○五島
委員 非常に部分的なところをおっしゃっていますが、確かにそういうことも検討することはいいわけですが、当時の
状況を振り返って考えた場合に、私は、「緊急の」とおっしゃるけれども、その段階において、先ほども申しましたが、例えばインヒビターの生成という問題を想定するということは、当然その時代において、まあ現在でもでしょうが、議論として出てくるところだろうというふうに
思います。
また、その時代の背景として、まだ
エイズウイルスが見つかっていない段階で、マスコミもこぞって非常に誤った報道、例えばこのウイルスがATLウイルスに原因しているのではないかとか、サイトメガロウイルスによるものではないかという情報がはんらんいたしました。これらはいずれも日本には非常にポピュラーなウイルスで、サイトメガロなどというのは、八〇%ぐらいの人間が全く不顕性の感染として持っているウイルスでございます。めったに発症しないという
状況があって、しかも、それが否定されてきながらも、こういうふうなさまざまな誤った情報に基づいて、この
エイズというのは感染はしたとしても非常に発症例は少ないという全く根拠のない、すなわち、まだウイルスが見つかっていない、そういうような中で、その発症が非常に少ないとか、感染が非常にしにくいとかいうような全く根拠がない、当時から考えてみてもなかったわけですが、そういう勝手な
思い込みの中での妙な臨床医の
思い込みといいますか、そういうふうなものが研究班の中にも流れているように
思います。
これはやはり、なぜこの中においてきちっとした疫学的な
調査をされなかったのか、あるいはアメリカのそういう疫学班の研究データをその後も導入されなかったのか、また、先ほど
坂口議員から御指摘ありました、わざわざ日本から文部省の研究費をもらって
調査してきたその情報をきちっと検討する、その研究班の土俵にのせていくということをしなかったのかという問題を考えたら、そうした問題はその当時のさまざまな制約も十分にクリアできた問題ではないかというように思っています。
そういうふうなことも含めまして、やはり私は、当時の
厚生省の中に、一言で言えば人権感覚が全く欠落していたと言わざるを得ないと
思います。人権感覚がもしあるとするならば、例えばNHFの
エイズ対策特別
委員会は、自分たちに都合のいいところだけを当時の研究班は引用しているわけですが、彼らは明確に、
エイズ感染の不安があり、
患者及び両親には潜在的リスクを知ってもらうべきだということを指摘している。すなわち、この時点において、
危険性がある、しかし利便性も仮に濃縮薬にある。まあ事実あるわけですから、ある。しかし、どちらを選びますかという
患者の選択権を示した形で医者の
意見を言うなり、やっていけということをアメリカでは言っている。ところが、このインフォームド・コンセントの部分というのが全く欠落しているわけです。
それだけではありません。私は、今回の
資料を読みまして、何を言っているのかなともう本当に不思議に思ったのは、
治療方法はリスクとベネフィット、それはコストベネフィットのことだと
思いますが、リスクとベネフィットの比較で科学的に決定すべきだというふうに郡司さんは言い切っています。これは、今回出された中間
報告の中にも載っています。
ところで、リスクとベネフィットとの比較というのは、そのリスクがきちっと比較できる場合において成り立つ論理です。臨床疫学をやっている人であれば当然でしょうが、その当時既に理解されていたように、発症すれば七〇%、八〇%間違いなく死ぬということが臨床像として明らかになっている疾病にこの論理を当てはめること、そのこと
自身の問題というのは当然広く知られているはずです。
厚生省が、人の死、すなわち人工的な死というものが発生するということを単なるリスクと考えてコストベネフィットの問題を考えている、それが現在の厚生
行政の中にも尾を引いているとしたら、私は大変恐ろしいことだと
思います。
しかも、これは実は日本の公衆衛生が抱えてきた一つの古くからある伝統です。日本における公衆衛生が仮に
明治五年の千葉におけるコレラ騒動から始まったとするならば、その当時できたての日本の帝国陸軍を出動させて閉じ込めて焼き殺してしまったというところから日本の公衆衛生が始まっている。それが、
委員長が当初
お話しになりました、らいの
患者さんに対するああいうコロニーの創設、あるいは伝染病
予防法における選別管理、
隔離といった非人権的な、人権感覚が全く欠落した日本の公衆衛生のそういうものをこういう形で引きずって現在もなおそれが生きているとするならば、大変恐ろしいことだというふうに思っています。
そうしたところに実は今回の
最大の原因があるのではないかというふうに思うわけですが、
大臣、どうですか。