○渡辺(喜)
委員 税制のあるべき姿を
考えてと、まさに主税
局長さんの御答弁だと
思います。こういったことは、恐らくこれから、例えば銀行局と理財局あるいは証券局と理財局、いろいろな場面で出てくるのであろうというふうに
思います。
そこで、こういった局間の調整というものをやはり一番確実に推進をするには、まさに大臣のリーダーシップであると思うのでございます。大臣には御
質問はいたしません。そこで、例えばこの局間調整がうまくいかないときはどうするか。そのときは、ぜひ大臣がつぶやいていただければいいのだと私は思うのです。あしたから国金
局長と主税
局長は入れかえてもらいます、たった一言そのつぶやきがあっただけで、私は、調整はスムーズにいくと思うのでございます。それでも調整がうまくいかなくなった場合には、そのとおり実行されればなおさらよろしいのかと
思います。
いずれにいたしましても、この六つの
改革、これを我々はなし遂げなければならない。何でこんなことをやらざるを得ないことになったのかと申せば、今さら言うまでもありませんが、直接的なきっかけは土地と株の大暴落に始まる
平成大不況でございました。もちろんその背景には高齢・少子化といった人口構造の急激な変化、あるいは東西冷戦構造の大崩壊、そういったことが重なり合ってこういったことをやらざるを得ない
状況に追い込まれてきたのだと思うのであります。
考えてみますと、
平成元年十一月だったと記憶をいたしておりますが、ベルリンの壁が大崩壊をいたしました。ちょうどその一カ月後に
我が国の平均株価が最高値をつけたのであります。まさに象徴的な出来事であったなと思うのであります。この
我が国におけるバブルの大崩壊過程と冷戦構造の崩壊過程とは実に見事にぴったりと一致してくるのであります。
例えば統一ドイツをつくるためには膨大な
お金が必要になります。また、社会主義のソ連から市場
経済のロシアをつくるためにも膨大な資金が必要になるわけであります。
昭和六十年九月、プラザホテルに集まってなされたプラザ合意以降じゃぶじゃぶと
我が国に入ってきた
お金が、この冷戦構造の崩壊過程の中で今度はどんどんと
日本から逃げ出していく、そういう
状況があったわけであります。いつの日にか
日本は
お金の受け取り手から
お金の出し手にかわってしまっておったということであろうと
思います。そういうときに、例えば土地税制を強化し急激な地価抑制策をとる、あるいは不動産融資規制をやるということをやれば、恐らく効果はすぐに出てきたのではなかろうかと思うのであります。
平成二年でありますが、
日本銀行が調査月報というものを、これは何か毎月出しておられるのだそうですが、
平成二年の四月号というのは実は大変に有名な論文でございます。「わが国における近年の地価上昇の背景と影響について」と題して、それまでの日銀のとってきた政策の失敗あるいは自己批判といったことを書いたレポートであると
思います。
ちょうど三重野さんが総裁になられましたのが
平成元年の十二月でございました。
平成元年の十二月のころ、公定歩合は三・七五%でございました。公定歩合が一番安かったのは
昭和六十二年から
平成元年の五月三十一日まで、二・五%でございました。この三重野総裁の時代に、数えてみましたら公定歩合の操作というものを十回ほど行っておられます。
最初の三回は三・七五から四・二五へ、そして五・二五、六%というぐあいに上げる方向で動かされたわけであります。その後の七回については下げる方向で動かされたわけでございます。
ちょうど私のおやじが、
平成二年の十一月ごろだったと記憶をいたしておりますが、こんなことを言っておりました。十五歳の少年がおった。身長百八十センチ、体重八十キロ、こいつはいい相撲取りになりそうだなというので相撲部屋に入れて、三年間飲ませ食わせをして、十八歳になったときに百五十キロまで太った。ところが、関取になるどころか、やれ糖尿病は出るわ痛風は出るわ、これはちょっと相撲取りは廃業だなというので、いきなりもとの体重の八十キロまで半年間で戻そうとしたらどんなことになるか。十八歳の少年でも死んじまうぞと言ったのであります。
ちょうどそのころ、公定歩合についてこんなことを語っておりました。
平成二年の十一月ごろであります。来年
平成三年は、桜の花の咲くころ〇・五、梅雨が明けたら〇・五、秋が来たとき〇・五、年の暮れにも〇・五、こういうぐあいに公定歩合を引き下げていくべきであろう、そんなことを言っておったのでございます。
その後、
平成三年十月には当時の
三塚会長と一緒に総裁選挙に出させてもらいました。そして、
平成三年十一月に副
総理・外務大臣という
立場に就任をさせていただいたわけであります。代表権はあるけれども、渉外担当副社長みたいな
立場でございました。この間、月例
経済閣僚会議というものが行われ、当時の三重野日銀総裁と大変な激論を交わしたという話を私は父から何度も聞かされておりました。
結局これだけ大量の不良債権をつくってしまった責任、それは住専問題において昨年本当に嫌というほど聞かされた話でありますが、
大蔵省の皆さんや
大蔵大臣が大変な火の粉をかぶり矢面に立ってこの問題と対処してこられたのでありますけれども、一体
日本銀行の責任はどこに行ってしまったのかなというのが私の率直な感想なのでございます。この今日の
状況を、
お金の
状況をつくった責任の一端は
日本銀行にもあったのではなかろうか、私は率直にそう言わせてもらいたいのでございます。
今般、日銀法の改正という問題が取り上げられつつございます。
日本銀行法というのは、確かに
昭和十七年に立法された戦時立法でございます。確かに文言を読んでみても極めて古い。第一条の
目的というものを読んでみても、「
国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ル為
国家ノ政策ニ即シ通貨ノ調節、金融ノ調整及信用制度ノ保持育成ニ任ズル」、こういう条文でございます。確かにこういう古い
法律を変える必要は大いにあると私も
考えるのでございます。
政府あるいは
大蔵省からの独立性を確保し、意思決定の透明性も同時に確保しつつ、物価の安定と信用秩序の維持に資するというのが、この間出た金融制度調査会の答申ではなかろうかというふうに
思います。事実上の金融政策の決定機関であった役員集会、これも廃止をする。そして、いわゆるスリーピングボートと言われておりました政策
委員会を最高意思決定機関とする、そういうことも金制の答申では述べられております。そして、政策
委員会の議事録の公開あるいは年二回の
国会への報告、こういったことによっていわゆるアカウンタビリティー、
説明責任を確保いたしましょうということもうたわれております。
私は、この答申の中で若干の問題点があるような気がしてなりません。例えば、政策
委員会への
政府からの出席は二名というふうにされております。しかし、この最高意思決定機関である政策
委員会においては、
政府からの
出席者二名については議決権は与えられないということであります。同時に、総裁や副総裁というものは内閣任命、これは同じことでございますが、
国会の
同意というものも入れていきましょうという
提案でございまして、それはそれで結構なことだと
思いますが、
政府との意見の相違があっても、そのことによっては解任をされないという身分保障を明確にしてもございます。つまり、一たん
国会が
同意をし決めてしまったならば、五年間は首を切ることはできないということであります。
私は、率直に言って、今までも
政治家の言うことなどは日銀は当然聞く耳を持たなかったわけでございます。そして、ここにおいて独立性の強化ということを金制の答申のとおりにしたとき、一体だれに対して
日本の中央銀行は責任を負うのかという実に重大な問題については、私は、この答申は答えていないような気がするのでございます。
この答申の前に中央銀行研究会のレポートというものも発表されております。それによりますと、「
国会が
主権者たる
国民を代表し、その
国会の信任を得て内閣が存立するという
我が国の制度の下では、
日本銀行は
国会や内閣から完全に独立した存在ではありえない。」ということも添えられております。結局、私は、この金融制度調査会の答申が、
政府や
国会の中央銀行に対する極めて抑制的な
意味でのコントロールにおいても、極めて不十分であると言わざるを得ないのでございます。
この問題について中村副大臣の御見解をお伺いしたいと思うのでございますが、まだこの法案は
国会に付されていないものでございますし、差し支えのない
範囲で結構でございます。