○遠藤(武)
議員 遠藤武彦です。
まず初めに、
委員会の皆様方には、昼の本
会議を含め、長時間にわたり本当に御苦労さまでございます。
また、
お話がありましたように、無所属である私にこのような発言の機会を与えていただきましたことに、
委員長を初め
委員会の各位に心から厚く御礼申し上げる次第でございます。ありがとうございました。
私は、先ほどからいろいろ
お話をお聞きしてお
りまして、どうも自分がこんなところへ立っているあれじゃないじゃないかなという
思いをしきりにしております。
というのは、私は、朝から三十五チャンネルで、皆様方の本当に真摯な、
人間のといいますか、人の死というもの、その痛みを共有しながら
やりとりなさっているのを聞きまして、ある種の感動すら覚えたのであります。ですから、余計、私のような門外漢がこんなところで果たして務まるだろうかと思っていました。
何しろ、無所属で少しやってみるかという
お話があったのは先週でありまして、先週の初めころまでは無所属にも十人くらいおったのでありますが、そのうち、先週ぽろぽろと三人ほどいなくなりまして、また、外遊に行っていたりした者がおりまして、何か残っているのはおまえだけだ、こういうことでございまして、そんな
立場からで大変申しわけありませんし、また、これまで
国会の中あるいはかつて在籍しておりました自民党の中でも、さまざまな会合で、
社会福祉や
医療関係の会合にはほとんどといいますか、全く出たことがない、こんな私ですから、本当に申しわけないと思っているのです。
ただ、しかし、そうはいいましても、私も、
脳死というこの新しい
概念というものを、あるいは今さまざまな面で取り上げられておる
臓器移植という問題についてやはり真剣に
考えていかざるを得ないと
思いましたし、皆様方の
やりとりを拝聴しながら、強く、
国会という場でこういうことを論ずる、そして何かを決めていくということは大変なことだなという
思いもしておるのでありまして、皆様方のこれまでの御
努力に本当に心から敬意を表したいと
思います。
私自身の
立場をまずもって明らかにしておきますと、私は、
脳死は人の死であると
考えておりますし、また、
臓器の
移植も、自分が、自分自身のこととして、いずれ登録とかそういう形のものをしていかなきゃならぬのじゃなかろうか、そういうふうに
考えている
立場であります。
ですから、主としていわゆる
衆法一二号といいますか、
中山先生が出された案を中心にいろいろお尋ねしていきたいと思うのですが、ちょっとばかり
お願いをしたいのは、先ほどから、各
先生方、本当にまじめでございまして、お答えが相当懇切丁寧でありまして、どうか、私のような門外漢、もう学術用語はわからぬ、もしかすると取り違えて、大脳と小脳ぐらいはわかるつもりですが、やるかもしれませんから、ですから、それは違う
言葉だとか、イエスかノーかとか、そうだとかそうでないとか、そういうことで結構ですし、決して不親切だとか、いじめられたなんて思っていませんので、よろしく
お願いを申し上げたいと
思います。
最初に、
人間には万人万様の生き方、だから人生観、死生観があるわけですから、
脳死を人の死だと
考える人もおれば、絶対そうではないだろうという方もこれはいらっしゃって当然なのでありますね。そのために
社会的合意がなされているという
言葉が先ほど来しばしば使われておるようですが、私は決して、
社会的合意が
脳死は人の死だということで形成されているとはどうしても思えない。統計の
数字などを持ち出されておるようでありますが、私はかつて総務庁におりましたが、統計局というのがございます。統計はとり方でさまざま違うのであります。設問の仕方だけでも違うわけですね。ですから、これだけ多くのお医者さん方が、またお医者さんの中でも職能によって、あるいは法曹界の人や宗教界や哲学者までいろいろな
意見を言っているわけですね。すばらしいことを言っているわけです。それでいて
社会的合意がなされているということはなかなか言い切れないのではなかろうかな、こんなふうに
考えております。
ただ、
脳死についても、先ほど言っておりましたが、厚生省令による
基準とかいうもので
脳死とするか、いや、完全に細胞まで死んでなければ
脳死と言えないのだという人だっていらっしゃるわけですね。こういうものをそもそも
法律で決めていくということにもいろいろ問題があるということを、そうしたことをやはり
基礎にしながらたたき台にしていかなくてはならぬのではなかろうかな、こんなふうに
考えています。
それで、私は思うのですが、
人工呼吸器というものができてから死の
概念というのが変わってきているのではなかろうか。今までだと、たった今、息をお引き取りになりましたとか、大往生でございましたとか、こういう形だったわけですが、しかし現実に、
人工呼吸器が発達して、
心臓は動いている、体温は温かい、それでも死んでいるのかということなんですね。
ですから、私は、
人工呼吸器が発達して今日このようなことになってきているときに、在来の死の
概念、死というものの
概念を変えなければならなくなってきているのではなかろうか、こういうふうに
考えていますが、その点については、お医者様でもいらっしゃいますから、自見さん、簡潔にひとつ
お願いしたいと
思います。