○五島
委員 今回、この
法律を
廃止するというそのことについては全面的に賛成しながらも、今の
厚生省の御
説明に対しては、この間の日本の公衆衛生の中において、実は
らい予防法というのは非常に大きな意味を持ってまいりました。それだけに、今の
説明には納得できないものでございます。
先ほど菅
大臣が、
委員の
質問に対して、この
隔離政策は明治以来の政策の継承として昭和二十八年に現行法が制定されたかのような御発言がございました。これは事実に照らしましても若干違います。
明治時代におきまして、いわゆる三疫と呼ばれた痘瘡やコレラや赤痢、これに対しては、兵力や労働力の保全ということで非常に緊急性があるということで、当時の明治
政府は、今日の時代か
らいえば大変暴力的な
隔離政策を進めてまいりました。しかし、この
らいというのは余りそうした緊急性がないということがございました。
明治三十七年の
全国調査で、当時、日本における
らい患者は三万三百九十三名と報告されています。そして、それに基づきまして、明治四十年に
法律第十一号が制定されまして
予防措置が始まるわけでございますが、この明治四十年において実施されたのは、
全国五カ所の府県連合の
療養所が設けられ、ここに収容されたのは、扶養義務者のない
患者に限られ、扶養義務者があることが判明すれば直ちに引き取りが命ぜられました。したがって、現在のような強制収容、強制
隔離という政策はとられなかったわけでございます。
そうした政策が、強制
隔離がされなかったにもかかわらず、昭和五年の
らい患者は一万四千二百六十一人、半分以下に減少しております。すなわち、
らい患者の減少というのは、そうした
隔離とは
関係なしに、いわゆる生活水準、文化水準の向上ということによって日本は明確に
らいの減少の方向を進めていました。
ところが、昭和六年に全面
改正がなされて、扶養義務者のある
患者さんも、いわゆる扶養義務者の
患者引き取り義務が撤廃されて、公費による無条件での
療養所入所ということが設定されます。そして、本籍も追跡されず、偽名がそのまま通用するという
状況に昭和六年からなってまいります。
昭和六年、ちょうど満州事変が始まったときでございます。その時期に、やはり忘れてはならないのは、皇紀二六〇〇年を迎えるに当たって、東亜の盟主として、文明国の恥辱の撲滅とか、血の浄化としての追
らい政策といったようなものが
国民運動として大きくつくり上げられてきた。そして、
らいに対する恐怖というものが
国民の中に盛り上がってくる。急性伝染病のペスト、慢性伝染病の
らい追放、このことを一つのかけ声として
国民の中にその疾病に対する恐怖をあおる中において、いわゆる
社会防衛的に
らい患者の収容所への追い込みというものが始まった。
この歴史的な事実を考えた場合、明治以来の
隔離政策の伝統であったということは言えないのではないかというふうに思います。
また、戦後におきましても、今、
松村さんおっしゃいましたけれども、忘れてはならないのは、この
法律ができるその前年、昭和二十七年、WHOにおける
らいの専門
委員会から、
らい管理に関しては、政策を決定するのはあくまで公衆衛生上の立場からであって、公衆の恐怖や
偏見から行われるものであってはならないという警告が出されています。にもかかわらず、昭和二十八年に、この
法律がいわゆる
隔離のための
法律としてつくられました。まさに、公衆衛生の中における、あるいは
厚生省行政の中における選別
隔離ということが一番明確な形で貫徹したのがこの
らい予防法であり、その被害というのは非常に大きかったと思います。
しかも、この
法律が出されたときに、当時の事務次官通達が
全国の
らい療養所所長に対して出されているはずでございます。これは当時の
医学的知見か
らいっても非常に間違った、
偏見に満ちた
内容でございます。一度
らいにかかれば
治療は極めて困難であり、
隔離する以外には確実な
感染予防方法はない、この特殊な事情を考慮して
患者を
療養所に収容し、全額国庫負担のもとで
療養させる、新法に新しく設けられた
福祉の規定に従い、今後はさらに十分な考慮を払うとともに、
患者に国の
らい施策の
趣旨をよく理解させ、外出の制限、その他
患者として守らなければならない義務を教え、
療養に専念するよう指導する、そういう
内容の通達が出されました。そして、それに基づきまして、外出から帰ってくることがおくれたということに対して懲罰まで設けるという政策がとられたわけでございます。
この事務次官通達というのはその後取り消されたのでしょうか、そこのところをお伺いします。