運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1996-06-05 第136回国会 参議院 国民生活・経済に関する調査会 第7号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成八年六月五日(水曜日)    午後一時開会     ―――――――――――――    委員異動  四月二十六日     辞任        補欠選任      戸田 邦司君     木暮 山人君  六月四日     辞任        補欠選任      魚住裕一郎君     大森 礼子君      木暮 山人君     渡辺 孝男君      林 久美子君     福本 潤一君     ―――――――――――――   出席者は左のとおり。     会 長         鶴岡  洋君     理 事                 太田 豊秋君                 牛嶋  正君                 片上 公人君                 上山 和人君                 聴濤  弘君     委 員                 石井 道子君                 上杉 光弘君                 大島 慶久君                 金田 勝年君                 中島 眞人君                 橋本 聖子君                 平田 耕一君                 三浦 一水君                 大森 礼子君                 小林  元君                 福本 潤一君                 渡辺 孝男君                日下部禧代子君                 千葉 景子君                 三重野栄子君                 水野 誠一君    事務局側        第二特別調査室        長        林 五津夫君    参考人        一橋大学経済研        究所教授     高山 憲之君        ジャーナリスト  大谷 昭宏君     ―――――――――――――   本日の会議に付した案件 ○国民生活経済に関する調査  (二十一世紀経済社会対応するための経済  運営在り方に関する件のうち社会保障課題  と基本的方向について)     ―――――――――――――
  2. 鶴岡洋

    ○会長(鶴岡洋君) ただいまから国民生活経済に関する調査会を開会いたします。  委員異動について御報告いたします。  去る四月二十六日、戸田邦司君が委員辞任され、その補欠として木暮山人君が選任されました。  また、昨日、林久美子君、魚住裕一郎君及び木暮山人君が委員辞任され、その補欠として福本潤一君、大森礼子君及び渡辺孝男君がそれぞれ選任されました。     ―――――――――――――
  3. 鶴岡洋

    ○会長(鶴岡洋君) 国民生活経済に関する調査を議題とし、二十一世紀経済社会対応するための経済運営在り方に関する件のうち社会保障課題基本的方向について参考人から意見を聴取いたします。  本日は、お手元に配付の参考人の名簿のとおり、一橋大学経済研究所教授高山憲之君及びジャーナリスト大谷昭宏君のお二人に御出席をいただき、順次御意見を承ることになっております。  この際、高山参考人及び大谷参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきましてまことにありがとうございます。  本日は、本調査会が現在調査を進めております二十一世紀経済社会対応するための経済運営在り方に関する件のうち社会保障課題基本的方向について忌憚のない御意見をお聞かせいただき、調査参考にさせていただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。  議事の進め方でございますが、まず両参考人からお一人三十分程度ずつ順次御意見をお述べいただきました後、委員からの質疑にお答えいただく方法で進めたいと存じます。  それでは、最初高山参考人からお願いいたします。
  4. 高山憲之

    参考人高山憲之君) ただいま紹介をいただきました高山でございます。  当調査会にて参考人として意見を申し述べる機会を与えられましたことを大変光栄に存じております。社会保障課題基本的方向につきまして、お手元のレジュメと資料を使いながら御説明をさせていただきます。  まず最初に、「アメリカ繁栄は老人が墓場へ持っていってしまった」という言葉の紹介から始めたいと思います。この言葉は、アメリカボストン大学の教授でローレンス・コトリコフという人がある会議の席上で発言したものでございます。  御案内のように、アメリカは一九六〇年代がいわば繁栄の絶頂をきわめた時代でございました。黄金の時代でもあったわけでございます。ところが、一九七〇年以降既に二十五年余り時間が経過しております。この二十五年間、アメリカのいわゆる生活者、一人一人に着目した生活者レベルでは、生活水準の上昇ということをもう一つ実感できないままずっと過ごしてきた、成長感なき社会を実はアメリカ人はこの二十五年間過ごしてきたということでございます。  御案内のように、アメリカ経済全体で見ますと経済成長を遂げております。これは、基本的には働く人の数、労働者数が増大してきたということに関係するんですが、一人一人の労働者に着目しますと、手取り所得はこの二十五年間、少なくとも平均的に見ます限りはほとんど上昇しておりません。ミクロレベルで見ますと、アメリカ人は二十五年間、成長感なき社会に過ごしてきたということでございます。  そういう現実を踏まえまして、あの六〇年代に繁栄を誇ったアメリカは一体どこへ行ってしまったんだという問いかけが行われたわけでございます。それに対する一つの答えが、いや、あの繁栄は老人が墓場に持っていってしまったんだということをコトリコフさんの見解として紹介をしたいということでございます。  成長を続けるためにはそれなりの布石を次々に打っていかざるを得ません。成長するためには当然社会資本維持更新あるいは新規の投資を怠ってはいけません。あるいは技術革新がやはり成長にとって決め手でございます。そのシーズをまき続ける、あるいは国民に成長へのインセンティブを与えるようなもろもろの制度をつくっていく必要があるということでございますが、繁栄を誇った六〇年代以降アメリカ人のやってきたこと、それはどちらかというと減税要求が非常に強くて、公的な負担については非常に強い拒否反応がございました。  他方で、福祉に対する要求というものも非常に根強いものがございまして、結果的に財政は赤字基調を余儀なくされました。その中で、将来のための投資原資をそこで用意することができなかったということでございまして、社会資本は劣化を余儀なくされてしまう、維持更新すらまともにできないということでございます。そうした中で財政赤字が累積し、なかなか将来に向けての布石が打てないような事態に追い込まれてしまったということでございます。私は、この言葉を、たまたま会議に出席していたんですが、それを聞きまして実は非常に気にかかった言葉として鮮明に記憶しております。  実は、この言葉は、「アメリカ」というところを「日本」に置きかえると、「日本繁栄は老人が墓場に持っていってしまった」ということになるんですが、この言葉を今から二十年たった後、日本人のだれかが例えば国際会議の席上で発言するおそれはないかということでございます。私はそのおそれを持っている一人でございまして、私の問題意識をきょう率直に申し上げますので、皆さん参考になさっていただきたいということでございます。  まず、基本的な事実認識のところから始めたいと思うんですが、五月の月末に新しい厚生白書が刊行されました。既に皆様は人口関係の話は御案内だと思いますので、この辺ははしょって説明をいたしたいと思います。  基本的に申し上げますと、日本の総人口はほぼ十年後から減少し始め、百年後には半分になるということでございます。  明治維新のときの日本の総人口、三千四百万人でございました。太平洋戦争が終わった一九四五年、七千二百万人でございます。その後第一次石油ショックが起こった直後、一九七五年、昭和五十年の段階で一億一千万人でございます。今一億二千六百万人なんです。これがあと十年ぐらいで多分一億三千万人ぐらいのところまでいくだろうというふうに言われておりますが、その後は一転して減少過程に入るということであります。  現在、低出生率が実は下げどまっておりません。ずっと傾向的に、昭和五十年以降出生率は低下しておりますが、仮に現在の水準でとまったとして出生率が一・五前後で今後ずっと走るというふうに仮定しても、百年後に日本の総人口は半分になる、六千百万人のオーダーでございます。  今まで明治以来百二十年余り、日本の総人口はふえ続けてまいりました。そのために、日本人人口はふえるのが当たり前だというそういう社会になれ親しんできたわけです。そのために、人口が減るということはどういうことかについてなかなか想像力が働かない、イマジネーションが極めて乏しいということだと思います。そのために、イマジネーションがわかないものですから、人口減少社会に対する対応なり対策というのがなかなかとられない、ほとんど未着手の状況にあるというふうに私自身は考えております。それで一体いいのかというのがきょうの問題提起でございます。  私の極めて軟弱な頭で人口減少社会についての整理を多少してございます。  まず第一に、総人口が減るわけですから働く人の人口数も当然のごとく減っていきます。  お手元の資料で、税研というところに私が発表しました「高齢化社会における社会保障負担」という論文がございますが、これの三十五ページ目に表の一というのがございます。白石さんという、労働省から日本労働研究機構に御出向なさった方が推計なさったものでございますが、これによりますと、人口減に伴いまして働く人の総数が二〇〇〇年以降急激に減り出すということでございます。その中で、特に二十九歳以下、三十歳未満の人たちが激減するということでございます。  例えば、二〇〇〇年から二〇一〇年にかけて、三十歳未満の労働力は大体三百七十万人も減ってしまうということでございます。二〇一〇年から二〇年にかけて六十万人の減ということになっておりますが、これは厚生省が従来発表しておりました中位推計に基づいておりまして、若干楽観的な数字になっております。もう少し低出生率を仮定しますとこれよりもっと減り方がきつくなってくるということではないでしょうか。  この若年労働力減少は、この二〇二〇年では終わりません。その後もずっと続いていくということでございます。団塊の世代と言われる人たちは、一世代二百七十万人でありました。今ちょうど大学を卒業する人たちですね、団塊ジュニアという人たちは二百万人です。最近でいいますと、出生率は一年間に百二十万人前後でございまして、そういう意味では、若い人の絶対数が非常に大きなスピードで減少していくということであります。まず、そういう形で労働力人口が減り、中高年主体労働力構成にならざるを得ないということであります。若い人が大幅に減っていく社会になるわけであります。  そうしますと、まず考えられるのは、技術革新への適応力といいますか対応力でございます。これは、現在でもワープロだとかパソコンをみんな持つようになりましたけれども、やはりその普及度といいますか、それは若い人からでございます。あるいは、最近だとEメールだとかインターネットが非常にはやり出しております。ここ一、二年の間に急激に普及していると思っているんですが、これももう全く年齢別対応が違っておりまして、若い人はいち早く取り入れておりますけれども、なかなか中高年はそこまでいっていないということでありまして、新しい技術に対する対応力というのはどうしても年齢によって左右されてしまうということであります。そうしますと、若い人の絶対数が少なくなるわけでありますので、新しい技術への対応力が徐々に落ちていくということであります。  あわせて、中高年主体になると、無理を承知で何かするというようなむちゃをする人がだんだん減ってくるわけですね。そうすると、投資というのはある意味ではそういうむちゃを伴うことがあるんですが、だんだんその投資マインドというのが日本全体として減退してくるおそれがどうしてもあるということであります。  あわせて、今、日本国内貯蓄率は世界的に見て非常に高いところにあるんですが、これがやはり徐々にその成長率が落ちるとともに低下していかざるを得ない。総人口減に伴って国内の需要、国内マーケット自体もだんだん小さくなっていくということでございます。そうしますと、国内経済全体が衰退するおそれがあります。それから、生活水準もそれに合わせて低下していくおそれさえあるということでございます。  「ミクロ合理性」というふうにここに書いてございますが、出産に関してはこれは個人の問題であります、あるいは夫婦の選択の問題ですというふうに今まで割り切ってきたわけであります。いろいろな条件を勘案しながら夫婦や個人が自主的に選択した結果、子供を産まないという人がふえてきた、あるいは子供を産んでも一人にとどめるという人がふえてきたということでございます。それが結果的にマクロの不合理ですね、国内経済全体として活力が低下する、あるいは場合によっては生活水準が低下してしまうということにつながっているというふうに私自身は考えております。  高齢社会を首尾よく乗り切っていくためには、現役サラリーマンの、現役世代ですが、手取り所得が実質で毎年少しでもいいから着実に増大していくことが極めて重要であるというふうに考えております。これは、最近スウェーデンでこんなことが起こりました。  一九九一年から九三年にかけて、スウェーデンマクロ経済成長率は三年連続でマイナスを記録したわけでございます。去年と比べてことしの方が手にした所得が少ない。また、来年になって一年前と比べてみたらまた同じことが起こっていた。これが三年連続で続いたんですね。そのときに働いている人たちは一体どういうふうに考えたかということでありますが、自分たちはひょっとしたら親の世代よりもう豊かになれないのではないかということでございます。そういう気持ちが現役人たちの心を支配し始めたということでありまして、そうした中でスウェーデンでは、ある意味ではなりふり構わぬ制度改革、中でも福祉制度の改革、社会保障制度改革に突き進まざるを得なかったわけでございます。  現役人たちが目に見えて生活水準が下がっていく中で、従来だったら年金受給者生活を実質的に維持していくための装置であった物価スライド制、これも完全実施ができなかったということであります。物価は上がったけれども、それを埋めるだけの年金給付の改善はもうしないというところに追い込まれちゃったわけでございます。  あるいはこれ以外に、かつてスウェーデンには病気休暇という制度、今でもございますが、あったんですが、これは非常に簡単な手続でこの休暇を取得できたんですけれども、病気休暇第一日目はノーペイとする、有給ではないというふうに制度を改めた途端にその病気休暇の日数が激減したというふうに言われておりますけれども、いずれにしても、単に年金だけでなくて、今申し上げました病気休暇制度だとか失業保険の給付だとか児童手当とかもうすべての制度に及んで従来の制度切り詰めをせざるを得なかったということでございます。  現役人たち生活水準が下がっていってしまうということになると、恐らく日本でも同じようなことをせざるを得ないところに追い込まれてしまうんではないかということであります。今後、そういう意味で最も重要なことは何か。いろいろな公的な負担を引き受けても、そのあとの所得生活水準をはかったときに、去年よりは少しでも生活水準が上がっているなというような実感を現役人たちに与えていくということが極めて重要であるというふうに考えております。それなしに、従来の社会保障制度高齢者生活社会的にサポートするための制度は安定的に維持できないのではないでしょうか。  そういう観点からいいますと、若い人の働き手が急激に減少していってしまうという社会で、果たして生活水準を落とすことなしに日本社会はやっていくことができるか、という問題であります。私は、高齢化対策優先順位をそろそろ変える必要があるんではないかというふうに思っております。  従来、高齢化対策というと、実は高齢者対策をやってきたわけであります。年金もそうですし、医療もそうですし、今大問題になっている介護もそうですが、基本的に高齢者対策を一生懸命やってきたということでございます。これはその必要性が確かにございました。現に介護が今大問題になっておりますが、これはどうしてもやらざるを得ない状況にあります。しかし、高齢者対策だけでいいのかということであります。  実は、それと並んで出産や子育て支援の体制、これを抜本的に強化する必要があるのではないかということでございまして、今ほとんど注目されていない子供を産んだばかりの世代あるいは子育て真っ盛りの世代の状況はどうなっているかということを少し紹介したいと思います。  お手元税研の資料で三十七ぺ-ジに図が二つございますが、図の四と図の五でございます。これは一人当たりの可処分所得といいますか、税や社会保険料を控除した後の所得年齢階層別に調べたものでございますけれども、「再分配後」と書いてありますのは、これは年金だとか医療給付を与えた後ということであります。税金だとか社会保険料を払った後というのが再分配後ということでございますが、それを見ますと、六十歳以上の高齢者は全年齢平均を一〇〇といたしますと一一〇とか一二〇の段階に行っておりますが、二十五ぐらいから四十五とかあるいは四十九歳くらいまで、その世代は実は全年齢平均を下回っているということでございます。  特に、子供を産んだ直後に生活水準が低下しているケースが多いわけでありまして、その隣の図の五に示してありますが、結婚しないで独身のまま単身で走りますと生活水準所得の上昇に伴って上昇していくんですけれども、「普通世帯」と書いてあるのは、ちょっとこれは統計用語で普通と書いてあったものですからこうしたわけでございますが、二人以上の世帯でありまして、事実上既婚で子供つきというふうに考えていただければいいと思います。子供を産んだ途端に、二十五ぐらいのところからですけれども、一人当たり所得がむしろ低下してしまう、底ばいをずっと四十代中ごろまで続けていくということでございます。独身でいた人と比べて大きな差がついてしまうということであります。要するに、子供を産むことが今は割に合わなくなってきたという社会に変わろうとしているということですね。  戦後二十年間、子供を二人産むのは当たり前であり、それはみんなそうしてきた時代であったわけですが、昭和五十年以降、そういう考え方がむしろ事実として証明されなくなったということであります。子供は産まないという選択をする人が出てきた、あるいは子供を産んでも一人だという人が出てきたということでございます。  これは、子供を産むことに伴うコストが、子供を産んで育てるためのコスト子供を産まない上りもはるかに高いということです。子育てはそれ自体楽しいものです。子育てを通じて親自身が成長する過程もありますので、子育ては本当はそちらの方がはるかに私は大事だと思っているんですけれども、子供を産む当事者、特に若い二十代の女性にとってみますと、子育てというとあれはもう自分の時間が奪われちゃうものだ、あるいは限りなく体力を消耗するものである、あるいはお金もかかるというふうにどうしても受けとられております。  現に、子供を一人産みますと、大学を出すまでに大体二千万円ぐらいのプライベート費用を用意しなければいけないということでありまして、それがもう二人産むと四千万円が子供のために寝てしまう。もし子供を産まなければそれを自分がいいと思うところに使えるんですね。子育て自体楽しみはあるんですが、それ以外に楽しみをいっぱいみんな知っておりますので、そちらに回してしまうということであります。  そうしますと、子供を産むか産まないかというときに、産んだ方がはるかに犠牲が多いというふうに今考えているわけです。特に、子供を産む段階で職場からリタイアしてしまうと、子供と夫婦で所得を手にしているのは事実上その夫だけということになるわけでありまして、年功序列の賃金体系のもとではそれはそんなに高くありません。そうすると生活水準がどうしても低下してしまう。他方で出費がかかるし、時間も奪われ、体力もとられちゃう。そうすると、もう仮に子供を産むとしても働き続けざるを得ないということです。  働き続けようとすると、子育てに関する従来の日本の慣行がございまして、どちらかというと母親に非常にきつい負担を求めてしまうケースが多いわけです。最近の言葉にオールタイム労働という言葉があるそうでございます。従来パートタイムだとかフルタイムという言葉があったそうですけれども、男の人はうちへ帰れば楽をしているといいますか、ごろ寝しているというか、息が抜けるけれども、母親はうちへ帰ってもその後ずっと仕事が待ち構えているということでありまして、オールタイム労働だというんですね。くたびれ果てている人が多いというんですが、そういう話ばかりすると、子育ては大変だということになって、じゃもうやめようという話になってしまいかねない。  昔、じゃどうして子供をみんな二人も産んだかということですけれども、これはやはり老後の不安が強かったんですね。自分が働けなくなったときどうするか、やっぱり子供に頼らざるを得ないということが強かったと思います。  ところが、今は医療制度それなりに完備しております。あるいは年金、あるいは介護制度もこれから相当整備されるというふうに予想しております。従来の不安、子供を産む主たる理由であったところが今や必ずしも強い理由にならないということでありまして、結果的に見ますと、子供はもう自分で産まない、できれば他人に産んで育ててもらう。年をとったら他人が産んでくれて育ててくれた子供たちがまとめてお金を出してくれるんですね、年金医療介護をやってくれるわけです。これが一番楽な選択になっちゃっているんですね。これは若い人が最初からそう思っているとは思いません。ただ、結果的に子供を産まないという選択をした方が楽な社会になってしまったということでございます。  子供を産んで育てるのは割に合わない社会になっている、こうした中で出生率がだんだん低下してきているということです。今何もしない限り、この出生率の低下は続くと思います。日本全国平均で多分昨年の実績は何か一・四五を下回っているというふうに聞いておりますけれども、これがさらに下がっていくということです。世界を見ますと、香港あたりでは一・二〇です。東京都だけに限定しますと一・一ぐらいです。イタリアへいきますと、北イタリアがやっぱり一・一ぐらいのところがありますし、決して一・一という数字は非現実的な数字ではないんです。  今のまま放置しておきますと、日本出生率はさらに下がっていってしまう。先ほど紹介したような姿よりもさらに深刻な姿を予想せざるを得ないということでございまして、それで果たして皆さんよろしいでしょうかという問題でございます。  私は、少子社会対策基本法、これは仮称と書きましたけれども、あるいは人口減少社会というふうにはっきり銘打った方がいいのかもしれません。その人口減少社会対策基本法というようなものの制定作業に着手していただきたいというふうに思います。その内容を具体的に検討していただきたいということでございます。  いずれにしても、出産や子育て支援社会化するわけですから、それにはお金がかかります。それで、どうやってお金をまず給付するかという面がありますし、財源調達をどうするかという問題がその次に登場してまいります。後で質問があれば詳しく述べたいと思いますけれども、現在の社会保障給付なり税制等いろいろ制度があるんですけれども、とりあえずそれをもう一回総合調整する形で出産や子育ての財源をできるだけ生み出すということでございます。年金にしてもむだがあります。医療についても薬代等を初めむだがあると私は考えております。現在の社会保障給付等いろいろ調整すれば、必ず新しい財源は生まれると思うんです。  そういう財源あるいは税制で、今児童扶養控除の制度がありますけれども、これはやめて、むしろ児童手当の増額に回すとかいうような発想の方が私はいいと考えているんですけれども、いずれにしてもぎりぎり現在ある制度で財源を生み出す努力をしていただきたい。それでも足りなかったら新しい財源ですね、結果的には増税ということにならざるを得ないと思うんですけれども、そういケ道を検討していただかざるを得ないんではないかと思うんです。  そういう形で、従来、子育て真っ盛りの世代、二十代後半から四十代までですけれども、実はここの世代現役だからといって、まとめて社会保障財源だとか税金の負担を集中的にお願いをするその世代というふうに今まで割り切っていたわけなんですけれども、その中でも子供のいる人といない人で対応を変えてほしいということです。子供がいるかいないかによって全体としての負担に余り違いがないような制度をつくらないと、結局子供を産むのは割に合わないという選択になってしまうということです。そちらに全体としてその方法をシフトしていただきたいということでございます。  時間がもう押してまいりましたので、具体的にもし質問がありましたらその内容についてさらに御説明をしたいと思いますが、以上で報告を終わりたいと思います。
  5. 鶴岡洋

    ○会長(鶴岡洋君) ありがとうございました。  以上で高山参考人の御意見の陳述は終わりました。  次に、大谷参考人にお願いいたします。
  6. 大谷昭宏

    参考人大谷昭宏君) 御紹介いただきました大谷でございます。  こういう国民生活経済に関する調査会というのを参議院が持っていらっしゃること、そして日々先生方が御検討されていることにまず改めて敬意を表したい。そして、私をこういう形でお招きいただきましたことに感謝を申し上げたいと思っております。  今、高山先生の方から大変貴重な御意見をいただいたんですが、私は、御承知の先生方もいらっしゃると思うんですが、どちらかといえば現場を走り回っているといいますか取材で日々明け暮れておりますので、そういう現場の中からどちらかといえば肌で感じていることを先生方にお話し申し上げて、そしてまたよりよい社会ということで考えさせていただいたと、そんな気持ちでお邪魔をいたしております。  今、高山先生のお話を伺っておりますと、まきに日本というのは深刻な状態といいますか、これから先が見えてこない、まさにそんなことを我々も実感するのであります。ただ、私は、楽天的といいますか、高齢化社会あるいは高齢社会といいますと、何かこれから先大変なことが起きるというふうにとらえがちだと思うんですけれども、そうじゃなくて、簡単に言えばみんながいっぱい長生きできる、余り生き急がなくたっていいじゃないか、人生の中に相当の余裕が出てくるというふうにとらえるべきではないのか。だとすれば、ゆとりの出てきた時間をどういうふうに使っていくのかということが高齢社会の最大の問題なんじゃないか。  私は、昨年はまさに一月十七日の阪神大震災に始まりまして、そのあと三月二十日の地下鉄サリン事件以降オウム真理教と、昨年からことしにかけましては、大多数の時間を専ら神戸とそれからオウム真理教の取材で過ごしたわけですけれども、そこで見えてまいりましたのは、阪神大震災の現場から見ると、まさに弱者あるいは高齢者の方々に大変なことが降りかかってしまったということが一つでございます。それから、オウム真理教の事件を取材しておりますと、一体日本の若若はどうなってしまったんだろうか。しかも、非常に優秀な若者たちがああいう道に走ってしまった。そうなると、我々真ん中辺にいるのは別といたしまして、高齢者も若者も絶望している社会になってしまっているんじゃないか。  これはちょっととんでもないことになっているんじゃないか。それがたまたま戦後五十年の年に起こった。阪神大震災もオウムも、それから沖縄の問題もちょうど戦後五十年の年に、地震は、戦後五十年だからそこをねらって起こすというわけはないわけです。あくまで偶然なんですが、私たち取材している側からいきますと、戦後五十年間我々が歩いてきた道がこれでよかったのか、ちょっと立ちどまって考えてみたらいいんじゃ左いかということを非常に震災もオウムの事件もあるいは沖縄の事件も問いかけてくれる。少なくともそれを受けた側としては、たまたまの偶然ではなかった、そういう問題を突きつけられたんだというふうにとらえるべきではないか。少なくとも私自身はそういうとらえ方をしながら震災もオウムも取材を続けてきたつもりなんです。  きょうは兵庫選出の先生方もいらっしゃいますので、先生方は当然阪神大震災のあの現場をごらんいただいていると思うんですが、ちょうどきょうで阪神大震災は五百七日を迎えておるわけです。いつも私は東京とか関西以外のところで講演するときは、何十回でもいいからぜひ神戸を見にきてほしいと。これは、単に神戸がどうなっているかということを見るのではなくて、神戸を見ると瓦れきの下からちょうど今の日本が一番よく見えてくる。ああ、日本てこんな国だったのか、あるいはこういうところもある国なんだというふうに瓦れきの下から見えてくるので、できる限り神戸に来てほしいというふうに全国各地で訴えているところなんです。  神戸の取材をしておりますと、あのとんでもない震災というのは、ああそうか、なるほど十年後の日本はこういうふうになってしまうんだなと。つまり、十年、二十年先のとんでもないことになってしまうかもしれない日本状況を、たまたま震災というものがあったがためにそこで先取りして見せつけてくれているんじゃないかなという気がしてならないわけです。それは、国の政策が本当に一体何を目的にしているんだろうかということを逆に問いかけてくれているんじゃないか。  例えば、神戸というのは、御承知のように港湾とケミカルシューズとアパレル、観光というのが主な産業源であるわけですけれども、これがまず壊滅的にやられて立ち直る様子がない。  例えば、神戸港というのは、昔は世界一だとか、あるいは最低でも世界三番目だと言われたわけですが、ずるずる順位が落ちまして、今は世界七位ぐらいです。あと五年かそこらたてば、恐らくロンドンとかオランダのハーグあたりにも抜かれて、世界で十何番目の港になってしまうだろう。  片やへ韓国の釜山は猛烈な勢いで追い上げておるわけです。例えば、四国から一つのコンテナを神戸に持っていくのに十万円かかるというときに、韓国の釜山に持っていけば六万円で行くわけです。それでいきなり北米ルートに乗せるわけですから、みんなもう神戸を通り過ぎてどんどん釜山に運んでいっている。釜山は恐らくアジア一の港になることは確かですし、いずれはひょっとすると世界一になるかもしれない。  そういうときに、例えば、日本の国では、国際貿易港というのが先日は四国の徳島にできましたし、それから今度は秋田にできる。国際貿易港というのがいっぱいできてくることは、なるほどいいことかもしれない。しかし、その一方で、神戸という港あるいは横浜という港の競争力が分散化されるがためにどんどん低下していっている。  これが低下しても構わない、港湾というものに関してはもうこの辺でアジアに譲ってやろう、何も日本が一番でなくてもいいんだから、これを譲ってアジアの繁栄につなぐんだという国の施策のもとにそういうことが行われて、だから神戸は我慢しなさい、こういうところでのお金もうけはもうアジアに譲った方がいいと日本は考えているからこういうふうにしているんだという施策のもとで出てきているのであれば、ある意味では納得できるかもしれない。しかし、そこに全く将来的な見通しがなしにずるずる順位が落ちていくというと、将来日本の国というのは、簡単に言うと何で御飯を食べていくつもりなんだろうか。  兵庫選出の皆様方は御承知のように、ケミカルシューズという神戸にとっての地場産業があります。これは、大体二万人から三万人の労働者を擁しているわけです。ところが、たかだか二万、三万の従業員しかいないのに事業所が六千近くあるという、まさに零細どころか本当に極小の企業体で成り立っているわけですけれども、ただそれだけ大勢の方がそこで御飯を食べている。  ところが、見ておりますと、現在、中国から年間二億足のケミカルシューズがやってくるわけです。二億足といいますと、日本人一人が二足買わなければならない。それが神戸にどっと押し寄せてくるわけですから、とてもじゃないけれども神戸のケミカルシューズなんというのは成り立たない。  御承知のように、神戸の長田区というのは二十三カ国の人がいると言われているところでして、大勢のアジアの方たちが日本に働きにきている。日本に働きに来てみたら、何のことはない、日本のケミカルシューズの工場というのはもう日本ではにっちもさっちもやっていかれないといって、どんどん韓国とか上海、あるいは最近ですと中国の藩陽の方まで進出している。そうすると、アジアから日本に職業を求めて神戸にやってきてみたら、何のことはない、そこで働こうと思っていた企業は、どっこい自分が出てきた国へ進出してしまっているというような現象が起きてきているわけです。  そうなりますと、一体日本の国というのは今後どうやって国の経済を成り立たせていくつもりなのか、どういうところで発展させていくつもりなのかというのは、神戸の町を見ているとまさに暗たんとして先が見えてこないというのが私の実感であるわけです。  その一方で、現在も六万数千の方が仮設住宅に住んでいる。その仮設住宅の中で、六十五歳以上のお年寄りの方々が半数以上を占める仮設住宅というのは相当数あるわけです。新聞等で報じられておりますように、そこで孤独な死というのが次々に起きてきている。その仮設住宅に住んでいらっしゃる六十五歳以上のお年寄りのうちの八割が、これは仮設ではない、私のついの住みかにしたい、ここを出ていったら八万や十万の年金でどこの家が借りられるんだ、だとすればこの仮設で死んでいくしかないというような実情があるわけです。  それに対して、果たして国としては現在ある仮設を今後どうしていくのか、そういった見通しも全然生まれてこない。同時に、孤独死、孤独死というふうに報道されておりますけれども、これは単に孤独死というよりも、全くコミュニケーションのない社会に置かれてしまっている。  例えば、長田区のお年寄りたちというのは、ハイカラなのかどうかわかりませんけれども、毎朝自分たちで御飯をつくらずに喫茶店のモーニングコーヒーを飲みにいって、そこでおしゃべりをして、それから三々五々自分の家へ帰ってくるというのが一つの生活パターンになっているわけです。ところが、厚生省としては、当然のことながら仮設住宅でそんな喫茶店をやられちゃたまったものじゃない、ましてや居酒屋なんかやられちゃたまらないわけです。だから、そんなものを営業するのはとんでもないと。  そうすると、お年寄りたちというのは、朝から晩まで全く行き場がないわけです。しかも、雲仙・普賢岳とか奥尻のように非常に小さな、小さなと言ったら失礼ですけれども、小さい範囲の中で紀きたところでは、町内会ごとの移動がある程度できたわけです。ところが、あれほどの大災害に在りますと、全く見ず知らずの方たちがあしたから隣り合わせで暮らさなければならない。そこへもってきて、コミュニケーションの場を完全に奪われている。  ですから、普通ですと、あのお年寄りは最近姿が見えない、いや、けさモーニングコーヒーを飲みに来ていなかった、だからおかしい、すぐだれか行ってみろということで大いに救われていた部分が、何日もだれも行かないという状況が出てきてしまった。こういうことに関して、今神戸の方では個人補償、個人的に立ち直りの資金を出してほしいという声が非常に高まっているわけです。  私は、財源のことを考えますとそう簡単に個人補償というのは、じゃ一体どこからそのお金を出すんだということになれば非常に難しかろうと思います。ただ、少なくとも六十五歳とか六十歳とか、今後自分が何か働いてお金を稼いでいくという見通しのない方たちには何らかの、やっぱり助走をする、後ろからぽんと肩を押してあげるぐらいの公的なことができないんだろうか。これなぐしては、どうぞ仮設をついの住みかにして亡ぐなっていってくださいと言うしかないんじゃないか。少なくとも今私が見聞きしている範囲では、国の施策というのはそういうところにあるんじゃないか。しかし、私自身も国の財源とかその他のことをいろいろ勘案しますと、そう簡単にお金で解決できるとは思わない。  例えば、もし現在、東京の夕方にあの神戸の大震災と同じだけの規模の震災が来たら、これはあくまで試算ですけれども、会社とか企業の工場だとか社屋だとかそういうものを除いて、個人に閲して補償したとしても恐らく四十兆円のお金が葬るだろうと思う。そうなれば国の財源の半分が吹っ飛んでしまう。神戸で起きた震災が今後関東とかその他の地域で起きないということは絶対あり得ないわけですから、いずれそういう震災に見舞われるかもしれない。そのときに国家としては半分のお金を持っていかれて国がやっていけるのかということになれば、個人補償というのは非常に難しい面が出てくるであろう。  あるいは、もし阪神大震災で個人補償をすれば雲仙・普賢岳の方々は黙っていないだろう、あるいは奥尻の方は黙っていないだろう。しかし、片一方は国民の義援金の中から一世帯当たり九百万円ぐらいが入っている、あるいは雲仙でも四百数十万円ぐらいが入っている。一方、阪神大震災はどう頑張ってみても三十万円か四十万円にしかならないだろう。じゃどうやってこのお金を分けようかとなれば、家を建てる方の再建資金としてあの義援金を配ろうじゃないかということになるわけですけれども、そうなってくると、二千万円で家を建てる方に三十万円や四十万円渡したって、受け取った方は、何だ、これっぼっちかとしか思わないだろうし、もともと家を建てられない方にとっては三十万円、四十万円というお金は大変貴重だけれども、建てる能力のない方のところには来ない。つまり、お金だけで解決しようとすると大きな矛盾が起きてしまうんじゃないか。  私は、今回その震災の取材あるいは日々のジャーナリズムの活動を通じて一番痛切に感じていることは、これはもうお金ではなくて、人の力をなぜもっと有効に利用できないんだろうかと。これは先ほどの高山先生のお話ともダブってくると思うんですが、国の財源だとかお金ということになっていけば、今後の日本経済の見通しからいっても当然限界が出てくるだろう。  しかし、神戸であの震災のときにいろんな人たちがいろんな意味で頑張ってくれました。例えば、長田区であのお年寄りばかり住んでいる団地がつぶれたときに真っ先に飛び出していったのは、最近やたらと評判の悪い、髪の毛を茶色に染めた、言うならばくそ餓鬼というんですか、どうしようもない連中なんですけれども、でもこの連中が一番最初に長田の団地に飛び込んで、ドアが開かなくなったところからお年寄りを引きずり出して、つぶれた西市民病院まで運んでくれたわけです。彼らはまさに実に立ち上がりが早かったわけです。立ち上がりが早いというのは当たり前で、別に待っていたわけじゃなくて、朝まで自動販売機の前でごろごろしていただけの話で、だから立ち上がりが早かったわけです。  そういう意味で、私は、神戸という町が絶望的な面を抱えている一方で、あるいは一つのマンションがつぶれて一カ月もニカ月も、何か一人の青年がえっさえつさと毎朝水を運んでくるからみんなが不思議がって、おまえ何でそうやってうちのマンションに年じゅう水を運んでくるんだと言ったら、おっちゃん、おばちゃんは忘れたかもしれないけれども、下宿がつぶれたとき、このマンションの人たちに私は引っ張り出してもらった、皆さん興奮していたから僕の顔なんかは覚えていないだろうけれども、このマンションの人に助けられたから、ここはお年寄りが多いので少なくとも水だけは毎日運んできないというような若者たちもいたわけです。  そうしますと、私は取材を通じて、我々の社会というのはある意味ではそういう名もない、決して有名でもないしお金持ちでもないし、だけれども日々まじめに働いて一生懸命生きていらっしゃる方、そういう大多数の方々に支えられている、ある意味ですばらしい社会なんじゃないか。あの時点で神戸の方々が見せた優しさというのは決してつかの間のものではなかった。検事から今社会福祉活動をなさっている堀田力さんという方が神戸の現場を見られて率直な感想として言われた言葉が、人間には助け合うという遺伝子が組み込まれているんだということをおっしゃったのが、私は一番神戸の現場を見た中で共感した言葉であったわけであります。  だとすれば、これからの高齢化社会の中で、お金もない、それから今高山先生がおっしゃったように人口もどんどん減っていくんだということになるとすれば、そこにある、人々が持っている優しさに裏づけをされた労働力というのをなぜ我々の社会がもっと活用していこうとしないんだろうか。むしろこれからの高齢化あるいは少子社会を支えていくとすれば、そこの部分をどうやって活用するかということにかかってきているんじゃないか。なるほど神戸には二百三十七万人の若者がボランティアとしてやってまいりました。これは我々の年代から見ても大変な驚異のことだったんです。しかし、やっぱり日本の若者の中に何かの形で自分社会にかかわっていきたいんだという気持ちがあるはずだと思うんです。  先ほど高山先生はアメリカ社会を例に出されましたけれども、じゃ例えばアメリカのボランティア活動というのと日本と比較してみますと、アメリカですと百二十五人に一つのボランティア団体がある。それでもってその非営利団体に所属していらっしゃる方、これが八千九百万人。これをアメリカ労働者の平均的な賃金で換算してみますとざっと一千八百億ドルになる。これはもし今の円で換算してみますと、単純な計算ですけれども、お金にかえれば十八兆円のお金になるわけです。そういたしますと、日本の国家予算の四分の一に匹敵するお金アメリカ社会というのはボランティアの方々が稼ぎ出している。もしこれから日本が現在ある七十数兆円という予算を大幅に上げて十八兆足した予算を組もうとしたら、これは先ほどのお話ではないですけれども、とてつもない増税につながってくるわけです。そんなことは到底たえられない方たちも多いでしょうし、無理に違いない。  だとすれば、せっかく神戸であのとき皆さんが見せたであろう、私たちの社会自体が持っている、そういうボランティアに限らず何か人のために役に立ちたいという力をどうやってこれから私たちの社会が引き出していくかということに限りなく近づいてくるんではないか。だとすると、すぐ政治だとか行政の社会だと、そうだそうだ、だからボランティア団体を支援するように国もやろうじゃないかとか、まず真っ先に、今度の神戸の震災ではおよそろくな役にも立たなかった役人たちがこのあたりでちょっと点数を稼がなきゃいけないといって、早速、さあ厚生省だ、さあ労働省だというところがボランティア活動支援というふうに動き始めるわけですし、現在ですと、与党三党において市民活動促進の助成法案が、まだ三党合意にならなくて今回出るか出ないかわかりませんけれども、もちろん私は、そういう意味で、国会の先生方がそういった社会のために役に立ちたいと思っている方々を支援する、そういう形にしていただけたら大変結構なことだと思うんです。  現在ですと、例えばボランティア団体というのはなかなか法人の資格が取れない、法人の資格が取れないとコピー機一台、ファクス一台個人で借りなきゃならない。相手は全く信用してくれませんから、そんなわけのわからない、法人にもなっていないところへは貸してくれない。ですから、そういう意味で法人化していって少しでもそういう方たちの助成に役立てようというのは大いに結構なことだと思うんです。  ただその一方で、そうなると、先生方とか、あるいはお国とか役所にとって言うことを聞くおとなしい団体だけにはそういう助成をしてやろうじゃないかと。いつの間にかまた官僚の天下りあたりがそこら辺の総裁とかになって、ボランティア団体ができ上がっちゃって、そんなことになったら恐らく今の若者たちというのはまたぞろそこから離れていってしまうに違いない。  だから、私が望むことは、見え隠れしながら何となく応援してあげられるような、あの子たちが頑張れるような、そういう社会をつくってもらえないだろうか。それは今後の教育の中で、国家のためとか国の安全のためとかいうんじゃなくて、いろんな意味自分たち社会にかかわり合っていくんだよ、社会というのは君たちを求めているんだ、いろんな形で求めていると。だから、あのときに茶髪の子たちが実に生き生きとしていたというのは、ひょっとするとあの子たちは初めて社会からおれも求められているんだなと気がついたのかもしれない。  私が会った十七歳の女子高生というのは、ずっとボランティアをやっていたんですけれども、とにかくじじいたちがいろんな文句ばかり言って、肩もめの足さすれのと言って、もうこんなじじい頭にきたと思って、やってられないとか思って、電車に乗って大阪行って、友だちとおふろ入ったりトランプやっていたら、なるほど、そうしたら避難所でボランティアやっているよりははるかに楽だし、ところが、ローソンに買い物に行ってみたら、バレンタインデーの横断幕がある。その横断幕をひょっと見ているときに、待てよと、神戸では、まだ私が出てくるときにローソンのところには、あるいはセブン・イレブンのところにはまだ松飾りがついていた、あのまま神戸はまだ松飾りがついているんだろうかと思った途端に、自分はやっぱり神戸に帰らなきゃいけないと思って、一週間ぐらいでとことこ電車に乗ってまた避難所へ帰ってきた。  そうしたら、足もめとか肩もめとかといって能書き垂れていたじいさんたちが、初めてその女の子に、おまえ風邪でも引いたのか、どこ行ってたんだ、おれたち物すごく心配したぞと。足もめとかさんざんわがまま言われているときは一回も泣いたことなかった。だけれども、一週間たって帰ってきて、おじいちゃん、おばあちゃんたちに、おまえどこ行ってたんだ、みんな心配してたじゃないかと言われたときに初めて大粒の涙がぽろぽろと落ちてきたというようなことを十七歳の女の子が一生懸命私に話をしてくれたことがある。  それからいくと、いじめの問題にしてもオウムの問題にしてもそうだと思うんですけれども、今の若い子たちというのは、家庭の中でも昔のように、稲刈りのときが来たらおまえがいなければ大変だとか、年末になったらおまえがいなければ大変だとかといって、どこかで必要とされたことが一回もないんじゃないか。  逆に学校教育の中でも、いつの間にか先生が、おまえがいなければこのクラスはもたないんだというようなことを言ってくれなくなっている。そうすると、今の若い方たちというのは、社会とかかわり合っていきたくても、逆に社会の中から、別におまえなんかいでもいなくても大丈夫だよ、この社会やっていかれるんだよということがいつの間にかこの社会の中の、特に若い方たちの中の大きな意識の流れになってしまっているんじゃないか。  そうではなくて、少子だ、人口減少だ、高齢化だという社会の中で、私たちが学校教育の中で、そうじゃない、社会が必要としていない人間なんて一人もいないんだ、社会はすべての人たちを必要としているんだと、そういう根本的な教育の理念に立ち返った社会をつくっていかなきゃいけないんじゃないか。  例えば、いじめの問題だとか、校内暴力だとか、不登校だとかいろいろ言われていますが、これは全く解決策がない。解決策がないわけですけれども、根っこのところに立ち返ってそういう教育を施していけば、例えば六歳の小学生からそういう教育を施したら、その子たちは十五年たったら二十一歳になっているわけです。たった十五年で私は世の中は変えられるんじゃないか。  少なくとも私は、そういう教育をこれからつくり上げていく中で、社会の意識全体を変えていかないことには、増税だとか、あるいは財源の確保だとかという、そういう施策はもちろんここにお集まりの先生方の御専門ですから、一方でそういう施策が行われていく、その片方では社会全体の流れの見直しという教育をこれから続けていかない限り、私はこの日本の国というのはにっちもさっちもいかなくなってしまうんじゃないか。  ただ、希望があるとすれば、高齢化といって多くの方々がたくさんの時間を持てる。お年寄りたちは、特に田舎へ行きますとお年寄りっていろんな役が回ってきて忙しいんですけれども、都会のお年寄りほど暇な人はない。だから逆に言えば、都会のお年寄りの方が気の毒なんです。先ほどの若者たちと一緒で、社会のだれからもあなたがいなければという声がかからない。逆に、自分はこれから社会負担をかけていく一方じゃないかという絶望感しか生まれてこない。  そういう意味では、お年寄りも若者も、自分社会負担をかけているばかりなんだというふうにしか思えないという、そういう国というのは余り健康な国ではないんじゃないか。そうではなくて、若者もお年寄りも、あなたが持っている今の時間というのを社会に役立ててくれないか、そうやってお金でない労働力が、先ほど申し上げたように、積み重なっていけば十七兆円というお金になるかもしれない。  そういう意味では、アメリカのFEMAの緊急対策大統領直轄機関というのは、まず行政を当てにしないで、大災害が起きたら四十八時間は家族のためにその後の七十二時間はコミュニティーのために使ってほしいということを明記しているわけです。むしろあれは災害をどうやって防ぐかということよりも、その災害に対する市民の心構えというところでは私は大いに参考になるようか気がするんです。  そういう点からいきますと、小さなコミュニティーに始まって、社会全体に大勢の人たちがかかわり合っている、そしてその力を先生方あるいは行政がどうやってすくい上げて、そのことによってそれを出す人たちも強い生きがいを感じろという社会が、私は二十一世紀日本の中でけひょっとすると唯一残る道なんじゃないかというような感じがいたしております。  先ほど申しましたように、阪神大震災、きょうで五百七日、だんだんだんだん、特にオウムの事件に巻き込まれまして、震災に対する思いは国全体から薄くなっているようですけれども、そういう意味ではまだまだ社会がうんとうんと後押しをしてあげないことには神戸が再びよみがえるようなことはない、そんな感じがいたします。  瓦れきの下から五十二時間ぶりに救出された晋輔ちゃんという坊やがいたんですけれども、晋輔ちゃんは救出されたんですけれども、その三時間前に掘り出されたお母さんは、晋輔ちゃんを最後までかばったのかして、先に掘り出されたんですけれども亡くなっております。見守ったお父さんはもうだめだと思ったんですが、その三時間後、五十二時間ぶりに救出された晋輔ちゃんは、真冬の青空の中でぱっちりと目をあけたわけですけれども、そのときにお父さんが晋輔ちゃんを青空に高々抱え上げて最初に言った言葉は、おまえは世界一強い子だと言って抱え上げたわけでございます。  そうやって震災の中から生き延びてきた子供の中で五百数十人がどちらかの親を失っております。百数十人が両親を亡くしておるわけです。ただ、そういう若者たちにとっても、生き抜いてきてよかったという社会にしていきたい。そのためには、あのときの瓦れきの下から見せてくれた、人が基本的に持っている優しさとか強さを政治の中に引き出していっていただけないか。ひょっとすると、遠回りのようでそのことが我々が高齢化社会を乗り越えていく案外近道なんじゃないか、そんなことを感じております。  どうも失礼いたしました。
  7. 鶴岡洋

    ○会長(鶴岡洋君) ありがとうございました。  以上で大谷参考人の御意見の陳述は終わりました。  これより両参考人に対する質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  8. 三浦一水

    ○三浦一水君 座ったままで失礼いたします。  きょうは、高山参考人それから大谷参考人には本当にお忙しい時間を割いていただきまして、しかも、大変独自の視点をもちまして、また豊富な経験に裏づけられました本当に多くの示唆に富んだ話を聞かせていただきまして、大変参考にさせていただきました。心からお礼申し上げたいと思います。  特に、お二人の話で共通の部分を私なりに感じたわけでございますが、高山先金のお話でいきますと、二十五歳から五十歳ぐらいまでの、いわゆる世代的に子育て世代という世代でありますけれども、大変所得の配分の上で社会的に割を食っているんじゃないかと、この辺の話。それから、本当は社会的に負担をしていかなければならないところができていないんじゃないかと。これは、大谷先生のお話では、茶髪世代あるいはくそ餓鬼という話もありましたが、そういうものにも通じるのかなと。四十を超えて茶髪は余りおりませんし、くそ餓鬼とは言われませんけれども、まあそんな感じがしました。  特に年齢的に、私は今四十二でありまして、農業を傍らに地元の消防団等もまだ現役団員でおりますし、そういう意味では、この年代で考えますと、お二人の話される内容が、うなずける点が非常に多うございました。特に、消防団なんかは入る人は今少ないんです。入ってみるとその参画意識というのが出てきまして、火事場に行けば、先ほどの阪神大震災の現場と同じことでありまして、あれっと思うような若い子が大変な活躍をしてくれる。そういう経験を幾らかしておりますので、そのようなところに焦点を当てたお話をお二人からいただいたということで、大変元気づけられた感じがいたしました。  本当にきょうはもう感謝をするだけで、それらのことを政策的にどれだけ実行できるか、頑張りたいなという意識を持っただけのことでありますが、補足的に幾つか御説明をいただければなと、そのように思います。  最初に、高山先生のお話で、現役サラリーマン手取り所得を実質的にふやしていくというか、そういう感覚をこの年代に持ってもらうことが大事なんだ、それが来るべき高齢化社会の中で非常に大事になるというお話でございましたが、例えば先生の著書の中には、シルバーシートはあるけれどもマタニティーシートはないと、そういう分析をなさっておられました。その辺のことを少し補足をいただければと思います。
  9. 高山憲之

    参考人高山憲之君) お答えいたします。  若い人たちは、今基本的に年功序列の賃金体系のもとにございますので、若いときは、能力があってもそれ以下のペイしかもらっていない人が多うございます。他方で、多少とも年配になりますと、生活給の要素が日本賃金体系にはついておりまして、過去いろいろ会社に貢献した分は後で取り返すということなんですが、そういう形で受け取る賃金体系に今なっております。そういう形なものですから、たまたま子供を産んで育てる時期にお金の面で不自由を感じている人が少なくないんではないかと思うんです。  賃金をどういうふうな形にするかというのは今後の日本経済にとって大問題でございまして、企業の中でまず検討してもらうということが大事だというふうに思っておりますが、私は基本的に能力給の要素がだんだん高まっていく方向だと考えていますので、少しは状況は改善するかなというふうにも思っております。  ただし、それだけではやはり子供のある人とない人の負担の差を埋め尽くせないわけでございまして、やっぱり社会的なサポートが必要ではないかということでございます。  先ほど、シルバーシートは日本ではいわゆるグレーヘアの人とハンディキャップを持った人たちの優先席ということになっているんですけれども、昨年十二月に、私たまたまウィーンに行く機会があったんですが、あそこの交通手段、どこもシルバーシートには四つ絵がかいてあるんです。今説明した二つ以外に、女性のおなかの大きい絵がかいてあるんです、いわゆるプレグナンシーですね。それからもう一つは、赤ちゃんを連れている人の絵がかいてあるんです。日本は、妊娠中の女性はある意味では電車に乗るな、バスに乗るなというような感じさえ受けるんですね。あるいは小さい赤ん坊を連れている人にも全然優先席がないんです。それは子供社会全体として大切に育てていこうという気構えがないからだと思うんです。子供なんていうのはほっておいてもみんな勝手に産むものだと、それで全然問題なかったんです、今まで。ところが、こんなに減ってきちゃって、子供社会全体としての位置づけを変えていかざるを得ないということだと思うんです。それは端的な一つの例です。  それだけではないんですね。例えば現在非常にみすばらしい児童手当制度がございますけれども、あれで一体いいのかどうかということです。あるいは子供を産むときに市町村では出産祝いを社会化した出生祝い、出生手当みたいなものを用意しているところがあるというように聞いておりますけれども、会社にいると多少あるところもあるんですけれども、社会全体として出生手当なんてないんですね。むしろこんなものは年金制度の中へ組み込めないかとか、いろいろ社会的に子供を産んで育てる人に感謝する手だてというのはあると思うんです。  あるいは働きながら子育てもせざるを得ない借の中に好むと好まざるとにかかわらずもう入っちゃって、やはり保育園の制度を変える、あるいは税制上保育福祉控除を設けるとか、やることはいっぱい私はあるんではないかと思うんです。ただ単に厚生省だけでやればいいとか文部省がやればいい、あるいは労働省の管轄だということでかくて、政府が一丸となっていろんなところをやる必要があるんではないかというふうに思っております。  以上です。
  10. 三浦一水

    ○三浦一水君 私、田舎の在住者ですけれども、農業をやっている方々が、農業者に農業者年金制度というのがございますけれども、今まさに二十代、三十代の方々が、三浦さん、ほんなこつ農業者年金にはかたったがよかつな、掛金な払うた方がよかつなと。制度に入った方がいいのか、あるいは掛金を払った方がいいのかという話をちょっと熊本弁でしたんですが、そういうことを聞かれます。これは数多く聞かれるんです。私が行政にもより深く近い立場にある、知る立場にあるということで、それはもう公的年金ですから入った方がいいですよと言わざるを得ないわけです。  しかし、どうですか、高山参考人、その辺、そういう疑問がちまたにたくさんあるんですが、行政、政治の立場は抜きにして、これ将来は維持できて、入った方がいいよと自信を持って言えると思いますか。
  11. 高山憲之

    参考人高山憲之君) なかなか難しい質問なんですが、現在の農業者年金制度は、私の理解では経営移譲ということを表に掲げた制度だと思います。いろいろな意味で農村対策それから農業者対策ということで打ち出されたものだと思っているんですが、将来の日本の農業を展望する場合に今の形のままでいいかどうかについてはやはりいろいろな御意見があるかと思います。  私は、基本的には、農地を持っている人が農家を継いでいくというふうな従来の慣行、これでいいのかどうかということについて、やはりもう一回議論していただきたい。むしろサラリーマンをやっている人たちがその経営感覚を持って農作物の生産に入っていくようなそういう仕掛けにしないと日本の農業の足腰というのは強くならないのではないかというふうに私自身は考えておりますが、ここはちょっと、きょうはまさか農業の話があるとは考えておりませんでしたので、これでとめますけれども。
  12. 三浦一水

    ○三浦一水君 それから、大谷参考人にちょっとお尋ねをしたいと思います。  レジュメの中の項目に、活力ある民間パワーというのをより活用すべきだというお話でありますけれども、特に福祉の分野でお涙ちょうだい式という言葉がよく言われます。あるいは地域の中で見た場合も、地域の社会福祉協議会というのが市町村の役人さんの退職後の行き先になっている、非常に活力を欠いたものである、そのような現状も裏にあるのかと思います。私は、もうちょっと福祉の財源を地域の中での循環ができないのか、これは地域の福祉に対するインセンティブを向上させるということも非常に大きな意味があると思うんです。  例えば小さな企業でも、企業体質に応じた金を福祉の母体に対して、これは特定するのが非常に難しくなってきますけれども、今後の法整備も要ることかと思いますが、そういうところに直接に寄附をする。厚生省経由じゃない、端的に言うと。そういう財源を確保していくことが地域の福祉に対する参加意識というものを非常に高めることができるんじゃないか、そんなような感じもするんです。その辺、大谷参考人、どのような御所見をお持ちか、ちょっとお聞かせいただければと思うんです。
  13. 大谷昭宏

    参考人大谷昭宏君) まさに私は先生のおっしゃるとおりで、地方行政の中で、現在、社会福祉協議会とかそういった形の行政主導のマンパワーの活用というのは特に若い方にはなかなか受け入れられないんじゃないか。  先生、消防団をやっていらっしゃるというふうに伺うと、そこに参加されると、ああ、おれも地域のために役に立っているんだなということで、参加意識あるいは地域性というのは出てくると思うんです。じゃ火事があって一一九番したら無償で消防団が駆けつけてくれるのに、何で寝たきりのお年寄りが本当に困っているというときに駆けつけてくれる民間の組織がなくて役所にばかり頼ってしまうのか。  むしろ私は、これからの高齢化社会の中ではそういう今の消防団があるような、ここのお年寄りは本当に大変なんだというときに駆けつけていってくれるようなボランティアの社会というのがなぜできないのだろうか。逆に私はそれが不思議でならない。もっともっとコミュニティーというのを大事にして、それが本当に小さな単位の中で、ある労働力をそのコミュニティーの中に活用していく。そこのコミュニティーのリーダーたちがいずれは地元の行政に携わり、将来は国の行政に携わる。その中で、本当にみんなが信頼を寄せている人格、識見を持っていらっしゃる方たちが社会というものをリードしていく。それがむしろ行政をも指図できるような、そういう社会になっていかないと、私たちのこれからの国というのは立ち行かなくなるんじゃないか。  ですから、そういう力が私は今芽生えつつあると思うんです。阪神大震災のときに、ボランティア元年とあれほど言われた。でも、いつの間にかそれがなくなっている。あのとき小さなかわいい芽を出したのに、どうして育たないんだろうかというような気がしてならないところです。
  14. 三浦一水

    ○三浦一水君 それから、高山参考人にちょっと聞き漏らしたんですが、先ほどの関連で、先生の参考資料の中に、子供の人数に応じて保険料額を変えてもよいはずだといったような箇所、あるいは一人しか子供を産まない人にはしかるべき年金負担を、増すという意味だと思うんですが、そのような御所見もありますけれども、この辺のところを少し説明いただいて、そして、最後に両参考人にお尋ねをしたいんですが、民間の見識者お二人として、福祉の面におきまして、政治としてもうちょっとこういう取り組みをしてくれればなと、こういう姿勢でとか、その辺、御要望、御要請がございましたら、忌憚のない意見をつけ加えていただければと思います。よろしくお願いします。
  15. 高山憲之

    参考人高山憲之君) 参考資料の中で、どちらかというと過激な主張をした箇所でございます。これは、子供を産んで育てる人と子供を産まない人でどのくらい差が大きいかということをやはり一回考えてほしいという意味で申し上げたわけでありまして、これがベストのチョイスかと言われますと、これは意見の分かれるところだと思います。負担に差をつけるというのはなかなか難しい面がございます。むしろ給付で差をつけていくというのも一つの考え方であると思うんですね。  ただ、年金は今のまま、例えばサラリーマンをやっている場合に、夫婦で一生涯に受ける年金は多分六千万円ぐらいになるんですね、一時金からの加算で。保険料を今負担していても、利子付で多分二千万とかそんなものにしかなりません。あとの四千万はみんな若い世代からトランスファーという形で受け取るものなわけです。  子供一人育てると、大学を出すまでにプライベートに二千万かかるというんですね。二人育てると四千万プライベートにかかるわけです。じゃ、独身でいった場合にそれだけ所得税なり地方税なり社会保険料、そんな金額を納めることになるかというと、今の社会ではなっていないんです。ここをどうにか埋め合わせることを考えてくださいということなんです。  その一つの考え方として、例えば年金世代世代の助け合いの制度だ、自分は年をとったら次の若い世代に助けてもらうんだという意味で、そういう意味子供を例えば二人あるいは三人、四人と産んでいる人については年金負担を軽くしてもいいではないか、そんなにたくさん負担してもらわなくとも、子供を育てるだけで大変な思いをしている、負担を軽くしてもいいではないかと。  他方子供を産まないという決断をした人には、それはそれで尊重しましょう。子供を産めとは言えないわけです。それは基本的な人権に反するわけですから、子供を産めとは言えないんですが、子供を産まないという選択をしたら、それはそれで尊重しましょう。ただし、それに伴う責任を引き受けてくださいという意味で、例えば子供の多い人よりも多少多目の年金負担なりを引き受けてもらうということなわけです。これが本当にいいのかどうか、私自身も半信半疑であるんですが、問題提起ですね。  子供を産んで育てることが実は社会的に報われないというのは、やはりどう見ても社会が健全だとは思いません、私は。子供は未来への投資です、我々の将来はやはり子供にかかっているわけですから、その子供を産んで育てることが割に合わないというのは、どう見てもおかしな制度なんですね。そこをもうちょっとつじつまが合う形に改めていかなきゃいけない、このきっかけの議論として、今やや過激な主張をさせていただいたんですが、そういうふうに御理解をいただきたいと思います。
  16. 大谷昭宏

    参考人大谷昭宏君) 政治として、あるいは行政として何をということでございますけれども、きのうかおとといのある夕刊紙に、私も時々番組で一緒になる大前研一さんがお書きになったんですが、例えば公的介護の保険の問題があるとすると、これを四十歳から掛ける、月々五百円だとしたとしようじゃないか、そうすると年間に六千円だ、その方が二十年掛けたとしても十二万だ。今の日本でもしヘルパーさんを有給で雇ったとすれば、そんなものは一週間でなくなる。営々二千年掛けたとしても一週間の費用にしかならない。じゃこの保険がだめなのかというと、私はそういう考えではなくて、お金で何とかしていこうと思ったらもう限界が来ていると思うんです。  それよりも、二万円あるいは一万円というその介護労働力を、お金ではなくて、今みんなが血とりを持ってきている、あるいは何かをしたい、六十五歳でもぴんぴんしているという方たちの中に、お金ではないけれどもあなたが持っている労働力を出してください、それを政治の中で、それがあなたが社会にいる理由なんだ、存在感なんだという形になぜ持っていけないんだろうか。お金で換算している限り、私は絶望的なんじゃないか、これから日本がじゃぶじゃぶお金を稼げるとは思えない。だとすれば、政治とか社会の仕組みの中でそういうシステムを先生方が一つの流れをつくっていただけないか。それが私の切なる願いです。
  17. 三浦一水

    ○三浦一水君 終わります。ありがとうございました。
  18. 牛嶋正

    牛嶋正君 牛嶋正でございます。  きょうは、高山さん、それから大谷さん、ありがとうございました。限られた時間でございますので、順次一問ずつお尋ねしてまいりたいと思います。  久しぶりに高山さんのお話をお聞きしたんですが、いつもながらきちっとしたデータを踏まえて論理を整理されておりまして、久しぶりにいいお話をお聞きしたと思っております。  全体を六つの節に分けておられますが、最後の五節と六節いずれも何々する必要があるというふうに書かれておりまして、どうもここのところは我々に対する要望が多分に含まれているような気がいたします。  そこで、まず最初に、五番目の「高齢者対策値重でよいか」、ここのところをちょっと取り上げて私の感想を述べさせていただきたいと思います。  我々も最近は、高齢者対策とかあるいは高齢社会に対してというふうな議論をする場合に必ず少子というのを前につけるようになっておりまして、少子問題も非常に重要な問題であるというふうに認識しております。  と同時に、高齢者と言う場合、平均寿命が女性はもう八十を超えました。我々男性も七十七歳に達しようとしているわけです。これは、老後が単に長くなったというだけじゃなくて、割合体力も気力もかなり高い年齢まで持続できる、元気に生活できるというふうな恵まれた状況も生まれつつあるわけです。実は私はことし六十五歳で、高齢者の仲間入りをするわけですけれども、高齢者とは思っておりません、まだ現役でこれからもやっていきたいと思っております。  そうだとしますと、高齢者というのを六十五歳以上の人全部一くくりするのはちょっと問題ではないかなというふうに思っているわけです。それはむじろ高齢者社会的弱者と、今までと同じような見方をしてそんなところに追いやってしまう、そういう結果になってしまうんじゃないかというふうに思うわけです。  最近では、七十五歳ぐらいを一つの基点にして前期高齢者、後期高齢者というふうな分け方をしておりますけれども、私はまた別な分け方もいろいろ考えておるんです。そうだといたしますと、今仮に七十までの人を現役とみなすということになりますと随分変わってくるんじゃないかと思うんです。  今先生がおっしゃいました高齢者対策偏重は全部六十五歳以上を一くくりにして対策が立っている。しかし、高齢者自体はどんどん変わっているわけです。生活様式も変わっております。そうだとしますと、そのあたりをもう一度見直して、何も高齢者の定義を変えろとは私は思いません。むしろ、これまでの高齢者の定義に従ってつくられてきた制度を実質的に見直していく必要があるんじゃないかな、こんなふうに思っておりますが、この点について高山先生の御感想をちょっとお聞きしたいと思います。
  19. 高山憲之

    参考人高山憲之君) おっしゃるとおりだと思います。年齢による輪切りというふうに専門家は多分こういう場合言うと思うんですけれども、それが現在適切でないということだと思うんです。ただ、これを取っ払おうとしますと、政治的には大変悩ましい問題にぶち当たります。  例えば、税制で、六十五歳未満と以上で年金給付課税の取り扱いが違います。要するに課税最低限の金額が違うんです。あるいは、六十五歳以上になりますと老年者控除という特別の控除制度があるんです。これは、元気な老人も、お年寄りも、そうでない人もみんな一律なんです。年齢による輪切りはおかしいじゃないかというと、具体的にはそういう問題に実は直結してしまうわけです。現在ある税制で、年齢で一律に輪切りをしてある意味では恩典を与えている制度があるんですけれども、それが不適切だということになるわけです。それを取っ払おうじゃないか。  例えば、現に今重度の要介護者になっていていろいろと物入りだと、そういうような人に税制上介護費控除の制度をつけようじゃないか、これは年齢じゃないんだと。要介護の状態は非常に苦しい状態になっていてお金がかかる、そこに限って税制面で配慮しようというような制度に変えるというふうな方向を示唆していると私は思うんです。ただ、一律に今六十五歳以上だと、こういうふうにして税制面で恩典を与えますよという制度をやめるという方向の議論なものですから、これは先生方にとっては大問題に実はなるはずでありまして、皆さんがその気になれば実はこういう問題はそちらに多分動くだろうと思うんですけれども、そういう問題であるというふうに私自身は理解しております。
  20. 牛嶋正

    牛嶋正君 ありがとうございました。  それでは、大谷さんにお尋ねしたいと思います。  私は京都に長く住んでおりまして、友人や親戚が京阪神に住んでおります。したがって、あの大震災の後、テレビで亡くなられた方のお名前が出るのをずっと注意してできるだけ見ておりました。そのとき感じたのは、犠牲者の多くが高齢者であったということで二重に心を痛めたわけであります。先ほど、これは自然現象ですからたまたま偶然だ、しかし、こういう大震災をきっかけにもう一度戦後の日本が歩んできた道を振り返るべきだというふうに最初におっしゃいました。このとき私はぴんときたんです、今まで神戸市が進めてきた町づくりでよかったのかなと。  実は、ほかの都市から見ますと、神戸市の町づくりというのは、都市経営という言葉が生まれるぐらい模範的な町づくり、また町の行政を行ってきていたわけです。いつも私は大学で講義するときに、よく神戸方式なんかを紹介したわけです。でも、そのとき私が学生に申し上げましたのは、町づくりをしていく場合の基準、どこに目標を置くのかということ。あの当時の神戸というのは、利便性とか効率とか、そういうものに非常に重点を置いた町づくりをしていたように思います。しかし、町づくりの基本はやっぱり安全だと私は思うんです。そこに先ほどおっしゃいました人の思いやりというふうなものも生まれてくるんじゃないかと思います。もちろん教育も大事でしょう。しかし、日々のそういった行政の中で安全というのを第一に置く、安全というのは人の生命、財産を守るわけでありますから、それは基本的には先ほどおっしゃいました人のことを考えるということであります。  どうも神戸方式というのを見たときに、安全性というのが非常に欠けていたのではないかというふうに私は思いました。そのことが、ああいう震災が起こった場合に、最後に犠牲者の多くが高齢者であるというふうなことになったんだと思うんです。  先ほど先生は教育ということをおっしゃいましたけれども、町づくりにもそういう人を思いやるような気持ちが欠けていたのではないか。それは言いかえますと、安全、まず第一に考えなければならない基準がいつも後ろに回されていたのではないか、こんなふうに思っておりますが、この点についてお考えがありましたら、教えてください。
  21. 大谷昭宏

    参考人大谷昭宏君) まさにおっしゃるとおりで、そういうふうに御理解いただけているということを大変うれしく思っております。  神戸という町が、まさに神戸方式、山、海へ行くという言葉に典型的に象徴されるように、山を削って海を埋めていけば町ができてくる。  ただ、神戸という町がそういうことを非常に率先していたというふうにとらえがちなんですが、全国の自治体の中で一番見学者が多かったのは、各自治体が見学に来る自治体では神戸市がここ十年間トップの座を譲ったことがないんです。ということは、逆に言えば日本じゅうの町が神戸という町になろうとしていた。日本じゅうがあこがれている町にくしくも震災が起きたというのが、主た私は一つの象徴だったんじゃないかというよらな気がしてならないわけです。  例えば、安全の面で言えば、神戸というのは、防火水槽をなくして全部消火栓にしていこうと、それが近代都市なんだということを言われたんです。ところが、焼死者の数で言いますと、例えば西宮市は極端に焼死者が少ないわけです。人口の率から言ったら、少なくとも神戸の三十分の一ぐらいは焼死者が出ても不思議ではなかったんですが、西宮ではそれが出なかった。  なぜかと言えば、消火栓に頼らずに昔ながらの防火水槽を用意していたわけです。一たび地震が来たら、近代的だと言われている消火栓というのは何の役にも立たない、水道管がずれてしまったら全く機能しないんだということに、我々は安全という意味では気がついていなかった。そういう意味で、私は、先生がおっしゃるように、都市というのは安全なんだと、安全というのはみんなが助け合うことができなきゃだめなんだと。  今、神戸市がいろんな都市計画を進めていますけれども、その都市計画に反対なさっている方が一言おっしゃったのは、あのときは消防車は役に立たなかった、助けに来てくれたのは全部近所の人だった、そのコミュニティーを壊して新しい町をつくって何になるんだ、今度は消防車も人も来ない町をつくろうとしているんだというのが、まさに今神戸が直面している問題だと思います。  もし、これからの教育の中でそういうことを生かしていくとすると、神戸の震災をきっかけに、きょうもあちらでやっていますけれども、防災、防災ということがしきりに言われるわけですが、神戸の中で防災という言葉を考え直そうという人たちがいたんです。  それで、世界じゅうで防災じゃない言葉を使っているのはどこだろうかと調べたんです。ただ唯一インドです。インドは防災ではなくて減災と言うんです。人間が災害を防ごうなんておこがましいことを考えるな、起きたらどれだけ減らそうかと。やっぱりインド人はすごいなと、インド人がびっくりじゃなくて、日本人がびっくりの方だと思うんです。  そういうことを、これから都市に住む人たち、ひいては日本じゅうの方々の中にどれだけ浸透させていくのかということが防災ならぬ減災なんじゃないかなというようなことを私は考えております。
  22. 牛嶋正

    牛嶋正君 ありがとうございました。  それじゃ、また高山先生に戻りまして、六番目の少子社会対策基本法のところをお尋ねしたいと思います。  先ほどの先生のお話では、出生率が恐らくこれからも若干ずつ減少していくんじゃないかというふうなことをおっしゃったわけでございますけれども、スウェーデンなんかを見ますと、これ動きますね、割合、きゅっきゅっと。私、何でこんなに動くのかなと思ったんですが、先ほどからお話しの経済の問題も非常に大きな要因だと思います。    〔会長退席、理事太田豊秋君着席〕  先ほど、子供大学まで行かす場合の教育費を挙げられたんですけれども、我々サラリーマン世帯にとって大きなお金というのは、もう一つは住宅なんですね。  それで、今の我が国の住宅はもうほとんど木造でございますので、耐用年数が二十五年なんです、平均が。ちょっとこれはぜいたく過ぎるんじゃないかなと私思っておりまして、もし仮に二十五年じゃなくて倍の五十年もたせたら、ゆっくり二世代でそのローンを返していくこともできますし、我々の所得におきまして住居費というのを非常に抑えることができるんじゃないか。  それからまた、教育費にいたしましても、よく言われておりますように、例えば奨学資金を本人が返すような制度にしていくということになりますと、随分と親たちにとりましては身軽になりますので、案外このあたりを実行していけば割合上昇するんじゃないかななんて思っているんですけれども、そんな生易しいことじゃないというふうに先生はお考えなのかどうなのか、ちょっと御感想をお願いしたいと思います。
  23. 高山憲之

    参考人高山憲之君) 住宅につきましては、日本人の心性といいますか特性によるところが大きいと思います。新し物好きなんですね。古代より日本はみそぎの精神といいますか、古いものをイギリス人のように愛着を込めてめでるという、そういうカルチャーがないんですね、伊勢神宮もああいう形で建てかえす国柄ですから。五十年もつ住宅で二世代、三世代で住めばいいということに国民がみんな納得するかどうか、それはなかなか難しいんではないかと思います。  現に、住宅構造、質ももう見違えるようにここで上昇してまいりましたし、今後もその便利さを求めていろいろな意味で質の上昇はあるんではないか。それで、古い住宅はなかなかこれに対応できないんですね。面倒くさくなって結局建てかえちゃうという人も多いものですから、住宅はなかなか難しいというふうに考えております。  それで、教育は、おっしゃったように、奨学金をもうちょっと長目のローンで組めるような形に制度を変える必要があると思います。今、国立大学もそうですが、みんな教育にかかわる費用というのは供給サイド、一括して大蔵省筋から流れる形なんですが、その金を少なくしまして、むしろ需要サイド、授業を受ける側に流して、それで長目のローンで返す形にした方が私はいいんではないかというふうに思います。  ただ、先ほど私の紹介しました、一人大学を出すまでに二千万かかるというのはへ教育だけでなく、御飯を食べさせたり着る物を買ってやったりとか、そういうもの一切込みのプライベートな費用も含んでおります。子供を産んで育てている人たちとそうでない人の格差を埋めるのは、なかなか容易でないなということは今おっしゃるとおりでございます。
  24. 牛嶋正

    牛嶋正君 それで、最後になりますが、大谷さんに、これはもう質問というよりも僕の感想なんです。  テレビを見ておりまして、長田町の火災ですね、あれがどんどんどんどん広がっていく、あのとき私思ったのは、神戸にもしコミュニティーがあったとするならば、長田町ではなかったかと思います。そのコミュニティーがわあっと崩れていくような感じを私受けたんです。したがって、あそこで焼け出された方々が、先ほどのお話で、仮設住宅で今非常に孤独だということなんですが、私はそれだけに、これまでの焼け出される前の長田町での生活というのは、非常に都市としては珍しい心豊かなコミュニティーがそこで形成されていたんじゃないか。  だから、いろんなものを失いましたけれども、最も大きな損失はそれだったんじゃないかなと私思っているんですが、これについてどんなふうにお考えでございますか。
  25. 大谷昭宏

    参考人大谷昭宏君) まさに先生おっしゃるとおりで、長田というのは、そういう意味では神戸という都市の中にコミュニティーが残っていたというところです。  震災というのは、先生おっしゃるとおりに、本当にさまざまなものを失った。だけれども、逆にマグニチュード七・五をもってしても壊せないものが我々の中にあったということを浮き彫りにしてくれた、それがあのときの神戸の人と人とのつながりだったというふうに私は自分なりには思っているわけです。    〔理事太田豊秋君退席、会長着席〕  今振り返ってみれば、たくさんのものが壊れましたけれども、壊れなかったものがある。これからの再建というのは、もちろん壊れたものを直していく、新しいものを建てていくということも大事だと思うのですが、あのとき壊れなかったもの、これをこれから先どうやって町の中に残していくのか。  そういう意味では、きょうの主題からは外れますけれども、現在の神戸市あるいは日本の都市再開発とか区画整理事業というのは、一つ間違えるとせっかく壊れなかったものも壊してしまうことになる、すべてを失うことになってしまうんじゃないか。それをこれから行政とか我々の社会、国の力でどう見きわめていくのか、そういう意味ではまさに端緒についたところではないか。我々は、少なくともそちらまでも壊されないように精いっぱいの努力をしてまいりたいというふうに考えております。
  26. 牛嶋正

    牛嶋正君 どうもありがとうございました。
  27. 上山和人

    ○上山和人君 社会民主党・護憲連合の上山和人でございます。  両先生、本当にきょうはありがとうございます。  子供たちとお年寄りの姿を見ればその国の政治がわかると言ったのはイギリスのラスキでございますけれども、今まさに日本の政治の姿をよく映し出しているのがやっぱり子供たちとお年寄りだと思うんです。どっちも悪戦苦闘を強いられていると言っていいんじゃないかと思うんです。ただ、その中でゴールドプランにつきましても、新ゴールドプラン、さらにこれから新新ゴールドプランと改善を重ねていかなくちゃならないと思うんですけれども、あわせて公的介護保険制度の導入はもう命題になっているところであります。  高山先生にちょっとお尋ねしたいんですけれども、私は先生の御認識と同じなんです。エンゼルプランも確かにスタートしておりますけれども、この子育て支援政策、少子社会対策の方は、私たちを含めまして政治全体がいま一つ危機感に乏しいんじゃないか、足りないんじゃないかと思っているんです。  それはそうといたしまして、したがって先生のこの御提言、少子社会対策基本法、この御提言は非常に大事な御提言と受けとめさせていただいてこれから努力をしなくちゃならないことではないかと思うんですが、一方で、大きければいいというものではないじゃないか。確かに二〇九〇年ごろ、今から百年後ぐらいに日本人口は一億二千万から六千万程度になる、半減すると言われておりますけれども、六千万になれば六千万でいいじゃないか、人口六千万人なりの豊かな社会をつくることをもっと考えるべきではないかという言い方もございます。  しかし、そういう議論がありますけれども、私は先生のお考えに賛成なんですが、そういう小さければ小さいでいいじゃないか、人口六千万人なりの豊かな社会をつくればいいじゃないかという考え方について先生はどのようにお考えなのか。もう私は十分しか時間がないものですから。  それから、大谷先生は教育の重要性について御指摘がございましたけれども、実は中央教育審議会がこの夏にも中間答申を学校五日制の完全実施に向けて行う予定でありまして、それから半年ぐらいたって恐らく本答申が行われる。そして、教育課程の審議会が再開されて学習指導要領の改訂が行われる。そしてまた、教科書の書きかえといいますか教科書作成が行われる。完全実施まで学校五日制は五年あるいは六年はかかるかなというもどかしい状態ではございますが、教育の影響というのは福祉社会に向けて先生御指摘のように非常に大きいと思うんです。  そこで、福祉教育とおっしゃっているんじゃない、もっと広い意味での先生の御提言だと思いますけれども、ぜひ文部省に対しましても中央教育審議会に対しましても、先生のような専門的なお立場で、また先生のような視点でもっと提言をしていただけないか。なかなか福祉教育を初等教育段階から取り入れるということについて積極的な姿勢を必ずしも文部省が持っているとはなかなか思えないような気がするものですからぜひお願いしたいのと、また、そういうことについて先生の御感想をお聞かせいただければと。もうこれだけで十分過ぎると思いますので、よろしくお願い申し上げます。
  28. 高山憲之

    参考人高山憲之君) おっしゃるように、国の人口規模が小さくても豊かな国は世界にございます。スイスを初めとして、ヨーロッパ、東欧に行けばそうですし、ニュージーランドやその他の国は決して人口が大きい国ではありません。問題は、日本の現在の人口規模を単に縮小して相似形の国をつくれるかどうかという問題なんですね。  先ほど御説明しましたように、人口構造が大幅に変わってしまうということです。国に中高年主体労働者高齢者がいっぱいある中で若い人たちは相対的に物すごく少なくなってしまう。相似縮小形を実現できないんです、移行過程で。そこがまさに問題なんではないかというふうに私は考えております。  以上です。
  29. 大谷昭宏

    参考人大谷昭宏君) 教育の問題を先生が取り上げてくださったことを私は非常に大きく受けとめておりますし、高齢化社会、少子化社会福祉社会というのは、基本的には教育の中できちんとしていかないと対応できないだろうというふうに考えております。  この辺は高山先生と少し違うかもしれないんですけれども、なるほど子供が少なくなると国は大変なことになっちゃうという発想もあろうかと思うんですが、私は、子供は国のために生まれてくるわけではないと思うんです。ただし、国は子供のためにあるのではないかということからすると、今の教育というのは余りにも悲惨なんじゃないかなという感じがいたします。  これは、私は誤解を招くので余り言わないんですけれども、神戸のときになるほど二百三十七万という大変なボランティアが来た。そのときに、たしか朝日新聞だったと思うんですが、大阪の其大学の先生が論文というか提言を書いて没にされたことがあるんです。  これは、どんなことで没にされたかというと、神戸がぽんぽん燃えて人がたくさん亡くなっているのを京都で学生が見ていた。それからボランティアに飛んでいった。ところが、何でボランティアに飛んでいったんだと聞いたら、その学生があれを見ていてざまを見ろと思った、もっと燃えりゃいいと思った、最初はそういうつもりで行ったんですよと言ったらしいんです。でも、向こうへ行って、それどころじゃない、兄ちゃんとにかく助けてくれ、兄ちゃんこれを運んでくれと言っているうちにボランティアに引きずり込まれて、結局は何カ月もいたらしい。でも、最初に僕が行った動機はざまを見ろだったと。それをある新聞に出したときに、ボランティアの気持ちを傷つけるからといって没にされた。  ただ、私はあの光景を見ていて、今の若者がざまを見ろと思ってしまった。これはオウムの若者にも通じると思うんですけれども、今のがちがちの管理教育の中では、十五歳のときに六十五歳の自分がわかってしまうというような希望のない教育が進められているときにあれだけのことが起きたら、ひょっとしたらこのがちがちに管理された社会が変わって自分の出番が来るかもしれない、自分の六十五歳が違うものになるかもしれない、その妄想を抱いたのが私はオウムだったと思うんです。  それほど、現在の教育の中で十五歳の少年たちが自分の六十五歳がわかってしまうような管理教育を変えていかないことには、私は子供たちがみずみずしく走り回る社会というのは来ないんじゃないか。幾らいじめを論議しようと不登校を論議しようと、そこを変えていただかないことにはできないと思う。ですから、初等教育の段階からこれだけの可能性のある社会に君たちは出ていくんだという教育に大きく変換させていただかなければどうしようもない。  子供たちになぜ管理を教えるのか。そうじやかくて、震災なんか起きなくたっていっぱい出番のある社会なんだということをぜひこれからの教育の中で生かしていただきたい。これは我々の年代が若者を見ているときに、大変なことになったというよりもむしろ焦りを感じているのが偽りのない心境です。  お答えになったかどうかわかりませんけれども、そんなことを感じております。
  30. 上山和人

    ○上山和人君 ありがとうございました。  先ほど申し上げたようなスケジュールで今学習指導要領の改訂に向かう作業が進んでおりますので、ぜひ先生、そのようなお立場で御提言を積極的にいただきたいとお願いを申し上げまして、質問を終わります。
  31. 聴濤弘

    ○聴濤弘君 お二人の参考人皆さん、どうも本当にきょうは御苦労さまでした。一問ずつ質問させていただきたいと思います。  最初高山先生、少子社会の問題についてなんですけれども、出生率が低下する原因について、きょうは先生が全面的にその話に絞ってお話しになったわけじゃないので意を尽くしておられないかと思いますけれども、子供を育てることが割が悪いという、そういうことになってきているというところにお話があったように思うんです。そのことを私は否定するわけじゃないんですけれども、それなら以前でも、昔でも同じようなことはあったわけでという疑問がそのお話の中から当然私としては生まれてくるんです。  そこで、教えていただきたいんですが、今の日本出生率低下について、いわばどんな学説というか、あるいは学説とまで行かなくても見解が幾つかに分かれるのか、あるいはそういうふうに分かれていないとするならばそれはそれでいいんですが、そのことを考える場合にどんなポイントを押さえていくことが大事なんだろうか、そのあたりについて教えていただきたい、これが高山先生への質問です。
  32. 高山憲之

    参考人高山憲之君) 先ほど時間の関係でやや省略をいたしましたが、昔と今で違ったことは何かということですね。  これは、二十代の男女間の賃金格差が大幅に縮小したということです。私のきょうの参考資料税研資料がついておりますが、一九七〇年と九〇年の比較をしております。二十代後半の男女の賃金格差は、かつては一・八倍だったんです。男性がそれだけ多かったわけです。ところが、最近は一・三倍です。昔は、私はちょうど昭和四十年代に大学を出てから結婚した口ですけれども、私のころは結婚しても生活水準は下がらなかったんです。夫が稼ぐ賃金だけで、女性は賃金格差があったわけでそれ自体問題だったんですけれども、女性にとって生活水準を下げずに出産だとか子育てに入れたんです。今はそうじゃないんです。賃金格差は一・三倍に縮小したわけです。これは、男女の能力から見れば賃金格差が縮小するのは私は当たり前の方向だと思っております。これはマーケットの要請でそうなったんです。しかし、一・三倍に下がると、出産を契機にリタイアしちやっと夫だけの月給では生活水準が物すごく下がっちゃうんです。これは親からの仕送りだとか資産等がある人は別です。そうでない限りは働き続けない限り生活水準を維持できない。ここが昭和四十年代と現在の違いです。  あわせて、子供を産んで育てるのにお金が昔よりはるかにかかるようになったということです。その二点が出生率の低下の原因だというふうに私自身は考えております。  以上です。
  33. 聴濤弘

    ○聴濤弘君 もし時間があればまたもう一回戻らせていただきますが、次に大谷参考人に質問させていただきます。  神戸での助け合いの運動のお話、非常に感動的に私受けとめさせていただきました。助け合うということをどんなふうにして政治が助けていくかということは大きな課題だということを非常に強く感じました。  そのお話の中で、ちょっとだけですが大谷参考人がお触れになったNPO法の問題、非営利組織と、政治の側ではそんな対応が今生まれているというようなことが出ましたが、このNPO法の問題について、神戸の話は主にボランティアの活動だと思うんですが、ボランティアと非営利組織とはもちろん違いますけれども、似た点はたくさんあります。  それで、NPO法に関連して、神戸の経験から見て、今問題になっているNPO法問題というのはどんなふうに感じておられるか。ちょっとお触れになって、問題意識は公益だとか許可制だとか、そういったいろんなややこしいものがついてくるというふうな話があるようだということを大谷参考人は既におっしゃっておられるので、問題点についての認識として既に述べられているとは思うんですが、もう少し神戸の経験から見てどういうことを注文されるのか、どんなふうにお考えになっているか、お聞かせいただきたいというふうに思います。
  34. 大谷昭宏

    参考人大谷昭宏君) 本当にNPO法に関しては私自身の中でも大変揺れ動いている部分があるんです。せっかくあれだけのことをしているんだから国が助けてやってほしいよと。せめて法人格ぐらい取らせてあげられないのかということになるわけですけれども、逆にこれが公益法人になりますと、民法の三十七条とか六十七条に、あくまでこれは監督官庁が監督指揮するというようなことが公益法人には出てきてしまうわけです。そうなりますと、国によって指導されてしまうんじゃないかという問題もさておきまして、またぞろあの若い人たちは離れていってしまう。彼らは、そうやって管理されながら命令系統の中で動くということになると恐らく手を離してしまうだろう。だから、じゃ何もしなくていいのかというと、今のままでは本当に電話一台、ファクス一台、コピー機一台借りられない、全くの助成もないということでは、余りにも善意だけに頼り過ぎてしまっているんじゃないか。ですから、NPO法をやっていただきたいなと思いながら、おせっかいはやめてほしいと、その折り合いをどこでつけるのか。  ただ、私は、少なくとも日本も欧米型に変わって、いわゆるもう本当にボランティアをつくってその中のボードメンバーが主体になってやっていくというふうになっていかなければいけない。千七百五十億という大変な義援金をもらいながらも、やはり官が主導で諮問委員会をつくって配分先を決めなければならないというのは大変残余だった。今度の千七百五十億に関してはどうしで市民のボードメンバーだけでできなかったんだろうかといううらみもあるわけです。これは、先生方も我々ジャーナリズムも含めてどういうNPOがいいんだろうか、大変難しいですけれども、今本当に研究していただきたいと思っているところでございます。
  35. 水野誠一

    ○水野誠一君 きょうはありがとうございました。さきがけの水野でございます。  まず、高山先生に伺いたいと思うんですが、今お話の中で、少子社会に対して子供を少しでもふやしていこうという政策をとるべきだというお考えを伺ったわけであります。  確かに、人口構造というものが逆ピラミッドになっていくということは大変大きな問題がある中で、それに対する施策というのは必要ではあるわけですが、しかし、なかなか法律とか税法的なものだけで少子化というものは抑えられないんじゃないだろうか、やはり相当そこには大きな力が必要になってくるんじゃないかという感じもするわけです。  そこで、一つは、今いろいろ皆さん委員からも御意見がありましたが、高齢者の定義というものを一つは見直していく必要もあるだろうし、それから労働市場というものの高齢化といいますか、高齢者の労働市場というものをやはり新たにつくっていくというふうな方法、あるいは経済価値観自体を変えていく必要がある。すなわち、今までのように規模の経済というものの考え方をやはり少し転換をして、縮小しながらそこでバランスをとっていくというような経済に対する考え方というようなものもあわせてとらえていかないといけないんではないかな、そんな感じをしながらお話を伺いました。  その中で一つ二つお聞きをしたいんですが、海外の事例として今先生が言われているような少子対策の法律なり税法なりというものが積極的にとられて、日本がこれはお手本にすべきだというような事例があれば、それについてお聞かせをいただきたいという点が一点でございます。  それからもう一点は、高齢者対策と少子対策ということ、この両方が私は必要だというふうに思うんですが、今のように高齢者対策のプライオリティーが高過ぎているじゃないかという御意見だったと思うんですが、この二つの政策のバランスというのはどんなふうに考えていったらいいとお考えになっているのか、この二点について伺わせていただきたいと思います。
  36. 高山憲之

    参考人高山憲之君) 海外の事例ということですが、私もまだ勉強不足で十分にお答えできません。ただ、最近出生率が回復ぎみのヨーロッパ、南ヨーロッパはだめです、地中海沿岸諸国はみんな押しなべて低出生率で悩んでおりますが、スウェーデンだとかドイツも一時の悪さを脱却しております。ヨーロッパ、特に西欧諸国では、英語の文献ではファミリーポリシーという言葉を使っているようですけれども、それを戦後本格的にいろいろなレベルで推進しているようであります。  例えば、育児休業というのは日本でも法制化されていろいろな形で内容を充実してまいっておりますけれども、例えば育児休業は父親が最低一カ月とる、女性がもっと就業継続を容易にするさうな形の努力をするとかいろいろあると思うんです。あるいは、今日本は会社に長くいてだらだら仕事をしていてつき合いのいい人がよしとされているようなんですが、そういう働き方じゃだめなんだと。やっぱり家庭も大事で子育ても大事だということになると、そちらにエネルギーをもうちょっと割けるような形にしなければいけない。  男女が子育てに参加できるようにする。今までは、夫は会社で働くという社会だったのだが、それはだめだと。子供を産むのは母親にしかできないけれども、子育ては父親もできるという社会に変えていかざるを得ない。それは現在の会社の勤め方自体、仕事のやり方自体を変えていかざるを得ないという方向だと思うんです。これは、企業関係者の皆さんにぜひとも考えていただきたい点だと思うんですが、そちらの方向を含んでいるというふうに思います。  それから、二点目の御質問ですけれども、例えば高齢者の方でサラリーマンOBだというのは、大体年金、月額で二十万円、それ以上というのが多数派です、男子の場合。銀行の口座、金融機関の口座に偶数月の十五日に振り込まれるんですが、みんなが十五日に金融機関の窓口で待っているという状態ではないんですね。むしろ預金の積み増し、貯金の積み増しをしているケースが多いわけです。あるいは、子供の誕生日だとか端午の節句だとかいろいろなときにはじいちゃんばあちゃんがお金を工面するというケースが多いわけです。それはそれで高齢者の幸せの一つですからそれを奪うのは問題かもしれませんけれども、やはりお金が窮屈になった場合に、年金というのは基本的な生活を下支えするわけでありまして、貯金をする余裕までつくり出す年金を公的年金で賄うというのはいかがなものかというふうに私自身は考えますので、そういう金も移せる。  あるいは、医療の方でも、どう見たって薬をもらい過ぎの人がいるんですね。あんなに全部飲んだらかえって病気になってしまうと言っている人さえいるわけでありまして、そういうむだな費用を少しでも削って介護のためのシステムの金をつくる、あるいは児童、出産支援のための金に回すという形をとらざるを得ないのではないかというふうに考えております。
  37. 水野誠一

    ○水野誠一君 ありがとうございます。  大谷参考人に伺いたいと思います。  おっしゃるボランティアエコノミーといいますか、ボランティアを経済のやはりある一つの要素としてとらえていくという考え方は私も大賛成といいますか、こういうことを考えざるを得ない時代になっていくというふうに思います。アメリカの八千九百万人のボランティア、これはドラッカーなんかも言っていますけれども、成人の二人に一人が週平均五時間以上ボランティア活動に費やしているというような実績がもう既にアメリカではあるわけであります。  これを見ていったときに、日本が今お話しのあった神戸の大震災の事例なんかで、実は期待をしていなかった若者たちがああいう大きな事件というものによってその潜在力を大いに発揮してくれたということで、日本もまだまだ捨てたものじゃないんじゃないかという意を非常に強くしたわけであります。  それにしても、私は平常時、ふだん日本人がこれからボランティアというものにどれくらいの時間を費やしていくのかということが非常に大きな要素になっていくというふうに思います。そういうときに、アメリカというのは、いやあれは宗教的なバックグラウンドがあるのでそれだけの人間がボランティア活動に従事するんだというような考え方もあるわけでありますし、またその根本には教育があるんだというような考え方もあると思うんです。  私は、一つここで伺いたいのは、大谷さんはボランティア活動のベースになるもの、これは宗教、教育というようなことも含めて、それは何なのか、それから、日本社会を本当にそういったボランティアエコノミーに向かわせていくためにはどんなインセンティブが必要なのかというあたりについて伺わせていただきたいと思います。
  38. 大谷昭宏

    参考人大谷昭宏君) 私は、これからボランティアというのはうまく、先ほど申し上げたようにちょっと顔を出したこのかわいらしい芽を育てていけばきっと育つだろうと。それは、例えば死刑制度の問題にしても、最終的に行き着くところは日本と欧米諸国、あるいはアメリカとヨーロッパも宗教に対する考え方の違いがあるんだというふうによく言われるんですけれども、私は、じゃあのオウムだってわけのわからない宗教であるけれども若者たちは走ったじゃないかと。それは、それにとってかわるもの、彼らが生きがいとしてかわるものがない社会の方が問題だったんじゃないかなというふうに私は考えているわけです。  アメリカ社会で、人を評するのに彼のエピソードを三つ聞いたら人格がわかるとよく言われますけれども、彼らは自分のコミュニティーに帰ったときにどんな働きをしているのか、どんなボランティア活動をしているのかというのが必ずエピソードの一つに入ってきて、ああ、あの方はこういう方なんだというその人物の判断材料にされる。私は、日本社会というのはいずれそういうふうになっていかないといけないんじゃないか。  日本は、会社で部長さんで偉い人は地域に帰ってきても、あの人はあの会社の部長さんなんだから偉いんだということで、その方たちがやはり地域のボスになっていってしまう。そうではなくて、会社から帰った後の地域の中で何をして何を生きがいに求めていらっしゃる方が世間の尊敬を集めるんだという社会に変えていかなければいけないし、いずれ変えなければいけない。  そのことは、逆に子供たち社会の中にも、人間のすばらしさというのは会社で偉ければ地域に帰っても偉いというようなものじゃないんだよということを教えていく。先ほどざまを見ろと言った、管理社会が壊れない限りだめだと思っていた子供たちの中に、いじめだとか不登校だとかあるいは激烈な受験戦争というのをやめさせて、もっと生き生き、伸び伸び、みずみずしい子供たちを育てるとすれば、君はそういう会社の肩書がなくても地域に帰れば本当に大事な人なんだよというのを、今、田舎の一部、地方には残っているかもしれないけれども、都会には全くそれがなくなってしまっている。そういうもっときめ細やかなコミユニティーを日本の都市であろうと地域社会の中であろうとつくっていく。いずれはそういう方たちが地域のリーダーから国のリーダーに育ってくるという社会が一番足腰の強い社会になるんじゃないか。  そういう形に日本社会を先生方と我々ジャーナリズムが力を合わせて持っていけるか持っていけないかという今曲がり角であるような気がしてなりません。
  39. 水野誠一

    ○水野誠一君 ありがとうございました。
  40. 鶴岡洋

    ○会長(鶴岡洋君) 以上で両参考人に対する質疑は終了いたしました。  高山参考人及び大谷参考人には、お忙しい中、本調査会に御出席いただきましてまことにありがとうございました。  本日お述べいただきました貴重な御意見は今後の調査参考にさせていただきます。本調査会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。  ありがとうございました。(拍手)  本日はこれにて散会いたします。    午後三時十分散会