運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1997-04-09 第140回国会 参議院 国民生活・経済に関する調査会 第5号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成九年四月九日(水曜日)    午後一時二分開会     —————————————   出席者は左のとおり。     会 長         鶴岡  洋君     理 事                 大島 慶久君                 牛嶋  正君                日下部禧代子君                 笹野 貞子君                 聴濤  弘君     委 員                 大野つや子君                 太田 豊秋君                 鈴木 省吾君                 中島 眞人君                 橋本 聖子君                 平田 耕一君                 三浦 一水君                 海野 義孝君                 小林  元君                 林 久美子君                 三重野栄子君                 朝日 俊弘君                 一井 淳治君                 堂本 暁子君                 小山 峰男君     事務局側         第二特別調査室         長       林 五津夫君     参考人         中央大学法学部         教授      貝塚 啓明君         専修大学経済学         部教授     正村 公宏君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○国民生活経済に関する調査  (二十一世紀経済社会こ対応するための経済  運営在り方に関する件のうち社会保障の在り  方と国民経済について)     —————————————
  2. 鶴岡洋

    会長鶴岡洋君) ただいまから国民生活経済に関する調査会を開会いたします。  国民生活経済に関する調査を議題とし、二十一世紀経済社会に対応するための経済運営在り方に関する件のうち、社会保障在り方国民経済について参考人から意見を聴取いたします。  本日は、お手元に配付の参考人の名簿のとおり、中央大学法学部教授貝塚啓明君及び専修大学経済学部教授正村公宏君のお二人に御出席をいただき、順次御意見を承ることになっております。  この際、貝塚参考人及び正村参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきましてまことにありがとうございます。  本日は、本調査会が現在調査を進めております二十一世紀経済社会に対応するための経済運営在り方に関する件のうち、社会保障在り方国民経済について忌憚のない御意見をお聞かせいただき、調査参考にさせていただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。  本日の議事の進め方でございますが、まず両参考人からお一人二十分程度ずつ順次御意見をお述べいただきました後、八十分程度委員からの質疑にお答えいただく方法で進めたいと存じます。  質疑につきましては、あらかじめ質疑者を定めず、自由に御質疑をいただきたいと存じます。質疑を希望される方は、挙手の上、私の指名を待って質疑を行うようお願いいたします。  なお、できるだけ多くの方が質疑をできるよう各委員一回当たりの発言時間を一分程度とさせていただきたいと存じます。  また、時間に制約がありますので、質疑答弁とも簡潔に行っていただくようよろしくお願いいたします。  なお、参考人からの意見陳述、各委員からの質疑及びこれに対する答弁とも着席のままで結構でございます。  それでは、貝塚参考人からお願いいたします。
  3. 貝塚啓明

    参考人貝塚啓明君) 貝塚でございます。どうも本日はお招きいただきましてありがとうございます。  それでは、私の意見を述べさせていただきます。レジュメがございますが、私はどちらかといいますと諸外国、特に先進国社会保障現状と将来、その問題をお話しして、日本の話はそれほどはないんです。  実を言うと、先進諸国社会保障というのは日本よりずっと先に出発して、しかも高齢化日本の恐らく二〇二〇年ぐらいのところへ来ている国もありまして、かなり問題がはっきりしてきているし、現在ヨーロッパ先進国社会保障改革を押しなべて推進中であります。そういうこともございましくそういう観点からお話しさせていただきます。  最初に、あそこに書いてございますが、日本の場合はここ二、三年、しかもここ半年ぐらい急速に状況の認識が変わってきているということがあると思います。私は、多少厚生省、最近は押しなべて霞が関は評判が悪いんですが、その中でも評判の悪い、年金審議会とかそういうのに関係しておりまして、ただもう今の段階ではいろんな相当新しい発想法でこれからの話をやらないと、もはや従来的な発想法では限界に来ているということははっきりしていると思います。  そういうことでございまして、最初話の順番として、社会保障制度というのは一体どういう制度かということをちょっと成り立ちから申し上げます。  社会保障システムというのは、これは大体ヨーロッパ大陸産物です、歴史的には。ヨーロッパ大陸というのは、イギリスは本当は少し違うと思います。アメリカは非常に違います。ですから、必ずしも先進諸国が同じであるというわけではありません。ヨーロッパ大陸産物というのは、多分今でも高等学校社会科のテキストに出ておりますが、ビスマルクという昔プロシアの偉い人がいて、まだドイツ発展途上国の初期の段階社会保険制度を入れました。これがヨーロッパ社会保険制度の始まりであります。  それから第二次世界大戦後は、非常に有名になったのは北欧です、スウェーデンデンマークなど。これは非常に高福祉あるいは高負担をやりまして、それである意味では日本もある時期、今から二十年ぐらいかそれぐらい前ですが、北欧を見習ったらどうかというふうな話もあったぐらいであります。  それ以外の国は実を言うとちょっと違いまして、イギリスは普通は福祉国家の代表と言われておりますが、私の理解も多分イギリス人もそう言うと思うんですが、なぜイギリス社会保障制度を戦後つくったかといいますと、要するに第二次世界大戦中にナチスと物すごい戦争をやりまして、イギリス支配者階級というのがちゃんと、今でもいるようですが、そのころはもっとはっきりしておりまして、とにかくその支配者階級が、貴族及びそういう階級ですが、そこだけで戦っていたのではイギリスはもう絶対ナチスに負ける、だからイギリスじゅうの人を全部動員してドイツ戦争しなくちゃいかぬと。動員するためには、結局戦争が終わった後で労働者階級にすべて社会保障をちゃんと行き渡らせるようにするということを戦争中に約束したのがイギリス社会保障制度。  アメリカはある意味では相当ひどい国でして、今でも医療保険はありません。アメリカは公的な医療保険はありません。ですから、アメリカ福祉国家ではないというふうに言ってもアメリカ人は別に驚きませんし、アメリカ社会保障は実を言うと今でも完備しておりません。今の大統領の夫人が三年ぐらい前に医療保険制度公的保険にしようとして失敗しました。依然としてアメリカ医療保険制度私的保険です。ですから、非常にわかりやすく言えば、皆様方がもし幾らかアメリカに滞在されるとすれば、病気をされますと物すごいお金がかかりますので、ちゃんと保険に入っておかないと、アメリカ医療費というのはすさまじいものです。  国によってかなり違うということで、どちらかというと、やっぱりヨーロッパ大陸産物ですということです。  それから、今後の社会保障につきましては、そこの二に書いてございますが、押しなべて困難な状況、これは主として財政的には困難な状況が予想される。日本については、この間年金審議会厚生省が一応試算を出しまして新聞に出ておりますが、二〇二五年には年金保険料は三四・二ということですから、今の大体三倍ぐらいの水準になるということです。それからアメリカでも、アメリカは若い国のように思われていますが、同じように高齢化の話が、ベビーブームの世代が中高年になったときに社会保障給付は非常にふえるということで、日本と違いましてアメリカの方がもうちょっと政府は正直でして、このままいくと二〇三〇年に社会保障基金はゼロになる、完全に破産すると、そういうのがアメリカです。  それから、ヨーロッパでは、北欧はもうある程度改革を始めております。イギリスもある程度やっておりますが、今言ったようなことではないかと思います。  社会保障はいろんな側面があるんですが、一例として、本当の福祉国家というのはどういうぐあいになっているのかというのをちょっとスウェーデンの例で申し上げます。  スウェーデン世界じゅうで相対的に政府の比重が最も高い国であります。何が起きたか。スウェーデン経済はある時期までずっとよかったんですが、一九九〇年前後からゼロ成長マイナス成長が去年ぐらいまで続きまして、スウェーデン経済は破綻したと言われております。しかし、それはともかく、一つの原因は非常に大きな政府になった。  どういうことかといいますと、そこに書いてございますが、スウェーデン経済で三十年間の雇用の増加はすべて地方公共団体の人の数がふえたことによると。そこに書いてございますが、民間が二百万、中央政府が四十万、これは昔とそれほど変わらないんですが、地方政府が四十万から百二十万にふえたんですね。ですから、雇っている人から見ると、政府の雇っている人が物すごくふえた。しかも、スウェーデンの場合はほとんどが、ふえた部分女性地方公共団体に雇われているというケースです。  どういうことが起きたかというと、そこにちょっと図がかいてありますが、昔は、Aという親がいてその子供がいます、それはそれぞれ家庭子供を見ていたのですが、別の親はまた自分家庭子供を見ていた。ところが、家庭サービスを全部地方公共団体がかわりにやるようになりました。それはどういうことかというと、親のBはほかの人の子供の世話を見るわけです。それは全部お役所を通じて、お役所で雇われてやるということになりました。ですから、実を言うと家庭サービス公共サービスになってしまったというようなことです。  ですから、この点でスウェーデンとかデンマーク社会サービス世界じゅうで物すごくいい国であって、すごくレベルが高いと言われている。確かにレベルが高いということは、例えば介護その他でもデンマークなんかは非常にある意味で有名です。  しかし、別の面からいきますと、ここに書いてあるように、元来、昔は家庭内でやっていた話がある部分地方公共団体がやるようになった。そこでサービスしている人は、わかりやすく言えば、昔家庭でやった、だから自分のうちでやったことを今度は人のうちのためにやっている。人のうちのためにやるときには、それは平たく言えば、地方公共団体の職員として雇われてやっている。これが社会保障福祉関係の人が非常にふえたということの一つの理由です。これがいいか悪いかは議論が分かれると思いますが、現在ではやはり少し行き過ぎちゃったということは確かですね。日本はまだ行き過ぎていないし、あるいは問題が逆にあるのかもしれません。  福祉国家と言われているものの一つはやはりこういうところに特徴がありまして、これが政府を大きくして、実を言うとサービス家庭の外に出ちゃったということです。女性の人で物すごく働いている人が多いわけです。しかも、家庭内では余りあれですから、そうするとちゃんと市役所の方でだれか雇ってくれるわけです。それで、家庭内のサービスは公務員の人がやるということになります。それがスウェーデンケースです。  ヨーロッパ諸国は、北欧は一番特別ですが、フランスとかドイツへ行けば大分違います。それから、イギリスへ行けばやはり随分違います。アメリカへ行けばまた非常に違います。ですから、いろんなケースがありまして、それほど簡単ではないのですが、一例としてそういうことがあります。  ですから、私の意見としては、日本はこういう形でいくのは相当問題があるでしようということを申し上げておきます。  あとはいろいろな話がございますが、今の話は特に年金なんかと非常に関係しておりまして、将来の年金は一体どうするか。先ほど二のところで申しましたが、一応厚生省試算では二〇二五年には社会保険料は三四・二と。それは正確に言いますと、今の給付の仕方、それから今の保険料の取り方を前提にすればそういうことになると思うんです。  しかし、これはもう恐らく無理であるということは確かであります。なぜ無理かというのは、よく考えていただきますと、例えば年金保険料が三四・二としますね。稼いでいる所得のうち三四・二が年金保険料に取られちゃう。それからあとは、もちろん税金がほかにあります。それから、医療保険保険料もあります。そういうのを考えると、常識的に考えると、やっぱり五〇%近く負担が上がる。  そういたしますと、多分予想されることは、やっぱり四十代とかそういう働き盛りの人が自分の給料でお金を稼いで、そういうものを差っ引かれた残りの所得高齢者が受け取る年金給付余り差がないし、下手すると逆転する可能性もある、常識的に言えば。これはもうとても維持できないということであります。したがって、政治問題としても非常に大問題になるところですが、そういうことで年金はある意味ではスリムにしなくちゃいかぬ。  一つは、どうするかというのは、そこにありますが、引退の時期をなるべく延長するということです。今は一応六十歳でありますが、企業も六十歳定年は何とか維持しております。それから先は、六十五歳定年というのは恐らく企業は無理です。ですから、そこのところは非常に灰色であいまいですけれども、ある程度引退の時期を多少おくらせる。引退の時期をおくらせるというのは、括弧の中に書いてありますが、要するに給付を実質的にはカットするということとある意味では同じですが、そういうことをするでしょう。  それから二番目には、そこに書いてございますが、今は、平たく言えば、厚生省年金は全部大蔵省財政投融資資金運用部に預けているわけです。資金運用部というのは大体国債運用しているわけです。しかし、国債よりもうちょっと利回りは高くて少し危ないんですけれども、うまく資産運用すれば今より、大蔵省運用しているよりはもうちょっと高い金利で運用できるはずだというのが二番目です。  それから三番目ぐらいになると、これは相当改革ですが、場合によっては、アメリカなんかも多少提案されておりますが、アメリカ社会保障年金も相当問題がある。じゃ一部分個人で持てるようにしたらどうかということですね。だから、今からあるものを外すわけです。個人自分の名前で積み立てて、六十あるいは六十五になったときに、金融の保険会社がきっちり運用してその部分はちゃんと保障しますというふうにした方がいいんじゃないかというのが一つの話です。個人勘定です。これは実を言うと、半分民営化するということです。  それから最後に、これはもっとドラスチックなえらい大きな話ですが、チリの話が非常に有名なんです。とにかく年金を全部民営化する。チリはそういうことをやって一応成功したと言われております。そういうことでございます。  ですから、実を言うと、民営化ということは、年金については、これはもう厚生省といえどもまともに議論をしないとだめであるというのが私の意見です。  だから、それを選択するという意味じゃなくて、少なくとも議論の対象として今の年金運用の仕方でいいかどうかというのは相当まじめに議論しないと、もう今やそんな小手先でいろんなことをやるという時代じゃないということでいろいろ基本的に考えなくちゃいかぬ。  ただ、私は最終的には、そこにちょっと書いてございますが、私的な年金とか企業年金でやることには限界があるというのは、これは昔から専門家が言っている話なんです。  何が一番限界かというと、今みたいに大きな資産で、物すごい厚生年金運用しているときの運営費用ですね。社会保険庁がやっているわけです。社会保険庁は確かに人を雇っているんですが、もし別々に、ばらばらにやったら、これは物すごいコストがかかる。アメリカの学者といえども、普通の意見はやっぱり公的年金をやめちゃって私的にばらばらにやったら、運用するときに人を雇っていろいろなことをやる事務的な費用が物すごくかかると。  だから、公的年金はどうしても必要なんだ、社会全体の人を一つの機関で、なるべく社会保険庁も効率的にやる必要はありますけれども、そういうことで、年金は完全に私的にしちゃうというのは多分無理だろう。しかし、そのまま現状年金でいいとは決して思いませんので、そこは相当改革する必要がある。それで何とか将来を乗り切っていくということが重要ではないかというのが、一応私のここでお話ししたいということの大体の要約でございます。  どうも御清聴感謝いたします。
  4. 鶴岡洋

    会長鶴岡洋君) ありがとうございました。  以上で貝塚参考人の御意見陳述は終わりました。  次に、正村参考人にお願いいたします。
  5. 正村公宏

    参考人(正村公宏君) 正村でございます。  レジュメがあった方がいいということを事務局からも言われまして、悪い癖なんですが、レジュメをつくるとたくさんのことを書いてしまいました。二十分でちょっと難しいかもしれないんですが、読み上げながら私の意見を述べさせていただきます。  まず第一に、社会保障社会福祉分野事業目的をどこに定めるかということについて、私の理解では日本で必ずしも十分な合意が成立しているとは思えない。特に、政治家皆さん方の御発言の中に時々弱者救済という言葉が出てくるのは大変気になります。  私の理解では、これはちょっと一方的な理解かもしれないんですが、先進社会における社会保障社会福祉目的弱者救済ではなくなっていると私は思うんです、事実において。また、弱者救済という考え方ではない方がいいというふうに考えております。  簡単に言えば、国民生活安全保障のための社会共同事業であるということであります。生活のさまざまな起伏、さまざまなアクシデントがありますし、いろいろな不確実な問題があるわけでありますから、それに対応するのには社会共同事業として安全保障を考えた方がいいという道を選択してきたんだと思います。もちろん、生活安全保障のある領域個人や家族の努力にゆだねられますし、また企業ごとにということもあっていいと思います。  しかし、私は日本では企業に対する個人の従属の程度が強過ぎると思っております。厚生年金基金のように公的年金運営でさえも企業年金とドッキングさせてしまっているというのは、企業の枠の中で安全保障を考えるという傾向を非常に強くしてしまって、国民社会全体のシステムのあり方に対する関心を薄める役割をしているというふうにかねてから批判してきたものでありますが、そういう問題があるということを指摘しておかないわけにいかないと思います。少なくとも、ある領域については社会共同事業として維持した方が合理的だというふうに考えるべきだと思います。  社会保障をどういう範囲のものにするかというのは、同情の問題とか価値判断の問題とかいうのではなくて、どういう問題ならば社会共同事業として、社会的な制度として、公的制度として維持した方が合理的かという合理性の計算の問題として議論すべきであって、弱者救済云々というセンチメンタルな言葉が乱用されているのは制度改革を私は阻んでいるというふうにかねてから考えてまいりました。  不確実性に対処するためには、例えば老後を迎えたときに要介護状態になるかどうかというのは大変不確実であります。私が何歳まで生きるかというのは不確実でありますし、要介護状態になる確率は不確実であります。あなたの要介護状態になる確率は二〇%だと言われたからといって介護に必要な費用の二〇%を積み立てればいいわけではないわけでありまして、要介護状態になったときには全面的な負担が、もし公的保障がなければ個人にかかってくる、そういう問題なんですね。あるいは、九十歳でぽっくり幸い死んでしまうかもしれない。そのときは、それまでに例えば掛け捨てになったとしてもそれなりの負担をして安心感を得ていた方がずっといいだろう。あの世に行って、おれは税金だけ払わされて介護サービスを受けなかったと文句を言う人はいないだろうと思うんです。  そういう安心感国民すべてに給付するということが基本なのであって、そういうことから考えたら、この問題は大規模強制加入システムにした方がいい、この問題は個人にゆだねておいてもいいだろうというふうに合理的な判断をすべき問題であって、同情とか価値判断とかそういう種類の問題ではないというふうに一度割り切って考えた方がいいだろうというのが現在の私の考え方であります。  もし、何らかの分野仕事を大規模強制加入システムにゆだねたらいいということで選択をするならば、そのための費用社会保険社会保険料という形で徴収することもできるし、租税という形で徴収することもできます。日本では社会保険社会保障制度の根幹をなしているわけでありますけれども、私が非常に気になるのは、社会保険料の徴収の仕方が非常にやわである、ソフトであるということであります。ですから、払わない人がたくさん出てくる、払わない人に対して断固とした処置をとっていない、そういう仕組みというのは問題があるだろう。  社会保険制度というのは強制加入なんだというふうに決めているわけですから、強制加入実効性を持たせるようにすることをやらないといけない。そういう点では、日本国家はちょっとソフトステート的なのではないか、やわな国家ではないかというふうに思っております。ほかの点でもそれは言えるわけです。  最後に、もう一つこの第一のところで述べておきたいのは、ちょっと次元が違うかもしれませんが、少子化の問題であります。  少子化の問題についても、これは過去における合計特殊出生率に伴う人口構成変化人口の減少は現在においては与件であります。高齢化与件であります。この与件に対して、つまり与えられた条件でありますから、これにどう緊急に対処するかということを真剣に考えなきゃいけませんが、将来の子供の数は必ずしも全面的に与件であるわけではありません。生活構造が大きく変わっている中で、子供が生まれやすく育てられやすい条件社会がどれだけつくるかということはまじめに議論していいことだと思います。  子供の数をふやす、人口をふやすということが目的ではなくて、社会が急激な構造変動を起こし、人口が激減し、子供たち問題発見能力問題解決能力が失われるような社会を避ける、社会の衰退を避けるという観点から、子供を産みたいという自然な欲求が満たされるような条件をつくる。別に、産めよふやせよということを要求するわけではありません。  かつては、例えば農家の女性とか商家の女性子供を育てながら男性と同じ仕事をするというのは当たり前だったわけです。そのことが可能であるような構造であったわけです。決して楽ではない、極めて厳しい労働条件ではありましたけれども、子育て仕事をするということが当たり前、一緒にやらなきゃならなかったし、一緒にやれるような職住一体の中で暮らしていた人が圧倒的に多かったわけでありますから、子育て仕事をするということが当たり前だったわけです。  価値観変化もありますけれども、現代において女性が働こうと思うと、一時間も一時間半もかけて通わなきゃならないという生活構造になっているわけですから、子供を産んで育てるというごく自然の人間としての欲求が満たされない、欲求を貫徹することが阻害されるという社会条件が強まっているわけです、産業社会構造として、あるいは都市化が進み過ぎたためにということもありますけれども。  こういう状況の中で労働条件のあり方を見直し、今のように残業ばかりやっているような労働の構造でもって女性が働き続けることは困難であり、高齢者も働き続けることは困難でありますけれども、そういう社会的な条件を変える、子育てを支援する社会的なシステムをつくる、これは当たり前の話なのであって、特別のことではないんです。産業経済全体が変わったわけですから、その変わった中で人間らしい生き方ができる条件をもっと目的意識を持ってマクロでつくっていくということを怠ってきた、あるいは非常に不十分である、このことが今の問題としてあるわけです。そこから先はいろいろほかの文明論のような問題が出てきますから議論は難しいんですけれども、きょうは立ち入りません。  レジュメの二番目になりますが、端的に日本社会保障社会福祉のどんな点に問題を感じているかということを箇条書き的にといいましょうか、ここに書いてある範囲でもって申し上げます。  まず第一に、負担の水準、ついでに言いますと受益の方の問題、給付条件も見直すべきだと思いますが、負担と受益の水準を適正化するという努力が非常に不十分であったために、システムの存続が危機に直面しているということであります。  端的に言えば、年金制度社会保険の建前になっておりまして、修正積立方式でスタートして、成長経済のもとで初めから完全積立方式は不可能だったと思いますけれども、修正積立方式の建前でスタートしておきながら、なし崩しに賦課方式に行っている。なし崩しなんですよ。つまり、ちゃんと社会的な合意を得て賦課方式に行きますよと言ったんじゃなくて、保険料の積み立てが足りなくて、だんだん食いつぶしていって、そのうちに賦課方式になりますよ、負担が三七%になりますよと、こういう話になっているわけであって、これは日本の政治の怠慢であった。政治家のとあえて言いませんが、政治の怠慢であった、あるいは日本政治システムのどこかに致命的な弱点があった。つまり、二十年、三十年先のことを考えて、どうしても必要であることを国民に提起する能力を日本の議会政治というのは持たなかったということを示しているんだというふうに考えざるを得ないわけであります。  かつて臨調のときに、将来、高齢化国民負担が重くなるから今のうちに政府をスリムにするんだということをしきりに言われましたけれども、あれは戦術であって戦略的には間違っているわけです。現在の世代の負担をきちんと適正な水準に上げなかったら、将来の世代の負担が重くなるわけです。公共投資を削ったり国鉄を民営化したり、あるいは農業の見直しをしたりするのは、それはどうしても必要なことであります。しかし、社会保障社会福祉分野に関しては、どうしてもこれはやらなきゃならないと思ったら今の世代からもっとお金を取っておいた方がいいわけです。今の世代からお金を取った方が将来の現役世代から余りお金を取らなくても済むわけです。今の世代から取るべきものを取らないできたから、将来の世代の負担がどっと重くなる。公共事業もどんどん建設国債でやるから将来の元利償還が重くなってしまう。つまり、将来の世代のことをだれも考えないで行き当たりばったりのことをやってきたからおかしくなっているんですね。そういうふうなことがずっと続いているということであります。  さらに、いろいろな集団の間の受益と負担の公平ということが十分に確保されているとは思えません。  端的な例を一つだけ申し上げますと、例えば、働いている女性と給与生活者の妻である専業主婦の女性との間で租税と社会保険料負担において公平性が保たれているだろうか。制度を積み上げ積み上げでやってきたために非常に複雑になっているんですけれども、公平性が保たれているとはどうも言えないような気がする。中立的でない、公平でもない。こういうことが放置されてきているというのが私は問題だと思うんです。日本の税制全体がそうなんですけれども、積み上げ積み上げ積み重ねと、その場しのぎにいろいろ手直ししているうちにだんだん複雑になってわけがわからなくなっている、これが現状だと思います。  それから、そのために受益と負担の公平を点検すること自体が極めて困難になってしまっている。私たち専門家が見てもなかなかわからない。貝塚さんのようなずっと専門でごらんになっている方は違うと思いますが、私のように少し外側にいて、マクロで全体の経済政策を考えながらこういう問題を考えようと思っても材料がない、なかなか得られない、一生懸命集めても極めて複雑。つまり、国民にますますわかりにくい制度をつくって合理性と公平性が点検できない、これが一番大きな問題だと思います。  そして、社会保険を建前としていながら、実は社会保険の原理の貫徹が極めて困難になっている。これは詳しく申し上げるまでもないと思うんです。それは、年金制度を二階建て年金にしたのは私は大変いいことだと思うんです、つまり、ばらばらのものを統合していくということで。その結果として、社会保険という建前ですべてが運営されていないという仕組みになっている。でも、多くの人は社会保険の建前が運営され維持されていると思っている。厚生年金の積立金はまだありますから、それは今の年齢構成がそうなっているからあるんですけれども、実際は保険料収入が足らないわけで、取ります時期が早くやってくるわけです。そういうことがあるのに、自分の払った保険料が将来の給付で戻ってくるとみんな思い込んでいるわけです。給付をちゃんともらえるだけの保険料を払っていないかもしれないんだけれども、つまり社会保険の建前が破壊されている可能性が濃いんだけれどもよくわからない、そういうことが私は非常に問題なんだと思います。  法治国家としての法がきちんと守られることのためには、法に対する信頼がなければいけない。法に対する信頼がなければいけないということは、透明性をできるだけ確保するという努力をしなきゃいけない。民主主義なんですから主権者に対して透明性をできるだけ確保する。透明性を確保することによって絶えず公平性と合理性を点検するという原理が、どうも日本の今までの政策運営を拝見していますと守られていないのではないかという感じがするわけであります。そして、十分な安心感が確保されていないのに、大変つまらないばらまきがたくさん行われている、大した額ではないかもしれないけれども、だんだんふえていくわけです。高齢者もふえますし、ばらまきが行われている。  小さなつまらない例を申し上げます。私は昨年十一月に六十五歳になりまして、生産年齢人口であることをやめさせられたわけですけれども、まだ現役の教授としてあと五年は今の制度ではいられることになっておりますから、まあ頭がおかしくなってこない限りは頑張りたいと思っております。ちょっとおかしくなったというときは言ってくれよと助教授に頼んでありますけれども、そのときは先生は多分言うことを聞かないでしようと言われているんですが、とにかくそれは冗談として、十分働けますけれども、六十五歳になった。  何がまず起こったかというと、お正月にお祝い金というのを市長さんがくれるんですね。敬老の日には一万五千円くれるんじゃないかと思います。正月には五千円。何でこのお金を私はもらわなきゃならないのかと。それなのに、仮に要介護状態に、余り縁起でもない話ですけれども、私が倒れたとしますね、どこへ相談に行っていいかというのはわからないわけです。相談に行ったら確実に対応してもらえるかという確信がないわけです。東京の場合には、いや老人ホーム二百人待ってますという話になっているわけです。私は、たまたま障害の息子を抱えていますけれども、彼を育てることが難しいと、私が病気になったり家内が病気になったりしたらどうしようといったら、青森県の施設ならあいてますよという話なんです。  こういう仕組みを変えるという努力をやらないでおいて、ちびっとちびっとお金をばらまく。福祉と何の関係もない、政治家皆さん方の点取りなんですよ。これは点数稼ぎだ、あるいはやってますという格好づけなんです、こういうことをやってきている。そうじゃなくて、基本的な部分で保障があるという仕組みをつくっておいて、つまらないばらまきはやめますよと、この見識を示していただきたいわけです。そういうことをやられた市長さんはいますよ。枚方の市長さんはやめたんです。こういう国民安心感を十分に保障するという仕組みをつくることが基本であって、その骨組みをつくれば、できるだけ合理的に、システムの存続可能性をちゃんと考えて給付は削らせてもらいますよ、保険料は上げさせてもらいますよと、そういうことの問題提起をなぜしてくださらないのかというのが私の現状に対する不満であります。  時間がなくなってまいりましたので、もっと駆け足で三番を申し上げます。  社会保障国民経済の関係、実はこれがきょうの議論の中心テーマなのかもしれませんが、私の考え方はここに並べてあるようなことであります。  まず第一に、少なくとも現在までの日本の場合には、社会保障の過剰ではなくて不足が経済の不均衡の原因になったと思っております。  御承知のように、日本は貯蓄超過型の経済であるわけです。これまではそうだったし今もまだその様相が残っている。貯蓄超過型の経済である。貯蓄率が非常に高い。その反面、国内の投資は落ちている。民間企業設備投資は成長率が落ちていますから当然落ちてくるんですけれども、今までは生活関連の社会保障社会資本整備とかあるいは社会福祉づくりとか人的資源の育成とか、そういうことに対して十分お金をかけてこなかったわけでありまして、経済学のイロハの原理なんですけれども、貯蓄超過分はちょうど貿易・サービス収支の黒字に対応するということになります。「原因になる」と書いてありますが、これは貝塚さんから異論が出るかもしれません。ちょっと正確でないんですが、因果関係は必ずしもいつもそうだというわけじゃありません。恒等式的に成立する関係というのは、貯蓄超過分がそっくりそのまま貿易・サービス収支の黒字と一致すると、日本はそういう構造であったのであります。福祉をやり過ぎて、内需拡大し過ぎて貿易が赤字になっちゃったというのとは違うんですね。  ですから、貝塚さんからお話がありましたような先進福祉国家の例は参考になります。前者のわだちを踏まないようにするという意味では参考にはなりますけれども、そこで議論されていることをそっくりそのまま日本に当てはめるというわけにはいかないと私は思います。日本自身の状況を見詰めて我々の政策を組み立てなければいけないと思います。  特におくれているのは介護であります。もっと早く介護などの保障を確立する必要があったと思います。そこがないということが国民の不安感の非常に大きな原因になっているわけであります。  介護保険制度が、間もなく成立するのか、また先送りされるのかわかりませんが、私は、保険料というのは無理だろうと思っていますけれども、何らかの介護費保障の制度をつくるべきである。ただし、介護サービスシステムは地域福祉の仕組みの中でつくられるべきであるし、民間のさまざまな主体がこの分野に参入できるようにした方がよろしい。介護費用の保障ですね。これは非常に不確実性が高いですから、社会的な保障の仕組みとしておつくりになった方がいいだろうと思います。いや、おつくりじゃなくて、私も該当者になる可能性があるわけですから、早くつくっていただいた方がいいというふうに考えるわけであります。  削らなきゃならない部分があります、財政の中で。例えば農業の補助金。日本の農業は民有国営農業であります。国営農業の弊害が決定的にあらわれている。農業で生産されている付加価値の三割も補助金がつぎ込まれているというふうに計算されています。これほどひどい産業はないわけでありまして、やはりこういう部分は見直す必要がある。それだけ補助金をつぎ込んで日本の農業がよくなったかというと、そうじゃないわけですよ。官製カルテルで一律減反という大変愚かな政策をとってじり貧になって、やる気のある農業者が育たなかったわけですから。つまり、過保護というのは、子供でもそうですけれども、産業でもだめなわけで、そういうところは徹底的に見直していただきたい。  ところが、そういうところを見直すのが一番難しい。公共事業も、高度成長時代につくった何カ年計画とかいうのをそのまま漫然とやっているわけで、必要性があるかどうか根本から点検し直すということがあるのに、おやりになっていないような気がするんです。そういうところこそ削るべきなのであって、社会保障に関しては、特に今申し上げた介護などに関しては、これだけのシーリングをしなきゃならないから新しい事業は何もできませんというようなことを言っておったのでは、国民安心感は保障できないんですね。  選択的に拡大するところは拡大し、削るところは思い切って削る。そういうことをやることで農村にもちゃんとお金が行くんですよ。農村も高齢化しているわけですから、この人たちの生活保障のための資金をきちっと保障していくということができれば、要りもしない農道をつくるよりはずっと安心感のある社会をつくっていくことができるわけですから、そういう選択的な政策をやっていただきたい。  福祉分野でも、必要な施策を強化してこそ合理化を図ることができる。例えば、医療費の節約ということをやらなきゃいけません。私は、老人の医療に関しても、自己負担をふやすことに大賛成であります。安過ぎます、今の仕組みは。しかしながら、それをやるのならば、介護保障のシステムをきちんとつくって、そして受け皿といいましょうか、きちんとそちらの側で受けますよという仕組みをつくって病院を減らしたらよろしいのであります。そういうことをやらないで、ちびりちびりと負担をふやすようなことをやるのは、政治に対する不信感、将来に対する不安感、それを助長する結果にしかならない。そういう政策手法の問題が私は大変気になります。戦術だけがあって戦略がない。目先どうしたらこれをとれるかという話だけがあって、長期的に考えたら、どうしたらできるだけ少ない費用で十分な安心感を保障できるという仕組みをつくれるかと、そういう合理性を追求するということが非常に欠けている。  今回の消費税の引き上げに伴って特別何とか給付金というのをお配りになったりしていますけれども、ああいうものが要るのかどうか、私は大変疑わしい。長期のことについてきちんと安心感のある政策をお示しになれば、ああいう小手先細工は私は要らないと思います。  最後に、福祉の拡充というのは、これから不足すると思われる労働力に対して、いろいろな意味女性の労働力を活用するということが可能になると思います。貝塚さんがおっしゃったように、家庭の機能をどこまで社会化した方がいいのかというのは十分に議論した方がいいと思いますけれども、しかし、働きたいという意欲を持っている女性がふえている状況の中で、女性が働けるような職場をつくり、働けるような条件をつくっていくということはこれからの課題だろうと思います。女性に限りませんが、高齢者も働き続ける条件をつくった方がいいと思います。  福祉の拡充は、やりようによっては、福祉お金というのは海に捨ててしまうお金ではないのでありまして、地域における多様な安定した就業機会を創出するという効果もないわけではない、そういうことをきちんと考えるべきだと思います。国民の財政負担を低く抑えるということばかり考えますと、実は国民の実質的な負担がふえる。政府が何もやらないということになれば、自分の老親が倒れたときには、嫁さんなりあるいは娘さんなりが必死になって支えなきゃならなくなるわけです。これは、そういう目に遭った人と遭わない人の不公平の問題もありますし、そういう人に対して全部国の丸抱え、地方自治体の丸抱えをということではないのであって、基本的な部分についてはサポートの仕組みがありますよというふうにした方がいいんですね。  低過ぎる負担、小さ過ぎる政府というのは、実は国民負担を重くする可能性があるということを考えていただきたい。最初に申し上げたように、どちらが合理的かということを考えるべきだと思います。  しばらく前に、「小さな政府は国を滅ぼす」という論文を書きまして、いろんな方から、まあ賛否両論いろいろありましたけれども、御議論をいただきました。  正確に言うと、小さい政府は国を滅ぼすんじゃなくて、小さ過ぎる政府は国を滅ぼすということでありますし、それから小さいか大きいかという規模の問題じゃなくて、中身が問題なんです。私は、弱過ぎる政府、小さ過ぎる政府はだめだということを言っているんですが、もちろん大き過ぎる政府、強過ぎる政府に問題があることも明らかであります。中身を言わないんですから、これは何も言わないに等しいかもしれません。  有効な政府を目指す。有効な政府というのは、目的に対して一番うまく手段が利用されているということなんですね。効率というのは能率じゃないんです。効率というのは、目標に対して手段が一番うまく使われているというのが効率、エフィシェンシーなんです。そういう仕組みを社会保障の中でもお考えいただきたいということを申し上げたいと思います。  どうもありがとうございました。
  6. 鶴岡洋

    会長鶴岡洋君) ありがとうございました。  以上で正村参考人の御意見陳述は終わりました。  これより両参考人に対する質疑を行います。先ほども申し上げましたように、質疑時間は八十分程度といたします。質疑を希望される方は、挙手の上、私の指名を待って質疑を行うようお願いいたします。また、質疑答弁とも簡潔にお願いいたします。  それでは、質疑のある方は挙手をお願いいたします。
  7. 笹野貞子

    ○笹野貞子君 ただいま大変有効なお話をお聞きしてありがとうございました。  まず第一に、貝塚先生にお尋ねしますが、先生は、社会保障支出の高い対GDP比較は経済インセンティブに直結せず、例えば人口構成高齢化などによって決まることもあるというふうに論文にお書きになっておりますが、社会保障と対GDPの比較の表をちょっと見ますと、イギリス三・七、アメリカ四・九、日本四・九と、そういう比率がデータからあります。この日本の四・九というのは、私は余り高いとは思わないんですけれども、先生はこの国際比較の中で日本をどのように評価されるのか、それをお聞きいたしたいと思います。  続いて、正村先生にお聞きしたいんですが、先生の御持論は大変興味がありました。  そこで、大きな問題を聞きますけれども、日本事業主の社会保障負担企業の国際競争力の低下をもたらし、産業の空洞化を助長するという意見があります。この意見に対して先生はどのようにお考えか、お聞かせください。  以上です。
  8. 貝塚啓明

    参考人貝塚啓明君) 社会保障といいますか、国民負担というのは、基本的に人口構成というのが相当大きな影響力を持っている。日本は、現在は、非常にわかりやすく言いますと比較的働いている人の比重が高い経済で、そこで社会保障を支えているということは、勤労世帯の人の数が多ければ、わかりやすく言えばそれだけ負担率は低く出る。ですから、要するに平たく言うと、今の状況では私は大丈夫だと思いますが、しかし今の制度をそのまま維持して二十、三十年後になったときには、これは話はかなり違う。なぜ違うかといいますと、単純な例で申し上げれば、例えば年金なんかは今ですと一応六十歳です。だけれども、常識で考えれば、今もっと働ける人が、私は六十三ですが、一応相当働いておりまして、とにかくたくさん働ける人がいて、働ける人はなるべく働けるように、そういうふうにしていかないと、ですから一律にいろいろなことをやっていくというより選択肢をふやして、先ほど言われた正村さんの御意見に私が賛同する部分は、やはり困ったときにはちゃんとなるんです、こうなっていますというところがないと困るというのはまさにそうです。それが社会保障です。  そういうことで、日本の現在は確かに大丈夫ですが、しかし簡単にこれから先、二十年後今と同じシステムでやったらうまくいくかというのは私は疑問に思う。いろいろ問題は発生する、それはむしろ勤労意欲とかそういうことに影響が出てくるでしようということを申し上げておきます。
  9. 正村公宏

    参考人(正村公宏君) 企業社会保障負担というお話ですが、社会保障負担に限らず、企業の租税負担というものが産業の活動にどういう影響を与えるかというのは、実はそれほど簡単な問題ではないんです。大体、経済学者は少し難しい問題が出ると、それほど簡単な問題ではありませんと言って逃げる口癖があります。今もその逃げの言葉で言っているんですけれども、実は非常に簡単ではないんですね。  負担が多いというふうに企業は言いますが、企業がどういう市場を対象にどういう活動をしているかということによって状況は変わってくるわけですし、それから端的に言いますと、租税負担とか社会保障負担以上に、現在の国際関係の中で企業のコスト高感を発生させる最大の原因は為替レートの変動なんです。逆に言うと、例えば仮に労働組合が賃上げをやってコストが上がったとしましても、それは最後に為替レートで調整されてしまう可能性がある。  今の日本の産業が直面している、今のというか、この数年の日本の産業が直面していた最大の問題は、不況の問題はもちろんありますけれども、今御質問にありましたコストという点で考えるならば、円高の行き過ぎしかないんです。内外価格差の是正とかという議論に私は賛成でありません。円があれほど高くなったら、つまり対ドルレートが百円前後になってしまったら、あらゆるものがアメリカと比較して高くなるのは当たり前なんです。あるいはドルとリンクしているアジア諸国の通貨との関係で日本の品物が高くなり過ぎるのは当たり前なんです。言ってみれば、日本の賃金もその他も過大評価されているわけであります。  ですから、その問題を抜きにして、税の問題とかあるいは社会保障負担の問題とかを議論するというのは少し順序が違うというふうに私は考えております。  しかし、税の問題、その税と同じと考えていいと思いますが、社会保障、これは強制加入ですから、社会保障企業負担がコストに影響を与え、そして国際競争に影響を与えるということがないのかというと、それは完全にそうだというふうには言い切れないと思います。企業の活動が大変グローバル化していますから、そういう中で為替レートの変動にもみくちゃにされながらも、どこを戦略的に生産の拠点にしていくかということについては、やはりコストの計算をいたします。そのときに、租税の問題、社会保障の問題というのは必ず経営者の頭に入ってくるわけであります。そして、ある程度までは租税についての国際的な調整が行われていますけれども、それが十分に調整し切れているとは言いがたい、大変難しい問題がたくさんございます。  そういう中で、相対的に租税負担が軽く感じられるところで事業展開をしようという戦略的な選択を企業がするに違いないことは事実であります。したがって、それらのことを考慮しないで企業から取れるものを取るという考え方をしないようにした方がいい、元も子もなくなってしまうという可能性があると思います。  私が非常に気になりますのは、国際的に比較した場合の企業社会保障負担ということだけではなくて、むしろ企業社会保障負担を含めたサラリーマンといいましょうか、給与生活者に対して直接間接にかかってくる租税効果の大きさと、自営業主の方たちなどにかかっている租税効果の大きさに少し違いがあり過ぎはしないだろうか。  例えば、一つのホットな話題で例を申し上げると、介護保険保険料をどう集めるかということが話題になりますときに、やはり国民健康保険の実態を見ますと、地域型の保険制度が非常に苦しい状態にありますから、自営業主の方からはそんなにお金が集められないという前提で議論が走り出してしまう。そうすると、サラリーマンの方たちから取るだけじゃなくて、事業主からも介護保険保険料を集めようというふうになりますよね。こういうやり方は、取れるところから取るという大変安易な議論になり過ぎているような気がするんです。イコールフッティングといいましょうか、公平性とか中立性ということを考えて議論した方がいい。だから、いっそのこと、それなら私は付加価値税でおやりになったらどうですかということを言っているんです、介護保険料という形ではなくて。  そういうふうに、社会保障については、企業負担するということは結果としては消費者に負担させているんですよ。直接税と間接税の区別が本当にあるのかどうかというのは、実はこれは財政学者を横に置いて大変言いにくいんですが、多分貝塚さんは賛成してくださると思いますが、直接税は転嫁されないけれども間接税は転嫁されるというのは幻想なんです、かなりの程度。ですから、法人税を高くすれば物価は高くなるんです。社会保障負担を高くすれば、国内でですよ、国際関係はちょっと脇に置いて、物価は高くなるんです。だから、企業から取ったような気になっているけれども、実は消費者に最終的には転嫁されている部分が少なくとも相当あるということです。そういうことを考慮して、公平な税制、公平な社会保険料負担ということを考えた方がよろしいのではないかというふうに思います。  ちょっと外れたかもしれませんが、国際競争だけを考えるのでなくて、国内の中立性とか公平性とかということを含めて企業社会保険料負担の問題は見直しをしていただいた方がいいんじゃないかというふうに思います。  企業の方は、企業経営者の言うことばかり聞いては困るんですよ。企業経営者の方は自分の産業とか自分企業のことしかお考えになってないんで、産業社会というのは知的に非常に優秀な方がああいう個別の産業の中にみんな入っちゃっていて、マクロなことを考えられなくなっているのが産業社会の病理なんですよ。あの方たちは非常にいいことを言っているようだけれども、よく見るとどうも産業の利益しか代弁していないわけですから、私は何を代弁しているかということはちょっと申し上げませんけれども、一般的利益という観点で、公平性と合理性ということで見直しをしていただく。つまり、これじゃ競争できないとかといって騒いでいる方の意見をそのまま聞くんじゃなくて、どうやったらみんなの公平性を担保できるかということをお考えいただいた方がいいのではないかというふうに思います。
  10. 中島眞人

    ○中島眞人君 学者先生から大変ショッキングな発言を、私は特に正村先生の農業などは切り捨てろ、要りもしない農道などはっくる必要はないというお言葉を聞きまして、確かに社会保障とかそういう面からいけばそういう論理も成り立つだろう。  しかし片方で、私は、今規制緩和という問題が一つの風潮として大変流れております。これは結構なことだし、そこまで日本が来たのかと思うんですけれども、この狭い日本列島の中で、少なくとも規制緩和を必要とする中で、それぞれの分野のものがそれぞれに自立をしてきた歴史的な経過というものも私どもは真剣に考えてみなければいけない。そのことがあったことによって日本のいわゆるいろんな企業とかいろんなものが平均的に成長をしてきた。しかしここへ来て、規制というようなものは緩和をしていく必要性の中で、そこまで成長してきたのかなという歴史というものを評価しなきゃいかぬ。  こんなことを考えながらいきますと、農業の問題あるいは公共工事の問題、切り捨て論もございますけれども、片方では日本の国土保全、日本の国土という問題についての一つ考え方を持たなきゃいかぬ。片方では一極集中とか地方分散というふうなものを言っておきながら、じゃどうやって地方や農村というようなものはこれから立地していくんだろうか。  同時に、二十年、三十年後の社会保障という問題を考えていけば、実は昨日、私、山梨県の農業団体の皆さん方と話し合いをしてきたのですけれども、今農産物の自由化自由化、買え買えと言っているけれども、少なくとも二十一世紀の早い時期、少なくとも食糧危機が来る。そのときには買いたくても売ってくれないという時代の中で日本農業をどう守っていかなきゃいけないのか。それはやっぱり国が、いわゆる公のものがその問題に対する底地というものをつくっておかなきゃいけないんじゃないかという切実なそういう声もございましたし、そういうものを使命感としながら農業を行っている、高齢化を迎えながら農業にいそしんでいる方々もいるわけですね。  だから、こういう方々に対する、社会福祉に対するいろいろな施策、御無理ごもっともおっしゃっておりますので、これはこの面については傾聴に値すると思うのでありますけれども、日本の国土保全とか日本の将来にわたっての食糧問題と農業あるいは地方分散とか、そういう問題にかかわられるビジョンを、社会保障を専門になさっている方々、片方がこのままでいくと片方が沈没してしまう可能性がある、そんな感じを持ちながら若干興奮ぎみでおしゃべりをしておりますので、ひとつその辺についてもお聞かせをいただきたい。  なお先生は、介護保障というものは必要だ、しかし介護保険は成り立たないという形になってまいりますと、私ども今国会で介護保険の問題を論議しようとしているやさき、これまた若干目的意識を何か失うような感じがいたしているわけでございますので、なぜ介護保険は成り立たないのか、この辺についてもお聞かせをいただきたい。
  11. 正村公宏

    参考人(正村公宏君) 二十年ぐらい前にアメリカに行きましたときに、私にアテンドしてくれたアメリカ在住の日本人が、正村さん、あなたは日本人離れしている、日本人的でないと。どうしてかと言ったら、何でも率直に物を言い過ぎると。それで、なぜ日本で私に敵が多いかというのがよくわかったんですけれども、実は農業の話は舌足らずであったことを申し上げなきゃいけません。きょうは農業政策の話をするために来たわけではありませんでしたので、少し乱暴な言い方をしたと思います。  時間がありませんが、私の考え方をもう少し正確に申し上げますと、保護が要らないというふうに申し上げているわけではないんです。私は、少なくとも主要な農業生産物に関しては関税のない自由貿易、これはあり得ない、やってはいけないという立場です。同じように、木材に関しても実はそうでない方がよかったと思っているんです。木材の完全自由化をした結果として何が起こったか。日本の森林が破壊され、同時に東南アジアの森林の破壊が少なくとも加速された。つまり、環境保全、資源保全の観点からコントロールしなけりゃならないものに関しては自由貿易論の原則がそのまま当てはまるわけではない。さらに、食糧の安全保障という非常に不確実性の高い問題、しかも世界の人口はまだ増加しているわけでありますから、こういう問題に対しては慎重であるべきだと私は思っております。  しかしながら、全量規制、全量統制をやり、競争制限的な仕組みをつくってしまいますと、やる気のある農業者が入ってこない。北海道の農業と沖縄の農業あるいは九州の農業は同じではないはずでありまして、条件もいろいろ違います。ですから、農水省が一律に管理する仕組みを一度見直して、そして産地間競争が刺激され得るような仕組みをつくった方がいい。競争が激し過ぎる世界というのは人間に対して破壊的ですけれども、残念ながら競争が全然遮断されてしまった社会、あるいはそれが非常に弱くなってしまった社会というのは活力を失っていきます。  ですから、やる気のある、意欲のある農業者がいないわけではないことは私も存じ上げております。先生ほどではありませんが、多少は地方を回った経験もあります。随分前ですけれども、本当にやる気のある農業者の中には、食管制度はまずいよ、あれはやめた方がいいというふうにおっしゃる方がいらっしゃいました。でも、残念ながらそういう声は大きくならないんですね。  私どもは幸いにして利害関係ありませんし、票を気にしなくてもいい人間でありますから率直に申し上げているわけですけれども、今の過保護農政というのは農業を本当に活性化することに失敗したんじゃないですか、もう少し一人一人の自己責任体制というものを尊重するような仕組みをつくった方がいいのではないですかということを申し上げているわけです。  かねてから私は、対外自由化よりも国内自由化を優先すべきではないんですかということを言ってきたわけです。外国から圧力がかかったから関税をゼロにします。今、関税で数量規制を関税規制に、私は関税化の方がいいと思うんですが、それで国際価格の七倍のお米を日本人は食べるということになっても、消費者にとって見えるわけです。カリフォルニアのお米よりも七倍このお米は高いんだ、でも日本の農業を守るために我々はこれを払うよ、そういう消費者の同意を取りつける努力をする必要があるわけです。そういう意味で私は、完全自由化、規制全面撤廃を言っているわけではありません。  私は、七〇年代以後の規制緩和論者なんですが、徹底的な個別介入、個別規制、個別保護はやめましょう、そして社会的ルールに基づいた監視と監査の体制をつくったらどうですかと、簡単に言えば公取型です。環境についても同じです。環境保全のルールをしっかりして、そこから先は個別企業の責任でやりなさいよ、監視はさせてもらいます、預金者保護もやります、日銀の独立性は貫きなさい、これは私が七〇年代からずっと言ってきたことなんです。  社会的ルールを確立し、それから地域計画をしっかりして、その前提で規制緩和を徹底する。もちろん規制緩和もステップ・バイ・ステップにやった方がいい場合もあります。一遍に全部やるということが破壊的になることもあり得ます。そういうラジカルであるということは急進的であるということと全然関係ないんです。根源から考えて、長期をにらんでやるのかどうかということがラジカルであるかどうかということなんでありまして、私はラジカルな規制緩和論者ですけれども、急進主義的な規制緩和論者ではありません、前提条件があるというふうに考えているということです。  これで尽くしたかどうかはわかりませんが、もう一つ国土保全のことをおっしゃいました。私は賛成であります。  国土保全のために本当に必要なところにきちんとお金をかける、これもどうも十分であったかどうかというと怪しいんですね。日本は毎年風水害に見舞われて、相当の数の方が年によっては命を落とされているんですね。  私、これも七〇年にある団体のプロジェクトの報告書の中で、生命の安全にかかわる事業を一度見直して、徹底的にそこに必要なお金もかけ、システムをつくりかえるということをやったら、日本経済発展のパターンが変わる可能性がある、保守とか革新とか言わないで、そういう政策を提起なさったらどうですかということを書いたことがあります。多少マスコミで話題にしてくれましたけれども、残念ながら政治家皆さん方はまじめに聞いてくださらなかった。生命の安全とは何かって。ある政党の方々やある労働組合の皆さん方には階級闘争という言葉が出てこないとか批判されたんです。そんなことを言っている時代じゃないですよと言ったんですけれども、聞いてくださらない。  私は、国民の生命の安全にかかわる問題は優先する、国民安心感を保障するということを先ほど申し上げましたが、生命の安全というのは社会保障以上の重大性があります。問題は、今の公共建設事業にしても農水省の事業にしても、これがどうしてもこれだけのお金をかける必要があるということについての合意がなかなか得られない、あるいはそういう信頼感が失われてしまっているということが大きいと思います。  もう一つは、どうしても必要な事業をやるのならば税金を集めてやるべきだ。建設国債だって将来の負債なんですから、税金を集めないで予算をどんどんつぎ込むということは、自分がどれだけ負担してもいいかということについてどう考えますかということを国民に問わないということです。つまり、財政の規律ということです。  私は、これはもう古証文になりますけれども、六〇年代から公債発行有用論者なんです。日本のような急速に成長している経済の場合は、景気対策のために公債発行は必要だし、将来の社会資本整備のために公債発行は必要である。公債発行は絶対いけないということを言っていらっしゃった方がジャーナリストにもいたし政治家にもいらっしゃいました。私は、そんな硬直的なことを言っていたら日本の将来よくなりませんよと。だから、公共建設事業に対してある程度国債を使ってお金をかけることには賛成なんですが、節度があります。  経済成長している時代ならよろしい、労働力がふえている時代ならよろしいけれども、そうでない時代なんですから、これだけはどうしても国土の安全のために必要ですよとやっていかなきゃいけません。このお金は将来にツケ回しするわけにはいかないから、将来は補修のためにますますたくさんお金が必要になってくるので新しい建設事業なんかできませんから、今のうちにこれとこれとこれはやっておこうよ、そのために増税をお願いしますということを言って公共建設事業をおやりになるなら私は全く賛成であります。そうでないとすれば、それは一度徹底的に見直しをしていただく必要があるだろう、こういうことを私は申し上げているんであって、国土保全のための投資が要らないとかそういうものを削りなさいということを一方的に言っているつもりは全くございません。  もう一つつけ加えさせていただきますと、いずれにせよ現在の日本の政治行政システムは、中央集権になり過ぎていると私は思います。中央集権のシステムは明治以来の近代化、大失敗やりましたから余り誇れないんですけれども、少なくとも戦後の高度経済成長あるいは中成長の時代も含めて経済成長を実現し国際競争力を強化する、あるいは農民の生活水準を上げるとか、そういうことも含めてある範囲において成果を上げました、中央集権は。これは、明治以後中央集権でやるということで、ある枠組みをつくってやってきたことの成果を私は認めるものであります。  しかしながら、このままやっていたのでは、成長が終わり近代化がある程度でき上がった後の、もっと成熟した安定した社会を目指そう、国際関係厳しいですから、その中でどう対処するかということは重要なんですけれども、そういう厳しい国際関係の中にありながら成熟した安定した社会をつくっていこうということを目標に設定したならば、年々経済が五%も一〇%も成長するということはあり得ないわけですから、そういう状況の中で考えたときに、中央集権は障害になると私は思っております。  なぜか。まず第一に、中央集権でやっている限りは地方的な問題がすべて中央政府に持ち込まれます。ですから、政治家皆さん方国家としての進路を考える余裕がなくなっちゃって、自分の選挙区にどうやって補助金を持ってくるかということに頭がいってしまうわけです。これは、皆さんを非難するつもりで言っているんじゃない、システムが悪いんです。補助金をもらってくれば何とかなるという経験を皆さんが知っているものだから、政治家に圧力をかければ何とかなるというふうに考えて、それが皆さんのところにわっとかかってしまうと、こういう仕組みになっているわけです。  ですから、行政の仕組みを分権化しないといけない。そして、財源の配分については考え直さなきゃいけませんけれども、ひもつきの補助金でもって地方の細々したことを全部コントロールするというやり方はやめなきゃいけない。  福祉についても、社会的な費用の補償のシステムはナショナルシステムとして維持しなきゃいけません。年金とか介護保険保険でやるかどうかは別として、そういうシステムは必要だと思います。しかしながら、これはお金をプールする仕事ですから、合理的な方法でナショナルシステムとして全国的なシステムとしてやった方がいいと思いますが、介護サービスはあくまでも地域サービスであるべきなんです。障害者を青森県へ持っていったり長野県に持っていったりする、高齢者も同じように都内にありませんから福島県にと、老人ホームヘほうり込んでしまうと、こういうやり方を変えなきゃいけない、地域の中で。地域福祉というのは地域の福祉ではないんですよというのが私のこのごろ力説することなんです。  地域福祉というのは、地域の中でこそ福祉をということなんですよ。コミュニティーケアというのは、地域の福祉ということではないんですよ、コミュニティーでケアをするということなんですよ。この精神を貫くためにはもっと分権的にやらなきゃいけませんね。  そういうふうに分権的にやることで、国民の側もまた、民主主義というのは何かを要求して分捕ってくることだという考え方から、自己統治こそが民主主義なんだということを学んでいくということになると思うんです。そのための仕組みをつくる。この分権と自治を貫く、これ一遍にできませんから、今後四半世紀の大課題として分権と自治を貫くということをお考えくださらないと、ただ中央省庁をどう集めるかとか再編成するかという話ばかりだったら、これはだめだと思うんです。  突然歴史の話になりますけれども、徳川幕藩体制というのは、幕府が非常に強い権力を持っておりましたけれども、でも、統治は藩に任されていたんです。藩を改廃することはできましたけれども、全部やるほどの権力はなくて、うまく理屈をつくって気に入らない藩をつぶしたりなんかしましたけれども、藩の内政は原則として藩に任されていたんですね。お城を新しくつくったりするとつぷされますけれども、年貢米は藩が集めて藩が使っていたんです。参勤交代やなんかに使わされましたけれども、年貢米を取り上げていたわけじゃない。幕府は何をやったかというと、自分も天領という直轄地から上がってくることでやったわけです。  ですから、非常に集権的なように見えるけれども、分権的だった。そして、それぞれ風土が違い気風が違い言葉も違う各地の状況は残されていて、それが江戸へ集まってきて共通の言語を持つようになっていった。これが重要なんです。明治になって中央集権でやって、そういう風土の違う背景の違うたくさんの人材を東京に集めて、わあっとエネルギーをつくり出したのは近代化の帰結だと私は思っているんです。  近代、現代の日本は中央集権でやり過ぎたために、何でもかんでも東京志向になって、東京の顔色を見て計画を決める。リゾート法が決まるとみんなそこらじゆうでゴルフ場をつくる。その地方が地方公債を発行してやるその地方公債を、大蔵省が引き受けてあげたりしている。なぜか。内需拡大をやらなきゃならないからと。なぜそんなことをやるんですか、地方の借金をなぜ奨励するんですかと私は大蔵省の方に言ったことがあるんですけれども、そういう仕組みになっちゃっているんですへ中央だけ見ている。
  12. 鶴岡洋

    会長鶴岡洋君) 正村先生、大変恐縮ですけれども、結論を出してください。済みません。
  13. 正村公宏

    参考人(正村公宏君) 済みません。  それを変えなきゃいけないんですよ。これは、分権と自治を徹底して中央依存をやめるということは、国家国家としてこの厳しい国際情勢の中でどうしたらいいかという戦略を決める機能を取り戻すということであり、民主主義は自己統治なんだということを国民が学ぶ機会をつくるということであり、そして中央集権でやり過ぎたために枯らしてしまった民族のエネルギーを復活させるということなんです。そういう視点で改革をお考えいただきたいということを申し上げているんであって、農業は要らないとか公共事業は要らないとか、そういうことを言っているわけではありません。
  14. 鶴岡洋

    会長鶴岡洋君) 委員参考人双方に申し上げますけれども、時間も制約がありますし、また皆さん聞きたいことがたくさんございますので、先ほど申しましたようになるべく簡潔に御質問もお願いしたいし、答弁の方もよろしくお願いいたします。
  15. 中島眞人

    ○中島眞人君 質問じゃありません。介護保険の問題についてもお聞かせいただきたいと思います。  ともかく先生、後の説明の方でいくと理解ができますけれども、最初から冒頭の農業切り捨て、公共工事切り捨てのような発言だけが先行しがちな世の中でございますので、ぜひひとつ影響力のある先生でございますから、地方分権大切だということはいろいろわかりましたので、いわゆるきめの細かい御説明をしながらひとつ、影響力のある先生でございますから、御発言をいただきたいと思います。
  16. 正村公宏

    参考人(正村公宏君) 介護について言い忘れてしまったんですが、そんなに影響力ありませんから。ただ農業については丁寧に書くときは書いております。きょうは舌足らずだったことはおわびします。  介護については、保険ということでやるのならば二十歳から保険料をお集めになった方がよろしい。二十歳からじゃ集めにくいなあといって四十歳にされたんだとすると、これはバナナのたたき売りと同じであって、こういうことは明らかに政策に対する信頼性を失います。  それからもう一つ申し上げたいのは、介護保険というのは要するに、今予定されている法案の詳しいことはよく知りませんが、あくまで加齢に伴う障害に対しては保険給付が出ますね。ですから、例えば年をとった方が脳血管障害で倒れて後遺症が残った場合は給付がもらえるだろうということは明らかなんです。四十歳の方が何かの事情でそういうことが起こったとしたときに、これは加齢に伴うものかどうかということが審査の対象になります。それから、四十歳から保険料を納め続けていたのに五十歳で交通事故で半身不随になっちゃった、これは加齢に伴うのではないから対象でないですよと、こういうのはおかしいんですよ。そうじゃなくて、高齢者であろうと、高齢に伴う、加齢に伴うのではない障害者であろうと、一つの窓口をつくって、そこに行ったらケースワーカーがちゃんといて、そして何カ月か待ってくださいじゃなくて、差し当たりこういうあれがありますよと、そういう仕組みをコミュニティーの中でつくっていく。これをぜひやらないとうまくいかないんじゃないか。  そういう点で、介護保険でおやりになるなら早くおやりになったらどうですかと私は言っているんです、これ以上先送りしないで。しかし、必ず二、三年のうちに、あるいは一、二年のうちに手直しが必要になりますよと。制度の信頼性というのは絶対確保できませんよということを申し上げているつもりであります。  どうもありがとうございました。
  17. 牛嶋正

    牛嶋正君 貝塚先生と正村先生に一つずつお聞きしたいと思います。  まず、貝塚先生でございますが、我々は福祉の問題あるいは社会保障制度の問題を議論するときに、先進国であります北欧諸国をいつも材料にして議論するわけですけれども、その場合に日本北欧との違いというのは人口規模が非常に違うわけです。ですから、この点については十分注意をしておかなければならないんではないかというふうに思います。例えば、先生からいただきましたレジュメの三の「経済に与える影響」のところの図式がございますが、その上に、三十年間の雇用増はすべて地方公共団体が受け持ったということで、数字が四十万から百二十万というふうに挙がっていますが、これはスウェーデン人口だからこういった数字だろうと思いますが、日本でいきますと、もし今の地方公務員が三倍になりますと大変な数になってしまいます。  こういうふうに考えますと、下の図式にありますように、家庭サービス公共サービス化といいましても、日本では非常に難しいんではないか。むしろ家庭サービス社会サービス化という場合に、公共で持つ部分、それからまた民間で持つ部分というふうに分けて考える必要があると思いますが、その点についてちょっとお考えがありましたら言ってください。  正村先生につきましては、介護システムを早く確立すべきであるという意見。そして、むしろ市町村というふうな基礎的な地方公共団体でそれを受け持つべきだと、これにつきましては私も全く賛成でございます。  実は、新進党では、今の政府が言っております介護保険制度じゃなくて、税方式を言っております。その理由は、今市町村は国民健康保険の維持でもう精いっぱいなんですね。それにもう一つ介護保険制度が加わるといたしますと、それに終始してしまって、肝心の介護サービスの供給体制というのはできないんじゃないかというふうに思って、そういうふうな提案をしているわけであります。  ところが、これまで分権が進まなかった大きな理由は、市町村間の行政能力とかあるいは財政能力の格差がございます。恐らく今のままでいきますと、そのように税方式でもって財源のところを国が面倒を見たといたしましても、それぞれの市町村でそれこそ地域住民に安心を与えるような介護サービスの供給体制ができるのかというと、今のままではちょっと無理ではないか。やはりある程度の市町村の統合というふうなものを考えなければならないと思っておりますけれども、その考えについての先生のお考えと、それから、もし統合していくとするならば最低どれぐらいの規模が、人口規模だけでも結構でございますから、ちょっと教えていただければと思います。
  18. 貝塚啓明

    参考人貝塚啓明君) 私が北欧ケースを出しましたのは、要するに平たく言うと、社会保障が最も充実した、したというのは、やや過去形というのは、今は相当見直していますので、どういうことが起きているかということが日本として参考になる。今、牛嶋先生が言われた点は、ここに挙がっている例は、私はやや凡例的に、これが好ましいものとは思っていないという感じで申し上げております。ですから、社会保障を充実していくときに家族の役割をどこまで残して、スウェーデンは多分相当家族の役割を社会保障でやっちゃった部分がありますので、それをどこまで残していくかというのは極めて重要です。  私の意見は、やはりある程度日本の場合は残して、ただでさえなくなりそうな、今の状況が多分そういう状況になっておる。そういうことで、これはむしろ余り好ましい例ではないというふうに、家族サービスをすべて社会化するというのは無理があるし、これ非常に主観的な価値観にも依存して、何がいいかということは社会によって違うと思いますが、日本社会では家族というのは依然として残った重要な価値観で、そこはそれ自身として機能を重視しなくちゃいかぬというふうに考えておるということでございます。
  19. 正村公宏

    参考人(正村公宏君) 介護についてですが、四年ぐらい前でしょうか、出しました本の中で、当時ゴールドプラン十万人ということをおっしゃっていたんです。私は、腰だめというか、机の上の計算なんですが、五十万人のホームヘルパーが要るだろうというふうに概算で書きました。仮に、間接費を含めて一人一千万円、これは給与はそんなにかからないんですけれども、いろんなものを含めて、お前の計算は少な過ぎると言われると困るから少し多目に吹っかけたわけですけれども、一人一千万円、いろいろ関連を含めて考えて五十万人、そうすると五兆円ですよね。GDPの一%、二〇〇〇年時点で考えれば一%を本当に割こうという決意をすれば五十万人は確保できるはずだ、ヘルパーだけですけれども、とりあえず確保できるはずだと。十万人では到底安心感はないのであって、五十万人いたら少し違うんじゃないか。やっぱり空気を変えなきゃいけないんですよ。そういうふうに言っていました。  最近、去年だったと思いますけれども、NHKの何か特集番組を見ておりましたら、全国の都道府県にアンケートして、どのくらいのヘルパーが要りますかということを尋ねて集めたらぴったり五十万人だったんですね。現場の方がそう感じていらっしゃるらしいんです。これはどのくらいかというのは、どういうことをやるのか。貝塚さんがおっしゃるように家庭の機能が、家族の機能がどれだけ残るかとかいろんな問題がありますから機械的には計算できませんけれども、多分その程度のオーダーといいましょうか、規模でヘルパーさんをふやして、必ず介護に来てもらえるという仕組みをつくって、そしてそれをサポートする費用給付するシステムをつくったら空気が変わると私は確信しております。確信といっても証明はまだされてないんですけれども、そうなってほしいと思います。今十七万人とおっしゃっていますけれども、本当に安心感のあるシステムにするには多分足らないだろうと思います。  ただし、サービスの供給を公務員でというのは私のアイデアにはありません。そうではなくて、サービスの供給は多様な地域の事業主体にやってもらったらいい、株式会社でもいいと思います。ただ、金融と同じで、利用する側とサービスを供給する側の間には情報のギャップがありますから、事業がきちんと適正に行われているかどうかを監視すること、あるいはさまざまな苦情を受け付けてそれを処理すること、こういうことをどこかでやってくれないといけませんね。それから、必ず窓口をつくっておいて、そこに行けば相談に乗ってもらえる、こういう給付システムがありますよ、ここにはこういうヘルパーの派遣事業がありますよということを言ってくれる人がいないといけないんですね。  日本社会福祉事業の決定的なと言ってもいいほどの弱点の一つは、ケースワーカーが尊重されていない、ケースワーカーがいない、あるいは非常に少ない、ケースワークということの重要性が理解されていない、これは日本社会福祉事業の貧しさのあらわれなのではないでしょうか。ケースワーカーというのがよくわからないんですね、日本社会では。でも、まさに一人一人がケース・バイ・ケース、いろんな問題を抱えているわけですから、それに対応できるようにする。ケースワーカーの役割は二重なのであって、今ある地域資源をどうやったらその人のために使えるかということを考えてあげる。もう一つは、今ある地域資源のあり方に欠陥があることを発見する、要介護状態の人から突きつけられてくる要求にこたえられないとしたらどこに問題があると。だから、改革者にならなきゃいけないんですね、ケースワーカーは。コーディネーターであると同時に改革者になる。こういうケースワーカーの役割が日本で重視されていない、社会的に尊重されていないというところに日本社会福祉の貧しさが端的に私はあらわれていると思います。そういうことを含めて、どれだけ人的資源の体制をつくったらいいかということを、やはりこれはステップ・バイ・ステップ、やりながら考えていく以外にないと思いますけれども、つくっていただきたい。  地方公共団体の行政機関の役割は、自分サービスを供給するということにあるよりは、地域のサービス供給体制がうまくいっているかどうかということをチェックして、もしどうしても足らないのならイニシアチブをとる。市場原理というのは価格曲線か何かかいて、勉強なさった方はつまらない学問をやったと思いますけれども、市場原理の非常に大事なことはプライベートイニシアチブが尊重されているということなんです。政府の役割は何かというと、パブリックイニシアチブがそこで尊重されなきゃいけない。つまり、そこの地域住民の代表という資格において民間企業ではイニシアチブがとりにくい事業に対してイニシアチブを起こす、言い出しっぺをやる、これはやらなきゃだめだよ、やろうよと。そしてやる気のある人を集めて、じゃ民間にこういうあれをつくって、それで別に公共団体にする必要はないので任せましようとか、そのイニシアチブをとれるような福祉企業家精神を持った公務員がいてくれなきゃ困るわけですよ。そういうふうにして、能力格差のことをおっしゃいましたけれども、まさにそういう人的資源の蓄積ができるかどうかが決定的に重要ですね。もちろん財源の問題もありますけれども、そのことが非常に重要だと思うんです。  その意味では、御指摘のように今の地方公共団体規模をそのままにしてうまくいくとは私は思いません。私の考え方では、長期的に考えれば多分日本は道州制が必要であるだろう。  今中央政府がやっている大部分を道州政府に任せた方がよろしい。利根川の管理を建設省がやる必要はないのであって、関東州、関東州というと昔の何か変なのを思い出しますから、関東地方庁ですよね、そこがやる。幸いほかのところへ流れているわけではありません。そういうふうにして管理を道州に任せる。市町村は、特に農山漁村地域ではかなりの統合をやらなきゃいけない、あるいは統合の一つのステップとして事業組合を奨励してあげないといけない。それで、事業組合もおざなりの事業組合じゃなくて、事業組合というと清掃が今多いですから、福祉もごみ捨て場みたいに思われたら困りますけれども、ちゃんと人的資源が集まるような仕組みをつくっていく。  究極には、私は今の町村規模がこれでいいのだとは全然思っていません。見直さなきゃいけませんね、生活構造が変わっていますから。どのくらいの規模とおっしゃると、そこまでは計算しておりませんというふうに今はお答えするしかありません。それは多分地方によって非常に違うんじゃないでしょうか。
  20. 三浦一水

    ○三浦一水君 両先生にそれぞれお尋ねしたいんですけれども、地方財政の厳しさというのはよく三割自治という言葉で言われておりますが、私は熊本県選出でございまして、熊本県の財政を見ますと大体四分の一でございます。もう既にクオーター自治であるという現状です。町村によってはそれを割り込むところもある。この現状の中でありますから、一つ事業を取り組むに当たって、そのことからむだな取り組みをせざるを得ないという現状はたくさんあるわけです。  要は、国の採択を受けたい。その事業が理想的だという判断は地方にもないわけでありますから、採択を受けないと、結局あと残った四分の三の財源の確保ができないということであるならば、ベターザンナッシングだという考え方であきらめながらやってきているのが今の都道府県の自治体であり、あるいは市町村の現状だなと私はつくづく感じます。それが市民、県民のベースにおいても非常に目に余るものがありまして、農業の事業一つを導入するに当たりましても非常にむだが多いし、あるいは現場の方々が要望する内容にならないといういら立ちも非常にあるわけであります。  しかし、結局は財源の問題でありまして、今でも財政調整機能の中で成り立っているのでありますが、本県の知事と話をしますと、地方分権とんでもない、こっちの側からとんでもないと。今やられてしまえば全く都道府県財政が成り立たないという現状です。ここにもう抜本的なメスを入れなければ、大体分権を論ずることすら意味がない、私はそこまで極論を持つわけであります。一方で財源の再配分の問題につきましては、余りにもその面におきましてマスコミも視点としてとらえていない。我々はよく永田町でそのような論議をするんですが、いわゆる地方の財政の問題をどう切り開いていくのかという問題はほとんど焦点が当てられていない。ぜひとも先生方のお力をかりたいということで私はあえてこの問題を言っているわけでありますが、永田町の声はマスコミにはなかなか届きませんという現状であります。  それで、特に福祉の問題では、先ほど正村先生、まさに私が聞きたかったことを先取りしてお話があったわけでございますが、いわゆる福祉に関する税の財源を地方独自に持つ必要があるんじゃないかということでありますが、現状ではどうしようもない。社協の活動一つを見ても、これは農政をして無意味なばらまきという表現もありましたが、農政以上に無意味なばらまきは福祉分野でもたくさんやっています。私は社会福祉事業もやらせていただいていますのでそれをつぶさに現実で見ているんですが、これをやっている限りは、今の方向で福祉の予算を伸ばしていっても果たして地域の福祉の拡充ができるのかと、これはもう正村先生と全く同じ疑問を持つわけであります。  そこで、税制についてはこれは余り論議されていないし立ち入られてないんですが、先生方どういうふうにこの地域福祉の拡充のための税制の改正についてお考えをお持ちか、それぞれにお尋ねをしてみたいと思います。
  21. 貝塚啓明

    参考人貝塚啓明君) 簡単にお答えいたしますが、一つは、今最初に言われた地方分権に関係して私が考えたのは、おっしゃった点はまた補助金の話なんですね。補助金を中央省庁が決めて、あと各省庁の縦割りになっている。要するに地方分権というのは縦割りじゃないということでして、そこが非常に重要で、そこは幾ら言っても中央省庁の人は聞いたふりをして変えないという問題が一番重要であるということをちょっと申し上げておきます。  それから、税制につきましては、もちろん基本的にはこれはもう当たり前の話なんですが、地方固有の財源として地方税の部分をきっちりふやしていくというのが正論だと思うんです。したがって、そういう意味で、やはり市町村固有の財源とかあるいは都道府県、都道府県というのは私はやや疑問に思っておりまして、恒松さんが昔言っている、恒松さんは実を言うと県知事であったんですが県は要らないという主張をされております。だから原点はやっぱり市町村、ないし市町村ももう少し規模が大きい方がいいかもしれませんが、そこが一番重要で、そこの財源を強化するというのが一番の正当的な議論です。  そのためには多分、非常に簡単に申し上げれば自治省を相手に戦争をやらなくちゃいかぬ。自治省は府県を基礎に置いておりまして市町村に関心を持っていない。いずれにしても中央官庁と相当やり合って、そこのところの考え方を変えていかないと地方分権は基本的にはなかなか。しかしそこが非常に重要なところで、私ももちろん多少税制その他ではいろいろ発言しておりますので、なるべくその方向で、従来からもそういう考え方のもとでやっております。
  22. 正村公宏

    参考人(正村公宏君) 自治の問題というのは口先ではいろいろ最近言われるようになっていますけれども、難しい問題をたくさん抱えた問題で、本腰を入れてやる気があるのかどうかということが問題になるんですね。  これも二十年ほど前に、実はこれは貝塚さんにも御参加いただいたあるプロジェクトチームなんですが、分権と自治ということを私などは強調いたしまして、一番基礎的自治体がやれることは上の自治体は口出ししない、地方公共団体がやれることは上の中央政府は口出ししないと、これがまず原則として考えられなきゃいけない。実はこれはサブシディアリティーという言葉ヨーロッパの人たちが言っていることですけれども、サブシディアリティーというと補完という意味ですが、より上の統治機関は一番基礎的な統治機関の補完物であるべきだと。EUについてもそういう考え方を言っているわけですね。私は原則はそうだと。  ただし、産業社会がつくり出した地域間の不均衡が現実に存在するわけですから、これに対して何らかの財源調整をやらなければいけない。権限についても見直す必要があるかもしれない。見直すというのはある程度の過渡的な措置が必要かもしれませんが、差し当たり御指摘の財源の問題については財源調整の必要性を私は認めます。ただし、その根拠は何かということが常に必ずしも明らかであるとは言えない。お金がないから配りますというのでは、これは根拠になりませんね。私は、根拠は二つあり得るだろうと思っているんです、ほかにもあるかもしれませんが。  一つはナショナルミニマム論であります。あらゆる地域の国民がナショナルミニマムとして、つまり国民生活の最低基準を満たすだけの生活を保障する責任が国家にある。だから、国家地方公共団体の実態を把握してナショナルミニマムを保障できるだけの水準の財源調整をやりましようと。例えばこれが社会保障年金とか介護とかそういうことに関する費用、あるいは教育もそうだと思いますが、そういうところに関する費用に関してはナショナルミニマムの観点から財源再配分をいたしましようと。もちろん、これは余り細かく使途を決めるよりはメニュー方式とかいろいろ工夫をして地方自治体の選択を広げた方がよろしいと思います。  もう一つは、一種の戦略論みたいなものであります。つまり、今までの産業社会の発展傾向は、三大都市圏なかんずく東京圏への経済力と人的資源の集中を加速してまいりました。これからはもっと違う人口の流れをつくり出さなきゃならないと考え、つくり出そうではないかと考えたときに、農山漁村すべてに薄く広くばらまくよりは、地方の中枢都市なり中核都市なりを中心に、それぞれの地方が地方の全円的な生活構造を確立できるような仕組みをつくっていこうではないかと、そういう国家としてのストラテジー、戦略を持って、今はすぐには採算とれないけれども、先行的にここにはやりましようと、そのストラテジーがはっきりしているならば、整備新幹線をおやりになっても私は必ずしも異議を唱えない。それがはっきりしないで、昔つくった計画で走ろうとしておられるから、これはまた族議員が元気を出したのかなと思って皮肉を言っているわけです。そうじゃなくてやるというならば、そのストラテジーをお示しいただく責任があるだろうと思います。  もう一つちょっとつけ加えますと、三つ目があるかもしれないのは、人的資源などは流れるわけです。だから、山の中の子どもに対してちゃんとした教育を施すということは、その人がそこに住みつくとは限らないわけで、都会に出ていく可能性があるわけですから、都会の人から集めた税金でもってその人たちを教育してあげるというのは今までだってあったわけだし、そういうことがあります。  だから、国土の中での人間の移動は国際移動よりはもっと大きいわけですから、そういうふうにプールをして将来の人的資源の蓄積を図るという観点で、ナショナルミニマムという個人主義的な前提に立った社会保障観点と同時に、国家、あるいは国家主義と言うとぐあいが悪いですけれども、社会全体のあり方を考えて、投資してもいいという理屈づけは幾つかできると思うんです。その理屈づけをきちんとやる必要があります、これは私たちの責任でもあると思います。  次に、どうしたらいいかということについては、たった一つということはあり得ないのであって、これは財政の御専門であります貝塚さんからもちょっと御説明がありましたけれども、税の問題と、つまり税源そのものを地方にどれだけ譲れるかという問題と、それから交付金のような形の、ひもつきではないが一定の基準に従って富裕県から貧困県へという、これはさっき申し上げたナショナルミニマムの戦略論と絡んでくると思いますけれども、その観点でどこまでやれるかということと、それからもう一つ年金とか介護とかあるいは育児支援とか、そういう種類の社会保障の水準での給付でもって、これは再配分になります。ですから、この三つを組み合わせたらどこまで財政の姿を変えられるかということを真剣に考えてみる必要が多分あるんだろうというふうに思っております。  お答えになったかどうかわかりませんが、考え方だけ申し上げました。
  23. 朝日俊弘

    ○朝日俊弘君 ちょっと今まで話題になってなかったことで同じ質問をお二人の先生にお尋ねしたいと思うんですが、年金の問題、あるいはもっと広く社会保障制度の問題を考えるに当たって、現在与えられた数値というかあるいは人口推計というか、それを前提にして考えると、出てくる選択肢というのはかなり限られてくると思うんです。私は最近、少子化とか高齢化とかいうふうに表現するのではなくて、社会にとって適切な人口構造をどう保つかということを考えなきゃいけないんじゃないかと思っているんです。  つまり、例えば労働力人口高齢者人口の比率みたいなものがかなり年金の財源率再計算の問題で大きな要素になってくるわけです。そこで、少子化ということではなくて、社会の適切な発展に必要な人口構造をどう保つかという観点で幾つか政策の軸を立てなきゃいけないんじゃないかと思っているんですが、例えばその中で、子供が少なくなっているということについて児童福祉という範疇で対応できる分野は極めて限られていると思うんです。  そういう意味でぜひヒントをいただきたいんですが、これから一方で高齢者人口がふえていく、そして徐々に労働力人口が減っていく、そしてさらに子供は減っていく、やや人口構造がゆがんできている、これに対してどういう分野でどういう政策的対応があり得るのか、幾つかヒントがいただければありがたいと思うんです。
  24. 貝塚啓明

    参考人貝塚啓明君) 今の御質問は非常に難しい質問で、というのは、人口をどういうふうに政策的に変えられるかという話でありまして、過去なぜ今のような状況になったかということの一つの最大の理由は、今から十年ぐらい前、進学率が物すごくふえまして、それで女子学生が大学に入ってきて、その人たちはかなりの部分が就職したわけです。その人たちは今もかなり働いて、ある意味で言うと会社の中で男性と張り合いながらやっている。そういう人たちが三十代へ入ってきて、結局独身でいる可能性もあるし、家庭を持ったとしても子供はなかなか産まない。ですから、平たく言うとそこのところでがくっとなる。これをどうしてもとに戻すかということは、私はある意味では非常に難しいと思います。  ですから、大体子供を産むか産まないかというのは非常に私的なことで、そこへ政策が入り込むというのはもともとやりにくいですが、やれることは環境をなるべく変えていく。環境というのは、ですから非常に平たく言いますと、先ほど正村さんも言われましたが、例えばの話、日本企業の就業時間というのが実質的にはよくわからないんですね。あちこちのビルで長い間、夜働いているわけです。非常に単純に言えば、日本企業では普通の時間に帰ったら仕事ができないというか、あと昇進できないんですね。  実を言うと私は昔東京大学におりまして、東京大学を出た女子学生がどういうふうになっているかというと、結局ある段階家庭を持ったときに職業として続けられないと。それはなぜかというと、うちへ帰って子供を見たら会社で昇進できなくなる。そうするとやめちゃうわけです。ですから、恐らくそういう企業の雇用の慣行とかその辺を相当変えないといけない。これは非常に重要ですが、これをやればかなり違うと思います。  あとは都市の話として、ここも非常に微妙なところですが、例えばよく聞く話は、少しおくれて託児所に戻ってくるとどういうふうになっているかというと、託児所の職員の人は皆ほとんどいないわけです。というのは、その人たちも大体五時半とか六時に帰るわけです。そうすると一人だけ自分子供がいて、その子供が向こうからお母さん目がけて必死になって走ってくる、それが日本現状です。  だから、そこのところもやはり相当弾力的に、本当はそこは役所の規制がどうなっているのか私はよくわからないんですが、幾らか超過勤務をうまくできるように、そこのわずかの違いがかなり、これはいろいろ難しい問題ですが、その辺のところも制度的に細かい点は、配慮すべき点はいろいろあります。  最大のところは、私はやっぱり日本の大企業の慣行ですね、いつまでも夜遅くまで働いていないと偉くなれないというのはまずいんじゃないか。女性はそれを見たらばかばかしいと思うわけです。  非常に単純に言えば、無能な中年の男性がどうしてあれほど威張っているのか、本当になんでそうなっちゃうのか、そうしたらもう働く気がしなくなる。そこら辺のあたりが日本の大企業社会の本来的に持っている女性に対するある種の、女性の地位を結果的に非常に低くしていることの最大の問題です。これは実を言うと本当は日本の経営者、要するに経団連の人なんというのは多分一番ひどい範疇に属するんで、その辺から全部再教育しないとだめだとちょっと話したことがあったのですが、そういうことです。
  25. 正村公宏

    参考人(正村公宏君) 少子化先進国共通の傾向なんです、程度の違いはありますけれども。私は少子化というのは文明の自己衰退過程といいましょうか、自己破壊過程だと思うんです。  成熟した文明が共通に子供の数が減ってくるということが起こりそうなんです。あるいは子供の育て方がだめになってしまう。豊かさそのものが子供をだめにしますし、便利さそのものが子供をだめにしますし、バーチャルリアリティーとかなんとかに熱中している間に現実を忘れさせてしまうわけで、自然の厳しさを知って育つということがうんと減ってしまいます。それから兄弟切碓琢磨してというのがなくなってくるわけですね、子供が減ってしまって。こういうことは経済学者である私が何か言うのにはちょっと限界がありましてと逃げておくわけですが、難しい問題、文明のあり方の問題だと。しかしながら、手が全然ないわけではない。  ただし、私は、今の御指摘にありました人口構造をどう保つかという一つの政策目標を考えるべきではないかという御指摘ですが、間接的にはそうですけれども、我々の社会はマクロの人口のあり方から議論をするんですけれども、それをコントロールするという発想からスタートする前に、個人主義的な前提であらゆる政策を組み立ててきているわけです。個人主義的な前提で考えて、これは社会的な共同事業でやった方がいいという選択をして強制加入にしている、さっき申し上げたように。そういうことであって、個人の権利あるいは個人生活安全保障を、ここまでは個人の責任ですよ、でもここから先は社会的にやりましようと、こういう合理的に考えたシステムのデザインをしようとしているわけです。  ですから、少子化に対する考え方も、どうやったら人口の激減を防げるかということがきっかけにはなりますけれども、原理は個人の権利の保障だろうと。それは先ほど申し上げたつもりですが、子供を産んで育てたいと考えている女性が圧倒的に多いはずでありますし、女性だけではなくて家族を持っている人たち、男性を含めて子供を産んで育てようという気持ちを持っている方がたくさんいる。アンケートによると、三人まで産みたいというのが平均で、実際は二人以下しか産んでいないということが出ています。  こういう状況を考えますと、少なくとも私たちが今まず問題にするのは、働きたいという意欲を持ち、能力を持ち、そして今お話がありましたように教育を受けて、そういう人ほど一生懸命働こうとする傾向が強いわけです。パートじゃなくて頑張ろうというふうに考えられるわけです。そういう人たちが自分の技能を生かして働くということは、所得を得るということだけじゃありませんで社会参加の重要な方法でありますから、その権利を保障するために、さっき申し上げたように、産業構造がこれだけ構造変動したときにどういう社会的装置を用意したらいいかということをまじめに考えましようと。これを自然の成り行きに任せるというのは、我々の目的意識が低過ぎる。  それからもう一つは、子供の権利。子供が生まれる、生まれた子供が保護される、保護というのは過保護にならないようにですけれども、健全に育つ。  これをどうやって子供の権利を保障するか。この二つの権利を産業社会の現実に照らして保障するにはどういうシステムをつくったらいいか。これはちょっと抽象的なことを申し上げていますけれども、その観点から、例えば児童手当を思い切って何千円とかというのじゃなくて何万円か出して、そして子供を保育所に預ける人たちが費用をかなり自分で払う。自分で払いますから、措置費という形じゃなくて選択できる。こういう仕組みをつくったらどうかとか、そういう議論をもっとまじめにやったらどうかと思います。  現在の保育施策の考え方、今までのといいましょうか、保育施策の基本的な考え方の流れは、朝日委員がおっしゃったように児童福祉なんです。それは、保育に欠ける児童の保護という文句が書かれてきたわけであります。つまり、保育に欠ける子供を保護しましようということなんです。  私も幾つかの保育所を実際に回ってみたりした経験がございますが、幼保一体、幼稚園と保育所の関係をどうするかという問題が昔から言われながらいまだに解決していないんです。保育というのですから保護と育成ですよね、その二つの課題をどういう形でやるかというのは、保育に欠ける子供、つまり親が共働きであるとかいろんな理由で保育に欠けると認定されたら措置をして保育所に預けるという仕組みから脱却して、すべての子供に対して共通に、今申し上げたような母親の権利を保障し子供の権利を保障する。そして、結果としてそれが、結果としてというのはごまかしのようですけれども、実はそういう発想しか我々はとれないのであって、つまり新憲法のもとで我々が固執してきたのは、国家主義的、社会主義的な考え方ではなくて、狭い意味社会主義じゃありません、社会全体のことからまず議論するというのではなくて、個人の権利からスタートしようという考え方にこだわってきたわけですから、ここでもこだわろうと。その上で、結果としてそれだけのお金をかけることは国家社会の将来の存続を保障する、持続可能性、サステーナビリティーを保障する方策ですよということで合意を取りつけていく、そういう仕組みしかないのではないだろうかというふうに私は考えております。  貝塚さんがおっしゃったことについては、私は大賛成であります。若い人が猛烈に働いて、やたらに残業をやって、国会の質問に答えるために公務員が真夜中まで徹夜して意味のない答弁書を書くような、こういう仕事、働かせ方をしている限りは、我々高齢者がパートタイマーとしてであってもそこへ入って働き続けるということは困難ですし、障害者が働き続けることは困難ですし、女性が働き続けることも困難なんです。  つまり、日本人の働き方そのものを、本当の効率とは何か、本当に働くとはどういうことかということを見直す、そういうことがあります。
  26. 鶴岡洋

    会長鶴岡洋君) それでは時間が参りましたので、最後の質問に。
  27. 聴濤弘

    ○聴濤弘君 貝塚先生に一問だけ。  経済の発展が社会保障を充実させるということだと思いますし、また実際にそうだったりします。しかし、これから先、経済の発展というのはそうずっと順調に見込めるわけじゃないし、特に近年のバブル崩壊以後の経済ということだけとってみてもこれは大変な問題で、そういうものを仮にわきに置いても、経済成長というものを今までのような経済成長としてずっと見ていくわけにはいかないというふうに思うんです。  その場合に、それじゃ経済成長とそれから社会保障というものの関係というのはどうなってくるのか。  私の質問は極めて簡単なんですが、あるところから分捕ってきて社会保障へ回す、こっちから分捕ってきてこっちへ回すというのではなくて、物の考え方として、福祉というものそのものが経済の活性化につながるんだ、福祉を活性化させることが経済を活性化させるんだと。福祉の充実というのは反対の方向で、反対というのは社会経済そのものの発展になっていくんだと、そういう物の考え方、とらえ方、そういうことができないんだろうか。あとは具体論、政策論に入れば非常に長くなってしまうのでやめますけれども、そういう物の考え方、とらえ方というのをどんなふうに先生はお考えになるか、お聞かせいただきたいと思います。
  28. 貝塚啓明

    参考人貝塚啓明君) ただいまの点、多少正村さんが触れられましたけれども、恐らく地域福祉で今後介護その他を充実していけば、ある意味では雇用に対する相当の需要になると思うんです。それはもう確かであって、そういうやり方で、福祉がある程度地域社会の雇用を安定化させるということはそうだろうと思うんです。  それから、これはまた民間のサイドで言っても、多分御存じでしょうが、シルバー産業と言われているものがありまして、これは六十代の人々はかなり不安定なんですが、しかしそこのところは必ずしも社会保障でぴっちり見ているわけでもないので、そうすると人材の派遣とかそういうことに関してかなりの程度、今大企業を含めて相当一生懸命にやっております。ですから、そういう分野も新しいニーズがありまして、そういう固有のニーズがそれぞれ新しく出てきているということは間違いありません。  それから、もう一つ申し上げれば、具体例ですが、私は大学に所属しておりますが、これからの大学は多分生涯教育で決まると思います。いい生涯教育をやれる私立大学が残ると思いますし、そうなる。  ですから、今六十を過ぎた方が、ある程度資産がある方であるし、もう大体退職金ももらってややのんびり暮らしている。ただ、まだお元気なんですよね、そうするとやっぱり元気なときにいろんなことをやってみたい、それは必ずしも福祉ということじゃなくて、自分はもう一遍勉強したいと。そういうところも相当ありまして、多分そういうところは、福祉は当然そうなんですが、教育も実を言うと大変重要でして、生涯教育で自分自身が勉強するということと、大学時代に余り何にもやっていなかったということとかいろいろありますが、とにかくそこで生きがいを見出すということ、それ自身が相当重要なことです。必ずしも仕事をしているということでなくとも、私は重要だと思うんです。そういうところへ日本は移っていくんじゃないか。そこのところを、何かをやろうと、いろんな新しい機会があるというふうに思っております。
  29. 鶴岡洋

    会長鶴岡洋君) 以上で両参考人に対する質疑は終了いたしました。  貝塚参考人及び正村参考人には、お忙しい中、本調査会に御出席いただきましてまことにありがとうございました。  本日お述べいただきました貴重な御意見は今後の調査参考にさせていただきます。本調査会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。  ありがとうございました。(拍手)  本日はこれにて散会いたします。    午後三時一分散会