○木宮和彦君 私も
大臣がおっしゃることよくわかりますが、この最終報告で、いろいろ分析したわけじゃございませんけれ
ども、判断基準というものを初めて示されて、「
いじめであるか否かの判断は、あくまでも
いじめられている子
どもの認識の問題である」と書いてある。こういうことで初めてこの判断基準を示しました。これでは、学校は
いじめの判断基準さえ今まで持っていなかったということをこれは
指摘していると、私はそう思うんですよ。
ですから、
いじめられたと、本人が
いじめられたと思ったものが
いじめだと、こうおっしゃっているんですが、これもおかしな話だと思うんで、
いじめられたやつがまた
いじめるということもありますしね。だから私は、人間
社会には
いじめというものは存在するということを学校の
先生もまず認識して、常に過剰に
いじめられないように防衛してやるというのが学校の教師なり親の責務ではないかな、こう思うんです。これについては
文部省の御回答は結構でございます。私は勝手にそう思っているんです。
それで次に、学校の
対応が悪過ぎる。例えばこの間の大河内清輝君の場合も、私のところの静岡県でもついこの間ですが、浜松の東部中学のときもそうですが、学校が最初に
説明したのは決まって
いじめの認識はなかったと、こう言っているんですね、学校では。途中から変わってきちゃうんですが、最初はともかく
いじめの認識はなかったと。学校側に
いじめの認識がなければ、そのものの存在はないんですよ。だから、統計を幾らとったってこんなものはだんだん減っていくんですよ、認識がなけりゃ。
だから、ともかく
いじめはあるという
一つの仮定から始めていけば、人間には性善説と性悪説がありますけれ
ども、私は少なくとも性悪説、人間というのは悪いんですよ。それを
教育したり、あるいは倫理を教えたり、先輩から教わったり、親に教わったりして、そしてしていいことと悪いことのけじめをつけるというのが人間のさがでございます。ですから、その辺を子供は悪いことをしないんだというふうに
考えて
教育したら、これはとんでもない
教育になっちゃうと私は思うわけです。その結果、学校側はたくさんの
いじめの現象をみんな見逃す。
傍観したり、はやし立てたりすることも許されないと、こう書いてある。ですから、その
対応の甘さ、要するに学校の
いじめに対する
対応の甘さというものが、そんなものは
いじめの範疇に入らないよということで、これはもうお互い人間だからちょっとはいいやと。それは確かにそのとおりだと思いますけれ
ども、それでやはり見過ごされる。知っていて見過ごすのと知らないで見過ごすというのは、私は大きな差異が出てくると、こう思います。
ところで、あの報告書によりますと、いろんなことを言っていますが、まず最初に
養護教諭、今も
田沢先生がおっしゃいましたけれ
ども、
養護教諭の役割を重視することは非常に大切なことだと思いますよ。しかし、じゃ
養護教諭の本旨は何だということを今度は裏返しに
考えれば、意地悪く言えばそうならざるを得ない場合もあります。だから、私は教員一人一人がやっぱり大変だろうけれ
ども先ほどのお話のように子供と密着してやるという、これが根本治療であって、あるいは給料を高くするのもそうだと思いますが、そういう根本的な治療というものをどうして我々が
考えてあげられないのだろうか。
どうもその点、
いじめに対してこの最終報告では、学校へ出てきちゃいけない、要するに子供の出席停止を、させてもいいとは書いてありませんけれ
ども、そういうのがクローズアップしちゃっている。学校に出席しなくてもよろしいというのは、これは本当に、それはしょうがないわな、処置の方法としてはそれもやむを得ない場合もあるでしょうけれ
ども。
しかし、こんなことを言わなくたって、私調べたら、既にもう明治二十三年の小学校令二十三条に規定してあるんだ。明治ですよ。昭和じゃないですよ、明治。戦前にもそれがあったんです。昭和二十二年の学校
教育法の二十六条にも戦前とほぼ同じ規定があって、こういう場合にはと。しかもそれは、御丁寧に昭和五十八年十二月五日の初等中等
局長の通知には、かくかくのことをやったやつは学校に出てこなくてもいいよという通知まで出してあるんです。今さらこれ言わなくたって、今までだってやれる。
ところが、どうも見ていると、
いじめる子供に学校に来ちゃいけませんよということではなくて、むしろ
先生が扱いにくい、例えば中学校でパーマネントをやった変なのがいたり、赤く染めたり、ズボンが変なのをはいたりしているやつ、これが来るとやっぱり見苦しくて学校も体裁が悪いもんだから、それにはそれを直すまでは学校に来ちゃいかぬよと。
いじめのためのいわゆる出席停止じゃなくて、
先生が目ざわりになるやつだけ出席停止やっちゃうんだな、
先生というのは、これは仕方がないけれ
ども。そういうことに使われたんじゃ、かえって信頼関係が私は、学校の
先生と生徒の間のね。
ですから、果たしてその出席停止をやって、その子供が学校へ出てこないので学校の中のおりの中では
いじめられないかもしれませんが、その子供をどこかへ監禁しておくわけじゃないし、殺しちゃうわけじゃありませんから、そこらでうろうろしているわけですから、帰りを待っていて、あのやろう、おれを
先生に告げ口したから、よし今度はやっつけようと思って隠れて待っていて、余計やられちゃうかもしれない。だから、私はそういう
意味で今回の最終報告については余り
評価できない、はっきり言ってもっと根本的な治療を、やっぱり最終というならば、もうちょっと何とか。
ただ、
一ついいところは、家庭について触れていますね。やはり家庭の責任だということを言っているということは、私は唯一今回の、家庭の重要さということを言っているということは私は非常にうれしく思います。これはやっぱり言うべきだと思います。
しかし、それは既に臨時
教育審議会のプロジェクトチームの子供の行動問題に関する
研究会というのがまとめてありますが、その報告書に出ておりますけれ
ども、その背景を発達的、文化的、
教育的背景と、三つの背景を
指摘しています。その発達的背景の中で母と子のスキンシップ、乳幼児期の保育が非常に必要だと。
いじめっ子は三歳児で発見できるとまで明言しているが、その乳幼児の保育の重要さを再確認する必要があるという臨教審のプロジェクトの報告になっているんですね。私は、それはやっぱりいいところに着目していると思いますよ。もう小学生、中学生の餓鬼になってから
先生が必死になってやっても——餓鬼と言っちゃいかぬかね。それは取り消しても結構でございます。悪いやつは餓鬼と言うんですよ、我々は。ですから、それはやっぱり三歳児からある
意味においてはそういうものを大事にするという規範。
ですから、アメリカでもイギリスでも、やはり
教育には
一つのことを暗唱させて、人間としてどうしてもしなくちゃならない大事なことは、そらんじさせてみんな言えるようにしてありますね。かつては、私も前回春いましたけれ
ども、
教育勅語というのを暗記させられたし、私なんか一代から百二十四代の天皇を全部すっと、今でもちょっと言えますけれ
ども、もう大分忘れましたが。そらんずるということ、それは
一つの形かもしれないけれ
ども、精神
教育の中に形からはめ込むということも私は必要なことで、何をもって子供を
教育するかということをもう少し真剣に取り組んでいくのは、やはり現場の教師であり、また我々関係者であると、私はかように思いますが、それについて
文部省の方で、あるいは
大臣でも結構です、どなたでも結構ですが、何か特別御意見ございましたら、ひとつお願いを申し上げたいと思います。