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参考人(
水谷静夫君)
水谷でございます。
私は法曹界の人間ではございませんので、文章の
平易化という観点から、と申しましても、
言葉はただ
内容のないことをあらわすわけではありませんから、必然的に
内容に触れるところがあると思います。それで、以下、幾つか
条文を引くことがございますが、お恥ずかしいことですが、私、法の慣行を知らないで読み損なうところがあるかもしれません。ということは、現行法がかなり難しいということの、国語学を売って飯を食っていた者も読み間違えるということだというふうにお考えくださいまして、私の読み誤りがございましたら御寛恕くださるように、まず冒頭でお願いいたしておきます。
法典の表現というものは美しくあるべきだというのは、たしか小野清一郎博士の御
意見だったと思いますが、私は基本的
立場としてはこれに
賛成でございます。ただし、表現を
平易化するという要請、これもまた時の流れとして当然のことだと思います。しかし、この美しさと
平易化というのは必ずしもすっきり簡単に結びつくものではございません。その上にさらに、仮に
平易化された
法令文になりましても、それが
現代日本語として美しいことはやはり望ましいことなんで、修辞する余地があるようなところはなるべく整った
日本語にしていただきたいというふうに考えるわけであります。
しかし、もちろん
法令文は文芸作品ではございませんから、恐らく最も重要なのは表現の正確さだと思います。ある場合に、正確を期すると平明ではなくなるということがございまして、これは
法律文に限らず広い
意味で申します実用文、技術文の宿命でございます。正確さと平明さとには必ずトレードオフの関係がありまして、これをどういうふうに調和させるかということが問題なんだという、まず言語表現としての原理的な面を
一つ先に申し上げておきます。
表現を
平易化すると申しましても、当然
刑法単独で済む問題ではありませんで、ほかの法の表現とのかかわり合いということが問題になります。それから、先ほど申しましたように、いかに
平易化といっても正確さを損なっては何にもなりません。正確さを保つために従来の
用語法にいろんな慣用があった。その慣用が
一般に伝わらなくなってきている。その部分がどうなるかというような問題がありますが、これを思い切って全部変えるということは、原理的には可能ですけれ
ども実務上多分非常に難しいのではないかと思います。したがって、かなりの努力を払って表現の
平易化ということに努めても、なおかつ、そのできたものは
現代の口語の
立場から見ますとかなり保守的にならざるを得ないということに対しても、当然私はある面ではごもっともと言わざるを得ないのであります。
今回の
改正案を見ましても、例えば
法令文に非常に多い、事物を並べて述べる表現ですが、典型的には「及び」、「若しくは」、「又は」といったぐいのものでつながれる表現ですね。それ以外にもあります。これについての抜本的な改革というのは何らなされておりません。
一方、そういう法の今までの慣行というものが仮に確立していなかったとすればどうだろうというふうに考えてみますと、正確さを失わずかつもっと
現代の普通の
言葉に近づける方策がないわけではございません。この点は後でちょっと例を挙げて申し上げます。
そういう点では、
現代語化をさらに進める余地は今回の
改正案にも多々ございます。特に、若い世代のことを考えますと、彼らが日常接することのない表現パターンが依然として多いという点など、この現在の
改正案の程度では
現代語化されたとは若い世代の人たちは
感じないだろうというふうに思いますが、総体として眺めでみますと著しく不適当とは申せません。というのは、法の慣行とかなんとかというような技術的な面を考えまして、急激に全部新しくつくっていいというのとは違いますから、急激に全部を変えることはできないというのは重々わかりますので、総体的に著しく不適当とは申し上げられない。適当であるとは申しません。しかし、もちろんのこととして文法違反などございませんから、整った文章になっているということは言えると思います。整った文章というのは
現代語としてですね、整った文章になっているということは言えると思います。
そこで、今日世の中にいろいろ行われております文のジャンルで考えまして、一体じゃその難しさといいますか、かたさと申しますか、それはどの程度かということを判定してみますと、全国規模の新聞紙の社説よりややかたい程度と思われます。この程度を、だからしょうがないと考えるか、それじゃとても話にならないと考えるかというのはいろいろだと思いますけれ
ども。一応格調がある文章であるということは事実であります。
それで、私といたしましては、ほかの
参考人の御
意見もそうでありましたように、これを口語化の第一歩としてさらによい口語のスタイルを確立していただきたい。ある
意味で申しますと、
法律の文章というのは書きいいタイプの文章なんでありまして、いろんなパターンを集めで工夫してみますと割合にすっきりした言い方で、かつ文語の直訳にならないような幾つかのパターンが見つかるはずであります。ですから、これは
刑法の
改正とかなんとかということを超えて、ぜひそういうように
法令文の口語化のためにどういうパターンがよろしいかという、しかるべき研究会なんなりをつくりまして継続的な努力をなさっていただきたいというふうに思います。
今、改善の余地が多々あるということを申しましたことについて、以下若干具体的な例を挙げて御説明をさせていただきたいと思います。
第一に、徹底的な口語化をするとすれば、事は
刑法に限らずこうした点を考える必要があるということであります。幾つかの点でありますが、それは、まずその前に現在の
法令文、特に文語文のものは明らかにそうでありますし、口語化されたものもそうでありますが、これは漢文訓読体を基盤としてできたスタイルでありまして、
明治の時代に普通の文を書くとなると、一番普及しておりましたのは候文ですけれ
ども、幕府のおふれ書きも当然御承知のように候文だったわけですが、まさか候文で書くわけにもいくまい。といって、いかに王政を復古したという時代でも源氏物語ばりの和文で書くわけにもいかなかった。そうなりますと、やっぱり漢文訓読体によらざるを得なかったという
事情があります。それをいわば直訳的に口語にしたので非常にかたい部分がある。しかも、かたくても皆さんがそれになれていればよろしいんですが、概して普通の
国民はもう漢文訓読体の基盤というのを文化的背景として失っておりますので、これが一番
障害の原因だということになります。
したがって、パターンとしてどうなのか、こういうことを言うための文章のパターンというのがあるわけですね。そのパターンとしてどうなのかということに気をつけなければいけない。その第一が、先ほど出ました「及び」、「並びに」、「又は」、「若しくは」のたぐいでございます。
お配りもしてあると思いますが、「ジュリスト」のコピーの二段目のところ、これは
刑法ではございません、地方自治法ですが、私が見つけましたいわゆる世間で悪文と言うであろうという典型的な例であります。「副知事若しくは助役にも事故があるとき若しくは副知事若しくは助役も欠けたとき又は副知事若しくは助役を置かない」云々と、引用してありますので時間の節約でやめますが、これを読んでわかる人間がいるはずございません。ただし、これは正確さを期するとこうなるということは事実なんでありまして、この文法構造が左側の図で図式としてあります。これをごらんになるとわかるように、論理的には整然としているわけであります。しかし、これではやっぱりまずかろう。
そこで、私の改案がその下に出ております。こっちは短いのでちょっと読み上げますが、概して文語に基づいたものを口語訳しますと長くなるんですが、いつもそうなるわけではないということの例です。副知事や助役も事故を生ずるか欠けるかしたとき、又は副知事や助役を置かない普通地方公共団体でその長が事故を生ずるか欠けるかしたときは、その長の指定する吏員が職務を代理する。」。これだったら恐らく、耳で聞いてはちょっとわかりにくいかもしれませんが、読めばそうわかりにくくはないと思います。しかも論理的には厳正であります。上の構造をきちっと押さえております。
これが可能になった
理由は何かといいますと、「の」だとか「や」だとか「か」だとかをうまく使っていることです。本来の
日本語というのはそういうものだったわけですね。漢文訓読で、「AとBと」で済むところを、「A及びB」なんてやるようになったわけです。ですから、ある
意味ではこれは復古させればよろしいということです。まあ
言葉はそうは簡単にいかないものがありますが、「又は」や「及び」を全部使っちゃいけないというわけじゃなくて、こういうふうにしてわかるところはしたらどうでしょうかというようなことですね。
それから、同じようなことは、今回の
改正案でも「おいて」「おける」が非常に多いわけです、何々「において」、何々「における」。これはなくても済むんですね。「おける」でしたら何とか「での」にすればよろしいわけです。
例えば、早速ですが、第一条で、「この
法律は、
日本国内においで」になっておりますが、「
日本国内で罪を犯したすべての者に適用する。」で何ら紛らわしいところはない。それからその第二項です。これは、「において」と「について」というものが使われているところなんですが、それを削りましても、「
日本国外にある
日本船舶亦は
日本航空機内で罪を犯した者にも、前項と同様とする。」で済むわけであります。
ほかにも幾つかそういうところがありますが、「場合においては」というのは「場合では」というようにすればよろしいとかございます。ただし、それだけで簡単にはいかないで、いささか工夫を、機械的な置きかえではやっぱりおかしいというところもありますが、時間の節約のために一々申し上げません。
それから、「ことなく」という、何々する「ことなく」ですが、これは「ずに」で済むわけです。これも本来の和文はそうだったのに漢文訓読の必要上形を整えるために「ことなく」という言い方に変えたわけですね。口語で「ずに」も使っておりますから、「ないで」、「いかないで」とか「せず」、「しないで」という案もありますが、これはちょっと口語的過ぎると思うので、その中間をとりますと「ずに」を使ったらよろしいというふうに思います。
それから、何とか「するときは」、これは本当に時を問題にしている場合は「ときは」と書かざるを得ないんですが、条件をあらわしている場合は「ば」で済む場合が非常に多いんです。だから、何とか「するときは」を全部削れとは申しませんが、「ば」にした方が
意味がわかりやすい場合がございます。
それから、
一つ一つの
条文の対応を崩さないというのは当然としまして、中も原文との対応を破るとまずい、破っではいけないということになりますと言い方がとかくかたくなりまして、
現行刑法の原因の「因」に片仮名で「テ」と書いてある部分です。これ、「因テ」というのは、何々が原因となってこういうことが出てきているということを言っているところで、ほかの手段をあらわすということと区別つける必要でそうしたと思います。これは裏からいいまして、何々の「結果」としてしまえば
意味が全然紛れないでさらにわかりやすくなります。これに「因テ」というように一々断る必要はないというふうに思います。
それから、第三点としまして、表現の、述べる順序をちょっと変えた方がいいだろうというところを挙げます。
九十五条、これは私の変えた案ですが、「職務を執行する公務員に暴行又は脅迫を加えた者は、三年以下の
懲役又は禁固に処する。」というふうにした方がよろしかろう。これは原文は「公務員が職務を執行する」という格好になっておりますが、これですと職務を執行する公務員が犯した罪のようにとれるんですね。ずっと後ろまで読んできて初めて、それを対象とする、別の人間の罪だということがわかります。こういう部分は少し順序を入れかえるだけでよろしくなるでしょう。
それから、まことにつまらない例なんですが、第七条の二、云々「電子的方式、磁気的方式その他、人の知覚によって」と、「その他」と「人」との間に読点をお打ちになる方がよろしいと思います。これは「その他人」と読んでしまうんですね。こういうつまらないところは、どんどんお直しになった方がいいだろうと思います。ほかにもこういったぐいが幾つかございます。
それから第四に、どういうわけかところどころ受け身が出てまいりますが、この受け身は受け身にする必然性がないようなところがございます。例えば第二条五号、「公務員によって作られる」となっていますが、「公務員がつくる」で差し支えないわけで、受け身があるためにかえってごたごたしている。同様なのが百六十一条の二の第二項とか、それから第二十七条にもあります。「取り消されることなく」ですか、これは「取り消さずに」で済むわけです。
それから「べき」も、元来、
刑法ですから「べき」を論じているのに決まっているので、要らない「べき」は削っていただきたい。要る「べき」は当然残さなきゃいけませんが。要らない「べき」というのはどういうところかと言いますと、九十六条の三ですが、云々の「公の競売又は入札の公正を害すべき
行為をした者」なんですが、「害する
行為をした」でよろしいので、ほかのところも考えてみますと、ここに「べき」があるのだったらみんな「べき」、意図だけでは罰しないとかなんとかという場合は別としまして、みんな「べき」なんですね。そういう意図、そういうことを目的としてするということを言っているわけですから。こういったぐいを少し工夫しただけでもかなりいわゆる当たりはやわらかくなるはずです。
それから最後に、これは一番局外者としては申し上げにくいことなんですが、
刑法特有の
言葉があります。これは先ほどお二人の
参考人の方からもいろいろ御指摘があったところですが、そのうち特に一例だけ申し上げますと、六十五条の「加功」、「加」は加える、功績の「功」です。これはどうも私初めて
刑法で知った
言葉で、いろいろ手元の字引を調べましたが、よくわかるようなのは出てこない。
それで、ちょっと物好きですから追っかけてみましたら、中国の明ですね、明代の律、明律に出ている特殊
用語なんですね。ところが、恐らく
明治時代でもそうだと思うんですけれ
ども、現在この功績の「功」という字はプラスの評価でしか使わないわけです。ですから、「加功」という
言葉があると、何かいいことをしてくれたんだというふうに思ってしまうんです。
ここは素人で、もし間違っていたら御容赦を願いたいんですが、二百六条に「勢いを助けた」という表現がございます。この「勢いを助けた」という表現と「加功」というのが違うのかどうかということを厳密に私は存じませんが、もし大差がないのでしたら、「勢いを助けた」とか「助勢」、あるいは「力を添えた」とかというような言い方に変えるというようなことが必要かと存じます。こういったぐいの
言葉は幾つもほかにもございます。
最後に、繰り返しますが、これを口語化の第一歩としてさらによい表現を目指していただきたい。極端なことを申しますと、今回の口語、もし時代でどの時代のものに当たるかといいますと、
昭和二十二年ぐらいの程度の口語であると。それから、もちろん、先ほど申しましたように、一応格調はあるし、整った文であるということは認めます。ですから、その限りにおいては異存はございませんけれ
ども、せっかくでございますから、将来に向けてはもうちょっと
現代語に近いようにしていただきたいということでございます。