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参考人(浅井
基文君) 浅井でございます。よろしくお願いいたします。
お手元にございますレジュメに従いまして私の
考え方を申し述べさせていただきたいと思います。私は、単刀直入に日米安保再定義路線が
日本のとるべき道であるかという問題点に絞って
意見を申し上げたいと思います。
午前の段階で新
防衛計画
大綱についての
防衛庁からの御
説明があったと伺っておりますが、私の理解では、また、そしてそれは誤っていないと思いますが、新
防衛計画の
大綱というのはまさに日米安保再定義の
日本側の受け皿であるということだと思いますので、その日米安保再定義の
中身を検討するということが、ひいては
日本の
防衛政策、安保政策の
あり方に対する私たちの
考え方に対して視点を与えるのだろうというふうに考えております。
まず、私がきょう申し上げたいことを一のところでまとめておきました。
一つは基本
認識、
安全保障の問題を考える上での基本的な
認識でございまして、そもそも
日本の安全、平和ということが
アジア太平洋地域の安全、平和というものとどういうかかわりに立つのであろうかということを、常識の次元に属するはずでございますけれども、ともするとそういう常識が通用しない状況がありますので、確認しておきたいということでございます。
二番目に、日米安保再定義路線の
一つの脅威
認識。ただいまも志方先生から脅威の問題についても御言及がございましたが、私は今の日米安保再定義路線において特に注目されているのが
中国、それから朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮と理解しておりまして、それが本当に脅威なのかという点を考えてみたいと思います。
三番目が、アメリカの戦略の本質といいますか、アメリカがどういうことを考えようとしているのかということについて問題意識を整理したいということでございます。
四番目が、よく脱冷戦あるいはポスト冷戦と言われますけれども、ソ連がこけてしまった後の新しい状況のもとでの国際
関係の
あり方をどのように私たちは考えるべきなのか。そこにおいて、従来冷戦が支配していた時代に常識的に理解されていた力による平和という
考え方が今後も妥当であるのかという問題であります。
そして最後に、時間があればでございますけれども、そういう問題意識の中で
日本が本当に有効な答えを出そうとしているのかということを考えるときに、私は極めて国民レベルでの議論が不十分であるというふうに思います。そして、その原因は、国民に対して十分な
情報が与えられていないというところに最大の問題があると思うわけでございまして、その点を考えてみたい。ただ、時間がございませんので、その点は後の議論の中で改めて御
説明することになるかもしれません。
さて、基本
認識でございますけれども、
日本の安全、平和と
アジア太平洋地域の安全、平和というこの
二つの
要素がどのようにかかわり合うのかということでございますが、私におきましては、非常に常識的なことは、
アジア太平洋諸国との友好
関係を前提としない
日本の長期にわたる平和と安全ということは考えようもないではないかということでございます。
そうしたときに、特に
アジア太平洋諸国にとっての
日本の価値ということは、まさに
アジア太平洋地域の、先ほども志方先生がお話しになりましたように目覚ましい経済躍進がございまして、その経済躍進の根拠となっているのはやはり
日本でございます。その
日本に対して一体どこの国が好きこのんでけんかを吹っかけてくるのかという問題を考えるときに、私はそういうことはまずあり得ないということだと思うのです。
しかし、それに対してそうではない
可能性が出てくる。そういう
可能性が出てくるのはどういうときかといえば、それはまさにそれらの国々が
日本から脅威を感じるときであろう。私たちが近隣諸国から脅威を感じるときではなくて、近隣諸国が
日本から脅威を感じるとき、そのときがまさに危機が出てくるときであろうというふうに考えるわけであります。
そうするときに、その
アジア太平洋諸国が
日本に脅威を感じるとすればどういう場合であろうかということを考えたいと思うわけでありますが、これも志方先生のお話に含まれておりますように、通常、脅威というものには
二つの
要素がある。意図と能力という形で
説明されるわけでございますが、そうした場合に、
アジア太平洋諸国が
日本に対して脅威を感じるというその根拠が明らかに存在し得るというところが私は問題であろうと思っております。
一つは、戦争責任を直視しない
日本、その
日本が一体将来において
国際社会とどうかかわり合うのかという、その意図に対して非常に不安感があるということであります。この点は、昨年の
国会における不戦決議の扱いをめぐっての状況に対して近隣諸国が示した反応に非常に明らかに出ております。
もう一言加えさせていただくならば、これは単に近隣諸国のみの
日本に対する不安感だけではございません。不戦決議の扱い、そしてその
中身、でき上がった
中身に対しては、私が承知しているだけでもアメリカ、イギリスなどの有力紙においてこぞって
日本の戦争責任を見据えない態度に対する異常な警戒感、不信の念、気持ちが非常に露骨に表明されているということを私は強調したいと思います。
それから、もう
一つの能力の問題でございますけれども、これは国際軍事筋の方の間では常識でございますけれども、
日本が短時日で軍事大国になる、特に核軍事大国になる能力を持っているということは一般的に受け入れられていることであります。
例えば、北朝鮮のいわゆる核疑惑に際しましても、アメリカが北朝鮮の核開発を躍起になってとめようとした
一つの動機は、そういう北朝鮮の核開発ということが現実化してくること、したがって
朝鮮半島が核半島になるということが
日本の核武装への誘因になるという判断があったということは、例えばクリストファー国務長官あるいはペリー国防長官、この発言をしたときはまだ国防次官でございましたけれども、それらの発言にも非常にくっきりと浮かび上がっておりました。
あるいは
日本がプルトニウムを大量に蓄積するということについても、
国際社会では非常な疑惑の目を持って見詰められているということも何ら秘密ではありません。
あるいは、最近「もんじゅ」の事故がございましたときに、その「もんじゅ」の事故の原因をひた隠しにしようとしたということについても、私の見る限り二、三の報道におきまして、分析におきまして、一体なぜそんなことを隠すんだというところから、やはり
日本の意図に対する不信感というものが表明されるということがございます。
あるいは運搬手段。ミサイルについても、例えば
日本が種子島から静止衛星を打ち上げるということに成功いたしますと、それに対してBBC放送が、これによって
日本は運搬手段の開発を完成したというふうに解説を加えるという状況がございます。
このように、
日本が短時日で核ミサイル大国になれる、なるということは、私たちの主観的な判断、気持ちはともかくとしまして、少なくとも国際的には非常に現実性を持った
可能性として考えられているということでございます。このように、
アジア太平洋諸国から見ますと、
日本に対して脅威を感じるべき客観的な条件が備わっているということを私たちは心に銘記すべきではないかと思います。
次に、日米安保再定義におきまして特に取り上げられているのが北朝鮮であり、あるいは
中国だと思います。
私の手元に沖縄タイムスが報じました日米安保共同宣言案全文というのがございますけれども、この比較的短い文章の中でも朝鮮民主主義人民共和国に関する言及が三カ所において行われている、あるいは
中国についても一カ所で行われているということがございます。そして、そのほかに内外のいろいろな分析あるいはシンポジウムでの日米
関係者の発言などを見ておりますと、明らかに北朝鮮と
中国を脅威とみなすことにおいて日米安保再定義の
一つの大きな
内容がつくり上げられようとしていることは間違いのないところであろうというふうに思います。そこで、私たちは本当に
中国、北朝鮮は脅威なのかということを考える必要があると思います。
一つ私が不思議に、不思議といいますか、非常に奇妙に思ったことからお話し申し上げますと、そこにございますように、北朝鮮脅威論と
中国脅威論の自己矛盾といいますか、非常に
中身的にちぐはぐしているという
要素であります。
例えば、北朝鮮のいわゆるノドンあるいは核開発ということに対しては、ノドンを開発してそこに核弾頭を乗っければ
日本は射程距離に入る、大変だというような形で北朝鮮の脅威をあおる。他方で
中国につきましては、先ほども志方先生のお話にございましたように、台湾が独立するときに
中国が武力行使をする、あるいは南シナ海だ云々と、そういうことで
中国が軍事行動に出る危険性に対して日米が
中心となった
アジア太平洋諸国の
軍事力によってその拡張主義を牽制する、抑え込むというふうに考えている。これは北朝鮮の核ミサイルがそもそも実体があるのかということを無視して非常にその脅威をあおるのに対して、
中国の核ミサイル攻撃能力というのは本物でありまして、これに対しては今度は逆にそれを抑え込むんだという発想になる。これはどう見ても私にとっては理解できない話であります。
そういうふうに明らかに
日本における
中国、北朝鮮の脅威という問題についての議論には無理があるということが私のそもそもの出発点であります。
次に、そういう
中国、北朝鮮が確かに
軍事力をせっせと蓄えていることは間違いない。しかし、それはどういうときに彼らはその
軍事力を行使する
可能性が出てくるのかということでありますが、それは私、そこに書きましたように、例えば
中国の場合であれば、先ほど志方先生も御紹介になりました台湾独立というケースであろうと思います。しかも、台湾独立というその
動きは、明らかにアメリカの議会筋あるいは
日本国内の支持を
背景にして勢いを得ているという状況がございまして、したがって
中国からすれば、台湾が独立をするということは明らかにその
背景に日米ありということに
認識するに違いない。また、その
認識は私は間違っていないと思うわけであります。
そうしたときに
中国は何も行動しないとなったならば、
中国人のナショナリズム感情からいって恐らく政権はもたないということになります。もちろん、私も日米対
中国の軍事衝突、激突の
事態をぜひとも見たくはないわけでありますけれども、私たちは
中国の意図、決意というものを決して軽視してはいけない。
しかし、ここで重要なことは、
中国は好きこのんで武力行使に訴えようとしているのではない。明らかに原因がある。その原因は日米によって支持された台湾独立の
動きである。原因は我々にあるということを私たちは銘記すべきだと思いますし、その原因をつくらないようにすることが私たちがその武力衝突を招かない上での当然の義務であるし、
考え方であろうというふうに思います。
あるいは北朝鮮でございますけれども、窮鼠猫をかむと申しましたけれども、私がよくいろんな草の根の集会で申し上げることは、日米韓対北朝鮮ということを考えた場合に、これは要するに巨象三頭とネズミ一匹の戦いである。ネズミがどうして巨象についてかみつくのかということでありまして、これはもう本当にぎりぎりにその窮鼠を壁際にまで追いやって、ほかに方法がないというようなときにしか私は北朝鮮としては自暴自棄になるということは考えにくいということであります。
一部には、金正日はわけのわからない男だからという説もございますけれども、皮肉な言い方をあえて許していただければ、金正日は、日米開戦を
清水の舞台から飛びおりろと言った某指導者よりははるかに現実
認識を持っているというふうに私は思います。
次に、アメリカの戦略は
アジア太平洋の平和と安全を保障するかということでございまして、アメリカの戦略について私たちがどう考えるのかということでございます。
この点はもう皆様先刻御承知のとおりでございまして、アメリカの戦略の出発点にある
要素は、特にクリントン政権になりましてから非常に国益を重視するという姿勢を前面に打ち出しております。ただ、その自分たちの国益を実現することが世界の利益にも合致するというおよそ実証的に検証されない論断を彼らはすることによって、自分の立場を、みずからの国益すなわち世界の国益、世界の利益というふうに言っているにすぎないと思います。そういうアメリカの
アジア太平洋に対する戦略、
アジア太平洋におけるみずからの経済的、軍事的プレゼンスを維持しようという姿勢は非常に牢固たるものがある。
その場合に、アメリカの
中心的な
要素はあくまで二国間同盟
協力体制であります。よく最近マルチの安保
対話とかそういうことによって日米安保に代位していくというような議論がございますけれども、少なくともアメリカ側の文献を冷静に読む限り、アメリカにとって常に二国間同盟体制が
中心的な地位に座っておって、マルチの形式はあくまで補助的なものであるというふうに位置づけております。
これは非常に理由があることでございまして、そこにちょっとわけのわからない書き方をしておりますけれども、要するに今のアメリカは、
アジア太平洋諸国の利害
関係が非常に錯綜している、そしてその錯綜している中で、アメリカと
日本、アメリカと
中国、アメリカと
韓国、アメリカとベトナム、そういうふうにバイの
関係を
構築するということによって、そういう錯綜する利害の衝突、潜在的な対立を固定化するということに非常な利益を見出しているということだと私は判断しております。
そういう立場からいたしますと、マルチのフォーラムなどをつくっていわゆる
アジア太平洋における共通な利害、共通な方向性を追求するということは、アメリカにとって合従連衡あるいはいろいろな対立構造の固定化によって得られる利益が喪失するわけでございまして、今のアメリカの指導者においてはそういう方向性は決して積極的に評価されていないということがあると思いすす。
特に、
日米安保体制を考えますと、この安保体制というのはアメリカにとって非常に矛盾した、しかしアメリカにとってはその矛盾が非常に意味のある
中身を持っているということであります。一方においてアメリカは、
日本に対してアメリナの戦略、戦力を補完する海外派兵体制を
構築すスことを迫っている。まさに日米安保再定義の本質的な意味、最も根本的な意味はそこにあるだろうと思います。そして、そうしながら他の
アジア太平洋諸国に対しては、その
日本をアメリカが
日米安保体制によって抑え込む、いわゆる俗に言う瓶のふた論でございますけれども、瓶のふたになるんだから、したがって
日本に対する不安感は日米安保がある限り大丈夫であるというふうに言うことになる。
しかし、先ほど志方先生は、そういう日米安保に対して
中国も理解しているというふうにおっしゃったわけでございますが、私が理解している限り、最近の
中国は、そういう瓶のふたとしての日米安保の意味よりも、先ほどの台湾海峡の問題に示されましたように、
日米安保体制によってまさに
中国に対して敵対するという日米安保の性格の方が重視されるようになっているということを私は強調せざるを得ません。
そういうところにおいて、先ほどの話に戻るわけでありますが、どこまで私たちは本当に
中国と軍事的に対決するのかということを考える、そうした場合に、冒頭の
日本の安全、平和と
アジア太平洋地域の安全、平和というその根本
認識にもかかわるわけでありますが、
中国との対立を固定化するようなそういう日米安保再定義路線というのが本当に
日本の平和と安全に役立つものであろうかということについて、私は決してそうではないというふうに考えざるを得ないわけであります。もう
一つ最後に、「「力による平和」路線に希望はあるか?」ということでございますが、これは今までのまとめにもなりますけれども、この力による平和路線に潜む問題点というのは、そこで書きましたように、対
中国軍事対決、対北朝鮮軍事対決ということでどうして
アジア太平洋地域の平和と繁栄を展望できるであろうかということでございます。
例えば北朝鮮に対して、抑え込むということ々私たちは当たり前のように思いますけれども、しかし本当に窮鼠になった場合の北朝鮮は、何も核兵器を持たなくても、例えば
日本海沿岸に密集している原子力発電所に対して特攻攻撃をするというようなことだってあり得るわけです。北朝鮮の窮鼠猫をかむの勢いを全く軽視して、ただ国内における
軍事力増強、日米安保再定義に対する国民の理解を深めるために北朝鮮脅威論をあおるというのは、私は非常に危険な話であろうというふうに思います。
あるいは
中国でございますけれども、
中国は本当に、先ほどのお話の繰り返しですから簡単にいたしますけれども、私たちが台湾問題について処理を誤らなければ何も
中国との軍事対決ということは起こり得ないということでございまして、やはり私たちにその原因があるんだということを踏まえたいということであります。
もう
一つつけ加えたいことは、先ほども申しましたように、戦争責任を反省しない、あるいは戦争責任を直視しない
日本が本当に
国際社会において信頼できる。パートナーとみなされ得るであろうかということであります。私は、この点でアメリカ国内に実はそういう
日本、戦争責任を直視しない
日本に対する警戒感が増大しているということについて、皆様に深刻に考えていただく価値のある
要素があるのではないかということを申し上げたいと思います。
そして、もう
一つ申し上げたい点は、そのように力による平和路線というのは私は非常に未来がない、展望がないと思うわけでございますけれども、逆に力によらない平和路線をとる
日本というのは非常に大きな
可能性を持っているのではないかというふうに思います。私は、
日本は紛れもない大国であるというふうに思うわけでございまして、その
日本が
国際社会と一切かかわりを持たないということはあり得ないというふうに感じております。しかし、その
日本が、軍事的に
国際社会にかかわるのか、あるいは戦争責任を直視し、みずからは軍事的にはかたく手を縛る国として
国際社会にかかわるかによって、
国際社会の
日本に対するイメージ、受けとめ方はまるっきり違ったものになるであろうというふうに思います。
こういう点で、
日本が第九条を実践するという方向をとることが、単に
アジア太平洋諸国、
日本の侵略、植民地支配を受けた近隣諸国のみならず、アメリカ、そして広くは世界、
国際社会全般に対して脅威にならない
日本ということになって非常な安心感を与える、これこそが私は
日本の進むべき道であろうと思うわけであります。
その場合に、先ほども申し上げましたように、脅威にならない
日本に対してどこの国が一体攻撃するメリットを感じるのかということをもう一度考えていただきたいと思います。
そして、しかも私たちの憲法前文におきましては、非常に
国際社会に対して積極的にかかわり合う、まさに積極的な平和主義の立場が非常に生き生きと書かれておる。世界のグローバルイシューズと言われるもろもろの
課題に対して、驚くべきほどに先見性を持って一九四七年にできた憲法が道筋を示している。それについて私たちは、九条も含めてでございますけれども、一度としてその指し示す道を実践しようとしなかったではないか。だから、憲法は古臭くなったのではない、第九条は古臭くなったのではない、全然実践されもしないで蔵の中にはうり込まれてしまったのだということをやはり私は考えていただきたいと思います。
そういうときに、米ソの非常な重苦しい対決がなくなった現在、本当に、過去のことは問わないとしても、今のこの
国際情勢のもとで
日本が平和憲法そして九条を実践する非常に豊かな現実的
可能性があるのではないかということを思いますし、そういうことから申しますと、そういう九条に風穴をあける安保再定義路線というのは私は決して
日本がとるべき道ではないだろうというふうに思います。
6の「国民に十分な
情報提供が行われているか?」について、簡単に申し上げます。
以前、私自身、外務省で二十五年間仕事をしていた感想を反省を込めて申し上げるのでございますけれども、
日本における
安全保障政策についての議論というのは、もう常に一貫して極めて不透明であり、国民に対して不誠実であったというふうに非常に自戒の念を込めて申し上げざるを得更せん。
その典型例をそこに
幾つか出しておきましたけれども、非核三原則を言いながら核を持ち込ませる、密約を行う、もちろん
政府はそれを否定いたしますけれども、非常に状況証拠としては限りなくクロに近い状況がある。
それから、事前協議として、
日本からの作戦行動については事前協議の
対象となるとすれば、例えばベトナム戦争あるいはこのたびの湾岸戦争に見られましたように、
日本の基地からの戦闘作戦行動ではないという言い抜けによって、実際には
日本の基地を軍事的に一〇〇%利用するということが横行する。
あるいは地位協定上は
日本に全然負担する義務のない、思いやり
予算と称してアメリカに対して米兵一人当たり千四百万円になんなんとする金額、世界に類を見ないそういう
予算を国民の税金をもってつけるということをやる。
それから、これは私も前国防次官補のナイの文書の中で見てびっくりしたんですけれども、例えば七八年にできました
日米防衛協力の
指針というのは、アメリカ側の理解においては日米安保条約と並び立つ公的な文書として理解されている。我が
日本におきましては、
日米防衛協力の
指針というのは単なる日米当局の間の了解事項とされているわけでありますが、しかしアメリカ側の文書によりますと、日米安保条約及び
日米防衛協力の
指針に基づくその後の日米
協力によって他の追随を許さない日米海軍
協力体制ができ上がっている。これはナイの発言であります。そういうことが私たちには何ら知らされていない。
そしてまた、最後になりますが、日米安保再定義については、この日米安保共同宣言案の全文、今後変わるかもしれませんけれども、沖縄タイムスの報道によりますと、例えば日米安保の新しい今日的な意味というのは、二国間の
防衛と同時に、
アジア太平洋地域及び世界の
安全保障の基礎をなす
役割と書かれている。これに対して新
防衛計画
大綱におきましては、大
規模な
災害等への
対応、
国際平和協力業務の実施。これがまさに日米安保再定義に表現された
アジア太平洋及び世界の
安全保障の基礎をなす
役割というものに
対応する言葉である。
一体これはどういう表現なのかということを私は本当に疑わざるを得ない。なぜそこまでそういうぼかした言い方にしかできないのか、なぜそんなことなのか。そういうときに私が考えますのは、こういうもろもろのこれまでの問題点を考えたときに、どうして
日本の政治は国民に対して正直になれないのかということを本当に深刻に考え込まざるを得ない。
そうしたときに、やはり
日本の国民の意思をそのまま反映したのではアメリカと激突になってしまうとか、アメリカの理解を得られないとか、アメリカあっての
日本だというようなことが言われますけれども、しかしアメリカは、みずから称して正真正銘の世界における民主主義の旗手として立っている国であるはずであります。そういう国に対して、私たち
日本国民に対してうそを言うような政治によって、うそを言うというのは語弊があるかもしれませんが、本当のこと言わないことによって引っ張っていく、そんな日米
関係であってどうして長持ちするのかということを私は考えざるを得ない。
あるいはよく言われることは、本当のことを国民に言ったらパニックが起きてしまう、そうしたら大変だろうということであります。例えば
朝鮮半島、あの北朝鮮の核疑惑の際にも日米韓の間で非常に緊密な協議が行われ、
日本の
防衛出動とか後方支援ということが話し合われていたのにもかかわらず、そういうことは国民に一切知らされない。そういうことを話したら本当に憲法とのかかわりでどういうふうになるかわからない、そんなことをやったら本当にパニックが起きるということを私は二、三の方から、ここの永田町におられる方からもお聞きしておりますけれども、パニックが起きるようなことを本当に国民に対して黙ってやっていいのか、一体主権者はだれなんだということを私は訴えたい。
最後には結局、国民が本当のことを知ってパニックになったら何をしてかすかわからない、だからそういう国民に対しては知らしむべからずよらしむべしであるというふうに
国会の方においてお考えになっているとすれば、私は、それは民主主義というものをどのようにお考えになっているのかということを本当に正面から問いたいという気持ちになります。
そういうことで、この日米安保再定義、そして新
防衛計画の
大綱という文書が出てきたときに、一体
日本の政治は何をしようとしているのかということについて本当に国民に対して正直に
説明し、国民の判断を求める、十分な
資料も提供する、そして議論を尽くした上での判断を決定する、進路を決めるという方向にぜひとも
国会がリーダーシップを持って行政の側をリードしていただきたいと思っております。
ありがとうございました。