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公述人(向井承子君) 向井でございます。
本日は、私の
公述の機会をお与えいただきまして、どうもありがとうございます。
私、物書きをしておりますので、私に関する
自己紹介から始めさせていただきます。これは、本日ここでお話をさせていただく
意味につながると
思います。
一つは、私自身、突然の腹腔内の二千六百ccの出血によって意識低下いたしまして、ほとんど瀕死と言われる
状況を体験しております。ICUで救命されまして今日あります。私自身が瀕死の体験を持ったということ。それから
家族の中では息子が慢性的に腎臓を病みまして、その息子が、同じ
人間ですが、事故でクモ膜下出血に遭遇いたしまして、ここもまた救急治療によって命を得ております。それからまた、
家族の中には病状の進行に伴い
脳死の
宣告を受けた
人間もおりますし、そのプロセスで
家族による治療停止の選択を要求された体験もございます。痴呆を伴う虚弱老人あるいは寝たきり老人のみとりの体験の中で、終末期
医療の
あり方等を日常的に考える時間を過ごしながら、この
臓器移植問題というものを考えてまいりました。
そして、普通の暮らしに何げなく浸透する高度
医療と死や病という生活文化とのかかわりの亀裂を味わいながら、
医療によりいたずらに延命を強いられることも、反面、
社会や経済上の理由から治療停止を強いられることがあってはならないと自問自答を続けてまいりました。それが私の執筆活動、
社会活動の原点になっております。この二十年、そういうことで
医療を
中心とするテーマを取材してまいりました。
私の関心は、主として
医療技術の発展、経済、制度の変化といや応なく向き合うことになった人々の暮らしの
内容にあります。
医療技術の
内容については、素人はなかなかわかりようもございません。難しい制度の
内容についてもなかなかわかりようがありませんが、私が向き合って等身大で眺めているその
人間の心の内側はのぞくことができるつもりでございます。そして、
脳死と
臓器移植のような先端
医療を早くから受容した国々の暮らしの現在にも興味を持って、幾度か
医療現場を取材また見学させていただいております。
それから、もう一つの私の
立場は、この間、北里大学の医学部病院
倫理委員会に
委員として参加をして六年目でございます。本日の課題の
内容にかかわるのですけれども、北里大学の
倫理委員会では、
脳死・
臓器移植に関する
見解を足かけ五年目になんなんとする時間をかけて作成しておりまして、実は現在もなお時間をかけてより具体的なガイドラインにするための作業を続けております。
日本にはこのような
倫理委員会は例がないのではないかとよく言われますけれども、私のような一般市民の
立場、
患者の
立場の者の参加もありながら、
医師だけではなくコメディカルスタッフ、学外からは哲学、宗教、
法律などさまざまな分野の方
たちが参加されまして、そして
医療施設の魂の軸をつくる、その施設の
生命倫理の核を育てる作業と同時に、その提言が臨床現場で本当に実現され得る具体性を持ち得るのかということを、常に現場と向き合いながらの共同作業をさせていただいてまいりました。
この
見解につきまして新聞紙上で一部報道されましたものですから、例えば
脳死判定の
拒否権のこととか非常に簡単に結びつきかねないと私は危惧しておりますので、一部読ませていただきます。これはまだ作成途上でございますので、全面公開ということではございませんので、私の判断によりまして一部読ませていただきます。これは本当に一部でございますが、
脳死に対する私どもの
見解の根本の部分です。
脳死患者からの
臓器移植は、不幸にも治療の継続を諦めざるを得ない
臓器提供患者の存在がなければ成立しない特殊な
医療としての側面をもつ。それに加え、この
移植治療はさまざまな
社会的・
倫理的問題をはらんでいる。それらは、すでに述べた
脳死患者の
臓器提供についての
意思の確認と、
家族からのその件についての
同意の問題、さらに、
臓器配分の
社会的公正性、
臓器提供の
意思ある者の確保、
脳死患者と
臓器受容
患者のプライバシーの保護、
臓器売買の禁止の問題などである。この
医療の実施は
社会的合意に基づくことが必要であり、
臓器移植法の制定などもその努力の現われの一つである。当
倫理委員会が、
脳死患者からの
臓器移植を肯定するあるいは否定する多くの学内外の有識者の
意見や論拠を参考として、長時間の研究と討議を重ねたのも、この
治療法の根底にある問題を深く理解することに務め、安易な
結論に陥ることを戒めたからに他ならない。
つまり、安易な
結論に陥らないために長時間の研究と討議された時間を申し上げますと、五年ということは、月一回二時間ですから十二カ月で百二十時間、大変長時間ということになります。それでなおかつ
結論に至っておりませんのは、
法律の文言を
立法府で安易に決めることは可能かもしれませんけれども、臨床現場で実効性を持たないものは何ら
意味がないというふうに私どもは考えたからでございます。
という
立場から、そのような体験を踏まえましてこの作業をしておりますさなかに、
臓器移植法案が九四年の四月に提出された。その際に、
法案の
内容に問題を感じましたし、また
審議の
あり方にも問題を感じましたので、市民活動として
臓器移植の性急な
立法化に
反対する連絡会を設立し、そしてさまざまな
専門家の方やまた普通の市民の方
たちの声に支えられながら、
脳死を人の死とする性急な
立法化に対して疑問を提示し続けてまいりました。
私の現在の
立場を申し上げますと、
脳死を人の死と性急に
立法化することには
反対でございます。しかし、現在の最高の
倫理的、
技術的水準による
脳死判定から
臓器提供に至る手続が、限りなく厳重な性格を持ってメディカルプロフェッションにより用意され、
社会の納得を受けながら
移植に道を開く方法は試行されなければならないのではないかと考えております。
それから、
修正案の提出につきましては、私のような市民の
立場の者にとりましては、
新聞報道だけを論拠に物を言うということは全く理解ができないわけでございます。きのうの
委員会の
審議を私はビデオで少々見せていただきましたけれども、まだ提案される前に双方の
意見を、影武者というのか幽霊というのか、幽霊の存在を問い合っているような隔靴掻痒の論議というのは
国民を愚弄したものであると私は
思います。
立法府のこのような性急な
審議と、もうこれは裏取引としか言いようのない
国民にはそのように見える方法によって行われることに対して、私は不信感を表明させていただきたいと
思います。
さて、それでは私が各国の取材をしてまいりました中で、
アメリカの
状態を、
移植先進国が今どのような
状態に陥っているのかということを、素朴な取材者、
患者としての取材者の
立場からお話しさせていただきたいと
思います。
アメリカはたくさんのドキュメンタリーが
臓器移植に関して出ておりまして、例えばもう古典的と言われてしまいましたがマーク・ダウィの著作、「ドキュメント・
臓器移植」という書物があります。これは主に
アメリカを舞台に
臓器移植の歴史、
立法化の経緯、
生命倫理の
考え方の推移、
移植産業の実態、政治家やメディアによる
世論操作の様子などを驚くほど具体的に繊細にわたりつづった記録でございます。これは冒頭、書物は「例によって、この場合も悲劇から始まった」と書き出されております。十五歳の少年がローラースケートで転倒して、大量の硬膜外血腫で脳が浮腫に陥っていくプロセスから書き出されております。この本の
説明をしている時間はありませんが、これと同等以上の繊細で具体的なまさに執拗なほどの取材に基づいたこの手の本というのはたくさん出ております。
私は取材者の
立場から見ますと、このような出版物が出版されるということは、まず情報公開が徹底していること、これは政治、行政、
医療機関、そのすべてに情報公開が徹底しているということ、そしてそれによって育ってきた読み手のまなざしが非常に成熟したものとなっていること、対等な
医療、
患者、
立法過程への好奇心があるということ、そういうことからこういう出版物が出るのではないかと思っております。
そして、
アメリカではペンシルベニア、バージニア、インディアナ州などを取材いたしましたけれども、これはピッツバーグ大学の本拠ということでございます。
まず驚くのは、大変
臓器不足の
現状でございます。もちろんその前に驚きましたのは、ピッツバーグ大学メディカルセンターで、
移植によって大変元気になった方
たちに何人もお会いいたしまして、これはもう非常に私にはショックでございました。それで、お子さんを連れてきている方もいらっしゃいましたし、またさらに驚きましたのは、コメディカルスタッフの方
たちの質と量の全く
日本とは雲泥の差のその
状況でございました。
余談ですが、私はピッツバーグ大学に頭から申し込みまして、これを今お手元の資料にちょっと書いてございますが、ただのフリーのジャーナリストということで申し込んで、病院じゅうをすべて見せてくれました。これは自信のあらわれかと
思います。そのときに、スターズル教授に会いますかと言われまして、私、結構ですと申し上げました。それから、ついでに藤堂
先生に会いますかと言われてのぞいてみましたけれども、実はそのときに広報課の方に、あなたのようなジャーナリストは
日本から取材に来ませんでしたと言われました。どういう
意味かと申しますと、スターズルさんに会いたい、藤堂
先生に会いたいという方が多くて、コメディカルスタッフの悩み、喜び、
患者とのかかわり合い、また
移植を待つ方
たちの苦しみを取材に来られた方は少ないと、そういうふうに言われました。
次いで、そこから
臓器不足の
現状というものに突き当たりました。
先般、
衆議院の
参考人になられた山口
先生もおっしゃられていましたけれども、
臓器移植を待つ人は非常に増加しております。これは
臓器移植という
医療の持つ矛盾なのですけれども、私どもの
最初の常識といいますのは
免疫抑制剤等のまだ未成熟なこともあって大変
移植の後の予後がよくないという情報を手にしていたわけですけれども、実際これは現在はQOLにまた大変いいものではないかというふうに
思いました。ところがこの矛盾が、
移植の
成功率が高まることによって
移植を求める人が増加する。それから一方、車のシートベルト、オートバイのヘルメットの着用、交通安全対策が進み、銃犯罪が減っていくということで
臓器の
提供者が減少している。これは非常に
国民にとっての福利がお互いに衝突し合って重大な葛藤を招いているという現代の象徴です。一人一人の欲望、お互いの幸福を願うという
行為が恐ろしい葛藤に突き当たっているわけです。
それで、ペンシルベニア州の
臓器獲得センターを訪れたのですが、そこの職員からいただいた地域の人への教育啓発資料には、「一年間に一万人から一万五千人の人々が医学的に
臓器提供者にふさわしい
状態で亡くなるのに、
臓器提供は四千八百人しかいない」と記されていました。また、このように
アメリカの資料は実に具体的で詳しいものですから、その
意味では実情がわかりやすいのですが、次のようにも書かれておりました。「
提供される
臓器は、おおむねシビアな頭部の傷害の結果、
脳死と
宣告された人
たちからのものです」として、その原因としてはっきりと「自動車事故、脳出血、銃の事故」等々と続いております。
私は、どれも人生の不幸というもので、むしろ不幸の原因となる交通安全対策、内科的治療、犯罪対策、生活環境の改善等が重要だと思うのですが、それを飛び越えてその
臓器獲得センターの資料は
臓器資源の減少が
社会問題ということになっているところに、不幸が期待される
社会の精神的荒廃の
現状を見る
思いがいたしました。
このような需要と供給のアンバランスに対して非常に激しい
議論が行われてまいりまして、それを踏まえた
立法が繰り返されてきたのも特徴のようです。
私が行きましたあらゆるところにリクワイアド・リクエスト法、これはどのように訳すのかは後から法学者の
先生たちにフォローしていただきたいと
思いますが、私は
臓器・組織依頼義務化法というふうに訳させていただきましたけれども、この
内容は、
脳死判定を受けた
患者が
臓器提供にふさわしいと判断された場合には、近親者に
臓器提供を依頼することを病院の職員に義務づける法です。行財政当局が病院に対してメディケアの
医療費還付の必要条件として
臓器の
提供依頼を義務づけ、支払いを停止するという制裁を伴う連邦法で、現在、二十六州とワシントンDCがこの法に応じた各種の規則と政策を採用、その
法律のもとに病院認可法の改定が行われ、
臓器提供しない病院は
移植病院として認可、再認可しないという方法も公共政策としてとられております。
そして、このような
法律策定は、これは大変私は興味深かったのですが、その
前提に
臓器提供の依頼があれば
家族は断らないだろうという暗黙の了解がなければできないわけですが、見事に失敗でした。一九九三年のギャロップの
調査によりますと、「
臓器の
提供と
移植に対する米
国民の意識——
臓器提供への協力に関する
調査」というのがありまして、米国人の九五%が
移植について知識があり、七五%が死後に
臓器を
提供したいと考えていると出ております。数字だけを見ると
家族は喜んで
提供するはずだとの確信につながるのですが、政策が臨床現場の経験的な思考判断よりも、むしろある
意味では
専門家による理論重視
社会として採用されてきた結果の失敗だと
思います。
実際、臨床現場で
臓器提供の要請は行われなかったということで、私は
移植の殿堂と言われるピッツバーグ大学メディカルセンターやその周辺の
臓器獲得組織を訪ねているのですけれども、ピッツバーク大学も含めて一九九一年から九二年にかけて一万六百八十二人のカルテを検討、
臓器提供を依頼した
専門家にインタビューを行った論文を見ましたけれども、これは大変大がかりな研究
報告です。死亡者の一六・五%は
移植に適する
ドナー候補とみなされ、病院側はその七三%に
臓器提供を依頼したのですが、その結果、
同意は四六・五%、つまり過半数は拒絶の
意思を示したわけです。これは
家族のためらいが理由と言われております。また、病院職員が
家族のためらいを押しても
提供を要請するということをためらうことです。そして、
家族の拒否率は次第に高まっていると言います。
私はUNOSの職員の人、それからペンシルバニア州の
臓器獲得センターの方
たちにお会いして、また壁に張っているものを見、各種の論文等資料をいただいて、十項目ほどの愚痴といえば愚痴、あるいは言いわけということもしていましたけれども、時間がないのですがこれだけちょっと読み上げさせていただきたいと
思います。
第一番目、体が傷つけられることへの不快感。葬式に耐えられないほどの傷をつけられる。これはUNOSは盛んに抵抗しておりました。それから第二番目、
臓器を金で
提供したと思われたくない。第三番目、
臓器を一つだけなら
提供したいのに、勝手に全部取られてしまう。第四番目、
臓器を
提供すると金がかかるという誤解。
脳死判定から
臓器摘出までの諸経費をだれが支払うのかわからない。第五番目、
医師に対する不信——
ドナーカードを持っていると、
医師は救命をしないに決まっている。第六番目、
臓器提供すると
レシピエントが
家族を訪ねたりして
家族を悲しませるに違いない。第七番目、宗教的な理由、これははっきりしております。第八番目、
提供できる
臓器の種類への無知のため自分はできないと
思い込んでいる。第九番目、金持ちだけが
移植を受けられる。これに関してUNOSは、病院は財政援助のシステムがあるのでなぜ相談しないのだろうかと、コーディネーターの力量不足として言っておりました。
その他いろいろあるのですけれども、ここで飛び出している言葉が、壁に張っているのがすべて教育啓蒙、教育啓蒙ということになっておりました。
生命の獲得が余りに強調されると
気持ちが悪いものですけれども、
脳死を容認してそれに依存する技術を日常化すると、そのような
倫理の倒錯が起きてしまうのではないかなと
思います。そして、リクワイアド・リクエスト法に基づいて
臓器獲得努力義務が掲げられているにもかかわらず、UNOSのデータによりますと、
アメリカの
臓器提供数は横ばい、そしてことしにかけては減っております。
ということで、それでは何が行われるかということなのですが、今
アメリカでは次の傾向が出ております。
心停止後の
患者からの
臓器提供を考える。三
徴候死に戻ろう。そして、これも
脳死判定への疑問という極めて高度の科学技術的な理由と、もう一つはその方がたくさん
臓器が取れるだろうという功利主義的なもの、科学と功利主義的なものと、あとは文化的なもの、不信感、こういうもののすべての総合によって
脳死概念を捨てようということが今出ております。