○中西
証人 ただいまの
委員長の御
質問に
お答えを申し上げます前に、このたびの私の議員辞職に際しまして何かと御迷惑をおかけし、また、お騒がせをいたしましたことを、
国民の
皆様、立法府のかつては同僚であった方々、そして、
選挙区の長年御支持をいただいた
皆様にまず深く
おわびを申し上げたいと存じます。
また、本日は貴重なお時間を費やしていただきまして、私の
証人喚問という
事態に際しましてもお騒がせをした点、心から
おわびを申し上げたいと思います。
せっかくの機会でございますから、真相の追求や疑惑の解明に役立てれればと念じております。
それでは、
委員長の御
質問に
お答えをさせていただきます。
まず、
高橋治則さんとの
経緯あるいは今日までの関連についてでございますが、もうかれこれ三十年近い歳月が流れていると思います。お互いにまだ二十代のころでございました。きっかけは共通の友人、その人は私の外縁
関係者になるわけでございますが、を通して治則さんの実のお兄さん、治之さんと申しますが、大阪に勤務している当時でございましたが、の出会いがまずございまして、お兄さんもなかなか痛快、快男児でございまして、お互いに意気投合いたしまして、自来今日まで、まさに刎頸の交わりというような親友
関係にございます。
そんな状況から、実の弟さんでございますから、私も当時
政治家を志望しておりまして、生活の基盤は
選挙区和歌山に置いておりました。
東京に住居は持ちませんで、上京した際はホテルに泊まったり、よく
高橋君の家にも泊めていただきました。そんなことで、治則氏とはすぐ知り合いました。お兄さんとは若干性格は違いますけれども、まあしかし、一言で言えばナイスガイ、非常に無口というか、余り出しゃばらないという雰囲気を持っております。非常に兄思いでもありますし、親思いという感情は、私の印象にも非常に強く残っております。頭の非常にいい男でもありますし、今日まで三十年近い
つき合いを親しくしてまいっておりますが、人の悪口だとかあるいは泣き言のたぐいはほとんど聞いた記憶がありません。大変スケールの大きい男だと思っております。
その間、彼の、無口、寡黙な方でございますから、
事業の内容等についてはほとんどみずから積極的に私にしゃべったためしもありませんし、まあ、私が
政治家でございますが、彼が実業家でございますが、いわゆる
政治家対実業家というような
つき合い、何か物事を頼まれたり陳情を受けたりというような記憶はほとんどございませんでした。そういう彼との出会い、あるいは今日までの経過でございます。
二番目の御
質問の点でございますが、住居の賃貸の件でございます。
マンションといいますか、かつて彼が
証人喚問を受けたときにも豪華マンションというような
指摘がございましたが、雑居ビルという、恐らくあのかいわいではもう圧倒的に古い、年数のたった古い様式の建物でございます。
当時彼と再三会っていたわけでございますが、
政治家は機動力が極めて重要視しなければならないというような話になりまして、当時私は高輪に住まわせていただいていたわけでございます、議員宿舎に。
国会に極めて近い場所だけれども、もう物すごい古いマンションだし、もう倉庫がわりに今使っている部屋だけれども、もし啓介さん、よかったら、使うんだったら貸してあげますよ、こういう話がたしかございました。
それで私、しばらくしてその部屋を見せてもらいに行ったわけでございますが、確かに広い部屋ではあったことは事実でございますが、事務機だとか机だとかいすだとか、もう段ボール箱だとか書類だとか、本当にもう山積みされておりまして、薄暗かったし、一瞬お化け屋敷みたいな感じで、これは住めるのかなというような印象を抱いた記憶もございますが、いずれにしても、
国会に極めて近いという、私は低血圧で、朝も非常に強い方じゃありませんので、まあそれじゃ原則、即ちゃん、ここを使わせていただこうかなというようなことになりました。
しかし、使うにしても相当のこれ後片づけというか整理をしていただかなきゃなりませんし、私も、まあ二、三カ月してベッドのたぐいは持ち込ませていただきました。それで、朝格別早い、七時半の朝食会というようなときには、夜が遅かったりしたときはそこへ泊めていただいたことはございましたけれども、圧倒的にまだ約一年間近くは高輪の宿舎に基盤を置いて
政治生活をしておりました。
ぼちぼち荷物も運び終えて、およそ一年たったたしか六十三年の夏ごろだったと思いますが、まあ議員宿舎のおおむね三倍ぐらいの広さに相なります、三分の一ぐらいは整理して、書類等の入った恐らく段ボールだと思いますが、そういう保管場所に彼が使っておられまして、残り三分の二程度はお借りをして、正式に家賃も決めて、ずっと家賃も支払ってきておりまして、未払い金は全くございません。
以上が住居についての御説明でございます。
パーティーの件でございますが、これももうおおむね十年ほど前に、私が代議士に当選をして代議士誕生十周年ということで、元来もう私自身、できることならパーティーはしたくありませんでした。田中派、経世会当時も、福島譲二さんとかあるいは小沢一郎さんとか私とか、パーティーをやっていない代議士はもう指折り数えるぐらいしかありませんでした。何とか僕もその記録を維持したい、こう思っていたんでありますが、なかなか
選挙区やいろんな後援会の幹部の方々に説得をされまして、パーティーを開くことに相なりました。
余りあっちこっちへ、もう当時相当そういう傾向もあったわけでありますが、売り歩くというようなことは一切したくありませんでした。しかし、たまたま
高橋さんとお会いもしておったわけでございますので、その件を話しましたら、ちょうどあのころは
バブル最盛期といいますか、
日本の経済も大変活況を呈しておりまして、
高橋氏の
企業も極めて順調に推移しているときであったと記憶いたしております。関連
企業も百数十社傘下におさめているというような状況のときでございました。
話をいたしましたら、一社二十枚か三十枚程度ならそういう
会社に
お願いをしてあげられるかもしれません、こういうお言葉をいただいたものですから、つい親しい親友でございますのでお言葉に甘えさせていただいた次第でございます。それから私の記憶が確かであるならば一カ月程度してからだったと思いますが、秘書の方から、
高橋さんの方からパーティー券を買っていただきまして中西啓介君を励ます事務局口座に振り込んでいただいたという
報告を受けましたので、私は早速
高橋さんには電話で、えらいもう本当に済まぬことで申しわけないというお礼を申し上げた記憶がございます。
それから何年かしてからでございますけれども、いきなり某新聞に六千万円イ・アイ・イ社からパーティー券を買ってもらったという記事がでかでかと取り上げられました。
当時、私は
議院運営委員長のポストについておりました。時あたかも歴史的な与野党対決といいますか、衆
議院史に残る例のPKO法案が
国会に上程をされておったときでございます。もう
皆さんも御案内のとおり、世界にあの牛歩という言葉が大変有名にPRされた
国会でもありましたし、当時の山花
委員長以下百四十一名の辞表提出、願いといいますか騒ぎといいますか、そういう物すごい、徹夜、徹夜の、もう本当に疲労こんぱいの極に達するような
国会がありまして、そのときに私のパーティーの金額の多寡が問題になりまして、本
会議でも、当時の社会党の議運筆頭
理事の方から、同じ議運の、与党と野党でありましたが同じかまの飯を食う同僚でありましたので、おい、啓介君、相済まぬがやらしてもらうよというふうなこともあって、本
会議でも取り上げられたマターでございます。
その後、議運の
理事の方々にも御迷惑をおかけいたしましたけれども、この問題につきましては、当時の
法律では、当時何か問題があれば御
指摘をいただいたと私は思っております。そういう意味では、あの当時ざる法と言われているような
法律でございまして、
平成四年にお互いに知恵を絞って極めて厳しい
政治資金規正法に改正されたところでございますが、
政治家としてやはり金額の多寡はこれはもう社会通念上確かに多いと思います、今後、
政治家として教訓にいたしますということを申し上げた記憶がございます。
以上がパーティーに関する
お答えにさせていただきたいと思います。
それから、フェスタという
会社、これに私の公設秘書が関与しているという問題でございます。
私は、議員辞職をするまではこのことには全く認識がございませんでした。それで、議員辞職をした後、某新聞社の一面
トップの記事によって、相当事実誤認の箇所もあるんですが、概要を知ったわけでございます。早速秘書を呼びまして確認をいたしましたところ、
会社を
設立する事務的
手続の一部をお手伝いをいたしました。それで
役員になっているのか、こういうふうに問いただしますと、
会社そのものの
役員には全くなっておりません、こういう
報告を受けておりまして、ですから、
役員でもありませんし、それで、
ゼネラルリースという
高橋さんの系列のファイナンス
会社から
融資を受けているという話だそうでございますが、その
融資には何ら関与はいたしておりません、このような
報告を秘書から受けております。
以上でございます。