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1996-05-08 第136回国会 衆議院 厚生委員会 第13号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成八年五月八日(水曜日)     午前九時五十一分開議 出席委員   委員長 和田 貞夫君    理事 衛藤 晟一君 理事 木村 義雄君    理事 鈴木 俊一君 理事 青山 二三君    理事 石田 祝稔君 理事 柳田  稔君    理事 横光 克彦君 理事 荒井  聰君       伊吹 文明君    狩野  勝君       熊代 昭彦君    近藤 鉄雄君       田中眞紀子君    竹内 黎一君       戸井田三郎君    長勢 甚遠君       根本  匠君    堀之内久男君       持永 和見君    保岡 興治君       粟屋 敏信君    上田  勇君       大野由利子君    鴨下 一郎君       北村 直人君    久保 哲司君       斉藤 鉄夫君    坂口  力君       高市 早苗君    山本 孝史君       五島 正規君    田邊  誠君       森井 忠良君    枝野 幸男君       岩佐 恵美君    土肥 隆一君  出席国務大臣        厚 生 大 臣  菅  直人君  出席政府委員        厚生大臣官房長  山口 剛彦君        厚生省年金局長  近藤純五郎君  委員外出席者        参  考  人         元厚生省後         天性免疫不         全症候群の         実態把握に         関する研究         分担研究者         元厚生省血         液製剤小委         員会委員    徳永 栄一君        参  考  人         元厚生省後         天性免疫不         全症候群の         実態把握に         関する研究         分担研究者   塩川 優一君         厚生委員会調査         室長      市川  喬君     ――――――――――――― 委員の異動 五月八日  辞任        補欠選任   赤松 正雄君    坂口  力君   福島  豊君    斉藤 鉄夫君   桝屋 敬悟君    上田  勇君 同日  辞任        補欠選任   上田  勇君    桝屋 敬悟君   斉藤 鉄夫君    福島  豊君   坂口  力君    赤松 正雄君     ――――――――――――― 四月二十五日  厚生年金保険法等の一部を改正する法律案(内  閣提出第七五号) 同月二十六日  医薬品副作用被害救済研究振興調査機構法の  一部を改正する法律案内閣提出第四三号) 同月二十五日  重度心身障害者とその両親またはその介護者及  び寝たきり老人とその介護者が同居入所可能な  社会福祉施設実現化に関する請願野坂浩賢  君紹介)(第二〇四八号)  男性介護人に関する請願野坂浩賢紹介)(  第二〇四九号)  国立病院療養所充実に関する請願倉田栄  喜君紹介)(第二〇五〇号)  同(辻一彦紹介)(第二〇五一号)  同(永井哲男紹介)(第二〇五二号)  同(加藤万吉紹介)(第二〇九一号)  同(佐藤泰介紹介)(第二〇九二号)  同(永井哲男紹介)(第二〇九三号)  同(永井哲男紹介)(第二一三一号)  同(東中光雄紹介)(第二一三二号)  同(不破哲三紹介)(第二一三三号)  同(矢島恒夫紹介)(第二一三四号)  同(吉井英勝紹介)(第二一三五号)  同(永井哲男紹介)(第二一五七号)  同(永井哲男紹介)(第二一七六号)  同(永井哲男紹介)(第二二〇九号)  腎疾患総合対策早期確立に関する請願(網岡  雄君紹介)(第二〇五三号)  同(石橋大吉紹介)(第二〇五四号)  同(園田博之紹介)(第二〇五五号)  同(早川勝紹介)(第二〇五六号)  同(林義郎紹介)(第二〇五七号)  同(桝屋敬悟紹介)(第二〇五八号)  同(持永和見紹介)(第二〇五九号)  同(山崎泉紹介)(第二〇六〇号)  同(森田一紹介)(第二〇九四号)  同(森本晃司紹介)(第二〇九五号)  同(上原康助紹介)(第二一三七号)  同(土肥隆一紹介)(第二一三八号)  同(山崎泉紹介)(第二一三九号)  同(岩田順介紹介)(第二一五八号)  同(田中直紀紹介)(第二一五九号)  同(田中眞紀子紹介)(第二一六〇号)  同(山崎広太郎紹介)(第二一七七号)  同(山田英介紹介)(第二一七八号)  同(久保哲司紹介)(第二二一〇号)  老人を初めとする患者負担増大反対に関する  請願豊田潤多郎紹介)(第二一三六号)  国立療養所北海道第一病院存続充実に関す  る請願鉢呂吉雄紹介)(第二一六一号)  同外一件(金田誠一紹介)(第二二二号)  障害者介護施策拡充に関する請願土肥隆  一君紹介)(第二二〇七号)  同(山本孝史紹介)(第二二〇八号) は本委員会に付託された。     ――――――――――――― 四月二十六日  障害者小規模作業所に対する国庫補助金制度の  改善と充実に関する陳情書外一件  (第二四〇号)  福祉拡充と自治体への抜本的な財源保障等に  関する陳情書  (第二四一号)  公的介護保障確立等に関する陳情書外一件  (第二四二号)  被災視覚障害者救援等に関する陳情書  (第二四三  号)  国立登別病院存続及び特定疾患長期療養型施  設への機能転換に関する陳情書  (第二四  四号) は本委員会に参考送付された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  厚生年金保険法等の一部を改正する法律案(内  閣提出第七五号)  厚生関係基本施策に関する件(エイズ問題)      ――――◇―――――
  2. 和田貞夫

    和田委員長 これより会議を開きます。  内閣提出厚生年金保険法等の一部を改正する法律案議題といたします。  趣旨説明を聴取いたします。菅厚生大臣。     ―――――――――――――  厚生年金保険法等の一部を改正する法律案     〔本号末尾に掲載〕     ―――――――――――――
  3. 菅直人

    菅国務大臣 ただいま議題となりました厚生年金保険法等の一部を改正する法律案につきまして、その提案理由及び内容概要を御説明申し上げます。  公的年金制度の長期的安定と整合性ある発展を図るため、これまで逐次、全国民共通基礎年金制度の導入、被用者年金制度給付公平化等の改革を進めてきたところでありますが、今後二十一世紀にかけて我が国の人口構造が急速に高齢化する中、被用者年金制度を公平で安定したものとするためには、被用者年金制度を再編成し、財政単位を拡大するとともに、費用負担公平化を図ることが必要であります。  この法律案は、こうした状況を踏まえ、被用者年金制度の再編成の第一段階として、既に民営化されている旧公共企業体共済組合長期給付事業厚生年金保険統合するとともに、日本鉄道共済組合または日本たばこ産業共済組合組合員期間を有する者に係る年金給付に要する費用の一部に充てるため、年金保険者たる共済組合拠出金を納付する制度を創設すること等所要措置を講ずるものであります。  以下、この法律案の主な内容につきまして御説明申し上げます。  第一は、旧公共企業体共済組合長期給付事業厚生年金保険への統合であります。  統合後新たに受給権が発生する年金給付について厚生年金保険法による年金給付を行うとともに、統合時までに受給権が発生している年金給付について厚生年金保険から支給することとしております。また、これらの年金給付に要する費用に充てるため、積立金移換を行うとともに、年金保険者たる共済組合厚生年金保険に対して拠出金を納付することを法定することとしております。  第二は、国家公務員共済制度適用対象の見直しであります。  旧公共企業体国家公務員共済制度適用対象から除外し、厚生年金保険適用対象とするとともに、関係規定について所要の整理を行うこととしております。また、厚生年金保険に対する積立金移換恩給公務員期間等に係る給付等業務を行うため、旧公共企業体共済組合は、大蔵大臣が指定した厚生年金基金当該業務を行う場合を除き、なお存続することとしております。  このほか、旧公共企業体共済組合短期給付事業健康保険組合への移行、被用者年金制度間の費用負担の調整に関する特別措置法廃止等所要措置を講ずることとしております。  以上が、この法律案提案理由及びその内容概要であります。  何とぞ、慎重に御審議の上、速やかに御可決あらんことをお願い申し上げます。
  4. 和田貞夫

    和田委員長 これにて趣旨説明は終わりました。      ――――◇―――――
  5. 和田貞夫

    和田委員長 この際、申し上げます。  本日は、委員室での喫煙は御遠慮願いたいと存じます。  また、報道関係者方々にお願いいたします。傍聴人の撮影は御遠慮願いたいと存じます。  なお、傍聴人に申し上げます。御静粛に傍聴されるようお願いいたします。  以上、御協力をお願いいたしたいと存じます。     ―――――――――――――
  6. 和田貞夫

    和田委員長 厚生関係基本施策に関する件、特にエイズ問題について調査を進めます。  本日は、参考人として、午前、元厚生省後天性免疫不全症候群実態把握に関する研究分担研究者・元厚生省血液製剤小委員会委員徳永栄一君、午後、元厚生省後天性免疫不全症候群実態把握に関する研究分担研究者塩川優一君、以上両名の方々に御出席を願っております。  徳永参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。厚く御礼申し上げます。  議事の進め方といたしましては、初めに委員会を代表して委員長から総括的にお尋ねし、次いで委員質疑お答えをいただきたいと存じます。  なお、念のため申し上げますが、発言の際は委員長の許可を得ることになっております。また、参考人委員に対し質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。  まず、委員長から徳永参考人お尋ねいたします。  エイズ研究班報告書によれば、参考人は、当時の濃縮血液製剤に依存する治療体制を改め、クリオ製剤を活用すれば、国内献血による供給が十分可能であることを強調したとされていますが、なぜ研究班結論はこれと違うものになったのか、その理由を簡潔に述べていただきたいと思います。
  7. 徳永栄一

    徳永参考人 お答え申し上げます。  クリオ製剤によって、血液事業にさほどの支障はなく、第Ⅷ因子製剤供給が可能であるということは、赤十字全体の考えでございまして、これがどうして採用にならなかったかということは、後ほどいろいろな御質問があろうかと思いますけれども赤十字に対する、採血能力に対する不安とかいろいろな問題があったと存じます。私どもは、それを端的に受けとめて、要求されたことを処理していこうと考えただけでございます。
  8. 和田貞夫

    和田委員長 当時、厚生省日本赤十字社の間で国内献血の活用についての検討折衝が行われたように伺われますが、その結論を簡潔に述べてください。
  9. 徳永栄一

    徳永参考人 厚生省日本赤十字社との折衝ということは、私、出先の機関の長でございまして、直接には折衝担当者でございません。したがって、又聞きという段階にとどまりますけれども厚生省日本赤十字社本社とが、非公式ではございますけれども赤十字にできるだけ原料供給をしてくれというような要請があったと承っております。  以上です。
  10. 和田貞夫

    和田委員長 以上をもちまして、私からお尋ねすることは終わりました。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。鈴木俊一君。
  11. 鈴木俊一

    鈴木(俊)委員 自由民主党の鈴木俊一であります。  徳永先生には、きょう参考人として当委員会に御出席をいただきまして、大変ありがとうございます。  そこで、初めに、先生血液学専門家でいらっしゃるわけでありますが、先生専門外のことでありますけれどもエイズ研究班のあり方について、先生印象と申しますか、お考えについてお伺いをいたしたいと思います。  参考人は、昭和五十八年に設置をされましたいわゆるエイズ研究班と、それから血液製剤小委員会、双方に委員として参加をされたわけであります。薬害エイズの問題を考えますと、何としてもやはりこのエイズ研究班の役割というものが大変大きいわけでありまして、このエイズ研究班が果たしてこの問題にきちんと機能し得るような、そういうような存在であったのかどうかということに国民の疑問が集中しているような気がしてならないわけであります。  それは、例えば医学界のように限られた世界におきましては、その分野の権威者、それが特に恩師でありましたり先輩でありましたり、そういう、言葉がちょっと悪いのでありますけれども、まあボス的存在の方がおられますと、そうした特定の人の意見に反対できないような雰囲気とか傾向がありはしなかったか。あるいは、こういう研究班でございますから、本来、学問的な検討や結果がなされなければならないわけでありますが、そこに政治的な判断とか圧力がなかったかという疑問であります。  端的な例といたしまして、帝京大症例の認定問題につきまして、参議院の小委員会参考人質疑の中で、松田重三氏は、厚生省上層部等からの圧力があったことは想像にかたくない旨の発言がありました。もしこの発言が事実であるならば、エイズ研究班そのものに極めて重大な問題があったということになると思うのであります。  参考人は、血液事業の当事者として参加されたわけで、いわば血友病とエイズの問題につきましてはやや距離を置いた客観的な立場におられたと思うわけでありますけれどもエイズ研究班厚生省等から政治的な判断とか圧力を受けるような、そういうようなものであったのかどうか、参考人のお考えあるいは印象についてお伺いをいたしたいと思います。
  12. 徳永栄一

    徳永参考人 ただいまの御質問でございますが、最初に申し上げますけれども、私、血液学専門家ではございません。細かく申しますと、専門血清学でございます。そういう因縁で血液センターに奉職することになったわけでございます。  私、研究班に入れられました。人選をどなたがなさったか、私、存じませんけれども、個人として研究班に入れられたと考えておりますが、これは、エイズそのものについての知識があるわけでございませんので、文献上の知識だけですけれども、むしろ、これが血液と絡んできたときに血液事業はどう対処するかということを赤十字社として考えてほしいという御要望があったのだろうと思っております。  そして、お尋ねボス的存在ということに関しましては、実を申しますと、私、血液学専門でございませんので、大部分委員と直接の師弟関係とか上下関係というものはございません。したがって、私自身が、例えば委員から圧力を受けるといったようなことは一切ございませんでした。  また、厚生省との関係ということは、私どもには知らない部分で何があったかわかりませんけれども、私の感じましたところでは、直接に圧力を感じたという経験はございません。  以上です。
  13. 鈴木俊一

    鈴木(俊)委員 参考人の御自身の問題として、そういうことは一切なかった、こういうことでございますね。確認をさせていただきます。
  14. 徳永栄一

    徳永参考人 確かに、そういう圧力というものは一切感じたことはございません。
  15. 鈴木俊一

    鈴木(俊)委員 次に、当時の血液事業状況につきまして確認をさせていただきます。  昭和五十八年当時の献血血液量及びその利用につきましては、献血量は約百五十三万リットルであり、これによる製剤量は、それぞれ、手術時等に用いられる全血球製剤が三十八万リットル、貧血等に用いられる赤血球製剤が四十五万リットル、血小板減少症等に用いられる血小板製剤が四万リットル、重症肝疾患等に用いられる新鮮凍結血漿が三十八万リットルということでございますが、今回公表されましたいわゆる補佐ファイルの中に、当時の新鮮凍結血漿の四四%をクリオ製剤製造に回せば、当時必要とされていた凝固因子クリオ製剤で賄うことが可能であったというその試算が書面で含まれているわけであります。  そこで、先生お尋ねをいたしますが、当時必要とされた凝固因子クリオで賄う場合、製造に必要な血漿量は大体どの程度であったか、御認識をお伺いいたしたいと思います。
  16. 徳永栄一

    徳永参考人 日本での、第Ⅷ因子単位で申し上げますと、これは世界的なレベルとほぼ同じで、国民一人当たり一単位というような言い方を大ざっぱにされておりました。したがって、約一億単位の第Ⅷ因子製剤が一年間にあれば十分足りるということでございました。  そして、その第Ⅷ因子というものが、クリオにしましても濃縮製剤にしましても、製造ロスがございますので、一番ロスの少ないのがクリオ製剤だと思います。当時の私ども認識で、一〇〇%の収率ということはございませんので、恐らく六〇%前後かなと思っておりました。そうすると、一億単位製造するのに、二十万リットルは要りませんでしょう、約十六万リッターとか二十万リッターの間ぐらいでございましょうか、その程度血漿の量だったと考えております。  以上です。
  17. 鈴木俊一

    鈴木(俊)委員 参考人が今お答えになられましたけれども、必要な第Ⅷ因子製剤の量は単位にいたしまして約一億単位である、それから、それに必要とする血漿が約二十万からそれ以下あればクリオ製剤による国内自給が可能であったというようなお話を今いただいたわけであります。  それで、今回の問題を考えますと、クリオ復帰をするのか、それとも濃縮製剤でいくのか、これが大きなターニングポイントであったと思うわけであります。  クリオ復帰につきましては、確かにアレルギーの問題があるとか、点滴静脈注射をしなければいけないとか、粘性の問題で非常に家庭療法なんかできないとか、そういう薬が持っている本来の問題点というものがあるわけでありますが、それと同時に、そもそも、先ほど申された十八万から二十万リットルという必要な血漿を確保できたかどうかという点も判断の大きな要点であったと思うわけであります。  エイズ研究班の班長でありました安部英さんは、このことにつきまして、自分自身クリオをできるだけ使いたいけれどもクリオがないから仕方がない旨の発言を四月十九日の本厚生委員会参考人質疑で述べておられますが、徳永参考人は、平成五年四月二十二日の大阪地裁において、もしクリオでいいんだと言ったらいかようにもしたとの証言をなされておられるわけであります。お二人の認識はまさに正反対のものがあるわけでありまして、事実はどのような状況にあったのかということが重要な点であろうかと思います。  徳永参考人は、同証言の中で、「新鮮凍結血漿供給量というものが非常に増えて、二百換算五百万単位ぐらいいってたんじゃないかと思いますね。だからそこの部分にある程度手を加えない限り二十万リットルというものは出てこないんですよ。」と述べられております。  つまり、このことは、計算の上では二十万リットルの血漿クリオ製剤一〇〇%の自給が可能であっても、実際には、医療の現場で使用される新鮮凍結血漿凝固因子製剤原料に振り向けなければならないわけでありますから、何らかの手だてが必要である。そして、その手だてにつきましても、脱クリオ血漿というものをかませる、新鮮凍結血漿抑制クリオに回す、端的な場合は二十万リットル余計にとる、こういうことも同時に述べられているわけであります。  そこで、果たして、先生が述べられた、新鮮凍結血漿使用量を抑えてクリオに回すということは当時可能であったのかどうか、私は若干疑問に思う点があるのであります。  と申しますのは、手元の資料で調べたのでありますが、現在の新鮮凍結血漿使用量は四十万リットル程度であります。これは昭和六十一年に適正使用のガイドラインというものが出されまして、それまでどんどん使用量が伸びていたものがそれによって抑えられて、やっと四十万リットルに現在なっている。いわばこの数字使用量の、何というのでしょうか、相当抑えられた量であるわけであります。当時の使用量を調べてみますとやはり同程度であるということを考えますと、当時、新鮮凍結血漿使用量抑制してこれを凝固因子製剤製造のために用いるといっても、私は、実際はできなかったのではないか、困難ではなかったのかと思うわけであります。  そこで参考人に、当時、使用量抑制して凝固因子製剤製造に用いるということについてどのように考えていたのか、何か有効な手だてというものを検討されて方法があったのかどうか、お伺いをいたしたいと思います。
  18. 徳永栄一

    徳永参考人 ただいま原料血漿について幾つかの方法があったということをおっしゃいました。私ども、ある一つ方法だけに限って原料を足らそうというふうには考えてはおりませんでした。ただ新鮮凍結血漿使用量を減らせばというのは、これは一つ考えでございまして、そのほかに採血数をふやすということもありましょうし、いろいろな方策を組み合わせて足らせるように努力すべきだと考えたわけでございます。  ただ、安部先生の言われた赤十字製造能力が低いから云々ということは当たらないと思っております。  御承知のように、クリオ年間供給量というのは一万前後、どんどん下がっておりました。一万単位じゃございません。本数ですから、その百倍ということになりますけれども、これは製造能力を示すものではございません。一回、赤十字年間の統計というのが毎年出ます。先ほどお示しいただいた昭和五十八年の数字というものも、これは確かに年間そのとおりでございますけれども、これは血液センターというものが全国に七十カ所あって、日々悪戦苦闘して、日々の量を足らせるために努力いたします。その一年間の集計がそうなったというだけのことでございまして、クリオがなぜ少なかったかというのは、端的に申せば、オーダーがなかったということに尽きます。決して製造能力を示すものではございませんし、いまだかつて赤十字社製造能力の表というものを出したことはないと考えております。  ですから、いろいろな方法を組み合わせれば、クリオでなら何とかなるであろうし、ならなければならないというのは、世界じゅうそうやっていたわけですから、当然、これだけ進んだ日本血液事業でそれができないということは言えないということでございます。
  19. 鈴木俊一

    鈴木(俊)委員 参考人お答えをお伺いしておりますと、抑制するだけでやるのではなくて、さまざまな総合的なことをかみ合わせてやればできるものであったのではないか、こういうことであろうかと思います。それを一つ一つばらしてお伺いするのは今のお答えとちょっと離れるかもしれませんけれども抑制のことについてもうちょっとお伺いしたいと思うのです。  四月十九日の本委員会における参考人質疑の中で、郡司さんは、日赤の副社長に対して、むだ遣い防止といいますか高度利用、このための啓蒙活動に御協力いただきたいと申し上げた記憶があるということを述べられておられます。  そしてまた、これは一部の報道でありますけれども、当時、厚生省から日赤に対して、血漿むだ遣い抑制するため医療機関への過剰な供給を控えてもらうように協力を求めたとのことであり、これに対して、使用量抑制日赤業務ではないと首脳から正式に回答があった、こういうことが報道されているわけでありますが、これは事実でありましょうか。事実であるとすれば、どういう趣旨であったのか、お尋ねをしたいと思います。
  20. 徳永栄一

    徳永参考人 私、直接にその赤十字社回答というものを承知しておりませんけれども、これは新聞で拝見いたしました。業務範囲という言い方も赤十字では元来今まではしていない言い方でございましたので、ちょっと違和感を持ったのですけれども。  ただ、この際ですから業務範囲ということを申し上げてみたいと思うのですが、赤十字血液事業をやりますのは、開閥以来、血液製剤供給でございます。供給というのは、需要を満たすということに尽きるわけでございます。販売ではございません。販売というのは、端的に言えば、需要を掘り起こすということだろうと思うのですが、これは赤十字の能力を超えた問題であろうと思います。  それで、逆に今度は需要を抑制するというのは、これは一番簡単なのは血液がありませんよと言うことに尽きると思うのですけれども、それでは患者さんは大変お困りになるので、血液が足りない事態というのは何としても避けなくちゃいけない。ですから、平たく言えば、需要に応じて製造をして供給するというのが建前でございます。  ですから、需要を多過ぎるから減らしてくださいよという言い方は、これは患者さんを直接に診ているわけでございませんので、患者さんに大変迷惑がかかってはいけないので、そういうことは言えないという意味での業務範囲という言葉になったのかと解釈いたしました。
  21. 鈴木俊一

    鈴木(俊)委員 今の参考人のお話をお伺いして、ちょっと十分そしゃくできないのでありますけれども参考人は、一方において、幾つもの方策を組み合わせるということでありますけれども血漿使用量抑制するということが一つ手だてである、こういうことを一つの柱として打ち出されているわけでありますが、一方において、日赤考え方は、今参考人がおっしゃられたようなことも含め、新聞報道が事実とするならば、むだ遣い抑制、いわば適正使用に対して協力できない、こういう立場のように思えるのであります。先生委員としてのお立場と今の日赤のそのものと随分違うと思うのでありますが、このような日赤の対応というものにつきまして、先生はどのようにお考えになりますでしょうか。
  22. 徳永栄一

    徳永参考人 私、考えますのに、先ほど申し上げましたいろいろな方策を組み合わせてということ、その中で需要量の抑制というのは、もちろんある程度ございましょう。ただ、その需要量の抑制というのが、ありませんよとかそういう言い方でなくて、結局は血液センターと病院の話し合いだと思うのです。  御承知のように、新鮮凍結血漿というものが日本では諸外国に比べて格段にたくさん使われているのは事実でございます。ですから、そういった事情を、新鮮凍結血漿だけではなくてアルブミンなんかも諸外国に比べて多いのですけれども、そういったことは病院に対して強制するとかそういうことではなくて、これは話し合いであるとともに、いろいろな参考文献その他を書いてそれによって訴えるという形で、いわばマイルドに使用量というものは抑制する方向に持っていくべきであろうということは考えておりますけれども、いきなり使用量を減らすドラスチックな方法というのは赤十字としてはやったことがないということでございます。
  23. 鈴木俊一

    鈴木(俊)委員 献血血液からクリオを一〇〇%国内自給する手だてとして先生が述べられておりますのは、今までお話をお聞きしました需要の抑制ということとともに、献血量そのものをふやせばいいのではないかということも先ほど述べられたわけでございます。  このことに関連しまして、これは一部の新聞報道でありますけれども日赤によれば、昭和五十八年当時、四百ミリリットル献血というものの導入を考えたけれども、導入するために政省令の改正が必要で、このことが理由で、つまり四百ミリリットル献血が導入できなかったために、血漿量をふやすための早急な対応は困難であったというような報道がなされております。  そこでお伺いをいたしますが、当時、四百ミリリットル献血を導入すれば本当に血液凝固因子製剤製造するための原料を早急に確保することができたのかどうかということであります。  ちなみに、我が国では、平成元年以降、新血液事業推進検討委員会の報告を受けまして凝固因子製剤国内自給に取り組んでまいりましたが、その際、既に昭和六十一年には四百ミリリットル献血が取り入れられたにもかかわらず、五十万リットルの原料血漿が確保され自給が達成されたのは七年後の平成五年であるわけでありまして、四百ミリリットル献血の導入とタイムラグが大分あるわけでございます。  このことからいたしますと、新聞報道内容でありますが、四百ミリリットル献血の導入ができなかったので早急な国内自給が難しかったというのは正確ではないような気がするのでありますけれども参考人のお考えをお伺いしたいと思います。
  24. 徳永栄一

    徳永参考人 おっしゃるとおりでございまして、私自身、四百ミリリットル献血を導入することによって血液量がふえるとは考えたことはございません。むしろ、逆に減るのではないかというのが現場の担当者としての正確な意見でございます。  というのは、二百ミリリットル時代には、次回の献血に許された期間というのは一カ月でございました。四百ミリリットルになりますと三カ月になります。これは世界的なルールに従ったわけでございますけれども、そうしますと、これはどう計算しても、同じ献血者が来られるとしたら献血量は減ります。ですから、私、四百ミリリットル献血によって血漿量をふやそうということを考えたことはございません。むしろ、フェレーシスによってふやすというのが本筋であろうと思いますが、ただ、昭和五十八年当時はまだどちらも認められてはおりませんでした。実験的に行っていただけでございます。
  25. 鈴木俊一

    鈴木(俊)委員 次に、先ほどの委員長の総括質問関係のあると申しますか、同様の質問であるわけでありますが、濃縮凝固因子製剤国内自給に向けて、当時、厚生省日赤の間で検討の場が数回持たれているということが、公表されましたファイルや報道で明らかになっておりますが、そこでどのようなことが検討をされたのか。  それから、公表をされました七月八日付のメモでは、日赤原料を提供して、技術を持っているメーカーが製剤製造を行うという案があり、そして七月二十五日付の書面では、この案について経済面の検討が行われまして、収支がとんとんではないかということまで書かれておりまして、かなり詳細な検討が行われたことがうかがえるわけであります。  先ほども委員長の御質問お答えいただいたわけでありますが、このような案がこれだけ検討されながらなぜ実現されなかったのか、どういうところに課題があったのか、そのことについてお伺いしたいと思います。
  26. 徳永栄一

    徳永参考人 先ほどもお答え申し上げましたように、厚生省赤十字本社との折衝というものに私は直接にはタッチしておりませんので、うわさで聞く程度でございますけれども、ただ、当時、民間に原料血漿を出して製造を委託するということは、別に支障はございませんけれども、量的に要求される量の血漿を出すということは不可能であったということは、赤十字社のメモ的な記録にも残っておりますし、私もそうだと思います。クリオでない限りは、また、そのアフェレーシスが認められていない段階では、大量の血漿をとるというのはちょっと難しいと、難しかったと考えます。
  27. 鈴木俊一

    鈴木(俊)委員 原料を持っている日赤原料を提供して、技術を持っているメーカーが製剤をつくるという、そういうような新たな業務体系のあり方と申しますか、そういうことについてはどういうお考えでございましょうか。
  28. 徳永栄一

    徳永参考人 私個人の考えお尋ねになったと思うのですけれども、私自身は抵抗ございません。赤十字が採血し、民間業者が製造するということについて、これはやむを得ないことであろうと思っております。赤十字にそれだけの製造能力がなくて、血液があれば、それは捨てるというのは申しわけない話で、委託をしてでも製造するというのは当然のことだと考えます。
  29. 鈴木俊一

    鈴木(俊)委員 時間が参りましたので、最後の質問にさせていただきたいと思います。  私は、この薬害エイズの問題を、今までいろいろな、委員会審議でありますとか参考人の話を伺いましていろいろ思いますのは、さまざまな重大な局面において何か責任の所在が不明確であったという気がしてならないのであります。この責任の所在が不明確であったということが、国民の側から見ると、何か関係者が責任を押しつけ合っているというふうにも見えるわけであります。  先般、四月十九日に行われました参考人質疑における、行政とエイズ研究班との間の役割分担と責任についての安部氏と郡司氏の発言からは、まさに責任をなすりつけ合っているような、そういう印象を受けたわけであります。  同じことが血液事業についても、日赤厚生省の間の責任があいまいではなかったのかというような気がしてならないのであります。日赤は、御承知のとおり、日本赤十字社法に基づいて設立されたものでありまして、厚生省からも独立的な存在であります。しかも、我が国においては血液事業を独占的に行っているわけでありますから、私は、もっと日赤が主体的な責任を持って事に当たらなければならなかったのではないかと思うわけであります。  当時、外国からの非加熱製剤の危険性が言われている中で、日赤が、今伺ったのでありますけれども原料供給してメーカーが製造を行うとか、献血量の増加をもっと主体的に推進をするとか、そういうことが何でできなかったのか。ここにも厚生省からの明確な指示がなかったからということも報道されているわけでありますが、日赤厚生省との責任の所在が不明確であったことが対応のおくれにもつながつたと私には思えるのでありますけれども参考人のこのことについての御意見を最後にお伺いいたしたいと思います。
  30. 徳永栄一

    徳永参考人 私、必ずしもそういうふうには考えなかったのですけれども、それは私が現場の人間だからかもしれません。直接に厚生省折衝をするというような立場ではございませんでしたので。  ただ、現場の認識というのは、かなり日々がせっぱ詰まったような感じで、一生懸命動かなければ穴があくというような危機感があって動いていることでございまして、それは、赤十字社厚生省との話し合いという次元からはふだんは遠いのです。ですから、直接に私どもが身にしみて感じるということが余りございませんことをお答え申し上げたいと思います。
  31. 鈴木俊一

    鈴木(俊)委員 以上をもちまして、質問を終了させていただきます。参考人にはどうも大変御苦労さまでございました。
  32. 和田貞夫

    和田委員長 坂口力君。
  33. 坂口力

    坂口委員 徳永参考人には、大変お疲れのところ御苦労さまでございます。引き続きまして、ひとつよろしくお願いを申し上げたいと思います。  ただいま鈴木議員からクリオの問題を中心にして具体的なお話が出ました。私もよく似たことをお聞きしたいというふうに思っておりましたが、若干重なる面もあるかも存じませんので、ひとつその点はお許しをいただきたいというふうに思います。  まず最初にお聞きをしたいというふうに思いますのは、エイズ実態把握に関する研究班、これに属されておみえになって、その中の血液製剤小委員会委員にもなっておみえになったわけでございますが、その最初のエイズ実態把握に関する研究班の目的につきまして、かなりそれぞれの立場で意見が異なっております。  先日、この場に参考人として御出席になりました安部参考人からは、エイズ患者がいるかどうかを検討するのが研究班の目的であったという御趣旨発言がございました。  それから、厚生省の方はまた厚生省の方で、具体的に、我が国におけるエイズ患者の実態把握に関する研究一つエイズ診断基準の設定に関する研究一つ血液製剤に関する研究を行うというのがもう一つ、三つこの設置目的というのを挙げております。  それから、郡司参考人、当時の課長さんは、アメリカで十数人の血友病患者にエイズが出た、それで、血友病患者に対する治療方法を変えるべきであるかどうかを研究してもらうことであった、それが目的だった、こういうふうにこの場で述べておみえになるわけであります。  徳永参考人はこのエイズ実態把握に関する研究班の目的というものはどのようにお考えになっていたかということをまずお聞きしたいと思います。
  34. 徳永栄一

    徳永参考人 実は、これは私にもはっきりしない部分がございまして、通常、研究班ですと最初に、厚生省が組んだ班ですから厚生省のごあいさつなりあるいは班長のごあいさつに、この班の目的はということがあったのかもしれないのですけれども、つぶさに覚えておりません。  ただ、常識的に考えまして、日本に患者がいるかどうかだけの話で研究班は組まないだろうと思いますし、その後、エイズサーベイランス委員会というものもできました、私は入っておりませんけれども。ですから、むしろそっちの方が患者がどのくらいいるかというような把握はなさるわけでございましょう。ですから、これはエイズ全般に対する研究というふうに漠然と理解をいたしておりました。  ただ、研究班の会合に出まして、その中の一、二回は、症例を示して、これがエイズかどうかといりことに非常に時間をとられたという記憶はございます。  以上です。
  35. 坂口力

    坂口委員 それから、参考人の立場は、先ほどもちょっと触れられましたが、これは日赤の代表としてではなくて個人としてこの班にお加わりになった、この研究班の一員になられた、こういうふうに理解させていただいてよろしゅうございますか。
  36. 徳永栄一

    徳永参考人 私はそのように考えておりますし、委員になっていいかどうかということを日赤本社と相談したという記憶もございません。全く個人的なものであろうと考えております。
  37. 坂口力

    坂口委員 いろいろな資料を拝見いたしましたり、あるいはまた各参考人発言を聞いておりますと、研究班は議論を交わす場というよりも、何か、厚生省の提出しました資料に沿いまして、安部班長が取り仕切りをして粛々と進んだ会合の数々、こんな印象を持つわけでございますが、五回あったわけでございましょうか、第一回から第五回まで、全体として、今おっしゃいましたように、第一回、第二回はエイズであるかないかというような議論があったというお話でございますが、五回を通じて、大体この研究班の中で話をされたことというのは大まかに言ってどんなことだったのでしょうか。
  38. 徳永栄一

    徳永参考人 そこになりますと記憶が定かでないのは申しわけないのですけれども、この症例がエイズであるかどうかという議論が一つと、エイズの診断基準というのはどうあるべきかということがございました。そのほか、血液に関しての議論というのもある程度はございましたが、その程度であろうと思います。  以上です。
  39. 坂口力

    坂口委員 クリオ製剤の問題が先ほど取り上げられまして、私もこの点を少しお聞きしたいと思います。  濃縮製剤が非常に危険であるということは委員の皆さん方もそのときおわかりになっていた。そこで、クリオに転換をしようということになった。そのクリオ製剤への転換につきましては、主に血液製剤小委員会の中で議論されたのだろうというふうに思いますが、血液製剤小委員会のメンバーの中には、かなり血友病の治療の専門家の先主もお見えになったわけでございます。その中でどんな議論がなされたのか。案外、この小委員会の回数というのは少ないのですね、開かれております回数は。一回開かれて、そしてもう中間報告か何かに行ってということでございます。非常に開かれておる回数も少ないわけでございますが、それはどんな状況だったのでしょう。  と申しますのは、中間報告が出ますときに、小委員長でありました風間小委員長さんは、むしろクリオに転換をしてはどうかという方向性を持った中間報告を書こうとなすったのではないかということが流れております。それに対して安部班長さんからはかなり強い反対意見が出されたということが言われているわけでございますが、その間の事情について御存じの点、ひとつお聞かせをいただきたいと思います。
  40. 徳永栄一

    徳永参考人 記憶が定かでないところもございますが、確かに、小委員会の開かれた回数というのは少なかったでしょう。むしろ、これは題が血液製剤に関する小委員会ということでございますので、皆さん、血友病の専門家血液事業というものは全く御存じない。  思い出しますのは、風間さんも困りまして、委員会以外に私のところへ二回ぐらい来られて、いろいろ相談はいたしました、中間報告を出すに当たっても。これはだれが考えましても、議論をしていけばクリオでなければつじつまが合わなくなるということは明らかでございますから、そういう趣旨での話に終始したのですけれども、確かにおっしゃるように、最終的な文章というのは、それが、私も正確には覚えておりませんけれども、かなりニュアンスとしては違ってきているなという印象は持ったことでございました。
  41. 坂口力

    坂口委員 徳永参考人は、個人の資格ではあったというふうに言われますけれども日赤に所属をしておみえになった。一方において、学者としては血清学研究者として参加もされていたのかもしれないと思うわけであります。その血清学の立場から見て、先生はそのときにやはりクリオにすべきだということをかなり風間小委員長には強調されたのだろうというふうに思いますが、その後、しかしそのような結論にならなかった。ならなかったその結論については、先生は何かおっしゃったのか、おっしゃらなかったのか、その点はどうですか。
  42. 徳永栄一

    徳永参考人 つまり、結論に対して異論を唱えたかどうかということでございますが、これは、きつい言葉での異論ということはございませんでした。ただ、随分ニュアンスが変わったなというような話はした覚えがありますけれども。  何分、いろいろな圧力でもって結論が変わったというようなお話が随所にあるのですけれども、これも私にはよくわかりません。というのは、私自身は、先ほど申し上げましたように、一切そういう圧力を受ける立場にございませんので、私に直接身にしみて響いてこないものですから、そういう意味ではよくわからなかったということでございます。
  43. 坂口力

    坂口委員 日赤クリオ製剤ができないかどうかについて議論になったと思うわけですが、それは今すぐできる体制にあるかどうかということが問われたのか、多少の時間的余裕を持って製造することができるようになるかということを尋ねられたのか、そこはどうだったのでしょう。  その当時の赤十字としては、設備も持っていませんし、技術者もそんなに集めていなかったと思うのです。だから、即座にクリオ製造しろと言われたら、先生の立場としては、それはすぐにはできませんというふうに言わざるを得なかったのではないかというふうに思うわけですが、じゃ、今後できないのかということになれば、多少の時間をいただいたらそれはできるということを先生は言われたのか。先生は、赤十字としては言われたらできるというふうに言っておみえになるわけですが、そこはそういう議論があっての話なのか、それはそういう議論は全くなかった上での話なのか、ちょっとその辺のところをお話しいただけませんか。
  44. 徳永栄一

    徳永参考人 そういう議論の結果、ああいう結論が出たということでもないと思うのです。それは、私でなくても、血液事業専門家が、クリオでできるかと聞かれて、できませんとは言わないと思います。それがどのくらいのタイムラグで可能になるのかどうかというのは、これは皆さん、各自判断が違うと思いますけれども、私自身はさほど重大に考えませんでした。やろうと思えばできるのだと、また、血液事業というのはそれができないようでは仕方がない。  それは、端的に申しまして、血漿量は二十万リッター弱というものが余分に要るというとらえ方をすれば、これは大変でしょう。しかし、その数年後、赤十字だけで五十万リッター、六十万リッターの血漿を余計にとっているわけです。これは献血者の同意を得て増産に成功したわけでございます。そうすると、その当時、非常に急ぐのだということを国民に訴えれば、十数万リッターの血漿がとれないはずはないと私は考えました。
  45. 坂口力

    坂口委員 しかし、赤十字にやってほしいという要請はなかった、こういうことでございますね。
  46. 徳永栄一

    徳永参考人 そのやってくれという要請以前に、クリオ自体が使える範囲が極めて限られるからクリオに転換するのは無理だというお話がございました。
  47. 坂口力

    坂口委員 そうしますと、クリオヘの転換ができなかった理由は、クリオ原料になります血液が足りないから、もう少し言えば、血漿が足りないからできないということなのか、それとも、その量は十分にあるのだけれどもクリオそのものが治療に適しないということでこれはならなかったのか、ならなかったことには二つあると思うのですね。  そうすると、今の参考人お答えでございますと、クリオ原料が足りるか足りないかということの前に、クリオそのものが血友病の治療として適当でないという判断の方が先にあった、こういうふうに今おっしゃっているわけでございますね。それでよろしゅうございますか。
  48. 徳永栄一

    徳永参考人 両方であったろうと思いますけれども、私以外の委員の方なんかの考えは、量の問題ということを正面に立てた方よりも、クリオ自体の使いにくさとか患者さんに対する不便さとかいうことの方が先に立っての議論であったろうというふうに考えております。
  49. 坂口力

    坂口委員 そこなんですね、参考人。片や、濃縮製剤は非常にエイズの危険性がある。  研究班ができましたときには、一九八三年の六月でございましたが、サイエンスの六月号にはかなりアメリカの状況が報告もされております。半年ごとに倍々ゲームでふえてきている、死亡率も七〇%あるいは八〇%の高率になっている、非常に恐ろしい病気であるということも記載されている。そしてまた、その中には血友病患者が既に五人含まれているということもその中に含まれている。もうちょっと後になりますと十六名になってきておりますが、一番最初の一九八三年六月のサイエンスではまだ五名という報告でございます。それは、その一九八三年一月の段階で五名という数字でございました。もう少し後になりますとそれが十六名になってくるということでございます。  非常に血液とかかわっていて、そして血液製剤、とりわけ濃縮製剤というものが非常に危険であるということが一方であるわけですね。  その非常に危険な濃縮製剤と、そして、使いにくさとかそういうものはありますけれども、しかし治療効果のありますクリオというものが片方にある。使いやすさという面では濃縮製剤にはちょっとかなわないかもしれないけれども、しかし効果としてはかなりクリオもある、こういうことではなかったかと思うのですが、そのときに、危険性の非常に高い濃縮製剤をそのままにして、クリオが使いにくいからという理由で、あるいは血液の量がなかなか集まりにくいからという理由で、クリオがおろされて、濃縮製剤が残り続けたというところに非常に今疑問が残るわけでございます。  ここに対して徳永参考人血清学の立場からどのような点を強調されたのかということが本日の一番私の聞きたいところでございまして、重なる質問になるかもしれませんけれども、もう一度そこをお聞かせをいただきたいと思います。
  50. 徳永栄一

    徳永参考人 私がどういう主義主張をしたかということ、これは記憶が定かでございませんけれども、極めて常識的な線でクリオにすべきということは申し上げたと思います。  ただ、今坂口先生のおっしゃった、使いにくいということだけではございませんでした、クリオがだめだという理由は。つまり、副作用の面が一つございます。いろいろな副作用と、それから高フィブリノゲン血症とか、いろいろな問題がございますが、そのほかに、治療効果の面から非常に軽症なもの以外はだめだよということは血友病の専門家から言われたということで、これは使いやすさとかそういうことよりは治療効果の面を強調されていたように思います。  お答えになっていませんでしょうか。
  51. 坂口力

    坂口委員 どうもありがとうございます。  時間が迫ってきていますから、もう一点、別な角度からお聞きをしたいというふうに思います。  長い間、献血事業に携わっておみえになりましたし、また、血清学という立場からも関係をしておみえになったわけでありますが、エイズの問題で非常に影は薄くなりましたけれどもエイズの前に血清肝炎の問題がございました。手術を受けてもとの病気は治りましたけれども、血清肝炎にかかり、中には、その血清肝炎から肝硬変になり、肝硬変から肝臓がんになって亡くなられた方も多々あったというふうに思います。今もまだそういうケースはあると私は思うわけです。血清肝炎そのものも何とか排除しなければならない。これは、エイズの問題以前の問題として、赤十字としましても、あるいはまた徳永参考人としても、非常に大きな問題ではなかったかと思うわけです。  一九八三年の三月でございましたか、アメリカが加熱製剤をつくりました。加熱製剤をつくりましたが、そのときの申請は血清肝炎に対する申請でございました。その血清肝炎のことをかなり研究もしておみえになったと思いますし、予防のために大変努力をしておみえになったと思うのですが、その当時、この血清肝炎を予防するために加熱製剤が有効であるというデータ等々、そういう研究というのは徳永先生の手元にあったのでしょうか、なかったのでしょうか、その辺をひとつお聞きしたいと思います。
  52. 徳永栄一

    徳永参考人 私、その論文を読んだかどうかということをはっきり記憶しておりませんけれども、その話は当時伺っております。一〇〇%肝炎を防ぐかどうかというようなところの議論もあったように思いますけれども、ただ、御承知のように、血液センターで肝炎を防除するという場合に、とれは分画製剤は入りませんものですから、つまり、分画製剤以外の血液製剤については加熱というステップは不可能でございますので、余り深くは考えなかったというのが事実でございます。
  53. 坂口力

    坂口委員 確かに、赤十字は分画製剤をおやりになっておりませんでしたから直接の範疇ではなかったかと思いますけれども、しかし、血清肝炎を除外するということにおきましては同じ項目の中にある話だというふうに思ったわけです。  その当時の研究班のメンバーを見ましたときに、血友病の専門家だとか臨床の専門の方はほかにもおみえになりましたが、血清学の立場で、血液そのものをどう集めるか、あるいはまたどうすれば一番安全な血液を集めることができるかというような立場から関心を持ち研究をしておみえになったのは、徳永参考人お一人ではなかったかというふうに思います。そうした意味で、もしそのときに加熱製剤について何か所見をお持ちになっていて、そのことを先験的にこうすべきだということを御指摘にでもなっておったら、また多少流れが違ったのではないかという気もしないではないものですから、参考人の手元にそうしたデータ等が来ていたかどうかということをお聞きしたわけでございます。  これからもどんな疾病があらわれるかわかりません。血液を介してさまざまな病気が伝播する可能性がございます。そういうことを考えますと、これからの血液供給体制あるいは血液製剤供給体制、分画製剤も含めていただいて結構でございますが、現状のままでよいというふうにお考えでございましょうか、それとも、やはりこれではいけない、こうしていかなければいけないというふうにお考えがございましたらお示しをいただきまして、私の質問を終わりたいと思います。
  54. 徳永栄一

    徳永参考人 大変貴重なお言葉をいただきましたけれども血液事業というのが、大昔はかなり原始的な時代で、余りやることがございませんでした。今、非常に複雑になっておりますので、新しく出てくるいろいろな病原体その他の問題も含めて対応に追われているというのが現実でございまして、その中から少しでも良質の血液供給できるような体制をとるよう努力していきたいというふうに考えております。
  55. 坂口力

    坂口委員 ありがとうございました。終わります。
  56. 和田貞夫

    和田委員長 五島正規君。
  57. 五島正規

    ○五島委員 参考人には、本日、大変御苦労さまでございます。私の方も、部分的に今までの各委員質問と重複するところがあるかと思いますが、ちょっと違った角度からお伺いしたいと思いますので、よろしくお願いしたいと思います。  今参考人は、当時、日赤は必要とあればクリオ製造についてはいかようにも対応できたということについてお話をいただいたわけでございますが、ただ、当時の状況について、では厚生省薬務局を含めそれらの関係者がどのように考えていたのかというのを今回明らかになりました資料その他で点検してみますと、例えばこの研究班の班長であった安部さんは、クリオの絶対的不足があった、そして我が国の血友病A患者の必要とする量のわずか一%にすぎなかったとおっしゃっています。事実、昭和五十七年の製造量が十九万単位と言われておりますので、これは一%は別としても二%ぐらいということですから、状況としての安部さんの指摘はそれなりに間違ってはいないわけだろうと思います。  そして、その状況が、今参考人がお話しになったように、必要とあれば増産できるよという状況であったのかどうか。当時の薬務局の担当者の話を見てみますと、当時の薬務局関係者の御意見で、例えば俵さんは、原料の確保、処理能力及びライセンス問題があり、非常に難しいと思った、あるいは松村さんは、その後、郡司さんの後、課長になられたわけでございますが、クリオ製剤自給は、クリオ製剤の特性及び国内の製造能力考えると、この方面に向かうのは困難であると考えられていたというふうにおっしゃっています。また、増田さんは、クリオ原料確保の困難性あるいは血友病学者の意見により実施できなかった、このように御指摘なさっているわけで、いずれも当時血液行政に携わっておられた行政のサイドが、日赤の側にそのような能力が、あるいはそういう準備があったということについて全く御承知なかったとうかがわれる御発言が今日において続いております。  一方、ちょうど先生と同じ時期に大阪赤十字血液センターの所長をしておられました田中正好先生の既にお出しになられた本を読ませていただきますと、昭和五十八年の二月十八日、西部地区の赤十字血液センター連盟会議以後、我が国の献血からどれだけの第Ⅷ因子が提供できるかを試算して、そして献血の八〇%を分離してFFPに回すと、一〇%は臨床家が一般止血障害に利用するとして、残りをクリオ製剤にするとすれば、血友病A患者一人当たり二万単位の需要に対応できるのではないかというふうに試算していた、こういうふうにもう既にその時期には日赤の中でその試算もしていて、それはできるという見通しが立っていたということもおっしゃっているわけです。  こうした日赤の、日本血液行政の中心が献血に頼っていたわけでございますから、それを担っておられたところのそういう能力なりそういう力というものと当時の血液行政担当者とのこの大きなギャップを見た場合に、どのようなお話し合いがこの問題について日赤厚生省との間あるいは血液センターとその担当との間においてなされていたのか、ぜひお話しいただきたいと思うわけでございます。
  58. 徳永栄一

    徳永参考人 何度も申し上げましたように、厚生省と直接折衝する立場にはございませんので、厚生省の方と個人的にいろいろな人と知り合いですから個人的なお話し合いをすることはございましたけれども赤十字としてこういう要望があるというような言い方では申し上げていないわけです。  ただ、非常に誤解があると思いますのは、まず最初に安部さんの話ですけれども、これしか供給していないのだ。これは、先ほど申し上げましたように、あの表というのは赤十字製造能力を示すものではございません。供給実績を示しているだけのことで、その何百倍かの製造能力があったってちっともおかしくないということが一つ。  それから、クリオというのは技術がどうこうという問題ではござません。技術がなければこれはライセンスが取れないわけで、その十年ぐらい前に厚生省製造申請して認可を得ているわけでございます。ということは、全血液センター製造ができるということです。凍らせた血漿を一晩冷蔵庫に置いておけばできるわけですから、これができないようでは血液事業をやっていると言えないわけでございます。  それから、ただいまの行政当局と赤十字とのギャップがあるというお話、それはあるかもしれません。血液事業の初期には、両方とも知識は一緒ですから、共同しながらやっていくということは長いこと続いたのですが、だんだん赤十字の方が、長くいる人が多いものですから、片方はすぐおかわりになるというようなことで、どうしても知識に差が出てくるのはやむを得ないのですね。それは、それをしょって、それもカバーしながらやっていくのが赤十字の仕事だろうというふうに考えておりました。  以上です。
  59. 五島正規

    ○五島委員 お話はわかるわけでございますが、そうであるとすれば、安部委員会の中においてこの問題が出されたときに、先生の方から委員の皆さん方に対して、これは現在の供給実績だと、しかし、必要とあれば必要な製造能力は簡単に確保できるのだということはお伝えいただいたのでございましょうか。  確かに、献血事業の専門家の皆さん方から見れば極めて初歩的なことではないかとお考えであることはわかりますが、しかし、当時の血液行政担当者を含めてこのような大きな情報ギャップといいますか、認識に差があるということのままその委員会を含めてその当時は経過したのかどうかというのは、大変私どもとしては大きな関心を持たざるを得ないところでございまして、その辺は、日赤の方から当時そういうふうな情報不足あるいは認識不足に対してただす、そういう御努力というものを同じ委員会の中その他において実際やられたのでございましょうか。
  60. 徳永栄一

    徳永参考人 委員会でそういう議論になったことはないように記憶しておりますけれども、これは主に小委員会の方で、これはクリオということが当然中心になりますものですから、十分にそれは皆さんの御認識を得ていると思っておりました。小委員会厚生省出席しております。  以上です。
  61. 五島正規

    ○五島委員 例えば風間小委員会の中での御発言の中で、クリオはフォン・ウィレブランドしか適応がないよというふうな話も出たというふうにも書かれております。それに対して、英国の例その他について事例を挙げて、これはたしか血液研究運営委員会で田中さんは反論したのだというふうな御記憶もあるわけですが、かなりそういうクリオ利用状況についての御議論もいろいろなところにおいてあったように書かれております。  その際に、クリオ製造能力というところについて、今日に至るまでも、当時の行政担当者と当時の日赤の間においてこのような大きな認識の差があるものだろうかというふうに思うわけでございまして、とりわけ五十八年の二月十八日以後、これは大阪の田中先生個人がおやりになったことかもわかりませんが、クリオ製造能力をどうするか、その当時の献血事業の中において血友病A患者一人当たり二万単位の確保は可能だという試算をされたというのは、これは、その当時から日赤としても血友病患者の需要に対する国内調達の問題に関心をお持ちになっていたわけでしょうし、そうしたことについて全く個人的に日赤の中だけで閉じこもってやられていて、そういう情報が全く日赤の外へ発信されなかったということであったとすれば、そのことについてどのようにお考えなのかということをもう一度お聞きしておきたいと思うのです。
  62. 徳永栄一

    徳永参考人 御指摘のとおりだと思います。確かに、赤十字の欠点でございますけれども、どうもPRということについて非常にふなれだということがあって、それと、この程度のことはだれでも知っているだろうという妙な思い込みがあったり、いろいろございます。  ですから、ただいまの製造能力のことにつきましても、我々としては常識ですけれども、これをよその方に、これは製造能力の表じゃないよということをはっきり申し上げたというようなことはないのです。ですから、ちょっと動きに御不満な点があることは重々わかります。  以上です。
  63. 五島正規

    ○五島委員 その問題は時間がございませんのでおいておきますが、あわせて、当時、日赤クリオは乾燥クリオでございませんでして、先ほど先生も御指摘あったようこ、使用上のさまざまな制限なり使いづらさがあったのは事実でございます。  それに対しても、当時既に日赤は、今申し上げました五十八年の二月以後、赤十字の特別研究班として第Ⅷ因子製剤に関する研究班というものが設けられ、そして、主として脱フィブリノゲンの加熱条件について検討していたというふうにも報じられております。すなわち、中間クリオと言っていいのかどうかわかりませんが一既にその当時のクリオの欠点を克服するためのそういう研究班を発足させておられた。そのような状況が風間委員会なりあるいは安部委員会の中にこれまた報告されたのかどうか。もしそういうことが事実としてあるとするならば、また、その脱フィブリノゲンの加熱による製造というのは、既に奈良医大の福井先生等々が実際におやりになったという経験もあることでございますから、日赤が本気でそれをやるとすれば、技術的にそれほど難しくなかった問題のはずでございます。  そうだとすると、その当時、この研究班を中心とした脱フィブリノゲン剤というものがどの程度までの実施状況だったのか、そして、そういうふうな日赤の努力というものが、厚生省なり各委員にこの点についてはお話しになって、クリオ利用の拡大ということについてお訴えになったのかどうか、その点についてお伺いしたいと思います。
  64. 徳永栄一

    徳永参考人 中間型クリオと申しますか、フィブリノゲンを除去した、軽度の加熱によって除去する製剤でございますけれども、これは委員会に報告したかどうかというお話でございますが、これは小委員会で既に中間報告に盛り込まれていると思います。  そもそも、小委員会にこの製剤の発明者であります福井先生も入っておられる。私も福井先生にあなたの使わしてくれやという話を申し上げたことは、その委員会でございます。その中間報告のちょっと後で、急速、部内にその研究班をつくったわけでございます。いろいろな治験、これは新薬となりますのでいろいろな操作が要りますけれども、最後までいったのですけれども、残念ながら、どうも血液製剤調査会でいちゃもんがついて、どうしても通らなかったという事実がございます。  それは、加熱といっても五十四度の加熱ですから、フィブリンを落とすために加熱するだけの話で、そのフィブリンの網の中に細菌、ウイルスなんかが含まれて落ちるから上澄みはきれいになる、こういう建前だったのですけれども、それでは実験が不足だというようなことが何回かありまして、ついに日の目を見なかったということで、努力はいたしておりました。  以上です。
  65. 五島正規

    ○五島委員 おっしゃるように、低温による脱フィブリノゲンと、それからいわゆるウイルスの不活性化の問題と、これは一緒の議論になってしまったわけですが、問題は、安全な国内血によるクリオをより使いやすくするという目的であった。ところが、今参考人がおっしゃったようなそういういちゃもんから、塞栓か栓塞かという字句の改正だけで書き直しに三カ月も時間を空費されるとかいう形で、大変この実現にはおくれたということも書いているわけですが、こういうふうなところを見ますと、厚生省が、当時日赤はそういう能力にないとおっしゃりながら、その辺について、随分とそういう能力を生かそうということではないような政策をとられたというふうに思われるわけですが、そういう点について、参考人を初め日赤の方から厚生省血液行政担当者に対して何らかの形での申し入れというのは一回もされなかったわけでございますか。
  66. 徳永栄一

    徳永参考人 これは血液センターから直接ということではもちろんございませんけれども、本社と厚生省とはその件については何遍も話し合いはしているはずでございます。それは、治験の申請を厚生省にするのですから、厚生省が全く知らないことはできないわけでございまして、そういう意味で、情報伝達に不備があったとは思いません。  以上です。
  67. 五島正規

    ○五島委員 もう時間がございませんので、ひとつ最後にお伺いしたいと思いますが、先ほど鈴木議員の質問に対してお答えになった部分とも関連するわけでございますが、濃縮剤製造に関しての問題でございます。  濃縮剤の製造に関しましても、できることであれば安全な国内血を使って利用するという方法があって当然でございますし、クリオだけによって血友病の治療を全部できるというのは、非常に難しい面が症例によってあることは参考人御承知のとおりでございます。  そういう意味において、国内の血液を使った濃縮剤の製造ということになってまいりますと、当時、日本においては民間にそういう能力があった、そうすると、日赤の献血によってお集めになった血液原料として提供しながら、民間のその技術を利用して濃縮剤の製造ということができなかったものだろうかという疑問に行き当たるわけでございます。  その点について、松村さんは、八五年当時の話として、「我が国の献血制度は無償の善意で支えられているため、営利を目的とする民間製薬企業と連携することは制度の根幹を揺るがすおそれがあるとの意見があった」というふうにおっしゃっておられます。この意見というのは日赤の側から出た意見ではなかったのだろうかというふうに思われるわけでございますが、その点についてはどのような状況でございましたでしょうか。この問題、すなわち献血をそういうふうなものに利用するということについて、センター内部あるいは日赤内部においてかなりの議論がされたという事実はあったわけでございましょうか。
  68. 徳永栄一

    徳永参考人 これは日赤内部からといいますよりも、赤十字というところは一般国民にお願いして献血していただくという建前でございます。  その際に、そのちょっと前ですか、献血団体から非常に強硬な抗議を受けたということはあるわけです。民間企業に献血で得た血液を出すとは何事だということでございました。実際にある程度支障を来したというようなケースも地方によってはあるわけでございます、それはいろいろ御説明して納得していただいたわけですけれども。ですから、そういうたぐいの議論というのが、赤十字の内部で、民間に出すのはけしからぬとかそういったことではないと思いますのは、その後実際に出しておりますから。  以上です。
  69. 五島正規

    ○五島委員 もしそのようなことを実施しようとすれば、当然、当時大量に血漿のままで利用されていた分の中から第Ⅷ因子画分を除去したものの利用ということが前提にならないと日赤としてもなかなかできないのでしょうが、もしそのことが認められたとすれば、日赤内部としてはこの問題はもう少し進んだと考えてもいいのでございましょうか。結局、血漿のまま当時大量に使われていたわけですが、その血漿の中から第Ⅷ因子を含んだ画分だけを除去した残りの利用が認められるということになれば、そうしたことはよりスムーズに進んだのでございましょうか。
  70. 徳永栄一

    徳永参考人 恐らくそれが大前提になるかと思いますけれどもクリオの問題が最初に起こりましたときから、クリオでやるということと、片や、血漿からクリオを取った血漿を脱クリオ血漿と申しますが、それの認可を得て、そうすれば万事うまくいくというのが当初の考えでございました。それだけではありませんけれども、増産が必要だったわけですが。  ただ、脱クリオ血漿につきましては、部内に研究班をつくり、外部の先生方にお願いしての治験というものもいたしました。そうして、言ってみればこれは成分製剤ですから、成分製剤の申請に今までやっておりましたようないわゆる一変という形での製造承認を出したわけですが、これは出しただけで歯牙にもかけられなかったというのが実態でございます。これでは通せないと却下されたといういきさつがございます。  以上です。
  71. 五島正規

    ○五島委員 どうも参考人、大変ありがとうございました。まだ幾つかお聞きしたい点もございましたが、本当にどうもありがとうございました。私、質問を終わります。
  72. 和田貞夫

    和田委員長 枝野幸男君。
  73. 枝野幸男

    ○枝野委員 きょうはありがとうございます。  幾つか確認をさせていただきたいのですが、小委員会またはエイズ研究班の中でクリオ供給量については議論になったのですか、なっていないのですか。
  74. 徳永栄一

    徳永参考人 クリオ供給量といいますのは、供給すべき量ということではなくて……(枝野委員「可能量です」と呼ぶ)可能量でございますね。可能量についての議論は、私、記憶がないのですが、当然あったと思いますが。
  75. 枝野幸男

    ○枝野委員 供給可能量の話があったとすれば、そこで先生、当然、専門家の立場として、今ここでお話しいただいているような、供給は可能であるというお話をしているはずだと思うのですが、ということは、研究班または小委員会で今のお話をされているという理解でよろしいのでしょうか。
  76. 徳永栄一

    徳永参考人 そこがはっきりしないと申し上げたのは、これだけつくれますよということより前に、これはこれしか使えませんよという臨床家の方々のお話の方が先にあって、そうすると使えないものを非常に大量につくってもしようがないという、言ってみれば堂々めぐりみたいな話になったと記憶しております。
  77. 枝野幸男

    ○枝野委員 ごめんなさい。その堂々めぐりは何度もお伺いしているのですが、それにしても、やろうとすればできるのだという説明をされたのか、されていないのか。  要するに、これはこういうことなんです。安部先生にしても何にしても、例えばこの場ででも、二つの理由を挙げてクリオはだめだということをおっしゃっているのです。使い勝手が悪いとか副作用があるとかいう話と供給量供給できないのだと両方挙げていらっしゃるのです。それで、その両方の議論をした結果、結論が出ているのか、それとも供給量の話になっていないのか、それはどちらなのかということは物すごく大事なことなんです。どちらなんですか。供給量の問題でしたら先生自身が当然何らかのお話をすべき話ですから、話をされたかどうかということなんです。
  78. 徳永栄一

    徳永参考人 繰り返して申し上げますけれども、使えないという方が先に立ちまして、つまり、使えないけれども赤十字ではこれだけつくれますよという話は実りがないわけでございますね、使うという前提で初めて成り立つことですから。ですから、そこの、それでもこれだけつくれますよという言い方をしたかどうかについては、記憶がありませんが、それはしていないかもしれません。
  79. 枝野幸男

    ○枝野委員 それでは、研究班とか小委員会とかというレベルではなくて、安部英先生からクリオはもうちょっとつくれませんかということを聞かれたことはありますか。
  80. 徳永栄一

    徳永参考人 聞かれたことはございません。
  81. 枝野幸男

    ○枝野委員 ありがとうございます。  安部先生は、この場で、クリオは足りなかったので使いたくても使えなかったということを実は前回おっしゃっているので、全くこれは専門家である先生にお伺いをしていないというのは明らかにおかしいなと思います。  それから、そうしますと、供給量以前の問題として、研究班の中でクリオは使えないという議論があったそうでありますし、先ほどの質問先生は、副作用とか効果というようなことの部分でというお話をされましたが、どんな副作用があるからクリオは使えないのだということが議論されたか、御記憶ございますか。
  82. 徳永栄一

    徳永参考人 私、血友病の専門でございませんのでうろ覚えですけれども、主にアレルギー性の副作用があるということと、もう一つは、何か血液型によっては患者さんに溶血が起こるというような副作用、これは血液型抗体が血漿が入っていますから、そういった意味での問題かなと思いましたのですけれども、それから、副作用と言えませんけれども、フィブリンが析出して注射器が詰まるとかいろいろなことで、これは赤十字にそういうことをやらせたくないというような人ばかりではございませんので、血友病の専門家で親しい人なんかにも伺いますと、方針を言うと、やっぱり濃縮製剤の方が安心して使えるという言い方をされますものですから、そこでこっちも引き下がったということはあるのです。逆に、患者さんに伺いますと、クリオを使ってみせるとおっしゃる患者さんは幾らもいらっしゃいました。
  83. 枝野幸男

    ○枝野委員 専門外のところをお伺いするのはなになんですが、中立的な立場だと思いますのであえてお伺いするのですが、今挙げられたいわゆる副作用として問題になっていたものというのは、どの程度の重篤、重いものなんでしょうか。要するに、そういった副作用が出れば命にかかわるようなレベルの話だったのでしょうか。
  84. 徳永栄一

    徳永参考人 これは私、存じません。
  85. 枝野幸男

    ○枝野委員 では、そういったことの議論なしに副作用があると。要するに、片方は命にかかわるかもしれないということでエイズの問題を議論しているので、仮に副作用があったとしても、命にかかわるエイズよりは、例えば若干一時的に病気になるとかということがあっても、その程度の副作用だったらということが、まあいわゆるリスクを比較するという問題になるのだと思うのですけれども、では、そういった話自体は、研究班ではその副作用の程度という問題は議論があったという記憶はないという理解でよろしいですか。
  86. 徳永栄一

    徳永参考人 そういうふうに考えております。
  87. 枝野幸男

    ○枝野委員 それからもう一つクリオがだめだということで、効果が十分じゃない、全部の症例には効かないということについてどんな議論があったか、どの程度効かないのか、どの程度の人に効かないのかということについてどんな議論がなされたかという御記憶を教えていただきたいのですが。
  88. 徳永栄一

    徳永参考人 何分、専門でございませんので、はっきりとした記憶はありませんが、要するに、端的に言えば、非常に軽症の血友病患者それからフォン・ウィレブランド病というようなものにしか使えないよという――一人の御意見ではございません。たしか、小委員会の中でさらにメンバーを選んで、報告するために調べた方々がいらっしゃったはずで、その御報告を小委員会で聞いたのですけれども、そういう軽症の方を含めて、使える範囲が全体量の五%だというふうな結論でございました。
  89. 枝野幸男

    ○枝野委員 これは、私は医者じゃありませんので、専門家に最終的には確認を、いろいろと調査していただくことになるのでしょうが、どうも現実には、濃縮製剤は危険だということで病院ごと、要するにお医者さんごとクリオに切りかえて、そしてエイズの感染を免れているお医者さん、病院があるという結果を考えてみますと、クリオは五%にしか使えないというその報告といいますか、結論というのは事実誤認であったということかなと思うのですが、要するに、五%という結論に導いた、その報告をされた方、あるいはその議論をリードされた方はどなたですか。先生専門家でないわけですからそれには対応できなかったわけですけれども、どなたがクリオではそんな五%ぐらいしか対応できないという、どうも少なくとも外から見る限りでは事実とはまるで違う話をされたのか、記憶を喚起していただきたいのです。
  90. 徳永栄一

    徳永参考人 ここは国会でございますから、うそ偽りはない御返事を申し上げたいと思うのですが、非常に正確には覚えておりませんが、たしか二人というのは、迷惑がかかるといけませんけれども、長尾君じゃなかったかなという気はしておりますけれども
  91. 枝野幸男

    ○枝野委員 ありがとうございます。  それから、先ほど来ずっと話が出てきております供給量の話について、まず、先生クリオ供給は可能であったという認識、これは赤十字社全体としてもほぼ同じ認識であったということはこれでよろしいのでしょうか。
  92. 徳永栄一

    徳永参考人 これは全員の意見をもちろん聞いたわけではございませんけれども赤十字社の底辺を流れる思想というのはそれであったと思います。
  93. 枝野幸男

    ○枝野委員 もう一つ確認させていただきますと、少なくとも、そういったクリオ供給可能かどうかなどということを含めた話を、具体的なことは先生は当事者じゃないから御存じないとしても、日赤本社と厚生省でそういったたぐいのことを話をしていた、これも間違いございませんね。
  94. 徳永栄一

    徳永参考人 本社と厚生省クリオでいけるよという話し合いをしたかどうかについては確認しておりませんのですが。
  95. 枝野幸男

    ○枝野委員 クリオでいけるよという話になったかどうかは別として、要するに、クリオにするとすれば供給量がどうなるか、あるいは濃縮製剤を国内血でやるとすればどうなるか、そのようなことに関する、結論がどうであったかは別として、議論をされたという話は聞いておりますか。
  96. 徳永栄一

    徳永参考人 最初に申し上げましたように、直接折衝はしておりませんけれども、非公式に本社と厚生省と話し合いを持ったということは記録に書かれておりますので、それは当然そういう話し合いも含めてなされていたと思います。
  97. 枝野幸男

    ○枝野委員 そうすると大変おかしな話が出てくるのです。  要するに、厚生省の方も、それから研究班もそうなんですが、クリオに切りかえようとしても供給量が足りなかったのだ、やろうとしてもできなかったのだということを最近になってもずっとおっしゃっているわけです。当時からそういう認識だったと、厚生省、役所サイドでですね。ということは、日赤はほぼ、先生がおっしゃっているような、供給しようと思えばできたということの認識であった、そして、ある程度そういったことについての話の場はあったようだ。  すると、これは二つ考えられるのです。一つは、日赤の本社のサイドが厚生省に遠慮をして供給しようと思えばできるのですよという話についてはあえてしなかったのか、それとも、厚生省の方が日赤の意見を無視して自分たちの独断で走ったのか、どちらだと思われますか。
  98. 徳永栄一

    徳永参考人 これは私には判断できかねることですけれども、どちらかが強硬に反対をして話が壊れるといったような次元であったのかどうか、もっと下の、何といいますか、下相談みたいな形での議論の中でそういうことが出てきたのだろうというふうには考えておりますが。
  99. 枝野幸男

    ○枝野委員 最後に、では日赤の会社サイドとして厚生省とそうした話をされた方がどなたなのか御存じかどうか、もし御存じでないとすれば、どなたに聞けばだれが日赤を代表して厚生省とそうした話をしていたということがわかるかどうか、教えていただけますか。
  100. 徳永栄一

    徳永参考人 それは、日本血液事業と申しますのは赤十字社がモノポリーと言われますが、だれが責任者かということになりますと、基本的には社長なんですけれども、社長が委託をして部長におろすという形で、部長が責任を持って動くということでございますね。特に厚生省との話し合いとなると、課長クラスではしないだろうと思います。といって、社長、副社長が直接厚生省とそういうお話し合いをするとも思えない。そうすると、やはり当時の血液事業部長かなということは考えられますけれども、確証はございません。
  101. 枝野幸男

    ○枝野委員 どうもありがとうございました。
  102. 和田貞夫

    和田委員長 岩佐恵美さん。
  103. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 まず、参考人にお伺いしたいのですが、血液製剤によるエイズ伝播の可能性について参考人が知ったのはいりごろだったのでしょうか。
  104. 徳永栄一

    徳永参考人 厚生省研究班ができましたのが一九八三年でございますけれども、そのときには既に知識としては知っておったと思います。
  105. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 本の中でこんなふうな紹介があるのですね。研究班の発足する三カ月前の三月下旬、WHOウイルス肝炎センター長の西岡氏から大封筒を受け取った、開封すると「AIDS」とタイトルのついた原稿のコピーが入っていた、そのコピーを読みながら、これはこっちにもいずれ響いてくるなと思ったというようなことが参考人の話として書かれているわけですけれども、こんなようなことがあったのでしょうか。
  106. 徳永栄一

    徳永参考人 私自身のことについて、そういう記憶が具体的にははっきりしないのですが、ただ、西岡さんは、かなりエイズ問題の初期からこの問題に着目して、いろいろな本やマスメディアを通じての話もいろいろと書かれておりまして、言ってみれば先覚者の一人であったろうと思いますので、私がかなり親しくしておりましたし、その後、お願いして私どものセンターの副所長に来ていただいたいきさつもございますので、当然聞いておったと思います。
  107. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 血液製剤小委員会委員になってほしいという話について、どなたからお話があったのか、また、それを引き受けられるときにどのような役割が求められていると考えられ、そして、どういうふうにしようという決意を持って臨まれたのか、その辺について伺いたいと思います。
  108. 徳永栄一

    徳永参考人 だれに小委員会委員になってくれと言われたかについて、はっきり覚えていないのですが、風間さんであったのかなと思います。  それと、どういう決意で臨まれたかというお話でございましたが、血液事業というのは私の専門でございますので、言ってみれば、血液事業でお役に立つことがあったら万難を排してやらなくちゃいけないということと、その他の治験で従来の血液事業に取り入れるべきことがあったら取り入れたいなという両方でございました。
  109. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 小委員会報告書が出されているわけですけれども、この報告書を書くに当たって、先ほど、風間委員長から二回ぐらい相談があったという話があったわけですけれども、どのようにかかわられたのかということと、それから、この報告書とは別に、参考人自身研究報告書というものを書かれておられます。これは参考人自身が書かれたものだというふうに思いますけれども、その点、改めて伺いたいと思います。
  110. 徳永栄一

    徳永参考人 風間さんとの話というのは非常にフランクな話でございまして、言ってみれば大学の先輩後輩でもありますし、大学にいるころから研究室に顔を出したような人なものですから、割と率直に、血液事業、知っていることは知っている、知らないことは知らないと風間さんは言っておられて、それをお助けして、ある程度報告書の原案となる素材を提供したということでございましょう。  それからもう一つは……(岩佐委員「御自身報告書」と呼ぶ)実は、報告書を書いております。というのは、これは裁判で問題になったのですけれども、裁判で唐突として出されまして、これはあなたの書いたものかと言われて、全く記憶がなかったのです。それで、中身を読みましたら、私しか書かないであろうということは確認いたしましたので、それじゃ書いたのかなという程度のことでございましたが、書いてあること自体は間違いはございません。責任を持てると思います。
  111. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 この参考人報告書の中で、「AIDSが血液製剤の輸注によって感染し得る可能性は、血液事業関係者にとっては黙視し得ない問題である。」冒頭、そう述べておられます。  委員会の中でこのような立場に立って主張をされたのかどうか、どのような主張をされたのか、改めて伺いたいと思います。
  112. 徳永栄一

    徳永参考人 血液を介してうつるというのは第Ⅷ因子以外全部の問題でございまして、第Ⅷ因子製剤については――当時、検査法はございませんでしたので、漠然と日本血液の方が安全だろうという程度認識だったわけです、検査法が出ましたのはその二年後でございますから。そういうことも踏まえてできるだけ安全なものをつくりたいということと、Ⅷ因子以外に、血液事業全般に安全なものを出すには、やはり血液からうつるのだから何とか手を打たなくちゃいけないということで、いろいろなことは考えておりました。
  113. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 同じ小委員の安田氏が、日赤の採血血液からの第Ⅷ因子利用が全く顧みられないのは残念として、「国内自給にはクリオ利用に限らず、日赤の献血血液原料とした濃縮第Ⅷ因子製剤製造までを含め対策を立てるべき」と風間小委員長に意見具申をしておりますけれども、これができませんでした。この理由について、参考人はどうお考えでしょうか。
  114. 徳永栄一

    徳永参考人 先ほど来申し上げましたけれども、当時、一九八三年から八五年ごろまでの状況というのは、血漿量クリオでない限りは何ともならなかったという状況でございます。  当時の試算が、今考えるとちょっと私もおかしいなと思うのですけれども、当時のⅧ因子製剤濃縮製剤収率というのは一〇%程度じゃなかったかと思うのです。物の本に二〇%とかいろいろなことが書かれておりますけれども、一〇%となりますと、血漿量にしてやはり百リッターを超える量が必要で、それには当時の状況では無理でございました、フェレーシス採血が認可になっておりませんでしたので。その後、五十万リッターを集めたというのは、フェレーシスの方法が認可になり、それから、国費の補助というか、国費でフェレーシスの機械を全国に五年にわたって配付したのです。一千台になりますか、それによって血漿の採取が大いに進んだということでございまして、当時はちょっと難しかったように思います。
  115. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 最後になりますけれども参考人研究報告書で危惧をされたように、原料血漿のほとんどをアメリカからの輸入に頼る状況が血友病患者のHIV感染の悲惨な事態を招いたことは明らかだと思います。厚生省を初め血液専門機関である日赤などがもっと国内献血自給する体制をとるべきだった、強力にそういう方向で検討すべきだったというふうに思います。  先ほど来話があるように、小委員会は最初から結論ありきで、なかなか、五%しか使えないというようなことで、クリオについて耳もかさないという状況だった。このような会議の持たれ方自身に大いに問題があると思いますけれども、この点について、一体どこにどういうふうに問題があったのか。それから、参考人自身が、そういう中でも私はもっと強力に主張すべきだった、やればやれたのだというふうに今思っておられるのかどうか。その点について伺いたいと思います。
  116. 徳永栄一

    徳永参考人 血液自給という問題になるのですけれども、確かにおっしゃるように、第Ⅷ因子製剤についての製造体制というものはもっと早くとらなくちゃいけなかったのかもしれません。  ただ、日本の分画製剤の事業というのは商業主義が優先いたしまして、殊にアルブミンその他で非常に膨大な量を使っている。これは需要を包み出したわけでございますね。そうすると、そういうものを含めて全部をカバーするという議論にはなかなかなりにくいのです。  ただ、アルブミンを使われる患者さんと血友病の患者さんとは全く違いますので、血友病の方は第Ⅷ因子しかないわけですから、その意味ではクリオがあるよというだけでは済まなかったかもしれません。早く濃縮製剤までいかなくちゃいけなかったのかもしれませんけれども、これは赤十字の実力でございまして、当初はもっと細々とした事業だったのがだんだんと大きくなったということでございまして、とても分画製剤でそこまでいく能力がなかったということです。
  117. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 終わります。
  118. 和田貞夫

  119. 土肥隆一

    土肥委員 土肥隆一でございます。  今、徳永参考人のお話を聞いておりまして、やはり、一九八三年の六月にエイズ研究班が構成される、そして二年間そのまま放置されて、やっと加熱製剤の認可がおりる、その間に、五千人の患者さんのうち二千人がエイズに感染したという極めて重大な問題の中で、エイズ研究班がどんな動きをしたのかということが、私、つかめないわけです。  五回開かれたと。ぞして今おっしゃるのでは、招集者もはっきりしない。多分風間先生だっただろうと徳永先生はおっしゃる。それから、第一回の会議厚生省もはっきりとこの研究班はこういう目的でつくったのですというのも何かないような、漠然と出発して五回で漠然と終わった、そういう御印象ですか。
  120. 徳永栄一

    徳永参考人 印象が正確であったかどうかわかりませんけれども、多分そういうことではなかったかなと感じております。
  121. 土肥隆一

    土肥委員 大変困る話でありまして、どうしてそんな性質の研究班厚生省はつくらせたのか。そして、その研究班の目的意識もはっきりしなかった。  郡司さんの、余りはっきりおっしゃらないけれども、郡司さんがエイズ研究班をつくろうと決意したときには、どうも非加熱製剤濃縮製剤が危ない、それには緊急にトラベノール社の加熱製剤を輸入するかクリオに転換するか二つしか方法はない、こういうふうに、この二つしか選択肢がないわけでありまして、それがエイズ研究班の中に十分伝わったのかどうか、その辺はどうですか。
  122. 徳永栄一

    徳永参考人 少なくとも、加熱製剤を輸入といりような話を聞いた記憶が余りございません。
  123. 土肥隆一

    土肥委員 そうなりますと、一体このエイズ研究班というのは何のためにつくられたのかということであります。  先ほど徳永先生の話を聞きますと、例えば西岡さんなどは、かなり早くからエイズウイルスが血液製剤に混入しているのじゃないかということを知っていた。このエイズ研究班の会の運営、そのやりとり、そこから出てくるいろいろな問題解決への道というのは具体的に着実に一回から五回まで進んでいったのか、それとも、巷間言われておりますように、安部班長が独演会のようにしてこれを仕切って、ほかの研究班の皆さんはそれに反論ができなかったのか、そういう性格の委員会だったのかどうか、その辺の御感想をお聞かせください。
  124. 徳永栄一

    徳永参考人 独演会であったという話は私も新聞で承知いたしておりますけれども、私自身は独演会というほどの感じは持っておりませんでした。ただ、かなり発言が多かったことは事実でございましょうけれども、ほかの方も随時かなり激しい発言をしておられたように記憶しております。
  125. 土肥隆一

    土肥委員 そうしますと、緊急輸入も、あるいはクリオ製剤への転換もほとんどエイズ研究班のいわば中心課題にはならなかった、こう理解していいでしょうか。
  126. 徳永栄一

    徳永参考人 中心議題は幾つかございましたでしょうけれどもクリオのことについては本委員会での議論がございました。ただ、本委員会でやはり大きな時間を占めたのは、患者の認定の問題と、それから診断基準の問題なんかがございましたですね。クリオに切りかえるべき云々という話もかなりの議論がなされました。そのほかの、治療のことその他についての記憶はございません。
  127. 土肥隆一

    土肥委員 ですから、クリオの話は出たけれども、ここは緊急事態だ、とにかくクリオで切り抜けるしかないというような議論はなかったのですか。
  128. 徳永栄一

    徳永参考人 クリオでなければならないという筋での議論になったわけです。ただ、全体としてそれはアプループされてはいなかったということでございます。
  129. 土肥隆一

    土肥委員 それは、その当時の血友病の専門家の集団であるエイズ研究班の班員、あるいはその当時の学問的なレベル、あるいは日赤のプロバイダーとしての、要するに供給側としての問題点などなどあるかと思いますが、何が一番クリオでなきゃならないということにならなかったのかについてお述べください。
  130. 徳永栄一

    徳永参考人 結論クリオにならなかったということについての原因でございますが、これは、否定された記憶はありますけれども、なぜということになりますと、どうも記憶ははっきりしておりません、申しわけありませんが。
  131. 土肥隆一

    土肥委員 ですから、エイズ研究班を構成して、そこに何のために研究班をつくったかということの目的意識がはっきりしていないわけですね、結局は。  そして、徳永さんは供給者側ですから、クリオでいこうとなれボ、できます、こうおつしゃつているはずですね。だけれども、それは、徳永さんの立場からは血友病の専門家でないから物が言えなかったということを考えても、厚生省がこのエイズ研究班をつくったときの当初の目的である緊急輸入かクリオかという、もうその二つしかないということについての切迫感が全くなかったというふうにもう一遍言って、先生の御意見を聞かせていただきたいと思います。
  132. 徳永栄一

    徳永参考人 クリオについての議論はございましたけれども、少なくともクリオか緊急輸入かという二者択一の問題になったような記憶はございません。
  133. 土肥隆一

    土肥委員 ありがとうございます。終わります。
  134. 和田貞夫

    和田委員長 以上をもちまして徳永参考人に対する質疑は終了いたしました。  徳永参考人には、御多用中のところ、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。  午後一時から再開することとし、この際、休憩いたします。     午前十一時五十六分休憩      ――――◇―――――     午後一時二分開議
  135. 和田貞夫

    和田委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  厚生関係基本施策に関する件、特にエイズ問題について、午前に引き続き質疑を行います。  塩川参考人に御出席いただいております。  塩川参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中のところ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。厚く御礼申し上げます。  議事の進め方といたしましては、初めに委員会を代表して委員長から総括的にお尋ねし、次いで委員質疑お答えをいただきたいと存じます。  なお、念のため申し上げますが、発言の際は委員長の許可を得ることになっております。また、参考人委員に対し質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。  まず、委員長から塩川参考人お尋ねいたします。  いわゆる帝京大症例についてお尋ねいたします。  エイズ研究班による検討の際には、参考人と安部班長等との間に意見の相違があったと言われておりますが、参考人考え方は研究班会議の第一回から最終回まで変わりはありませんでしたか、簡潔にお答えください。
  136. 塩川優一

    塩川参考人 お答えいたします。  それに先立ちまして、最初に、エイズでお亡くなりになった患者さんたちに対しましては、心よりお悔やみ申し上げます。また、現在、不幸にして感染し、闘病生活を送っておられる患者さんたちに対しても心よりお見舞い申し上げます。  また、研究班の班員の一人として、多数の患者さんが感染されたという状況に対しまして、至らなかった点については心からおわび申し上げます。  それでは、御答弁申し上げます。  いわゆる帝京大症例につきまして、研究班におきまして討議が重ねられたわけでございますけれども、私はまず、この症例につきましてエイズではないかということを聞きまして、これは大変なことになったというふうに思った次第でございます。そして、これについて、詳しい症例を見せていただきましたところが、いろいろ私たちの知らないことも出てまいりまして、それについていろいろ皆さんとともに討議に参加したわけでございます。そして、この点につきましては、安部班長は非常に強くこれをエイズの症例と言っておられましたし、いろいろな御意見が重ねられて、そうして結論に達したわけでございます。  私としてはやはり、日本に既にこのエイズの病気が入っている、そういうことにつきまして非常に危惧をしておりまして、これはもう初めから終わりまで一貫してそういう考えでまいりましたわけで、特別、間でいろいろ意見が変わるということはございません。
  137. 和田貞夫

    和田委員長 参考人は、エイズ研究班の解散後、厚生省エイズ調査検討委員会委員長に就任され、帝京大症例を国内第二号のエイズ症例として認定されました。  本件については、もっと早い時期に第一号のエイズ症例として認定すべきではなかったかという意見がありますが、どう思われますか、簡潔に御説明ください。
  138. 塩川優一

    塩川参考人 この件につきましては、私は、いろいろな点から非常な努力をいたしたつもりでございます。しかし、それにもかかわらず、結末としてはどうも認定が遅くなったということになりましたのですが、これに対してはまことに残念だというふうに思っております。  後ほど御質問がありましたら、その経過を詳しく御説明しまして、これについて皆さんの御批判を仰ぎたいというふうに思っております。  以上です。
  139. 和田貞夫

    和田委員長 以上をもちまして、私からお尋ねすることは終わりました。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。木村義雄君。
  140. 木村義雄

    ○木村委員 自由民主党の木村義雄でございます。  塩川先生におかれましては、お忙しい中、ありがとうございました。また、本日は奥様までお越してございまして、大変恐縮をいたしております。日本エイズ問題の第一人者でもあられます、国内エイズ患者の第一号の発表、エイズサーベイランス委員会委員長、そして一九九四年、国際エイズ会議の組織委員長として御活躍された先生にお越しをいただいて大変恐縮をしておるわけであります。  実はきょう、先生が書かれた「セコイアの並木道」という本を持ってまいりました。この中で、   後天性免疫不全症候群であるが、本誌の次号が出るまでには判然とするのかもしれないが、この病気はすでに日本に入っているのであろうか。もし、この病気が感染症であれば、現在地球は狭くなっているので、すでに日本に入っているかもしれない。もしまだ入っていないとすればその理由は……。答えが待たれる。と書いております。答えは、これはもう先生に答えを出していただかなければいけないかもしれませんが、この「後註」で、   一九八三年の夏といえば、厚生省エイズ研究班をつくり、私も班員として参加したときである。したがってこの記事は、日本エイズの歴史の第一ページといえる。 こう書いてございます。  後の方に、これがいわゆる昭和六十年の三月二十二日で、また先生の本でございますけれども、   本日(昭和六〇年三月二二日)、厚生省AIDS調査検討委員会は、日本ではじめてエイズ患者を認定し、発表した。  今後、続々と患者が増えてくるとは思わないが、ついにこの恐るべき疾患が、日本にも上陸したことは注目に値する。 先生はこのように述べておられるわけであります。  まず、先ほど先生帝京大症例のことについてお話がありましたけれども、私は、順天堂大学が出してきました、今本に書いてありました、昭和六十年三月二十二日のいわゆる日本での一号患者、この方について御質問させていただきます。  それで、参考人委員長を務めておられましたエイズ調査検討委員会で、三月二十二日に、順天堂大学で診察をした同性愛者をエイズ国内第一号患者として認定した。が、この患者さんは、最近、いろいろ新聞やマスコミに出ておりますけれども、十年ほど生存をしていて何か亡くなられたということを言っておられます。  これは先生の関連のHIV疫学研究班ということで昭和六十三年の研究報告書でありますけれども、この本の中を見ましても、大変恐縮ではございますけれども、皆さん、大体五年以内にお亡くなりになっている。こういうことから見ますと、十年も長生きしたというのはおかしい、こういうお話がよくあるわけであります。  そこで、今先生の手元に、先生が先ほどおっしゃった帝京大症例と第一号患者の比較もございますけれども、その表、先生のそこに置いてあります。この比較表をごらんになられまして、先生はどのようにお感じになられますか。
  141. 塩川優一

    塩川参考人 木村委員から、私の本まで詳しく読んでいただいたということで、まことにありがたいというように思っております。  私自身、このエイズの問題に関係しまして、昭和五十八年からでございまして、非常に長い間たっておりますが、その間にこのエイズについての学問的な知識というのは、もう初めと終わりは大変変わっております。この昭和五十八年というような段階におきましては、本当に原因もわからない、治療法もわからない、その本態が全くわからなかった病気であったわけでございます。そういうところから始まりまして、現在、もうかなりよくわかってきて、まだわからないところもありますけれども、そういう状況まで来ている次第でございます。  この第一号症例というお話でございますけれども、これにつきまして、今ここに比較表をいただいておりますけれどもエイズの診断につきましては、「診断の手引き」というものがございまして、これはよく調べてみましたら非常にたくさんございます。これはやはり学問の進歩に伴って次々に改定されてきているわけでございまして、現在は、非常にわかりやすい、診断のしやすい手引になっております。いわゆる順天堂大症例が認定されたという昭和六十年のところでございますけれども、このときは昭和五十九年三月の「AIDSの臨床診断の手引き」、これは研究班報告書に出ておりますけれども、これに基づいて認定をしたわけでございます。  認定の詳細でございますけれども、簡単に申しますと、このときは、このエイズという病気は主として原因不明の細胞性免疫不全によって特徴づけられた疾患で、下記のごとき点が診断に役立つというふうに書いてございます。ですから、そういうことでこの症状に基づいて判断するということになっておりますが、この詳しいことは省略いたしますけれども、「臨床症状」というものが3のところに出ております。  一つは「全身症状」、発熱、盗汗、まあ寝汗、リンパ節腫脹、肝・脾腫、食欲不振、下痢、体重減少というようないろいろな症状がまずあるということでございまして、この順天堂大症例は、ごらんのとおり、著しい疲労感、リンパ節腫脹、関節痛、筋肉痛、血小板減少というような一般的な全身症状がございます。  それから、第二に「臓器症状」というのがございまして、これには日和見感染ということが書いてありますが、その中で細菌、真菌、ウイルス等の多臓器の感染症というのが載っておりまして、この症例では単純性ヘルペス、その他のカンジダ症、そのほか血小板減少性紫斑病というものが載っておりまして、こういう症状を伴っているということでエイズと診断するということになったわけでございます。  また、このときには既に抗体検査が行われるようになっておりまして、一番最後にありますように、エイズのウイルス抗体検査がございます。  この時点のエイズの診断というのは、ですから、抗体検査があって、そして臨床症状があるということで認定するということになっていた次第でございます。  そういうことで、この症例につきましては、当時、この委員会におきまして、まず小委員会というところがございまして、そこで専門先生方が検討する、そしてこの委員会に出してこられて、そして認定したということでございます。  それから、その先の十年というようなお話は、これは、私たちは患者さんの認定ということはいたしますけれども、その後どうなったかということにつきましては、国内の方はわかる方もありますけれども、大部分わからないし、また、それは特別調査いたしませんけれども、特に外国に行かれた、帰った方は、その後もタイなどからたくさんの外国人の女性が来まして、これはエイズということで診断されたわけですけれども、その後は、こういう人たちがどうなったかということは全くわかっておりません。ですから、私たちはその後の経過はわからないというふうに考えていただいていいと思っております。  そういうことで、この症例は、当時、この「診断の手引き」に従って診断をしたということで御了承いただきたいと思います。  なお、もう一つ、一言申し上げさせていただきますと、この症例につきましては、現在行われているエイズの「診断の手引き」によるとこれは該当しないのじゃないかということが言われておりますが、確かに「診断の手引き」が変わってきておりまして、現在はエイズに特徴的な疾患と言われる二十三疾患の一つに該当するものがなければいけないということになっておりますけれども、私は、この症例をもう一回見てみますと、下痢それから体重減少ということが当時訴えられていたという記載がございます。ですから、現在は消耗性症候群という、その二十三疾患の一つに該当するのじゃないか。そのときは詳しいそういう調査はしてありませんけれども、そういうふうにも考えている次第でございます。  以上です。
  142. 木村義雄

    ○木村委員 済みません。今の診断に合わないというのはその順天堂の患者さんのことですか、つまり、順天堂の患者さんは今の診断ではないということですか。
  143. 塩川優一

    塩川参考人 そうです。この診断の方を今言っております。
  144. 木村義雄

    ○木村委員 今、納得いただきたいという話があったのですけれども、これはちょっと納得しがたい面があるのですよね。  それは、まず、順天堂大の患者さんの例を挙げますと、この表で帝京大症例と比較して、空白が一つございます。「AIDSに最も頻発するといわれる特異的疾患/日和見感染症」ですね。これがない。帝京大はある。まず一番、ここがやはり最大の問題点一つだろうと思うのです。これはつまり、先生が言った「AIDSの臨床診断の手引き」を見ても、その部分がない。この手引と合わない。  それから、先生が言われました「報告前一カ月以上持続の症状」の中での、著しい疲労感、リンパ節腫脹というのがありますが、これは先生のお弟子さんの松本医師の報告では、著しいじゃなくて軽い、易疲労感、軽いという易疲労感とリンパ節腫脹、これも軽い腫脹だというふうに書いてある。それはもう先生よく御存じだと思うのです。  それからもう一つ、臨床診断だけではなくて「免疫学的診断の手引き」、これも今先生が言われたのですが、この中で、2の(1)の「Tリンパ球サブセットの成績判定上の注意」というところに「検査は同一対象について必ず間隔を置いて数回反覆施行し、」こう書いてあります。  この順天堂大の症例の方は、これは日本に本当に短期間帰ってこられて、先生のお弟子さん、松本医師のところに一月の十七日に来られた、十八日には何か帰国しているそうでありますから、恐らくこれは検査一回だけしかしていないのじゃないか。  そうなると、先生の言うこの「免疫学的診断の手引き」にも「けっして一回のみの検査成績をもって結論を出さない。」こう先生はおっしゃっておりますけれども、まさしくこれは一回だけの検査で判定をしております。ちなみに、帝京大症例の方は四回しているそうでありますが、この辺のことを考えても、これは先生がおっしゃっているその「診断の手引き」に則したということは、これは言えないのじゃないかと思いますよ。
  145. 塩川優一

    塩川参考人 まず一番先に、忘れないうちに訂正しておきますけれども、易疲労感というのは、疲労しやすいということでございます、軽いという意味でなくて。しかし、確かに御指摘のように、この手紙には何か軽いというようなことも書いてございますけれども、私たちは調査票というもので診断をしておりますので、調査票には著しい疲労感というふうに書いてありますから、それで診断をしたということを申し上げるわけでございます。  それから、抗体検査につきましては、今のこの「診断の手引き」には、数回その検査を繰り返すということは望ましいわけですけれども、この患者さんについては、どうもそこのところは私はわかりません。確かめなければいけませんけれども、当時は、非常にこの検査が困難な、また、日にちが非常にかかる状況だったということもあったのじゃないかと思っております。  以上です。
  146. 木村義雄

    ○木村委員 いや、その話を聞いていたら、これは納得できませんよね。ほら、笑っている先生方だっておられます。それで納得しろと言ったって、これは先生、そのような話だと、またもう一回ぐらい来ていただくようなことにならざるを得ないということになります。  それから、実際にその辺の議論は三月の一日、三月の八日、三月の二十二日と、こういうことで議論されているはずなんですな。ところが、この議論の経過を示す資料が見当たらない。不足している。それで私は、厚生省を通じて先生にこの辺の資料をぜひお持ちいただきたい、こう申し上げたのでございますが、いかがですか。
  147. 塩川優一

    塩川参考人 当時の資料につきましては、私のところには、手元にはございません。しかし、この診断につきましては、先ほど申しましたように、小委員会というものを開催いたしまして、そして反復して検討した、そしてこの「診断の手引き」によってこれでいいということになったわけでございます。  以上です。
  148. 木村義雄

    ○木村委員 これは九四年の八月三日にある新聞に出た、「もうすぐ国際エイズ会議ですね」という記事でありますが、この中で先生が、第一号患者のことについてのお話があるのですね。「米国から一時帰国して、訪ねてきた男性だった。あの時の症状は、まだ軽かったけれど、今はどうしているか……」先生はこう言っているのですね。  それで、先ほどの話で、もう外国に行った人は知らない。これはまたおかしな話でございまして、なぜそんなわずかな短期間しか滞在していなかった人をあわてて第一号に認定したか。帝京大の方は、安部先生がずっと診察をしていた、ある意味で患者さんですよ。これは患者さんというよりか、どちらかというと一見の客みたいな感じでございます。これは松本医師のところへ来られたというのですけれども、どういうような経緯があって松本先生のところへ来られたのでしょうか。  それから、こういう患者が来ているという事前の相談あるいは何か発表しよう、これにエイズ調査票を出そう、そういう相談が先生と松本医師の間であったのですか。  それから、先生本人がこのいわゆる第一号患者を診断されましたか。また、診断されなかったとしたら、先生はこういう第一号患者、実際にされたのはいつですか。その辺のことをちょっと。
  149. 塩川優一

    塩川参考人 お答えいたします。  今のお話によりますと、帝京大学の症例は非常に重かった、しかし、この順天堂大の症例は軽かったという御指摘でございますけれども、帝京大学の症例は、これは患者さんが死亡した後で、しかも解剖して、そしていろいろな所見を書いたわけでございます。死亡した患者さんですし、それからさらに当時の記録を読みますと、肝硬変症とかあるいはそのほかのいろいろな血液の輸血に伴う、例えば肝炎のウイルスの感染があるとか、そういうようないろいろな症状を伴ってきていて、それがここに記載されているわけでございますから、そういう点で、こちらは生きているわけですから、亡くなった方よりは軽いということになると思います。  それからあとは、一見の患者。一見という言葉は私はわかりません。先生はなれていらっしゃるのだろうと思いますけれども、一回来たと。一回でなくて何回か診察したと聞いておりますけれども、このときのエイズ調査検討委員会というものは、日本で、医療機関で、協力医療機関というところですけれども、そこで診察を医師がした場合にはこれは報告をするということになっております。ですから、外国から来ても、この診察をしてエイズと診断すれば、これは報告しなければいけません。  それから同時に、じゃ、なぜそういうことになったかといいますと、これは、日本に一時的に来ていても、その患者さんはほかの人に感染させる機会はあるわけでございます。ですから、予防衛生上、公衆予防上こういう方も全部報告をする、そういう規定でなっているのでございます。ですから、その点は今お話ししたとおりでございます。  それから、この患者さんがどうして来たかということでございますけれども、私たちのおりました順天堂病院でも、一日に三千人から四千人の患者さんが参ります。そして、こういう患者さんが診療を求めてまいりますので、そこで診療をいたすわけですけれども、こういう患者さんがどういう経緯でここに来たかということを調べたり聞いたりすることはございませんし、これは非常に個人のプライバシーにもかかわることでございますからいたさないわけですけれども、この症例につきましては、いろいろ疑問を持っている方が多いということで、私は調べてみました。  ちょっとこれを読まさせていただきます。  患者、これはA氏としてございますが、順天堂医院受診の経緯。A氏は、海外、主としてヨーロッパ、米国で仕事に十数年間従事していた日本人男性であった。この方は何回も日本に来ておられます。そして、このA氏が、交際し性的パートナーでもあった友人、外国人がエイズで死亡したことを知り、A氏自身がまた発熱、倦怠、下痢、リンパ節の腫脹、体重減少などの体調の変化に気づいたところから、ひそかにみずからもエイズではないかと考えるようになった。そして、海外の病院で一般的な検査を受けましたが、この当時はまだアメリカでもそんなにエイズの検査は広く行われていなかったものですから、余りはっきりしたお返事はなかったわけでございます。  そして、一九八四年の十二月に日本に来たときに、このときに日本人の友人B、この方は女性でございまして、これはもう前からこのA氏と友人として交際していたそうでございます。そして、この人にこういうことを打ち明けて相談したそうです。この際、日本で医師に相談して検査を受けようと決心したのですが、具体的にどこの病院で診察を受ければいいかということがわからなかった。たまたまその友人の知り合いに科学に詳しい友人がおりまして、その人にそれとなく相談しましたところが、何かどうも順天堂大学にエイズに詳しい医師がいるのじゃないかということを聞いたわけでございます。  そして、一九八五年一月、順天堂大学に電話し、結果的にC医師、先ほどお弟子と言われましたけれども、と連絡することができたということでございます。そして、アポイントをとって順天堂大学に来たということでございます。  私の調べましたところでは、ですから、友人二人を通して来たということで、ここまではようやく調べたわけでございます。  以上です。
  150. 木村義雄

    ○木村委員 先生、診断されたのですか。
  151. 塩川優一

    塩川参考人 それから、会ったかどうかということですけれども、私は、その前の年の三月に順天堂大学を退職しております。全く順天堂大学には診療するということはなかったのですけれども、この受け持ちの医師が非常に心配しまして、心配しましてというのは、どうもエイズの患者さんを診断したけれども、これをどうしたらいいか、しかし、お国の方からは診察したらすぐ報告をしなければいけないということを言われているということで、私に相談がございました。  それで、私は、ちょっと会ってくれと言うので病院に呼ばれまして、その患者さんと会ってお話はしました。非常に疲れた状況の患者さんだったというぐらいしか覚えておりませんけれども、お話をし、特別、診察もしないで帰ってきた次第でございます。その点で接触をしたということでございます。  以上です。
  152. 木村義雄

    ○木村委員 まず、今のお答えの中で、死亡した患者の方が生きている患者よりも重い、こういう話だから、当たり前だと。  これはまさしく、片一方は、これはもう先生が後で五月にエイズと認定しているのだからエイズだったのでしょう。これはもうお認めになるわけですな。今私どもが問題にしなければいけないのは、果たして先生が認定された第一号患者、これが患者だったのか。  そう言いますと、先生の先ほどのお答えではこれは到底納得できませんよ。先生方がつくった診断基準に合わないのですから。日和見感染症もない。また、検査の仕方も、先生が特に注意されているところが、回数が一回しかやっていない。そういうことであります。  それと、先ほどその患者の話が出ましたけれども、海外の病院でも十分でないからわからなかったのだ、こう言っておりますけれども、この患者は、フランス、ニューヨークあるいはカリフォルニアで直前まで病院に診てもらって、しかも、治療を要しない、こういうふうに言われているわけであります。日本の方がはるかに進んでいた、こういうことに先生の話だとなるのかもしれませんけれども、今の先生の御証言ではとても、順天堂の第一号患者はエイズだといって認定された、これはどうも間違っているのじゃないか、そう私は思います。先生、もう一度。
  153. 塩川優一

    塩川参考人 今、非常に厳しい御指摘でございますけれども、当時の「診断の手引き」、先ほどお話ししましたように一般症状と臓器症状がある、そして、それを参考にして診断をするということでこの症例が診断されたわけでございます。抗体陽性で症状が出ている、しかし、これはエイズでないというような結論に達することは私たちはなかったというふうに思っておりますので、その点ひとつ、当時の状況とそれから検査の状況で御了承いただきたいと思います。  それから、アメリカのお話ですけれども、これは、アメリカでどういう病院に行って、どういうことをして、どう言われたかということは、特別そういうことを調べる目的で聞いたのではありませんで、断片的なお話になりますけれども、当時、これは昭和五十九年の状況で、外国、特にアメリカは非常に進歩していると言っておりますけれども、十分な検査ができないような病院がまだたくさんあったというふうに聞いております。しかも、日本人ですから、この人はやはり日本に帰ってきちんと診断し、治療してもらいたいということで来たと思います。  なお、今、治療はどうだということを言われましたけれども、当時はアメリカでも日本でも、治療方法は、治療薬はなかったわけでございます。ですから、同じような状況だったというふうに思っております。  以上です。
  154. 木村義雄

    ○木村委員 先生先ほど、今の診断基準では順天堂の一号患者はエイズでなかった、こうおつしゃいましたよね。
  155. 塩川優一

    塩川参考人 先ほどお話ししましたのは、そうでなくて、現在の診断の基準でこの患者はエイズでなかったということがいろいろなものに出ておりますけれども、実際は当時の診断基準で診断するのが当然のことなんですけれども、しかし、私がその病歴を読んでみましたら、やせる、それから下痢があるというようなことで、当時はそういう病名がなかったのですけれども、現在は消耗性症候群という名前で、これがその「診断の手引き」の中に採用されております。実際、私たち、エイズの患者さんを診断しましても、この消耗性症候群による患者さんというのが初期の症状でございます。  この方は、そういう症状があったということで、今の診断基準でも恐らく該当するのじゃないか。しかし、これはもう少しその当時の検査が十分でありませんので断言するわけではありませんけれども、ただ、当時の診断基準ではなっても現在の診断基準ではこれはエイズじゃないというような議論が行われておりますので、一言申し上げさせていただきました。
  156. 木村義雄

    ○木村委員 それほどまでこの順天堂大の症例を言うのでしたら、当然、もう帝京大の症例はとつくにエイズに認定してよかったではないですか。
  157. 塩川優一

    塩川参考人 これはちょっと話が長くなるので申しわけないのですけれども、そういう御質問ですからお答えさせていただきたいと思います。  昭和五十九年の九月にエイズ調査検討委員会というものが設置されました。そして、これは厚生省で設置したわけですけれども日本全国の医療機関、そのときには六百の医療機関であったのですが、それが協力機関ということになりまして、そこで患者を診察したときには直ちに厚生省に報告するということになったわけでございます。  そのときは、この報告の方式というのは、主治医が診断をする、そしてその病院から都道府県に報告する、都道府県が今度は厚生省に報告する、厚生省エイズ調査検討委員会にかけまして、これを調査検討して、そして政府に、厚生省に報告し、また一般にも公表するという方式でございます。ですから、このときはもう全く新しい方式で認定をするということになったわけでございます。  私たちは、帝京大学がそのときに協力機関に入っておられまして、この趣旨はよく御理解いただいているというふうに思いまして、そして当然、もちろんそのときは、ですから、血友病患者さんでもどういう原因であっても報告すればすぐこれは発表する、それを途中で曲げるというようなことは、都道府県を通し、また主治医から来ておりますのでそういうことはできない、もうここで、もしそういう血友病のエイズ思者さんが報告されればすぐ認定するという体制になっていたわけです。  ところが、理由はわかりません。これからは事実だけ申し上げますけれども、その後、私たちは、やはり血友病の患者さんの中にエイズの患者さんがいるのだろう、そういうものがあれば早く報告していただきたいと思い続けたわけですけれども、報告がございませんでした。そして、その間に四例の患者さんが報告されているわけです。  この四例というのは、細かいことは申し上げませんけれども、そこで、小委員会で調べましたけれども、どうもエイズに該当しなかったわけでございます。そして第五例、ちょうどこれは六十年二月ですけれども、そのときにこの第五例の同性愛の方が報告されたわけでございます。そして、これはどうも本当のエイズらしいということになりましたが、もちろん、そのときに私たちは、帝京大学の症例はどうだろうかということがすぐ頭に浮かんだわけでございます。しかし、まだ帝京大学からは報告がございませんので、厚生省を通して、ぜひ報告をしてもらいたいということをお願いしたわけでございます。それで、発表したのが三月二十二日でございますけれども、どうしても三月二十二日には報告が間に合いませんでした。そのときに、私は記者発表でも、日本にはこういう血友病の方でエイズの感染者の方がたくさんいるのだろうということは申し上げたのです。そして、その二十二日の発表の五日後、三月二十七日に帝京大学から調査票が届いたわけでございます。  この症例がもっと早く、例えばエイズ調査検討委員会が始まってサーベイランス制度が始まった昨年の九月に報告されたら、当然これは報告されていたのだろう。この報告が、理由はわかりませんけれども、おくれたためにこういうことになって、そして今のような厳しい御質問をいただくようなことになって、これは私として本当に残念に思っていることでございます。  当時もう既に、当然、同性愛の方を先に報告すれば問題があるということは私はよくわかっていて、それだけの努力をし、そして厚生省にもお願いし、そして帝京大学もこれに同意していたのですけれども、間に合わなかったという次第でございます。
  158. 木村義雄

    ○木村委員 それは先生、おかしいですよ。そもそも、例えば帝京大のスタートは五十八年ですよ。五十八年の二回、三回、四回の会合がありました。特に一回目と二回目が、先ほどからの委員長質問でも、先生が変わられたという話ですね。二回で一応帝京大症例が否定された。しかし、その後、三回と四回の間にはスピラさんの話、恐らくそれは出ていたのじゃないですか。それからギャロさんの話、先生は御存じじゃないですか。すると、先生は知っていたけれども、帝京大から報告がなかったからやむを得ず自分の方を一番にした、こういうことなんですか。
  159. 塩川優一

    塩川参考人 ただいまお話ししましたような経緯で、この第一例というのがどうも残念ながら同性愛の症例になったわけでございますが、帝京大学の症例の方にちょっと話を戻しますと、これはもう既にいろいろなところで十分お話が出ているとおりでございますけれども、決してこの帝京大学の症例はエイズでないということは言われていないわけでございます。  要するに、昭和五十八年の六月という段階では、先ほどもお話ししましたように、エイズという病気の原因もわからない、そして診断方法、特に抗体の測定なんかは行われていない、ただ臨床症状というだけの状況、そしてまた診断基準も十分検討されていないという状況で皆さんがいろいろ議論をされた、これは医学的な議論であったわけですけれども、そして、幾つかの疑問が出されたわけでございます。  それで、検討は一回終わったわけですけれども、その後八月に、先ほどお話がありましたように、スピラ博士という方が参りました。そこで検討されたわけですけれども、このスピラ博士が来たとき、私が出席してこのスピラ博士の発言に対して非常に反対をしたという証言がされております。  しかし、私はどうしても出たという覚えがないのでよく調べてみました。田中眞紀子議員がたしか八月二十九日ということを言われたと思いますけれども、二十九日のところを調べましたら、実は八月二十七日から九月十日まで中国に、ちょうどアメリカ人の医師団に招かれまして講演に行っているのでございます。そして、これは私が家人と一緒に行きましたので、そのパスポートにも出国、入国というスタンプが八月二十七日それから九月十日ということで載っておりますし、また、私のメモ帳を調べましたら、ちょうどその八月二十九日には万里の長城と書いてございます。ですから、万里の長城からスピラ博士に会うということは実際不可能だったわけでございます。  ですから、この件につきましては、私は出席しておりませんけれども出席して私がスピラ博士にいろいろ反論したというような推測に基づく証言がなされまして、この国会の皆さんが一生懸命になってエイズの真相について究明しておられるところにそういう不確かな話をされるということがあったということは、私は、まことに残念だと思っておりますし、このエイズの真相究明のためには正しい情報に基づいた正しいお話をしていただきたいというふうに思っているわけでございます。  それで、ちょっとついでに一言申しますけれども、その後で、次の十月の委員会に、班長がスピラ博士と検討したという報告をされていたそうでございます。私はどうもこの報告をよく覚えておりませんけれども、八月にスピラ博士と会いまして、そして、いろいろ議論を班長及び班員の何人かが闘わせたそうでございますから、恐らく私たちが前の場合にいろいろ疑問に思った点を解明していただけたのだと思います。  そうしますと、その研究班会議で、こういう理由であなた方の言っていることは間違いだ、あるいはこういう事実がわかったとしっかり言っていただいて、そしてもう一回認定するということになれば、これで私も特別反対するようなことがなかったと思いますし、これでこの認定問題は解決したわけでございます。どういう理由でそこでそういうふうにならなかったということはどうしても私は覚えておりませんけれども、そういテ意味で、この帝京大学の症例の認定ということはいろいろな経過がありまして、そして、だんだんおくれてしまった。まことにこれは残念だと思っている次第でございます。
  160. 木村義雄

    ○木村委員 いや、スピラさんにも、報告はやはり聞いていたのじゃないですかね。報告は聞いていた、しかし、どんどんおくらせていった、それはもうお認めになった。やはりこれは重大な問題ですよ。認めないにしても、おくらせたということは、確かに二年後に認めたわけですけれども、これはおかしいな、何かそこで私どもが脇に落ちないことがあるのではないかな、そう思えてならないわけであります。  これは先生が二年ほど前に出版された「軍医のビルマ日記」という本ですね。ここにおもしろいことが書いてあるのですね。ちょっと読ませていただきます。  これは先生がビルマに行っておられたとき、   ある日、一人の兵隊が発熱を訴えて医務室に来た。ふとその顔を見ると、頬ににきびのような赤い丘疹がいくつかできている。痘瘡ではないかと思いついて聞いてみると、先日街の床屋に行ったという。すぐその床屋へ行って調べると、床屋の主人の顔にも発疹があり、果たして痘瘡の患者であった。伝染病を早期に発見した、と手柄を立てたつもりで連隊の副官に意気揚々と報告したら、ひどく怒られた。   伝染病を出したら連隊の恥であるのみならず、連隊長の責任問題になる、というのである。そこで、大々的に防疫体制をとろうとした私の考えは一ぺんにつぶされた。その後さらに二人の患者が出た。患者はすべて隣の野戦病院に隔離した。こうして、医学部卒業したての私が発見した痘瘡は、手柄になるどころか、遂に明るみに出ずに解決した。そして私も、はじめて世のなかのむずかしさを知った次第である。  何かこれは非常に今の状況によく似ている。先生ここに書いてあるように、あの軍隊でこういうのがたたき込まれた、たたき込まれて、何かやはりここで大々的な問題になるのはまずいというお考えが、この第一号の帝京大症例をずるずると延ばしていった最大の理由に私はなっているように思えてならないわけであります。  そしてもう一つは、第一号症例を出すということは、これは私、後から聞いたのですけれども、非常に名誉なことである。最初に話しました、先生エイズの第一号患者の発見者だ、こういうぐあいに出るわけであります。順天堂大と帝京大という大学問の先陣争い、こういう話も今言われているわけであります。しかし、結果としてこうなったのかもしれませんけれども、私はどうも、この最初の方の周りの状況を見たら、やはりこれは、ここで早々と第一号患者を認定するのにはさっきのような先生の自制心が働いたのかな、こう思えてならないわけであります。  そこの中で考えるときに、要するに、言ってみれば先生方の研究会あるいは国の審議会というのはいろいろな問題点を抱えているわけですね。それで、どうしても役所というのはその役所の意向に沿った、そのレールに乗ってくれる人をそういう委員に選びたい。  その中で、これは七月の十一日の「AIDSに関する血液製剤の取扱いについて」の話でありますけれども、第一号の患者発生が報告されると感情的なレベルまでになってくる、よって、「研究班は、AIDSの疾患概念の明確化と診断基準の確立を急務とし、患者の断定、公表は慎重に行う。」つまり、こういうことですな、診断基準の確立と疾患概念の明確化を先にして患者の公表は慎重にしろ。慎重にしろということは、役所用語で、するなということなんですな。これに先生が沿ったとしか思えませんけれども、いかがですか。
  161. 塩川優一

    塩川参考人 私のまた本を読んでいただいて、細かいことを御指摘いただいてありがとうございました。  この第一号の判定につきましては、これは、私はいわゆる安部研究班の一員でございまして、そして、この研究班の議事はこれは班長がおやりになっているわけでございますから、その中で私は御協力をしていたということでございます。その中で、私が明らかにこの症例の認定を反対するというようなことは一回もなかったわけでございまして、実は、もっとこの判定につきまして何回も議論すべきだったのじゃないか、今そういうふうに思っているわけですけれども、これはもう過去のことですから何とも申し上げることはございません。  まことにそういう点で残念でございますけれども、私は、特別その間にお役所からそういうことを言われる、あるいは何かサジェストをされるということは一切ございません。これは、研究班の一員として全力を挙げて、そして、いろいろな御質問に自分の学問の点から答えていたということを重ねて申し上げて、そういう今のような疑問は持たないでいただきたいというふうに思います。  それから、軍隊のときの感染症の問題を取り上げて、痘そうの問題を取り上げていただいてありがたかったのですけれども、それだからこそ、こういう新しい病気、感染症が出たら一刻も早く対策を講じなければいけない、そして、その広がるのを防がなければいけないということを特に私は自分の戦地の経験から思ったわけでございます。そういう線に沿って努力をしてきたわけですけれども、今言ったようないろいろなことがありまして残念ながらおくれてしまった、本当にこれは私は悔やんでいる次第でございます。  それからなお、この第一号の争いというようなことがおもしろおかしく書いてございますけれども、私は、学者としていろいろな研究をし、そしてそれを発表し、そして世の中に貢献しております。何も特別、第一号の患者を診たらそれが手柄になるというようなことはございませんし、帝京大学の症例は、一番初めに、昭和五十八年の六月にそういうことが出されておりますから、これはもういつ認定されたって、これは第一号、第二号と何も番号をつけてどうということはありませんけれども、早く診断されたというなら当然そういうことですし、私は、そういうことに対して何もこっちが第一号だ、第二号だなんていうようなことはございません。  そういうことについて非常にいろいろおもしろおかしく書かれていますけれども、私は、学者として自分の精神で、しっかりした精神で、そして少しも外力あるいは外圧に曲げない、曲げられないという人生を送ってきておりますので、そういういろいろな御推察の言葉はひとつぜひお返ししたいというふうに思っているわけでございます。
  162. 木村義雄

    ○木村委員 時間がなくなったので終わりますけれども、おくれてしまったということであればまだ救いの道はあるかもしれませんけれども、どうか、これがおくらせてしまったということでないようにお願いをしたい。そして、このおくれてしまったということが大変な悲劇的な結果を招いたということは、それは何か一言、先生の口からあってほしかったな、こう思えてならなかったわけであります。  以上で終わります。
  163. 和田貞夫

    和田委員長 鴨下一郎君。
  164. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 塩川先生、御苦労さまでございます。  今、木村委員からの質問の中で、安部さんのエイズ研究班の中でいわゆる帝京大症例が議論されたわけですけれども、その第一回目のときに、先生は、エイズの可能性があれば公表してしかるべき対応をとるべきだというような御意見を述べていたというようなことがさまざま報道等に、それから各参考人の意見の中にもございましたけれども、それは、先生はそのときはそういうような御認識があったということは事実ですか。
  165. 塩川優一

    塩川参考人 今御指摘があったとおりでございます。  私は、もうこれは一貫した考えでございまして、こういう重大な病気というものは、その病気がもし見つかればできるだけ早く発表して、そして広くこれを知らせ、そして対策を進めなければいけないという考えで一貫してきております。  ですから、先ほど十分申し上げなかったわけですけれども、私は、この安部研究班の中で毎回、ひとつ早くこういう病気を発見して診断しなければいけない。ただ、安部研究班の初めのときには、余り診断の方法などが十分明確化されていなかったことでいろいろな議論があって、これはエイズに非常に近いけれども認定できないということで終わったわけでございますから、早くしっかりした診断基準をつくり、そして、しっかりした調査票をつくって、そして、日本全国にこういうことを知らせて医療機関から報告を求めてもらいたいということを再三申し上げまして、私の申し上げたことはもちろん国の政策に非常に一致しているということで、エイズ調査検討委員会というのができたわけでございます。そして、それが現在エイズサーベイランス委員会として残っておりまして、私はこれが日本エイズ対策に大変役に立つているのじゃないかと実は思っているわけでございますから、今御質問がありましたように、私は、この考えは一貫して持っている考えでございます。  以上です。
  166. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 そういう認識エイズ研究班の一員として御活躍なすったわけですけれども、そのときに、第二回目あたりから先生が、この帝京大症例に関しては、疑わしいけれどもエイズでないのではないかというようなことで、順天堂大学の病理の先生ともう一度、言ってみれば再鑑定といいますか、確定診断がつかないということで病理検査を含めて御検討なさったということのようなんですが、そのときに、これはエイズじゃなかったのだという根拠はどういうところに先生はお考えになったのですか。
  167. 塩川優一

    塩川参考人 ただいま御質問の件でございますけれども、実は私たち、その委員会の中でいろいろ話しておりまして、どうももう少し、もう一回別のところで見てもらったらいいのじゃないかという話がたしか出たわけでございます。そして私は、じゃ、やってみようということで、大学の病理の先生に、もう一回ちょっと見てくれということを言ったのでございますが、ところが、このことにつきまして、ある参考人の方が、私に病理の標本を渡して検討してもらったというお話が出ております。  ところが、私は、それを最近調べてみましたら、この病理の標本というのは帝京大学から私の方にはいただいていないわけでございます。ですから、初めに帝京大学から出ましたその病歴を見てもらったということなものですから、同じものを見てもらって、やはり同じように、エイズだろうと思うけれども確定できないという返事を委員会に報告した覚えがございます。  標本を渡したというお話が、こういうことまで一々反駁する必要はないかもしれませんけれども、この病理の標本というのは大変重いものでございますし、しかも、ガラスからできているわけです。ですから、これは一回落としたりしたらせっかくの第一号症例が全く消えてしまうわけです。ですから、そういうものを簡単に手渡していただくということは考えられないので、渡したというお話は明らかに誤りでございます。  また、よく伺いましたら、病理の標本というのはやはり病理の先生一つの命でございまして、自分のところで見た病理の標本をもう一回ほかで見てもらうなんということはないということで、まことにその点は私が不行き届きだったかもしれませんけれども、病歴を見てもらった、そして、前と同じように言われたという報告だけだったということを申し上げておきます。
  168. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 先生厚生省のアンケートの中でお答えになっているところで、帝京大症例に関して、CDCの診断基準にはすべては合致しない、そして、そのエイズとして否定する根拠としては、一つは、ステロイド剤の投与があった、もう一つは、CD4が少ないときでも百八十で低下していない、それからもう一つ、いわゆる典型的な日和見感染がはっきりと見られない、そしてこの解剖所見について、順天堂の病理の先生の所見としては肝硬変症と敗血症だ、こういうようなことのためにこのケースはエイズと診断することはできないのだというふうにお答えになっているのですけれども、そうすると、先生、その病理標本を見ないで敗血症というふうにどうして診断なさったのですか。
  169. 塩川優一

    塩川参考人 まず、最後の敗血症というところだけ申し上げますけれども、これは、先ほども申しましたように、七月十八日の研究班で帝京大学で配られました資料を見てもらったということでございます。ですから、同じ資料を見てもらって、その中に、この肝硬変症とそれから日和見感染とカンジダ症ということが病理の標本の所見に書いてございました。私も、そのときに急いでいたこともあって、この敗血症と書いたのはどういうわけだと思ってちょっと聞いてみましたら、やはり敗血症で、括弧してカンジダ症ということで、当然なことでございますけれども、同じ症例を見て、同じ資料を見て、同じことを言ったということでございます。  それから、今ちょっと診断で問題になった点ということを御指摘になりましたけれども、これは余り細かいことを、医学的なことでございますので、お話しすることはございませんけれども、大体六つの点がこのときに、これは一人の委員が出したのではなくて、いろいろな方が、こういう点はどうだろうか。  先ほども申しましたような、私はこれは決して反対したわけじゃなくて、当時、患者を診た人が一人もいないわけです。ですから、いろいろな疑問点を皆さんが持っていて、こういうときにいろいろ討論したということですけれども一つは、ステロイド使用。ステロイドというのは免疫不全を起こすわけですから、CDC、アメリカの疾患予防センターの診断基準では絶対的にこれは避けるということが書いてあって、これが問題になったわけです。  あと、いろいろなことがありましたけれども一つは、やはり当時はカリニ肺炎とカポジ肉腫というのがアメリカでは非常に大きな合併症だったわけです。というか、それが一つエイズの特徴のように言われていたものですから、これがないということはどうだろうかということが言われたわけでございます。  そのほか、今のようなリンパ球の数とかいろいろございますけれども、これは余り細かいことになりますから省略いたしますけれども、そういうようないろいろなことでどうだろうかという疑問が出たわけです。  それで、ちょっとこれは申し上げておかなければいけないと思いますけれども、ですから、このときにどうして完全にエイズであるという結論が出なかったかということですけれども、このときは皆さん学者が委員でございまして、これは最高級の、一流の学者が皆さん委員をやっていたものですから、この学者の先生方はどうも、もしこれが間違ったらどうなるだろうかと。自分たちがはっきり言えば権威ということもありますけれども、これはエイズであると言って、後日、いろいろなまだ研究が進んでおりませんから、エイズでないということになったら自分はどうなるかという、そういう危惧がどっちかというと主だったように思います。  ですから、決して当局の圧力とか何かそういうほかの理由でなくて、やはり学者が医学的にどうもこれで断定していいのかなということで、今回は、これは非常にクロに近いけれども、なお検討する必要があるという結論になったというふうに思います。  なお、先ほども質問がありましたけれども、これが認定されなかったためにエイズの対策あるいは血友病対策が非常におくれたというような御意見がたくさんございますけれども、この決定のときには、エイズ患者が日本にはいないというようなことは決して言っておりませんし、また、日本エイズ対策がこれ以上必要がないというような発言は一切なかったわけです。現在は、これはもう少しいろいろなデータが出たらこれを判定することになるだろうということで、実際は、この決定的なことは、先ほども質問ありましたけれども昭和五十九年に血清の抗体検査ができるようになった、ここで初めて安心してこの患者をエイズと言えるようになったというのがその間の事情でございます。  以上でございます。
  170. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 ステロイドの使用がかなり有力な否定の根拠になったというふうな話を私も伺っているのですが、この方は、この経過表を見ますと、八二年の七月の以前に三十ミリ使って、その後三カ月で漸減していって五ミリになって、一回軽快して退院しているのですよ。その後に、第四回の入院がその翌年、八三年の四月なんです。それで、六月に日和見感染であるカンジダ症があるというふうに考えられたのですけれども、その時点でも、先生、ステロイドなんというのに関してはもう御専門でしょうけれども、一年前のステロイド投与が日和見感染の根拠になるというふうにそのとき先生は御判断なさったのですか。
  171. 塩川優一

    塩川参考人 ステロイドの問題でございますけれども、このときのアメリカのCDC、疾患予防センターといいますか、そこの診断の基準には、まず第一に、エイズというのは原因不明の免疫機能の低下、免疫不全を伴う疾患であるということで、それから、ほかに明らかな原因になるような治療法その他をやっていないということが載っておりまして、その明らかに免疫の低下を起こす疾患という中に、まず第一にステロイドの使用ということが書いてあるのでございます。これは私たちも、この後の診断基準の改定におきまして、これは少しおかしいのじゃないかというようなことで、だんだん改定をされております。しかし、かなり長くステロイドの使用に注意するということが書いてあったわけです。  ですから、当時、この昭和五十八年の六月のときに、エイズのことが全くわからない、診た人もいない。そうしますと、そういうふうにちゃんと教科書になっているような「診断の手引き」に書いてあるから、これはどうだろうかという疑問を皆さんが持ったということはやむを得なかったのじゃないかというふうに思っております。
  172. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 確かに、その時点では疑問に思われて、そしてなおかつ、そういうような診断基準の中で除外するべき項目があったからということは理解できるのですけれども、最終的に、先生は肝硬変症と敗血症というふうな診断をつけて、これはエイズとして今認定するべきでないという話になっているわけですよね、この先生のお書きになっている回答の中で。ということは、私はやはり、あの時点、八三年の六月時点で血友病の患者さんがエイズが発症し得るというような可能性が世の中に出てきたら、これほどの大きな被害を及ぼすということはなかったのだろうと思うのです。  ですから、この問題というのは非常に重要なことなんですよ。それは、先生は当時、先生知識すべてを動員して結論として至ったのかもわかりませんけれども、このいわば先生が否定したところが非常に厳しい言ってみれば曲がり角になっていることは事実だったわけですね、後で振り返ってみてですよ。  ということは、そのときに先生が敗血症と診断なすって、しかもカンジダの敗血症ですか、カンジダの敗血症は日和見感染ではないのですか、日和見感染症の一つじゃないのですか。
  173. 塩川優一

    塩川参考人 ただいまの御質問で、確かに後でこの患者さんがエイズと診断された、認定されたわけですから、ごもっともな御質問だと思います。  再三申しますけれども昭和五十八年の六月という時点で考えますと、この症例が特別このときにこれがあれば、後で言いますと抗体が陽性であれば、これは間違いなくエイズだということが言えるわけですけれども、そういうものがなくて、症状だけでいろいろなことをやらなきゃいけないというところで、皆さんがちゅうちょしたということはやはりやむを得なかったのだというふうに思っております。  なお、先ほどもお話ししましたように、後に重大な影響を残したということを言っておられますけれども、決してこれがエイズでないと言ったわけではないということと、それから、私も考えてみましたけれども、その委員方々も、非常に医学的にこれを判断するようにという班長からの命令だったものですから医学的にどうだろうかということになっていたわけですし、それから、この班員の方は、その後の班会議におきましても、決してもうこれでこのエイズ問題はいいのじゃないかなんということはなくて、エイズの重要性それから血液製剤に対する対策の重要性ということは皆さんが熱心に議論をしておられたということを覚えております。  そういうことで、ステロイドの問題はその一つで、そのほかいろいろなことで議論は出たわけでございますけれども、この後、エイズの知見というのはもう刻々変わってきているわけですね。ですから、昭和五十八年の六月という時点を考えてやむを得なかったのではないかというふうに思っております。  それから、先ほどの診断の問題ですけれども、確かに私もその答弁を書いた時点ではそういうことが言われていたということだけだったのですけれども、その後、実はよく調べてみましたら、やはり病理標本を見ていない。そして、前と同じ病歴を見て、そういうことだなということを見た先生が言っておられたということです。これも、決して帝京大学の症例がエイズではないというようなことを言ってはおりません。やはり決められないという状況だったと思います。  以上です。
  174. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 それじゃ、重ねて確認いたしますけれども、その帝京大症例に関する病理は、その当時は順天堂の病理の白井先生はごらんになっていないということですね。
  175. 塩川優一

    塩川参考人 先ほど申しましたように、どうも私はちょっと軽率だったということになりますけれども、病理の先生に見てもらうということは、私も実は標本まで見てもらうつもりではいたわけです。ところが、よく聞いてみますと、この病理の標本というのは非常に大事なものでありまして、また、一人の先生が見たものをほかの先生が見るというのは遠慮することになっていたということで、私が最終的に調べましたら、標本は預かっていない、これは帝京大学からいただかなかったということなんですけれども、しかし、こちらでも余り請求はされなかったと思います。  ですから、その辺はちょっと行き違いがあって、ですから私も、この報告をしました第四回、十月十四日のときも、自分でどういう報告をしたかよく覚えていなかったのですけれども、まあ、前と同じですというぐらいのことしか言わなかったと思いますので、このときに私が病理の標本を見てもらってあれはエイズでないと否定したというようないろいろなお話がありますけれども、これは明らかに間違いということになります。  以上です。
  176. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 帝京大症例とその後の先生の方で認定なさった第一号症例、本邦第一例との比較の中で、例えばCD4なんかは、帝京大症例は百八十ぐらい、そして第一号症例が三百五十ぐらい。それから日和見感染は、帝京大症例はあったけれども、第一号症例はなかった。予後に関しては、我々はその後のことははっきりわからないのですが、先ほど木村委員質問の中で、約十年ぐらい生存なさっていたというようなこともあったわけですね。  そういうふうに考えてみますと、よりエイズが発症していたのは帝京大症例で、そして、先生が八五年の三月二十二日に認定なさった患者さんの方はエイズ発症しているかどうかわからないというケースだったのだろうと思いますけれども、これでいうと八四年の九月に、ギャロ博士が安部先生帝京大症例に関しては抗体検査は陽性だという話があったのですが、その辺のところは先生御存じだったのですか。今問題になっている帝京大症例が結果的に抗体が陽性ならばエイズ考えられるというふうに今先生おっしゃいましたけれども、八四年の九月の段階、ギャロ博士の報告については先生は御存じだったでしょうか。
  177. 塩川優一

    塩川参考人 ただいま御質問一つの方ですけれども、順天堂大例は軽かったということですけれども、病気は初めは軽くてだんだん重くなるということがありますので、軽いからエイズでないということはないわけでございまして、先ほどお話ししましたように、「診断の手引き」によりましてこれはエイズと診断できるということだったわけです。  なお、つけ加えておきますけれども、これは確実じゃありませんけれども、この第一号の順天堂大学の症例はやがて髄膜炎といいます非常に重い病気を起こしたということも聞いております。  それから、十年も生きているというのは、これは私たち全然関知しないことでございますし、これについては何ともお答えすることはできません。  それから、ギャロ博士の件ですけれども、これは、帝京大学でアメリカのギャロ博士のところに血友病の症例をお出しになって、そして抗体検査を行ったということでございます。  これにつきましては、実は私もいろいろ聞いてみたりしたのですけれども、このエイズ調査検討委員会というのでは、いろいろな情報を、世界及び日本の情報を集めて、お互いに交換して、そしてエイズ患者の認定に役立つようにするわけでございます。その中に、当局からもいろいろ報告が来るわけでございます。  私の確実に聞いておりますのは、例の昭和五十九年十一月二十二日というところで、大阪大学で二十三例の血友病の患者さんの検査をしましたら、二例ですか、陽性だったということは、厚生省からも聞いておりますけれども、どうもこのギャロ博士の件は、私は当局からは聞いたという覚えがございません。これは、この翌年、昭和六十年三月二十二日にいわゆる第一号、第一号と言うと怒られるかもしれませんけれども、順天堂大の報告をしましたけれども、その前の日に某新聞に、多数の血友病患者が抗体陽性だったと、これはアメリカに出して抗体陽性だったと、その中にあの二例も含まれているということが新聞報道で出たわけでございます。それで、私はそのときに初めて聞いて愕然とした次第でございまして、これを早くから聞いているということはございません。  以上です。
  178. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 帝京大症例が限りなくエイズに近かったというようなことは先生もお認めになっているわけで、最終的に血清の抗体検査が陽性に出ればこれで確定するわけですね。  そのことについて、仮に前日とはいえ、新聞報道とはいえ、そういう可能性があるということを先生はそのときに御存じになった。そうすると、その本邦一例というのが、八三年の六月の時点で先生があれほど検討なさったあの血友病の患者さんの可能性があるなということは、そのときにはお考えにならなかったのですか。
  179. 塩川優一

    塩川参考人 先ほど申し上げましたように、エイズ調査検討委員会というのができまして、そして、皆さんからエイズと診断した場合には報告をいただくということで、これに、先ほどお話ししましたように、やはり帝京大学も協力施設として参加しておられたわけでございます。ですから、そのときにお出しになれば、実際、抗体陽性でなくても、書類的に調査すれば、そこでもう既にエイズという認定ができたかもしれません。  ですから、この点につきましては、残念ながら御報告がいただけなかった。しかも、その新聞報道は、三月二十二日の発表の一日前日でございます。二十一日に報告をいただいたわけですけれども、既にもう一月前に、ぜひ報告をしていただきたいということを、これは本当は非公式な申し入れですけれども、帝京大学にお願いしてあったわけですし、そういう時点でこの帝京大学の例は後で報告することになったわけです。  ただ、第一号、第二号ということを非常に皆さん言っておられますけれども、私は、第一号でも第二号でも少しも変わりませんし、今から皆さんが変えていただいて何らこの問題は差し支えありません。ただ、このエイズ調査検討委員会ができて、そして、皆さんから報告をいただく制度ができた中でこれが第一号と認定された、これより前に四例ございまして、五例が報告があってその中の一例であるということでございます。  それから、ちょっともう一つつけ加えておきますけれども、この四例の症例、これは認定されなかったのですけれども、その中には、もう既に前に、エイズではないかといって、やはり新聞報道ですけれども、あった例がございまして、これを報告した機関はこのエイズ調査検討委員会ができたときに改めて書類に書いて報告されて、もう一回検討されて、そして認定されなかったということで、皆さんが一生懸命協力していただいていたということを申し上げておきます。  以上です。
  180. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 私が申し上げていることは、一号、二号の先陣争いの話をしているわけじゃなくて、言ってみればエイズを早く見つけて日本の中で広がっていかないようにするために、多分、サーベイランス委員会も本来の目的があったのだろうと思うのですよ。そうすると、先生の頭の中には、もう既に八三年に、限りなくエイズに近いようなケースをもう御経験なさっているわけですよ。それでその後に、八五年になって第一号、しかも、十二月に来て、たまたま順天堂大学に一回だけしか受診しない方を本邦第一例として報告するということの言ってみれば臨床的それから疫学的、そしてさらに厚生行政としての意味が、そのときに第一号として果たしてこの例がふさわしいかどうかということをお考えにならなかったのですか、このことを伺っているのですよ。
  181. 塩川優一

    塩川参考人 お答えします。  ふさわしいか、ふさわしくないかということでございますけれども、私は当時、エイズ調査検討委員会委員長を務めておりまして、そこへ来た報告例について検討して、そして、それを認定するというお仕事をしていたわけでございます。  ただ、今お話しになりましたように、私は、帝京大学の症例それからそのほか、恐らく血友病の方がエイズにかかって発病しておられた方もあるかもしれない、そういう方の報告が早く来るようにということはいつでも念頭に置いてこの仕事をしていたわけでございますけれども、その点は本当に残念だというふうに思っております。  なお、ちょっと一言つけ加えさせていただきますけれども、この帝京大学の症例を含めて、どうも血友病のエイズ患者さんの報告はなかなか出なかったわけでございます。帝京大学の二例、報告がありまして、その後、また二例出していただいたということで、非常にゆっくりだったわけですけれども、これは、当時、帝京大学を含めて血友病の専門先生方、これは血友病の患者さんの診療に当たっておられます。そしてそういう中で、エイズが発症したということを、これはまず御本人に告知しなきゃいけません。それから、それを主治医が報告する。そして、都道府県を経て国あるいは委員会に来るわけでございます。  ですから、そういうプライバシーの点で主治医の方は非常に慎重だった。また、ほかの、エイズにかかった血友病の患者さんに対する影響ということも皆さんは非常に心配していたのじゃないか。私はそういうことを同じ医師としてしみじみ感じていたものですから、どうも、ぜひ早く報告しなさいというようなことが言えなかった面もございます。その辺の私の気持ちもひとつお察しいただきたいと思っております。  以上です。
  182. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 報告があったからその例を認めたと、第一号ですね。しかし、そのときに、先生の御記憶の中には、八三年に、病理の検査まで含めて検討するべきだというふうな形でのエイズの症例が頭の中にあったわけですよね。それにもかかわらず、本邦第一例というのは-もう既にギャロ博士の抗体検査の話だって発表の前日には新聞で先生はごらんになって、ああ、やっぱりなというふうに思ったのでしょうから、そうすると、さかのぼって二年前のあのケースが本邦第一例じゃないかというふうにお考えにならなかったのですか。
  183. 塩川優一

    塩川参考人 いろいろ御質問として非常に第一例ということについて帝京大学に御配慮いただいているのかということも思うわけでございますけれども、もう一つさかのぼって申しますと、私たちが安部研究班でこの第一例について検討したときでございますけれども、この発表の中では、非常にエイズに近い、しかしどうしても断定できない、これは皆さんが医学的に言っていたことでございます。  しかし、そのときに私は、このエイズ症例というのは非常に大事なんだ、ですから、安部班長に、もしあなたがこれは間違いなくエイズというふうに思われるなら、これはもう発表されたらどうですか、それから、あるいはいろいろ論文で訴えられてもいいのじゃないか、研究班ではどうも十分、そうだと言わなかったけれども、もっと広く知らせ、そして自分の学者としての信念に基づいて行動されれば、これは非常に役に立つのじゃないかということを申し上げた覚えがございます。  そういうことで、これはいろいろもちろん御事情があったと思いますけれども、やはりこの帝京大学症例というのはもっと早く発表されるのがよかったということは今おっしゃるとおりですし、今お話ししたようないろいろな経過をたどりましてその発表が非常におくれてしまったということは、私も初めからもうこれは十分予想していたことでございまして、今ここでいろいろ御質問を受けることになって本当に残念だと思っている次第でございます。  私は、ですから、もつどこの帝京大学の症例につきましても、これはもう一つちょっと申し上げておきますけれども研究班が五回会議をやっております。これは、この研究班でこの症例を認定するかどうかを決めるということになっておりましたので、二回、三回、四回とまたこの問題を出して、そして認定するかどうかということをもっと議論を積み重ねればよかったかな、これはもう後で考えていることでございますけれども、あのときどうしてもう少し議論を積み重ねなかったかということも私は考えている次第でございまして、決してこの症例を何とかして隠そうとか後送りしようということはなかったということを申し上げておきます。
  184. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 さきの参議院の厚生委員会の中で、松田重三さんが、帝京大の症例を認定しなかったのは行政に汚点を残さないため、そして、順天堂大の症例はこれを隠ぺいする目的があったのではないか、こういうような発言をなさっているのですが、それに対して先生、反論はございますか。
  185. 塩川優一

    塩川参考人 今の証言は、皆さんも今お聞きのとおり、すべて推論でございます。私たちはこの推論に対して、そうだ、そうじゃないというような議論をする必要はないと思っておりますけれども、事実として全くそういう当局からの圧力あるいは示唆ということはなかったと、私はすべて事案を申し上げておきます。決して、そういうことでこの発表をおくらせるとか、また、発表を抑えるということはなかったわけでございます。もうこれはいつこの症例が発表されても、特に後のエイズ調査検討委員会になりましたら、先ほど申しましたように、非常にオープンになっておりまして、その調査票、報告書が出れば、これは間違いないということになればもうおのずから発表されるわけですから、決してどこからも横やりを入れるということはありませんし、もちろん私たちは、そういうものでなくて、学問的に、そして自分たちの良心に従って行動してきておるわけでございます。  しかし、いろいろな事情、血友病患者さんのことを考えるとかいろいろなことがあってこういうふうにおくれてしまったのだろう、しかし、その結果に対しては、私たち、残念に思い、また、反省はしなければいけないというふうに思っている次第です。
  186. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 揚げ足を取るようで恐縮ですけれども、血友病患者さんたちのことを考えるといろいろなことがあって発表がおくれたと今おっしゃいましたけれども、それは具体的にはどういうことですか。
  187. 塩川優一

    塩川参考人 これはまず、やはり告知という問題が一番あったと思うのです。これはなかなか、今はがんとかいろいろな告知につきましても日本でもいろいろ問題になっておりまして、患者さんに告知するというのは非常に大変なことだと思うのです。血友病患者さんがエイズになったときに、その方たちにあなたはエイズですということを告知する、これはもう大変な苦痛だったと私は思っております。  しかも、それをそれじゃ発表するかということになりますと、いろいろなところでそういうプライバシーが漏れるのじゃないかという心配を当然持たれてしまうわけでございます。エイズ調査検討委員会またサーベイランス委員会におきましても、患者さんのプライバシーということを非常に強く意識しまして、そういうことのないように努力してはおりましたけれども、やはり患者さんあるいは主治医にとってもそういう御心配があったのじゃないか。これは、私が皆さんのお気持ちをお察ししているわけです。  ですから、あなた、患者さんがいるのだからなぜ報告しないのというようなことは、私は同じ医師として非常に言いにくかったということでございますが、帝京大学の二症例が認定されましてから次第にほかの医療施設からも報告がございましたけれども、しかし、これは非常にやはり少なかったわけでございます。  そういうことで、これは、ですから、私がもっと強くしなきゃいけないというようなことを言われれば申しわけありませんけれども、私は、血友病の患者さんの気持ち、それから血友病を診療していらっしゃるお医者さんの気持ちということをそのときに非常に強く、いつでも感じていたということを申し上げる次第でございます。
  188. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 その告知をしなかったために、例えば配偶者に感染を起こしてしまったとか、さまざまなほかの悲劇が波及していったわけですね。ですから、私は、先生が御記憶にあった八三年の帝京大症例、別に本邦一例がどっちだっていいのですよ、そういう問題じゃないのですよ、臨床的に血液製剤を介してエイズが蔓延しているという事実がもう少しつまびらかになっていれば、これはエイズの言ってみれば薬害が相当防止できただろう、このことを私は残念に思って先生に御質問しているわけです。  それで、その段階で最終的に第一例がアメリカのアーチストというようなことで出てくるわけですけれども、これは言ってみればシナリオに沿ったように、同性愛の人で、なおかつアメリカ在住でというようなことで、その当時の八五年の新聞にも「エイズ、初の日本人患者 米国在住の男性 昨年末に一時帰国 二次感染恐れなし」こういうようなことで大々的に報道されたわけですね。  そうすると、その以前に先生は実は血友病患者さんの中にエイズ患者さんがいらっしゃるということはもう既に御存じなはずだったのに、なぜそれが表に出てこないでこういうような形で第一例の報告がなされたのか。このことを私は非常に残念に思って、これからの薬務行政そのものをどういうふうにしていくかという段階で、この問題をもう少し真相をきちんとするべきだ、こういうふうに思っているのですが、いかがでしょうか。
  189. 塩川優一

    塩川参考人 ただいまの御意見のとおりでございます。私も、この血液製剤による感染というものがもっと広く早く知らせられて、そして早く対策をすべきであるということはよくわかっておりますし、現在も感じているわけでございます。  今、新聞の報道を出されましたけれども、これはそのときの新聞を書かれた方のことですから私は特別申し上げることはございませんが、そのときも、前の日に血友病患者さんが抗体陽性の例が四〇%も五〇%もあったということを申し上げ、また、当時のジャーナリズムの方も皆さんよくそのことを知っておられて、そして、その当日の新聞記事にはそういうことを書いておられませんけれども、私はそれをはっきりとそこで御説明をしておりますし、また、それを聞いたという方々もたくさんいるわけでございます。  しかし、確かに、重ねて申しますけれども、いろいろな事情でいろいろ発表なり報告なりがおくれたということは非常に残念に思いますし、その経験を生かして今後二度とこういうことのないように私たちはしなければいけないということで、私も自分としてもそういうことをしみじみ感じておりまして、今の鴨下先生の御意見に全く賛成でございます。
  190. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 時間がございませんので、最後の質問ですが、六十年の三月二十二日の、先生委員長でいらっしゃるサーベイランス委員会の、言ってみれば一般のマスコミに公開用の一枚紙の中の最後のところに、今私が申し上げた新聞の見出しと同じ文言があるのですよ。それで、この報告書は、今回の患者はアメリカに居住していて、五十九年の十二月に日本に一時帰国したときの受診で、その後は二次感染の発生はないものと判断されるというようなことで終わっているのです。ところが、裏では血友病の患者さんの中にどんどんエイズが広がっているという事実があったわけですから、私は、そのことについて、サーベイランス委員会委員長としてこのペーパーを発表したということについてはある意味で大変な責任があるというふうに思うのですが、いかがでしょうか。
  191. 塩川優一

    塩川参考人 そのペーパーを私はまだ見ていないのですけれども、確かに、そういう記事がもしあったとすれば、それは十分なことでなかったというふうに思っております。  ただ、血液製剤に対する対策というものが進められてきておった中でそういうようなことがきっと当局で書かれたのだと思いますので、その点は行き届かなかった、十分私が注意していなかったということについては申し上げなければいけないと思いますけれども、しかし、当時、血液製剤による感染ということは、三月二十一日の報道によりまして全国に非常に大きな見出しで、先生がごらんになったと思いますけれども、大きな見出しで至るところに出ておりまして、その後、この同性愛の症例の発表をしたということで、そういうことも何か関係があるかなというふうに思っているわけでございます。
  192. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 いや、先生が今ごらんになっていないというのじゃなくて、これは先生が発表なさった三月二十二日のペーパーです。ですから、新聞記事じゃございません。それを受けて新聞に報道がなされたわけですから、これが、エイズというのが同性愛の人に多く、なおかつアメリカの在住の人に多いのだという一つの言ってみれば固定概念が何かシナリオどおりに出されているのじゃないかということで私は申し上げたのですけれども、時間がないので、これで終わらせて…ただきます。  どうもありがとうございました。
  193. 和田貞夫

    和田委員長 横光克彦君。
  194. 横光克彦

    ○横光委員 社会民主党の横光克彦でございます。  きょうは、塩川参考人にはまことに御苦労さまでございます。  薬害エイズ問題は、今や戦後最大の薬事行政事件になろうとしております。しかし、この薬害問題の真相は、いろいろな委員会参考人等で進めてきておりますが、なかなか進んでおりません。二度とこうした悲劇を繰り返さないためにも、真相を解明するということが何よりも必要であるということは、これはもう申すまでもないわけでございますが、どうか、亡くなられた方々また遺族の方々、そしてさらに今苦しんでいる患者の皆さん方のためにも、きょう先生、包み隠さず真実をお話しいただきますことを、まず冒頭お願い申し上げます。  この薬害エイズの問題で、私だけでなくほとんどの国民がどうしても納得がいかない点が、私は三つあるのじゃないか。一つは、一九八三年の七月四日のあのファイルに載っておりました超法規的な血液製剤の輸入、加熱製剤の輸入、そしてクリオヘの転換、こういった問題が提起されながら、一週間後には見事に覆っている、ここの問題。それから、今問題になっております帝京大症例の血友病患者がなぜエイズ患者の一号に認定されなかったのか。さらに、八五年に加熱製剤が承認された後、なぜ厚生省はもっと強く非加熱製剤の回収に取り組まなかったのか。この三つが私はどうしても納得がいかないわけでございます。  その中で、きょうは帝京大症例のことを中心にお尋ねをさせていただきたいと思います。  参考人は、エイズ研究班が設置されたのが八三年の六月でしたね、六月十三日に第一回会議があったわけです。この以前に、公衆衛生局保健情報課の森尾課長補佐からエイズ対策について何か相談を受けませんでしたか。
  195. 塩川優一

    塩川参考人 その覚えは全くございません。  私の記憶では、同じ昭和五十八年の五月に厚生省にちょっと来てくれということを言われまして、そしてそのときに初めて、今度エイズ研究班ができる、それであなたはエイズについてどう思っているかということを聞かれたわけでございます。
  196. 横光克彦

    ○横光委員 はい、わかりました。  八三年の初頭に森尾課長補佐が芦沢氏に対してエイズの対策について相談しているのですね。ですから、先生のところにも相談がいったのじゃないか、こう思ったわけでございます。そのときは、公衆衛生局保健情報課でも独自にエイズ研究班を設置しようという動きがあったらしいです。そのときの班長候補だということをちょっとお聞きしたので、今のことをお聞きしたわけでございます。  先生は、エイズ研究班の班長である安部英氏とは大学時代の同級生ですね。ということは、非常にある意味では医学界の中で切瑳琢磨しながらもライバルでもあったわけですね。そういったお二方がこういった研究班になられた。安部先生は班長である。先生は、ある意味では副班長的な立場という認識はありましたか。
  197. 塩川優一

    塩川参考人 それだけお答えいたしますと、安部教授はもちろん私と同じクラスでございますけれども専門が全く違いまして、私はリューマチと膠原病という病気をやっておりましたし、安部先生血液専門家だったわけでございます。  それから、今の、副班長ということですけれども厚生省に聞きましたら、いや、そういうようなことはなくて、年の順に座っていたのだ。安部班長、たしか私より三つぐらい上ですから、年の順に並んでいた。それがたまたまいろいろテレビなんかに映りまして、どうも私が何か、それを副班長みたいな役目じゃないかという印象を与えて、私は非常に不本意でございまして、私は単なる一人の班員としてお手伝いしていたということでございます。
  198. 横光克彦

    ○横光委員 第一回の会議で、郡司課長が加熱製剤の超法規的な緊急輸入を提案したと参考人厚生省のPTの質問に答えております。しかし、郡司課長は、緊急輸入を全く考えなかったと答えているわけです。同じ質問に全く相反する答えが出ているわけですね。多くの班員も提案があったという回答をしておりますし、参考人は、この郡司課長の回答に真っ向から反論できますね。
  199. 塩川優一

    塩川参考人 今の御指摘ですけれども、私の回答は第二回という記憶だったのです。  それから、これは私は、しかし、どういう文脈の中で、どういうお話の中で出たかということは覚えていないのです。ただ、緊急輸入ということで、これはもう細かいことは省略いたしますけれども、ポリオのワクチンの緊急輸入ということを私は医者として覚えていたものですから、あっ、こういうことを言っているのだなと思っただけでございます。
  200. 横光克彦

    ○横光委員 はい、わかりました。  今の緊急輸入という言葉ですが、これはエイズ研究班の中で聞いた緊急輸入という言葉ですね。ですから、当然、エイズ関係であり血液製剤関係であるということは思い浮かばないわけはないと思うのです。そういったことで、緊急輸入という言葉を聞いたときに、血友病そしてまた血液製剤のことで大変危機感をお感じになったと私は思うのです。  その第一回会議で、参議院の参考人のときに松田先生が、帝京大症例安部英研究班長が冒頭簡単に説明したときに、参考人はその帝京大症例エイズ認定とする方向で非常に積極的だった、他人に感染するおそれがあるのでエイズと認定し国民に発表した方がよい、こういう主張をされたと言っていますが、これは事実ですか。
  201. 塩川優一

    塩川参考人 この言葉は全く私自身は覚えていませんけれども、私の考えとまさに一致していることでございます。
  202. 横光克彦

    ○横光委員 そして、その第一回会議がありました。それは六月十三日でしたが、その前に、六月二日に、実はトラベノール社から血液製剤の回収報告が厚生省にあった。そして、結局それは研究班には、その直後に、十日後に開かれた第一回の研究班会議には報告されていなかったわけですね。後でこの事実を先生が知ったときに、もし回収の事実がそのとき伝えられていたら研究班結論は変わっていただろう、こうおっしゃっております、朝日新聞で。  ですから、もし第一回の班会議でその回収の事実が報告されていたら結論は変わっていただろうとおっしゃっている、その結論は変わっていただろうということは具体的にはどういう内容ですか。
  203. 塩川優一

    塩川参考人 これは、私たちは研究班として血液製剤の対策について御諮問を受けているわけでございますから、この血液製剤に関するいろいろな新しい情報、新しい動きがあったら逐一それを出していただいて、私たちはそれに基づいて審議したいということで、こういう新しい情報があったら、それはぜひ聞かせてもらえれば、皆さんがまたそれについていろいろ考えただろうという意味で申し上げたわけでございます。
  204. 横光克彦

    ○横光委員 具体的には相当いろいろな問題が、その結論が変わっていただろうという中には含まれると私は思うのですが、その後に、第一回で紹介されております帝京大の男性血友病患者が亡くなっております。いわゆる免疫不全症状、帝京大症例というものですね。その後に第二回会議が開かれております。  ここで、今、松田参考人の話で非常に問題になっておるのですが、先ほど先生、一回目では非常に安部先生考えには同感だったとおっしゃった。二回目で非常にそれが否定的な考え、態度に変わった、そう松田先生は述べられているのですが、塩川、西岡氏らがということですね、これは事実ですか。
  205. 塩川優一

    塩川参考人 変わったというお話でございますけれども、これは、本当にこういう事実は全くないのでございまして、推測でそういうことを言っていただくと非常に困るわけでございます。
  206. 横光克彦

    ○横光委員 変わっていないということですね。ということは、安部英氏は帝京大症例エイズであると強く主張していた、それと同じ考えだったということですね。  ということは、参考人考え帝京大症例エイズ認定すべきだと、この一カ月間続いていた。そして、続いていながらも疑似症例になりましたね、この第二回で。これはどういうことですか。先生もあるいは安部英さんも松田先生帝京大症例エイズ患者だと認定してほしい、認定すべきだという意欲を持っていたのに、結果的には疑似症例になっている。この内容をお聞かせください。
  207. 塩川優一

    塩川参考人 これは何度も申し上げましたけれども、そこで初めて詳しい資料が提供されたわけでございます。一番初めは、ただエイズらしい症例がいるというお話でしたから、それはぜひお聞きしたい、しなければいけないということを申したのですけれども、第二回は、そういう具体的な記述が、記載が出されたわけです。  そうしますと、その中にいろいろ疑問がある。それで、先ほど申しましたように、まだエイズ知識が十分ないところですから、皆さんがいろいろな意見を言われた。これは決して、私一人がこれで自分の態度を変えてこれを否決といいますか、否決ではありませんけれども、疑似症例にしたということはありません。皆さんの大部分が意見を言われまして、そして、その結論を班長が発表されたわけでございます。
  208. 横光克彦

    ○横光委員 疑似症例となった、しかしこれは、いわゆるエイズだと確定診断はされなかったわけですけれども、限りなくエイズに近い患者であったということはお認めになりますね。  そのときに、この研究班のお一人が、第二回の会議が終わった後、塩川氏が会議終了後、エイズとしてもいいが、厚生省の立場もあるし、こう話したという証言があるのですが、こう言ったことは事実ですか。
  209. 塩川優一

    塩川参考人 何かそういう報道があるようですけれども、これは何か研究班の終わってからということと、いろいろな雑談をしている中でどういう文脈で何がよかったのかということもありますし、私は全く記憶がないことですので、これについてはコメントは申しませんけれども、それがもし厚生省の意見でこう決めたというふうにとられますと、これは大きな誤りでありまして、私は何ら圧力を受ける、サジェスチョンを受けるということはなかったということを改めて申し上げます。
  210. 横光克彦

    ○横光委員 会議後の雑談の中の話であるし、その真偽のほどはわからないのですが、こういったことをふと耳にしたような研究班員がいたとしたら、先生の思いがふとここに出ているのじゃないか、私はふと今そう思ったのでお聞きしたのです。  そして第三回目の会議、このときでも、しかし松田参考人の話では、かたくなに否定するグループがいたと、これは塩川さんと西岡さんであるという含みで言っているのですが。  先生、一回目も二回目も認定することには反対はしなかったと今おっしゃいましたね。そして、三回目はどうだったのですか。
  211. 塩川優一

    塩川参考人 これは、第二回と第三回でいろいろ検討して、そして、そこで確かに発表があったというふうに思っております。もしこれが間違いなくエイズだと皆さんが認めれば、これは認定するということできておりましたけれども、これはなぜ私と西岡委員だけが出ているかわかりませんけれども、血友病関係先生方も皆さんなお疑問があるということでは同じだったと思いますし、それを班長が、いや、これは確実にそうとは言えないという報告をされたわけでございます。
  212. 横光克彦

    ○横光委員 この第三回の班会議で、帝京大症例を解剖した病理の教授はエイズに間違いない、たとえ除外項目であるステロイド剤を使ったとしてもこれほど重篤な日和見感染症を起こすわけはないと主張したわけです。ところが、塩川班員が、その帝京大症例の病理標本を別の者に見せて診断を仰ごうということで順天堂大学の病理の教授に標本を持っていった。これは事実ですね、第三回で。
  213. 塩川優一

    塩川参考人 これは先ほど申し上げましたとおり、どういうところからそういうことが出ているか知りませんけれども、病理の標本は持っていっておりません。
  214. 横光克彦

    ○横光委員 ということは、これは松田参考人のお話と全然食い違うわけですが、では、第四回の会議で、順天堂大学の病理の教授の診断を報告しましたか。
  215. 塩川優一

    塩川参考人 これも先ほど申しましたけれども、この報告をしたということは余り記憶がなかったのですが、調べてみましたら、確かに報告はしたのですが、病理の標本は手渡されていないわけです。ただ前と同じ、二回の検討会、班会議で出された資料について見ていただいた。そして、それは同じだった。当たり前なお返事だと思いますけれども、同じだった。私としては、病理の検討をしてもらうということを実は考えていたのですけれども、それは実現しなかったということでございます。
  216. 横光克彦

    ○横光委員 松田先生の話では、第四回の会議で、順天堂大学の病理教授の診断はエイズでないと塩川参考人が報告した、結果的にはそのことにより帝京大症例エイズと認定されなかったと言っているわけですね。  帝京大症例エイズ認定されなかったということは結局反対されたわけですが、帝京大症例エイズと認定しない反対の理由、一番大きい理由は何でしたか。
  217. 塩川優一

    塩川参考人 今お話ししましたように、病理の標本を見て申したということは全く間違いでございます。病理の標本は全くこちらには渡っておりません。  それから、否定といいますか、問題点として提起されたことは、先ほど申しましたけれども、ステロイドの点とか、日和見感染、カリニ肺炎、カポジ肉腫というような当時は必ずあると言われていた症状がなかったというようなことを含めてあったわけですけれども、もうその三回目、四回目というようなときには詳しい検討のお話は全くなかったというふうに思っております。
  218. 横光克彦

    ○横光委員 今、ステロイド等の問題がございましたが、これは、帝京大症例と順天堂大の病理の教授、あるいはそういった大学同士の何か、先ほどからもお話が出ていますように、先陣争いのような感がするのは、これは私だけじゃないのじゃないかと思います。  いかに専門家であろうと、また、いかに研究者であろうとも、事薬害と結びつくような極めて社会性の強い問題において、第一号患者認定の際に、ステロイド剤を使ったという除外項目にこだわって反対をされた人が多い。どうも科学的な厳密さに固執する余り、最も肝心な患者さんのこと、血友病の患者さんの命のことは忘れられていたのじゃないかという気が私はするわけですよ。疑いの濃い危険は除去する、これは薬害を予防する根本でしょう。この基本的な考えを九人の研究班員がいる中で実行になぜ移すことができなかったのですか。要するに、それに反対する人がいたからなんです。私はそう思うのですね。  その反対理由もはっきりしない。例えば、ステロイドにこだわるとしたら、その第三回の一週間後にスピラ博士が日本帝京大症例を、これはステロイド剤を使っているけれども、この症状はアメリカではエイズなんだと診断しているのです、三回目で非常にステロイド剤使用が問題になった約十日後に。日本には診断基準はなかったのでしょう。CDCを参考にしたわけでしょう。そのCDCのアメリカの専門家であるスピラ氏が、ステロイドは使っているけれどもエイズなんだ、こう診断している。先ほど先生、ちょうどスピラ博士の会合のときには万里の長城にいらっしゃったということをおっしゃっていましたが、では、なぜ最初にそのように答えないのですか。厚生省プロジェクトの質問に、あなたは「記憶にない。」そこまではっきりわかっているなら、どこどこにいました、行っていませんと言えば済むことを「記憶にない。」それで、松田先生は、あなたもいたのだということを言っているわけですね、そのスピラ博士の会合に。それは恐らく、万里の長城に行ったというのなら、行ってはいなかったでしょう。  ただ、私が聞きたいのは、スピラ博士の診断結果をお聞きになったのはいつですか。
  219. 塩川優一

    塩川参考人 今の御質問のうちにいろいろなことがありますけれども、一番初めの大学の競争ということにつきましては、これは全く御推察でございまして、私たちはちっとも帝京大学と順天堂大学がこんなことで闘うような理由はないと思っていますから、これはひとつぜひお考えをやめていただきたいと思っています。  それから、どれから御返事したらいいかわかりませんけれども、スピラ博士の報告につきましては、何か説明があったということですが、私は実はよく覚えておりませんが、これにつきまして、もし帝京大学の班員の方がスピラ博士から反駁を聞かれたら、それはちゃんと研究班で発表していただいて、そして、これでもう一回認定について討論しようというような提案があってよかったのじゃないかと思うのです。どうもその提案がなかったというのが、私は、先ほどもお話ししたように、まことこ残念だというふうに思っているわけでございます。  それから、万里の長城につきましては、記憶がないと言ったのですけれども、これはどうしても自分では記憶がないので、それから調べたところが、明らかに中国へ行っていたということがわかって、それを新しい事実として今申し上げたわけでございます。  以上です。
  220. 横光克彦

    ○横光委員 スピラ博士の報告を聞いたのはいつでしたか。
  221. 塩川優一

    塩川参考人 スピラ博士との会合があったということは、これは実は後になって聞いたというほかありません。  というのは、当時のその会議では余り詳しい話がなかったので、私はどうも理解できなかったのじゃないかと思うのです。そういう重大な会議があったということが理解できなかったのだと思いますけれども、これについてはどうも記憶がありません。実は、後になって、こういうことがあったのだということをほかの人から聞いて、それがだんだん問題になってきたということで、私も非常に心配していろいろ調べたりしたわけでございます。
  222. 横光克彦

    ○横光委員 この第四回会議なんですが、これも参考人、非常にあいまいなんですね。四回目の会議出席したかという厚生省質問には、三回出た、六月、七月、八月と。四回目は十月ですね。そして、その次の質問には「再三のご質問であるので、もう一度考えてみたが、私は、第四回のエイズ研究班会議出席したという記憶がない。」それで、もう一回の質問には「昭和五十八年十月十四日の第四回会議出席したかどうかは記憶がない。」そして、ここで先生が先ほど言われたことが載っているのですが、答えているのですが、「この会議でスピラ博士との会談の報告を聞いた記憶がなく、結論も記憶はない。この会談に就いて後日聞いたところである。もし」ここが大事なんですが、「もし私がこの委員会でスピラ博士との会談の結果に就いて報告を聞いたら、アメリカの専門家の意見であるから全面的に賛成したと思うが、そのような記憶はない。」しかし、この第四回会議の冒頭に、直前に会ったスピラ博士の診断結果を安部英班長が述べているのです。  それで、先生、第四回会議出席した記憶がないと答えていますが、結果的には第四回会議には出席はされたのですね。
  223. 塩川優一

    塩川参考人 実は、私は当時、退職前でございまして、また、病院長とか教授、教室の主任をしておりまして、もう朝から晩まで会議が次から次へとありまして、その中でこの会議出席したかどうかということですが、そこで非常に重大なことが何か決まるとかあれば私はお返事できると思いますけれども、何分、十何年前のことでございますので、私の記憶がなかったということは正直にお返事しておりますけれども、しかし、それは、先ほどから申しますように、決してこの問題を逃げるとか隠すとかいう意味ではございません。スピラ博士がもしそういうことをちゃんと言われたなら、それはもう私たちはみんな賛成しただろうということは事実でございまして、私は絶対、そういうことを隠すとか、それからほかに曲げるというようなことには賛成いたしませんから、そういうお答えをしたわけです。
  224. 横光克彦

    ○横光委員 しかし、第四回会議出席の有無を何回も尋ねられた後、最後には、「第四回エイズ研究班会議において、おそらく私がこの結果を報告したと思う」と答えられています。要するに、この「報告した」というのは順天堂大の病理の診断結果ですね。これを第四回で「報告したと思う」と答えられている。結局、御出席されたわけです。そして、その後に追加で、結局、病理学者に検討を依頼したのは、研究班に提出した報告書について見解を聞いたので、標本は見ていないと追加してください、いわゆる病理学者が検討したと書いてあると帝京大学の病理標本を検討したと誤解されるおそれがありますので追加します、ここまで詳しく書かれている。  要するに、もうはつきり第四回は出席されているわけです。出席されている以上、私は安部英班長のスピラ博士の報告を聞いていると思うのです。もう一度お尋ねいたします。
  225. 塩川優一

    塩川参考人 今の病理の問題は、病理の標本を見てこれを否定したという非常に重大な御発言があって、しかも、標本を私に渡したというある参考人のお話があったものですから、あちこち尋ねましたところが、確かに渡っていないということだったわけでございます。  それから、この会議出席したか出席しないかということですけれども、何しろ十何年前のことでございますので、記憶がないということはやはりはっきり記憶がないと申しますけれども、ただ、どうもそのときに、スピラ博士のこういう報告があったからこの症例は認定した方がいいのじゃないかという提案があったということも全く記憶がありませんので、そういうことが行われたらよかったのじゃないかと後で考えているということでございます。
  226. 横光克彦

    ○横光委員 それじゃ、記憶がないということは、その第四回で大河内一雄九大教授と安部英氏の激しい論争があった、このことは覚えていますか。
  227. 塩川優一

    塩川参考人 それが出ておりますけれども、私自身はどうもそれも記憶がございません。
  228. 横光克彦

    ○横光委員 結果的にせよ、この血友病患者のエイズ認定が国内第一号とならなかったことが、私は、これは非加熱血液製剤の使用を継続する大きなその原因の一つになったと思っております。これは恐らくみんなそう思っているのじゃないか、あそこで何とかして別な道があったのじゃないか、このような気がしております。  結果的には大変大きな被害につながったわけで、その研究班の一員として、この問題について、最後に、どうか先生のお気持ちをもう一度お聞かせください。
  229. 塩川優一

    塩川参考人 この血液製剤の問題というのは、これは非常に大きな問題でございまして、今御指摘のとおり、この問題がなお十分に対策が行われなくて、たくさんの感染者の方が出たということについては、私たちも班員の一人としてやはり、これは先ほども申しましたけれども、申しわけないというふうに思っております。  しかし、私につきましては、今るると説明しましたように、やはりいろいろな事情あるいは経緯がありましてこういう結果になったということを御理解いただいて、それからさらに、今後こういうことの二度とないように、どうぞ国会の皆さんのお力によりまして御尽力をいただきたいというふうにお願いしておきます。
  230. 横光克彦

    ○横光委員 終わります。(発言する者あり)
  231. 和田貞夫

    和田委員長 鈴木理事さん、ひとつ御努力願います。  枝野幸男君。
  232. 枝野幸男

    ○枝野委員 きょうはありがとうございます。  さまざまなことをお話しいただいているのですが、ひとつちょっと基本的なところに立ち返って教えていただきたいのですが、エイズ研究班の最終報告で、結局、帝京大症例はどういう認定をされたのか、正確に教えていただけますか。
  233. 塩川優一

    塩川参考人 これは班長から発表されたわけでございまして、言葉が果たしてそのとおりかわかりませんけれども、これは非常に疑わしい症例ですけれども、やはりエイズとここで決定することはできないということだったと思います。
  234. 枝野幸男

    ○枝野委員 私も医者じゃないものですから、それから横文字に弱いものですから、発言が正しいのかどうかよくわからないのですけれども、結局、エイズではないけれどもエイズに似た病気、これをプソイドなんとか、プソイドというのですか、 そういう認定がされたのか。それとも、VAというのですか、エイズの疑わしい症候、そういった状況であるけれどもエイズとは断定できないという状況だったのか。それとも、ノン・ティピカルというのですか、そういう判断だったのか。どれだったのですか。
  235. 塩川優一

    塩川参考人 今、いろいろ英語で言われまして、私どもよくわからない面もありますけれども、しかし、これは私たちは、やはりエイズの症例という基本的な考えでいましたけれども、なお幾つかの疑問が残っている。この疑問に対して、しかし当時の知識では全く回答はできなかったわけです。それが残って、この例が、エイズに近い、限りなくクロに近いけれども決定できない、断定できないということだったと思います。
  236. 枝野幸男

    ○枝野委員 今の、疑わしいけれどもクロとまでは断定できない、限りなくクロに近いけれどもという認識は、研究班としての認識でよろしいですね、先生の個人的なものではなくて。だとすると、この委員会の中の質疑の中でも出てきますし、それから厚生省のしたアンケートなどの結果からも出てくるのは、国内でエイズ患者が発生をしていないという判断だったので、そこから先、その予防策というか、対策を立てることはしなかったのだ。特に安部班長がおっしゃっています。  そうすると、話はつながらなくなりますね。そうすると、安部先生説明がおかしいのでしょうか。
  237. 塩川優一

    塩川参考人 私の知っている範囲では、当時のその判定がありましたけれども、これはもう皆さんが、やはり、エイズがもう既に日本に入っている、血液製剤は非常に問題があるという認識の上に立っていたというふうに思っております。  ただ、安部班長は、これはもう間違いなくエイズだということから出発しておられましたので、その辺が、班長の考えはもうほとんどエイズということだったと思いますけれども、先ほどもお話ししましたように、やはり学者は、これをエイズと言って、後で、いや、違ったということになっては大変だという一抹の不安があったということでこういうことになったと思います。
  238. 枝野幸男

    ○枝野委員 だとすると、ここを教えていただきたいのですが、安部さんは、この委員会エイズ判断をされなかったので、そこから先の対策について我々はやらなかったのだという言い方をしています。現実問題として、研究班では、認定は今のような認定をされた、疑わしい、国内に入っているのはほぼ間違いないだろうという認識だったとすれば、安部さんの話は間違いで、そこから先も当然対策を考えたわけですね。
  239. 塩川優一

    塩川参考人 安部委員長のお考えというのは、私は何かいろいろなもので読んだだけでございますけれども、しかし、研究班のそういう対策に対するいろいろな討論あるいはそれに対しての努力というものは、特別これがクロに非常に近い状態だというような判定で、そう変わったと私は思っていないのでございます。
  240. 枝野幸男

    ○枝野委員 もう一つ、その認識は、要するに、クロに限りなく近いのだからエイズが国内に入っているのだという前提で対策を考えようという認識は、例えば郡司さんも研究班会議出席されていましたから、厚生省もその当時同じ認識だったという理解でよろしいでしょうか。
  241. 塩川優一

    塩川参考人 私は、知っている範囲では、やはり厚生省もそういう努力を続けておられたというふうに思っております。
  242. 枝野幸男

    ○枝野委員 そうなると、そこで、安部班長は別としてほかの皆さんは、国内に血友病の患者さんにエイズが発生をしているようだという前提で対策を考えなければということで話が進んでいたとすれば、だとすれば、やはりどうしても何らかの手を打つべきではないかという結論につながらないとおかしいと思うのですね。結果的には何も手を打たなかったわけですね。そこのところのつながりというのはどういうふうに理解したらよろしいのですか。
  243. 塩川優一

    塩川参考人 研究班は、御承知のように、診断基準小委員会血液の対策の小委員会に分かれて、私ば、診断基準の方の委員会として診断基準をつくって、これから調査をするという方向にいきましたが、もう一つ血液製剤に関する小委員会の方は、そういうことで対策を進める努力をしていかれたのではないかと思いますが、発足してからのことは私は存じ上げません。
  244. 枝野幸男

    ○枝野委員 これは、小委員会二つ分かれて、最終的には研究班としての報告になっているわけですから、最後、まとめるところでは何らかの、先生は認定の方だったとしても、血液製剤の話の方というのには全くその後はかかわらなかったのですか。
  245. 塩川優一

    塩川参考人 かかわらないということでは実際はまずいわけですけれども、実際は、そういう小委員会が二つできまして、そして親の安部研究班は残っているわけですから、そういうところで、研究班とそれから血液製剤の小委員会でいろいろ検討されたのだというふうに思っております。私の方の診断基準小委員会も、もちろん安部班長と御相談しながら進めてきたわけでございます。
  246. 枝野幸男

    ○枝野委員 少し話を戻したいのですが、エイズ研究班の中で帝京大症例エイズかどうかという話をしているときに、少なくとも一回目、二回目と、先生は、これはできるだけしっかりと認定をして早くオープンにするべきだというお立場であった。ところが、二回目のときに、データが出てきたのでそのデータを見たら、やはりそれは断定まではちょっと危ないのでということになった。そうした認識というのは先生だけでしたか、それとも、研究班全体に同じような空気でございましたか、その特に前半ですね。
  247. 塩川優一

    塩川参考人 この研究班の報告というのは、これはもちろん班長がおまとめになるわけですけれども、私の印象としては、大勢として、やはりまだこれですぐは言えないのではないかという意見が多かったと思います。
  248. 枝野幸男

    ○枝野委員 それよりも、むしろその二回目のデータが出てくるまでのところで、先生は、本当にエイズだとしたらできるだけ早く伝えないと、国民に伝えないと危険だから、いろいろなことがあるから対策をとらなければならないからというふうに思っていらっしゃったとおっしゃいましたよね、ずっと。その考え方ですね、基本的には。エイズが国内にいるのだったら、できるだけ早くオープンにして、それで対策をしっかりとれるようにみんなで考えてもらおうというような意識というのは、研究班の中で先生だけでしたか、それとも、それは多数の意見でしたか。
  249. 塩川優一

    塩川参考人 当時は、この研究班というのは日本の最高の研究者、権威が出ておりまして、こういう方たちは、私と同様にエイズに対する危機感というのを非常に持っていたと思いますので、皆さん、やはり同じ考えで、対策を進めなければいけないと思っていたというふうに思っております。
  250. 枝野幸男

    ○枝野委員 そこで、先はどのように、非常に疑わしい、クロに、真っ黒に近いけれども断定はできない、だけれども、国内の血友病患者に患者が発生しているというふうな疑いは相当強いという判断であったとすれば、一つは、その対策をきちんと立てる、それは風間先生の小委員会だったとしても。もう一つは、特に血友病の患者さんを中心に、こういう危険が出てきていますということを知らせるべきだ。  広く伝えるべきだというような議論というのはなかったのですか。それは班の中であったかどうか、それから先生自身の意識の中でなかったかどうか、教えてください。
  251. 塩川優一

    塩川参考人 この件につきましては、私も記憶がございませんけれども、皆さんは十分危機感を持っておられたと思いますし、私はもう初めから、広くこういう情報を伝えて、そして国民の皆さんが予防に協力するようにということを伝えるべきだというふうに思って、認識していた次第でございます。
  252. 枝野幸男

    ○枝野委員 ところが、結果的にはそれがなされていなかったわけですね。本人は一部否定しているところがありますが、安部班長は血友病の患者さんの前で、大丈夫だ大丈夫だとかなり後の段階までおっしゃっていたわけですね。  そうすると、そういった情報をオープンにしていかなかったのは、それは安部さんの、班長の意向が働いたからだという理解しかしょうがないのですが、それでよろしいですか。
  253. 塩川優一

    塩川参考人 これはやはり、研究班でございますから、班長さんがそういう諸般の状況を見てどういう行動に出るかということを判断されたというふうに思っております。もちろん班員としても班会議のときに、私、今全然覚えていませんけれども、いろいろな意見を皆さん申したというふうに思っております。
  254. 枝野幸男

    ○枝野委員 今度は時代が新しくなってからのことをお伺いしますが、先生は今のような御認識を持たれて、非常に強い危機感を持って、なおかつ帝京大症例を見て、日本の国内の血友病患者にエイズが発生しているらしいと、断定まではできないけれども、かなり疑いが強いという認識を持っていらっしゃって、その後、安部研究班がなくなった以降、まさに先生がそれにかわって、日本エイズに関する学者さんとしては最高の責任者の立場に立たれたという理解をしておりますが、その段階で、例えば、先ほど来、順天堂大症例と帝京大症例はどちらが先に云々という話、そういった細かいことは別といたしまして、もっと大筋の、大枠の話として、国内の血友病の患者さんは大丈夫なのか、そこに対する感染の広がりは大丈夫なのかという危機感はその段階でもより強くなったのではないかと思うのですが、いかがですか。
  255. 塩川優一

    塩川参考人 ただいまの御質問のとおりでございまして、私は常に、血友病の患者さんの中にエイズ患者さんがふえていくのではないかという認識を持っていたわけでございます。  ただ、一つ、その間に、先ほど言ったようないろいろな事情もあると思いますけれども、御報告は、帝京大学の症例のほかには昭和六十年の三月まではなかったわけでございます。
  256. 枝野幸男

    ○枝野委員 帝京大からその症例の話が、報告が上がってこなかったというのは、それは帝京大にも事情があるのかもしれませんが。  それから、いわゆる実態把握委員会というのですか、先生委員長をされた委員会ですね、サーベイランス委員会というのですか、そのところの委員長の立場としては、そういった段取りというものを大事にしなければならないのだろうと思います。  しかし、先生がまさに日本エイズの権威、第一人者という地位が確立をした段階で、先生がそれまでずっと抱いてきた懸念とか、それから知っていることを、例えば血友病の患者の皆さんに、ある…は国民にオープンにするということは、先生個人、学者さん、お医者さん個人の立場としておできになったのではないかと思うのです。ところが、現実にはそれがなされていなくて、それ以前の第一人者であった安部さんが安全だ安全だと言い続けたのをずっと引っ張ってしまった。そこのところをどういうふうにお考えになっていますか。
  257. 塩川優一

    塩川参考人 十分な努力をしていなかったということを言っていただきますと、まあそういうことにもなるかと思いますけれども、私やはり、この時点で、血友病患者さんの中にエイズ患者さんがおられるという事実について、血友病の専門家の方からもいろいろ、世論に訴えるというようなこと、あるいは情報を広めるということをやっていただいた方がよかったのではないか。  私は残念ながら血友病の専門家ではありませんので、その点、確かにその方面の努力は足りなかったと思いますけれども、私は常にこの問題の重要性ということをいつでも認識して、そして、少しでもこういう患者さんの発生が起こらないようにという努力は自分なりにはしてきたというふうに思っております。
  258. 枝野幸男

    ○枝野委員 では、少し細かいことですが、先ほど来、帝京大症例先生が診断基準の話の責任者になられてから、帝京大から症例が上がってこないので、厚生省を通じて催促をした。  催促をしたのはどの段階ですか。先生委員長になられてすぐに厚生省に、例の帝京大症例の話はという話をしたのですか、それとも、しばらく待ったのですか、その時間的な関係を教えてください。
  259. 塩川優一

    塩川参考人 時間的なことと言われますとちょっと記憶がないのですけれども、しかし、いずれにせよ、エイズ調査検討委員会というものが五十九年の九月に発足したときには、これはもうあらゆるエイズ患者、もちろん血友病の方もあります、同性愛の方もあります、あらゆるエイズの患者さんをここへ発表していただくということで日本でこういう新しいプロジェクトができて、そして新しい情報はすべての人に知らせ、また、厚生省がこれを対策に用いて日本エイズから防ぐ方向で努力するだろうという非常な希望に燃えて委員会を発足されたということを申し上げておきます。
  260. 枝野幸男

    ○枝野委員 大変失礼なんですが、先生帝京大症例を安部研究班の中で見て、そのとき抱いた危機感というものを考えれば、先生の今この場所での証言考えれば、先生エイズ調査検討委員会委員長になられたときには、もうすぐに、あの例の帝京大症例はもう一回ちゃんとやらなきゃいかぬ、その後はいろいろと学問も進歩しているのだからちゃんとやらなきゃいかぬと一番最初にぴんときて、本来なら直で帝京大に対して、あれ、もう一回ちゃんとやり直そうやという話をされてもいいぐらいだと思いますし、そうじゃないとしても、厚生省を通じてというのはかなり早い段階でないとおかしい。  五十九年の九月に先生はなられたわけですね。それが少なくとも半年近く結果的には遅くなったわけですね。これは、半年近く帝京大がおくれたのではなくて、そのうちの半分ぐらいは先生の方からの催促がおくれたのではないのですかね。
  261. 塩川優一

    塩川参考人 調査検討委員会ができまして、日本でそういう新しい調査のシステムが発足したわけです。それで、これに帝京大学も協力機関として参加し、それからその診断基準あるいは調査票もお渡ししているわけですから、私たちとしては、当然もうあの症例も出てくるだろう。実は、いつ出てくるかというようなことを時々考えたこともあったのですけれども、そういうことで過ぎてしまった。そして、例の順天堂大学の症例が出てきて、これはまだ出ていない、何とか早くしてもらわなきゃいけないということでお願いした。そして、五日間発表からおくれて帝京大学から報告があった。  そういう経緯でございまして、まことにこれは残念だと思いますし、確かに御指摘のとおり、もう毎日毎日、九月から帝京大学に早く出せと言うべきだったということもあるかもしれませんけれども、私は、当然御理解をいただいているというふうに思っていたわけでございます。
  262. 枝野幸男

    ○枝野委員 今の話、厚生省も、安部研究班以来、人はかわっているでしょうが、この問題にずっと取り組んでいるわけですから、厚生省の方の持っていた危機感というのはどんなふうに理解、先生委員長になって帝京大症例を待っている間というのは厚生省先生と同じような危機感をお持ちだったのですかね。
  263. 塩川優一

    塩川参考人 厚生省は、まあ厚生省はといってもいろいろなところがございまして、私が厚生省はどういう考えということを御質問いただいてもとても答えることができませんけれども、私の関係していた課におきましては、私たちエイズ調査検討委員会を開き、そこへ事務局として御出席になって私たちの議論をいつでも聞いておられたわけですし、その中で、いや、少し発表しない方がいいのじゃないかとか、おくらせた方がいいというような、当然そんなような考えがあるのじゃないかと皆さんが言っておりますけれども、そういう事実は全くございません。私たちの考えでいます方針に沿って、そして帝京大学にも督促していただく、そのほか努力をしていただいてきたというふうに私は理解しております。
  264. 枝野幸男

    ○枝野委員 ありがとうございました。
  265. 和田貞夫

    和田委員長 岩佐恵美さん。
  266. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 参考人は、一九八三年のエイズ研究班から始まって一九九四年の国際エイズ会議組織委員長の任まで十一年間、途切れることなく厚生省エイズ関係の各種委員会委員委員長を歴任されておられます。  参考人日本エイズ行政とのかかわりは、厚生省の担当課長のだれよりも長いと思います。学者、専門家として人の命を最優先する立場から、血友病患者のエイズウイルス被害について、どんなわずかな疑問でも疑わしきは罰する、そういう立場から発言し行動することは、私は当然の使命であるというふうに思います。参考人はそのような立場で行動されてこられたのかどうか、その点について、時間が短いので簡潔にお答えをいただきたいと思います。
  267. 塩川優一

    塩川参考人 御指摘のとおり、私、長い間、エイズ問題に関係しておりまして、自分で誠心誠意努力してきたつもりでございます。今のような御指摘に対しても、私は、血液製剤の問題、これは日本で非常に大きなエイズの問題であるということは認識して行動してきたつもりでございます。
  268. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 ここに「NHKスペシャル エイズ危機」という本がございます。これは参考人が監修された本でございます。  この本の最初の文章を参考人は書かれておられます。この中で、「日本では、エイズ患者の第一例は一九八四年に報告された。」そのように記載をされています。これは御記憶だと思います。それで、八四年に第一例が報告をされたということは、一体、第一例というのは何を指すのかということなんです。  ちなみに、参考人は、厚生省帝京大症例についての質問に対して、「実際にこの症例がエイズと確定されたのは、昭和五十九年、血清のHIV抗体の測定法が開発され、その年の夏以降抗体の陽性が証明されたからであった」と答えておられます。  つまり、この第一例の報告というのは帝京大症例のことなのかどうか、その点について伺いたいと思います。
  269. 塩川優一

    塩川参考人 大変古い本のことでございまして、私はその記述に全く記憶がございません。しかし、帝京大学の症例につきまして、これはエイズとしては日本の第一例と言ってもいいのじゃないかということは、私は常に考えていたということは申し上げていいと思います。
  270. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 ちょっと委員長、これを参考人にお渡しいただきたいのですが。  古い本と言われましたが、この本の発行は九二年七月二十四日第一刷です。この手元にありますのは三刷で、十月三十日のものでございます。ですから、そういう古い本ではございません。  それで、今言われたように、恐らく帝京大症例であろうというふうに思いますけれども、ちょっと確認……。
  271. 和田貞夫

    和田委員長 参考人、ごらんになってください。
  272. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 新しい本ですね。古い話ではありませんね。それで、一九八四年、第一例が報告されたというふうに記載されていますね。
  273. 塩川優一

    塩川参考人 古い本、新しい本ということでございますけれども、これについては何とも申し上げられませんし、それから、私もたくさん本を書いたり論文を書いておりますので、そこでどういう気持ちで書いたかわかりませんけれども、今委員の御指摘になったことは、ちゃんと八四年と書いてありますから、それはお認めいたします。
  274. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 私は、なぜ参考人がこの本の中で八五年三月のみずから発表された同性愛者の患者を第一号、第一例と記載しなかったのか、これは疑問だし、矛盾だというふうに思うのですね。  先ほどからも、第一号、第二号、どうでもいいのだというふうなことを繰り返し参考人は言っておられるわけですけれども、私は、その第一号の症例について、順天堂大学の松本孝夫医師に直接お電話で話を伺いました。そうしますと、その第一号患者というのは、CD4三百五十のプレエイズの患者であった。このことについて、私は、発表する責任者の参考人が知らなかったはずはないというふうに思っております。  あなたが編集委員長を務められた「日本エイズ症例」というのがあります。これです。これも私、このことについて、去年の十一月八日の当委員会質問をしたわけですけれども、この本を幾らひっくり返して見ても、順天堂大の第一号症例というのは出てこないのです。どうしてこれは、参考人がやはり編集委員長を務めておられるわけですから、このエイズ症例に出てこないのか、その点について伺いたいと思います。
  275. 塩川優一

    塩川参考人 第一号、第二号という話は、この委員会で認定した第一号ということで皆さんは使っておられるわけで、いろいろな例が第一号になったり第二号になったりすることは少しも構わないと思っていますが、今お話しのプレエイズということは、エイズの軽いというような意味をもって多分担当医師が言ったというふうに思いますけれども、当時の、昭和六十年の時点では、先ほども説明しましたように、HIV抗体が陽性で何らかの臨床症状があればこれはエイズとして認定するということになっておりましたので、いろいろな例が認定されるということがあるわけですし、その中には軽いのも重いのもあるということで御理解いただきたいと思います。  それから、今の「日本エイズ症例」につきましては、これは、医師の皆さんに集まっていただいて症例検討会というのをやりまして、そして、日本ではエイズの症例を見ることがほとんどないので、ひとつ何とかこれがわかるような本をつくらなければいけないということでこの本をつくったわけでございます。それは、皆さんが持っている症例の中で教育的に参考になる例を出してもらいたいということでこの本ができたわけでございまして、全部の認定された症例あるいは日本の全部の症例をここへ載せるという目的でつくったのではございません。  それからもう一つ、ちょっと申し上げておきますけれども、この例は……(岩佐委員「もうちょっと短く」と呼ぶ)もう時間のことがございますからね。プライバシーの点で、この例がどれであるというようなことを固定しなければ、これがある、ないということは言えないのでございまして、そういうような努力をこういう本についてやっていただきたくないということだけ一言申し上げておきます。
  276. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 要するに、第一号患者というのは典型例ではなかったというふうに言わなければならないと思うのですね。要するに、エイズ症例に載せるほどの人ではなかった、研究のあるいは学習の材料になるような、そういう症例ではなかったということじゃないのですか。それで、先ほど、スピラ博士の、CDC基準に照らしてアメリカでは帝京大二症例はエイズ患者であるという認定の件ですけれども、第四回の班会議出席をした、しないをめぐって二転三転があって、結局、最終的に第四回会議には出たということを言われるわけですけれども、この四回では、風間メモによると、スピラ判定について報告があったとしているわけですね。「もしその報告を聞いたら、アメリカの専門家の意見であるから全面的に賛成したと思う」というふうに言われているわけですね。これもやはり肝心なところになると、わからなくなってしまう、記憶がない。ほかのところは随分よく覚えておられるのですけれども、その肝心なところがわからないということで、とても疑問なわけですね。ちょっと時間が来てしまったので、これは指摘だけにしたいと思うのですが。  次に、エイズの診断基準というのは八四年三月につくられて、これが実際に動いていくわけですけれどもエイズの疑いが残る帝京大二症例について、既に亡くなられている事例でもあるわけですから、その八四年九月の調査検討委員会発足と同時に、参考人自身、繰り返し強調しているように、帝京大症例というのはなお検討を続けていく必要があるのだというふうに言われているわけですから、この調査検討委員会にそれをかけて再検討すべきだったというふうに思うのですね。その帝京大二症例というのは、八五年の五月にようやくエイズ患者として認定されたわけですけれども、もし八四年の秋に認定されているということになれば、事態は変わったわけですね。  私は、参考人の責任というのは非常に重大だというふうに思うのですけれども、その点、いかがでしょうか。
  277. 塩川優一

    塩川参考人 これにつきましては、先ほど申し上げましたとおり、報告をしていただかなかった。  報告をしていただかなかったというのは、昭和五十八年に出されたその症例は、病歴の一部を書いてあるわけですね。ですから、後でお願いしたのは、調査票にちゃんと診断の基準に合わせて記載事項があって、それを埋めていただくということでしたので、やはり病歴を手書きで書いたもので、ここで認定することはできなかったということもございます。しかし、やはり報告がなかった。これは本当に残念だと思っております。
  278. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 参考人は、輸血後感染症に関する研究班、いわゆる日沼研究班の班員であったわけですね。その研究班の中に、エイズに関する研究者グループ、つまりエイズ分科会というのがあったわけですね、俗称エイズ分科会。  このエイズ分科会には、栗村教授、北村教授それから参考人、この三人が属しておられたということなんですが、そのグループの一人の栗村氏が、安部氏が依頼したギャロ博士のデータの存在について知ったのは一八四年十一月二十二日の京都で開かれたいわゆるエイズ分科会の会議だったというふうに言っておられるのですね。ところが、参考人はその会議には出席をしておられなかったということでありますけれども、私は当然、このような重要なギャロ報告について後で参考人に何にも報告がないということはあり得ないというふうに思うのですけれども、その点、いかがですか。
  279. 塩川優一

    塩川参考人 これは既に文書として皆さんのお手元に渡っていると思いますけれども厚生省の当局の人がこの研究班に出まして、そうして、日本の血友病の方の二十二例中四例が陽性だったということをこの研究班で発表があったということを報告しております。それが私たちの委員会知識でございまして、私たちはそのときにギャロ博士云々という話は聞いておりません。  以上です。
  280. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 これも非常に重要な問題なんですね。この間、安部参考人に伺ったら、ギャロ博士のデータというのは、亡くなられた帝京大の二症例が入っているということなんですね。このデータがちゃんと知らされていれば、その後の対応もやはり変わっていたと思うのですね。ところが、この大事な問題について、わからないと言う、あるいは聞いていないと言うというのも本当に不自然だと思うのです。  参考人は、スピラ博士の帝京大二症例が議論された先ほどの八三年十月十四日のこの会議も、出たか出ないか二転三転して、厚生省の資料も一番最後にここは出てくるわけですね、第四回の資料というのは。  それで、ここではスピラ博士の二症例について、必ず報告があったわけですね、風間メモにあるわけですから。ところが、それは知らない。ギャロ報告についても同じ。他のことについてはよく覚えておられるのに、この問題がわからないというのは、結局、血友病患者からどうしてもエイズの感染者あるいは発症者を出したくないという、例えば製薬企業だとかあるいは厚生省だとかそういうところの意向、これに沿って参考人がいろいろ行動をされたのじゃないか、だから血友病の帝京大二症例を事実上否定をする、あるいは第一号は同性愛者にするというようなことで、情報操作のシナリオに沿って行動されたのじゃないかという疑いをぬぐうことができないのですね。  七月十八日の第二回エイズ研究班の後、帝京大二症例について、参考人は、認めてもいいのだが厚生省の立場もあるしと漏らしたことを委員の一人が会議の終了直後に聞いている、こういうことがあります。結局、参考人は、厚生省の、血友病患者からエイズ患者は出さない、そういう方針どおりに行動をされたということではなかったのですか。
  281. 塩川優一

    塩川参考人 まあどういうふうに御推察になっても構いませんけれども、私は、特別厚生省から御依頼を受けて、ましてや企業から御依頼を受けて血友病のエイズ感染者を隠す、そういうような努力をしたことはもう絶対ございません。また、そういうことについて、私は学者として自分の信念をほかの外圧によって変えるということは今まで絶対したことはございませんので、そういう疑惑は持っていただいては結構ですけれども、私は絶対ないということをここで申し上げておきます。
  282. 岩佐恵美

    ○岩佐委員 疑惑を持つのは勝手と言われますけれども、肝心なところがわからないし、言っていただけない、そのことが問題なんですね。私は、もっともっとこの問題について解明していかなければいけないというふうに思います。その点を指摘をして、終わりたいと思います。
  283. 和田貞夫

  284. 土肥隆一

    土肥委員 まず、塩川先生は、エイズ研究班の班に入ってくれといって頼まれたのはどなたから頼まれたのでしょうか、そしてまた、その頼まれるときに、このエイズ研究班はどういう目的でつくったからよろしくというふうに聞かれたのでしょうか。
  285. 塩川優一

    塩川参考人 私は、こういう内科の医師でございまして、そして長年、そういう免疫機能の低下している患者さん、リューマチとか膠原病ですけれども、そういう患者さんの診療をしておりました。そして当時、昭和五十八年の五月当時は、エイズは後天性免疫不全症候群という原因不明の疾患であったものですから、厚生省で免疫不全というのはあなたの専門じゃないか、そして手伝ってもらえるかということでしたし、私自身も長年エイズについて関心を持っていましたものですからお引き受けした次第でございます。そして、この研究班は、エイズの実態を調査する、そしてこれに対する、血液製剤その他に対する対策を検討する研究班だということを伺っておりました。
  286. 土肥隆一

    土肥委員 厚生省のだれから頼まれましたか、先生厚生省のだれから。
  287. 塩川優一

    塩川参考人 私は厚生省に呼ばれまして、郡司課長に、あなたはエイズに関心を持っているのかということで聞かれ、そして関心を持っているなら今度できる安部研究班に入ってくれ、班員として自分の学識経験といいますか、学問でいろいろ諮問に答えてくれということであったわけです。
  288. 土肥隆一

    土肥委員 それが、六月十三日に第一回のエイズ研究班が開かれるわけです。第一回の会合で、郡司課長は、例えば、既に血友病の患者さんにエイズウイルスが混入しているような可能性もあるかもしれないとか、非常に危機的な状況にあるとか、あるいは既にトラベノール社が加熱製剤供給しておりますからその緊急輸入であるとか、あるいはクリオ製剤であるとかという、そういうふうな言ってみればエイズ研究班の方向性を示すようなことを何か言いましたか。
  289. 塩川優一

    塩川参考人 第一回の研究班のことで、詳しい記憶はございませんけれども、しかし、今御指摘になったような、日本にはエイズがもう侵入しているかもしれない、それですから早く対策をしなきゃいけないというお話はあったと思います。
  290. 土肥隆一

    土肥委員 極めて重要な発言でございまして、午前中の徳永参考人の話によりますと、ほとんどそういう意図的なことあるいは目的、方向づけのようなことはなくて、漠然と参加して、日赤血液センター血液関係者、そして五回のエイズ研究班もほぼ漠然と終わった、こういうふうにおっしゃっているのですが、先生の御発言を聞きますと、非常に積極的に、しかも相当な危機感を持って、そして、何とかしなきゃいけない、なるべく早く疑わしきは発表するというふうにおっしゃいましたが、このギャップはどういうことなんでしょうか。
  291. 塩川優一

    塩川参考人 この件につきまして、一言、どうして午前中の参考人がそういうお話をしたかということで、まあ私の推察なんですけれども、この研究班は安部班長が非常に強力な指導権を持っておりまして、それで、研究班のほとんどが安部班長のいろいろなお話で終わったようなときもあったわけでございます。  そういう意味で前の参考人が非常に漠然としていたということを言われたのだと思いますけれども、先ほどお話ししましたように、トラベノール社の問題その他がありまして、そして厚生省も、それからもちろん郡司課長も、危機感を持ってこの研究班をつくられたということは、その前の新聞でも報道でも出ておりまして、私はそういうことは間違いないというふうに思っております。
  292. 土肥隆一

    土肥委員 八三年の七月の四日に、これは郡司メモですけれども、非常に積極的に、加熱製剤への転換であるとか、この血液製剤の行政を変えなきゃいけないというメモがあって、十一日にはそれがひっくり返るのですね。先生はそういうことは事前にお知りになっていたかどうかは別にいたしまして、なぜ四日と十一日にこれだけの逆転が起こるのかということを先生判断ではどうお考えになりますか。
  293. 塩川優一

    塩川参考人 ただいまのようなお話が非常に広まっているようでございますけれども、私は、一人の班員として参加しておりまして、その間にそういう大きな変化があったということは感じておらないのであります。  しかし、これはいろいろなほかの班員の方もございますから、何しろ十三年前のことなのでいろいろな御意見があるかと思いますが、私自身はそういう急速な判断の変化ということはなかったというふうに感じておるということを申し上げておきます。
  294. 土肥隆一

    土肥委員 実は、その後、十八日に第二回の会合が開かれるわけです。そのときに、郡司課長は恐らくそこに出ていたと思いますが、そのときに何か積極的な、こういうふうにやってくれ、つまり加熱製剤あるいはクリオなどへの転換をしないと危ないというような発言はいたしましたか。
  295. 塩川優一

    塩川参考人 血液製剤につきましては、私は、どうも余り知識がないこともあって十分覚えていないのでございますけれども血液関係あるいは血友病関係先生方はそういうことを皆さんで言っておられたというふうに、漠然とですけれども、覚えております。
  296. 土肥隆一

    土肥委員 そこが非常に第二回目からの分かれ目だというふうに思うのですね。つまり、五回エイズ研究班を開くのですけれども、ほぼ当初の、先生に郡司課長がお願いしたその目的は急速にしぼんでいって、そして後は判定の問題であるとかというようなことに終始していって、当面どうするか、本当に大丈夫なのかというような緊迫感を持った研究班にはなっていないのではないか、そういうことになってしまったのはなぜなのかということが私は最大のなぞだと思うのですけれども先生は、どうでしょうか、三回目、四回目、五回目でどういうふうな経過だと御認識でしょうか。
  297. 塩川優一

    塩川参考人 私は、第一回から第三回までは先はどのようなことで帝京大学の症例の検討その他でいろいろ議論に参加しておりましたけれども、四回になりますと、もう診断基準小委員会委員長として、その自分の職責の中で御報告をしていたわけでございまして、それ以上のことについては、大きな変化その他については全く知らないとお返事するよりほかございません。
  298. 土肥隆一

    土肥委員 そうすると、結局、先生が非常な危機意識を持っておられた、そして血液製剤も危ない、安部先生もはっきりとこれはエイズじゃないかと言っていた、あるいは学者も非常に不安を持った、それはいいのです。だけれども、その後どうしてこのままずるずると二年間かかってしまったのか。なぜここで結論が出なかったのか。そのときに厚生省はなぜその研究班に何らかの働きかけをしなかったのか。  全然厚生省の働きかけはなかったのですか。
  299. 塩川優一

    塩川参考人 厚生省がどういうふうに考えていたか、あるいは働きかけをしたか、しないかということでございますけれども、私は一人の班員としてお手伝いをしておりまして、私自身としましては、いろいろなそういう変化というようなものは全く感じないで、自分に課せられた診断基準小委員会委員長として、早く日本で診断基準をつくり、そして日本全国の調査をしなければいけないということに専念していたわけでございます。
  300. 土肥隆一

    土肥委員 そうすると、郡司さんが最初に先生にお願いになった、依頼したその目的から、先生専門的なところへ、診断基準の方に入ってしまわれる。そして、あとのはもう一つ血液製剤委員会に付託してしまう。それで、エイズ研究班というのはそのまま、何かどうでもいいような、宙に浮いたような委員会になってしまう、研究班になってしまう。つまり、そこでは、刻々迫っている危機状況、それは危機意識が先生はあったというふうにおっしゃるけれども、それが継続しないまま二年間たってしまった。そして、二千人の患者さんがエイズ感染になってしまった。  こういう中で、先生今、反省と言ったら語弊がありますけれども、あのエイズ研究班はどうあるべきだったのか、二つの小委員会はこの緊急の問題にどう対応すべきだったとお考えでしょうか。
  301. 塩川優一

    塩川参考人 ただいま御指摘のとおりでございまして、現在の状況、非常にたくさんめ血友病の患者さんがエイズに感染しておられる、そして、中ではたくさんの方が亡くなっているという状況を今考えまして、当時はどうだったかということになりますと、これはやはり反省すべき点は反省しなければいけないというふうに思っております。  当時としては皆さんは努力しておられたと思いますし、私自身も、いい調査検討委員会をつくって、日本の実情を把握してよりよいエイズ対策をすべきだという一つの信念を持って自分の仕事をしてきたわけでございます。  以上でお返事になるか知りませんけれども、申し上げます。
  302. 土肥隆一

    土肥委員 もう一問させていただきます。  そうすると、このエイズ研究班及び二つの小委員会の試みというのは、あるいは厚生省も含めて、この大事件というのは不可抗力なものだとお考えなんでしょうか。
  303. 塩川優一

    塩川参考人 エイズというのは全く新しい病気でございます。世界でまだだれも見たことも聞いたこともなかった病気でございます。ですから、非常に大きな問題であり、また、非常に難しい問題がたくさんあったということは事実でございます。  しかし、これに対してよりよい対策をすべきであるということはこれからの大きな課題になるだろう。今までの経過を検討されて、そして今後よりよい対策を行って、二度とこういう悲劇を少なくとも日本にはもたらさないようにしなければいけないというふうに考えております。
  304. 土肥隆一

    土肥委員 それでは患者さんがかわいそうですね。  終わります。
  305. 和田貞夫

    和田委員長 以上をもちまして塩川参考人に対する質疑は終了いたしました。  塩川参考人には、御多用中のところ、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。  次回は、来る十日金曜日委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後四時五分散会      ――――◇―――――