○堀利和君 急激な
円高、
金融、そして
経済政策、もちろん阪神・淡路大震災という国にとっては大変大きな重たい課題、
政策があるわけですけれ
ども、そういう中で
障害者の問題を私は取り上げさせていただきたいと思います。
阪神・淡路大震災では大変多くの方が亡くなられ、また被災されております。心から哀悼の意、お見舞いを申し上げたいと思います。
私もニュースで地震のことを知りましてから、よもやあのような大災害になるとは思っておりませんでした。私は実は
委員派遣で茨城の方に視察に行っておりまして、午前中バスでの移動もあってその辺の情報が入っておりませんので、ますますそういう意味では当日そのようなことを全く予想もしていなかったわけです。一日たっても、私のいろいろな知人友人関係に電話しても電話がつながらないわけです。非常にやはり心配しながら、二日目になって現地から私の会館の部屋にファクスが届いて少し様子がわかってきたわけですけれ
ども、本当に無力感といいますか、何をどういうようにしたらいいかわからぬというのが率直な私のそのときの状態であったわけです。
マスコミ、新聞、テレビなどの報道からも、私の問題意識ですと、
障害者は一体どうなっているんだろうかというのが強くあるんですね。ところが、マスコミでも
障害者の問題というのはもちろん出てこないわけです。考えてみたら、あのときはもうみんなが
障害者になってしまったような状態なんですね。もう動くことも思うように、寝るところ、住むところ、食べることも十分できないというまさにハンディキャップの
人たちの状態だという、恐らくそんなふうなことだったんだろうと思います。
しばらくたってから、マスコミで、
障害者、高齢者、子供たちの関係、どんなふうに取り上げられるんだろうと思って後で調べてみましたら、四日目ぐらいから少し
障害者の問題が出てきましたけれ
ども、まさにみんなが
障害者のような状態にたたき込まれてしまったんだろうなというふうに思います。とは言いましても、やはり被災された方々の中では、
障害者いわゆる災害弱者という方々にとっては非常にその辺の厳しい
状況が歴然としてあるだろうと思うんです。
ファクスをいただきながら、しかしこれも
部分的なことですから全体がわかりませんけれ
ども、とにかく得た情報、そして今こうしてほしいというような中身については、厚生省の方に相談といいますかお話をしながら具体的にはいろいろやっていただいておりますので、ここでは具体的なことについては取り上げることを差し控えさせていただきますが、とにかく
障害者の場合には、命が助かっても介護、ヘルプがないと十分避難所での生活もできない、トイレも困る、いろいろな問題が出てきたわけです。
私も早く現地には行きたいと思いましても、現地、現場の方の手を煩わしたのでは、むしろその手が一人でも多くの方を手助けした方がいいわけですので、自力でといいますか行けるようになってから、ある程度、現場、現地がそれなりに落ちつきを取り戻してからということで、やっと行ったのが二月十二日で、車で行ったわけです。
私はよく見えないから幸いというのかわかりませんけれ
ども、一緒に行った者が、テレビでは見ていたけれ
ども、まさに走っている道路の陥没とか壊れている家を目の当たりにしてショックだということも言っていましたけれ
ども、まさにそういうような状態でした。
午前中にも旦下部
委員から、私が今、総理にお尋ねしたいことが出ておりましたけれ
ども、私はこの経験の中でいろいろ感じたわけなんです。現地に行っても、多くのいろいろなことを経験させてもらったわけですけれ
ども、避難所に行って座りながら話しても非常に寒いんですね。お年寄りの方に寒くないですかと言うと、いや布団の中にずっといるから大丈夫ですというようなことで、中には、
大蔵大臣、まさに
個人補償で何とかやってほしい、どうしてくれるんだということで言われると、その場では言いようもないものですから下を向いているしかないわけですけれ
ども、そういうような
状況でもありました。
ただ、非常に私にとって心強いといいますかうれしく思いましたのは、地域で頑張って生きている
障害者たちがネットワークを通して力強くあの
状況の中でも生き抜いていたということなんですね。しかも、グループホームという数人で集まって暮らしている方、あるいは作業所という形で集まって一日を過ごしている方、そういうところで西宮に行きましたら炊き出しをやっているんですね。つまり自分たちのところに来たボランティアと一緒になって、
障害者たちは自分たちのことだけじゃなくて、被災された避難所にいる多くの方々に、千人分と言ってましたけれ
ども、炊き出しをやるというようなことをやっているんです。
私もそのときに、ちょうど行ったときに雨でしたけれ
ども、被災された方ですけれ
ども、避難所で中心になってやっていた方とじっくりお話もさせていただきながら、本当のことを言っていいかというので、どうぞどうぞ何でも言ってくださいと言いましたら、今まで私は
障害者を見ても本当にかわいそうで自分たちと関係ないと、そんなふうにいわば見下していたように見ていたんだと。しかし、そういう炊き出しのときに知的
障害者と言われる方が、そういうものを運んだり、車いすで野菜を切ったり、そういう姿を見たらもう私は本当に今までのことが間違っていたと、まさに目からうろこが落ちた思いがするということを私に話していただいて、本当に私はうれしいといいますか、心強く思ったわけなんですね。
しかし、帰ってきてからふと思ったのは、今まで
障害者に対して、自分たちと違う、気の毒だと思っていた
障害者にそういう気持ちを持つほどどん底に追い詰められた気持ちだったんだなということをまた改めて考えさせられたわけです。
私の多くの仲間も申し上げたような地域で頑張って生きてきた、そういうネットワークを通してこういう厳しい
状況の中で頑張っているわけです。小さな穴から世の中を見るような青い方になりますけれ
ども、私は、震災に強い町づくりとか防災都市というのは、単に震災に対する何といいましょうか、建物とか鉄道とかそういうハード面だけではなくて、まさに地域社会の中であるいは地域社会を越えて、一人一人があるいは人間関係がどうつくられていくのかというまさにフォーマル、インフォーマルな形でのネットワーク、広い意味では力強い福祉社会といいますか、生き抜く力といいますか、そういうようなものがやはり
一つの大きな要素にもなるんだろうと思うんですね。そういう意味で、こういった災害に強い社会、強い町というのは私は、村山政権が言うように、人にやさしい政治、人にやさしい社会をつくることであろうと思うんですね。
障害者年でも、
障害者を排除する社会は弱くもろい社会であるというふうに言われております。まさに
障害者もいろいろな人も含めて生き生きと一人一人が生活できる地域社会、そういう社会をつくることこそが強い社会であるというふうに思います。
そういう意味で、日ごろもそういう社会を望むし、こういう場合にもそういうことが十分私たちに勇気を与える社会像だと思いますけれ
ども、その辺の御見解を総理にお伺いしたいと思います。