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国務大臣(
中山正暉君) 北方領土問題というのは、御承知のように、終戦の年、昭和二十年の二月四日から十一日までヤルタ
会談というのがございまして、四月十二日にルーズベルトは脳溢血で亡くなっていかれるわけでございますが、お体を大変悪くしておられたルーズベルトとスターリンとの間の話がこれの私は発端だと思っております。
つまり、中国における
日本の作戦行動が大変成功しておりましたので、ルーズベルトは焦りを感じまして、ぜひ
日本に対する戦争に参加してほしいということをスターリンに
要請したわけでございます。それに対しましてスターリンが
要求をした場所というのが、満州それから北朝鮮、樺太、千島列島というような
地域であったわけでございます。
ドイツとの戦争が進んで五月九日に終戦を迎えておりますが、その後、三カ月後に
日本との戦争に参加するということをそのときルーズベルトに約束をしておりますが、御承知のように七月十六日に原爆の実験に成功いたしまして、十七日から始まりましたポツダム会議、これはソ連はこのポツダム宣言には現地のポツダムでは署名をしておりません。八月二日でこのポツダム会議は終了するわけでございますが、原爆の投下によって突然に
日本が終戦に向かった。
これはまことに残念なことでございますが、
日本の天皇陛下の玉音放送が御承知のように八月十五日の正午にございました。杉野、佐藤両旅団長のもとに八月十八日の午後四時ということで三宅坂の陸軍参謀本部からもう停戦命令が出ておりましたものですから、占守島第九十一師団の堤不夾貴中将はまさかその後に攻撃があると思っていなかったのでございますが、慌てたソ連軍は、戦争が済んで三日目に極東軍司令官のワシレフスキーがカムチャツカ半島にいたグネチコという将軍に対して攻撃命令を天皇の玉音放送の三時間後に発しております。
それで、八千六百名の兵士、三十隻の上陸用舟艇、それから二十四隻の護衛艦、八十機の飛行機、これで突然攻撃を開始して、その島は八月十八日から九月三日、
日本の終戦記念日は八月十五日でございますが、
アメリカの
日本に対する戦勝記念日は九月二日、ソ連の
日本に対する戦勝記念日は九月三日となっております。
終戦記念日と
アメリカとロシアの戦勝記念日の間に半月の差があるのは、私はこれが大変な北方領土問題の根底を示すものだと思っておりますが、実は八月十六日に発せられた
日本の占領行政命令第一号の中に、ルーズベルトがスターリンに約束した四つの場所の中で
一つだけが欠けておりました。それが北方領土であったわけでございます。
ロシアは千島列島に対する
要求を突きつけてまいりまして、半月の間に次の
大統領になりましたトルーマンとスターリンの間に書簡のやりとりがあって、ついにアリューシャン列島の中に
一つソ連軍の
基地を確保する、千島列島の中に
米軍の
基地を確保するということを条件に折り合ったのが事実上の戦勝記念日になったということでございます。
私
ども日
本人としては、一八五五年のプチャーチンと
日本の幕府との話し合いの中で、得撫島とそれから択捉島との間、これを国境として
日本の領土ということから、七つの島、北方四島と言われておりますが、小さな島を入れて七つの島があるわけでございますが、その島の
返還の運動は、今
お話がありました、
米軍の占領下であればよかったという当時の町長さんの
お話が
先生の御
質問の中に出ておりましたが、
米軍がいるのではないかと機関銃を構えて上陸してきたロシア兵は、
米軍はいないかというのが最初の島民に対する
質問であったようでございます。
そういう
米軍に占領されていればその島の
返還が容易になるのではないかと考えられた
地域の
皆さん方のお心持ちがよく私はその言葉の中にあらわれていると思うのでございますが、それから五十年、外務省を通じての
返還交渉、いろいろなことがございました。先般、ゴルバチョフ、
中山太郎
外務大臣、そして海部
総理大臣との間での十五の協定で自由に島との行き来ができる協定もできたようでございますし、これからいよいよこの島の
返還に向かって私は本当の話し合いをするべきではないかと。
私もロシアを訪問したときに、これは革命で失脚をいたしましたが、向こうの参謀総長と私と
議論をしたことがございます。
アメリカは、先ほどから出ております
沖縄の問題にしても、一万八千人の戦死者を
沖縄で出していながら、四年間の戦闘の結果
米軍は
沖縄を返してくれた、しかし戦争が済んで三日目に攻めてこられたあなた方はいまだに島を返してくださらない、これは問題があるのではないかということを申しました。
実際には、第三自動車化狙撃師団一個師団とそれから第百十四国境警備隊、これはKGB傘下でございますが、これが三千五百、一万八千五百の軍隊が、現に一個軍団が駐留をしているのではないか、択捉、国後にいるのではないかと言われております。飛行機が四十八機、A型が五機、G型が四十三機と言われておりますが、大変な軍事力がまだ北方領土に存在をしておるようでございますので、私はソ連の参謀総長に、ちょうど当時私は衆議院の
安全保障特別
委員長でございましたものですから、私
ども与野党を通じて、我々の北方領土に視察団を受け入れていただけないかという話をいたしましたら、
日本へ帰ってからひとつ手続をしてくれというので、私は手続をいたしました。そうしましたら
大使館の方から拒否をしてまいりました。
今までに七人の国会
議員の方が行かれているようでございますが、私は今回
総務庁長官に就任をしました機会に今度は島の
状況を見せていただくような申し入れをいたしたい、ロシアの
大使館にもこれは通告をいたしておりまして、内容はまだ通告をいたしておりませんが、
大使にぜひお目にかかりたいという申し入れをいたしております。
終戦後五十年ということでございますから、私
どもは真摯に、古来の私
どもの先祖伝来の土地、そして一万数千名おられた島民の方がすべて北海道に引き揚げてこられて、帰化をした人、亡命をした人は一人もいないわけでございます。そういう、国家に対して誇りと日
本人としての威厳を保っていただいた北方領土からの引き揚げをされた
方々のお心持ち、もう随分亡くなられておられます。あと残っていらっしゃる
方々とそれから子孫の
方々に日
本人としての誇りを保っていただく、そんな
対応を私
どもは北方領土
返還運動としてやっていかなければならない。
私自身、
議員立法をいたしまして、北海道から二十億、政府から八十億を積み立てまして基金をつくって、今まで四十二億ぐらいの事業をいたしておりますが、
議員立法、三年間苦労いたしましたが、これで
周辺対策、それから啓蒙啓発を助成する運動をいたしておるような、いろいろな思いがこもっております。
先生からまたいろいろな御示唆をいただきながら、今後この問題が持続して北方領土の返ってくる日が一日も早からんことを、またその根底にはそれを
解決して戦争を終わらせる条約でございます平和条約を一日も早くロシアと結びたい。ただ
一つまだ
法律的には戦闘状態が続いている状態がロシアとの
関係ではないかと私は思っておりますが、一日も早く平和条約を結べる雰囲気を両国の間につくることが私は
日本の政治
課題として、平和を望む
日本国民の意思として大変尊重しなければならないことではないかと思います。
長くなりましたが、御
答弁にいたします。