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山崎順子君 これからの教育目標というのは子供たちに生きる力を与えることであり、それは判断する力、理解する力、問題を解決する力だと思うんです。そして、どうやって人々が連帯して地球上の環境や平和や
福祉、そういったものを守っていくか、そういう目標に合わせて教育は組み立てるべきではないかと私は思っております。
そのためにはさまざまな事実や
データを出して、それには肯定意見も否定意見もあることを示して、そして考えてもらうということが大事なのであって、先ほど教科書が全部個性的で違っていいとは思わないとおっしゃいましたけれ
ども、不合格の教科書もちゃんと指導要領に合わせてつくっておりまして、特段、物すごく違っているとか物すごく個性的だということはないんです。それこそ、こういったことを勉強していないから三十代、四十代になってから女性たちが
自分の生き方に迷ったり悩んだり、法的識字率という面では大変日本は低いというような
状況があって、私などこの教科書を、随分
全国講演で今までも歩いておりますけれ
ども、ほとんどこういったことを話しているような
状況で、もう少しこういったことを勉強していればよかったんじゃないかと思うことがよくございます。
さて、もう
一つだけどうしてもお話を聞いておきたいことがございますので質問させていただきます。
民主主義社会といいますのは、もちろん文部
大臣ももうおわかりのことですし、ここにいらっしゃる方も当然御存じのことで釈迦に説法だと思いますけれ
ども、百人の人間がいれば百通りの価値観がありますし、百通りの人生、また家族というものがあります。そういう違いを認めて、そしてお互いに許容する社会が民主主義社会だと思うんです。この原則を家庭科という教科を通して徹底的に学ばせるのが教育の目標ではないんでしょうか。
それなのに、環境問題は理科や社会科で取り上げなさい、社会経済は社会科です、性教育は保健体育ですという形で、家庭一般の中で環境、経済は生活者としての立場からアプローチされているとか、性教育も青年期をどう生きるべきかという立場で書かれておりまして、他教科で学ぶ内容とはまた違うということがあるんです。
さて、その多様化とか個性化というものは好きなことをしていいというものではないと思います。先ほど、平等主義が悪平等を生んだというように、もしかして多様化、個性化というものが、てんでんばらばらに好きなことをするというような形、そういったものにとらわれてきた嫌いもなきにしもあらずだということを思います。
そして、その多様化とか個性化というのは
自分らしく生きることだと思うんですけれ
ども、
自分らしく生きるということは、
自分の好き勝手にすることではなくて、人の道というものをわきまえて、なおかつ
自分を律して生きることだと思うんですね。そして、
自分の人生に
自分で責任を持たなければいけませんし、その上で独自性や多様な生き方を阻む社会システムと私は戦うことだと思っております。
自分を律するとか、みずからの責任をとって生きるということを子供たちにやはりしっかりこれから教えていかなきゃいけない。ただ、この国の子供たちの
状況は、
自分を律することのできない子が大変ふえております。少年事件が、ことしの上半期六カ月と去年の上半期六カ月を比べてみましても、もう大変なふえ方をしております。特に、凶悪化、粗暴化しているというのが現状でして、先日も法務
委員会の派遣で仙台や秋田の方を回って少年院な
ども見てきたんですが、さまざまな現場の方々にお聞きしましたら、最近の子供たちは、大変なことをやってしまったとか大それた事件を起こしたという自覚が全くないというのが特徴だそうです。
そしてもう
一つ、もちろん自覚がなければ反省もないというのが現状なんですけれ
ども、実は子供の世界というのは大人の私たちの世界を映している鏡です。大人が反省しなければ、子供たちを幾らきつく取り締まっても、とても子供の世界は変わらないと思います。
そこで、この国は大変子供たちにとって不幸だと思うんですが、社会のリーダーたる人が収賄罪を犯し有罪になった、その事実は消えませんが、収賄を犯した政治家を
大臣のいすに座らせた、そういった総理がこの国にはおります。また、固辞せず平気で座った本人もいらっしゃいます。こういった閣僚がいる内閣は汚職に対して無神経なんじゃないかと、全員がそういうふうに思われても私はしょうがないと思うんです。まず、人というのは
自分を律することが大事。含蓄という言葉、もうこれは日本では死語になったのかなと私は思います、
自分を律することも、含羞という言葉も。
普通、一生懸命に罪を改めた人を、その一度の過ちでその人に罪人のレッテルを張り、一生差別し続けることはもちろん私たちは断じて避けなければいけません。社会復帰のチャンスを与えるべきだと思います。しかし、今回の総務庁長官になられた佐藤孝行氏は、一般理論には当てはまらないんじゃないかと思います。それは、二つの点で当てはまりません。
一つは、本人が全く罪を認めていらっしゃらなかったこと。そして、償いをしていらっしゃらない。虚偽の反論までして、裁判長に判決で、この人には反省の色がないと厳しく批判されているんです。世論が高まって、みんなにおかしいじゃないかと言われて初めて反省します。反省なんて猿でもできるというコマーシャルがありましたけれ
ども、猿に悪いんじゃないかと思います。子供たちに、みんなに非難されて、じゃ
自分は
大臣になるからそのとき反省しますと言えばいいのかと、そういうことを覚えさせることは、私は
文部省として
もとても基本の目標理念に反することではないかと思うんです。
それから、もう
一つ一般論に当てはまらないのは、政治の世界で
大臣になるということは、やはり権力の直接行使にかかわることです。そうした権力の直接行使にかかわる閣僚になるということは、さっき含羞という言葉を申しましたけれ
ども、普通は固辞するのが当然ではないか。また、最高権力者は、そういったところに収賄という政治姿勢、政治倫理の問題が問われる罪を犯した人をつけるということは最低限してはいけないルールだと私は思うんです。
政治家は、今はもうなくなった言葉なのかもしれませんけれ
ども、高潔さとか信義の信とか礼とかそういうものがやっぱり必要で、難しいことですけれ
ども、それをできるだけ示さなきゃいけないんじゃないか、そのように私は思っておりまして、こういうことが平気で行われるようであれば、子供たちに対しても全く私たちは教育をこうするああするなんてことは言えないんじゃないか。日本の未来にとって教育というのは一番大事なことだと思うんですけれ
ども、私たちの国にこれでは未来はないんじゃないかとさえ私は思っております。
まずこの点について、この佐藤孝行さんの入閣問題についてどう思われるか。また、一国の最高責任者として最低限のルールを破った総理についてどう思われるか。そして閣僚全体、この内閣全体が汚職に無神経と言われても仕方がない
状況について文部
大臣としてどう思われるか。今後、こういった示しのつかない
状況を教育界としてはどう変えていこうとしていらっしゃるのか、御意見を伺いたいと思います。