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仲村委員 私は、先般の予算
委員会で、
沖縄の
米軍基地は、
安保条約とは
関係なく
米軍が日米戦争で
沖縄を占領して、いわゆる戦争行為の略奪的手法によって非合法的な手段でつくられた占領支配の延長である、こういうことを申し上げて、そのことについての
答弁を求めたわけであります。当日は、NHKの全国放送で審議
状況が逐一放送されておりましたので、
政府答弁を聞いた県民から、諸冨
防衛施設庁長官の
答弁は
沖縄戦の、
米軍が
沖縄県民の
土地を戦争行為で奪い取った、こういう事実を頭から否定したものじゃないか、全く許せない、こういう電話がひっきりなしにかかってきたようなものでございます。
その
答弁というのは、次のようなものであります。
お答えします。いわゆる占領下にございました時期につきましては、いわゆる琉球
政府等を通して、
米軍は
米国の高等弁務官布告、布令に基づき、
米国内の手続に基づいて賃貸借契約を締結し、それが応じられない場合には
米国のそういう手続に基づいて
土地の使用を継続してきた。しかし、その間の補償も行われておるというふうに私
どもは
承知しております。
このような
答弁をなさっておられます。これはあたかも、私が申し上げた
沖縄の
米軍基地の成り立ちの歴史背景を否定している、県民合意のもとで
米軍の
基地ができたかのごとき
答弁であります。
それじゃ私がもう一度、
米軍の上陸、占領、そして
基地建設の歴史の経緯を説明いたしますので、その上でもう一度御
答弁をいただきたい、このように考えております。
米軍の
沖縄作戦は、アイスバーグ作戦に基づいて、昭和二十年三月二十三日の大空襲から始まり、六月二十三日の摩文仁が丘の陥落で一応の組織的な戦闘は終わっております。そして、
米軍の占領支配が始まったわけです。
米軍は、
米国海軍軍
政府を設置してニミッツ布告を公布し、
日本の司法権、行
政権の行使を停止して、軍政施行を
宣言したのであります。そして
米軍は、
沖縄本島の石川以南に本土侵攻作戦の
基地を建設すべく、中南部に生き残った住民を捕虜にして、石川以北にテント小屋やカヤぶきの掘っ立て小屋の収容所をつくって、これを全部強制的に移動させたのであります。
米軍は、直ちに、従来県民の八〇%以上が住んでいた石川以南の、割と平たん地の多い中南部に
基地建設を始めました。もちろんその一部は、旧
日本軍がこれまた県民の
土地を強制接収してつくった
基地も含まれておりますが、その大半は、普天間
基地のように、新たに軍用地として中南部一帯を片っ端から囲い込んで
基地建設が始まったのであります。
その
基地の面積は、一番最高のときには三百五十三平方キロにも及んでおりました。それは、県土面積の一四・八%、
沖縄本島の二七・二%を占めていたのであります。
このように
基地建設が進む中で、
米軍は、北部に捕虜として収容していた住民を、
基地の間にわずかに残った
土地に、昭和二十一年初めごろから、もとの町や村にまた移住をさせたのであります。その理由の第一は、
米軍が本格的
基地建設を始めるための労働力の
確保のためであったわけです。二点目には、全部配給物資で
沖縄県民をいつまでも賄うわけにいかないので、わずかに残った
土地を農耕させて食糧生産をさせるためであったわけです。
しかしその後、
米軍は、一たんは住宅建築や農耕を許した
土地を、
基地拡張のために、昭和二十五年二月ごろから六月にかけて、軍指令第二号、建築及び耕作制限を発布して、新たな
土地の強制接収を次から次へと強行したのであります。これが、いわゆるよく銃剣とブルドーザーによる
土地取り上げと言われているものであります。それは、伊江村の真謝、西崎、宜野湾村の伊佐浜、真和志村の安謝、天久、銘苅一帯、小禄村の具志などの
土地を徹底的に、反対、抵抗する地主を銃剣とブルドーザーで排除して奪い取ったのであります。
このように、激しい戦闘から始まった
米軍の占領の継続によって接収した軍用地について、たび重なる県民の使用料支払いの要求にもかかわらず、
米軍は、国際法上当然与えられた権利だといって、陸戦ノ法規慣例ニ関スル
条約、いわゆるへーグ陸戦法規を理由に、軍用地料の支払いを拒んできたわけであります。
にもかかわらず、
沖縄県民は、辛抱強く、粘り強く、生活のための地料を払え、こういうことを主張し続けたために、約八年間も無償のままの使用を継続していたわけでありますけれ
ども、二十七年の対日平和
条約が締結されたときに、
沖縄県民は、もはや
米軍の主張してきたヘーグ陸戦法規に関する
条約の
根拠はなくなった、ここで地料の支払いをすべきであるというふうに強く迫ったわけであります。ようやぐ
米軍は、昭和二十八年十二月五日に、布告二十六号、軍用
地域内の不動産の使用に対する補償を公布して、
土地の強制使用後八年目にして、ようやく
土地の使用料を支払いしたのであります。
このように、
沖縄県民の
土地の使用の補償の要求と、新規接収に県民総決起の抵抗が強くなったことを憂慮して、
米国は次にまたどういう手を打ってきたかというと、
米国下院軍事
委員会沖縄調査団を派遣して、その派遣の結果、プライス勧告に基づいて
沖縄の
土地代の十年分を一括払いすることによって永久使用権を
確保しようとする
措置をとったのであります。
米国民
政府は、ついに、布令百六十四号、米合衆国
土地収用令を昭和三十二年二月二十三日に公布したのであります。しかし、県民の激しい反対運動の抵抗に遭い、ついに高等弁務官は、昭和三十三年四月に、軍用地料の一括払いは中止すると発表したのであります。
その後、県民代表団が訪米し、米
政府と折衝した結果、
沖縄の軍用地問題は現地の高等弁務官とよく話し合ってくれ、こういうことになって、昭和三十四年一月に、
土地賃借安定法及び
アメリカ合衆国が賃借する
土地の借賃の前払いに関する立法が決められたのであります。そのようなことで、借地料の支払いが図られるようになったのであります。
これは、あくまでも
米軍が使用している賃料に関する合意であって、これによって、
米軍の占領当時の略奪的手法で接収した非合法的手段が消されたことにはならないのであります。
また、このような県民の、占領軍の弾圧を恐れずに、県民が現地
米軍を通り越して
米国政府との折衝でかち取った成果を、あたかも合法的に
米軍に
土地を貸したがごとき
答弁をして、
米軍の戦争行為による略奪的手法による
土地取り上げの非合法性を正当化することは、私は認めるわけにはいきません。
もう一度お答えください。