状態のカレン・クラインさんという人の裁判は、その後、世界の安らかな死を願う、安楽死を願う人たちといいますか、そういう患者さんに大きな福音をもたらしました。それは一つの裁判を通じて、世界的な、国際的な生と死の流れが決まりました。そういう裁判を、告訴告発をいたずらに回避するということが果たして社会的合意の上で正しいのかということを申し上げたいわけです。  それで、きょう田中先生が冒頭に意見陳述されましたが、田中先生の恩師と私は聞き及んでおりますけれども、小澤先生らが生体移植をやった当初というのは世間はどういう対応をしたか。しかし、あの実践を通じて今、生体移植社会的合意を得ていると申し上げて過言ではないと思っております。  つまり、こういう歴史を経てきた先進の例えば米国ですけれども、米国の歴史というのは当初、裁判の繰り返しの歴史です。そういう中で、しかし医学界はどういう姿勢をとったかというと、実は今言われているインフォームド・コンセントとか自己決定権は、そういう裁判の中で脳死移植を世間に認めてもらうためにアメリカ医学界が腐心して発明した、強化した制度、装置と言っても言い過ぎではないと思います。しかし、日本医学界は、アメリカの受け売りのインフォームド・コンセントということは言うけれども、一体どういう装置、制度を発明して国民移植の資格を求めたかということを言うと、それは皆無であります。  それで、たくさん申し上げられませんが、よく御存じのように、英国においてもドイツにおいても法律なしに移植がやられている。今、私は現状にある法案については今までの法案以上に憂慮するところ大でありますけれども、そういう法案をつくらなくても移植は可能なわけです。  それで、欧米の最後の例に一つ申し上げたいんですけれども、今、フランスは移植の側に非常に有利な法律です。極端に言えば、患者本人よりも社会が必要と認めれば臓器摘出するという国ですけれども、そのフランスで臓器提供数がどんどん減っているんです。それはなぜかといいますと、お手元の御意見申し上げました二ページ目の冒頭にこういうことを書かせていただきました。   これまで移植先進の海外では、日本社会の現在の論調のごとく、無念の死を目前にした移植希望者の救済が全てに優先するとの情緒に抗しがたく、本質的な判断を先送りして性急に臓器移植の実利を求めました。しかし、最近になって、人間性全般を問う生と死の多元的な価値観からみれば、実は脳死移植が極めて限局された狭い論理であることに気付いた結果とも報じられています。欧米のこういう現状をよくお考えいただいて、もし日本でこれを可能とする場合であっても、法という問題は本当にそういうものを押し進めるアクセルになるのか。  私は、最終的な修正案についてはかように考えております。それは、こういう内容法案はあらゆる意味で重大な帰結に連なる可能性が憂慮される。中でも、独自解釈の余地を大幅に残すがゆえに、かえって法としてのていをなさず、今後この問題に関する大混乱と法的係争の飛躍的な増大が予測される。それはとりもなおさず法の権威を著しく低下させ、現在に輪をかけた激しい政治不信に行き着くものと考えられると、私はそのように考えております。  最後に、その法の問題で、去年の三月二十七日にらい予防法の廃止法案参議院で可決されたときに、私は先生方の見識に心から拍手を送りました。しかし、半世紀、あのらい予防法によってどれだけたくさんの人の人権がじゅうりんされてきたかということを考えていただければ、生命医療の問題と法の関係には徹底して慎重に、できることなら、なろうことなら医学界の自律を求めるような国会決議を上げていただいて、そして医学界独自の手で実施する、これが国民にとって最も望ましい脳死臓器移植の形だと思っております。  以上です。
  359. 竹山裕

    ○団長(竹山裕君) ありがとうございました。  次に、心臓移植者である都倉邦明君、お願いいたします。
  360. 都倉邦明

    公述人(都倉邦明君) 御紹介を受けました私、心臓移植を受けました神戸の都倉と申します。  私は、昭和十五年三月二十六日生まれで、現在五十七歳になります。当時の病名は拡張型心筋症という病名でございました。一九九六年、平成八年二月十四日にアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ、シャープ記念病院で移植をいたしました。  その後、リハビリをやっておりまして、昨年八月の中旬ぐらいに日本へ帰国いたしまして、ことしの二月十四日でちょうど一年目の検査を受けました。それで、私は今のところ拒絶反応も何もないという結果が出ております。  私は、海外移植した心臓移植の中でちょうど二十八番目に当たると思います。年齢からいきますと五十五歳のときに移植しましたものですから、私が最高年齢者です。五十五歳以上で移植したというのは、全国では私が初めてだと思います。  私がこの病気になったのは五十歳になったときからです。それまで私は、非常にハードなスポーツが好きなもので、学生時代から社会人に至るまで十五年間ほどずっとサッカーをやっていたんです。体力の衰えもあってそれをやめてからは、水上スキーとかモータースポーツとかマリンスポーツ、非常にこれもハードなんですけれどもそちらの方をやっておりましたんですが、特に五十代までは全然悪いという気もなかったわけです。それで、突然旅行中に体を悪くいたしまして、入院しましたら心不全の傾向だということで、それからの五年間というものは入退院の繰り返しでございました。  病院をあちこちかえて最終的に神戸中央市民病院に入院いたしまして、そこで初めて拡張型心筋症であると。現在の医療では拡張型心筋症というのは治らない、薬は日進月歩でよくなりますけれども、その薬で抑えられる範囲というものも限度があるだろうと。そうしますと、じゃ最終的に何が残っているかといいますと、このままベッドの上で入退院を繰り返しながら死を待つか、それとも海外へ行って移植を受けるか。移植を受けるというのも移植の確約がありませんからあくまでもチャンスをつかみに行くだけですから、そのチャンスをつかみに行くかどっちかだということでいろいろ悩みました。  悩んだところでしようがないんですけれども、全くその五年間というものは言葉では言いあらわせない。その間には神戸の大震災とか、それから家が傾いてよそへ行って住居を変えないといけないとか、それからこれは個人的なことなんですがたまたま私が会社を設立してしまったとか、家族のこととか、いろんな悩みを持ちました。しかし最終的に、このベッドで退院しないまま死んでいくのであれば何とかチャンスをつかみたいということで、中央市民病院の先生の勧めもありまして海外へ行くことに決めました。  その間は、いろいろお金の問題とか家族をどうするかとかいうぎりぎりの問題もいっぱいあったんですが、それを全部クリアして海外へ行ったと。たまたま二月十四日に善意の人があらわれまして心臓移植を受けたと。  私はこうして今、元気で普通のもとの体に戻りました。従来、私は大体九十六キロあったんです。少し体重がふえ始め、会社でひっかかる程度というとやっぱり高血圧とかコレステロールが多いとかいう程度のものだったんですけれども、この拡張型心筋症になりましてから体重が大体七十キロ、六十キロぐらいに減りました。それで、心臓移植を受けてからはアメリカでざっと六カ月間ぐらいのリハビリをしておりましたが、向こう側ではリハビリの中でゴルフをしろとかプールで泳げとかいうようなことがありまして、体力づくりに専念して日本へ戻ってきた。今では、絶好調とまではいかないと思うんですけれども、体の方も少し肥え始めてはいるんです。特に運動とか、それから社会復帰、仕事の面ですね、それから食事、それから日常のいろんな、例えば車を運転するとか、事細かな今までできなかったことができ始めた、もう完全にできるというところまで今は回復しております。  ですから私は、難しい政治的な問題とか医療の問題とかいうものは余りよくわからないんですが、できれば法的にこういうものを定めていただいて、法案を通していただいて、現在待っている人にぜひ希望を与えてやってほしいということを願う次第です。恐らく、臓器提供を受ける人も、またそれにタッチするお医者さんの方も、やはりきっちりとした法案がないと、法律で定まらないと、なかなか受ける方も受け切れないんじゃないかなという気は何となしにしております。  実は、これで三十三名ぐらいが今まで海外移植されたと思うんです。そのうち三名ほどがたしかお亡くなりになっていると思います、日本へ帰ってきて。そういうことで、つい先月だったですか、私どもも神戸にニューハートクラブというものを設立いたしておりまして、移植者や家族も全部集まりましてお互いの情報交換とかいろんなことをしております。我々がいかに今後社会に貢献できるだろうか、せっかくもらった命だからそれを大事にし、それでいかに社会に貢献できるかということをこれからニューハートクラブの一つの活動としてやっていきたいというふうに考えております。  これはアメリカの一つの例なんですが、私の病院だけかもわかりませんけれども、移植をする人と移植を待っている人の会合が毎月一回、病院の会議室であるわけです。何も病院で待っている人ばかりじゃなくて、いろんな地方からもその会議に来るわけです。それで、移植を待っている人は移植した人に対して、今おれは苦しくってこういうふうにして待っているんだと、おまえはどうして今まで待っていたんだということを聞く。そしてそれに答える。移植を待っている人の家族は、今まで食生活はどうしていたんだ、ほかの医療とかそういう関係はどうしていたんだと聞く。それに対してまた移植をした人は答える。また、移植した人は、おれはこんなに元気になったからおまえも辛抱して待てよ、苦しいだろうが待てよ、きっといいドナーがあらわれるよと。お互いに家族同士でそれを慰め合い、また励まし合いというようなことを毎月一回やるわけです。  私はその両方立場で出席しましたが、余り英語がわからないのでもちろん通訳を通じての話だったんですけれども、やはりそういうような活動が日本でもできたらいいなというふうに考えて、待っている人がたくさんいるのであれば、私はニューハートクラブでもってそういう活動をしたいなというふうに考えております。  以上でございます。
  361. 竹山裕

    ○団長(竹山裕君) ありがとうございました。  では次に、大谷大学教授真宗大谷派住職小川一乘君、お願いいたします。
  362. 小川一乘

    公述人(小川一乘君) 失礼いたします。小川でございます。私は、日本宗教連盟の要請を受けましてここに出席しておるものでございます。  公述するに当たりまして、皆様方のお手元にあります真宗大谷派から出ました声明、これは衆議院でこの法案が可決された後に出されました声明でございますが、これを読み、その後若干のコメントをつけ加えたいと思います。と申しますのは、私は大谷大学におきましてインドの大乗仏教と申しましょうかインドの仏教思想を長年研究している者でございますけれども、この声明の内容を見ましたら、単に一宗派の見解というのではなしに、仏教の根本的、基本的な立場がここに表明されていると考えられますので、この声明をまず読みたいと思います。     「臓器移植法案衆議院可決に対する声明   脳死を人の死と位置づけ、脳死状態の人からの臓器移植を認める法案衆議院で可決されました。人々の中にある様々な医療不信や脳死判定に対する危惧が払拭されないままに、強引に脳死という状態にある人を死んでいる者としてしまう脳死イコール個体死とする法案には、全く納得できません。また、臓器移植についても、移植をすすめようとする人たちが言うようなすばらしい医療技術と果たして言えるでしょうか。   私たちは、人間が生きるとは何か、そして死ぬとは何かを求めつづけております。   いのちのはたらき、それは人間の想いをはるかに超えたものであります。それを人間の都合によって「生」「死」を決定し、更に国の法によって法令を規定することには重大な問題をはらんでいます。そこにはいのちを対象化し、モノとしか見ず、その結果、役に立つか立たないかというところでいのちを扱い、生の拡張のみを事とするエゴイズムがあります。   私たちは、人間の都合によるいのちの選別を止めて、改めて自我の思いを超えたいのちの尊厳思いをいたすべきであります。   この法案衆議院で可決されたことに遺憾の意を表するとともに、もう一度臓器移植をめぐる問題について、我々一人ひとりの生きることの意味を根本から問いかけられた問題として、充分に論議される場が確保されることを願ってやみません。  これが声明文でございますが、この声明文を今読ませていただきまして、もう既におわかりと思いますが、これは単に脳死という一つの事柄について問題提起をしているのではありません。それは、現代人が命にかかわる基本的な問題を見忘れていると、そういう命についての基本的な問題をもう一度きちっと考え直そうではないか、きちっとしなければいけないということが基本にあるかと思います。  この私たちの世界は人間中心主義のエゴイズム、そして物質文明、経済至上主義という中で自然破壊、環境汚染等々が進み地球の危機を迎えているということは、もう私が申すまでもなく今大変な時代になっているわけでございます。そういう中で、今度は命の操作が生きている人間の都合によって行われるということに対して、大きな危惧を持っております。  言うまでもなく命と申しますのは、具体的に言いますと生まれるときと死ぬとき、こう言っていいと思いますが、生まれるときにはどういう状況になっているかということは一々もう例を挙げるまでもなく大変な状況になっております。そこで、せっかく芽生えたとうとい命が生きている人間の都合によってどれだけ排除され、どれだけ葬り去られているかということについては、もう私がくどくど申し上げるまでもないと思います。そして、死ぬとき、今度は脳死ということが問題になってまいります。すなわち、これはあくまでも臓器利用という生きている人間の都合が大前提にあるわけでございます。  私たちは必ずこの世を去っていかなければなりません。短い命も、長い命もあります。その死を受けとめるということが私たちのなすべきことであって、死を決めるということには大きな問題があろうかと思います。そういった意味で、今まさに死ぬときも生きている人間の都合によって定められようとしているということには、やはり大きな問題があるとしなければいけないかと思います。  それから、私は臓器移植全般を否定はしておりませんが、脳死による臓器移植ということには大変な問題があろうかと思います。それはだれかの死による医療でございます。だれかが死ぬことによって行われる医療でありまして、もっと言えばだれかの死を待っている医療でございます。そういう医療が果たして正当な医療と言えるのでしょうか。だれかの死を待つという精神状況は決して人間にとってすばらしいことではありません。非常に暗い、嫌なことです。  そういうだれかの死を待って行われる医療があたかも正当な医療であるかのように受け取られてしまっているのはなぜなんでしょうか。それは、言うまでもなくヒューマニズム絶対というところでございます。人命救助であるからなんだということが基本にあるわけでございますけれども、そういう人命救助、ヒューマニズムは果たして絶対なのでしょうか。そこにはおのずと限界もあれば制限もあってしかるべきでありまして、そういう意味では、生命尊重であれば何でもいいのであるということにはならないのではないかと思います。  そういう意味で、私は、基本的に脳死による臓器移植ということは人間同士が生と死を、一人の人間が死ぬことによって一人の人間あるいは複数の人間が助かっていくという人間同士の命のやりとりであり、やめるべきではなかろうかと思います。それ以前の臓器移植であれば生命に安全な範囲で行われたらいいと思いますけれども、人の死を待つ臓器移植というのはやはりいかがなものかと思います。  今、医学が大変進歩したと言われております。私は医療技術は確かに進歩したと思いますけれども、果たして医学精神はどうなっているのか。そういう面からいうと、医学の精神からは少し外れてしまっているのではなかろうかというように思います。そういう意味で、医学が進歩を続けていくのであるならば、できるだけ早く正当な医療によって、その範囲で人命尊重が行われて人命救助が行われる、そういうことになっていただきたいと思います。  先ほど薬害エイズの問題が出ましたけれども、あの非加熱製剤によって確かに治療を受けて助かった人はいっぱいいるわけですけれども、そうかといいながら、エイズにかかった人は少ないからそれでいいじゃないかという発想にはならないだろうと思います。やはり誤った治療は絶対にしてはいけないのじゃないか。  そういう意味で、人の死を待つ医療が本当に正当な医療であるかどうかということは、抜本的に考えていただかなけりゃならないのではないかと思います。それが人命救助、人命尊重にかかわるということ、その点におきましては私は決して人命尊重ということを否定するものではもちろんありません。しかし、私たちにはおのずと限界を持ち制限があるということをやはりきちっと認めるべきじゃなかろうかと思います。  したがいまして、このたびの法案につきまして、昨日改正案を、そしてきょうは修正案を見ました。そういう状況の中で、「脳死体」を「脳死した者の身体」といったように言いかえたり、いろんな御苦心をされているようでございますが、やはり基本的には臓器有効利用という現在の科学的合理主義に基づくということにおいてはいささかの変わりもございませんので、この法案について賛意を表するわけにはまいりません。  私たちが文明社会、特に近代に至りまして科学の力によって大変豊かな生活をつくり上げてきた科学的な合理主義、それがまさに逆にこれから人間を苦しめていく、人間世界を破壊していく方向に今向かいつつあるのではないかと思います。  この科学的な合理主義というものは、私たちの世界の貧しさを克服し、そして病の苦しみを克服するという大変すばらしい働きをしてまいりましたけれども、今や逆にそれが今度は人間を阻害、害していくという方向に変わりつつあるということは、もう十分いろんな事例でおわかりだと思います。こういったときにもう一度私たち人間の命のありようというものをきちっと問い直しながら、単にヒューマニズムだけで動くのではなしに、本当に人間が救われていくと申しましょうか、人間が助かっていくということはどういうことなのかということをきちっと考え直していかなきゃならないのではないかと思います。  それから、大分前でございますけれども、脳死を人の死と認めない、脳死による臓器移植を行わない日本はおくれた国であるという大変な発想がございましたけれども、私は日本はそのためにおくれていると思いません。かえってこういうことが議論されることこそ、文明国の特徴ではないかと思います。  脳死を簡単に人の死と認めて脳死による臓器移植を早くからやりました国々の人たちが、最近私のところに、私たちは少し早まったのではないか、なぜこんな簡単に結論を出してしまったんだろうかと。日本でいろいろ問題になっているということは、やはり私たちとは違った東洋という文明があり、そして人間に対する、人間の命に対する尊重というものをきちっと持っているからこそもめているのであり、今我々はもう一度日本に目を向けるべきである、そういった人たちがふえているということも事実でございます。  そういう中で、これから参議院の方でどうなるかわかりませんけれども、ただ先ほどドナー提供者善意ということが言われましたけれども、果たして善意が通用していくのでしょうか。脳死による臓器移植が成り立った場合に、それはあくまでも強制された善意となっていくのではないでしょうか。日本人はエゴイストである、人を愛する心がない、だから臓器提供を行わない、そういうような言い方で善意が強制されていく。それはどれだけ前もっていろんな相談が行われようが、そこには本当の善意ではなくて、善意がまずあって臓器提供を行うということよりも臓器移植ということがまずあって善意が求められていくと、それは逆の方向ではないかというふうにも私は考えております。  この法案がもし成立した後、どういう問題が起こってくるか私にはわかりませんけれども、そういう一つの仏教という宗教の立場から考えますときに、私たちが生きている人間の都合だけで命を排除していくというあり方をもうやめないといけないのではないかと私は思います。そういう意味で、そういう基本的な問題がここに含まれているのであって、単に脳死による臓器移植が是か非かという問題ではなしに、基本的に人間の命をどう考えるのかということがあるわけでございまして、その辺、慎重に御審議をいただきたいと思うわけでございます。  以上でございます。
  363. 竹山裕

    ○団長(竹山裕君) ありがとうございました。  以上で公述人方々の御意見陳述は終わりました。  それでは、これより公述人に対する質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  364. 小山孝雄

    小山孝雄君 自由民主党の小山孝雄と申します。  お一人お一人の御意見、本当に身にしみて拝聴させていただきました。いろんなお立場からの御意見を受けとめさせていただいたところであります。  私は、この問題は考えれば考えるほど本当のところを言いますとわからなくなるというのが本音でございます。しかし、何らかの結論を出していかなくちゃいけないということで今必死に勉強しているところでございますが、一刀両断、これが正しい、これが絶対、これが最高の考えなんだ、やり方なんだということはないだろうというのが私自身、個人的には今の結論なんです。特に、有名な竹内基準の竹内先生が臨調の議事録に残しておられるのでありますが、自分の長年の体験からいけば自分が脳死だと思った人は死んでいると思います、しかし家族の人が、近親者がまだ死んでいないと言っている場合にそれは間違いだと言う勇気は私にはありませんという言葉、これも本当に身にしみて受けとめなければならないことだと思っておるわけでございます。  実は、先ほどこの公聴会に入る前にお配りしたと思いますが、中山案と言われるものと猪熊案両方あるわけでございますが、参議院の与野党でその修正を何とかできないものだろうかと、言うなれば竹内さんが残されたこの言葉のぎりぎりのところを、岩と岩の間を水が通り抜けていくようなそんな細い道でもつけられないものだろうかというのが皆の一致した思いでございます。そして考え出されて絞り出されてきたものが、今お配りしている修正案でございます。  お一人お一人に伺いたいのでございますが、時間の関係もありますので、最初に岩田研二郎先生。  この修正案に対する御意見を大変詳細にメモにしていただいて、先ほどお聞きしたわけでございますが、修正案問題点が三点あり、そしてさらに絞り込んで、どうしてもこの点だけははっきりしたいということで二点、御提示いただきました。すなわち、これは五ページにありますが、臓器移植以外の目的で脳死判定を受けた者が生きていると扱われ、この法律脳死移植場面以外に人の死には何の変更ももたらさないものだということが法律の条文や審議でどの程度明らかにされるかという御指摘をいただきました。そして第二番目に、これまで国会審議でその考えは間違いだということで答弁されてきた経緯があるわけでございますが、その整理はどうするのかという大変重大な御指摘があったと思います。  修正案について、これとこれはぴしっとしろよという点を絞って、もう一度お聞かせを願いたいと思います。
  365. 岩田研二郎

    公述人(岩田研二郎君) 私自身は、この修正案は理論的には成り立ち得ないということで、修正案にはやっぱり反対だという立場は明らかにしておきたいと思いますが、このいわゆる修正案みたいなものが当初より国会に出されていれば、脳死は人の死かという問題にこれだけ世の中が集中して論議をしなくて済んだかもしれません、もちろん理論的に整合性があるかどうかというのはさておきですが。  しかし、これだけ脳死臨調からこの国会を通じて脳死は人の死かどうかということで議論をされた限り、一般的な場合に脳死は人の死としないんだということであれば、きちっとそこの整理をしておかないと、中山案修正として通ったのであればやっぱり脳死は人の死ということが通ったんだというふうに世の中や社会が誤解をするということがあろうかと思いますから、修正案でもし妥協するとしても、そこをきちっとしておかなければ混乱が起こるだろうということを一番心配しております。  先ほど言いましたように、修正案の条文のどこを読んでも臓器提供の場合以外のことについては何ら触れていない。附則十一条を裏読みすればそうなんだろうなと思うぐらいということでは、国民には非常にわかりにくいものではないかというふうに思っております。
  366. 小山孝雄

    小山孝雄君 脳死判定オーケー、臓器移植オーケーときちっと手続がとられた方にのみこの法律を適用させていただきましょうと、こういう内容でございますけれども、本当にそれ以外については実はこの修正案も触れていないわけでございます。私なんかは、もう少しその辺のところを条文にあらわしていいのかな、そうしたらはっきりするのかなという考えもあるのでございますけれども、昨日、本委員会の理事懇談会に提案されたのが今お配りの内容でございます。そういう点が明らかにされた場合のお考えはどうでしょうか。
  367. 岩田研二郎

    公述人(岩田研二郎君) 私の先ほどの発言はあくまでも妥協案で成立を図ろうとすればという全く次善の策として申し上げているのであって、他の法令に影響を与えないような明記されたことが入ったとしても、私自身がそれについては賛意を表するというわけにはいかないと思います。これは本当に審議の中できちっと合意をしていくべきことだろうというふうに思っております。
  368. 小山孝雄

    小山孝雄君 ありがとうございます。  田中公述人はこの修正案に対してどう受けとめられたでしょうか。
  369. 田中紘一

    公述人(田中紘一君) 私自身は脳死は人の死と個人的に思っていますから、この修正案では善意という意思ともう一つは死を決定する二つの手段を意思表示しておくということでありますので、やはり臓器提供という点に関しては少し難しい決定を個人個人に与えるんじゃないか、少し面倒なことにならないかと危惧しています。
  370. 小山孝雄

    小山孝雄君 金川公述人にお尋ねします。  このお配りいただきました書面の中にもございますけれども、三年後の見直しということを頭に置いておられるやにお見受けいたしましたが、どういった点を期待されますか。
  371. 金川琢雄

    公述人(金川琢雄君) 私が三年間の猶予のことで賛成すると言ったのは、脳死体から臓器移植をする場合には事前の書面の同意がある場合、それから心臓死体からは従来どおりで、場合によっては遺族の同意でも構わないということになりまして、脳死体からの臓器摘出の場合といわゆる心臓死体からの臓器摘出の場合とでは条件が違うのは法律として整合性を欠くではないかと、この点で問題がありますが、三年後に見直しするというのであれば、とりあえず法案早期成立を目指すという立場からは目をつぶりましょうというのが私の意見である、こういうふうに申し上げました。
  372. 小山孝雄

    小山孝雄君 ありがとうございました。  都倉公述人にお尋ねいたします。  心臓手術を受けられた方とこうしてお目にかかるのは私は初めてでございますが、今、御自身の中でかつてどなたかほかの方の心臓であったものが正常に動いている。どんなお気持ちでございますか。
  373. 都倉邦明

    公述人(都倉邦明君) 私の心臓には三十六歳の女性のものが入っているわけです。非常にクリスチャンな方で、私もそれを手術後に聞きまして、そのときまでは別に脳死とか臓器移植とかというものを余り深く私自身も考えておりませんでした。  私はちょうど手術台に三回上ったわけです。一回、二回ともどうしても合わなくてリターンしたわけなんですけれども、三回目のときに私は手術台に上ったまま二十四時間待たされたわけです。英語がわからないもので、通訳にどうしてこんなに長く待たされるんだろうね、またリターンかなというようなことでしたのですけれども、いや、実はドナー家族の方が反対しておるということを聞きまして、そのときに初めて、ドナー家族思いというものが私の心の中で非常に深く感じ取れました。  ですから、心臓手術を受けた方というのは、その善意でいただいた心臓、それからそのいただいたところの家族の方のことをやっぱり一番、自分の第二の人生、命をくれた人ですから、そこの家族の人ですから、私も私の心臓をいただいた家族の方にも非常に感謝しておりますし、また、第二の母親でもあり父親でもありファミリーであるというふうな考え方を持っております。まだ一年しかたっていないんですけれども、クリスマスにはカードを送り、ドナー家族には直接送れないものですから一応その病院のコーディネーターに直接送りまして、そのコーディネーターがこのカードなら渡してもいいというような判断でもってどうも渡しているみたいなんですけれども、ほとんどの方がそういう形でおやりになっていると思います。  ですから私は、そういう意味では心臓が入ってどう思われるかと言われるとちょっと困るんですけれども、本当に第二の命をいただいて非常にありがたい、大事にして長く生きたい、そして社会に貢献したいというふうに考えております。
  374. 小山孝雄

    小山孝雄君 大変失礼なことをお聞きいたしますが、条件は整わないのかもしれませんが、もし都倉さんが脳死状態になったときに再び今度は御自分の臓器提供をオーケーされますか。
  375. 都倉邦明

    公述人(都倉邦明君) もちろん私はドナーカードも持っていますし、私の息子はまだ二十七歳なんですが、私がたまたまそういう病気になったせいかもわかりませんけれども、息子の方もドナーカードを持っております。それから、私の後ろにいる女房なんですが、アメリカへ一緒に行きまして免許証を取るときにドナーカードの判をついてもらっているということで、当然私はすべてのものを提供する予定でおります。
  376. 小山孝雄

    小山孝雄君 ありがとうございました。  小川公述人にお尋ねいたします。  衆参を通じて、このテーマに関する公聴会宗教者の御意見をちょうだいしたのは初めてのはずでございます。きょう新潟で同じ時間に行われているんですが、新潟の方はどなたも宗教者はおられませんので、宗教者立場からの初めての公述になろうかと思います。  先ほどお述べになられた点は大変大事な点だと思います。私も中山案をもとに検討しましたときに、やっぱり一番の問題は、脳死は死であるという医学上の見解と、いや、そうは思いたくない、違うんだ、そして人間には肉体だけじゃなくて魂もあり、その魂が完全に離れ切ったときにしか人間は死とならないんだという主張、いろんな思いがあります。その思いの自由というのが一番大切にされなければいけないと私自身なんかは思ってきたところでございます。  脳死の問題そしてまた移植の問題については先ほどお伺いいたしましたけれども、基本的に政治としての法律を確定しなくちゃいけないわけでございますから、もう一度何か御意見をちょうだいできればと思います。
  377. 小川一乘

    公述人(小川一乘君) 医学的に脳死を正確に判定される、もう正確に判定できるところまで進んでいると思いますし、そういったことに対して何ら不信感も疑念も私は持っておりません。それから、心臓死にもいろいろな欠陥がありまして、三徴候による心臓死の結果、後から生き返ったという人もありますし、それから脳死判定を受けた人が後から赤ちゃんを産んだとか、いろんな問題があります。ですから、死の基準ということについて、医学的にこれは脳死ですと判定される、医学的にこれは心臓死ですと判定される、そのことについて私は何ら疑念を持っておりません。  ただ、それを人の死としていくというときに、特に今回の脳死の問題は、避けがたい事実として臓器利用ということが大前提になっているわけでございます。したがいまして、その点が非常に問題になっているのでありまして、ただいま脳死になりましたと判定を受けてもし社会的合意によってそれが人間の死であるとなった場合に、そこから私たち考え方としては死が始まるわけです。そこで線が引けないんです。そこで遺骸に泣きすがる人もいるでしょうし、泣き叫ぶ人もいるでしょうし、もしかしたら生き返るんじゃないかといって揺さぶる人もいるでしょう。そういった営みが人間である。そういうものを全くカットしていくということが、いかに人のために役に立つからといって果たして許されるんだろうか。  特に私たちは、お医者さんから御臨終ですという死の判定を受けた後の人たちに会うことは十分知っておりますから、そういう人たちとの接触の中で、亡くなった人に予想外の弔問者があったり、いろんな関係があったりして、決して残った遺族だけの判断では済まされない。死というのはある意味社会事件だと、個人の事件ではないというふうに私は思っております。そういう意味で、死はできるだけゆっくりと、そして丁重に扱いながら、皆さんで痛みを感じながらそれをしていくということが基本であろうかと思います。  それを余りにも有効利用ということで、もう死んだからいいじゃないかと、これはもう生き返るはずがないんだから、脳死になったら絶対生き返らないんだからそれでいいじゃないかと、そう言ってまだ生きている体を利用していいのかどうかということに対して、大きな疑念を持っております。
  378. 小山孝雄

    小山孝雄君 額田公述人にもお聞きしたかったのですが、ちょうど時間になりました。谷川委員が受けてさらにお続けいただけるようでありますので、私のお聞きしたいことは以上でございます。
  379. 谷川秀善

    ○谷川秀善君 自由民主党の谷川秀善でございます。  本日は、公述人皆さん方には大変お忙しい中、お出ましをいただきまして、大変貴重な御意見を賜りまして心から厚く御礼を申し上げる次第であります。  私はお寺の息子に生まれました。そして大きくなりましたので、死ということにつきましては、普通の方々よりは割に現実の問題として子供の時分からいろいろとかかわってまいり、また教えられてまいりました。  どうも戦後、死ということを余り考えなくなったんじゃないか、私はやっぱり人生というのは死から始まるんだと思っております。ところが、この五十年間、非常に平和が続きましたから、生が続いていって死になるんだと、こういうふうな考え方になってしまったんじゃないかなということを常々非常に感じておったわけです。  命というのは一秒も命なら百年も命だと、個々にとりましては。それは短いのか長いのかというのは大変なことだろうと思いますが、一生というのは一秒でも一生なら、むしろ一秒以前ですね、おなかにあるときから一生でございますから。そういう意味では、百年も一生なら一秒も一生だと。そういう意味で、今この脳死臓器移植ということを契機として、本当に死とは何ぞやということが久方ぶりに国民的な議論になってきたということは私は大変いいことではないかというふうに思っております。  私個人の考え方はともかくといたしまして、大阪府民八百七十万の方々から選ばれておりますし、国民立場からも選ばれておりますので、考えてみますと非常に悩んでいるわけです。国民皆さん方が死というものをどうとらまえておられるのか、それを今度法律である程度規定、規制をしようということでございますので、非常に揺れ動いておるわけでございます。  岩田公述人、額田公述人にお伺いをいたしたいのでございますが、死を法で規制する、脳死を原点にするのか心臓死を原点にするのかはともかく、法で規定するということに関してどうお考えでございましょうか。
  380. 岩田研二郎

    公述人(岩田研二郎君) 私自身は、これまで従来定着してきた三徴候死で問題が起こっていなかったわけですから、この死について法律で定義をする必要はないというふうに考えております。  脳死を人の死としない臓器移植法案も新たな人の死をつくろうというものではありませんから、従来のとおりの死の概念国民がやっていけるということで、法律で死の概念をつくる、わざわざ明記する必要はないというふうに考えております。
  381. 額田勲

    公述人(額田勲君) 私も、死一般の考え方法律になじまないとかねがね思っております。  一、二のことを申し上げますと、一つは、私も医者でありますから、死を法律で規定しますと、医学の進歩は急速でありますから、その死の概念がまたこの脳死問題のように変わってきたときにどう対応するのかというと、現在、俎上にある法律だけを変えればいいというものでなくて、たくさんの社会的な既成事実が法に伴う小さな細分化された慣習法的になっておることかと思いますので、一言で申し上げて医学の進歩にそぐわないということを一つ思います。  それから二つ目には、法というのは必ず賛成反対含めて反対する人も拘束するわけですので、私が医療現場で遭遇する脳死よりも、例えば安らかな死を望む、世俗で言う安楽死を望むような場合を当てはめて考えますと、反対派を拘束するということは大変恐ろしい事態ではないかと思います。  三点目には、やっぱり市民社会整合性を持たないことが法になっていくことの面、すなわち、この脳死問題も随分メディアその他を通じて大問題になっているかに見えまして、市民社会の多くの部分で詳細に脳死の全体像が理解されているかというと、まだそういうものでもないというように日常の経験を通じて思っております。  論理的には以上三点ぐらいの点で死を法律にすることはなじまないと、こういうふうに思っております。
  382. 谷川秀善

    ○谷川秀善君 ありがとうございます。  しかし、片ややはり臓器提供を待っておる方がおられる、そのはざまでこの問題が大変な議論になり、我々もいろいろと悩んでおるわけでございますが、やっぱりある程度何らかの形で、死を規定するんじゃなくて、臓器提供がどこかで可能になるということだろうと思うんです。  それで、額田公述人にお伺いしたいんですが、一カ月も二カ月もいわゆる脳死状態で子供さんが生まれたというお話を今お伺いいたしましたが、我々が今考えておる脳死状態というのはどの辺なのか。一カ月も二カ月もということを我々は考えていないわけでございまして、そういう意味では、どうも国民も何となく植物人間脳死状態の区別がつかなくて、何かごちゃまぜみたいなことになって大変な議論になっているという部分もあろうかと思いますので、その辺のところ、もうちょっとお教えいただけませんでしょうか。
  383. 額田勲

    公述人(額田勲君) ちょっと冗長な話ですが、私がつい数年前に、これは国立大学のある有名な内科の教授と話をしましたときに、その内科の教授が私に、先生、ところで脳死植物状態とはどう違うんですかと言って、僕はその部屋でびっくりしたことがあるんですね。これだけの内科学の大家がと思っているんですが、脳死植物状態の相違については、本当にかなりこのことを勉強したような方でもなかなかその両者の相違を理解することは難しいと一言で申し上げていいと思います。  それで、今ここでその違いを申し上げている時間がありませんので、私が接している患者さんの印象を申し上げますと、先生御指摘のとおりに、あの重症植物状態の忌まわしい姿といいますか、ミゼラブルな姿を脳死に重ねて見ている。安らかな死という点では、脳死は深い昏睡で意識がありません。苦痛もありません。どんな痛みにも反応しない。そして、末期の患者さんが一番難題の呼吸苦ももちろんないわけですから、そういう点では、ある経過は本当に安らかな死です。  ですけれども、重症植物状態ということになってきますと、自発呼吸がほとんどできていますというような状態ですので、むしろ私が日常臨床の場で何とかこの患者さんに安らかな死をと思って苦慮するのは、そういう重症植物状態のような患者さんなんですね。その辺の混同が今の死の論議にいろんな意味で大きく影響しまして、脳死に対する誤解を生み、脳死は人の死とすべきだという根拠にもなっているかのように私は日常臨床の場で考えております。  これは、私は脳死反対する慎重な立場から申し上げるのではなくて、その点をやはりしっかりと見据えていただくことが重要ではないかというふうに考えております。
  384. 谷川秀善

    ○谷川秀善君 どうもありがとうございました。
  385. 大森礼子

    大森礼子君 平成会の大森礼子です。  まず、岩田公述人にお尋ねいたします。  「意見要旨」を先ほどお読みになりましたけれども、その中で修正案、実はまだ出ていないからどう扱ってよいかわからないんですけれども、中身が出たことになっていない修正案の中身につきまして御意見を言っていただきました。  それで、実は私も、この修正案中山案とはどういう関係になるのかによって、これまでの中山案に対する答弁の議事録、その答弁がそのまま修正案に対しての説明にもなるのかどうか、これをきちっとチェックしないといけないだろうと、きのうの特別委員会の質問でも少し聞いたんです。  それで、岩田公述人は、修正案中山案修正案であることを前提として次のような問題があるとお考えになっておられるんです、例えば社会的合意があるという基本的立場を変更したのかどうかとかですね。逆に、先生両方法案に精通しておられますので、修正案たる性格のものなのかどうかという点についてはいかがでしょうか。もしかしたら第三案かもしれない、あるいはもしかしたら猪熊案の方に近いのかもしれないと。果たして修正案という場合には、原案と基本的な同一性が必要なわけですね。それがなければもはや修正案と言えない。この観点から見て、ちょっと先生の御意見、簡単に言っていただければと思います。
  386. 岩田研二郎

    公述人(岩田研二郎君) この修正案に出ている選択的脳死説という考え方は、もう従来から刑法学会などで論議されていたいわゆる第三説、脳死一元説、心臓死一元説そしてこの二元説ということで、第三説として提起されていたものです。  今、委員の言われましたように、本来、脳死一元説からこの二元説が修正の形で出るということ自身、論理的には私も本当におかしいというふうに思っておりますが、そういうふれ込みで提案されてきている以上、修正案というふうに位置づけるしかない。また、国民中山案修正されたんだと思えば、先日の衆議院採決の翌日の新聞の大きな「脳死は人の死」という見出しがそのまま、頭に焼きついたまま中山案が何か修正された形で終わったとすれば、脳死は一律に人の死としたあの四月の法律がやはり成立してしまったんだという印象を与えることになるので、これは世の中に本当に大きな混乱と誤解を招くんではないかというふうに思っております。
  387. 大森礼子

    大森礼子君 ありがとうございました。まあそれは修正案として扱うかあるいは第三案として扱うか、やっぱり立法府ですので、それによって審議の仕方も違ってくると思いますので、ひとつ御意見を聞かせていただきました。  それから、中山案猪熊案との対立で、中山案の場合には、脳死を人の死とする社会的合意ができているんだと、これを大前提といたします。きのうも特別委員会で法制局の方から中山案の六条の脳死体の規定の仕方について答弁があったんですが、もう脳死は人の死であるという社会的合意前提にしてそれを確認した規定なんだと、こういう言い方をするわけですね。法文、文言があってもなくてもいいんだけれどももう合意ができているから、だけれどもそれを念のために確認した規定なんですと、こういう説明がございました。  果たして明文がなくても既に社会規範ができているようなそういう状態になっているのかどうか、これがまさに問題になるわけなんです。ところが、委員会ではもう水かけ論になります、本当にあるんですかと。アンケートを出しても、臨調でこう言っていますしとか、もう水かけ論なんです。  私は、実はきのうの特別委員会の質問で中山案の方に、各界での社会的合意有無医学界のみならず法曹界、それから宗教界、生死の問題ですからこれは大事だと思います、それから国民一般の方、それぞれの分野に分けて、社会的合意が形成された根拠はあるんですかとお尋ねしようと思ったんですが、時間がなくてできませんでした。  実は、きょうは皆さんおそろいですので、各界代表と言ってよろしいかはわからないんですけれども、例えば法曹界それから医学界、それから都倉さんは国民一般代表と言ってもいいと思います、宗教界は小川公述人、お願いします。脳死は人の死である、この場合、社会的死という意味ですが、このような合意皆さんの周りでできているかどうか、簡単で結構ですから教えていただけませんでしょうか。
  388. 田中紘一

    公述人(田中紘一君) 医師にもいろんな考え方の持ち主がおりますから、医師会全体として話すとか、移植学会として話すというのは……  ただ、個人的に医師会あるいは移植学会で話す話題は、やはり脳死臨調のときに論議されたことがずっと基本になって、脳死は人の死であるというふうに多くの人が考えていると、そういうふうに思います。
  389. 岩田研二郎

    公述人(岩田研二郎君) 私たち弁護士議論してきたのは、医学的な死と社会的、法的な死はやっぱり違うのであろうと。  我々が社会的、法的にも死になっていると考えるのは、脳死者が人権をすべて失う、憲法に規定されたすべての人権をその時点から失うという非常に厳しい事態になるんだと。先ほど幾つか例を挙げましたけれども、例えば論理的に言えば、人工呼吸器も外さなければならない、あとの治療費も一切出ない、家族がみとる暇もない、そういう厳しい事態になるということを国民にもっと提示して、それで本当に社会的、法的に死としてよろしいんですかということで問われなければ、お医者さんが脳死は死と言うのであればそうでしょうという程度のやっぱりアンケートというのは聞き方にしかなっていないんではないか。  そういう意味で、法曹界の中で議論をすれば、やはりそれを人の死とすることについては、我々が法的な観点で見ても相当大きなトラブルやそういうものが起こるんではないかということから、社会的合意はないというふうに考えているという状況です。
  390. 金川琢雄

    公述人(金川琢雄君) 私は、一般的にも脳死は人の死であるという社会的合意はほぼ形成されつつあると見ております。  ただ、例外的に、これはやっぱり死んだものとは思えないと言う人も中にはいらっしゃる。その人については拒否権を認めてはいかがかと、こういうふうに私は申し上げておるわけであります。
  391. 額田勲

    公述人(額田勲君) 先生よく御存じと思いますが、この問題をめぐっては、一つの最大のキーワードは社会的合意ということだと思いますね。  それで、この社会的合意というものは一体何を指して、何を基準にというようなことがこの論争の最初から、特に日本医師会生命倫理懇談会の座長であった加藤一郎先生が文芸春秋に「社会的合意は蜃気楼だ」という有名な論文を発表されてから、この社会的合意をめぐってはもうさまざまな論争があるんですけれども、一体何をもって社会的合意と言うのかということによって随分違ってまいると思います。  それで、私どもの研究会でも、研究会として百五十枚ぐらいの社会的合意論というものを発表させていただいたんですけれども、その場合には、本当に国民のシンプルな形での基準というのは、まず何といっても一番に世論調査の結果だと思います。二番目には、やっぱりその当事者としての医学界合意というものはどうなのかということだと思います。三番目に、合意の積み上げ、つまり最終的にはこういう立法が必要だと、そういう基準が社会的合意だと思います。  私は過去のこの問題に関する大きな脳死臨調調査も、大きなメディアの調査も全部コレクトしておりますけれども、これはもう本当に主観なしに科学的に言い切っていいのは、何か脳死推進に有利なニュースが伝わると移植賛成の人がふえたり、あるいは否定的な台湾の死刑囚の人為的な報道がされると多少上下したりしますが、断定して言い切っていいのは、不思議なことに脳死容認は四十数%です。これはもう安定した数字と言って差し支えありません。臓器移植を認めるのは七十数%と、三〇%の乖離があります。一体四十数%をもって社会的合意と認めていいのか、この価値評価が随分主観によって違うと思います。  肝心の医学会の合意というのは、世論調査であれば、医師は、七〇%から八〇%ぐらいは大体脳死は医学的に死だということは認めているわけです。しかし、その世論調査を超えて、日本の主要な医学会は八十幾つあるわけですけれども、その主要な医学会の中で脳死は人の死と合意をしている学会というのは、もう本当に数えるほどしかないんですね。その事実をお考えいただくと、本当に医学会の中で合意が存在しているかというと、これは率直に言って医学会でも合意が存在しているとは言えないと断定できると思います。  以上です。
  392. 都倉邦明

    公述人(都倉邦明君) 移植を終えた人、それから今現在移植を待っている人を決して代表するわけじゃないんですけれども、私としましては、早く脳死を死として法律で定めていただいて、早く臓器移植ができるようにしていただきたいというふうに考えております。
  393. 小川一乘

    公述人(小川一乘君) 私がきょうここに出席しておりますのは日本宗教連盟からの要請で来ておりますので、そういう意味ではいろいろな宗教の違いがあって、生命に対してもいろんなまた違った、具体的な例を挙げますと魂の存在を認めるか認めないかとか、いろんな違いがありますけれども、一応宗教界として私に出席を要請したということは、私の意見というもの、日ごろいろんな出版物やら講演会、シンポジウム等々で意見を吐露してまいりましたその前提に立って私への要請があったわけですから、宗教界は脳死を人の死とはまだほとんど是認していないということが基本にあるかと思います。  それにつきまして一言つけ加えますと、私は、医学的に脳死判定をしていただく、医学的に心臓死の判定をしていただく、これはお医者さんの大切な役目だろうと思いますが、それをもって人の死とするかしないかはお医者さんだけで決めてもらっては困るのであって、私たちでやはりと、それが社会的合意ということでございまして、あくまでもお医者さんは医学的な立場に立って脳死判定をする、心臓死の判定をする、そういう役割をお願いしているということではなかろうかと思います。
  394. 大森礼子

    大森礼子君 ありがとうございました。  少なくともまず脳死というのはお医者様しか確認できないのですから、そこの世界でもし合意できていないのであれば、ほかへそんなに広がりようがないのかなという気もいたします。  最後に、都倉さんに一つお聞きしたいんですが、中山案猪熊案、どちらも臓器移植を進めよう、それからお医者さんに免責を与えようと。目的は一緒なんですね。ところが、脳死を人の死とするかしないかでもう何か対立した形になっている。これはある意味で不幸なことかもしれません。それで、第三案が出てきたということは十分検討に値すると私は思っているんです。  それで、特に中山案立場からレシピエントの方が、今、都倉さんもおっしゃいましたけれども、やっぱり法的に死んだ人からでないと臓器は何かいただきにくいというようなことをおっしゃった方がいらしたんです。やっぱり生きている人からの臓器はもらえない、だから死んだ人の臓器でないといただけないというふうに、感情の問題としてだと思いますけれども、おっしゃった方がいらしたんですね。それで、私が例えばドナー側に立つとしたときに、じゃ自分の臓器を差し上げると。人間だれしも、余りいいことをしなかったが死ぬ前に一ついいことをしたいと思うのが普通じゃないかと、死んでからいいことじゃなくてね。こういうやっぱりドナー側の気持ちもあるんではないかなと。  だから、そこのところがうまく折り合えば、少なくともドナーレシピエントの間で感情の対立がなくて、あとはお医者さんにいい形でしていただければ本当にいい形での命の贈り物なんではないかなと思うんですが、レシピエント側のお立場としてそこにやっぱりこだわるものなんでしょうか、死体からの臓器でなきゃいけないということに。
  395. 都倉邦明

    公述人(都倉邦明君) 私の場合、心臓だったものですから、心臓が停止していると受けられないという問題があったわけなんですけれども、受ける方は、やはりちゃんとした法のもとできっちり決まった形で受けたいなというふうには今待っている方も思っていると思います。また、それにタッチするドクターの方も、やはりそうでないといろんなトラブルとか問題が発生するんじゃないかなというように考えますね。  ですから、私はどっちかといいますと、中山案であれ、それから修正した案であれ、とにかく進めていただきたいと。それで、あとは提供するのは家族が嫌だと言えばそれでいいんですし。例えば、私の息子がドナーカードにサインをしていたと。家族がどうしても嫌だと言えば何も無理やりにとらなくてもいいでしょうし、ですからその辺は受ける方と提供する側とでうまくやる。その間に入っていただくコーディネーターですか、そういう者の育成をやはりしっかりとするべきじゃないかなというふうに考えております。
  396. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 平成会の木庭健太郎と申します。  公述人の皆様、きょうは貴重な意見を本当にありがとうございます。短い時間ですので端的に幾つかお聞きをしたいと思います。  まず、田中公述人に今大森委員がお聞きしたことと同じことをちょっとお聞きしたいんです。  衆議院では金田案、参議院では猪熊案というのが出ております。これも法的には、法を整備することによってそれが殺人に問われないという形を一応とっているわけです。ただ、このことに対して特に移植する側の先生方から反論が非常に多いとも聞いております。この猪熊案に対してどのように思っていらっしゃるのか、まず公述人にお伺いしたいと思います。
  397. 田中紘一

    公述人(田中紘一君) 私は移植をする立場人間で、この臓器移植というのは単に患者医師だけの対峙だけでは、協力だけではなり得なくて、やはりドナーがいる。そういう中で、受ける側の人たちドナー提供がごくスムーズにいくというか、ありがとうございましたと感謝の念を持つというのは非常に大事でありますから、猪熊案でありますとよくそこのところが、いわゆる受ける側の人たちが死に至るプロセスの中でどのプロセスにいるかということまでわかりにくい。したがって、やはり受ける人にとってはきちんと決まった形で受けると。移植する方の立場から言いますと、これはもう移植するレシピエントの方の問題ですから、そのレシピエントの方の手術移植がうまくいくように精いっぱい努力するだけの立場ですから、救急医の立場と少し違うんじゃないかと思います。
  398. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 もう一つ、田中公述人に聞いておきたいのは、移植における法的整備必要性の問題です。  額田公述人から少し政治が介入し過ぎたというお話もありましたけれども、移植を望む人と提供したい人、そしてそれをやらなくちゃいけない人の中で我々が何とか橋渡しができる方法はないかと一生懸命悩んできたのは事実でございまして、ただ、額田公述人がおっしゃるみたいに法はなくてもできるんじゃないかという意見があるのも事実でございます。そこの点について御意見があれば、簡潔で結構ですから伺っておきたいと思います。
  399. 田中紘一

    公述人(田中紘一君) 恐らく、このこじれにこじれました日本移植医療で、今ああいうような形で例えば医療側だけでこれができるかというと、私はこのような問題になった時点では不可能だと考えています。したがって、海外臓器移植を受けた人たちが、できるだけいい生活をして、最近結婚して子供を産んだという人もいますので、そういう意味で一つのいい知恵を出していただいて臓器移植が推進できるような道をつくっていただきたい。だから、基本的にこのこじれた問題を打開する方法を多くの人の知恵でつくっていただきたいというのが希望でございます。
  400. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 額田公述人二つ法律案を読んでいただいたと思います。猪熊案というのは、脳死を人の死としないということで法案そのものはつくられております。額田公述人は、臓器移植する観点の中で一つの編み出された知恵だと私は思うんですけれども、この法案についての評価はどうでございましょうか。
  401. 額田勲

    公述人(額田勲君) 実は、法律以前の問題で申し上げますと、私たちは七、八年前に東京で、この分野のことで造詣の深い、東京の中央公聴会公述人になっておられる中谷瑾子先生とか、中山研一先生なんかと十三人のグループでこの法案のたたき台をつくりました。  生意気なことを申し上げるようですが、猪熊案の骨子はもうほとんどそのとき研究会でつくり上げた内容だと思います。ただし、それは、在野でそういう精神を生かしてという段階では私はそれに賛同して、その研究会にも半年ぐらい毎週参加させていただきましたが、率直に申し上げて、本当に法律として人の死としないというようなことが可能でそれがずっと本当に豊かな移植医療を支え続けるかということで言われますと、その点で私はその提案については現在では消極的と申しますか、むしろ賛同できない。  もし将来にわたってその法案が実施されるとなれば、それもいろんな混乱を引き起こしかねない。特に、医学的な分野は微調整が医療の現場でも可能でしょうけれども、社会的な諸問題で人の死としないということを言い切ってしまいますとというようなことを憂慮して、その点については現在ではかなり消極的になっております。
  402. 木庭健太郎

    木庭健太郎君 ありがとうございました。
  403. 大渕絹子

    ○大渕絹子君 まず、金川公述人にお伺いいたします。  私自身は、この問題を考えるときに本当に心の中が引き裂かれるような思いがしておりまして、今も大変重い気持ちでおります。  金川公述人は、脳死を人の死と認めて積極的に臓器移植を推進すべきだというお考えだというふうに思います。日本臓器移植の後進国であるというふうに今言われていますけれども、臓器移植先進国では臓器提供者が減少しつつあるというふうにお伺いをしているわけですけれども、この傾向をどのようにとらえていらっしゃいますでしょうか。
  404. 金川琢雄

    公述人(金川琢雄君) 私は、その点につきましてはよくわかりません、正直なところわかっておりません。しかしながら、私は、先ほどから申し上げておりますし今も言われましたように、やはり脳死を人の死と認めるべきであると思っておりますし、臓器移植は推進すべきであると考えております。臓器移植でなければ助からない多くの人たちを何とか助けてあげるというような施策を講ずるということが重要な政策のうちだと思っております。
  405. 大渕絹子

    ○大渕絹子君 額田公述人にお伺いいたします。  医師として脳死判定が必要な場合というのはどのような場合なんでしょうか。
  406. 額田勲

    公述人(額田勲君) 私の経験の範囲で申しますと、一言で言いますと、血色がよくて本当に深い眠りに落ちているようなとは申しますが、しかし一たん、その患者さんがICUで家族がそこに登場してまいりますと、患者さんの予後を家族に必ず説明するというのは医学で一番大切なことだと思います。  そういうときに、脳死という状態だということをきちっと説明する、そしてそのことについては脳死判定基準を満たしておればやがて死に至るであろうという形で家族説明するのと、そうでないのとではもう画然とした差があります。ですから、そういう面では、医学の技術の上でといいますか、脳死判定一定の役割を果たしているのは事実だと思います。
  407. 大渕絹子

    ○大渕絹子君 田中公述人にお伺いいたします。  臓器移植しか助からないと言われている人の余命と、移植をした後に与えられるその人の人生の長さと、どちらが長いかの判定はどういう基準でなさるんですか。
  408. 田中紘一

    公述人(田中紘一君) それぞれ病気別に移植後の累積生存率という生存率が何年かの移植の蓄積のもとにありまして、そういう結果と移植を受けなかった場合の累積生存率を比較しまして、そういう比較のもとに評価するという方法でございます。
  409. 大渕絹子

    ○大渕絹子君 岩田公述人にお伺いいたします。  この法律案をつくろうということの根底には、脳死になったら臓器提供してもよいと考えている人が存在し、そしてその臓器を待っていらっしゃる人たちがいるということが前提にあると思うわけです。この両者の希望をかなえてやるために法律案が必要というふうに思うわけですが、その観点に立ったときに、今回の中山案、それからそれに対する修正案、それから猪熊案と出されておるわけでございます。岩田公述人の先ほど来の公述を聞いていればおおよそ見当はつきますけれども、その両者の希望をかなえるという観点からしてどの法案が一番よろしいと思っていらっしゃいますでしょうか。
  410. 岩田研二郎

    公述人(岩田研二郎君) 今まで臓器提供したいという善意があるというふうに言われてきたんですが、結局、中山案またはその前の森井忠良先生の案などもありましたが、臓器提供者というのが一体だれだったのか、ドナー本人なのか家族なのかということがあいまいにされたまま、本人意思があいまいでも家族提供すればそれが提供者善意なんだというふうにあいまいにされて論じられてきたんではないかという意味で、特に脳死状態臓器提供というのは、やはり御本人が自分の移植医療に役立ちたいという意思を実現するものとしてとらえるべきものだというふうに思います。  中山案というのは脳死死体としますから、その臓器摘出ができる根拠は遺族の遺体管理権に本質があるわけですね。その点で、猪熊案、金田案というのは本人臓器提供権利行使というところに本質がありますから、同じ要件にはなっていますけれども全く観点の違うものではないかというふうに思っておりますし、私はやはりこの金田案、猪熊案ということで今回のこの移植について一定の道を開くべきだというふうに考えております。
  411. 大渕絹子

    ○大渕絹子君 最後に、都倉公述人にお伺いいたします。  大変苦しい選択をなさって、そして成功なさっておられることを本当に喜んでおりますけれども、これは御発言できるかどうかわかりませんけれども、お金は一体どのくらいかかるのか、そしてアメリカのシステムについて時間の許す範囲でお伺いしたいと思います。
  412. 都倉邦明

    公述人(都倉邦明君) お金の方はちょっと勘弁していただきたいんですが、アメリカのシステムといいますのは、私の病院だけかもわかりませんけれども、要は、まず私が移植を受けられるか受けられないかといういろんな質問事項があるわけです。これは相手のコーディネーターからあるわけです。その中には、簡単に言いますと、家があるかとか、ホームレスでないかとか、麻薬をやっていないかとか、いろんな質問事項があるわけです。  最終的にそれは何を意味しているのかといいますと、この人に心臓提供して、この人は将来社会のために役立つだろうかとか、それから自分を管理できるだろうかとかいうような問題を見ているような感じはします。  その中にはドクターは一切入りません。あくまでもコーディネーターが入るわけです。そういうことで初めてリストに載せてくれるわけです。そのリストに載せられて、その上で、病院で病気の重たい順番、それから血液型の問題もあります、そういう問題でやるわけですね。ですから、アメリカで僕が聞いてみました範囲では、やはりドナー家族反対すれば無理やりにとらないとかいうような問題はあると思います。  先ほどドナーの数が減ってきているという問題もありましたけれども、その一つの大きな原因は、エアバッグとか、それから単車ではすべてヘルメットをする、アメリカでは自転車は全部ヘルメットをつけているというようなことで、交通事故の死も非常に少なくなってきているということがあります。  私がおととしアメリカへ行きましたときは、外人に与える心臓というのは一〇%。ですから、例えば僕の行きました病院というのは年間二十例あるということになりますと、二名しか外人に心臓は与えられない。それから、私が帰るときには、もう既にドナーの数が減っているからということで五%に下がっていたということがあります。そうすると、年間二十例やっている病院では一人しか外人に与えられないというようなことで、そういう意味ではだんだんドナーの方が減ってきている。それからなお、外国でも移植を受ける方がふえてきているということもあるんじゃないかなと思います。
  413. 大渕絹子

    ○大渕絹子君 ありがとうございました。
  414. 中尾則幸

    中尾則幸君 民主党・新緑風会の中尾でございます。本日は六人の公述人皆さんの御意見を伺わせていただきました。大変参考になりました。  私も持ち時間が限られておりますので、本来であれば全員の皆さんからいろいろ御意見を賜りたいところでございますが、御容赦願いたいと思います。  まず最初でございますが、私も今回の参議院臓器移植に関する特別委員会委員の一人として何度か質問にも立ちました。特に、先ほどからお話がございましたけれども、脳死は人の死か、それを法律で規定していいかどうかについて、これは大変重要な問題でございますので、私どもは十分とは言えませんけれども審議を今やっている最中でございます。その中で、私も脳死を人の死として法律で決めていいのかという疑問を持っている立場の一人でございます。  その中で、私が一つ大変興味深く拝見したのは、四月八日の衆議院の厚生委員会で、竹内基準脳死判定基準をつくられた竹内先生がこのようにお話をされております。ちょっと御紹介します。「脳死の定義についてでありますが、これは脳が死んでいるということを意味するのであって、心臓死とかあるいは窒息死とかというふうに、いわゆる人の死と直結している概念ではなかったはずでありまして、しかもこれは臨床的な概念であるというふうに考えております。」と。私は、大変すばらしい考え方だなと、医学的に脳死というものはやはり人の死としてその判定基準もつくりやってこられたけれども、しかし竹内先生はそれを人の死の概念一般に広げているつもりはないというふうに読み取ったのでございます。  アンケート調査等々もありますけれども、それは省略させていただきまして、ここで額田公述人に御意見を伺いたいと思います。  額田公述人からは、医療の現場で千人の方々の終末の、ターミナルケアの現場にも立ち会っていらっしゃったというお話を聞きました。その中で、今回の各法案脳死判定についても家族同意が必要だというふうに書き込まれておるんですが、例えば救急患者あるいは脳死状態に陥る方は、恐らく何かの事故だとか脳血管障害で家族の方もよもやという、心の準備がないままに、ベッドに今横たわっている状態じゃないかと私は思うんです。そうしたいわゆる冷静さを欠く状態の中で、果たして家族同意というのはどのように得られるのか。これはきのうの委員会でも質疑の一つになったんですけれども、現場側から見ていらっしゃってどのように考えるか。  それから、やはり医療不信の中でこれも確かにあろうと思いますが、例えば臓器移植を進めんが余りに、移植コーディネーターが来て、本人同意しているんだからもうぜひ家族皆さん同意してくださいよということになりはしないか。強要と言ったら失礼ですが、そういうことにもなりやしないかというふうに私は心配しておるんですが、その点について御意見を賜りたいと思います。
  415. 額田勲

    公述人(額田勲君) まず、前者の御質問ですけれども、先生御指摘のとおり、そういう情景を想像していただいてもそのとおりだと思いますが、私が脳死の特に臓器移植の対象になるような若い患者さんの場合の家族の対応を見ておりますと、ちょっと的外れのようなことを申し上げるかもわかりませんが、これは脳死状態ですよと言って私はかなり深刻に死の宣告をしたつもりなんですが、おおむねそのときは非常に混乱のていを示しても、まだ常識の範囲内といいますか平然とという家族もいます。しかし、最終的にそれが心臓死になったときに、家族は本当に混乱のきわみといいますか、やはり人の死はそこで大変な状況になる。私がつらつらそのことをたくさん見ていきましてどう考えるようになったかというと、やっぱり日本人家族にとって脳死状態というのは死とは受けとめていない、そういう状況でいろんなことに処しているんだなと思うんですね。  情緒的なことを申し上げて許されるならば、私が本当に忘れることのできないのは、ある若い夫が脳死状況のときに、奥さんに何回説明してもわかりました、わかりましたと。そのかわり、その奥さんは二昼夜半、まんじりともせずにそこで付き添っているわけです。余りその姿が気の毒なので何回もこれは死が近いですよと言ったんですけれども、何かわかっているのかなと。ところが、心臓死を最終的に宣告したときにこの奥さんは、御主人は交通事故で亡くなったわけですが、そのお酒を飲んで交通事故で死んだことに対して、私の病院のICUで御主人の体を本当に生きた人間に暴力を振るうようにたたいて、大声を上げて、こんな死に方をしてもう私たちはどうなるのと言ってまさに死を受けとめたと。もう忘れることができないんですけれども。  やっぱり日本人の死の受けとめ方というのはそういうことに尽きると思いますので、医師が幾ら脳死状態と言っても、その時点で臓器提供云々ということについて了承したことが本当にその家族意思と言えるのかというようなことについては、私は随分疑問を持っております。
  416. 中尾則幸

    中尾則幸君 ありがとうございました。  ノンフィクション作家の柳田邦男さんが、死というのは一人称だけの死じゃなくて、みとり、いわゆる家族と一緒に迎えていくんだと。ですから私は、偉そうなことを言えないんですけれども、脳死はやっぱり死の概念としては必要条件であるけれども果たして十分条件なのかというふうに考えてございます。  続いて、岩田公述人にお伺いします。  委員会でもたびたび問題になっておりますけれども、家族同意ということを言っておるわけですが、その家族範囲がいま一つ明確でないわけですね。例えばいとこまでいくのか、あるいは何親等までいくのかと、これが随分委員会でも論議されてございます。これをどう規定すべきか、どう考えるべきか、専門家の立場からちょっとそのアイデアというかお知恵をおかりできればと思います。
  417. 岩田研二郎

    公述人(岩田研二郎君) お手元にお配りしております日弁連の提案、黄色い冊子ですけれども、私たちがこれをつくるときにこの家族についてどういうふうに考えるかということを大分論議いたしました。  結論としては、この日弁連案でも、本人意思を根拠とするので、家族意思というのはそれに付加するものではあるけれども、この範囲について今の角腎移植法でも規定していないということではやはり混乱を来すのではないかということで、これについては配偶者、親それから子というこの範囲を、法に言ういわゆる拒否権といいますか、こういうものを持った家族として定義してはどうかということを提案いたしました。  しかしながら、国会に上程されるときにもこのことが金田案をつくるときに論議になったと聞いておりますが、やはり今言った配偶者、親子以外に、兄弟と暮らしている人とか言う方がおられた場合にどうするのかということがございましたから、金田案、猪熊案については、恐らくこの家族というのはいわゆる遺族となるべき家族、つまり遺体の管理権者となるべき家族というような形で考えられるのではないかというふうに思います。特に中山案のように遺族の意思に根拠を置く場合には、むしろこの遺族の範囲というのがはっきりしていなければ本当に現場で混乱を来す可能性はあるかなというふうに思っておりますが、これはやはり現場の対応に任せられるのかどうかという点だと思います。  日弁連としては、法律的な拒否権はこの範囲に与えるけれども、実際上、現場でそういう親族の方々反対をしたときに医療現場でそれを強行することはないであろうというもとに、そういう提案をさせていただきました。
  418. 中尾則幸

    中尾則幸君 あともう一問、同じく岩田公述人にお伺いしたいと思います。  これも委員会で私も質問してなかなか明確な回答を得られなかったのですが、臓器提供、これは本人意思表示をするわけで当然のことでありますけれども、その本人意思表示をする法的に有効性を持つ年齢は幾つかと私は委員会で聞きましたら、中山案の発議者からは、民法で認められた遺言が十五歳以上有効であり十五歳が一つの目安と。厚生省もそれに近い答えを述べました。  ところが、きのうの委員会中山案の発議者からは、そういう考え方を原点にしながら今後さまざまな角度から検討すべきというような話が出て、私はこれは大変に怖いことだなと。これは本法で明記すべきじゃないかというふうに主張しておるのでございますが、法律家の、専門家の立場から、どういうようにとらえたらいいのか、岩田公述人最後にお伺いしたいと思います。
  419. 岩田研二郎

    公述人(岩田研二郎君) この問題も日弁連案を提案するときに法律の中にその提供できる年齢を書き込むのかどうかということは議論をしましたが、結論としては、法律には書き込まずに、これは十五歳程度の年齢で考えるしかないだろうというふうに思います。  しかし、ここは難しいところでして、じゃ大人だったら脳死のことをよく理解しているのかどうか、じゃ中学生であれば理解していないのかということについては何とも判断がしがたい。または、時代によって脳死についての理解がもう少し低い年齢でも深まっていくかもしれません。今の中山案方々考え方は、十五で固定をすれば小さい年齢の方についての移植ができなくなるという必要性から議論されているというふうに思われますが、ただ十五歳が本当にどうしてなのかという根拠はなかなか見出しにくいかというふうに思っております。
  420. 中尾則幸

    中尾則幸君 ありがとうございました。
  421. 橋本敦

    橋本敦君 きょうは公述人皆さん、ありがとうございました。時間が限られておりますので、端的に伺いたいと思うんです。  脳死が人の死であるという社会的な合意が十分形成されていないときに、法律で、国会の多数決で脳死を人の死とすると決めてしまうということは、いろんな面で混乱も及ぼすし、社会的合意がさらに進むという道を閉ざす一つの要素になりかねないということも私は心配しているわけです。  それで、その一つの問題として、どういう場合に脳死であるかということは法律で決めないで政令にゆだねる、厚生省の基準による、こうなっているわけです。そこの厚生省の基準では八五年につくられたいわゆる竹内基準となっているわけですが、しかし実際問題として、近年の脳低体温療法を含む急速な救命救急医療の進歩の中で蘇生限界というのがずっと広がっているということが言われているわけです。  そういたしますと、私は、仮に脳死が人の死であるとしても、その判定基準というものを今の医学の急速な進歩の中で本当に厳格に見直していかなくちゃならぬ、そういう思いを強くしておるんですが、額田先生、この点についてはいかがお考えでしょうか。
  422. 額田勲

    公述人(額田勲君) 私も全く同感ということになります。  それで、その点は同感と申し上げてもう一言に尽きるわけですけれども、小生意気なことを申し上げるようですが、医学の技術というのはどの時代の技術もすべて過渡期的な技術でして、例えば過去の例はよくわかるのですけれども、がんより恐れられていた結核の全盛時代には結核の充てん術というような外科手術がもう大手を振ってそれが一番いいと言われていたんですけれども、もう今はそういう野蛮なことをよく平気で医学界はやっていたのかということになります。しかし、その時代には過渡期的なこととして許されたと思うんですね。  僕は、臓器移植も過渡期的な技術としてそれは許されるかと思います。ただし、それは医学界内部で逐次医学の進歩に照らして見直していけるというのは、これは科学者の世界ですから十分可能です。しかし、それを一たん法律で決めてしまえば、そういう医学の進歩にそぐうかどうかということについては、私は今までの事例からもう極めて否定的な見方をしております。
  423. 橋本敦

    橋本敦君 次に、岩田先生にお伺いしたいと思うんです。  いわゆる中山案に対する修正案ということで出てきた問題についても御意見をいただきました。私はあれが修正案なのか第三の対案なのかという問題が一つあると思うんですが、いただきました資料の五ページで、第三の問題として、たとえ脳死判定に従う意思表示であっても、脳死判定には従うけれども、しかし脳死判定のその脳死による死を受け入れるというそこまでの意思表示かどうかはやっぱり問題があるじゃないかと。  そういう意味で、ここの問題は本当に自己決定権と言えるかどうかということを指摘されていらっしゃるんですが、もしもその脳死判定を受け入れるとしても、脳死判定をもって死とするということを承認していないとなれば、法律でそれを死と決めてしまうということは、これは患者の人権にとって重大な問題を起こしますね。そこまで法律はやっていいのだろうかという疑問を持つんですが、先生のお考えはいかがでしょうか。
  424. 岩田研二郎

    公述人(岩田研二郎君) 私もこういう法案の分析をしている中でここに気づいたんですけれども、猪熊案、金田案というのは、ある意味では自分の生命、人権のうち、脳死判定最後臓器摘出をされることによって生命を失うということについての限定した承諾であり意思表示でありますけれども、むしろ今回のこの修正案というのは、自分の死体としてもらっても構わないというところまでの選択を自己決定で求めるということになるんではないか、非常に重たい自己決定を求めると。  つまり、臓器摘出前、脳死判定をされれば、その間何日かあるわけですけれども、その間はもう自分は死体で構わないんだ、個人としての尊厳を失って構わないんだというところまで本当にドナー方々が考えて提供するだろうかという点では、もしこれが脳死の選択説に沿っているとすれば、現状とは合わないし、擬制をしたものであったり、またはひょっとしたら今言われたように法律で死を強制したものになるかもしれないという意味では、より重大な問題を含んできているんではないかというふうに思います。
  425. 橋本敦

    橋本敦君 私どもは今、国会でいろいろ論議をしておりますが、御存じのように、私ども日本共産党は別として、他党の皆さんの党の中では党議拘束を外す、それぞれの人生観なり死生観なりいろいろおありでしょうから党議拘束を外すと、こういう現状であります。それからまた、衆議院でも参議院でも御存じのとおりに二つ法案が出る、あるいは第三の法案が出るということで、この問題については本当に社会的合意が十分できていないことの一つのあらわれのような状況もあるんですね。  そこで私は、この法案に賛成の方あるいは反対という方も含めて、国民的に広く開かれた論議がまだまだ必要ではないか、そういう意味でますます慎重な論議が国会に望まれると思うんですが、そういった国会審議に対しての御希望、御意見を各公述人皆さんに簡単で結構ですからお伺いをして、私の質問を終わりたいと思います。
  426. 田中紘一

    公述人(田中紘一君) 脳死臨調が出てもう数年になります。その間、いろんな人がいろんなことを考えてきたと思うんですが、移植を待ちながら亡くなっている人もいるということもどうぞ念頭に置いていただいて、ぜひいい案をつくっていただきたい、そのように考えます。
  427. 岩田研二郎

    公述人(岩田研二郎君) ここまで来た以上、国会結論を出すこと自身はどこかでやらなければならないというふうに思っております。そのときに、今修正案が出ておりますが、脳死を人の死とするかどうかについて、そこを棚上げにしたような、もっと工夫ができないものかということは私も個人的には考えております。  しかしながら、いずれにせよ、この中山案が提案されて初めて審議がスタートした、衆議院であれだけの駆け足の審議があり、参議院でも数日程度しかないということで、どちらに決めるにしてもこのような国民がよくわからないところで混乱した形で決まっていくというのは、きっとこの移植医療の健全な出発に非常に悪影響を与えるというふうに思いますから、確かに待っている方はおられますけれども、やはり国会で責任あるきちっとした審議をして決めていっていただきたいというふうに思っております。
  428. 金川琢雄

    公述人(金川琢雄君) 私は、ここまで来たわけでございますから、一刻も早く臓器移植法案を成立させるべきであると思います。それが一歩前進になると思っています。  殊に、今回の法案では三年後にまた見直しするという条件つきでございますので、議論を続けながら、よりいい法律をつくり上げていく努力を継続していただきたいと考えております。  以上でございます。
  429. 額田勲

    公述人(額田勲君) 原則的に申し上げますと、私は立法が絶対必要でないということを言っているのではありません。原則的に言いますと、立法の必要な局面が違うと思います。それは、例えば臓器移植がスタートしていて臓器提供数が少ないとか、非常に医学界全体で困難に直面したときにこれを支援して臓器提供数をふやす社会的なサポートをやるとか、そういう局面で立法は僕はむしろ必要だと思っております。しかし局面が違うのではないか、これが一点です。  二点目は、現在伝えられているように修正案が成立してしまうならば、先ほども申し上げましたように、私は運用の上でかなり大混乱を来すと思います。これはもう何回もこういう分野で論議されてきたことで、その都度否定されてきたことが今国会で浮上したわけですから、それはもう必ずや大混乱を来すと私は思っております。ですから、そういうものが可決されるのであれば、国会としての限界性はあるんでしょうけれども、そういう混乱を来さない行政府なりの連動といいますか、何かそういう方策をお考えいただきたいということを申し上げておきたいと思います。
  430. 都倉邦明

    公述人(都倉邦明君) 成立が一日おくれることによりまして、待っている患者さんで亡くなっていく患者さんもたくさんになると思います。ですから、深い議論をしながらでもできれば早く法案を成立させていただいて、とにかく死が待っている人にも期待を、希望を与えてやってほしいということを切にお願いしたいと思います。
  431. 小川一乘

    公述人(小川一乘君) この問題につきまして慎重に御審議いただきたいと思います。先ほど申しましたように、私たちの都合で死の線引きをするということはできるだけというか絶対にしてはならないのではないかと思いますし、この脳死の問題は単に脳死の問題を超えて、もしこういうことが実施されていきますと、いろいろな状況の中で人間差別の問題、弱者排除の現実がどんどん出てくるだろうと思います。  そういうことを踏まえますときに、移植をしなければ助からない人のことは大変せつない気持ちではおりますけれども、やはりそこは医学の進歩、より以上の進歩を望みながら、本当にもっと大きなところで人間差別を生まないようにしていっていただきたいと思います。
  432. 橋本敦

    橋本敦君 ありがとうございました。
  433. 竹山裕

    ○団長(竹山裕君) これをもって公述人に対する質疑は終わりました。  この際、公述人方々に一言お礼を申し上げます。  皆様方には、長時間にわたって有益な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。拝聴いたしました御意見は、今後の本委員会の審査に十分反映していきたいと考えております。本日は御多忙のところまことにありがとうございました。派遣委員を代表いたしまして重ねて厚く御礼を申し上げます。  これにて会議は滞りなく終了いたしました。おかげをもちまして我々が遺憾なく所期の目的を果たし得ましたことは、ひとえに本日御出席をいただきました公述人の皆様方の御協力のたまものと深く感謝を申し上げる次第でございます。また、本地方公聴会のために種々御高配、御尽力を賜りました関係者各位に厚く御礼を申し上げます。また、傍聴の方々にも長時間にわたり御協力をいただきましてありがとうございます。重ねて厚く御礼を申し上げます。  これにて参議院臓器移植に関する特別委員会大阪地方公聴会を閉会いたします。    〔午後三時五十七分散会〕      —————・—————    新潟地方公聴会速記録  期日 平成九年六月十二日(木曜日)  場所 新潟市 新潟ベルナール    派遣委員     団長 理 事      関根 則之君        理 事      照屋 寛徳君        理 事      川橋 幸子君                 石渡 清元君                 中原  爽君                 松村 龍二君                 山崎 順子君                 渡辺 孝男君                 栗原 君子君    公述人        新潟大学医学部        泌尿器科教授   高橋 公太君        刑事法学者・北        陸大学法学部教        授        中山 研一君        金沢大学法学部        教授       深谷 松男君        ノンフィクショ        ン作家      向井 承子君        肝臓移植者    黒田 珠美君        牧     師  岸本 和世君     —————————————    〔午後一時開会〕
  434. 関根則之

    ○団長(関根則之君) ただいまから参議院臓器移植に関する特別委員会新潟地方公聴会を開会いたします。  私は、本日の会議を主宰いたします臓器移植に関する特別委員会理事の関根則之でございます。よろしくお願い申し上げます。  まず、私どもの派遣委員を御紹介いたします。  社会民主党・護憲連合所属の照屋寛徳君でございます。  民主党・新緑風会所属の川橋幸子君でございます。  自由民主党所属の石渡清元君でございます。  自由民主党所属の中原爽君でございます。  自由民主党所属の松村龍二君でございます。  平成会所属の山崎順子君でございます。  平成会所属の渡辺孝男君でございます。  新社会党・平和連合所属の栗原君子君でございます。  それから、現地で参加されております自由民主党の真島一男君でございます。  次に、公述人方々を御紹介申し上げます。  新潟大学医学部泌尿器科教授高橋公太君でございます。  刑事法学者北陸大学法学部教授中山研一君でございます。  金沢大学法学部教授深谷松男君でございます。  ノンフィクション作家の向井承子君でございます。  肝臓移植者の黒田珠美君でございます。  それから、牧師さんの岸本和世君でございます。  以上の六名の方々でございます。  さて、臓器移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)及び臓器移植に関する法律案(参第三号)につきましては、目下、本委員会で審査中でございますが、本委員会といたしましては、両法案の重要性にかんがみ、国民の皆様から忌憚のない御意見を賜りますため、本日、当新潟市及び大阪市において同時に地方公聴会を開会することといたした次第でございます。何とぞ特段の御協力をいただきますようお願い申し上げます。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  高橋公述人中山公述人、深谷公述人、向井公述人、黒田公述人及び岸本公述人におかれましては、御多忙中のところ、本日は貴重な時間をお割きいただきまして、本委員会のために御出席を賜りましてまことにありがとうございます。派遣委員一同を代表いたしまして心から厚く御礼を申し上げます。  次に、会議の進め方につきまして申し上げます。  まず、お一人十五分程度で順次御意見をお述べいただきまして、その後、委員の質問にお答えをいただきたいと思います。  なお、この会議におきましては、私どもに対しての質疑は御遠慮願うことになっておりますので、御承知願います。  それから、傍聴の方々にも、傍聴人心得をお守りいただきまして、会議の円滑な進行に御協力くださいますようお願いいたします。  それでは、これより公述人方々から順次御意見を承ります。  まず、新潟大学医学部泌尿器科教授高橋公太君からお願いを申し上げます。
  435. 高橋公太

    公述人(高橋公太君) ただいま御紹介いただきました新潟大学医学部泌尿器科の高橋公太でございます。  このような公聴会に出席し、発表の機会を与えていただきますことをまことに光栄に思っております。  私は、昭和四十九年に新潟大学医学部を卒業し、二十三年間透析医療腎移植に携わってまいりました。  大学卒業とともに昭和四十九年より平成六年十二月までの二十年間、東京女子医科大学腎臓病総合医療センターに在職し、平成七年一月より泌尿器科の教授として新潟に赴任いたしました。  この二十三年間に約千四百例の腎移植の臨床にタッチしております。その間、新潟県はもとより、全国二十三病院の腎移植の指導に当たっております。このような関係上、私の腎移植患者は北は北海道の旭川市、南は沖縄県の石垣市まで広い範囲に在住しております。沖縄県、鹿児島県の第一例目の腎移植も手がけてまいりました。  まず、私の発表の趣旨を単刀直入に述べますと、移植医立場から、心臓肝臓移植医療を一日千秋の思いで待ち、移植でしか生きることのできない患者のため、さらにこれらの移植医療が我が国に定着するためにも、今国会臓器移植法案の成立を是非ともお願いする目的であります。  最近、臓器移植法案に関する衆議院の厚生委員会の議事録を拝見させていただきました。  拝見しますと、移植医立場から、社会保険中京病院副院長、現在名古屋大学医学部教授大島伸一先生、東北大学加齢医学研究所附属病院院長藤村重文先生は、臓器移植考え方、どちらかといいますと臓器移植の総論を述べられ、また、日本移植学会理事長の野本亀久雄先生は、日本移植学会の立場から、現在の移植学会の現況と今後のあり方を述べられております。  また、そのほかの参考人の議事録を拝見させていただきまして大変勉強になりましたが、いささか難しい表現が多く、具体性に欠けているため、移植が極めて難しい医療としてとらえられているように考えられます。  私は、今回、具体的に臓器移植が日常の医療でかなり安定した治療であることを、腎移植医療で具体的に示したいと思います。また、臓器移植において腎移植の占める位置は、例えて言いますとピラミッドの底辺を形成しており、その上に肝移植、心移植が位置しております。すなわち、腎移植における高い水準の医療技術があってこそ、その延長上にある肝臓、心臓移植が今後広まるものと確信しております。  今回は時間が限られ、また先ほど述べましたように移植医の諸先輩が総論を話しておりますので、これらのことはなるべく割愛させていただきます。  我が国において慢性腎不全のため透析療法を受けている患者数は、現在十七万例に達しております。そのうち、恐らく約三〇%の患者社会復帰やクオリティー・オブ・ライフの高い腎移植希望しておりますが、献腎の不足から、実際年間五百例から八百例ほどの腎移植が行われているにすぎません。今後臓器移植を普及させるためには、ドナー数をいかにふやすかが共通の大きな課題であります。  さて、本日は地方公聴会という地域性も考えて、四十七都道府県のうち、この新潟県の移植医療にスポットを当てて具体的に述べさせていただきます。  新潟県は、全国で五番目に大きい県で、その面積は北陸三県に匹敵します。北は村上市の先の山北町から西は糸魚川市まで、その海岸線は約三百キロメートルあり、その距離は東京—新潟間とほぼ同等であります。最近冬の積雪量は減ったとはいえ、山間部は日本有数の豪雪地帯であります。県民の人口は約二百五十万人です。  本県は、我が国で最も早い時期に慢性腎不全に対する透析医療に取り組み、現在、県内に約三千人の透析患者がおり、四十六の施設で透析を受けております。これらの患者の健康管理は主に内科医を中心に行われております。そして、そのうち四百四十三名が社団法人日本腎臓移植ネットワークに献腎移植希望登録をしております。  透析技術の向上により透析を長期に受けている患者が増加し、そのうち、透析歴が二十年以上の患者我が国では約五千例に達しております。新潟県では、我が国で透析歴が一番長い三十一年の患者を筆頭に、これらの長期透析患者の割合が極めて多いことが一つの特徴と言えます。しかし、これらの長期透析患者は、透析療法では治すことのできない合併症、その代表として透析アミロイド症などに悩まされており、これらの治療は現在のところ腎移植でしかありません。  また、透析療法は進歩したとはいえ、透析患者の平均寿命は我が国の平均寿命の約二分の一でしかありません。三、四十年前に尿毒症と診断されると一週間から三カ月の生存しか望めなかったことを考えますと、確かに延命効果はありますが、透析患者の平均寿命が我が国の平均寿命の二分の一と言われますと寂しい感じがいたします。透析患者の平均寿命を我が国のそれに近づけるためには、ぜひとも腎移植との組み合わせが必要です。  次に腎移植ですが、本県では、平成六年十二月までの三十数年間に百十三例の腎移植が施行されています。私は、平成七年一月より当地に赴任しましたが、同年の四月より体制を整え腎移植を新たに再開いたしました。  同時期に、献腎を日本国民に公平公正に分配するために社団法人日本腎臓移植ネットワークが発足し、本県も全国七ブロックのうち関東甲信越ブロックに所属しております。現在、腎移植病院として、新潟市の新潟大学附属病院、信楽園病院、長岡市の立川総合病院、上越市の県立中央病院及び吉田町の県立吉田病院の五施設が、また、HLAセンターとして、新潟市民病院、立川総合病院の二施設が日本腎臓移植ネットワークに認定されており、泌尿器科医、内科医及び小児科医が中心に相互に協力して腎移植医療に当たっております。このような新しい体制下に、県内ではこの約二年間で三十四例の腎移植が施行されました。その内訳は、生体腎移植が二十七例、献腎移植が七例であります。  本日は、法案の趣旨から、献腎移植について述べさせていただきます。  現在、献腎移植七例は、全例生着して元気に完全社会復帰を果たしております。患者の背景因子で特徴的なことは、前に述べましたように、透析歴が極めて長いことが挙げられます。透析歴が二十年以上の移植患者は全国に三例おりますが、そのうち二例がこの二年間で本県で献腎移植を受けています。これらの患者は透析による合併症がひどく、透析医療をこのまま継続していれば余命が極めて限られておりましたが、献腎移植のために完全社会復帰を果たせるまで健康を回復しました。  日本腎臓移植ネットワークが発足してからこの二年間、全国の献腎移植数は、一九九五年度百六十一例、一九九六年度百八十例であります。これらの腎臓はすべて心停止下に提供されております。このうち、この二年間に関東甲信越ブロックでは九十四例の腎移植が行われていますが、そのうち四例がプライマリー・ノンファンクションといいまして、移植後、腎臓が全く機能しておりません。将来、脳死下に腎臓が提供されれば、この割合はさらに低くなります。このように、献腎移植においてもさらに成功率を上げるためには脳死下での腎臓の提供が望ましいのであります。  現在、佐渡島には三例の腎移植患者がおります。そのうちの一例は、今から十二年前に米国から送られてきた腎臓を私が東京女子医科大学在職中に移植した患者で、現在、完全社会復帰を果たしております。米国で脳死下に腎臓が提供され、我が国移植されるまで約二日間かかっております。これがもし心停止下で提供されていれば、このような長い保存期間では移植された腎臓はまず機能しません。  本日御出席されている皆様方の中に、十二年も前に米国国民の好意により脳死下提供された腎臓が佐渡の患者移植され、現在も立派に機能していることを知っている方が何人いらっしゃるでしょうか。いや、この患者さんは例外だとお思いになる方がいらっしゃるかもしれませんが、この方は決して例外ではありません。この方の一週間前にも同じように北九州の患者が米国の献腎を移植され、現在も移植腎機能良好で、学校の先生をして完全社会復帰を果たしております。  移植医療にも欠点があることも事実ですが、このように腎移植は安定した日常の医療であることを強調したいと思います。  時間がなくなりましたので、最後新潟県の肝及び心移植の現況について述べます。  新潟県では年間約百例の肝移植の適応になる患者がいると推測されています。しかし、現在肝移植を受けた患者数は六例のみであり、いずれも生体部分肝移植を受けております。このように生体ドナーからの移植には限界があり、脳死移植がぜひとも必要です。  心移植の適応患者は、日本循環器学会心臓移植適応検討委員会の基準に基づきますと、新潟県には十五例おりますが、残念ながら姑息的な治療でしか行われておりません。そのほか、新潟県における骨髄移植及び角膜移植の資料も追加しておきましたので、ぜひともごらんいただきたいと思います。  最後に、現在、我が国では脳死臓器移植が不可能のため、多大な犠牲を払って欧米諸国に移植に行っておられる患者がおります。しかし、これらの恵まれた患者は極めて限られており、多くの患者は無念の涙を流し、亡くなっております。  このように、臓器移植を一日千秋の思いで待っている患者のために、今国会臓器移植に関する法律案をぜひとも成立させていただきたいと強く要望いたします。  これで、私の発表を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。
  436. 関根則之

    ○団長(関根則之君) どうもありがとうございました。  次に、刑事法学者北陸大学法学部教授中山研一君、お願いします。
  437. 中山研一

    公述人中山研一君) それでは、私は、法律問題でございますので、少し立ち入って法律問題でお話をしたいと思います。  六月十日付の朝日の「論壇」にこうした文章がございまして、ちょうど問題になっております脳死判定拒否権の問題をめぐりまして、脳死反対する人たちにこれを強制しないという何らかの妥協案として、脳死判定をできれば臓器移植場面に限定するというふうな方向を私なりに示唆したのでありますが、ちょうど今参議院で問題になっておる修正案と称するものもそのような方向を示しておられるように思いますので、きょうの意見陳述では三つの点を指摘したいと思います。  一つは、最近提案されておる修正案にどんな問題点があるかというのが第一点。それから、金田・猪熊案との関係はどういうふうに考えられているのかということが第二点。それから、それでは合意可能な妥協案としてどういう点を考えるべきかということを最後に申し上げたいと思います。  まず第一点でありますが、今回の参議院の段階であらわれてまいりました第三案と申しますか修正案の特色は、その要綱に二つの点を掲げております。まず第一は、従来の中山案に示されておりました「死体脳死体を含む。)」という文言を変えまして、「死体脳死した者の身体を含む。)」というふうに改めるというのが第一の修正点であります。  まず、この点について若干のコメントをしたいと思いますが、「脳死体」という言葉が消えました。これは恐らくは、脳死した者を脳死体と呼んでしまうことが一般に脳死者を全部死体と見てしまうということになりますとかえって混乱が生ずるということから、「死体」という言葉を避けて「脳死した者の身体」というふうに少しやわらかく表現をしたというふうに思われます。  しかし、よく読みますと、これはやはり死体の一つであって、「死体脳死した者の身体を含む。)」となっておりますから、法的に申しますと、脳死した者の身体もやはり死体だということにならざるを得ません。したがって、そういう意味では、従来の中山案と表現は違いますけれども、やはり脳死した者の身体も死体と扱うという点においては今回の法案は変わらないというふうに思われます。これが第一点であります。  次は非常に大事な点が出ておりまして、臓器移植のための脳死判定というふうに、脳死判定臓器移植場面に限定するような表現が今度の要綱には新しく入りました。その上で、臓器提供意思表示とあわせて、脳死判定に従う意思を書面で表示している場合で、かつ家族がそれを拒まないときという点を新しく設けまして、脳死判定移植ドナーとなったもしくはその予定の人に限定されることと、新たに脳死判定にも同意を必要とするというふうに重ねて限定を設けるという提案がなされておるわけであります。したがって、この点が非常に大事なことになります。  一見いたしますと、法律の解釈としましては、確かにこのような改正によりまして実際には脳死した人の身体は死体と考えられるけれども、実際の提供場面では、臓器提供するという限られた目的のための場面にそれが限定されまして、一般の救急医療の現場で移植関係なく行われる脳死判定場面には適用されないということが意味されているように思われます。  もしそうであれば、同じ脳死者とか脳死した人の身体が臓器提供場面だけでは死体となりそれ以外の場合には死体とは考えないといういわゆる二分説ということにならざるを得ませんが、果たしてそういう趣旨が明確に出ているのかといいますと、残念ながらこの点では二つの解釈があり得ると思います。  と申しますのは、このような規定だけでございますと、臓器移植場面での限定が出ているだけでありまして、移植場面以外の脳死判定の限定については全くこの法律は触れておりませんので、一方の解釈としてはそれはまた別に考えるということにならざるを得ません。この点がこの法案の持っている一つの問題点ではないかというふうに私は考えます。これは後ほど私の考えている考え方と少し照らし合わせる意味で述べておきたいと思います。  ともあれ、そういうふうな形で、かつて問題になりましたドナーの側の承諾の要件本人意思ということで合意いたしましたけれども、脳死を人の死とするかどうかということについての合意をどのような形で現在妥協点を見出すかということが最大の今課題になっておりまずので、そういう意味では今回の修正案は新しい問題提起をしたというふうに言うことができます。したがって、それでこの問題が解決するのであれば一つの行き方であろうと思いますが、これには重要な問題が含まれているように思われます。  と申しますのは、人の死というのは法的には本来はどんな場面でも統一してあるべきでありますから、脳死判定をした人がある場面では死体になったりある場面では生体になるということは本来あり得ないわけでありますけれども、ここを二つに分けるということは本来甚だ難しい仕事であります。これをどのようにソフトな形で規定するかというのが一つの問題点だろうと思いますが、結論で申しますと、私は、今のような規定の仕方だけではやや不十分ではないかと思っております。  と申しますのは、かつて私どもが研究会で発表しました雨宮班統合案というものがございますが、これは一般に公開されておりませんけれども、それを御参照いただきたいのです。細かいことはきょうはもう時間がございませんので申しませんが、一般的にも脳死判定する場合はということを頭に掲げないと、そしてそれは移植場面に限るというふうに書きませんと、脳死判定以外の場面にまで臓器移植法案の効果が及ぶかどうかについては明確な回答にはならないというふうに思っております。  したがって、そこに要約をいたしましたが、修正案の最大の問題点は、表現は変わりましたし、そしていかにも死体という点を回避したように見えますけれども、臓器移植場面脳死した者の身体というのはどのように扱われることになるのか、一体今回の法案は死の定義を本当に変更したことになるのかならないのかという点がいまだ明確ではございません。したがって、移植以外の場面脳死した人の身体というものがどのような扱いになるのかという点を整合的に説明する工夫がぜひとも要るのではないかというふうに思っております。  それから第二の、金田案との関係でございますが、これは時間がありませんので触れませんが、金田案・猪熊案の方は一切脳死場面においても人の死とは認めない、死体とは認めないという考え方でありますから、そこにわずかに現在の修正案との差がございます。  つまり、率直に申しますと、移植場面でもなおかつ死体と見ることをできるだけ避けたいという気持ちが働く限りは猪熊案の方に偏るわけですし、しかし、辛うじてそういう例外的な場合にのみ死体として扱うことを認めるというのであれば今回の修正案になる。その決断をどうするのか。つまり、その点についての社会的合意があるかないかということを検討すべきではないかというふうに思っております。  先ほど申しましたように、要点は、今回の修正案合意のできる妥協的な案として国民の納得のいくような説明が可能か、しかも法律家にとってもそれが合意可能なものであるかということであります。  恐らく、一般の常識からしますと、この案は一般の死の定義はほとんど変更しない、つまり移植場面以外は従来どおりの扱いをする、そして救急医が行っております脳死判定は従来どおりやっていただくことにするが、しかしそれによって死の宣告はしない。つまり、脳死判定拒否権ではなくて、脳死判定はやりましても、これは一応のものであって、それは死を宣告するためのものではないということだけをはっきりさせておく必要がある。そうしませんと、救急現場は混乱すると思いますので、脳死判定は従来どおりやっていただいて結構でありますけれども、そのことによって死亡宣告をしないということさえはっきりしておれば従来どおりの現場で足りると思います。  問題は、移植場面についてはそれではやはり足りないのであって、死の宣告をした上で死体から臓器提供するという体制をとらなければぐあいが悪いということであれば、やむなくそれを脳死体として扱うということにならざるを得ないのではないか。そのあたりのところを国民にわかりやすく説明できる論理をぜひお考えいただきたいと思っております。  それから、幾つかまだ問題がありますのは、例えば附則十一条というのがございまして、これは今回の修正案にもついております。この附則十一条といいますのは、本来、中山案脳死を一般に人の死とするという前提で出発しましたので、それに従わない家族については強制することはできないということから、やむなく脳死後もしばらく治療費は保険で扱いましょうという形でつくられたものであります。しかし、今回の修正案のように、一般の救急医療の場合には脳死を死として認めないでそのまま脳死判定はするけれども死亡宣告をしないのであれば、わざわざ附則は要らないということになります。したがって、附則十一条は余分な規定になるだろうというふうに思いますので、この点もひとつ御配慮いただきたいと思います。  ともあれ、大変苦心された修正案で敬意を表しますけれども、なお、先ほど言いましたように、一般の救急、移植現場以外の場面でこの法案の適用がどういうふうな効果を発生するかということを、医療現場の方たち合意が得られるようなものにしていただきたい。そして、今、移植医先生もおっしゃったのですが、移植の現場にもこれが妥当するような、そういうふうな形で処理願いたいと思います。  それからもう一点。最近外国でも、一たんは脳死を人の死とするという形でアメリカでもドイツでも進んできましたけれども、ドイツの新しい立法では緑の党などはやはり脳死を人の死とすべきではないという立場からの提案をしているようでありますし、決して日本だけがこういうふうに混乱する中で議論しているわけではございません。それから、アメリカでも、最近はやはり移植以外の場面では脳死を人の死とするような必要は果たしてあるのかということを議論する向きもございますので、この種の立法日本で本当に異例のものであるとは必ずしも言えなくなってきているということを申し上げたい。  それから最後に、ドナーカードの問題があります。今回の法案は、本人意思に限定いたしますし、かなり厳しい条件がつきますから、すぐにドナーがあらわれるという見込みは非常に薄いと考えられております。したがって、この要件を守るのであれば、ドナーカードの普及という点もぜひ国を挙げて議論をしておかないと、法案は通ってもドナーは確保できないという状況が必ず生まれるだろうと思いますので、その点もあえて。オランダがその点で参考になると思います。オランダは全国民ドナーカードの登録制をしくという法案を今つくっておりますので、そういう点も参考になるのではないかと思います。  以上です。
  438. 関根則之

    ○団長(関根則之君) どうもありがとうございました。  次に、金沢大学法学部教授深谷松男君、お願いいたします。
  439. 深谷松男

    公述人(深谷松男君) 私は、民法を専門にいたしておりまして、この臓器移植法案の問題が出ましてからも特に脳死の問題のところを中心に日ごろ考えていたことを申し上げたいと思います。  人の死というのは、いわば権利主体性、法的主体性あるいは人権の主体性と言ってもよろしゅうございますが、人の死によってそれが終わる。民法で言うと、さらにそこから相続の問題も起こってくるということでありますので、特に脳の死をもって人の死とするという問題のところを中心に申し上げ、時間が許されれば、今回の法案についての若干の問題点にも触れたいと思います。  脳死状態ということは、循環と呼吸の機能が極めて弱くなりあるいは失われて、人工呼吸器などによってそれらの機能が補完されている状態という意味では、従来のいわゆる三徴候による死という状態であると見ることができる。ただ、それが従来の三徴候説によって確認することができないというところに問題があって、その結果は、いわゆる三徴候の底にあるところの脳の死を問題とする、こういうふうになってきたものと理解しております。  ただ、この場合は、従来の三徴候による死という場合と違って、人の死ということと死の判定ということ、そしてさらには死の受容ということ、従来ですとそれが一体的に受けとめられるわけですけれども、これを分けて考えなければならない。このことは、実は三徴候死の場合だって分けて考えなきゃならない問題であったわけです。  そういった分けて考えるとして、まず人の死のことでありますけれども、死の法的概念と申しましょうか、法的効果を伴うものとしての人の死の概念というのは、これは一元的に決まらなければならない。二つの死を認めるというわけにはいかない。このことは実は、今日のいわゆる近代法が確立されたこの社会においては、すべての人にひとしく法的主体性が認められるということとかかわり合うことでございまして、法的主体性を失うのもひとしく同じ死によるのだという、その上に立って法的には一つの死というふうに考えなければならぬということであります。  同時に、それは死の要件が客観的なもので組み立てられていなければならないし、また、それは法的には少なくとも一時点でとらえられるようになっていなければならない。生物学的には徐々にすべてが死滅するまでの経過の中で見ることでしょうけれども、一時点でとらえるということもそこから出てくる。そうすると、そこで、通常私たち社会では、人の生物学的個体としての死をもって法的な意味での人の死とするという、これが実は明記されたものはありませんけれども確立されている法原理と、そう言ってよいと思います。そして、従来の三徴候死というのはそれを判定する側面のものであったのだと私は理解しております。  そういった場合に、私は実は法案を地方におりまして一部見ていないところもございますけれども、いわゆる死体ではなくて脳死状態の者の身体から臓器摘出をするのだという考え方は、実は今申しました点からいうと、人というものを生きているのか死んでいるのかを問わないで、ということは実は生きておると見るほかない状態のもとで、そこから生きている人には許されない臓器摘出をするということは、生きている人の権利主体性を一般の人と全面的に同じに扱うという扱い方ではない。ある意味で言うと、生きている人の存在価値に格差を認めるという可能性を持ってくる。そういう意味で、従来から考えている人の死という観点から見た場合、あるいは人の法的主体性というところから見た場合に、これはちょっと受け入れるわけにいかないのではないかと考えております。  ともかく、人の死をそのように見てくるときに、生物学的個体としての人の死をどこの点をとって考えるか。それを脳の死で考える。この点はもう脳幹を含む全脳のすべての機能が不可逆的に失われた場合をもって死とする。これは、医学的、生物学的な説明はもとよりのこと、少なくとも個人としての人間存在というものが脳によって最も大きく規定されていることを考えると、こういったことはやはり今日の社会における人の死の概念規定の中で最も大事なものを含んでいると理解いたします。  そして、人の死が脳の死であるとした場合に、その死の判定は、先ほど申しましたように三徴候による判定と、いわゆる脳死判定基準による判定というものとの二つがある。だから、この二つがあるということは、二つの死を認めることではなくて、判定方法二つあると、私はそういうふうに理解しております。  脳死判定基準についていろいろ申し上げたい点がありますけれども、今日、脳死問題をめぐって国民の間に意見の大きな分裂が生じているのは、脳死判定に対する信頼の問題です。したがって、確実でかつ安全な基準と指針を立てること、このことを特に今回の立法に当たっては最も重大なことと考えていただきたいと思います。  さて、そこで出てまいりますのは、そのような特に脳死状態の場合に、脳死判定基準と指針に基づいて判定をする、それに対する拒否はできないのかと。中山公述人の御意見の中にも出てまいりましたが、私も最近これを考えておりましたので、ダブるところがあるかもしれませんが申し上げさせていただきます。  この問題は、私はまず二つに分けて見るべきだろうと思います。一つは、脳の死を人の死と認めないところから拒否するということなのか、それとも脳死判定作業を進めることだけについての拒否なのかという問題として考える、二つに分けて考えてみる必要があるのではないか。  脳の死を人の死と認めないという意味での拒否という場合。この場合は、人の死の法的概念は先ほど申しましたように客観的概念でなければなりませんから、死というものを個人の意思にかからせるという仕方の制度をつくるということになりまして、これは法的にはかなり重大なものであり法的不安定を生じさせるということ、これは法律学者としてやっぱり申し上げておかなければならないと思います。  それから二番目に、脳死判定作業を進めることについての拒絶なのだとした場合。これは特定の医療行為について拒否をする場合と同様の、それと同じような次元の問題でありまして、医療上の個別的な配慮の可能な枠内の問題として位置づけ、検討することができるのではないか。その場合には、いわゆる脳死判定作業開始の拒否という意味であるとすれば、それは最終的には心臓拍動の停止による死亡と判定される場合も出てくるでしょうし、個々のケース・バイ・ケースの問題になるだろうと思うのです。  ここに来て考えられることは、脳死判定基準あるいはその進め方等についての指針というものが国民的な合意に至っていないとして、これは案外合意されていると言われていますけれども私はむしろそこが十分納得いかないことがこの問題の発端だろうと思いますのでこのように申し上げるわけですが、そうした場合に、むしろそのことを考えると、移植による治療のための臓器提供意思を明確にしている場合にのみ脳死判定の作業に入るとすれば、脳死判定作業の開始を拒否するという問題は回避できる、こう考えます。臓器移植の現場をめぐって起こる混乱を避けるためであります。  これは、人の死を客観的に脳の死として、その判定には伝統的な三徴候説脳死判定基準による判定とがあるとして、そして脳死判定基準による人の死の判定臓器移植の場合に限定して用いるというそういう立法だ、こういうことになろうかと思います。  実は、これは衆議院で可決されました原案においても、その第六条を見ましてもどうもここまで解釈的にも含んでいるのではないかとも読めないではない。つまり、ここではすべての脳死判定を言っているのではなくて、一項から二項、三項と読んでいくと、臓器移植の場合について脳死体の判定を厚生省令で定める基準によって行う、こういうふうに読めるようにも書いてあるので、今申しましたような脳死判定作業拒絶に対する対応を考慮した新しい修正の仕方というのは、この第六条からそう遠い距離にある修正の仕方ではないと私は理解いたしました。  また同時に、この第六条はすべての脳死判定医師に義務づけるというふうにはなっていない。この点が実は、この原案といいますか衆議院を通った案のある意味での弱みでありますけれども、そして若干の混乱を生じさせるところでありますけれども、そういうところから今言ったような解決策があるのではないか。  ただし、私が申し上げたいのはその次の点であります。  このような立法を考えた場合に、つまり脳死に対する拒否権という問題を脳死判定作業開始の拒否だというふうにとらえて今のような修正を施すとした場合に、むしろ別の不合理性が出てくる、法的紛争発生の危険がないかという問題であります。  例えば、子供のない夫婦がおるとします。その両方ともが脳死状態になったといたしましょう。そして、一方は書面によって臓器提供意思を明らかにしている。その場合に、例えば妻が脳死提供意思を明らかにしていた、夫はしていない。妻について臓器移植問題ということで脳死判定による死亡の判定がなされる。夫の方はそれから数日なりして心臓の停止に至る。そうすると、妻が先に死亡したことになり、夫は後で死亡したことになります。  子供がありませんから、妻が死亡したときの相続分は、法定相続分でいきますと妻の夫が三分の二、そして妻の残された母親が三分の一。その後で夫が死亡しますから、夫の相続については、夫の後に残された母親が夫が妻から相続した分も含めてすべて相続する。そういう意味では、両方同じく相続財産を一としますと、夫の母親は一と三分の二となりますし、妻の母親はただ三分の一と、こういう違いが出てまいります。明らかに善意を持って臓器提供意思を表明していた者の血族の方が不利な状態に追い込まれる。この問題を解決しないと、やはり法的不公平という問題を越えられないのではないか。  私が、脳の死は人の死であるというところにとどまって取り組むほかはないと思っているのは、こういった幾つかの法的な矛盾が出てくることを憂えるからでございます。  最後に、結びとして少しまとめて申し上げて終わりにしたいと思いますが、脳死体からの臓器摘出による移植治療においては、脳の死を人の死と認めることを基本とすること。その点では衆議院を通りました原案は基本的に支持できるものを持っています。ただし、この場合には脳死体を死体とするという間接的方法である点で必ずしも十分とは言えません。つまり、死の定義が一般的に明確になされているわけではありませんので、その結果は恐らく、死にかかわるような法律が全部で六百何十とございますが、それらを通して解釈運用の上でのいろいろな問題が今後出てくるだろう。これはある程度解釈で補っていくとして、将来何らかの立法が求められるだろうと思われます。  ともかく、そのようにして脳の死を人の死と認めるという基本の上に立って、臓器移植法立法に当たっては、脳死判定作業拒否について、いわば次善的な前進として、先ほど申しましたような臓器移植の場合に限定するということが可能であろうか。ただし他方で、それよりもむしろ脳死判定基準と指針について厳密な徹底した国民的論議を集中した上で進める方がよいのか、ここは政策論的選択の問題だろうと思います。これは議員の皆様にぜひこの点を十分に考えてほしいと私の願うところでございます。  その他、提供者の年齢の問題とか、あるいはインフォームド・コンセントの問題とか、遺族の範囲の問題とか、幾つかございますが、時間が参りましたので、これだけにいたします。
  440. 関根則之

    ○団長(関根則之君) どうもありがとうございました。  次に、ノンフィクション作家の向井承子君にお願いします。
  441. 向井承子

    公述人(向井承子君) 向井でございます。  本日は、私の公述の機会をお与えいただきまして、どうもありがとうございます。  私、物書きをしておりますので、私に関する自己紹介から始めさせていただきます。これは、本日ここでお話をさせていただく意味につながると思います。  一つは、私自身、突然の腹腔内の二千六百ccの出血によって意識低下いたしまして、ほとんど瀕死と言われる状況を体験しております。ICUで救命されまして今日あります。私自身が瀕死の体験を持ったということ。それから家族の中では息子が慢性的に腎臓を病みまして、その息子が、同じ人間ですが、事故でクモ膜下出血に遭遇いたしまして、ここもまた救急治療によって命を得ております。それからまた、家族の中には病状の進行に伴い脳死宣告を受けた人間もおりますし、そのプロセスで家族による治療停止の選択を要求された体験もございます。痴呆を伴う虚弱老人あるいは寝たきり老人のみとりの体験の中で、終末期医療あり方等を日常的に考える時間を過ごしながら、この臓器移植問題というものを考えてまいりました。  そして、普通の暮らしに何げなく浸透する高度医療と死や病という生活文化とのかかわりの亀裂を味わいながら、医療によりいたずらに延命を強いられることも、反面、社会や経済上の理由から治療停止を強いられることがあってはならないと自問自答を続けてまいりました。それが私の執筆活動、社会活動の原点になっております。この二十年、そういうことで医療中心とするテーマを取材してまいりました。  私の関心は、主として医療技術の発展、経済、制度の変化といや応なく向き合うことになった人々の暮らしの内容にあります。医療技術の内容については、素人はなかなかわかりようもございません。難しい制度の内容についてもなかなかわかりようがありませんが、私が向き合って等身大で眺めているその人間の心の内側はのぞくことができるつもりでございます。そして、脳死臓器移植のような先端医療を早くから受容した国々の暮らしの現在にも興味を持って、幾度か医療現場を取材また見学させていただいております。  それから、もう一つの私の立場は、この間、北里大学の医学部病院倫理委員会委員として参加をして六年目でございます。本日の課題の内容にかかわるのですけれども、北里大学の倫理委員会では、脳死臓器移植に関する見解を足かけ五年目になんなんとする時間をかけて作成しておりまして、実は現在もなお時間をかけてより具体的なガイドラインにするための作業を続けております。  日本にはこのような倫理委員会は例がないのではないかとよく言われますけれども、私のような一般市民の立場患者立場の者の参加もありながら、医師だけではなくコメディカルスタッフ、学外からは哲学、宗教、法律などさまざまな分野の方たちが参加されまして、そして医療施設の魂の軸をつくる、その施設の生命倫理の核を育てる作業と同時に、その提言が臨床現場で本当に実現され得る具体性を持ち得るのかということを、常に現場と向き合いながらの共同作業をさせていただいてまいりました。  この見解につきまして新聞紙上で一部報道されましたものですから、例えば脳死判定拒否権のこととか非常に簡単に結びつきかねないと私は危惧しておりますので、一部読ませていただきます。これはまだ作成途上でございますので、全面公開ということではございませんので、私の判断によりまして一部読ませていただきます。これは本当に一部でございますが、脳死に対する私どもの見解の根本の部分です。   脳死患者からの臓器移植は、不幸にも治療の継続を諦めざるを得ない臓器提供患者の存在がなければ成立しない特殊な医療としての側面をもつ。それに加え、この移植治療はさまざまな社会的・倫理的問題をはらんでいる。それらは、すでに述べた脳死患者臓器提供についての意思の確認と、家族からのその件についての同意の問題、さらに、臓器配分の社会的公正性、臓器提供意思ある者の確保、脳死患者臓器受容患者のプライバシーの保護、臓器売買の禁止の問題などである。この医療の実施は社会的合意に基づくことが必要であり、臓器移植法の制定などもその努力の現われの一つである。当倫理委員会が、脳死患者からの臓器移植を肯定するあるいは否定する多くの学内外の有識者の意見や論拠を参考として、長時間の研究と討議を重ねたのも、この治療法の根底にある問題を深く理解することに務め、安易な結論に陥ることを戒めたからに他ならない。  つまり、安易な結論に陥らないために長時間の研究と討議された時間を申し上げますと、五年ということは、月一回二時間ですから十二カ月で百二十時間、大変長時間ということになります。それでなおかつ結論に至っておりませんのは、法律の文言を立法府で安易に決めることは可能かもしれませんけれども、臨床現場で実効性を持たないものは何ら意味がないというふうに私どもは考えたからでございます。  という立場から、そのような体験を踏まえましてこの作業をしておりますさなかに、臓器移植法案が九四年の四月に提出された。その際に、法案内容に問題を感じましたし、また審議あり方にも問題を感じましたので、市民活動として臓器移植の性急な立法化に反対する連絡会を設立し、そしてさまざまな専門家の方やまた普通の市民の方たちの声に支えられながら、脳死を人の死とする性急な立法化に対して疑問を提示し続けてまいりました。  私の現在の立場を申し上げますと、脳死を人の死と性急に立法化することには反対でございます。しかし、現在の最高の倫理的、技術的水準による脳死判定から臓器提供に至る手続が、限りなく厳重な性格を持ってメディカルプロフェッションにより用意され、社会の納得を受けながら移植に道を開く方法は試行されなければならないのではないかと考えております。  それから、修正案の提出につきましては、私のような市民の立場の者にとりましては、新聞報道だけを論拠に物を言うということは全く理解ができないわけでございます。きのうの委員会審議を私はビデオで少々見せていただきましたけれども、まだ提案される前に双方の意見を、影武者というのか幽霊というのか、幽霊の存在を問い合っているような隔靴掻痒の論議というのは国民を愚弄したものであると私は思います。立法府のこのような性急な審議と、もうこれは裏取引としか言いようのない国民にはそのように見える方法によって行われることに対して、私は不信感を表明させていただきたいと思います。  さて、それでは私が各国の取材をしてまいりました中で、アメリカ状態を、移植先進国が今どのような状態に陥っているのかということを、素朴な取材者、患者としての取材者の立場からお話しさせていただきたいと思います。  アメリカはたくさんのドキュメンタリーが臓器移植に関して出ておりまして、例えばもう古典的と言われてしまいましたがマーク・ダウィの著作、「ドキュメント・臓器移植」という書物があります。これは主にアメリカを舞台に臓器移植の歴史、立法化の経緯、生命倫理考え方の推移、移植産業の実態、政治家やメディアによる世論操作の様子などを驚くほど具体的に繊細にわたりつづった記録でございます。これは冒頭、書物は「例によって、この場合も悲劇から始まった」と書き出されております。十五歳の少年がローラースケートで転倒して、大量の硬膜外血腫で脳が浮腫に陥っていくプロセスから書き出されております。この本の説明をしている時間はありませんが、これと同等以上の繊細で具体的なまさに執拗なほどの取材に基づいたこの手の本というのはたくさん出ております。  私は取材者の立場から見ますと、このような出版物が出版されるということは、まず情報公開が徹底していること、これは政治、行政、医療機関、そのすべてに情報公開が徹底しているということ、そしてそれによって育ってきた読み手のまなざしが非常に成熟したものとなっていること、対等な医療患者立法過程への好奇心があるということ、そういうことからこういう出版物が出るのではないかと思っております。  そして、アメリカではペンシルベニア、バージニア、インディアナ州などを取材いたしましたけれども、これはピッツバーグ大学の本拠ということでございます。  まず驚くのは、大変臓器不足の現状でございます。もちろんその前に驚きましたのは、ピッツバーグ大学メディカルセンターで、移植によって大変元気になった方たちに何人もお会いいたしまして、これはもう非常に私にはショックでございました。それで、お子さんを連れてきている方もいらっしゃいましたし、またさらに驚きましたのは、コメディカルスタッフの方たちの質と量の全く日本とは雲泥の差のその状況でございました。  余談ですが、私はピッツバーグ大学に頭から申し込みまして、これを今お手元の資料にちょっと書いてございますが、ただのフリーのジャーナリストということで申し込んで、病院じゅうをすべて見せてくれました。これは自信のあらわれかと思います。そのときに、スターズル教授に会いますかと言われまして、私、結構ですと申し上げました。それから、ついでに藤堂先生に会いますかと言われてのぞいてみましたけれども、実はそのときに広報課の方に、あなたのようなジャーナリストは日本から取材に来ませんでしたと言われました。どういう意味かと申しますと、スターズルさんに会いたい、藤堂先生に会いたいという方が多くて、コメディカルスタッフの悩み、喜び、患者とのかかわり合い、また移植を待つ方たちの苦しみを取材に来られた方は少ないと、そういうふうに言われました。  次いで、そこから臓器不足の現状というものに突き当たりました。  先般、衆議院参考人になられた山口先生もおっしゃられていましたけれども、臓器移植を待つ人は非常に増加しております。これは臓器移植という医療の持つ矛盾なのですけれども、私どもの最初の常識といいますのは免疫抑制剤等のまだ未成熟なこともあって大変移植の後の予後がよくないという情報を手にしていたわけですけれども、実際これは現在はQOLにまた大変いいものではないかというふうに思いました。ところがこの矛盾が、移植成功率が高まることによって移植を求める人が増加する。それから一方、車のシートベルト、オートバイのヘルメットの着用、交通安全対策が進み、銃犯罪が減っていくということで臓器提供者が減少している。これは非常に国民にとっての福利がお互いに衝突し合って重大な葛藤を招いているという現代の象徴です。一人一人の欲望、お互いの幸福を願うという行為が恐ろしい葛藤に突き当たっているわけです。  それで、ペンシルベニア州の臓器獲得センターを訪れたのですが、そこの職員からいただいた地域の人への教育啓発資料には、「一年間に一万人から一万五千人の人々が医学的に臓器提供者にふさわしい状態で亡くなるのに、臓器提供は四千八百人しかいない」と記されていました。また、このようにアメリカの資料は実に具体的で詳しいものですから、その意味では実情がわかりやすいのですが、次のようにも書かれておりました。「提供される臓器は、おおむねシビアな頭部の傷害の結果、脳死宣告された人たちからのものです」として、その原因としてはっきりと「自動車事故、脳出血、銃の事故」等々と続いております。  私は、どれも人生の不幸というもので、むしろ不幸の原因となる交通安全対策、内科的治療、犯罪対策、生活環境の改善等が重要だと思うのですが、それを飛び越えてその臓器獲得センターの資料は臓器資源の減少が社会問題ということになっているところに、不幸が期待される社会の精神的荒廃の現状を見る思いがいたしました。  このような需要と供給のアンバランスに対して非常に激しい議論が行われてまいりまして、それを踏まえた立法が繰り返されてきたのも特徴のようです。  私が行きましたあらゆるところにリクワイアド・リクエスト法、これはどのように訳すのかは後から法学者の先生たちにフォローしていただきたいと思いますが、私は臓器・組織依頼義務化法というふうに訳させていただきましたけれども、この内容は、脳死判定を受けた患者臓器提供にふさわしいと判断された場合には、近親者に臓器提供を依頼することを病院の職員に義務づける法です。行財政当局が病院に対してメディケアの医療費還付の必要条件として臓器提供依頼を義務づけ、支払いを停止するという制裁を伴う連邦法で、現在、二十六州とワシントンDCがこの法に応じた各種の規則と政策を採用、その法律のもとに病院認可法の改定が行われ、臓器提供しない病院は移植病院として認可、再認可しないという方法も公共政策としてとられております。  そして、このような法律策定は、これは大変私は興味深かったのですが、その前提臓器提供の依頼があれば家族は断らないだろうという暗黙の了解がなければできないわけですが、見事に失敗でした。一九九三年のギャロップの調査によりますと、「臓器提供移植に対する米国民の意識——臓器提供への協力に関する調査」というのがありまして、米国人の九五%が移植について知識があり、七五%が死後に臓器提供したいと考えていると出ております。数字だけを見ると家族は喜んで提供するはずだとの確信につながるのですが、政策が臨床現場の経験的な思考判断よりも、むしろある意味では専門家による理論重視社会として採用されてきた結果の失敗だと思います。  実際、臨床現場で臓器提供の要請は行われなかったということで、私は移植の殿堂と言われるピッツバーグ大学メディカルセンターやその周辺の臓器獲得組織を訪ねているのですけれども、ピッツバーク大学も含めて一九九一年から九二年にかけて一万六百八十二人のカルテを検討、臓器提供を依頼した専門家にインタビューを行った論文を見ましたけれども、これは大変大がかりな研究報告です。死亡者の一六・五%は移植に適するドナー候補とみなされ、病院側はその七三%に臓器提供を依頼したのですが、その結果、同意は四六・五%、つまり過半数は拒絶の意思を示したわけです。これは家族のためらいが理由と言われております。また、病院職員が家族のためらいを押しても提供を要請するということをためらうことです。そして、家族の拒否率は次第に高まっていると言います。  私はUNOSの職員の人、それからペンシルバニア州の臓器獲得センターの方たちにお会いして、また壁に張っているものを見、各種の論文等資料をいただいて、十項目ほどの愚痴といえば愚痴、あるいは言いわけということもしていましたけれども、時間がないのですがこれだけちょっと読み上げさせていただきたいと思います。  第一番目、体が傷つけられることへの不快感。葬式に耐えられないほどの傷をつけられる。これはUNOSは盛んに抵抗しておりました。それから第二番目、臓器を金で提供したと思われたくない。第三番目、臓器を一つだけなら提供したいのに、勝手に全部取られてしまう。第四番目、臓器提供すると金がかかるという誤解。脳死判定から臓器摘出までの諸経費をだれが支払うのかわからない。第五番目、医師に対する不信——ドナーカードを持っていると、医師は救命をしないに決まっている。第六番目、臓器提供するとレシピエント家族を訪ねたりして家族を悲しませるに違いない。第七番目、宗教的な理由、これははっきりしております。第八番目、提供できる臓器の種類への無知のため自分はできないと思い込んでいる。第九番目、金持ちだけが移植を受けられる。これに関してUNOSは、病院は財政援助のシステムがあるのでなぜ相談しないのだろうかと、コーディネーターの力量不足として言っておりました。  その他いろいろあるのですけれども、ここで飛び出している言葉が、壁に張っているのがすべて教育啓蒙、教育啓蒙ということになっておりました。生命の獲得が余りに強調されると気持ちが悪いものですけれども、脳死を容認してそれに依存する技術を日常化すると、そのような倫理の倒錯が起きてしまうのではないかなと思います。そして、リクワイアド・リクエスト法に基づいて臓器獲得努力義務が掲げられているにもかかわらず、UNOSのデータによりますと、アメリカ臓器提供数は横ばい、そしてことしにかけては減っております。  ということで、それでは何が行われるかということなのですが、今アメリカでは次の傾向が出ております。心停止後の患者からの臓器提供を考える。三徴候死に戻ろう。そして、これも脳死判定への疑問という極めて高度の科学技術的な理由と、もう一つはその方がたくさん臓器が取れるだろうという功利主義的なもの、科学と功利主義的なものと、あとは文化的なもの、不信感、こういうもののすべての総合によって脳死概念を捨てようということが今出ております。
  442. 関根則之

    ○団長(関根則之君) 向井公述人に申し上げます。そろそろお時間でございますので、おまとめをいだたきたいと思います。
  443. 向井承子

    公述人(向井承子君) まとめを申し上げます。  そういうことで、現在、私が参加しておりました北里大学のガイドラインで何を言っているかといいますと、このようなことに陥らないために、脳死患者からの臓器移植に当たってドナーカードの普及をするとか、単純にこれは法制化するということではなくて、その内容臓器提供する者の意思を限りなく実現し得るために意思決定に同意を与える者を指名できるものでなければいけないということを将来の課題としております。そしてこれは、脳死移植に限ることではなくて、末期治療のあり方全体にかかわる、結論的には高度先端医療と向き合う時代の終末期の医療あり方というものと大きくかかわってくるのではないかと思いますし、またメディカルプロフェッションというものが、片仮名でしか訳せませんけれども、日本にはこれに匹敵する概念がありませんが、それがモデルを提示して社会がこれを受容できるかどうか、その作業を続けながら、医学界の責任においてこれであれば違法性が問われないとの確信できる移植を行う方が望ましいと考えております。  それでは、性急な立法化に問題を残すことだけは慎んでいただきたいとお願い申し上げます。
  444. 関根則之

    ○団長(関根則之君) ありがとうございました。  次に、肝臓移植者の黒田珠美君、お願いをいたします。
  445. 黒田珠美

    公述人(黒田珠美君) 御紹介にあずかりました福井県から参りました黒田珠美と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします。  私は、一九七一年十二月十八日に胆道閉鎖症という約一万人に一人という病気を持って生まれまして、生後二カ月で手術を受けました。その後は異常なく成人にまで至ったのですが、二十一歳になったとき肝硬変と診断され、肝臓移植手術を受けるためオーストラリアに向かいました。肝硬変がまだ初期の段階で主治医が移植を勧めてくださったため、体力的にも精神的にも余裕を持って行くことができたのは大変幸せなことでした。  胆道閉鎖症の子供を守る会の中で、元気印の目標でもあり、「希望の星」と言われていた私がまさか移植をしなければならなくなるとは夢にも思いませんでした。  今から四年前の九三年二月に私はオーストラリアに行き、八カ月後の十月二十三日にブリスベーンのプリンセス・アレキサンドラ・ホスピタルで肝臓移植を受けました。その手術は九時間に及ぶ大手術でした。  術後二日目に麻酔から覚めたとき、まだ人工呼吸器をつけてたくさんのドレーンが体じゅうについているのにもかかわらず、私は自分の体がとても軽くなり、大きなエネルギーがわいてきて、生まれ変わったような気分になって、目の前がとても明るく感じました。私はそのときの気持ちを今でもはっきりと覚えています。また、両親は、二十四時間後に目覚めた私がわずか一日でつめの色がピンク色に変わり、体のむくみがとれて、手を強く握り返したことに大変驚いたそうです。  そして、移植を機に私は本当に人生が変わりました。肝臓移植を受ける前はまだ自覚症状は出ていないと思っていたのですが、術後の回復とともにどんどん体が楽になって疲れにくくなっていくのがわかりました。そのおかげで、とても明るく積極的になり、自分に自信が持てるようになりました。すべてのことを前向きに考えるようになったのも私にとって大きな変化でした。  オーストラリア肝臓移植手術外国人にも広く門戸をあけて受け入れております。オーストラリア肝臓移植に世界じゅうから来る患者の七〇%が日本人と言われ、約百名近くの日本人が新しい命の贈り物を受け取っています。最高年齢の日本人は六十五歳の方ですが、生まれ変わり、生き生きと生活を楽しんでおられます。最近では、ほとんどの方が大人の患者になっているようです。  このように、いつまでも外国移植を頼り続けてよいのでしょうか。私は、肝臓移植が必要とわかったときは既に成人しており、生体移植は初めから無理でした。病院で先生の指導を受けながら、両親と相談の上、オーストラリアに行くことを決めましたが、不安はあったものの、またもとのようにスポーツなどもできるようになるならと私は決断いたしました。  しかし、オーストラリアに着いてからはそんな不安は一遍に飛んでしまいました。なぜなら、オーストラリアでは肝臓移植はごく普通の医療として受け入れられ、定着していたからです。毎週二、三人の移植手術が行われ、現地の方々手術跡を見せながらうれしそうに退院していくのです。ドナーカードも、提供者になるなら自動車運転免許証にイエスのYの字が記され、現地新聞のアンケートでも、ドナーカードが広く普及していることがわかりました。また、日本人移植手術が休日に行われ血液が不足したときも、テレビの呼びかけに多くの人が駆けつけてくれました。  現在、オーストラリア移植チームの先生方は、御自分たち手術をされた患者のケアのために一年に二回来日され、私たちはクリニックを受けております。このときの費用は無料となります。もちろん、日本の病院の御協力があってこそできることですが。さらに、オーストラリア・ブリスベーンの移植チームには研修中のドクターが常時数名おりますし、日本人患者のための日本人女性のコーディネーターも常駐しております。オーストラリアの御好意には本当に頭が下がる思いでいっぱいです。  私は、オーストラリア善意によって、日本人の胆道閉鎖症の成人患者として初めてプリンセス・アレキサンドラ・ホスピタルで新しい命の贈り物を受け取りました。オーストラリアの病院では私たち本人患者を快く迎えてくれて、国籍を越えた大変温かい看護を受けました。  しかし、外国での待機生活は言葉や生活習慣の違いから来るストレスやプレッシャーに押しつぶされる毎日であり、何よりもいつになるかわからない手術を待つストレスは大変なものでした。  また、海外での移植は経済的にも大きな負担がかかりました。外国での移植手術は特別裕福な者だけが受けられると言う人もおりますが、実際はそんなものではありません。私の父も普通のサラリーマンの一人であり、父、母が何十年も働いたお金のすべてを私の肝臓移植に費やしてくれましたし、ある人は募金で、ある人は借金をして、多くの方々の応援でとうとい命を救うために一縷の望みを託して行っているのが現状です。  私は、そのかいあって、翌年二月には元気に帰国し、その一年後には結婚することができました。そして、さらに私にも子供を持つという移植前には考えられなかったことができました。  昨年の十一月二十八日、肝臓移植者として国内で初めて元気な男の子を出産いたしました。子供は二千六百三十四グラムで生まれ、私が飲んでいる免疫抑制剤の影響もなく、すくすくと育ち、今では九キロ余りにもなりました。  肝臓移植を受けて三年、もし移植をしていなかったら、女性としての最高の幸せを味わうこともなく、今では病院で寝たきりか、もしかしたらもうこの世にいなかったかもしれません。  贈られた命から新しい命へのバトンタッチができ、ドナーの方へ少しは恩返しができたのではないでしょうか。子供の名前は豪州にちなんで「正豪」と名づけました。出産したとき、移植を受けてよかったと改めて感じました。  臓器移植をまだよく理解されていない方々の中には、移植を受けても普通の生活には戻れないなどと言われる方もおりますが、私だけでなく、私と同時期に移植され既に結婚をされた方もおりますし、多くの方が手術などなかったかのように元気に生活されています。私は運よく手術後に知り合った主人と結婚ができ、現在はごく平凡ながら家事と育児を楽しみ、週に一度のエアロビクスに通うなど、人一倍元気に家族三人幸せに暮らしています。  そして、私はこれからも、私を応援してくださった方々ドナーの方のお気持ちを忘れることなく、この贈られた命を大切にして、人生を有意義に楽しく生きていきたいと思います。  そして、ちょっとここで私の息子を紹介させていただきたいと思います。こちらがただいま話の中で御紹介させていただきました正豪と申します。  肝移植者として国内で初めてということだったのですが、いろいろ先生方にも御心配いただいて、私自身もどうなるか多少不安はあったのですけれども、妊娠中にも全く本当に、健康な普通の方よりももっともっと元気に、妊娠中一度もトラブルがなく、人一倍元気なちょっとやんちゃで困るぐらいの子で、免疫抑制剤の影響も先生にはかっていただいたのですがもうはかれないぐらい微量でありまして、本当に全くすべて健康な子供です。  どうもありがとうございました。
  446. 関根則之

    ○団長(関根則之君) どうもありがとうございました。  それでは、次に牧師の岸本和世君からお願いを申し上げます。
  447. 岸本和世

    公述人(岸本和世君) 私は、日本基督教団札幌北光教会という教会の牧師をしておりますが、三十過ぎにアメリカのエール大学に留学しまして、主にこの大学の神学部というのはキリスト教倫理中心にしている伝統がありまして、そこで倫理を学びました。そして、今からちょうど二十年前ですけれども、生命倫理の問題を勉強することになりました。  医学については全く無知でありますけれども、生命倫理と申しますのは未来予測的倫理と言えるかと思います。最近、私は「生命倫理の指標としてのクローン」という論文を書いたんですが、最近のクローン問題、そういうものが何をもたらすかということを考える中で現在というものがとらえられ、私たちの課題がそこで明らかになる、そういうふうに思っております。  そういう意味で、生命倫理を学んできておりますが、今回の法案に対しては基本的に反対であります。この法案といってもどれになるのか私自身もわからないので大変言い方が難しいんですけれども、一応、ですから基本的にというふうに申し上げておきます。  私は、臓器移植そのもの反対ではありません。移植を必要とする多くの人々の切実な願いを真剣に受けとめたいと思っています。しかし、今私たちが直面している問題は、移植についてであるよりは脳死に関してであって、脳死を人の死とするか否かを法律によって規定しようとしていることの可否の問題だと理解しています。そして、私はそうすることに疑義を持っています。  私は、法律専門家ではありませんので、人の死が法律でどのように規定されているかをはっきりとは知りません。ただ、いわゆる三徴候によって医師が死亡宣告をしたその時点で医学的、法律的に死が確認されるものである、そういうふうに理解し、自分の家族の場合にもそのように受け取ってきました。死亡宣告の時点は点ということでしょうけれども、家族にとっては死とはある一つの点ではなくて一連の時間の経過の中で起こる出来事だと思います。  私の兄の死、今から五年前ですけれども、私はベッドのそばにおりました。モニターがついておりましたけれども、ちょっと横を向いてまたモニターをぱっと見たら、波がフラットになっておりましたので医師を呼んできました。そしたら、医師心臓をこう押さえることをやって、それから瞳孔を見て、そして時計を見て、時間を何時何分と死亡診断書に書き入れるわけです。しかし、私にとってはそれは兄の死ではありませんでした。それは医者がそう言ってくれたんですけれども、私にとっては兄の死をそういうふうには受け取ることはできませんでした。そのときの思いを今ここで詳しく申しませんけれども、点ではなくて出来事として受け取るのが私たち人間の死に対する感情だと思います。  そういう中で、今日の脳死判定あるいは脳死を死とすることが社会的な合意を得られるというふうに私は思っていません。それは不可能だと思います。たとえ自分の家族に、臓器移植を受けた人がいたとしても、あるいは提供できるという判断をした人がいたとしても、具体的にそこで何が起こるかということによって状況が変わってくると思います。  それを法律で決めて、例えば、多分さっきのリクワイアド・リクエスト法というのは死を判定することを要求しなければならないという法律のようですから、そういうようなものができてしまうと、これは本人意思家族意思ではなくて、もう法律に決まったこととしてやることになってしまいます。そういうものが社会的合意であるのかどうか、これは議員方々によく考えていただきたいことだと思います。  今回なされようとしている修正案、これはきょうの朝日新聞に出ておりまして比較されておりますけれども、この修正案では衆議院を通過した法案とは異なって脳死を一概に人の死とみなさないような表現になっていますけれども、それによって、かえって中山案と比較してあいまいさが目立ちます。  中山案では臓器移植の推進を目的としていましたから、脳死を人の死としてしまおうという案であったと理解しています。それと比べて修正案では、臓器移植の場合にのみ脳死法律的に死とみなすと読めます。移植が必要とされているけれども、脳死判定された人を死体としないとそれにかかわる人たち殺人罪になるからなのでしょう。脳死判定が目的の相違によって、何のためなのかで死体とみなされたり生体とみなされたりするなら、移植を受ける人々にとっても余りよい状況をもたらすとは思えません。  ここで、衆議院議員の栗本慎一郎さんが今月号の「正論」に「社会意味論へ」という文章を書いておられて、衆議院の採決のことを書いておられるので読んでおきます。   ところで衆議院では、脳死を人の死としなくとも、ということは脳死状態になった人はただただ「脳死状態の人として」、そのまま臓器を取り出せるという修正案も提出された。この修正案は賛成わずかに七十七票で否決されたが、実は最後最後までもっと多くの支持議員が予定されていた。ただし、もっと多くの支持者が予定されてはいたが、全体としては否決の見込みははっきりしていた。そうすると、修正案が否決された後に、原案であるところの結果的に可決された法案が採決される。その場合、ほとんどの修正案賛成派の議員が原案賛成に回る流れだった。そして修正なしの原案が可決されるだろう。そうすると、両案に賛成の議員は、脳死が人の死であってもなくても人の体から臓器を他人への移植のため摘出することに賛成するということになる。   つまりおそらくは百名近い議員が、脳死が人の死であろうとなかろうと臓器摘出移植に賛成だということになる。これは臓器移植中心にでなく、人の死をどこで見とるかを軸に考えると、まことにおかしいことになる。   私は、多くの議員に両案賛成は論理的におかしいと論じかけた。彼等は皆、一様に苦しんだ顔ながら、なかにこう答える者があった。「私は両方の案に賛成なのではない。修正案に賛成なのだ。けれども、修正案がひとたび否決されたという時点に立ったとすると、死の定義に問題はあるが実態として修正案と同じだから原案に賛成して臓器移植の道を開くしかない」というのだった。  こういう形で人の死が決まってしまうということはおかしいと思います。  それから、附則第二条に「この法律による臓器移植については、この法律の施行後五年を目途として、」とあります。いろいろなところで、移植法が成立したとしても提供者がふえるとは思えないと言われます。  移植先進国のアメリカでは、一九九三年の時点で、提供者の不足が深刻になったため、生命維持装置を外して提供者を増すようにしたピッツバーグ大学医療センター指針が出され、大きな議論を呼びました。この本が一冊それに費やされています。その前提として、脳死解釈を拡大する高次脳死生命中枢のある脳幹が生きていても主として人間の感情や認識機能をつかさどる大脳皮質が死ねば個人は死んだものとする、植物状態者は脳死者と同じとするということが堂々と論じられています。それから、これからの五年間の状況がこの法律の効果を生まないとしたら同じようなことが起こらないだろうか、このことを心配いたします。  むしろ、私は人工臓器の開発にもっともっと力を入れるべきだと思います。水野肇さんが同じ「正論」の中で、三百億から五百億の研究費と三年間の時間があれば人工臓器の開発ができるとある研究者が言ったと。これはちょっと甘いと思いますけれども、私は人工臓器の開発にもっと力を入れるべきだと思います。  それから、脳死判定は一九八五年の竹内基準によるわけですが、お配りした資料文春の七月号、柳田邦男氏の「蘇生限界点が確実に動いた 脳治療革命IV」にありますように、医療の現場は日進月歩で変化しています。だれがどのように判定するかで死なされたり生かされたりしてよいでしょうか。竹内基準を見直すことが不可欠です。  臓器移植の第二条第三項の適切さ、第四項の公平さは、だれがどのような基準でするのでしょうか。また、移植手術緊急性と適合性という点からも、少ない臓器医療資源をだれにという判断の問題をいつも持っています。それについてはどう考えられているのでしょうか。生命倫理の根本問題です。  第四条第二項に「家族に対し必要な説明を行い、その理解を得るよう努めなければならない。」とありますが、今日までの日本における医師のパターナリズムとそれに対して弱い立場にある患者側を考えると、インフォームド・コンセントが確立していない中でこのような程度の医師の責務では不公正や過ちが起きかねません。  それから、移植を必要とする人々に対する私たちの責務について、私は次の文章をクオリティー・オブ・ライフを意味する言葉として引用いたします。それを御理解いただきたいと思います。   人間らしい生の人間性とは、われわれが「愛」と呼ぶあの生—愛される生と愛する生—に対する関心に直接かかっている。人間は漫然と生きているのではない。その生を受容し、肯定し、愛によって活性化するほどに、人間人間的に生きている。この情熱的肯定において、人間はすべての感受性によって生きる幸せに対して開かれ、生きる喜びを経験する。しかし、無条件に情熱的に生を愛すれば愛するほど、人間はますます強烈に生の痛みをも経験する。彼/彼女は愛によって幸せであることができると同時に、苦しむことができる。このことは生と死に対しても妥当する。すなわち、生がより生き生きと経験されればされるほど、死もますます致命的なものとして経験される。愛する生だけが、失望・矛盾・死・病によって傷つけられることに身をさらす。こうして、単なる生そのものにおいてではなく、愛され愛する生において始めて、人間は死すべきことを経験する。このことは、解くことのできない人間の生の逆説である。すなわち、愛すれば愛するほど、人はますます強烈に生と死の両者を経験する。これに対して、この生に対する愛を抑制するか押し殺す時、人は幸福と苦痛に対して無感覚となる。生と死は彼/彼女にとってどうでもよいものとなる。そうすると、彼/彼女は不死となるが、しかし彼/彼女はまた決して生きていなかったのである。しかし、あの生の肯定の行為(愛)において、人間は生けるものであると同時に死すべきものとなる。   自らの命を生き、引き渡し、使い果たすものは命を得るであろうし、既に得ている。  終わります。
  448. 関根則之

    ○団長(関根則之君) ありがとうございました。  以上で公述人方々意見陳述は終わりました。  それでは、これから公述人に対する質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言をお願いします。
  449. 中原爽

    ○中原爽君 参議院自民党の中原でございます。  きょうは法的なことにつきましてお話を伺おうと思って参りましたが、中山公述人のお話を伺いまして、特段これでお尋ねするようなことがないような御意見でございました。主として現在参議院で検討されておりますいわゆる修正案について御意見をいただいたわけでありますけれども、集約いたしますと、結論的に脳死一元説とそれから心臓死の一元説、この両者の間に立ちまして折衷案を考えるということになりますと、御指摘のように、結果的にどうしても二つの死を認めざるを得ないという状況になりがちであると。したがって、おっしゃっておられる最大のポイントとしては、この修正案の条文の中に、脳死判定臓器移植が必要な場合に限ると、こういうふうにおっしゃっておられますので、それをまずはっきりさせろということの御意見が主たるものであろうかというふうに思います。そういうふうにおっしゃっていただきますと、それから以後の問題が、私がお聞きしようと思っておりましたことが、すべてお尋ねする必要はなさそうだという感じになってしまうものですから。しかし、そのことにつきまして先生は、結局、心臓死の一元説に限りなく近くというお立場でこの修正案を処理されたらどうかと、こういうふうな結論をおっしゃっておられるんだというふうに思います。したがって、この場合おっしゃっておられることは深谷公述人結論としては大変似ていると思うんですね。  深谷先生の場合も、法律上、死の選択を法的に決めるということの法的な問題があるのではないかと。したがって、やはり臓器移植については、その臓器移植という問題から始めた時点で脳死判定を進める、開始するという方向ではいかがかと、こういうふうに伺いました。したがって、お二人のおっしゃっておられることは、やはり脳死判定ということについて、臓器移植前提とした形でその判定が始まるという方向を恐らくおっしゃっておられるんじゃないかというふうに思います。そういうことでありますので、一つお聞きしたいことがございます。  従来、刑法上の問題といたしまして、刑法の三十五条で「法令又は正当な業務による行為は、罰しない。」と、こうなっております。したがって、今まで医療行為というのは、これは医の行為という立場によってそれが正当な業務であるということを前提として傷害罪であるとか殺人罪にはならない、こういうふうに説明されておりまして、この臓器移植の問題もそういうことがしばしば言われておるわけであります。  しかしここで、いかなる形にしろ臓器法案というものが成立をいたしましたときに、この条文で言っております法令の行為それから正当な行為、この二つのことをこの条文は言っていると思うんです。そうしますと、何らかの形の臓器法案の成立によって後の部分、要するに正当な行為という部分は消えてしまうのかどうか、先生刑法の御専門でございますので、まずこのことをお伺いしたいと思います。
  450. 中山研一

    公述人中山研一君) 今御質問の前に一つだけ前提的に申された点で、例えば今回の法案が人の死についてどういう態度をとるかということは非常に申し上げにくいんですが、私は、これは脳死もまたある場面では一つの死であるということを認めざるを得ないというふうに言わざるを得ない案ではないかと思います。  というのは、移植場面ではともかく死亡宣告脳死でして死体として扱うということにならざるを得ませんので、その限りでは、その分野に限ってはやはり人の死の一つというふうにせざるを得ない、その他の場合は従来どおりの心臓死と、二つあるということであります。  ただし、これはアメリカの大統領委員会報告でも実は二つの死を認めているのであります。ただ、違うところは、脳死判定をした上でさらにそこで二つに分けるかどうかということは認められないということになっておりましたので、およそレスピレーターをかけないような普通の死亡のときはそもそも心臓死しかありませんのでよろしいんですが、少なくとも脳死を経由するような死亡の場合になおかつこれを二つに分けるということは従来の法律論としては考えてこなかった。そこを今回踏み込むということなので、新しい問題が出ているというふうに思いました。これが第一点です。  それから、三十五条の関係でありますが、今回の修正案中山案移植の場合は死体として扱いますので、したがって、これは死体損壊罪の違法性を阻却するという意味医療行為の一環に入るというふうに考えられます。金田案と猪熊案においては、これは脳死を死と認めませんから、いわば生きている人からの臓器であってもある場合には違法性を阻却する形で三十五条の適用があるという解釈をとらざるを得ません。これは殺人罪違法性を阻却する、こういう問題になりますので、犯罪が違ってまいります。したがって、殺人罪違法性を阻却するというのは大変難しい問題でありますから学界では賛否両論ございますが、肯定説ももちろんあるわけでありますから、猪熊案が論理的に成り立たないということは絶対ありませんので、それは一つの選択肢であるというふうに思います。  したがって、今の段階で、移植場面ですら脳死を人の死とするという合意がやはりあるのかないのかによってその対応が決定される。焦点が大分絞られてきまして、およそ人の死はではなくて、移植場面でもなおかつ従来どおりの心臓死で処理するのか、それともその場合に限って脳死を死として扱うかということで、法的にはどちらでも議論をすることは可能でございます。  それから、私の意見と深谷先生意見とはちょっと違いますので、その点は深谷先生から。ただ、おっしゃるとおり似ている点がございまして、脳死を一応前提とした上でも、脳死判定の部分で、そこで手続的に打ち切る、もしくはそこでその選択を入れれば解決する問題ではないか。  だから、その前提をどうするかという問題で、この両案のどちらから出発をするかということが問題で、中山案のように一元説の方を緩和していって妥協案をつくるのか、それとも猪熊案のような一元説を前提にして例外的に脳死を認めるのかという、その方法論の違いも実はあるのではないかと思っております。
  451. 中原爽

    ○中原爽君 はい、わかりました。ありがとうございます。  時間がございませんので、あと二、三お聞きしたいと思います。  ドナーの件でございますけれども、ドナーから始まりまして、例えばどの形でもよろしいのですが臓器移殖法案が成立したという場合に、いろいろな法的な手続上の書式が必要になります。  例えば、ドナー意思を確認するという意味では、御自分の臓器提供しますという意思表明と、今これが本当に適用されるかどうかは別といたしまして、その脳死判定に従いますという意思表明、この二つをあわせた書類のようなものが必要だというふうに思います。  この点について、先生の御意見の中に「臓器提供の承諾と脳死判定の承諾との関係」というふうに一文書かれておりますので、ここの意味を御説明いただきたいと思います。
  452. 中山研一

    公述人中山研一君) これは、私は、新しく設けておられます六条三項の脳死判定についての承諾というのは余り意味がないのではないかと思っております。  というのは、脳死段階で臓器移植に承諾をするという書面の中には当然脳死判定を承諾するという条件が入っているわけでありますから、改めて別枠としてさらに脳死判定についても承諾書をとるというふうなことは、実務的にもかなり問題でもあるし、理論的にも必要がないのではないかと私は思っております。  だから、今回の修正案はその部分がやや余分ではないか、そういう印象を受けました。
  453. 中原爽

    ○中原爽君 御意見よくわかりました。  そういう意味で、先生のおっしゃっておられるようにドナーカードのような制度が確立いたしますと、今御説明いただいた部分は要らないということに恐らくなるのではないかというふうに思います。  それと、あともう一点ですが、家族判定を拒まないという条件がつきますので、恐らく家族同意をされたという同意書のような書式が必要であろうというふうに思います。  しかし、今言われておりますのは、その家族範囲というのをどこまで限定するかということになりますけれども、こういったいわば不測の事態がいつ起こるかわかりませんので、その時点の家族範囲ということに恐らくなると思うんです。その場合に、家族を限定するということになりますと、現在法律上は、著作権法であるとか労働災害の補償の法律、こういったところでは家族範囲を限定するというようなことがあるようでございますけれども、実際問題家族判定を拒まないという意味合いで、その家族範囲を限定するということについて法律上本当に意味があるかどうかということをお尋ねしたいと思うんです。  というのは、現在、どこかの国ではもう家族同意を外してしまうというような方向も出てきておりますので、その点の御意見、法的なお考えを伺いたいと思います。
  454. 中山研一

    公述人中山研一君) この点は、大変申しわけないんですが、深谷先生の方が御専門に近いと思いますので、そちらの方にまずお話しいただいた方がよろしいんじゃないかと思います。その上で、私もまた補足があればいたします。
  455. 中原爽

    ○中原爽君 じゃ、深谷先生お願いいたします。
  456. 深谷松男

    公述人(深谷松男君) 非常に難しいですね。  現在の角膜腎臓移植法では「遺族」とありますね。遺族というものもその範囲がはっきりしていないわけです。恐らくそこで「遺族」と書いてあるのは、遺体の所有権という観点からあれはつくられたんだろうと思います。あれがつくられた段階では、本当に三徴候による死の後と、こういう理解であったはずですから、遺体の所有権ということでいくと民法的にも必ずしも明確じゃないのです。  ただ、遺体の所有権の場合には、その遺体を、人の亡きがらを葬る、そのいわば礼と誠を尽くして葬るのに他の妨害を排除できる、そしてそれにふさわしい葬り方をする管理権があると、こういう発想で遺体所有権は考えられているわけですね、遺体所有権といってもどうにでもできるという所有権じゃなくて。それを角膜腎臓移植法の場合には、その遺体から臓器の一部をとるということがその人の人生を意味あらしめることにつながる、したがって、その人の葬りにもつながるという意味を持ってあそこでは「遺族」と書いたんだと思うんです。その点では一種の、私先ほど三つに分けましたが、死の受容をその家族が受けとめることの中でできることとして認めたのだろうと思うんです。  今問題になっているのはその点にやっぱり似ているんだと私は思うんです。ですから、そうすると、その亡くなった人にとって一番精神的にも近い立場にある親族と。親族ですと非常に広いですけれども、血族でしたら六親等まで含めますから。それは一体何を言うかとなってくると、実際の遺族をめぐった判例というのは私寡聞にして知りませんので、私の解釈論になりますが、夫婦それから親子、ここまでは法律で、夫婦の場合だったら同居、協力、扶助の義務が明記されていますし、親が未成年の子に対するところでは子供を監護教育する権利の中に親と子の精神的つながりということが含まれてまいりますし、そしてあとは同居の親族と、これは民法七百三十条に規定がありますが、これが生きておるのではないか。夫婦、親子及び同居親族、少なくともそこは角膜腎臓移植法で言うときには「遺族」になるのではないか。  今度、これを何の規定も置かずに親族とするか家族とするかはともあれ、ただ、言葉を補いますと、家族というのは現行の法の中では必ずしも明確な概念規定がない用語ですから、結局は親族に近い者をそこでは考えるんでしょうが、その範囲も今のような角膜腎臓移植法の解釈と同じ解釈で基本的にはいくべきでしょう。  ただ、この場合には違うのは、死についての態度決定という問題が含まれてきますから、それで、私はここは難しいと。先ほど私の意見は申し上げないで、ただその点は今後の解釈にゆだねるとしても慎重な対応を必要とするだろう、角膜腎臓移植法よりももっと厳しくそこは緻密に考えなきゃいかぬだろうと。その緻密に考えるというのは、むしろ少し広げた方がいいという意味になってくると思います。
  457. 中原爽

    ○中原爽君 私は、ドナーの方が御自分の臓器提供されようという御意思がありまして、そこからこの問題が出発しておりますので、やはり自分の意思を継承してもらえる家族あるいは遺族を恐らく考えられるということが、この死ということ、自分の死ということにつながった場面で一番重要なのかなというふうに思っておりますので、そのあたりが法的にどうなるかというふうに考えておりました。  それともう一つ、法律上の書類は複数の医師脳死判定ということでございますので、その判定の書式が出てくると思います。その書式は六時間後という形に一応今なっておる、竹内判定基準によりましてもですね。その場合に、お二人の先生方がおっしゃっておられるのは、これは要するに判定のみなんだということで、それが死という意味をあらわさないというような趣旨の御発言に近かったんじゃないかというふうに思うんですけれども。  先生おっしゃっておられるように死亡時刻はどうするのかということについて、私ども医師立場ですと医師法施行規則の二十条に死亡診断書の書式が定まっております。それをだれが、いつ、どの医師が書くのかということについて、何か法的な御見解がございましたら御意見を伺いたいと思います。
  458. 中山研一

    公述人中山研一君) 大変細かい問題になりまして難しいのですけれども、私が先ほど申しましたのは、移植場面とそれ以外の場面とをまず分けるということが本案の特色でもありますので、その点をまずしっかり押さえた上で、移植場面では、少なくともこの修正案の場合は死体からの臓器提供ということにならざるを得ませんので、ともかく脳死状態での臓器提供の承諾書、その中にはもちろん脳死判定の承諾も含んでおりますので、本人の承諾があればその段階で脳死状態のまま死亡宣告をして、つまり竹内基準によれば二度目の確認後、そこで死亡時刻を確定した上で死体からの移植に入る、検視があればまたその段階でやはりありますので、そういう手続になろうかと思います。  ただし、その問題でも私個人は、六時間というのは今の実務では問題ではないかと思っております。というのは、これまでも脳死判定が問題になったケースを見てみますと、ほとんど二十四時間、つまり午前八時に第一回目の脳死判定をやったときは、ゆっくり明くる日の同じ時刻に、大体二十四時間を経てもう一度確認するということに私はなっていると、医学の方面は余り詳しくありませんが、そう思いますので、そういうようなルールが実務上確立すればいいというふうに思っております。  それから、一般の移植関係以外の脳死判定の部分は、これはいわば従来どおりということになりますので、脳死判定に例えば承諾が要るかどうかという問題も、恐らくお医者さん方の中には、自分の裁量でやるんだから、医療行為の一環だからそういう承諾は要らないというお考えもありましょうが、逆に、医療行為であればこそ患者側の承認が要るという考え方も十分成り立ちますので、そして医療行為であればもちろんその承諾を得られることは考えられますので。ただし、侵襲を伴うような脳死判定をやりますと脳死を促進いたしますから、それは避けるべきだと思います。したがって、脳死判定をして、そしてその後の治療を見守る。普通は、治療を縮小していって心停止まで御面倒を見た上で、その上で心停止の段階で死亡時刻を確認するという従来どおりの実務がよろしかろうと思いますし、また今回の法案はそういうふうなことを予定しているのではないかと思っております。
  459. 中原爽

    ○中原爽君 ありがとうございました。  私お聞きいたしたいことは、先ほど申し上げましたように大体中山公述人の御意見と私自身の考えが近かったものですから、これ以上の法的なことをお聞きする必要もなかろうと思います。各論的な、詳細なことに立ち入りまして質疑をさせていただきました。失礼をいたしました。ありがとうございました。
  460. 山崎順子

    山崎順子君 山崎順子こと円より子と申します。  きょうは、黒田さんは肝臓移植で大変お元気になられて本当に赤ちゃんもお産みになって今幸せに暮らしていらっしゃるということですし、また、高橋先生はたくさんの移植手術を手がけられて、そういった臓器移植医療の面からも、また御自分自身の移植以外に道がない形で待っていらっしゃる患者さんたちのためにも一生懸命やっていらっしゃる方たちに敬意を表したいと思います。  しかしながら、私は、衆議院中山案といわれます脳死を人の死と認めて死を定義する臓器移植法案が過半数をもちまして通ったことに大変な危機感を持ちまして、そして猪熊案の方に賛成をして委員会の所属とさせていただいた者でございまして、中山先生の——ちょっと紛らわしいんですが、先ほどのは中山太郎先生の案で、こちらにきょう来てくださっていらっしゃる中山研一先生の論文を随分読ませていただきました。  それは、やはり私自身先ほど言いましたように、黒田さんのように贈られた命を大事になさっている方々のことを思いますと、決して臓器移植反対なわけではございませんが、死というものは医学的なものだけではなく、文化的、社会的、本当にさまざまな人々の意識の中にかかわってくる問題で、一律に定義してはならない。それも法律で定義していいのかということを考えておりましたので、猪熊案の方に今賛成の立場で出ているんですが、ただ、猪熊案そのものも一〇〇%いいとは思っておりませんでした。それで、さまざまな論文等、またお医者様の意見等も聞かせていただきましたし、また実際に移植を受けられた方々とも随分お話をさせていただきました。  そうした中で、きょう、先ほど委員からも質問がありましたけれども、中山研一先生の、脳死判定臓器移植が必要な場合に限るという明文を加える、こういった形にしていけば何とかいいのかなという気もしたんですけれども、でもなお、私はやはり脳死説の社会的合意はできていないと考えておりまして、そうした場合に、猪熊案といいますか、「脳死状態にある者から」という形に死を決めない方がいいのではないかと考えているんです。  そうした場合に、先ほど深谷先生の方が、民法で相続のいろいろ問題が二つの死で出てくるとおっしゃいましたが、心臓死でも、例えば同時に夫婦が事故に遭って、同時に心臓死という時間になるとは限りませんから、同じ問題が起きるのかなと。私もそれほど民法等に詳しいわけではありませんが。そうしますと、あえてまだ脳死が人の死とコンセンサスができていないときに、やはり一部に限定するのであれ脳死を人の死と認めてしまう案よりも、民法の方を何とかできないかなという英知をそこに投入できないかなという気がするんですが、お二人にちょっとその点について短く、いかがでしょうか。
  461. 中山研一

    公述人中山研一君) では、私の方から申し上げます。  私も個人的には、このような修正案万やむを得ないという面も、もちろんよくここまで妥協案のようなものをお考えいただいたなとは思いますけれども、かえって二つの死ができて論理の説明としては非常に苦しくなるという面も避けられませんし、移植場面に限ってだけなぜその死を認めなきゃならないのかという積極的な理由がなかなか今度は難しくなってまいります。そうしますと、やはりこれは従来のいきさつとか脳死一元説の案がもう既に出ていることを前提にした妥協でしかないという形で説明がつく以外にはないと思います。  むしろ、そのことを離れて金田案、猪熊案の点を考えれば、これは私前から言っておりますが、従来の死の定義を一切変えないということでは一番すっきりしておりますし、非常にわかりやすいということがあります。ただ、これはまた別の面でといいますか、それならなぜまだ死体ではない心臓の動いている体から心臓摘出することが許されるのか、なぜ殺人罪にならないのかという、そういう深刻な問題に直面いたします。だからそこは、先ほど違法阻却ということを申しましたけれども、一定の条件のもとで殺人が許容されるような極端な事例というものを新しくつくる、それを法律に認めるということをあえて決断されるのであれば、猪熊案でも説明は可能だと思います。  ただ問題は、そこの点について刑法学者の中で、私も実は本当に全面的に違法阻却されるかについては自信がありません。かなりの人は違法阻却でよいと言いますけれども、私は、やっぱりそれは生きている限りはなお全面的に許されるというふうに踏み切るにはやや問題があって、やむを得ないという点の、これは非常に難しいので処罰はしないという点でなら許容いたしますけれども、それが医療行為としてよろしいと言えるかどうかについてはかなりまだ疑問が残っている。そのあたりの点をクリアできるのであれば、私はやっぱり猪熊案の方が一番今何も変えなくて済みますし、移植も認められる、そして厳しい限定をする、将来もその限定を動かさないということをしっかりわきまえるなら、先ほど牧師の先生も言われましたように、脳死だとやっぱり大脳死の方へ動く可能性がありますので、アメリカでもその動きはありますから。  しかし、逆に生きている人ならだれでもいいということになりますと脳死状態だけではなくて広がるおそれもありますから、いずれにしましても、それが広がらないような形での枠組みだけは絶対必要で、ただ、それを刑法上違法阻却という説明をするのかそれとも死体損壊として説明するのかという問題だけになりました場合は、私は両方十分可能であると。そして、今日本国民がそこまで踏み切ることについて合意があるのかどうか、どちらに一体合意があるのかということが勝負になると思っております。
  462. 深谷松男

    公述人(深谷松男君) 私が申し上げたのは、民法上の用語で言うと権利能力の完全性という理論との衝突なんですね。つまり、人はすべて権利義務の法的主体とされる、その点においてはすべての権利義務について平等に認められるのだ。これがいわばそれこそ基本的人権の思想と同じレベルから出てきた大事な考え方なんです。脳死状態になっている人は生きている人だけれども、この人の場合はその重要な臓器を、肝臓とか心臓とかをとってもよいのだとされるほどにその法的主体性をいわば狭められた形で認めるという、だから完全性がそこで崩れるわけですね。そういう意味でちょっと理論的に説明がつかないことになるだろう、こう申し上げました。  それからその次に、山崎委員が挙げられた例のことに関してですけれども、つまり、両方とも心臓死だってわずかのずれが出た場合のことと同じではなかろうかという意味のことをおっしゃられたかと思うのですが、私が申し上げた条件設定は、臓器提供するという意思を明確に表示している方がその夫婦の一方であるという限定が入っております。そして、その上でその両方ともが脳死状態になっておる。そうしたときに、脳死判定の作業は臓器提供意思を表明している場合だけはやってよい、あとはしないでおくというような立法の仕方は可能だけれども、その場合には、その片方だけが脳死判定されて臓器提供が行われる。ですから、これは心臓死の上でももう既にそちらの方が先に起こるわけです。  だから、私が申し上げたのは、今出ている脳死判定拒否に対するいわば抜け道というか、そこを何とかうまく解決して出てくるところの考え方について、そういう問題性を持っているということを指摘したんです。そういう意味で、ちょっと山崎委員の挙げた設例とは違いますので、人はだれでも先に死ぬ後に死ぬということはあり得ることで、そのことによってどうこうということはこれは問題ではありません。
  463. 山崎順子

    山崎順子君 わかりました。ありがとうございました。
  464. 渡辺孝男

    渡辺孝男君 平成会の渡辺でございます。きょうは本当に貴重な御意見をありがとうございました。  私からは、なかなか国民の中には医療不信があって、臓器移植に対して本当に公平公正に行われるのかどうか疑念を抱く人もあるわけなんですが、そこでちょっと高橋公太公述人の方にお伺いしたいんですが、これまでかなり腎移植の方は行われてきておりまして、ドナーの方に適合するレシピエントが複数いて非常に選択に困ったというような事例というのは実際起こっておりましたでしょうか。
  465. 高橋公太

    公述人(高橋公太君) 実は、先ほども申しましたけれども、平成七年の四月に日本腎臓移植ネットワークというのが発足いたしまして、そちらの方ですべてきちっと管理をしております。例えば私たち移植医がそういうレシピエントを選ぶということはございませんし、日本腎臓移植ネットワークではルールを決めておりますので、そういう迷い、私たちが迷うということはございません。  ただし、例えば、医学的にその選ばれた人が何か合併症があって手術を受けられないとか、受けられないほど体がおかしいとか、そういうことがあれば私たち意見を申しますけれども、最初の選択でそういう私たちが何か申すということはありません。
  466. 渡辺孝男

    渡辺孝男君 黒田珠美さんにちょっとお伺いしたいんですけれども、本当にオーストラリアにまで行って向こうの方の恩恵を受けまして移植が受けられたということであります。諸外国ではかなり脳死者の方から提供される臓器移植手術が、先ほどのお話では日常的に行われている医療というような形で表現されておりましたけれども、外国に行きまして、日本ではなぜこういう脳死臓器移植というのが行われないのかというような、そういう質問といいますか問いというのは向こうで投げかけられたことはございますでしょうか。  日本でどうして行われないんでしょう、わざわざ外国まで来なければいけないんでしょうかと、日本状況を不思議に思われるような、向こうの方が思っているようなことはございませんでしたでしょうか。
  467. 黒田珠美

    公述人(黒田珠美君) 私も向こうで手術を受けたわけですけれども、私も英語がちょっとできませんものですからそんなに深く込み入った話をしたわけではないんです。  私たち移植に行っている者が、私が行っていたときに多いときで六家族か七家族いまして、皆さん患者本人家族といますので、行っている私たちは、なぜここまで来てこれだけ精神的にも経済的にもつらい思いをして外国に頼らなければいけないのか、また、オーストラリアの病院や、国民皆さんドナーになってくださるわけですから、私たち外国人を本当に受け入れられるくらい浸透して理解が深まっているのだから、日本でもきっと徐々にはできるんじゃないかということでした。向こうの先生の話では、最初オーストラリアでもなかなか、やっぱり最初からうまくいくというものではありませんから、手探りで始めた状態で、後から法律がついてきたと申しておりましたので、先生方もなぜできないのかと本当におっしゃっていましたけれども、近い将来できるだろうというお考えを少しお聞きいたしました。
  468. 渡辺孝男

    渡辺孝男君 ありがとうございます。  高橋公太公述人にもう一度お伺いしたいんです。  先生の方でも米国の方から腎臓を提供されて移植されたというようなお話が先ほどございました。外国の方は日本提供してくださって非常に寛大であるというふうに私は思っているんですが、最近諸外国では日本のそういう臓器移植を望む方に対しての臓器提供というのに非常に批判的な意見もあると聞いておりますけれども、先生外国の方とお話しする機会も多いと思うんですが、どのように日本のそういう医療状況評価されておりますでしょうか。
  469. 高橋公太

    公述人(高橋公太君) 実は一カ月前にサンフランシスコのメディカルセンターからシャロン・イノグチ先生がいらっしゃったんです。そこには実は我が国から数十人移植を受けに行っております。行っている方は、行きましたら向こうのUNOS、アメリカのネットワークに登録して、そしてある程度一定のルール、それから外国人の枠、その中でやっておるわけです。そういう点は非常に米国の国民というのはやはり懐が深いというのでしょうか、そういう感じがいたします。  ただし、こういうことはやはり将来いろいろ問題点が上がってくると思いますね。何で我が国でできないのかという問題をいつも私も考えております。今のところ向こうは好意でやっていただきますけれども、もうそろそろ限界が来ているのではないかなという気がいたします。
  470. 渡辺孝男

    渡辺孝男君 深谷松男公述人にお伺いしたいんですが、先ほど先生からいただいたプリントの六番ですけれども、「死の判定は、三徴候と脳死判定による。三徴候説も、脳の死の判定方法の一つ。」というような記述がありましたけれども、三徴候説も脳の死の判定の一つであるというふうなお考えというのは、もう少しちょっと説明していただければと思うんです。
  471. 深谷松男

    公述人(深谷松男君) 私も医学上のことを正確にはわかって申し上げていないところがあるかもしれません。  北陸医事法研究会というのがございまして、そこで医学部のこの脳死の問題にかかわる教授たちとの話の中でいろいろ聞かせてもらいながら勉強した方ですから不確かであろうと思いますが、瞳孔の散大というのは明らかにやはり脳死判定の基準の中の大事なものに入っておりますね。  問題は恐らく、瞳孔は散大しているが呼吸や循環が残っているというあの脳死状態を見ているときに、それは心臓は機能しており肺は機能しておるというふうに理解するところから、これは脳死関係ないというふうにお考えになられるところからくるいろいろの疑問かと思うんですね。私も初めはそういう疑問を持ったんです。ところが、やはりそれは普通三徴候で心臓が拍動しなくなるというのは早い話が脳からの指令がそこで途絶えたからだ、脳の機能が終わったからそれで拍動しなくなる。呼吸についても同じ。  私が実は一番疑問を感じて何度も医学の専門方々に聞いたのは、なぜ人工呼吸器その他の装置を備えておいても必ず一週間なり十日なりで心臓停止になるのかと、つまり永久になぜ動かないんだという大変素人の質問を何回かしました。そこで、初めはなかなかお医者さんたち説明に困ったような顔をしていましたが、要するに、脳の働きほどに精密に心臓拍動や呼吸のすべての随意筋の働きを指令できないんだと。それはもともと脳がだめになっているからそういうことが起こっているので、だから、むしろこれは脳の死がそこにあらわれていると見るべきものだと、こういう説明を受けてなるほどと思ったのです。私は今でもそうではないのかなと。  そう見ていくと、三徴候死というものがあるのではなくて、三徴候による脳の死の判定というのがあるんだというふうに理解すれば、死というものは一つで判定方法二つあるというふうに考えることができる。ただし、その脳死判定基準の方は厳密にしなきゃならぬことは、もうこれは申すまでもありませんけれども。  私の知っているところは以上でございます。
  472. 渡辺孝男

    渡辺孝男君 ありがとうございました。以上で質問を終わります。
  473. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 社会民主党・護憲連合の照屋寛徳でございます。  黒田公述人には、もっともっと幸せになっていただきたいということを冒頭御祈念を申し上げたいと思います。  深谷公述人にお伺いいたしますが、公述人がその他の問題点として指摘をしております提供者の年齢の下限の問題。というのも私は、今審議をしております中山案そして参議院のいわゆる猪熊案両方に、臓器提供可能な年齢というのはどう考えておるんだということを委員会で質問してまいりました。中山案の発議者は、法文には書いてないけれども、遺言可能年齢の十五歳というのをおおむね目安にしていると、あとは法の運用でと、こう言うわけですね。猪熊案の発議者は、そこは厳密によく考えておらないと、今のところ。ただ、もちろん臓器提供することの意味というかそれを十分理解し承知をする意思能力というのは当然前提でありますが、私はやっぱり法文で明確化すべきじゃないか。例えば、オランダの法案のように十八歳以上とか、そういうような形で法文で明確化しないと紛争が起こるんじゃないかと思いますが、先生のお考えはいかがでしょうか。
  474. 深谷松男

    公述人(深谷松男君) 一昨年でしたか昨年になるのかちょっと忘れてしまいましたが、厚生省の委託研究でその点の部分を取り扱って短い論文を書いたのですが、今回慌ただしくて私も学会が終わってすぐこっちへ来るようなありさまだったものですから今その論文を持ってきていませんが、私が考えたことをごく粗筋だけで御勘弁いただければ申し上げてみたいと思います。  まず、この現在考えられている法案では、本人意思というのを重視しますね。ですから、本人臓器提供意思を明確に述べることができるものでなければならない。おのずからある種の意思能力は当然そこで前提になっていること、意思能力があるとした上で何歳をもって下限とするか、こういう御質問というふうに承りますが、そうした場合には、今出てまいりました十五歳は私もかなり大事な線だろうと考えております。  民法では十五歳というのが、例えば、親と氏が異なる場合には、子供は十五歳になれば家庭裁判所に請求して親と同じ氏に変更できる。これは親権者の代理や同意を必要としない。あるいは十五歳になりますと、子の親が離婚するときどちらに引き取られることを望むか子供はその意見を述べることができる、家庭裁判所はその陳述を聞かなければならぬ、こういうような規定もあるし、そして今出てまいりました遺言の規定がありますね。もう一つ、十五歳になると親権者の代理によらないで本人意思だけで養子縁組ができる、もちろんこれは未成年者ですから家庭裁判所の許可を必要としますけれども。その次に、最後にこの遺言のことが、今照屋理事のおっしゃった十五歳となれば遺言ができる。  このように見てまいりますと、やはり人間としてその人生の重要な問題、人生にかかわるような重要な問題についての意思決定をいわばまさに自己決定権として認めるのは、我が国の民法では十五歳あたりが妥当の線と考えていると見てよかろうかと思います。もちろんそれはこの臓器移植の場合も民法と同じように考えなければならぬというものではありませんから、それから先は臓器移植本人意思の重視というところをどういうふうに見るかによって若干のずれが出てくると思いますが、私は十五歳より下げるのはふさわしくない、上げるのならばそれなりに妥当な範囲を定めて上げることならできる。しかも、できれば年齢は明記した方がよいのではないか、現場にゆだねるわけにはいかないのではないか、そんなふうに考えております。
  475. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 中山先生にお伺いいたします。  先生がお書きになりました六月十日付の朝日新聞の「論壇」を私も読ませていただきました。  何点かお伺いいたしますが、まず第一点として、先生脳死を一般的に人の死とすることについて我が国では社会的な合意が得られている、受容されているんだと、こういうお考えなんでしょうか。
  476. 中山研一

    公述人中山研一君) いや、そうは思っておりません。
  477. 照屋寛徳

    照屋寛徳君 先生の「論壇」での論文にもありました、けさの意見要旨でもお伺いしたわけでありますが、今報道されている修正案ですね、これだとどうしても統一的であるべき死の概念というのが何か混乱しているというか、二つ存在することになるのではないかと。  しかしながら、死というのはいわば民法上もその他の法律でも権利主体を失うという意味でも大変重要な意味を持っているわけで、どうしても私は修正案で言っている「脳死した者の身体」というのは言われている中山案の「脳死体」と変わらない法概念じゃないかと思いますけれども、死ということについて法律上の概念二つ生ずる、このことについては私はまずいんじゃないかと思いますが、もう少し先生のそこら辺の刑法学者としての論拠をお示しいただければありがたいなと思います。
  478. 中山研一

    公述人中山研一君) おっしゃるとおり、それは非常に苦しいと思います。  だから、修正案は確かに実際的ではありましょうけれども、そもそも人の死という定義をどう考えるのかというふうに言われますと、この修正案としては非常に説明しにくい。そこで私は、先ほど、もし説明可能だとすれば脳死も人の死の一つだというふうにしか言えないと。だから、全面的に人の死だということは言えないということは、修正案は明らかにそういう立場を表明しております。しかし、一つと言っている意味は、しかもそれは移植ドナーが問題になる場面においてのみであるという限定つきで辛うじて脳死が死としてあらわれる場面を認めるということになりますと、今度は、それじゃそういう考え方は、一般的な人の死は従来どおり三徴候死だけれども、例外的にそういう場面だけに脳死を限るとしますと、脳死説を前提とした妥協案ではなくて、先ほど私申しましたように、むしろ猪熊案前提とした妥協案ではないかというふうにも考えられます。ちょうどこれは中間案なものですから。  そこで、これは非常に難しいのですけれども、一番中山案に近い修正案を考えるとすれば、いわゆる拒否権方式と申しまして、原則として脳死はすべての場合について死である、ただし、拒否した者についてだけは例外的に猶予をすると。これなら脳死を死とすることが大前提であるという点は崩れませんけれども、今回の修正案のようになりますと大部分の場合は従来どおりということを認めますから原則と例外が逆転してしまうというおそれがありますので、それならもう一歩行ってその例外の部分も消せと、例外の部分も死としないのであればそれは猪熊案というふうになるのではないか。  そこで、繰り返しになりますけれども、その点の合意についてやはりまだ論争が残っているというふうに私は思います。いずれも説明は論理的に可能ではありますけれども、二つの死を認める方が説明は難しい。しかし、一つの方の説明も、違法阻却の説明が難しいのです。両方とも難しいのです。
  479. 川橋幸子

    川橋幸子君 私は民主党に所属しております川橋幸子と申します。  きょうは公述人方々、どうもありがとうございます。公述人方々は遠くからお見えになられた方がいらっしゃるようですが、私どもも東京から参りましたが、私は新潟生まれ新潟育ちというその一人で、新潟でこういう公聴会が開かれますことを新潟の皆様に知っていただくことがとてもうれしいと思っている人間でございます。  さて、時間が短うございますので十分ではないかもしれませんが、先に自分の立場を明らかにしてお尋ねするのが公述人方々への礼儀かと思います。私も臓器移植には賛成の立場に立ちます。それから、脳死状況の人々といいますか、脳死した人の身体というのでしょうか、二案あるわけでございますが、そういう状況の人からの移植、これももし理想的に行い得るならば賛成という、そういう立場でございます。  さてそこで、死とはという大きな疑問点が来るわけでございます。今までは法律上の二つの死、脳死に始まって心臓死に終わるこの二つの死の間のグレーゾーンの話でございますが、法律上の問題は、あるいは国民自身が選択できる問題であるとすると、それはかなり理論的な整理をすれば済むような感じがいたします。そこで、あとは社会的に日本がこれを受容できるような状況になっているのかどうか、その実態面のお話を伺いたいと思います。  まず、向井承子さんに伺いたいと思いますが、臓器移植に関しましては、医療への不信、医師への不信というものが一つ大きな障害になっているのではないかと思います。日本というのはどうも偉い人に服従してしまう、あるいは偉い人もより弱者に対して、インフォームド・コンセントとこの分野では言われることが、御本人はやっていらっしゃるつもりでしょうけれども、やはり強者と弱者という関係の中から、それが水平の状況で対等な状況でなかなか行いにくいのではないかという感じがいたします。  そうした医療医師への不信というものが解消されなければいけないと思いますが、今回の法案のためにはどういう条件づくりが必要か、お伺いしたいと思います。
  480. 向井承子

    公述人(向井承子君) 基本的に、医療不信という言葉は非常によく使われるので、何に対する医療不信かということがあるかと思います。  私どもが感じているのは、日常的な医療の中で十分な説明が行われていないところに対する小さな憤りの積み重ねだと思います。それで、そういう不信が積み重なったところで、突然のアクシデントによって救命救急センターに担ぎ込まれたような状態患者がインフォームド・コンセントに耐え得る状態であるかということがまず問われなければいけないと思います。  そうすると、この修正案脳死判定拒否権ということがありますけれども、この拒否権という権利を設けるということは、同時に、その権利をぼんやりと行使しなかった場合には同意するという、そういう結果を招くことになるんだろうと思います。日本においてまだインフォームド・コンセントがどのようにあるかということは現場ではさほど問われていない状態でありますので、これはまだまだ考えなければいけないところが多いのではないかと思います。  それから同時に、もう一つ、現在、終末期の医療状態が高齢者、重症の難病者にもう既に尊厳死、安楽死が進行しているのではないかと言われる状況がございます。私自身も、病院の取材をし、また老親のみとりを通じまして、この終末期医療、治療停止なんという言葉を今さら言うのも不思議だというような状態があります。そして、そういう現状の中でほとんどインフォームド・コンセントというものは行われておりませんで、現実的な判断によってのみ医師のもとに服従するという形、あるいは家族がその権利を放棄するという形で流れているのが実情だと思います。  こういう特に臓器移植のような基本的に生命の侵襲に結びつく医療行為の場合には、ドナーカードにおける意思あり方、それから治療行為に対する意思の表明のあり方というものに患者もまた医師も十分習熟している必要があると思います。その意味では、どの施設でも、ドナー摘出するのに提供する施設としてふさわしい施設であるかということは、私はそういう施設は数少ないのではないかと思っております。その施設の適格性も含めて社会意見を聞く必要があると思います。
  481. 川橋幸子

    川橋幸子君 ありがとうございました。  さて、岸本先生にお伺いしたいと思います。大変味わい深いペーパーをちょうだいしまして、後でよく私もまた帰りの電車の中で読みたいと思います。一番理解しやすい単純なところでお伺いさせていただきたいのは、きっとドナーは少ないだろう、その場合は少ないドナーレシピエントにどうやって公平にやっていけるのだろうかと、この疑問を投げかけていらっしゃいます。私も多分少ないだろうと思いながら、少ない臓器が適切に公平に提供されればいいと思うんですけれども、日本の場合どうも談合社会の中でこれもまた談合が生ずるようなことが本当に心配でございます。そのあたり先生も御心配と言っていらっしゃいますが、このあたりの心配をもう少し先生の言葉で御説明いただければと思います。
  482. 岸本和世

    公述人(岸本和世君) 大変難しい質問で、その現場にいない者が申し上げることではないかもしれないという気がするんですが、それぞれの医療センター、特に移植などをする医療センターが、やはり日ごろから何が一番重要かということを考えておく必要があるんじゃないかと思います。何か大変抽象的ですけれども。  というのは、こういう脳死あるいは臓器移植ということは緊急に起こりますね。日常的に起こるわけでない、緊急に起こるために、そこで初めてそのことを取り上げるなんてことがあってはならないわけですから、日常的に、これももう生命倫理の問題でしょうが、よく状況を考え、そして準備をしていく。また、いわゆる移植のためのコーディネーターがいらっしゃると思いますけれども、こういうコーディネーターをたくさん養成して、そこで十分に話し合うという準備が必要なんじゃないかなというふうに思います。  ちょっと先ほど抜いたことを一つだけ申し上げておきたいんですが、私は大変医療不信を感じているんです。なぜ医療不信ということを感じているかというと、私は前にこういうことを岩波の「世界」に文章を書いたことがありますけれども、大学関係の病院の倫理委員会というのはほとんど内部者で占められている。向井さんのような方が入っておられると私聞いて大変うれしいんですけれども、ほとんど内部者ですね。ですから、内部でそれを固めてしまうということによって見えなくなってしまうこと、あるいは覆い隠してしまうようなことが起こる。この移植に関しても同じことが起こるんじゃないかと思います。その点をしっかりと越える努力をしていかないと、大変不公平が起こると思います。
  483. 川橋幸子

    川橋幸子君 ありがとうございました。  高橋先生の方は何か反論がありそうでございますけれども、受けとめていただくだけできょうは我慢していただきまして、最後中山先生と深谷先生に、私持ち時間が三十六分まででございますので、ごくごく短いお答えをいただきたいことがございます。  今、国会の中では、十分審議を尽くすか、もうそろそろかという、単純に言いますとそういう状況が来ております。参議院の中の審議も大変いろんな角度から衆議院ではなされなかったような議論が煮詰まってきておりますし、修正案の骨格のようなものも御理解いただいているところでございますが、今参議院審議に対してお二人の先生は、そろそろまとめに入るべきなのか、もっと国民的な議論を巻き起こしていくべきなのかという、その単純なお答えをお願いしたいと思います。
  484. 中山研一

    公述人中山研一君) 結論的に申しますと、修正案はもうちょっと煮詰めて修正案らしくしていただく努力をお願いしたいと思います。そして、中山案の方とは大分距離がありますが、金田案との接点はまだもう少しあるのではないかという感じもいたしますので、ぜひそのようにお願いをしたい。  ただし、先ほどちょっと申しましたが、脳死も一つの死だという考え方合意はないにしてもそういう考え方を持っておられる方もかなり多いということも前提にしないとぐあいが悪いものですから、そのあたりのところは拙速を避けて最低限度で合意できる最大公約数を探すということが今一番大事ではないかというふうに思います。
  485. 深谷松男

    公述人(深谷松男君) 私の印象は、急に動き出したというのがここ数日の、そう申し上げたらおわかりいただけるかと。  今までの審議の進め方の中で、参議院に行ったら、厚生省令に託するとした部分、あそこを本当は参議院の英知、良識でもっと議論してほしいと思っていました。  私はどちらかというと、どこかで一歩前に出なきゃならぬと考えていますけれども、しかしちょっとそこのところをもう一度期待することを申し上げたいと思います。
  486. 栗原君子

    栗原君子君 新社会党の栗原君子でございます。  まず、黒田珠美さんにお伺いをいたしますが、私は三人の子供を持つ母親でございます。今、子供たちドナーとして登録をするようにと言うことは、母親の立場ではできないような状況です。黒田さんはかわいい正豪君をきょうもお連れになっていらっしゃいますけれども、正豪君が成人されたときにドナーとして登録をするようにとお勧めになりますでしょうか。
  487. 黒田珠美

    公述人(黒田珠美君) 私も、正豪が物心わかるといいますか、ちゃんと話ができるようになったころから、自分自身の話や移植の話、オーストラリアの話、すべて少しずつしていきたいと思っていますので、そういうふうに育てると多分ドナーになるというふうに言うようになるのではないかとは思ってはいますけれども、正豪も一人の人間ですから、その意見を尊重しまして、私の意見を押しつけるようなことはしないようにと思っています。
  488. 栗原君子

    栗原君子君 向井承子さんにお伺いしますけれども、先般、日本医科大学の附属病院に参りましたときに、これから議論されようとしておりますいわゆる中山案修正案では臓器が出ないと、このことをドクターが心配をしていらっしゃいました。私は当然だと思うんです。  そうした中で、既に関西の方では臓器のスキンバンクがありまして、もうさまざまいろいろ保存されているわけですけれども、そうしたことも含めまして、アメリカではこうしたことが既に商品化されているといったような話も伺います。  それとあわせまして、今日、あえて国の名前は申しませんけれども、途上国では臓器の売買がなされているとか、あるいは死刑囚がターゲットに挙がっているとか、ストリートチルドレンがターゲットに挙がっているとか、そういった大変人権にかかわる問題が報告をされているわけでございます。  臓器は絶対量が少ないわけでございます。約一千万人の人がドナーとして登録をしてくださるならばといった専門家の声も聞いておりますけれども、そうした中で、登録カードを持つ人たちが犯罪に巻き込まれるとか、あるいはさまざまそうした事件に巻き込まれるとか、人権無視になるとか、そういったことの心配についてはどのようにお考えになりますか。
  489. 向井承子

    公述人(向井承子君) 人体の商品化、部品化というものは、移植というパンドラの箱をあけてしまったために起きてしまった当然の結果でありまして、このことに関しては「ヒューマンボディショップ」という本が出ております。化学同人社というところから出ておりますが、これはぜひごらんいただければと思います。  また、このことに関してインドその他に研究に行き調査報告している学者の方もいらっしゃいます。この精細については今ここでお答えする時間はないと思います。  それで、先ほど、救急医の方が中山案以外では臓器はとれないんだと。私も先日、さるシンポジウムで大変高名な移植医の方と御一緒になりましたけれども、金田案では臓器はとれないと豪語いたしまして、私は驚いてしまいました。  つまり、今問題になっていることは、脳死は人の死であるかどうかということを論じなければいけないという、これは最終的な命の、最後の生き方の選択の問題として自己決定権の対象となり得るのかどうかということも含めて論議しなければならない問題です。  それともう一つ、移植に対してはどのような厳重な制約が行われなければいけないのか、どのような手続であるならば社会の納得を得られるのかということがまた時間をかけて論議されなければいけないのですが、移植医の方はそこを一緒に考えられ、また救急医の方は自分たちが罪に問われなければそれでいいという非常に安易な目的意識を持ったために、今日の膠着状態を招いたのではないかと思います。  先ほど黒田さんが「社会が先で法律が後から」という言葉を言われたというのは、黒田さんは本当にきょう誠実な素朴ないいお言葉をたくさん使われていると思って、私は感動して伺っておりました。日本のドクター集団に自分たちがみずから愛する命を守るべき人は自分が訴訟を受けても命を守るというその決意があれば、このように法がないから、あるいは私が何かといいますとおまえらは反対派だというようなことを言われることはなかったのではないかと思います。そういう手順を踏んで、法は必ず社会通念を後から支える、そっと支えるものではないかと私は考えております。  同時にまた、臓器売買あるいは臓器のあっせん業あるいはやみ取引ですね、こういうものは厳罰にしなければいけません。先般、ワシントン・ポストを読んでおりましたら、この中に、私は真偽のほどを確認しておりませんので単にワシントン・ポストの記事ということになりますが、マフィアが中に入って開発途上国の臓器を売買しているのに非常に日本のお金がそこに寄与しているということが書いてありまして、私は大変ゆゆしいことだと思っておりました。  一言だけ申し添えますと、先ほど高橋先生がおっしゃっていたUNOSからの臓器提供のことですが、東京女子医大のUS腎以降、私もUNOSに調査に参りまして、結局わからないのです。これは、わからないというのは、きちんと公開された情報の中で日本に送られたものというのが、UNOSは完全情報公開と言っております、その中に入っていないのですね。  やはり、そういう意味では、日本の中でさまざまな情報が公開され、訴える権利もあれば訴えられる義務もある、そのことに対してまた訴える権利もあればという双方の公平な、対等な立場の中で社会通念がつくられていくのが正しいのではないかと思っております。
  490. 栗原君子

    栗原君子君 高橋公太先生にお伺いいたしますけれども、今でも肝臓とか腎臓とか角膜は移植できるわけでございますね。
  491. 高橋公太

    公述人(高橋公太君) はい。
  492. 栗原君子

    栗原君子君 それで、あえてここで臓器移植法をつくろうということで賛成論者でいらっしゃるようでございますが、臓器摘出する場合に、大変新鮮なぴんぴんした臓器摘出しなければつかないわけでございます。そうすることになりますと、助かる可能性のある人からとると、裏返せばそのようにも思えるわけでございます。それから、治療を放棄しないということをドクターはおっしゃるわけでございますけれども、早い段階で一定のところで治療を放棄いたしまして、救命の治療をやめて今度は移植の方に動いていく、臓器を新鮮に保つためのそうした治療が行われることになるということを聞いたわけでございますけれども、このように解釈してよろしいですか。
  493. 高橋公太

    公述人(高橋公太君) 私は、決してそういうことがあってはならないし、ないと思っております。といいますのは、私の個人の意見ですけれども、やはり脳死を個体死、医学的な死と判断した上で、その上でこの脳死臓器移植が行われるわけですから、助かる人からとるとか、そういうことはまずあり得ないと思います。
  494. 栗原君子

    栗原君子君 深谷先生にもう一度お伺いします。  提供者の年齢の下限を委員会でも十五歳、遺言可能年齢といったことが出ておりますけれども、とかく子供の臓器が欲しいということが世界の流れになっておりまして、先ほど申しましたように、ストリートチルドレンがねらわれているとか、そしてまた、年をとりました五十、六十になった人の臓器というのはそう使えないんだということも聞くということになりますと、将来、低年齢化していく可能性はあるとお考えでしょうか。
  495. 深谷松男

    公述人(深谷松男君) 先ほど申しましたのは、今回出されておる臓器移植法案の基本的な考えに立った上で申し上げたわけです。つまり、本人提供意思を一番重視するという立場で。そうすると、私は低年齢化ということはあり得ないと思います。  それとまた別に、全然別のところで改めて臓器移植の問題を論ずるとすれば、それはいろいろ議論は出てくると思うんです。しかし、その場合にも私は、必要とされるから、だから提供する方の、ドナーの方のいろいろの法的保護の点は手抜きになるというわけにはいかない問題が常にこれはあるわけですから、軽々に私は低年齢化するとは判断できないと思っております。それは、もうある意味では限界、人間の世界における一つの限界として考えなければならない問題が出てくる。もちろん、国によっていろいろの立法がありますから、まだまだいろいろの可能性は秘めておるんでしょうけれども、少なくとも今の段階ではその予測は私にはございません。
  496. 栗原君子

    栗原君子君 終わります。
  497. 関根則之

    ○団長(関根則之君) どうもありがとうございました。  これにて公述人に対する質疑は終わりました。  この際、公述人方々に一言御礼を申し上げます。  皆様には長時間にわたりまして有益な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。拝聴いたしました御意見は、本委員会の審査に十分反映してまいりたいと思います。本日は御多忙中のところまことにありがとうございました。派遣委員を代表いたしまして、重ねて厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。  これにて会議は滞りなく終了いたしました。おかげをもちまして、我々が遺憾なく所期の目的を果たし得ましたことはひとえに本日御出席をいただきました公述人の皆様の御協力のたまものと深く感謝申し上げる次第でございます。  また、本地方公聴会のため、種々御高配、御尽力を賜りました関係者の各位に対しましても厚く御礼を申し上げます。  傍聴の方々、きょうは大勢お出かけをいただきまして、本当にありがとうございました。傍聴の方々にも長時間にわたり御協力いただきましたことに対しまして、重ねて厚く御礼を申し上げます。  以上で参議院臓器移植に関する特別委員会新潟地方公聴会を閉会いたします。    〔午後三時五十分散会〕