○片岡公述人 発言をお許しいただきまして、まことにありがとうございます。
私は、ただいま御紹介にあずかりました早稲田大学の片岡でございます。行政学を専攻しておりますので、ごく狭い範囲からではございますけれども、私見を述べさせていただきたいと思います。
まず、
平成九年度
一般会計予算の
政府原案の規模でございますけれども、既に御承知のように、七十七兆三千九百億ということでございまして、対前年度比
伸び率が三・〇%でございます。
経済成長率が一・九%といたしますと、それを上回る歳出の増ということになるわけでございますけれども、一番大きな
増加を見せておりますのが地方交付税交付金でございまして、これが
一三%の増ということでございまして、一般歳出四十三兆八千億は一・五%の
増加にとどまっております。それにいたしましても、公債発行が十六兆七千億ということでございまして、公債依存度が二一・六%ということになっております。
予算には、そのほかに
特別会計予算、財政投融資などございまして、なかなか私ども素人では
予算の全貌をつかむことが難しい状況でございますけれども、この一般会計歳出
予算が国内総生産において占める
比率を見てみますと、これが一五・〇%ということになっております。すなわち、
国民経済の規模の一五%は
政府の
予算であるということになってくるわけでございます。
これを
国民負担の側から見てまいりますと、中央及び地方の税
負担に
社会保障負担率を含めますと、当初予測ではございますが、三八・二%ということになっております。日本でこの種の統計がとられました明治十三年という
段階におきましては
負担率が一〇%でありましたけれども、第二次世界大戦を経まして、その後二〇%の台で推移し、これが三〇%になりましたのが昭和五十四年のことでございます。それから十八年足らずで間もなく四〇%の台に突入しようということでございまして、
政府が本年度を
財政構造改革元年と位置づけられまして支出の削減に努められようとしておられますのは、そのような事情によるものと思うわけでございます。
第二次臨時行政調査会の第一部会の報告におきましては、
国民の
負担感の限度を
考え、社会の活力を維持していく必要を
考えれば、徹底的な
制度改革の推進により、現在の、当時ですね、当時のヨーロッパの
水準である五〇%よりはるかに低位にこれをとどめておく必要があるというふうに述べられているわけでございまして、四〇%を超えるか超えないかというのが一つのその目安になるというふうに私は理解いたしております。
もっとも、他の先進諸国に比べまして日本がとりわけ突出した財政規模を持っているわけではございませんで、アメリカは日本よりも低い三六・五%でございますけれども、イギリスは
行政改革を重ねに重ねた結果まだ四六・二%、ドイツでは五三・三%、フランスでは六二%というふうに、日本よりも大きな財政規模を持っている国があるわけでございます。
一般に、日本人及び外国の観察者は、日本を大きな
政府を持った行政国家というふうに理解する傾向がございますけれども、少なくとも量的にはこれは必ずしも正しい判断ではございません。例えば公務員数をとってみますと、日本の総公務員数は四百五十一万でございまして、そのうち国が百十六万、地方が三百三十五万ということでございますけれども、これを
人口における
比率に直してみますと、日本は三・七%ということでございまして、ドイツは六二%、アメリカは七・一%、イギリスは七・七%、フランスは九・三%ということでございまして、少なくとも公務員数に関する限りは日本は大きな国家ではない。発展途上国を含めましても、この日本の公務員数は少ない方に属するというふうに理解することができます。
さらに、新年度におきましては、第九次定員削減計画によりまして二千二百十九名の減員が見込まれております。そのほかに、
政府がお決めになったところによりますと、国家公務員採用Ⅰ種試験の合格者による任用を、新年度から
平成十三年度までの間の五
年間これを三〇%縮減するということがうたわれておりますので、一層この公務員数は縮減していく方向にあるというふうに理解することができるわけでございます。
それにもかかわりませず、我が国は大きな
政府を持った行政国家であるという印象をぬぐい得ないのは、
政府が強力な規制の権限あるいは行政指導などの権限を持ちまして、社会における大変高いプレゼンスを持っているということが一つございます。
もう一つは、やはり公務員意識の問題でございまして、公務員の中には、自分
たちに任せておけば間違いはないという官治主義的な意識が残っておりまして、今日でも、合理的な根拠に基づいて解決し得る以上の問題を抱え込んで、かえって不信を招く原因となっているわけでございます。
そういう事情によりまして、今日
行政改革というものが喫緊の
課題として登場してきているわけでございますけれども、御承知のように、
行政改革は今日に始まったことではない。今続いております
行政改革だけをとってみましても、これは昭和五十六年に始まりました第二次臨時行政調査会から連綿として続いているものであるわけでございます。
くしくも、レーガンがアメリカでレーガノミックスをひっ提げて登場し、サッチャーがサッチャーリズムをひっ提げてイギリスで登場したのが、我が国における臨調の発足とほぼ一致しているわけでございまして、このレーガン、サッチャーは世界じゅうの国々に大きな
影響を与えまして、今日では、世界同時革命ならぬ世界同時
行政改革進行中ということでございます。これまで一国の
行政改革が他国に
影響を及ぼしたということはあるわけでございますけれども、その場合には時間差というものがございました。今日では時間差がなく、すべての国々が何らかの形でこの
行政改革というものを推進している状況にあるわけでございます。
これは、国内事情から申しますと、二度のオイルショックを経まして
経済成長の鈍化を見まして、いずれの国も累積
赤字に悩むというふうな事情がございますけれども、もう一つは、やはりコンピューターを含む電気通信分野における技術革新というものが世界を席巻いたしました。それと同時に、金融市場のグローバリゼーションというものが行われまして、グローバルなスタンダードに向けて規制緩和を行うというふうな動きが一斉に起こっているというために、こういう状況になっているわけでございます。
このように、世界の各国では同時に
行政改革を推進いたしておりますけれども、この
行政改革に向かうスタンスないしは
行政改革のペースというものは非常に異なっております。アメリカやイギリスは、一気呵成に民活、民営化を推進し、規制緩和を徹底的に行いまして、
経済の
効率化を図っておりますけれども、ドイツ、フランス及び日本というのは、用意周到に、公正が失われないように時間をかけて
行政改革を推進しようというふうにしているわけでございます。
もともと、アメリカ、イギリスと、ドイツ、フランスの違い、あるいは日本を含めたその違いというのは、アペールがアングロサクソンモデルとラインモデルというふうに区別していた区別に一応符合はいたすわけでございますけれども、イギリスにはイギリスの特別な事情、福祉国家を推進するプロセスの中で、産業投資というものを怠ってきたがゆえに
経済の力が著しく低下してきたという問題。あるいはアメリカにおきましても、生産性の低下という著しい問題があったわけでございまして、そういう事情により、一気呵成に
行政改革を推進して、その実績が今あらわれつつあるということでございます。イギリス、アメリカに追随いたしておりますカナダ、ニュージーランド、オーストラリア等も、いずれもそのような
経済上の問題を抱えていた。しかし、それがゆえに
行政改革の実績は上げつつあるというふうに評価することができるわけでございます。
共産主義諸国におきましても
行政改革を行っているわけですが、その場合にも、ソ連、東欧のように一気に市場
経済を目指す国と、中国のように社会主義的市場
経済というふうに申しましてじっくりと開放政策をとっていくという国と、二つに分かれているわけでございます。
日本は、
順序立った、
改革を手順を踏んで推進する慎重な態度をとっておりますけれども、このような日本の態度に対しまして、最近、「規制大国日本のジレンマ」という本、これは翻訳でございまして、原題は「ザ トランスフォーメーション オブ ザ ジャパニーズ エコノミー ザポリティカル バトル オーバー ディレギュレーション」という本でございますけれども、これは、エズラ・ヴォーゲルの息子さんでございますが、スティーブ・ヴォーゲルという人が書いた本でございます。
この中に、日本のようにゆっくりとしたペースで規制緩和を推進する、ないしは
行政改革を行っていくには、それなりのメリットがあるということでございます。これは、一挙に競争の原理によって倒産する企業を出さないように、企業の力をつけさせながら時間をかけてやることのメリット、それと同時に、
改革の結果、正義とか公正というものが失われないように
配慮をするためには、日本的な行き方というものにもメリットがあるということを指摘しているわけでございます。
橋本総理の百四十回
国会におきます施政方針演説におきましても、一方におきましては、世界の潮流を先取りする社会システムを一日も早く実現するというふうにうたわれながら、同時に、正義と公正というものを実現していくということが掲げられているわけでございます。
しかし、余り時間をかけ過ぎますと、そこに問題がないわけではございません。一つには、甘えの構造というものがいつまでたっても消えないわけでございまして、例えば銀行業界、これは一日も早い規制緩和を望んでいるわけですけれども、しかし同時に、倒産が出た場合には公的資金を
導入してくれというふうな要求もしていらっしゃるわけでございまして、こういう姿勢がいつまでたっても続く限り、
行政改革の効果というものは上がっていかないというふうに思われるわけでございます。
それと同時に、余り時間をかけ過ぎますと、官僚の手による骨抜き
改革というものが行われまして、一体何のために
改革を行ったのか、
改革を行った結果、果たして所期の目的が達成されるのかどうかというふうな問題、あるいは、そもそも所期の目的、
改革の目的は何であったのかということが明確でない状況というものが生まれる可能性が十分にあるわけでございます。
官僚は
改革に徹底的に反抗いたしますけれども、反抗し切れないとなりますと、みずから
改革のイニシアチブをとりまして権力を温存する組織づくりをするということは、これはイギリスにつきまして、ダンレビーという学者がこれをビューローシェービングという言葉で表現しているところでございます。我が国では金融検査監督庁あるいは日銀法の
改正においてこのような傾向が見られないでもないわけでございます。
ただ、日銀法の
改正につきまして、大蔵省の監督権が残ったということが批判されておりますけれども、しかし、大蔵省と日銀が連携をとることはやむを得ないことであるということを、アメリカの例を引いて説明させていただきたいと思います。
アメリカにおきましては、大統領の任期と連邦準備
委員会の議長の任期とが一致しないようになっております。したがいまして、新たに大統領に当選した人は前の大統領が任命した議長とともに協力してやらなければならない。必ずしも前の大統領に任命された議長が同じ政策を持っているとは限らないわけでございまして、これはレーガンの時代までアメリカで極めて深刻な問題となっていたわけです。
ですから、日銀の独立性というのは、これは十分保障しなければならないことは言うまでもありませんけれども、しかし、やはり政策のすり合わせをする余地というのはどうしてもそこに残しておかなければならないというふうに思うわけでございます。
行政改革の場合には、しばしば
総論賛成、
各論反対ということが言われます。経団連の会長の豊田さんも年頭に、
行政改革は各論まで行かなければ日本は破局を迎えるという言葉をお使いになったことは御承知のとおりでございますけれども、しかし、振り返ってみますと、それでは総論があるのかどうかということでございます。すなわち、
行政改革によってどういう
改革を行い、それによってどういう社会を実現しようとしているということが果たして
国民的な
議論に上がってきているかどうかということが問題であるわけでございまして、まずその総論がないことが今の
行政改革の一つの問題である。
これは、第二臨調の場合には、明確に理念というものを掲げまして、理念どおりにはならなかったわけですけれども、少なくとも理念は
議論いたしました。しかし、今回は、総理大臣の施政方針の中に方向が示されておりますけれども、それが果たして
国民的
議論としてコンセンサスを生む土台になっているかというと、そこに若干問題があろうかと思うわけでございます。
アメリカの場合を見てみますと、レーガン、あるいはイギリスのサッチャーというのは、ニューライトという思想に基づきまして
改革を推進しようとしていたことは改めて説明するまでもないわけでございますけれども、一九九〇年代以降、オズボーンとゲブラーという人が「リインベンティングガバメント」という本を出しまして、これが両国におけるそれ以降の
行政改革のバイブルとなっております。ここで軌道修正がなされるわけでございまして、これまではイデオロギー的に、とにかく市場
経済が善で
政府は悪である、だから
政府を徹底的に小さくしなければならないというふうな
考え方がとられてまいりましたのに対しまして、いや、
政府というのはやはり社会というものをある
一定の方向に誘導していくために強力でなければならないという
考え方がここで確立されてまいります。
しかし、これまでの
政府の運営の論理でございますと、そこに消費者主権と申しますか、
国民主権の原理というものが必ずしも確立していない。
政府で物を供給いたしますと、物を受益するのとそれに対する
負担とが分離しておりまして、
国民がどれだけの
負担においてどれだけのサービスを受けるという意思を表明するメカニズムが存在しない。したがって、そこでは供給者主権の原理というものが働くわけでございます。これをとにかく改める。そして、
政府の論理と市場の論理というものをゼロサム的に
考えるのではなくて、これをうまく
考え合わせることによって、人間が人間の尊厳を享受しながら生きることのできる社会というものを実現していこうというふうに向かっているわけでございます。
人間の尊厳と申しますのは、自由意思に基づいて人間が行動することによって保障されるわけでございます。そのためには、市場の論理というものが最適であるわけでございますけれども、市場というのは排除の原則によって成り立っている。すなわち、代価を支払わない者は市場を通じて物を得ることができないという原則によって成り立っているわけでございまして、すべての人々が人間の尊厳を享受することができるようにするためには、これにはどうしても
政府の論理というものが必要となってくるということで、この両者を結びつけようというのが現在の
改革のスローガンというふうになっております。
イギリスには市民憲章というのが制定されました。アメリカでは、ゴア副大統領が中心になりまして、ナショナル・パフォーマンス・レビューというものを出しております。
これに基づきまして、
国民は消費者であるという位置づけを与えまして、消費者であるからには選択の自由を持っている、国のサービスも、受けたいと思う種類のサービスを選択して享受することのできるような状況をつくり出すという方向に今世界の
行政改革は向かいつつあるわけでございます。そのためには、民営化、契約による
民間委託、あるいは受益者
負担の原則、そしてバウチャー
制度の
導入というふうなことが言われているわけでございます。
本格的な
行政改革は、行政機関を、企画立案を担当するコア機関と、検査、監督を担当する周辺機関及び
実施を担当する執行機関とに分解いたしまして、相互のネットワーキング化を図りまして、これまで自己完結的なヒエラルキー的組織を通じて行われていた行政作用をこのネットワークの方にゆだねていくという方向がとられておるわけでございます。イギリスではこれをエージェンシー化というふうに言います。日本では外庁化という言葉が定着しつつございます。
これが行われますと、例えば規制緩和を行いましてもどうしても必要として残る規制というものは、企画立案を担当する機関の外で準立法的、準司法的手続を通じて行うことができるようになるわけでございます。アメリカでは規制は独立規制
委員会が担当しておりますが、イギリスでも今日これと同じような方向がとられているわけでございます。
ただ、そうなりますと、それでは
国民に対する責任と申しますか、アカウンタビリティーというのはどのようにして達成していくかという問題が出てくるわけでございます。そこで、企画立案を担当する機関は、任務を執行機関に委任する場合に、まず目標を明確に設定いたしまして、そしてその目標が達成される度合いを示す指標というものを与えます。それに従って、
実施機関はどれだけ結果を出しているかということを一目瞭然に把握できるような状況を生み出すことによって、アカウンタビリティーを高めていこうとする方向がとられているわけでございます。
もちろん、現在はまだ試行錯誤の状況でございまして、完全にそれによって責任状況が改善されたということではございません。新しい状況のもとでは新しい問題が起こっておりますけれども、しかし、少なくともそういう形で
改革が行われている。
それと同時に、
実施機関には、目標をどのような仕方で達成するかにつきましては大きな裁量権を与えます。消費者に一番近い
実施機関が一番
国民の要求を知っているわけですから、そこに権限をおろしていくということですね。日本では地方分権化もその一つに入ろうかと思うわけでございます。
予算にいたしましても弾力化をする。これまで
予算というのは、議会の統制手段としてこれが歴史的に発生したものでございますから、単年度主義というのが原則でございましたけれども、複数年度の
予算というものを
導入する、あるいは使い残した
予算は次年度に使うことを許すというふうな方向があるわけでございます。
ただ、ここで問題なのは、
国民は単なる消費者にのみ分解することができないということでございます。
国民は主権の源泉であると同時に、有権者であり、行政の監督者であり、いろんな役割を同時に果たさなければならないわけでございます。
国民がこういう役割をみずから果たすことによって自己責任というものを負っていくためには、情報の公開、企業につきましてはディスクロージャーということが不可欠なわけでございまして、こういうことを行うことが
行政改革の前提になろうかと思います。
どうもありがとうございました。(拍手)