○正森
委員 今の答弁は、みずからの答弁で最高裁が怠慢であったということを証明していると思うんですね。一審は百九十一回公判を開いたと言っているでしょう。事実調べは多岐にわたり、証人を調べ、
法律上の問題点も初めて詳細にやって、それで六年なんですよ。控訴審は二十七回かやったと言いますが、実際に公判を開いて、それで四年なんですよ。
最高裁は書面で見るだけじゃないですか、どれだけ多岐にわたっておるとしたって。それが大法廷に上げるということを決めるだけで五年もかかったと。それで、結果として、被告人が死んでしまって、
事件の
意味の変質が起こるようになるまで判決を下さないなんというのは、それこそ
国民の正義感や法感情に反して、非常に問題であるというように思わなきゃならないです。
ただ、あなたは刑事
局長で、いわば事務当局ですから、そして我が国の三権分立の建前上、我々はこれ以上最高裁に対して物を言うことはできないけれ
ども、しかし、
立法府として、特に選挙で選ばれている者として、
国民感情を代弁することはできる。ふだんから当
委員会においては、その訴訟の促進とかいうようなことは最高裁が率先して言っていることではありませんか。だから、そういう点からいって、私は重大な反省を求めたいということを申し上げておきたいのです。
それで、二番目に申し上げたいのは、この判決の切り捨て方ですね。必要最小限度で判決の中身を見てみますが、私が今読んだところのすぐ次にこう言っているのです。
「しかし、我が国の刑訴法は、この制度に関する」「この制度」というのは刑事免責ですね、「この制度に関する
規定を置いていないのであるから、結局、この制度を採用していないものというべきであり、刑事免責を付与して得られた供述を事実認定の証拠とすることは、許容されないものといわざるを得ない。」こう言っているだけなんです。
こんなことは嘱託尋問をやった初めから、司法修習生と言いたいけれ
ども、法学部の学生でさえわかっていることじゃないですか。そんなことを
理由にして、それで一審、二審の裁判所が長期間心血を注いで、具体的な要件について検察を相手に、あるいは弁護人を相手にやったのに対して、最高裁が納得させられますか。
だから、こう言っているのですよ。「専門家から驚きの声」というのがあって、これは朝日新聞ですが、例えば渥美東洋中央大学教授は、
最高裁の見解には、反対である。日本でも、
起訴猶予の手法を用いて相共犯者を参考人と見立て、共犯者に、不利益な供述を取得することは、
一般的に認められている。したがって、米国で刑事免責制度に基づいて、取得した供述が、日本では免責の
法律がないからといって、違法だという最高裁の主張は説得的でない。
現在、欧米諸国では、免責を与えて供述を取る手法を
法律で明文化している。国際
犯罪が急増している今日、日本でも
国会が主導椎を発揮して、云々ということで、まあ
立法した方がいいのじゃないかという
意見です。それで、その次に、ロッキード
事件において、東京地検特捜部検事としてロッキード
事件を手がけた弁護士の堀田力氏の談です。こう言っている。
嘱託尋問調書を証拠として認めなかった点で、最高裁の論理構成は間違っていると思う。
当時から、日本に刑事免責制度がないのはわかりきっている。それを前提に、検事総長の「不起訴宣明」を受けて、米裁判所が、それが米国の刑事免責に準ずるものと判断してコーチャン氏らの証言を強制した。
その米裁判所の手続きが日本の
憲法秩序からして認められるかどうかが問題なのにそれを全く諭ぜず、「日本で刑事免責制度がないから証拠として認定しない、国際司法共助であっても同じだ」というのでは、論点が欠落している。こう言っているのです。
内容の当否は別として、論理的には全くそのとおりですね。それで、これは言いませんが、堀田力氏は、別に朝日の「論壇」で、こういう長大なものを、ほぼ同じ
内容のものを書いております。
さらに、それだけでなしに、
吉田淳一氏、これは久し
ぶりに名前を聞いた懐かしい人ですが、私たちは、ロッキード
事件のときに法務
委員会やあるいは予算
委員会でしばしば
質問いたしましたが、そのときに、私の記録に誤りがなければ、法務省刑事局の刑事課長をしていた人で、アメリカにまで渡米して、アメリカ側と細かい協定を、非常に詳細なものを結んできた人ですね。今は退官して公証人をしておられるようであります。その方が読売新聞の「論点」に書いておられます。非常によくできたものですが、長く言えば時間がかかりますので、要旨だけ言いますが、
現に本判決も、わが国の
憲法が刑事免責のような制度の導入を否定しているものとまでは解されないとしている。そうであれば、本件証人尋問調書は、証拠としての許容性を認めるのが正しかったと思われる。
本判決は、わが国では刑事免責の制度を採用していないから事実認定の証拠とすることは、刑訴法一条に定める同法全体の
精神に照らし許容されない、としている。このように、いわば抽象的な法の
精神で事を決する場合には、実態に即した、より具体的かつ合理的な
理由付けが要求されるものと
考える。こういうように言っているのですね。そしてその後で、途中省略しますが、
本判決のように、刑事免責を付与して得られた供述を本来事実認定の証拠とすることが許容されず、本件のような国際司法共助でも全く同様であるとするならば、この証人尋問の嘱託や最高裁の宣明は一体何であったのか、重大な疑義が生ずる。
また、最高裁宣明まで取り付けて証人尋問手続きを実施した米連邦地裁側に、わが国の刑事司法に対する不信感を抱かせるにとどまらない。こう言っているのです。
多くのことは言いませんが、言いたいのは、そんな明文の
規定がないからだめだなんて言うなら、そもそも一九七六年の七月に裁判所が宣明書を出すときにわかり切ったことなんです。しかし、これをやり、そして一審、二審の六つの裁判所は、そんな抽象的なことではなしに、非常に細かい、詳細な、具体的な論議を行い、三百二十一条一項三号に該当して、伝聞証拠であっても証拠能力を付与されることができるかどうかという具体的なことを、私はここに判決、決定とか持ってきましたが、膨大な分析を行って、その上で認めているのです。何なら判決のそのさわりのところを引用してもいいけれ
ども、時間がないからいたしません。
そういう点から見て、余りにも、八年もかかったにしては、言ってみれば、簡にして明というのは簡明という言葉になっていいけれ
ども、簡にしてわからないというのは簡不明というのですが、そういう
内容じゃないですか。