○大森礼子君 平成会の大森礼子です。
きょうは、時間の
関係で専ら
中山案の
提案者の方に
質問させていただきます。
質問に入る前に、ちょっと問題提起という形でさせていただきたいんですけれ
ども、最初は、
中山案の内容に目を通しましたときに、
脳死判定を受けた人を
脳死体とするのは、この
法案の目的である
移植医療の適正な実施に資することとの
関係で、
臓器移植に関する範囲内だろうというふうに私は解釈したのであります。
私も多少
法律の条文を読んでおりますけれ
ども、例えば「
死体(
脳死体を含む。)」、「A(Bを含む。)」と規定された場合には、本来AとBは別物だけれ
ども、この
法案の取り扱いについてはBをAと同じようにみなす、あるいは扱う、こういう規定の仕方が多いと私は理解しておったわけなんです。
こういう
考え方が特異かといいますと、決してそうではなくて、日経新聞の平成六年四月二十日付の社説があるんです。これは当時の
法案なんですけれ
ども、「
医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、
移植術に使用されるための
臓器を、
死体(
脳死体を含む。)から摘出することができる。」と。同じ形なんです。これを引用しましてこの社説は、「
臓器移植の場合だけ、
脳死を人の死と認めた形になっており、」と。この後、合意形成が不十分だった証拠だというふうに書くんですけれ
ども、こういうふうにとる解釈も十分あるわけなんです。
ところが、
衆議院での
審議内容に接してみると、どうもそうではないらしい。社会的合意ができており、それでこれを確認する規定だという御
説明なんです。もし確認する規定だとするならば、そういう
法案を認めるということはどういうことになりますかといいますと、六条一項の明文化によりまして、この法が可決されますと、他の法令解釈の
関係、つまり、死とか
死亡とか、そういう用語を含む法令解釈の
関係でも、やはり
脳死イコール人の死という解釈が
一般化する。これを結局国会で認めることになるんだろうと思います。
中山案提案者が幾ら、この
法律で
脳死イコール人の死と定めるものではない、つまり創設的な規定ではない、確認規定なんだという言い方をされたところで、立法化された場合の法的効果は同じであると私は思うんです。だから、そういう
法案は認めていいのかどうかという
問題点。
それからもう
一つ、目的との
関係なんですが、目的と手段のバランスの
関係です。
平成九年四月二十五日付読売新聞で識者座談会というのがありました。その中で、日本
移植学会の副会長の小柳氏が、これは私もこの程度の数なのかとちょっとびっくりしたんですが、
脳死者を年間九千人としても、
臓器提供に適するケースは六分の一、約千五百人で、文書による
意思表示をしている人となると数人程度だろうと思うと。これは多分非常にシビアな見方をされたんだと思うんですけれ
ども、仮に数十人であってもいいと思うんです。こういうふうに非常に限られた数である、だから世界一厳しい
法案なんだとおっしゃっているわけなんですが、他方でこうおつしゃつている。死の定義には本来
法律は要らない。しかし、
臓器を出す側の
救急医療スタッフを守るためにも、
脳死は人の死とする
法律が必要だと確信していると。こういうふうにも述べられているんですね。
それで、私は
法律を決めるごとは大事だと思うんです。
法律がなくても
移植は実施できるという方もいらっしゃいますけれ
ども、できますけれ
ども面倒です。やっぱり告発する人は告発するし、民事訴訟を提起する人は提起する。その場合に被告発人の
負担、それから応訴、訴えに応じなくてはいけない
負担というもの、これからやっぱり、ちゃんとやったお医者さんに限ってですが、解放してあげるということはもちろんとっても大事なことだと思うんです。
だから、刑事事件の場合ですと、
法律の規定する要件をちゃんと満たせば違法性がないんだから、違法阻却するんだから犯罪が成立しないとしてあげること、これは多分
猪熊案の
考えだと思うんです。それから、民事訴訟の場合でしたら、
法律の規定する手続をきちんとやったという事実を立証すれば、それが請求に対する抗弁となるような形にしてあげるということは必要だと思いますし、迅速な裁判の要請にもかなうんだろうと思います。
だから、そういうことは必要なんですけれ
ども、その
医師の免責を認めるために
脳死イコール人の死とする、そういう
方向までとる必要があるのかどうか。私は、目的達成の手段のためとしては余りにも相当性を欠いているというふうに思います。ですから、ほかの法令との解釈それから整合性から見ましても、いろんな社会的混乱を引き起こすであろう。
医師を守るために
法律が必要だとしても、
脳死を人の死とする
法律でなければ、本当にその目的を達成することができないのだろうかどうか、こういう疑問を持っております。
ここのところはやっぱり十分議論を詰める必要があると思います。見方によっては、正直なところを言いますと、ちょっとお医者さんがだだをこね過ぎているんではないかなと思うところもありまして、一番いい落ちつかせどころがあると私は思います。
それから、
猪熊案ですと、死んでいないんだったら殺人罪、承諾殺人罪になると。だから、そうならないというのが
猪熊案だと思うんですけれ
ども、法令
行為にするというのが。
それから、お医者さんの中には、違法性を阻却してやるから殺人をしなさいと言われても、
医師の
立場からは到底応じられないとか、あるいは
生命に軽重をつけるから医のモラルに反するとか、こういうことをおっしゃるわけですね。だから、
法律で適法とされてもだめなんだ、
脳死は人の死と規定しない以上、医のモラルに反するんだと、こういう言い方をされるんです。私は、これもちょっとだだをこねておられるんじゃないかなと。
なぜなら、一方で、日本
移植学会というのは、昨年、平成八年九月二十八日に理事長声明として、
法案成立待たずしても
臓器移植をやっていくんだという方針を出されたわけです。そして、
法案制定前に
脳死体から
臓器提供を行う施設は、施設内倫理
委員会の認可を受けることを必要とするとか、こういうことを言っておられるわけなんですね。これは非常にお
考えになってのことだ、切実な
検討の結果だと思うんです。しかし、包含しない現状下では、それが殺人罪、承諾殺人罪に当たることは間違いないわけですから、じゃ、この場合の
医師のモラルというのはどうなるのかなという気が私はするんです。
要するに、言いたいことは、もうこっちの場合には医のモラルが都合よく使われていくんじゃなくて、もうこんな議論はやめて、やっぱり本当に
臓器移植を待つ
患者さんの心情を思えば、一日も早くいい
法律を成立させるべきだと思うんです。両案とも
臓器移植の道を開いて、医者に免責を与えるという、ここでは共通なんです。手法が違うだけなんですね。その点で、
国民生活にとってより弊害の少ない手法、これも
考えていけばいいんじゃないか、こういうふうに思っております。
臓器移植が祝福される
医療になる。大事なことはドナーの方がふえてくれるということだと思うんですけれ
ども、やっぱりそういう
法案というものを
考えていく必要があるのではないかなというふうに思います。
前置きが長くなって済みません。
質問に入ります。
それで、お手元に資料を配付しましたけれ
ども、いつも
提案者から、
脳死臨調、臨調、おおむね社会的合意と言われるんですね。それから先に議論が進まない。それで、二回のその臨調の結論の基本となった意識調査の内容がどうだったかということで、お手元に資料を配付いたしました。二回やっております。有識者
対象か
一般国民対象かで数字が違っております。それから、男性と女性の比率がどうであるかでまた違っているんですね。かなり結果が異なっております。臨調はおおむね社会的合意ができたと言うんですけれ
ども、この中身を見ると、必ずしもそう言えないのではないかということで、資料を配付させていただきました。
それで、平成三年十月とあるこの資料、これは
一般国民を
対象としたものですが、二枚目の右下の方でクェスチョン八というのがございます。
A、Bどちらの
考えに近いですかということを言っているんですが、その
一つは、「
脳死は「人の死」とは
考えられないけれ
ども、
本人の
提供の
意思がはっきりしていれば、
脳死の
状態からの
移植を認めてよい。」、これは金田案、
猪熊案の方に流れる
考えだと思います。どちらかというとこれに近いという人が四九%。
それからもう
一つは、「
脳死が「人の死」でないとすると、
脳死の
状態からの
移植は、人の
生命を断つことになる。
脳死の
状態からの
移植は
脳死が「人の死」であることを認めたとき、はじめて行える」、ヒの
考えに近い人というのは二九・八%なんですね。実は臨調の答申が出た後のNHKの調査でも大体こういう似たような結果が出ておるんです。
提案者の方に
お尋ねするんですが、この
法案作成のときに、このような
意見というのはむしろ逆の
法案なんですけれ
ども、どのように
検討されたんでしょうか。簡単で結構です。