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鈴木証人 お答え申し上げます。
私は、
昭和五十八年の六月に、先代の
理事長が亡くなりました後を継ぎまして
理事長に就任いたしました。その折の
安全信用組合の
経営実態は極めて憩うございまして、実に
不良債権が
多額に散見されました。また、先代の
理事長がお決めになった本店の移転、また支店の設置、
職員の給料の
改善、福利厚生等さまざまな難問題を抱えての就任だったわけでございます。
しかし、それらを
再建するためには、どうしても、従来の
信用組合の手法というのは、やはり小口で集め、小口で貸す、
経営基盤の安定という大
項目を我々は、しょっていたわけでございますが、しかし、それだけではやはり
安全信用組合の
再建にはとてもおぼつかないほどの
不良債権額でございました。したがいまして、私の友人、また安全
信用の後援者の皆様方に御相談をさせていただきまして、その打開策を図ったわけでございます。その一つとして、大口
信用集中という緊急やむを得ない避難措置をとったわけでございます。
私
ども都市型
信用組合というのは、やはり都市銀行さん、大手の銀行さんと競争していく中で、どうしても夜間人口が少ない、昼間の中で勝負をしなきゃならない、またネームバリューがない、資産がない、いろいろ、ないない尽くしでの商売をしていくわけでございます。そういう中で、その都市型
信用組合の悲哀とでも申しましょうか、やはり各支店、幾らハッパをかけてもなかなかこの
不良債権は従来の方法では回収できないと判断いたしました。そして、
高橋さんに御相談をさせていただいて、大口、すなわち大口
信用集中の
貸し出し、また
預金を獲得して
不良債権の回収に当たってきたわけでございます。
またもう一つ、私
どもはどうしても含み資産がございません。したがいまして、やはり何としても
関連会社機構というのをつくっていかなきゃならないと私は考えたのです。やはり
関連会社をつくるというのは、すなわち
不良債権が発生したときにそれを買い取る、今都市銀行さんで言われている買取機構でやるわけです。また、
関係会社にはめ込んでいって、
不良債権を
健全化していく、そして安全
信用の利益を守っていくというのが基本理念だったと思います。
またそれと、安全
信用は当時定着率、
職員の定着率がすごく悪くて、やはり将来性がないという理由で若い
職員がやめていかれたわけでございます。私もそれに心を痛めまして、やはり将来再就職ができる、安全
信用で一生懸命勤めれば再就職ができるということで
関連会社構想に踏み切ったわけでございます。しかし、それがバブルの崩壊と総量規制、また景気の低迷等によりまして思うようにいかなくなり、蹉跌を来してまいりました。また、時を同じくして、私
どもの大口取引先でありますイ・アイ・イ・グループも同じようになってまいりました。そして私
どもは、
高橋さんのグループと同じように
日本長期信用銀行さんの
管理下に入ったわけでございます。
その三年間の間の
管理というのは、私
ども、
預金の入り、払い、また
貸し出し、それから返済、それらすべて日計表で
処理しているんですが、その日計表を夕方五時半に、私
どもの
専務理事が
長銀から出向された方にファクスで送らさせていただきました。また、それらを集計したその
預金の元帳といいますか、また
貸し出しの元帳は、その月末に
日本長期信用銀行さんに
提出をさせていただいていたわけでございます。
そういうふうな三年間が、ちょうど
平成五年の七月の九日に終わりました。私
どもは
長銀さんと全くお取引があるわけじゃなくて、ただ、イ・アイ・イ・グループと取引があるということで
管理を受けていたわけでございますが、その
長銀さんが突然去られるということは私
どもにとってどういう事態がということは、私
自身、また私
どもの
役員、
職員は大変な心配でございました。
しかしながら、そうはいっても、その月を越し、また新しい年次を迎えるためには、我々としては最善の努力をしなきゃならない、そのためにどうしても不良化した債権を活性化させなきゃならない、その活性化させるためにどうしたらいいだろうということで
高橋さんと随分悩み苦しんだんです。それはやはり、生産性のある
企業にその
不良債権を、債務の引き受けをやっていただくしかない、そのためには、今考えられる最善の手法としてはゴルフ場の開発しかないだろうということに着眼したんです。
それで、大分フラワーカントリークラブというのは、ちょうど
長銀さんがまだ
イ・アイ・イ・インターナショナルにいらっしゃるときに私
ども相談に行きまして、実はこういう手法で、将来に備えて
安全信用組合の
不良債権をここにこういう形でしょわせていきますという説明をさせていただきました。それ以外に大分県であと二、三ゴルフ場の計画も手がけておりますというような御
報告もさせていただいて、私と
高橋さんで、その
長銀から出向されている副社長の
許可を得て、大分に飛んだこともございました。そのような中で十二月の九日を迎えたわけでございます。
先ほど先生から、
理事会の方に諮ることなくというふうに言われたのでございますが、私は
長銀さんの
管理の三年間、またその後全く同じ方法を、
平成五年の七月九日の夕方からは
東京都に向けて同じやり方をしておりました。
毎日の日計表、それから月繰り、週繰り、それから翌月の
預金の予定表、すべてを
提出させていただきました。その中にはもちろん客先名、一先ずつ全部書かれてございます。それから
金利のレートも書かれてございます。そういうものをちょうど十二月の九日、私が
辞任するまで
提出したわけでございます。
私が今思うと、
理事会というのはもう
毎日のように行っていたと思うのです。その三年、
長銀さんの三年間の間に、私
どもは
毎日ファクスを送るという様式が、これは
長銀さんの指定のフォームなんですが、その中にあったわけで、それを私含めて各
役員、私
どもは常勤三名、非常勤二名おるのでございますが、常にそれを検印をしていました。また、
東京都へ出す
資料も私
どもは目を通しておりましたので、
理事会に語らずとか、ほかの
理事が知らずということは私はないと思います。
また、
東京都の御
指導によりという御質問でございますが、年に一度の検査を受けてまいりまして、そして私
どもは折に触れ御相談もさせていただきました。
ただ、
長銀さんが
管理しているときの検査の内容でございますが、同じお客様、同じ案件のものが、
長銀さんが去られた
平成五年の七月九日以降、翌月に
大蔵省さんと
東京都さんが初めて合同で検査に入ってこられたわけですが、そのときは大蔵主導型の検査を行いました。
ただ、私
どもは
大蔵省の検査というのは歴史始まって以来受けたことないので、どういう検査をされるんだろうと言いましたら、極めて事務的に、ただ
決算上収益の見込みない
会社はだめだとか、これは二期連続黒字が出てないからだめだとか、
大蔵省さんの物差しで物を見られた。それが、その検査を終わった段階で数字として形にあらわれるんです。
私はそのときに、
大蔵省の上級検査官に、
大蔵省の検査を我々は受けたことがないしわからない、
東京都の手法でしかわからないんだ、何で物差しが変わったんですかと言ったら、これは私
ども大蔵省の検査でしかできないから、あとは
東京都さんにその辺もよく加味してやるようにということを私は言われたんです。それで私は
東京都に、その辺はどうでしょうとお聞きしたんですが、お答えはなかったんです。
実は、
多額の
不良債権というのは、そのときに初めて発生しているんです。
平成五年の
長銀さんが
管理しているときは、私の
記憶では数十億しかなかった
不良債権が、
大蔵省さんと合同で入ったときに数百億、すなわち十倍以上の
不良債権に認定されたんです。しかし、それはお客様が別に倒産しているわけじゃない、別に業務の内容が変わったわけじゃない、それが、やはり物差しが変わったためにそういう形にされたんじゃないかと思うんです。
東京都の場合は、やはりお客様をつぶさないように、そしてお客様とともにという検査内容でございましたので、
大蔵省さんは大手の銀行さんに入られますから、やはりどうしても含みのある銀行に、それを前提として検査に入るわけですから、例えば
不良債権が大幅に発生しても償却する能力を持つんです。しかし、我々は別に含みがあるわけじゃない、それから株を持っているわけじゃない。ですから、そのために私
どもとしては随分その辺で悩んだんです。それが今日言われているその
不良債権の発生。
それから、
高橋さんとの
関係でございますが、これは私のつき合いというよりも、先代の
理事長と
高橋さんのお父さんのつき合い、すなわちイ・アイ・イが、
昭和三十五年にイ・アイ・イを
高橋さんのお父さんが
再建されるときに
安全信用組合に借り入れを起こし、そして
安全信用組合がしばらくこの間
メーンバンクとしてやってきた、そういうおつき合いを私は先代から引き継いだわけでございます。
以上でございます。