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参考人(
山内敏弘君)
山内でございます。
私の専門は
憲法でございますので、国際政治とか外交問題については私は素人でございます。したがいまして、あるいはこういった場に出てきて
意見を申し述べることは不適切ではなかろうかというふうにも考えたわけでございますけれども、せっかくのお誘いがございましたし、そして私なりに
憲法の観点から平和や
安全保障の問題について日ごろ若干考えていることもございますので、あえて
出席させていただきまして、若干の
意見を申し述べることにした次第であります。そういう次第でございますので、私の話は、主として
憲法の視点からの話になるということを最初にお断り申し上げておきたいと思います。
ところで、そのように
憲法を勉強している者の立場からいたしますと、どうしても
憲法が要求しているものは何であるのか、あるいは
憲法のもとで可能なことはどこまでであるかといったことをまず考えることになります。
現実の政治を見る場合にも、国際政治を見る場合にも、ややもすれば
憲法規範から出発するということになりますので、
現実認識がどうしても弱くなると申しますか甘くなる、そういった批判があるいは出てくることは避けがたいかと思います。
しかしながら、他方において、国際政治とか外交問題を専門的な仕事としておられる
方々の
議論の仕方というものを聞いてみました場合にも、時として問題がないわけではございません。それは、これらの
人たちの場合には、ややもすれば
現実から出発する余りと申しますか、
日本国
憲法が一体何を要求しているのか、あるいは何をどこまで認めているのかということについての配慮が時として不十分になる場合があるということでございます。
日本は、言うまでもなく法治
国家でございます。
日本国
憲法は国の最高法規であると規定しておりますので、平和とか
安全保障の問題についても、
憲法を無視して
議論することはできないと思います。国会においてもそうでございます。
もちろん
日本国
憲法は不磨の大典ではありませんから、
国民の大多数が改正を希望するということであれば、
憲法が定める手続に従って改正することはできます。しかしながら、そのような手続を経て改正されない限りは、
日本国
憲法は、
日本における最高法規として、外交や平和の問題を考える場合にも尊重されなければならないと思います。これは言うまでもない当然のことでございますけれども、まず最初にそのことを申し上げたいと思います。
そこで、まず問題となってまいりますのは、
日本国
憲法が平和や
安全保障の問題についてどのような考え方をとっているのかということでございます。この点、詳しい
議論をここで申し述べる時間はございませんので、結論的なことだけを申し上げますと、学界の通説的な見解は、現在でも、
日本国
憲法のもとでは、たとえ
自衛のためであれ戦力は保持できないし、また、たとえ
自衛のためであれ
戦争を行うことはできないというものでございます。このような見解は、
憲法制定時において当時の吉田内閣がとった見解でもございますし、
憲法九条、前文、その他の諸規定を見てみましても、このような
解釈が妥当な
解釈であると私は考えます。こういった
日本国
憲法の考え方からいたしますと、
日本は、
戦争や
武力に訴えるのではなくて、非軍事的な方法で
日本の平和と安全を確保していく、そして
アジア諸国にも対処していくということになるものと思われます。
このような
日本国
憲法の立場からいたしますと、私は、現在の
自衛隊や日米安保条約は
憲法には合致しないということになろうかと思います。
日米安保条約について申しますと、確かに最高
裁判所は、いわゆる砂川判決におきまして、
我が国が平和と安全の維持のためにその
目的達成にふさわしい方式、手段で他国に
安全保障を求めることを
憲法は何ら禁止していないと述べ、具体的に安保条約についてはいわゆる統治行為論を採用いたしまして、
違憲審査権の対象外にあるといたしました。しかし、このような判決に対しては、学界では反対論が多数であるというふうに言ってよろしいかと思います。むしろ、安保条約を
違憲とした一審の伊達判決を支持する見解が多かろうというふうに思います。
憲法九条が一切の戦力の保持を禁止しているのは、
日本の領域内にはおよそ戦力はあってはならないという趣旨であって、
日本の戦力は保持できないけれども外国の戦力ならばよいというような
解釈は、占領下にあってはともかく、
独立国家のもとでは到底とることができない見解だと言えるからでございます。
しかも、日米安保条約は、改めて指摘するまでもなく、東西冷戦の時代に締結されたものでございます。冷戦時代には、安保条約はソ連の脅威に備えるということで正当化されてまいりました。しかし、冷戦構造が崩壊した今日では、もはやソ連は存在しておりません。安保条約の存在理由の喪失は明白になったように私には思われます。
確かに、冷戦が崩壊した今日でも世界の各地でさまざまな地域紛争は発生しております。しかしながら、今日、一体
日本を
武力攻撃してくる国がどこにあるでしょうか。ロシアでしょうか、それとも中国でしょうか、あるいは北朝鮮でしょうか。私はいずれの
可能性もほとんどないと言ってよいように思われます。しかも、日米安保条約のもとでの
基地の存在が住民の生活や
権利を恒常的に侵害するものであるということは、沖縄の事例が端的に証明しているように思われます。このような日米安保条約は廃棄して、むしろ日米の間に平和的な友好関係というものをつくっていくということが、私はひいてはアジアにおける平和のためにも有益であると考えるものでございます。
もっとも、安保条約につきましては、とりわけ冷戦崩壊以降になりましてから別の存在理由といったものがあるという形での指摘がなされております。それがいわゆる瓶のふた論でございます。しかし、このような
議論は、私は二つの意味で誤っていると思います。
まず第一に、日米安保条約のもとで
日本の軍事力が抑えられてきたのかといえば、私は決してそうではないと思います。安保条約自身が、御承知のようにその三条で防衛力の増強を
日本の責務としております。そして、実際にも安保体制のもとで
アメリカは
日本に防衛力の増強を要求してまいりました。
アメリカが
日本に対して軍事支出の削減を要求してきたという話を私は寡聞にして知りません。
第二に、確かに
アジア諸国の中には日米安保条約があることによって
日本の軍事拡大が抑制されるという見方もあることは否定しがたいと思われます。しかし、だからといって私たち
日本人までもが、そのような
議論をして安保条約の正当化を図るというのは随分と情けない話であるように思われます。
なぜならば、
日本は自分の力では軍事拡大を抑えることはできないので安保条約に頼らざるを得ないということになるからであります。
日本自身が積極的に
自衛隊の軍縮を行い、
アジア諸国から信頼を得るような施策を行えば、安保条約がなくても
アジア諸国は
日本に対して警戒心は持たないと思います。言いかえれば、瓶のふた論は
日本の軍事拡大への警戒心あるいは不信感のあらわれであるわけでございまして、そうであるとするならば、
日本としては、安保条約を維持するというよりはむしろそのような不信感を取り除くための軍縮の努力を積極的にすることこそが私たちの課題であるというふうに考えます。
ところが、
日本政府はそのような努力をするのではなく、逆に安保条約を強化する道を選びました。このたびの日米安保共同宣言がそれでございます。
そこで、日米安保共同宣言について若干見てみますと、この共同宣言には法律的に見て幾つかの重大な問題点があるように思われます。
まず第一に、これは現行安保条約の実質的な改定と言わざるを得ないということでございます。条約の改定ということであれば、本来ならば
憲法七十三条などが定める条約締結手続を経なければなりませんし、したがって国会での十分な審議を経た上での国会の承認が必要なわけでございます。ところが、そのような手続を一切踏むことなく、国会での審議も何らなされないでこのたびの共同宣言が発せられたということは、国権の最高機関であるはずの国会の権威をないがしろにしたものであり、手続的に見ても重大な
憲法上の疑義があると言わざるを得ないと思います。
第二に、このたびの共同宣言が実質的に見て現行安保条約の改定であるとする理由は、とりわけ以下の点にあります。
すなわち、現行安保条約によれば、日米が共同行動をとり得るのは五条の場合だけでございます。すなわち、同条によれば、
日本国の施政のもとにある領域における、いずれか一方に対する
武力攻撃が発生した場合には、日米
政府は共通の危険に対処するように行動するものとされております。ということは、それ以外の場合すなわち
日本の施政下にはない領域での
武力紛争が発生した場合には、日米が共同の行動をとるということは同条では何ら想定しておりませんし、したがってまた何ら授権されてもいないんです。このことは六条に照らしても明らかであると思います。
六条は、御承知のように極東における国際の平和及び安全の維持のために
アメリカ軍が
日本の
基地を使用することができると規定していますが、これは専ら
アメリカ軍の
基地使用の権限を規定したものであって、
日本が
アメリカと共同して極東における国際の平和及び安全の維持のために行動し得る旨を定めたものでは何らありません。
日本は極東における国際の平和と安全の維持のために
アメリカと共同行動をとることはできないわけです。
ところが、今回の共同宣言によれば、
日本の施政下にはない
日本周辺地域において発生し得る
事態に際して日米間の
協力に関する研究を行うことを初めとして、日米間の
政策調整を促進することがうたわれております。これは明らかに現行安保条約を逸脱したものであると言わざるを得ません。
このたびの共同宣言が現行安保条約の実質的な改定であるとする理由は、さらにその地理的適用範囲の拡大にあります。
現行安保条約の六条では、米軍が
日本の
基地を使用し得るのはあくまでも極東の平和と安全の維持のためであります。ところが、既に指摘されておりますように、今回の共同宣言ではこの極東という言葉は一切用いられておらず、かわりに頻繁に用いられておりますのが
アジア太平洋地域という言葉でございます。これは明らかに現行安保条約が規定している米軍の行動の地理的範囲の拡大を意味しております。この点においても共同宣言は現行安保条約を逸脱したものであるというふうに考えます。
そして、共同宣言がこのように日米周辺地域において発生する有事に際して日米が共同行動をとることを想定していることは、
憲法の観点からしても当然に問題になってこざるを得ません。それは、
政府も従来
違憲としてきた
集団的自衛権の
行使に抵触することにならざるを得ないからでございます。
集団的自衛権については、御承知のように
政府は
自衛権行使の三要件を満たさないものとして
違憲とし七きました。そして、そのような見解は、
憲法九条一項が国際紛争を解決する手段として
戦争はもとより一切の
武力の
行使、
武力の威嚇を放棄しているということからすれば当然の
解釈だというふうに私は考えます。
ところが、今回の共同宣言は、
日本が直接
武力攻撃を受けたわけではないにもかかわらず、いわゆる極東有事に際して
日本が
アメリカと共同して行動をとることを想定しております。これは明らかに
憲法九条一項に違反し、さらには
政府の言う
自衛権行使の三要件にも違反することにならざるを得ないと思われます。
日米共同宣言と相前後して結ばれました日米物品役務相互提供協定についても、有事への適用が
政府・防衛当局によって既に示唆されております。
集団的自衛権の
行使に踏み込むものと言わざるを得ないと思われます。
それだけではありません。今回の共同宣言を契機として沸き起こっております極東有事の論議には、私は極めて危ういものがあると考えております。
極東有事ということで具体的に想定されているのは、朝鮮半島における有事とか、中国・台湾関係における有事のようですが、しかしこれらの
議論をする
人たちは、例えば北朝鮮が韓国に
武力侵攻するとか中国が台湾に
武力侵攻するというようなことをどこまで本気に考えているんでしょうか。私はそのような
事態が発生する
可能性は極めて少ないと考えます。
仮に、万々が一そのような
事態が発生したと仮定したとしても、一体そのような有事に対して
アメリカなり
日本が軍事的に介入することが紛争の本当の解決に役に立つのでしょうか。例えば、中国に対して
アメリカが
武力行使をするということで紛争の解決が本当にできるんでしょうか。あるいは、そもそも中国や韓国はそのような場合に
日本が軍事的に介入することを望んでいるのでしょうか。私には到底そのようには考えられません。
そうであるとするならば、
日本がなすべきは、極東有事を前提にした
議論をしていたずらに極東における危機感をあおるようなことをするよりも、むしろ極東有事が起きないようにするためにはどのように平和的な
協力関係をアジア太平洋の諸国間で築き上げるべきかを真剣に話し合うことの方がはるかに大切と私は考えております。
しかも、重視すべきは、今回の共同宣言に対しては、中国や北朝鮮からはもちろんのこと、韓国などからも警戒の念が表明されているということでございます。このことは、共同宣言やそれに基づく極東有事に関する
日本における論議自体が、アジアにおける緊張を緩和するよりはむしろ緊張を激化させる働きをしかねないということを示しているように思われます。そのことを私たちはきちんと認識することが必要であろうかと思います。
以上のようなことが言えるとするならば、極東有事を前提とする有事立法論議も決してアジアの緊張を緩和する働きをするものではないことが留意されるべきであろうと考えます。
例えば、有事立法論議の一環として邦人救出ということが論じられておりますけれども、一体どうして
自衛隊の
航空機や艦船がその際出動しなければならないのでしょうか。かつて在外邦人保護を名目として侵略
戦争を拡大していった歴史を私たちは忘れるべきではないだろうと考えます。同時に、有事立法ということで論じられるものの中には
国民の人権を制限するものが少なくないことも留意されるべきであろうと考えます。そうであれば、なおさら
日本としてはそして国会におかれましては、有事立法を考えるよりもむしろ極東有事を起こさないようにするためには
日本としては何をなすべきかを真剣に考えるべきだと私は考えます。
さて、
日本が
アジア諸国に対してなすべきことの第一は、かつての侵略
戦争に対する補償をまず誠実に履行することであると私は考えます。それを
政府の
責任で行うことが
アジア諸国からの不信感を取り除き、
アジア諸国との平和的な友好関係を築くための大前提であると考えます。
政府は、戦後補償問題は対日平和条約等で法的に決着がついたとしておりますけれども、しかし、例えばいわゆる従軍慰安婦問題について言えば、対日平和条約や日韓協定などが締結された時点におきましては、まだその問題は明るみには出ていなかった問題でございます。このような問題について
政府が新たな対処を行うことは、何ら平和条約や日韓協定などに矛盾するものではございません。
従軍慰安婦問題については、御承知のように先ごろの国連人権委員会でも取り上げられ、
日本に対する
国家補償を求めた人権委員会の特別
報告者の
報告を歓迎する旨の採択がなされております。いわゆる民間基金では不十分であると思います。
政府の
責任で誠実に対処することが
日本が
アジア諸国との間で信頼関係を確立する上での大前提であると考えます。
次に、アジアにおける平和と安定を確立する上で重要なことは、言うまでもないことですけれどもアジアにおける軍縮を促進することです。冷戦崩壊後、ヨーロッパでは軍縮が少しずつではありますけれども進行しておりますが、残念ながらアジアでは現在のところそのような方向には向かっておりません。しかし、その
責任の一端は私は
日本にもあるというふうに考えております。なぜならば、
日本はアジアで最高額の軍事支出を行っており、その額は冷戦終えん後も減っていないからでございます。
ちなみに、ミリタリー・バランスの一九九五年ないし一九九六年度版を見てみますと、
日本の一九九四年度の軍事費は、中国のそれを上回ることはもちろん、ASEAN八カ国全体の軍事費の三倍強にもなっております。しかも、同じミリタリー・バランスの記述によれば、現在では
日本の防衛関係費は
米国以外のどの国よりもかなり多いものになっている、そのように書かれております。このように世界第二位と書かれるような不名誉な軍事支出を行っている
日本がまず徹底的な軍縮を行い、それとあわせて中国やASEAN諸国にも軍縮を呼びかけることをしなければ、アジアにおける軍縮は始まらないと思います。この点での
日本の、そして国会の
責任は極めて重大であると私は考えております。
そして、そのような軍縮のための努力を行うと同時に、
戦争を起こさないようにするためには、
アジア諸国間で不戦条約を結ぶことも真剣に考えるべきだと私は考えます。ヨーロッパにおける平和確立のために全欧安保
協力会議が果たした
役割は大きいと思いますが、御承知のように全欧安保
協力会議は一九九〇年に不戦条約を締結いたしました。アジアにおいても同種の不戦条約を締結すべく
日本が努力をすることが、アジアにおける平和と安定のために重要だと考えます。
アジアにおける平和的安定のためにさらに必要なことは、アジアを非核化するための努力を行うことだと思います。まことに残念ながら、この点での
日本の取り組みは、初の被爆国であるにもかかわらず、ASEAN諸国に比べても立ちおくれております。これでは広島や長崎で原爆の犠牲になった
方々に対して言いわけする言葉もないのではないかと私は考えます。
御承知のように、ASEANでは昨年の暮れに非核地帯条約が調印されました。非核地帯条約としては既に、中南米にはトラテロルコ、また南太平洋にはラロトンガ条約がありますが、ASEANの非核地帯条約は、それと相前後して採択されたアフリカの非核地帯条約と並んで、地球の非核化を推進する上で極めて意義があるというふうに思われます。
日本としても、このASEANの非核地帯条約に加入することを考えるか、あるいはそうでなかったならば、北東アジアにおける非核地帯のための条約をつくるべく韓国などの近隣諸国に対して積極的な働きかけを行うことを真剣に考えるべきであろうと私は考えます。そしてそれとともに、
日本国内においてまず非核法を制定して、
日本が非核
国家の道を進むことを明確に内外に示すとともに、核開発疑惑が起きないようにすることがぜひとも必要だと考えます。
非核法の制定に対しては、
日本は非核三原則を国是としているからその必要はないというのが従来の
政府の見解でございますけれども、しかしながら非核三原則は法的な拘束力がございませんし、これに違反した者に対する制裁規定もありません。また、非核三原則をとると言いながら、
アメリカの核抑止力論に依存するということでは、フランスや中国などの核実験に反対する力も非常に弱いものになります。諸外国から
日本に対して抱かれている核開発疑惑を取り除くためにも、今、非核法を制定して、あわせて非核条約の締結のための外交努力を真摯に行い、非核の家・アジアをつくることがアジア地域における平和的な安定のためにぜひとも必要なことであろうと私は考えております。
なお、お手元に
参考資料として配付いたしましたのは、私も所属しております市民団体で二年前に作成いたしました非核法の試案と非核条約の構想でございます。もちろん、立法については素人の人間がつくったものでございますのでいろんな点で不十分なものであると思います。私たちは現在、非核法の制定や非核条約の締結を実現するために国
会議員の先生方にも働きかけをしております。国会におかれましても、ぜひともきちんとした非核法をつくっていただき、そして
政府がきちんとした非核条約をつくるように働きかけていただきたいというふうに考えます。そして、きょう御
出席の先生方におかれましても、ぜひともそのための御尽力を積極的にいただけますように、この機会をおかりして心から
お願い申し上げる次第でございます。
ところで、アジア地域において
武力紛争を回避し、平和を確立するためには、さらにその紛争の根源となるものを取り除くための努力をすることもまた欠かせないと思います。そのためには、アジアにおいて貧困と差別をなくし、人権を保障する体制を確立することがぜひとも必要であると思います。そして、そのための努力を積極的に行うことは、
憲法の前文が「われらは、全世界の
国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する
権利を有することを確認する。」とうたつていることにもかなっていると思います。
経済協力の問題については、既にこの
調査会におかれましては大変詳しい御審議をしてこられ、そして具体的な提言もしておられますので、専門外の私があえてここで申し上げることは省略させていただきたいというふうに考えます。
ここではひとつ、アジアにおける人権保障機構あるいは人権憲章のいわば締結の問題について、時間が参りましたけれども、一言だけ申し上げさせていただきたいと思います。
御承知のように、世界人権宣言は、人権の保障が世界における平和の基礎であるということをその前文で述べております。そして、ヨーロッパにおきましては、一九五〇年の欧州人権条約といったものがヨーロッパの平和のために少なからざる
役割を果たしてきたとされております。また、一九七五年には全欧安保
協力会議がいわゆるヘルシンキ宣言を採択いたしまして、そこでも人権と基本的自由の尊重をうたっております。
アジア地域においては、人種的にも宗教的にもさまざまに異なった国々があり、価値観も一様ではありませんので、
一つにまとまった人権憲章や人権保障機構をつくることはなかなか難しいということが指摘されております。確かに現状においてはそのとおりだとは思いますけれども、そのように困難だからこそ、アジアの中で比較的早く人権保障の考え方を取り入れた
日本が、率先してアジアにおける人権保障の機構をつくるべく努力することが重要だと私は考えます。
アジアのNGOなどの中には、具体的にアジア人権憲章のドラフトをつくってこの運動を進めておるNGOもございます。そういった内外のNGOとも
協力をしながらアジアにおける人権憲章づくりのための努力を行うことが、ひいてはアジアにおける平和と安定を確立する上で非常に重要な意味があると私は考えております。
最後でございますけれども、結論的に申し上げますと、
日本としては、あくまでも平和
憲法の理念を踏まえてアジア地域の平和の維持、確立に努力すべきであるということでございます。非軍事を基本として
日本が行うべきことは多々あると思います。いたずらに有事を想定した論議を行い危機感をあおるのではなく、有事が起きないようにするためにはどうすればよいかを今こそ冷静に考えることが重要だと思います。
以上でございます。どうもありがとうございました。