○平田
委員 ぜひそういう
姿勢で最後まで貫いていただきたいなというふうに思います。
特措法の改正については、まだこの
委員会の席上では御
答弁になっておられませんので、このテーマで議論をさせていただくと不毛な議論になるのかなというふうにも思いますが、しかし、私、今回、十六日、十七日の二日間行かせていただきまして、この問題について
地元から極めて重要な発言を聞いてまいりましたので、ぜひこの問題に触れさせていただきたいと思うわけでございます。
それで、今報道等で言われております駐留軍用地特措法の改正というのは、附則を少し変えて、県の収用
委員会の審理中は、従前から借りているところはそのまま継続使用を審理期間中は認める、審理でだめだというならば返すけれ
ども審理期間中はいいですよ、こういうふうに報道では私は理解をしているわけでございます。
従前は、
沖縄特別立法というようなことで極めて拒否反応が
地元から強かったわけでありますが、この問題については、十六日に大田知事にお会いをいたしましたときにも、大田知事からはきっぱりとそのようなものは反対であると言われました。それから、
基地を多く抱えた重立った市あるいは町の首長の
皆さんとも約二時間
意見交換をさせていただきましたが、そのときにも、
皆さん、絶対反対だ、こうおっしゃいました。いろいろなチャンスに、
地方議員の
皆さん、あるいは各
地域の有力者の
皆さん、あるいは業界
団体の責任者の
皆さん、そういう方みんなに伺いましたが、口をそろえて反対だというふうに言われました。
これは、新聞報道でもそのような報道が押しなべてされているわけでありますので、何も私が申し上げて耳新しいことではないと思いますが、私は、その
基地を抱えた自治体の市長さん、町長さんとの懇談の席で、ある首長さんからこういう言葉が飛び出したときには、びっくりいたしました。もし特措法の改正をするということは、
地元の自治体あるいは地主の
意見を聞かないで国が一方的にその使用権を取得することができる、これはまさに強権の発動だ、もしこのような強権の発動をするならば、テロさえ起きかねない心配があります、こういう御発言がありました。法律にのっとって住民の福祉のために懸命に
努力をしておられ、
基地問題にもいろいろ現実問題として
悩みながら、現に存在する
基地と、そして
米軍と住民との間に入って現実的対応をしなければならない、また現にしておられる、そういう
立場の方からのその発言は、私にとっては極めて衝撃的な言葉でございました。
実は、私は弁護士でございまして、
沖縄に行く前、すなわち昨年の七月前は、楚辺の通信所の問題がおさおさやっておりましたし、とにかく
日米安保条約があるから、日本は法治国家だから、条約をきちっと守る義務がある以上、国内法上合法化しなければいけないなというふうに考えていたわけでございます。しかし、
沖縄の
方々からすれば、今のような言葉がごく自然に出てくる。これは一体何なんだろうか。四回
沖縄に行かせていただいて、そのことがだんだんとわかってまいりました。
まず
一つは、簡単に申し上げれば、簡単ではないかもしれませんが、この二十五年間、
沖縄が返ってきてから二十五年間でありますが、その前の二十七年間の
米軍の占領下における
沖縄県民の
皆さんの暮らしはどうだったのか。実は、私は読谷村に行きまして、読谷の村長から、その占領直後、要するに
沖縄戦直後の読谷の
状況を、いろいろな資料を見せていただいて教えていただきました。
日本は敗戦によりまして本土も
米軍の進駐を受け、占領されたわけでありますが、それは武力による侵攻ではありませんでした。そして、進駐した先も日本軍の
基地がほとんどでございまして、新たに
米軍基地がつくられるというのは極めてまれであったわけでございます。したがって、精神的には、占領された、大変だという思いがありましたが、しかし銃弾が飛んできたわけではありません。占領によって命を失ったわけではありません。
しかし、読谷の
状況はまさに
米軍の武力侵攻でございまして、読谷の村民は占領によってどうなったか。銃弾によって多くの
方々が亡くなりました。そして、戦闘が終わったときには、読谷の村民の
皆さんは全員が一カ所に集められて、全員が捕虜になったわけです。そして、その捕虜になった
地域の一部だけがその住民の
方々の居住地でありまして、これは読谷の村域の何十分の一と言っていいぐらい小さな
地域であります。そして、いろいろな部落が各地にあったわけでありますが、
米軍はそれを全部ブルドーザーで平らにしてしまい、従前の家はない、道路はない、後に
返還されたときに、どこが家の境界だということが現実にはわからない、そういう
状況になってしまった。そして長い間、二十七年間、
米軍の一方的な統治のもとで暮らしてきた。
それだけではありませんで、南部では六十万人の住民のうちの約二十万人が亡くなったそうでありますが、そのありさまというのはどういうことなのか。ほんの少ししかおっしゃいませんでしたが、要するに死体がごろごろごろごろしていたんですと。もう足の踏み場のないような死体の散乱、それが
沖縄南部の
状況であった。
それでどうなったかというと、戦闘行為が終わりますと、南部の生き残った住民は全部山原の方、この間名護市も見てまいりましたが、名護市が終わってから金武町の役場へ行きまして、金武町の屋上でキャンプ・ハンセンを眺めたわけでございますが、そのときに一緒に同行された県
会議員の方が町長と話しておられました。このちょっと北側に中川というところがありましたね、ありますよ、実はあそこに私は収容されていたんですと。収容されていた。要するに、南部は死体だらけで、とにかくとりあえず北へ行けということで、カヤぶきの粗末な粗末な収容所に全員が入れられたんです。幾つでしたか、十二歳だ。一家四人で、
米軍からの配給というのは十分じゃなくて、一日一合の米しかなかった。また、友達も栄養失調ではたばたばたばたと亡くなっていきました、そう言われながら、今は立派な
地元の政治家でいらっしゃいますが、そっと冒頭を押さえておいでになった。恐らくあのときの悲惨な思い、友人の苦しみながら亡くなっていった姿、そういうものをまたぐっと心の中に思い出されたんではないかというふうに思いました。私も、それ以上その方に声をかける勇気がありませんでした。
今
沖縄の
県民の
皆さんは、自分の肉親を亡くし、そして自分自身がまさにその戦争体験をし、また
米軍の占領の生々しい体験、苦しみというものを持っておられるわけであります。本土の我々も、私は戦後生まれですから知りませんが、父親
たちの話を聞けば、戦争の苦しみを話してくれますが、しかし、その苦しみは、地上戦をやった
沖縄の人
たちとは天地雲泥の差がある。確かに空襲も大変だったと思いますが、すべてを焼き尽くされた、そして占領によって、残った家屋敷もすべてつぶされた、そして一カ所に収容されて過酷な待遇であったという
沖縄の
県民の人
たちの経験と天地雲泥の差があるのではないかと私は思うんです。
しかし、
沖縄の
方々は、そういうちょっとした縁がない限りはとうとうとその苦しみをお話しになりません。みんな心の奥底に、いや、きっと思い出したくないんでしょう。なかなか言葉にされません。また、奥ゆかしいんだろうと思います。守礼の邦琉球のよき精神的伝統をお持ちなんだろうというふうに思うんです。そういう
沖縄県民の
皆さんの心で、この強制使用の問題を考えなければならないと私は思うんです。
確かに法治国家であります。楚辺のような不法占拠があってはならないという
防衛施設庁のお考え、また
防衛庁長官、
外務大臣のお考え、恐らく橋本総理も同じお考えでいらっしゃいましょう。しかし、じゃ
沖縄の
方々からすれば、二十五年前
沖縄が返ってきてからどうなったんですか。たしか核抜き・本土並みというふうに言われたんじゃないですか。本土並みというのはどういうことですか。例えば
米軍の
基地はどういうことですか。
伺うところ、
沖縄が返ってから、本土の
米軍基地は六割削減されたそうでありますが、
沖縄の
基地は一五%しか削減されていないと聞いております。
日米安保条約上、片務的に
米軍は、米国は日本を守ってくれることになっておりますが、そのかわりに我が国は極東の安全のために日本の
基地を提供することになっている。しかし、その
日米安保条約を結んだときの
基地の提供は、そのとき
沖縄の施政権はありませんでしたから、
米軍に行っていたわけですから、本土の
米軍基地だけが
日米安保条約の、要するに片務的に
米軍が日本を守るかわりに
基地提供の
対象になったわけです。それが、
沖縄返還になったら、突然、
沖縄がまた
安保条約の
基地提供の
対象にすりかえられてしまった。そして、本土の
基地はどんどん削減され、
沖縄の
基地はずっとそのまま残っている。
しかも、御承知のとおり、
沖縄の
基地はいいところばかりにあります。なぜ住宅ががけつ縁にあるのだろうか。私も行ってびっくりして聞いたのですが、いいところは全部
米軍が、先ほどお話ししたように、一カ所占領しているうちに全部田畑を
基地にしてしまって、あと残っているのはがけつ縁しかなかった、解放されたときはそこに住むしかないのですよと。だから、軍用地の地主の
方々も、今は相当高額な地代をもらっておいでになるわけでありますが、当時はめちゃくちゃだったわけです。
しかし、その
基地が、日本
政府によって、日本の本土の
安保条約上の
基地提供義務の肩がわりをさせられたのです。地上戦で日本軍に苦しめられ、そして
沖縄返還がなされた後は、今度は本土並みと言いながら
沖縄は本土の義務の肩がわりをさせられたのではないですか。あなた方は、約束は守らなくてはいけない、法律は守らなくてはいけないと、では本土並みというのは法律ではないから守らなくていいのですか、これに対して、私は答えようがありませんでした。
また、翻って、日本は有事法制が何もなくて、自衛隊はいざというときには超法規的に動かないと本当に日本を守ることができない、非常に貧弱な防衛法体系になっています。日本が法治国家だというのだったら、
沖縄のことばかり言うのではなくて、なぜ有事法制をきちっとしないのか。私は弁護士として、法治国家を守るべきだという観点から、そういう主張をずっとしてまいりました、おかしいではないかと。もし三千名のこの強制使用をどうしても合法化するのだというのだったら、そして特措法の改正まで視野に入れるとするのだったら、法案を提出するときは、有事法制もあわせて提案しなければまさに不公平のそしりは免れない。
沖縄にばかり何でこんなにしわ寄せをするのだ、法治国家だ、法治国家だというのは、要するに日本の本土の、
政府の勝手な言いぐさではないですかと言われたときに、私
たちはまた何の反論もできないのではないかと思うのですが、長官、
大臣、いかがですか。