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栗本委員 今おっしゃられたように、実際、やれとか、やるなとかいうふうなことを今後各
大学に
文部省が指導といいますか、介入をしないように強くお願いをしたいと思います。
では、次の
質問に移りますが、
任期制の導入、それについての懸念にもかかわっているのですが、実は、今
大学及び
教授に対する
業績評価という問題が、この十年ぐらいだと思います、
日本でかなり
議論をされてくるようになりました。この
業績評価に関しましては、
一般的に言って余り進んでいない。あるいは、
一般的に言って、これが一番正しい、
議論の、問題のないやり方であるというふうなものが確立されているとは思わない。私は、
自分で提案している部分があります、自称栗本・朝日式というのをここでは提案しております。朝日新聞とこの点だけ意見が一致していると私は言っているのだが、本紙の方は一致していないとか言っていましたが、週刊朝日でやっていたわけであります。
先般、湯川秀樹博士が何年間か外に対して
業績発表していなかったのはどうにかなってしまう危険があるのじゃないかという御
質問がありましたが、湯川さんほどの人を認知できないような
大学は、湯川さんに去られても仕方がない。これはノーベル賞をとったからというわけじゃありませんが、百人のうち〇・一人くらいの例でありまして、これを全般の
議論にするのはおかしい。
一般的には、やはり五年も十年も外に対して
業績を発表しない
教員、
教授は、それは怠惰だ、責任を果たしていないというふうに思うのです。
先ほど、
大学の
教員の
資格について
国家資格化する、もちろん私は初めから反対でありますが、それはしないという御答弁で大変よかったと思いますが、
現実には私は
資格はあると思っています。それは、
大学というものは高校までと違って
研究をもとにする
教育であるとすれば、本人が最先端の
研究者であることが、本人の怠惰なり才能の欠如によってストップすることはあると思うのです、
現実に。あっても、最低限必要なのは、例えば民法学でもいい、刑法でも民事訴訟法でも何でもいいのです、ショウジョウバエの眼の発生の
研究でも何でもいいけれども、それについての最先端の
研究が今何がなされていて、それはどういう
議論がされているのかということについての知識、理解は最低持っていなければいけない。
自分は残念ながらそれについて世界的
研究を今発表できていないけれども、こういう
議論があって、こうなんだ、今生命論の展開されている中で、これはこういう
意味なんだということが
学生に語られなければ、それはしようがない。
ただ、
現実にはそうじゃない
教授がたくさんいるわけでありまして、
自分が三十年前に
研究をストップしてしまったその時点のことだけを毎年やる。三十年間ノートが変わらない。三十年前というとお父さん、お母さんがいたときと同じでありまして、
現実に、超一流有名
大学と言われるところで、二十数年間論文、著書はもちろんです、発行が
一つもなしという
ケース、それで大体そういう人は学部長なんかやっているのですけれども、そういうときは一生懸命なものですから、という例がもう枚挙にいとまがない。
私は、それこそ朝日新聞社が出しているのですが、
自分の「間違いだらけの
大学選び」という本の中でほとんどぎりぎりに実名を挙げてそのことを書いておりますが、その本
人たちから、おまえの言っていることはひどい、おまえが間違っているという抗議ないし脅迫を受けたということは
一つもない。逆に、その
所属の学部長から何とかもうちょっと筆を抑えてほしいという陳情を受けたということはある。ということは、事実だということを認めているのですね。もうちょっと抑え目に書いていただきたいとか、そうしないと選挙に響きますよみたいな話が、陳情だか脅迫だかわからないのですけれども、そういうものが実際ありました。そういったことの方が多い。
だから、湯川博士の例というのは逆の話でありまして、また、確かにごくまれには、
日本で過去、歴史上二人か三人はということになるでしょうけれども、五年も六年も外に対して発表していないけれどもというか——外に対しての発表は
日本は異様に楽なのです、異様に。いわゆる
大学の紀要というのは、あらゆる
大学で
研究発表誌を持っております。これは
日本だけですから、こんなことは。
アメリカのような
大学では、例えばハーバードやスタンフォードといういわゆる一流
大学と考えられるところが、ある特定の分野について、それについてうちは自信がある、これはハーバード・ロー・レビューというのをつくろうじゃないかというようなことはあるけれども、あらゆる
大学、あらゆる短大、あらゆるコミュニティーカレッジが全部
研究発表誌を持っているなんというのは
日本だけなのです。だから、本数をそろえるのは異常に簡単です。世界一簡単と言われている。うそを書いても時々怒られない。そういうチェックをしようじゃないかという話をしたら、それは
アカデミックハラスメントになるからやめよう、これが現状なのですよ。そこで発表していないということは、
義務を果たしていない。
それと、
日本の
大学での紀要で許容されますレベルというのは、最近学会でこういうことが
議論されて、これはこういうものです、これでも許容されます。ハーバード・ロー・レビューは、それではだめです。
だから、そうしたものを発表していないというのは、まず怠惰なのであって、
大学の
教員の
資格を
現実には欠いているというふうに私は考えている。だから、この
任期制はそれを強化するという話は私はおかしいと思うのです。そうしたことでもし行われるいわゆる
アカデミックハラスメントがあるのなら、別の形でも当然行われるだろうし
それで、この
大学教員の
任期というのは、いろいろな意見はありますが、しょせんは他人がわかることでありますから、おまえは異常に無能である、全然勉強していないからといって例えば
任期をつける、そうじゃないと思うのです。
現実には、私も
大学についていろいろな
批判をしてきましたから、では今度新しい
大学をつくりたいので御意見をちょうだいしたいとかいろいろなことがありますが、一番の
問題点は、やはり
教員の確保であります。その
教員の確保で、引く手あまたのと言うとオーバーですけれども、まず優秀と言われている
教授は、
任期をつけてくれと向こうから言います。つけてくれと、つけてほしいと。
実は、
アメリカでもそうなのであります。ただ、
アメリカの場合は、これも
議論がありますが、最近
任期をつけているところは数が減っているかあるいはふえていないという話があったが、それは実情がわかっていらっしゃらない。例えば
アメリカの場合には、一流
大学はある
意味で非常にエリートシステムが発達しておりますから、博士号を
大学卒業後、もう二十ぐらいで取る。例えば
一つの例、私が行っておりましたノースウェスタン
大学という
大学があって、この
大学のMBA、つまり経営学修士号は、毎年チェックしていまして、大体四年か五年に一通全米ナンバーワンだといういわば一流
大学になっている、ここの
教授に二十四とか五の
教授が何人もいるのです。何だこれはと言うと、彼らの考え方、それを私は正しいとは言いません、
一つあると言っているだけですが、彼らの考え方は、
自分のところは超一流
大学だから超一流の
教授をそろえたい。まあこれはいいと思う、
批判はできないけれども、その基準が問題なので、やはり
大学を早く
卒業して、博士号も早く取って、簡単に言えば二十一ぐらいまでに
大学を
卒業して一年か二年で博士号を取る、だから二十三ぐらいで経済学博士になっているわけであります。さすがに哲学等ではそういうことは起きなくて、
アメリカの経済学は数理経済学が中心でありますから、数学ができるということを示すと割にそれは取りやすくて、二十三、四で取れる。
それで、二十四、五から
教授、
教授です、最初から
教授を始めるわけであります。私は
現実に何人もそういう人と話しして、実際にはばかなのじゃないかと思った
ケースがかなりありましたけれども、経歴は立派なのです。また、経歴で来る
学生もいれば、それはその
学生の方もばかなのですからしようがない。そうすると、その
人たちは最初からフルプロフェッサーで、何と二十四、五で来てしまう。いわゆるテニュアがついている。
任期はない。だけれども、
現実には、採用される二十四、五の若手超エリート
教授は、二年でいいですね、三年でいいですね、その後ハーバードから帰ってこいと言われているのですけれどもという話になっていますが、表面上
任期はつけない。うちの
大学としては、ノースウェスタン
大学ならノースウェスタン
大学としては、ずっと一生いていただきたいという話でつけている。これが実態なのです。
だから、
任期云々という話を、この
法案では
任期制をもし導入した場合にはそれを明確に外に出せと書いてある。これは非常にいいことだと思います。もし書いてあっても、今後もそういう、内々の契約といいますか、そういったものは恐らくなくなっていかないだろう。それを含めてオープン化していくべきだと思っているのですが、
質問に戻ります。
どうも
大学の問題になると講義になってしまって困るのでありますが、と
大臣も思っていられると思いますが。
教員の
業績評価についてはいろいろある。言い忘れました。私の評価基準は、したがって
大学の
教員といえども、外部に対して、
大学内も含めて
自分の外部、
研究室の外部に対して
研究業績を明確にする
義務がある。また、もしも
社会がそれを非常にマイナーなものだと考えていたら、そうではなく、それをまた
社会に対して説得していく
義務がある。だから、よく言われる地味で
社会的にマスコミに取り上げられない
研究は損するという話はおかしい。損はしているかもしれないが、もしも今から八百年前の中国の法制史、余りだれも関心を持たないのだけれども、地味だけれども価値があるのだというのなら、
自分がおもしろいというだけじゃなくて、なぜ価値があるか、なぜそのことが
意味があるのかということを提起していく必要があるのですよというのを基軸にした評価方式であったわけであります。いささかある面に偏っていることを認めますが、それが
一つ、客観的なものにしていく
根拠なのです。
アメリカではたくさんの
教員業績評価がありますけれども、大体
教授間の相互評価であるので、したがって、
大学ではこれはもう自民党は不利であります。たくさん仲間を持っている
教授がお互いに褒め合うと点がふえる。そのスキャンダルも
指摘されておりますし、それは「
大学教授調書」という本で、
日本で翻訳されている。お互いに褒め合うとふえるわけです。
今日、
日本でノーベル賞がとれていないのは大変だと、これは自民党の議員さんの中からもかなり
指摘がありますけれども、ノーベル賞はまた今度国会と違う議院内閣制に当たるものをとっておりまして、ノーベル賞選考
委員会の
委員を何人押さえるか。政治力さえあれば、私なんかでもいってしまう。ただ問題は、私は経済学では経済人類学という近代経済学やマルクス経済学をともに
批判している分野の立場をとっておりますが、私がたまたまノーベル賞を一回とると、翌年もとらなければいけない、つまり仲間をつくっていないですからね、というようなことになる。
やがて
日本でもう少しノーベル賞学者が出るようになりますと、恐らくノーベル賞を実際とる構図は何なのか、そこにスキャンダルがあるのじゃないかという話が出てくるだろうと思っていますが、とりあえず現時点はもうちょっと欲しいですねというふうなことは私も思っています。つまり、外との
関係を重視した、学問の狭い分野内、閉鎖された分野内にとどまらないものを重視した
教員評価を私は主張している、
例えばそれの
一つの成果と言うと言い過ぎですが、はっきり言ってしまえば成果が「
大学ランキング」という、これはあらゆるランク、だから、私も当然書いていますけれども、栗本・朝日式だけではなくてほかの人が別の形で評価している、評価法がたくさん入っているこういったものが出てきた。
いずれにしても、だから進んでいないというより、
教員評価の仕方というのは確定はしていないし、今後も確定するかどうかはわからない。栗本の言っていることがやはりいいという場合もあるだろうし、あいつはもう自民党だからいけない、こういう場合もあるだろうと思う。
ですが、いずれにしても
教員評価の客観的基準、それに基づいてどうこうというものは今ないし、恐らく今後もしばらくできないだろうという
状況の中で
任期制を導入することは
大学における
教育研究に悪影響を及ぼすのじゃないかという
指摘があるのですが、これについてどう思われるかということについてお聞きしたいと思います。