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参考人(正村
公宏君) 正村でございます。
レジュメがあった方がいいということを
事務局からも言われまして、悪い癖なんですが、
レジュメをつくるとたくさんのことを書いてしまいました。二十分でちょっと難しいかもしれないんですが、読み上げながら私の
意見を述べさせていただきます。
まず第一に、
社会保障、
社会福祉の
分野の
事業の
目的をどこに定めるかということについて、私の
理解では
日本で必ずしも十分な合意が成立しているとは思えない。特に、
政治家の
皆さん方の御
発言の中に時々
弱者救済という
言葉が出てくるのは
大変気になります。
私の
理解では、これはちょっと一方的な
理解かもしれないんですが、
先進社会における
社会保障、
社会福祉の
目的は
弱者救済ではなくなっていると私は思うんです、事実において。また、
弱者救済という
考え方ではない方がいいというふうに考えております。
簡単に言えば、
国民生活の
安全保障のための
社会の
共同事業であるということであります。
生活のさまざまな起伏、さまざまなアクシデントがありますし、いろいろな不確実な問題があるわけでありますから、それに対応するのには
社会の
共同事業として
安全保障を考えた方がいいという道を選択してきたんだと思います。もちろん、
生活の
安全保障のある
領域は
個人や家族の努力にゆだねられますし、また
企業ごとにということもあっていいと思います。
しかし、私は
日本では
企業に対する
個人の従属の
程度が強過ぎると思っております。
厚生年金基金のように
公的年金の
運営でさえも
企業年金とドッキングさせてしまっているというのは、
企業の枠の中で
安全保障を考えるという傾向を非常に強くしてしまって、
国民の
社会全体の
システムのあり方に対する関心を薄める役割をしているというふうにかねてから批判してきたものでありますが、そういう問題があるということを指摘しておかないわけにいかないと思います。少なくとも、ある
領域については
社会の
共同事業として維持した方が合理的だというふうに考えるべきだと思います。
社会保障をどういう範囲のものにするかというのは、
同情の問題とか
価値判断の問題とかいうのではなくて、どういう問題ならば
社会の
共同事業として、
社会的な
制度として、
公的制度として維持した方が合理的かという
合理性の計算の問題として
議論すべきであって、
弱者救済云々というセンチメンタルな
言葉が乱用されているのは
制度の
改革を私は阻んでいるというふうにかねてから考えてまいりました。
不
確実性に対処するためには、例えば老後を迎えたときに要
介護状態になるかどうかというのは大変不確実であります。私が何歳まで生きるかというのは不確実でありますし、要
介護状態になる
確率は不確実であります。あなたの要
介護状態になる
確率は二〇%だと言われたからといって
介護に必要な
費用の二〇%を積み立てればいいわけではないわけでありまして、要
介護状態になったときには全面的な
負担が、もし
公的保障がなければ
個人にかかってくる、そういう問題なんですね。あるいは、九十歳でぽっくり幸い死んでしまうかもしれない。そのときは、それまでに例えば掛け捨てになったとしてもそれなりの
負担をして
安心感を得ていた方がずっといいだろう。あの世に行って、おれは
税金だけ払わされて
介護サービスを受けなかったと文句を言う人はいないだろうと思うんです。
そういう
安心感を
国民すべてに
給付するということが基本なのであって、そういうことから考えたら、この問題は大
規模な
強制加入の
システムにした方がいい、この問題は
個人にゆだねておいてもいいだろうというふうに合理的な
判断をすべき問題であって、
同情とか
価値判断とかそういう種類の問題ではないというふうに一度割り切って考えた方がいいだろうというのが現在の私の
考え方であります。
もし、何らかの
分野の
仕事を大
規模な
強制加入の
システムにゆだねたらいいということで選択をするならば、そのための
費用は
社会保険、
社会保険料という形で徴収することもできるし、租税という形で徴収することもできます。
日本では
社会保険が
社会保障制度の根幹をなしているわけでありますけれども、私が非常に気になるのは、
社会保険料の徴収の仕方が非常にやわである、ソフトであるということであります。ですから、払わない人がたくさん出てくる、払わない人に対して断固とした処置をとっていない、そういう仕組みというのは問題があるだろう。
社会保険の
制度というのは
強制加入なんだというふうに決めているわけですから、
強制加入が
実効性を持たせるようにすることをやらないといけない。そういう点では、
日本の
国家はちょっとソフトステート的なのではないか、やわな
国家ではないかというふうに思っております。ほかの点でもそれは言えるわけです。
最後に、もう
一つこの第一のところで述べておきたいのは、ちょっと次元が違うかもしれませんが、
少子化の問題であります。
少子化の問題についても、これは過去における
合計特殊出生率に伴う
人口構成の
変化と
人口の減少は現在においては
与件であります。
高齢化も
与件であります。この
与件に対して、つまり与えられた
条件でありますから、これにどう緊急に対処するかということを真剣に考えなきゃいけませんが、将来の
子供の数は必ずしも全面的に
与件であるわけではありません。
生活の
構造が大きく変わっている中で、
子供が生まれやすく育てられやすい
条件を
社会がどれだけつくるかということはまじめに
議論していいことだと思います。
子供の数をふやす、
人口をふやすということが
目的ではなくて、
社会が急激な
構造変動を起こし、
人口が激減し、
子供たちの
問題発見能力と
問題解決能力が失われるような
社会を避ける、
社会の衰退を避けるという
観点から、
子供を産みたいという自然な欲求が満たされるような
条件をつくる。別に、産めよふやせよということを要求するわけではありません。
かつては、例えば農家の
女性とか商家の
女性は
子供を育てながら男性と同じ
仕事をするというのは当たり前だったわけです。そのことが可能であるような
構造であったわけです。決して楽ではない、極めて厳しい
労働条件ではありましたけれども、
子育てと
仕事をするということが当たり前、
一緒にやらなきゃならなかったし、
一緒にやれるような
職住一体の中で暮らしていた人が圧倒的に多かったわけでありますから、
子育てと
仕事をするということが当たり前だったわけです。
価値観の
変化もありますけれども、現代において
女性が働こうと思うと、一時間も一時間半もかけて通わなきゃならないという
生活の
構造になっているわけですから、
子供を産んで育てるというごく自然の人間としての欲求が満たされない、欲求を貫徹することが阻害されるという
社会的
条件が強まっているわけです、産業
社会の
構造として、あるいは都市化が進み過ぎたためにということもありますけれども。
こういう
状況の中で
労働条件のあり方を見直し、今のように残業ばかりやっているような労働の
構造でもって
女性が働き続けることは困難であり、
高齢者も働き続けることは困難でありますけれども、そういう
社会的な
条件を変える、
子育てを支援する
社会的な
システムをつくる、これは当たり前の話なのであって、特別のことではないんです。産業
経済全体が変わったわけですから、その変わった中で人間らしい生き方ができる
条件をもっと
目的意識を持ってマクロでつくっていくということを怠ってきた、あるいは非常に不十分である、このことが今の問題としてあるわけです。そこから先はいろいろほかの文明論のような問題が出てきますから
議論は難しいんですけれども、きょうは立ち入りません。
レジュメの二番目になりますが、端的に
日本の
社会保障、
社会福祉のどんな点に問題を感じているかということを箇条書き的にといいましょうか、ここに書いてある範囲でもって申し上げます。
まず第一に、
負担の水準、ついでに言いますと受益の方の問題、
給付の
条件も見直すべきだと思いますが、
負担と受益の水準を適正化するという努力が非常に不十分であったために、
システムの存続が危機に直面しているということであります。
端的に言えば、
年金制度は
社会保険の建前になっておりまして、修正積立方式でスタートして、
成長経済のもとで初めから完全積立方式は不可能だったと思いますけれども、修正積立方式の建前でスタートしておきながら、なし崩しに賦課方式に行っている。なし崩しなんですよ。つまり、ちゃんと
社会的な合意を得て賦課方式に行きますよと言ったんじゃなくて、
保険料の積み立てが足りなくて、だんだん食いつぶしていって、そのうちに賦課方式になりますよ、
負担が三七%になりますよと、こういう話になっているわけであって、これは
日本の政治の怠慢であった。
政治家のとあえて言いませんが、政治の怠慢であった、あるいは
日本政治
システムのどこかに致命的な弱点があった。つまり、二十年、三十年先のことを考えて、どうしても必要であることを
国民に提起する能力を
日本の議会政治というのは持たなかったということを示しているんだというふうに考えざるを得ないわけであります。
かつて臨調のときに、将来、
高齢化で
国民の
負担が重くなるから今のうちに
政府をスリムにするんだということをしきりに言われましたけれども、あれは戦術であって戦略的には間違っているわけです。現在の世代の
負担をきちんと適正な水準に上げなかったら、将来の世代の
負担が重くなるわけです。公共投資を削ったり国鉄を
民営化したり、あるいは農業の見直しをしたりするのは、それはどうしても必要なことであります。しかし、
社会保障、
社会福祉の
分野に関しては、どうしてもこれはやらなきゃならないと思ったら今の世代からもっと
お金を取っておいた方がいいわけです。今の世代から
お金を取った方が将来の現役世代から余り
お金を取らなくても済むわけです。今の世代から取るべきものを取らないできたから、将来の世代の
負担がどっと重くなる。公共
事業もどんどん建設
国債でやるから将来の元利償還が重くなってしまう。つまり、将来の世代のことをだれも考えないで行き当たりばったりのことをやってきたからおかしくなっているんですね。そういうふうなことがずっと続いているということであります。
さらに、いろいろな集団の間の受益と
負担の公平ということが十分に確保されているとは思えません。
端的な例を
一つだけ申し上げますと、例えば、働いている
女性と給与
生活者の妻である専業主婦の
女性との間で租税と
社会保険料の
負担において公平性が保たれているだろうか。
制度を積み上げ積み上げでやってきたために非常に複雑になっているんですけれども、公平性が保たれているとはどうも言えないような気がする。中立的でない、公平でもない。こういうことが放置されてきているというのが私は問題だと思うんです。
日本の税制全体がそうなんですけれども、積み上げ積み上げ積み重ねと、その場しのぎにいろいろ手直ししているうちにだんだん複雑になってわけがわからなくなっている、これが
現状だと思います。
それから、そのために受益と
負担の公平を点検すること自体が極めて困難になってしまっている。私たち
専門家が見てもなかなかわからない。
貝塚さんのようなずっと専門でごらんになっている方は違うと思いますが、私のように少し外側にいて、マクロで全体の
経済政策を考えながらこういう問題を考えようと思っても材料がない、なかなか得られない、一生懸命集めても極めて複雑。つまり、
国民にますますわかりにくい
制度をつくって
合理性と公平性が点検できない、これが一番大きな問題だと思います。
そして、
社会保険を建前としていながら、実は
社会保険の原理の貫徹が極めて困難になっている。これは詳しく申し上げるまでもないと思うんです。それは、
年金制度を二階建て
年金にしたのは私は大変いいことだと思うんです、つまり、
ばらばらのものを統合していくということで。その結果として、
社会保険という建前ですべてが
運営されていないという仕組みになっている。でも、多くの人は
社会保険の建前が
運営され維持されていると思っている。
厚生年金の積立金はまだありますから、それは今の年齢構成がそうなっているからあるんですけれども、実際は
保険料収入が足らないわけで、取ります時期が早くやってくるわけです。そういうことがあるのに、
自分の払った
保険料が将来の
給付で戻ってくるとみんな思い込んでいるわけです。
給付をちゃんともらえるだけの
保険料を払っていないかもしれないんだけれども、つまり
社会保険の建前が破壊されている
可能性が濃いんだけれどもよくわからない、そういうことが私は非常に問題なんだと思います。
法治
国家としての法がきちんと守られることのためには、法に対する信頼がなければいけない。法に対する信頼がなければいけないということは、透明性をできるだけ確保するという努力をしなきゃいけない。民主主義なんですから主権者に対して透明性をできるだけ確保する。透明性を確保することによって絶えず公平性と
合理性を点検するという原理が、どうも
日本の今までの政策
運営を拝見していますと守られていないのではないかという感じがするわけであります。そして、十分な
安心感が確保されていないのに、大変つまらないばらまきがたくさん行われている、大した額ではないかもしれないけれども、だんだんふえていくわけです。
高齢者もふえますし、ばらまきが行われている。
小さなつまらない例を申し上げます。私は昨年十一月に六十五歳になりまして、生産年齢
人口であることをやめさせられたわけですけれども、まだ現役の
教授として
あと五年は今の
制度ではいられることになっておりますから、まあ頭がおかしくなってこない限りは頑張りたいと思っております。ちょっとおかしくなったというときは言ってくれよと助
教授に頼んでありますけれども、そのときは先生は多分言うことを聞かないでしようと言われているんですが、とにかくそれは冗談として、十分働けますけれども、六十五歳になった。
何がまず起こったかというと、お正月にお祝い金というのを市長さんがくれるんですね。敬老の日には一万五千円くれるんじゃないかと思います。正月には五千円。何でこの
お金を私はもらわなきゃならないのかと。それなのに、仮に要
介護状態に、余り縁起でもない話ですけれども、私が倒れたとしますね、どこへ相談に行っていいかというのはわからないわけです。相談に行ったら確実に対応してもらえるかという確信がないわけです。東京の場合には、いや老人ホーム二百人待ってますという話になっているわけです。私は、たまたま障害の息子を抱えていますけれども、彼を育てることが難しいと、私が病気になったり家内が病気になったりしたらどうしようといったら、青森県の施設ならあいてますよという話なんです。
こういう仕組みを変えるという努力をやらないでおいて、ちびっとちびっと
お金をばらまく。
福祉と何の関係もない、
政治家の
皆さん方の点取りなんですよ。これは点数稼ぎだ、あるいはやってますという格好づけなんです、こういうことをやってきている。そうじゃなくて、基本的な
部分で保障があるという仕組みをつくっておいて、つまらないばらまきはやめますよと、この見識を示していただきたいわけです。そういうことをやられた市長さんはいますよ。枚方の市長さんはやめたんです。こういう
国民の
安心感を十分に保障するという仕組みをつくることが基本であって、その骨組みをつくれば、できるだけ合理的に、
システムの存続
可能性をちゃんと考えて
給付は削らせてもらいますよ、
保険料は上げさせてもらいますよと、そういうことの問題提起をなぜしてくださらないのかというのが私の
現状に対する不満であります。
時間がなくなってまいりましたので、もっと駆け足で三番を申し上げます。
社会保障と
国民経済の関係、実はこれがきょうの
議論の中心テーマなのかもしれませんが、私の
考え方はここに並べてあるようなことであります。
まず第一に、少なくとも現在までの
日本の場合には、
社会保障の過剰ではなくて不足が
経済の不均衡の原因になったと思っております。
御承知のように、
日本は貯蓄超過型の
経済であるわけです。これまではそうだったし今もまだその様相が残っている。貯蓄超過型の
経済である。貯蓄率が非常に高い。その反面、国内の投資は落ちている。民間
企業設備投資は
成長率が落ちていますから当然落ちてくるんですけれども、今までは
生活関連の
社会保障、
社会資本整備とかあるいは
社会福祉づくりとか人的資源の育成とか、そういうことに対して十分
お金をかけてこなかったわけでありまして、
経済学のイロハの原理なんですけれども、貯蓄超過分はちょうど貿易・
サービス収支の黒字に対応するということになります。「原因になる」と書いてありますが、これは
貝塚さんから異論が出るかもしれません。ちょっと正確でないんですが、因果関係は必ずしもいつもそうだというわけじゃありません。恒等式的に成立する関係というのは、貯蓄超過分がそっくりそのまま貿易・
サービス収支の黒字と一致すると、
日本はそういう
構造であったのであります。
福祉をやり過ぎて、内需拡大し過ぎて貿易が赤字になっちゃったというのとは違うんですね。
ですから、
貝塚さんからお話がありましたような先進
福祉国家の例は
参考になります。前者のわだちを踏まないようにするという
意味では
参考にはなりますけれども、そこで
議論されていることをそっくりそのまま
日本に当てはめるというわけにはいかないと私は思います。
日本自身の
状況を見詰めて我々の政策を組み立てなければいけないと思います。
特におくれているのは
介護であります。もっと早く
介護などの保障を確立する必要があったと思います。そこがないということが
国民の不安感の非常に大きな原因になっているわけであります。
介護保険の
制度が、間もなく成立するのか、また先送りされるのかわかりませんが、私は、
保険料というのは無理だろうと思っていますけれども、何らかの
介護費保障の
制度をつくるべきである。ただし、
介護の
サービスシステムは地域
福祉の仕組みの中でつくられるべきであるし、民間のさまざまな主体がこの
分野に参入できるようにした方がよろしい。
介護費用の保障ですね。これは非常に不
確実性が高いですから、
社会的な保障の仕組みとしておつくりになった方がいいだろうと思います。いや、おつくりじゃなくて、私も該当者になる
可能性があるわけですから、早くつくっていただいた方がいいというふうに考えるわけであります。
削らなきゃならない
部分があります、財政の中で。例えば農業の補助金。
日本の農業は民有国営農業であります。国営農業の弊害が決定的にあらわれている。農業で生産されている付加価値の三割も補助金がつぎ込まれているというふうに計算されています。これほどひどい産業はないわけでありまして、やはりこういう
部分は見直す必要がある。それだけ補助金をつぎ込んで
日本の農業がよくなったかというと、そうじゃないわけですよ。官製カルテルで一律減反という大変愚かな政策をとってじり貧になって、やる気のある農業者が育たなかったわけですから。つまり、過保護というのは、
子供でもそうですけれども、産業でもだめなわけで、そういうところは徹底的に見直していただきたい。
ところが、そういうところを見直すのが一番難しい。公共
事業も、高度
成長時代につくった何カ年計画とかいうのをそのまま漫然とやっているわけで、必要性があるかどうか根本から点検し直すということがあるのに、おやりになっていないような気がするんです。そういうところこそ削るべきなのであって、
社会保障に関しては、特に今申し上げた
介護などに関しては、これだけのシーリングをしなきゃならないから新しい
事業は何もできませんというようなことを言っておったのでは、
国民の
安心感は保障できないんですね。
選択的に拡大するところは拡大し、削るところは思い切って削る。そういうことをやることで農村にもちゃんと
お金が行くんですよ。農村も
高齢化しているわけですから、この人たちの
生活保障のための資金をきちっと保障していくということができれば、要りもしない農道をつくるよりはずっと
安心感のある
社会をつくっていくことができるわけですから、そういう選択的な政策をやっていただきたい。
福祉の
分野でも、必要な施策を強化してこそ合理化を図ることができる。例えば、
医療費の節約ということをやらなきゃいけません。私は、老人の医療に関しても、自己
負担をふやすことに大賛成であります。安過ぎます、今の仕組みは。しかしながら、それをやるのならば、
介護保障の
システムをきちんとつくって、そして受け皿といいましょうか、きちんとそちらの側で受けますよという仕組みをつくって病院を減らしたらよろしいのであります。そういうことをやらないで、ちびりちびりと
負担をふやすようなことをやるのは、政治に対する不信感、将来に対する不安感、それを助長する結果にしかならない。そういう政策手法の問題が私は
大変気になります。戦術だけがあって戦略がない。目先どうしたらこれをとれるかという話だけがあって、長期的に考えたら、どうしたらできるだけ少ない
費用で十分な
安心感を保障できるという仕組みをつくれるかと、そういう
合理性を追求するということが非常に欠けている。
今回の消費税の引き上げに伴って特別何とか
給付金というのをお配りになったりしていますけれども、ああいうものが要るのかどうか、私は大変疑わしい。長期のことについてきちんと
安心感のある政策をお示しになれば、ああいう小手先細工は私は要らないと思います。
最後に、
福祉の拡充というのは、これから不足すると思われる労働力に対して、いろいろな
意味で
女性の労働力を活用するということが可能になると思います。
貝塚さんがおっしゃったように、
家庭の機能をどこまで
社会化した方がいいのかというのは十分に
議論した方がいいと思いますけれども、しかし、働きたいという意欲を持っている
女性がふえている
状況の中で、
女性が働けるような職場をつくり、働けるような
条件をつくっていくということはこれからの課題だろうと思います。
女性に限りませんが、
高齢者も働き続ける
条件をつくった方がいいと思います。
福祉の拡充は、やりようによっては、
福祉の
お金というのは海に捨ててしまう
お金ではないのでありまして、地域における多様な安定した就業機会を創出するという効果もないわけではない、そういうことをきちんと考えるべきだと思います。
国民の財政
負担を低く抑えるということばかり考えますと、実は
国民の実質的な
負担がふえる。
政府が何もやらないということになれば、
自分の老親が倒れたときには、嫁さんなりあるいは娘さんなりが必死になって支えなきゃならなくなるわけです。これは、そういう目に遭った人と遭わない人の不公平の問題もありますし、そういう人に対して全部国の丸抱え、地方自治体の丸抱えをということではないのであって、基本的な
部分についてはサポートの仕組みがありますよというふうにした方がいいんですね。
低過ぎる
負担、小さ過ぎる
政府というのは、実は
国民の
負担を重くする
可能性があるということを考えていただきたい。
最初に申し上げたように、どちらが合理的かということを考えるべきだと思います。
しばらく前に、「小さな
政府は国を滅ぼす」という論文を書きまして、いろんな方から、まあ賛否両論いろいろありましたけれども、御
議論をいただきました。
正確に言うと、小さい
政府は国を滅ぼすんじゃなくて、小さ過ぎる
政府は国を滅ぼすということでありますし、それから小さいか大きいかという
規模の問題じゃなくて、中身が問題なんです。私は、弱過ぎる
政府、小さ過ぎる
政府はだめだということを言っているんですが、もちろん大き過ぎる
政府、強過ぎる
政府に問題があることも明らかであります。中身を言わないんですから、これは何も言わないに等しいかもしれません。
有効な
政府を目指す。有効な
政府というのは、
目的に対して一番うまく手段が利用されているということなんですね。効率というのは能率じゃないんです。効率というのは、目標に対して手段が一番うまく使われているというのが効率、エフィシェンシーなんです。そういう仕組みを
社会保障の中でもお考えいただきたいということを申し上げたいと思います。
どうもありがとうございました。